3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『私の唇は嘘をつく』

ジュリー・クラーク著、小林さゆり訳
 ある議員候補のパーティーで、キャットは10年間探し続けていた1人の女性を発見する。その女性メグは、1度きりの電話でキャットを転落させた人物だった。10年前、新聞記者だったキャットはある事件を追っていたが、匿名電話が原因でレイプ被害に遭ってしまい、キャリアも失ったのだ。その電話主の女性が、当時詐欺の疑いがかかっていたメグだった。キャットはメグを追い続けるが、彼女の消息は途絶える。そして10年ぶりに姿を現したのだ。キャットはメグの正体を暴き記事にしようと彼女に近づく。
 過去と現在、メグとキャットの視点を行き来する構成で、メグの真の目的は何なのか、それは成功するのか、キャットのスクープはものになるのか、そして何よりメグとキャットの関係はどうなるのか、先の展開が気になりぐいぐいと読ませる。
 前作『プエルトリコ行き477便』で女性たちの戦いを描いた著者だが、本作もまた女性たちの戦いを描く。表面上はキャットV.S.メグの攻防だが、彼女らの真の敵は弱い者から根こそぎ奪い取ろうとする世の中のシステム、そしてそのシステムに乗っかっている男性たちだ。メグのやっていることは明らかに詐欺なのだが、その動機はかつて自分と母親を騙した男性への復讐と、男性に支配されている女性たちへの手助け(彼女なりのやり方ではあるが)だ。またキャットが復讐すべきは本来ならばメグではなく、レイプ犯だろう。このあたり、キャットは傷が深い故に意識的に自分が何に傷つけられたのか目をそらしている節もあるのだが、メグのことを知るにつれ、徐々に呪いが解けていくようでもあった。登場人物たちに自覚がないシスターフッド小説とも言えるのでは。ある人物の「女子は女子同士助け合わないと」という言葉をメグは覚えており、それが彼女を動かし続ける。ただなぜ女子は女子同士助け合わないとならないのかというと、他には誰も助けてくれないからだ。そこで分断が起きていること自体、世の中おかしいよな…。メグはそういう世の中を(負け戦だと知りつつ)少しでも修正しようとしているわけで、犯罪者と知りつつ彼女を応援したくなってしまうのだ。

私の唇は嘘をつく (二見文庫 ク 12-2)
ジュリー・クラーク
二見書房
2023-02-21


 

『われら闇より天を見る』

クリス・ウィタカー著、鈴木恵訳
 カリフォルニア州にある海沿いの町ケープ・ヘイヴン。30年前にひとりの少女が命を落とした。死んだ少女の姉スターも、彼女の親友で今は警察署長となったウォークも、過去に囚われて生きていた。スターの娘で「無法者」を自称する少女ダッチェスは、酒に溺れる母親と幼い弟を支えつつ懸命に生活している。そんな折、かつての事件で逮捕されたヴィンセントが出所し、町に帰ってきた。ウォークはヴィンセントが逮捕されるきっかけとなった証言をしてしまったことを、今でも悔んでいた。
 各所絶賛の英国推理作家協会賞最優秀長篇賞受賞作だが、個人的にはそれほどでも…。確かに良作ではあるのだが、物語に対して少々長すぎるように思った。過去が追ってくるという設定はミステリにはよく見られるが、本作の場合、好んで過去に拘泥する人たちの姿といった方が妥当なように見えてしまう。ちょっとトゥーマッチに思えた。そこまで過去に引き止められるものか?と。終盤で新事実がばたばた明らかになる、ミステリとしてのペース配分の微妙さも気になった。
 ただ、本作が強い印象を残すのはミステリ的な部分ではない。子供が大人を頼れない・信じられないという状況がいかにしんどく、切り抜けていくのが難しいものなのかということが、ダッチェスという子供を通じてありありと伝わってくるのだ。ダッチェスはいわゆるヤングケアラーで、本来なら受けられるはずの保護を受けられない、自分が母も弟も守らなければと思い詰めている。その思い詰めが事態を悪化させてしまうこともあるのだ。彼女が(一部の)大人を信じ、頼ることができるようになるまでの長い道のりとも言える。エピローグ的パートがかなり冗長なのも、ダッチェスにとっての旅路の果てを描いているからだろう。彼女はようやくそれを手放せるようになったのかと。

われら闇より天を見る
クリス ウィタカー
早川書房
2022-08-17


『悪い弁護士は死んだ(上、下)』

レイフ・GW・ペーション著、久山葉子訳
 マフィアのお抱え弁護士として知られるエリクソンが自宅で殺害された。死因は鈍器による殴打。殺害現場のベランダで愛犬も首を切られて殺されていた。しかし犬が殺されたのはエリクソンが死んだ4時間後。なぜ犯人はわざわざ引き返したのか?ベックストレーム警部は捜査を開始する。
 ベックストレーム警部シリーズ3作目。金と女と美食(食の好みがあまり繊細ではなくこってり好きな大食漢なので、美食と言っていいのか微妙だけど)に目がないベックストレームは本作でもますます健在。そして作品のコメディ度というかコント度というかが更に上がっている。あからさまに笑わせようとするのではなく、真顔で淡々と妙なことが処理されていく。登場人物が全員ボケで読者がツッコミみたいな構造だ。ベックストレームは相変わらず性別・民族にたいする偏見・差別意識が激しいし、セクハラしまくりだし、お小遣い稼ぎにも余念がないのだが、今回の捜査手順はいつになくまとも。部下たちも約2名を除き妥当な働きをしており頼もしい。そしてこれまで、ベックストレームのモテ具合は本人の思い込み・幻想かと思っていたのだが、本作を読む限りでは意外と本当にモテてるっぽい。一応有名人になったからということかもしれないけど、憎めない面がより前面に出てきているように思う。
 事件捜査はあっちに行ったりこっちに行ったり、更に別の要素が色々盛られてくるのだが、ベックストレームはすべて無難に、そして自分の得になるように収めようとするので、これ本当に収まるの?と心配になってくる。更に19世紀ロシアとイタリアまで絡んできていくら何でも広げすぎでは、これ本当に本当に収まるの?と更に心配になる。しかし力業で収めていくところはさすが。なぜこの表紙?と思っていた表紙の絵もちゃんと絡んでくる。


悪い弁護士は死んだ 下 (創元推理文庫 M ヘ 19-6)
レイフ・GW・ペーション
東京創元社
2022-03-10


『ワーニャ伯父さん/三人姉妹』

チェーホフ著、浦雅春訳
 義兄である大学教授に、若い姪ソーニャと2人で長年仕送りをしてきたワーニャ。しかし報われることなく年齢を重ねてしまった(「ワーニャ伯父さん」)。モスクワへの帰郷を夢見るものの、生活に追われ現実に追い込まれていく女性たち(「三人姉妹」)。チェーホフの傑作戯曲二編を新訳で収録。
 光文社古典新訳文庫で読んだ。先日見た映画『ドライブ・マイ・カー』(濱口竜介監督)で「ワーニャ伯父さん」が重要なモチーフとして使われていたので、改めて読んでみたくなったのだ。もう若いとは言えない年齢になってから読むと、「ワーニャ伯父さん」の切実さ、身に染みる度合いは凄まじい。これ、中年の危機の話でもあったんだな…。『ドライブ・マイ・カー』で使われたのは多分このあたりが要因なのだろう。
 ワーニャは何者にもなれなかった自分への悔恨、成功したように見える周囲の人間への嫉妬や劣等感、自己嫌悪に苦しむ。これがあまりに刺さる。自分の人生この先はもうたかが知れているとわかってはいるが、諦念の域にはまだ入れない苦しさに満ちている。更に辛いのはそういう人生であっても自ら断念はできないという所だ。ワーニャは自分の苦しさを散々ぶちまけるが、それに対してソーニャは生きていきましょうと呼びかける。最後のソーニャの台詞は希望というより諦めに思えた。私も息をつきたい…。
 これに比べると「三人姉妹」は大分コメディチックだが、三人姉妹の面々もワーニャと同じく、夢は断念せざるを得ず何者にもなれず、それでも人生は続いてしまう。こちらの方が周囲から取り残される感はより強い。また、登場人物同士がよくしゃべるのに往々にしてコミュニケーションが成立しておらず、全員孤立している感じがする。ワーニャには少なくともソーニャがいるが、「三人姉妹」では夫婦も家族も恋人も、時がたつにつれ分断されていくのだ。


ともしび・谷間 他7篇 (岩波文庫)
チェーホフ
岩波書店
2009-10-16


『わたしたちに手を出すな』

ウィリアム・ボイル著、鈴木美朋訳
 いい寄ってきた近所の老人を灰皿で殴り倒してしまったリナは、彼の車を奪って娘・エイドリアンの家へ駆けこんだ。しかし不仲な娘には拒否され、娘の隣人・ウルフスタインの家に転がり込む。しかしそこにウルフスタインが昔騙した男、更に殺し屋まで押しかけてきた。エイドリアンの愛人はマフィアの金を強奪し、彼女と逃げようとしていたのだ。
 リナに声をかけてくる老人の言動が非常に不愉快(だがこういう女には男が必要だろ?と思い込んでいる男性は結構いますね)なので殴り倒されても全くリナを責める気にならないし、その後も一貫して女性たちを応援したくなる。登場する女性たちの造形が男性にとって都合のいいものではない、ともすると女性読者の中でもこの人はちょっと…と思う人はいるかもしれないが、とても生き生きと動き回っている。強く自立しているように見えるが過去の栄光(と彼女は思っている)を振り切れないウルフスタインを好きになる読者は多いのでは。また、亡き夫を深く愛しながらも彼の裏家業については目を瞑り続けてきたリナの造形にも奥行がある。リナにとってもウルフスタインにとっても人生が大変動するが、リナにとっての方が変動・意識の変化が大きいのだ。彼女が今まで見ようとしてこなかったことが一気に襲ってくるようでもあった。そんなリナをウルフスタインがそれとなく気遣うが、そこにあまり熱・湿度がない所がとてもいい。
 リナの15歳の孫・ルシアの擦れているようでいてまだまだ脇があまい姿も、等身大の少女という感じだ。リナはルシアをちゃんと育てなければと決意するが、あんまりうまくいかないんじゃないかなという気もした。リナは家族に対して「こうであれ」というものが強くて、エイドリアンはそこが嫌だったんじゃないかなと。
 なお登場人物は魅力的だがストーリー展開は大分迷走している印象。玉突き事故的な構造なのだが、意外と話が(地理的にも)広がらない。同じところをぐるぐる回っているようで、すごくローカル感があった。

わたしたちに手を出すな (文春文庫)
ウィリアム・ボイル
文藝春秋
2021-08-03


『われらが痛みの鏡(上下)』

ピエール・ルメートル著、平岡敦訳
 幼い頃、顔に傷を負った傷痍軍人エドゥアールの仮面作りを手伝ったルイーズは、30歳になっていた。小学校で教員し、週末には近所のレストランでウェイトレスをしていたが、レストランの常連客に奇妙な頼み事をされる。その頼みに応じたことで彼女の人生は大きく変わる。一方、マイアンベール要塞の兵士ガブリエルは、闇売買にいそしむ兵士ラウールの稼業に巻き込まれていく。
 『天国でまた会おう』『炎の色』に続く歴史ミステリシリーズ3部作完結編。1作目で幼い少女だったルイーズを中心に、ドイツの侵攻に怯える1940年のフランスが舞台。本作単体でも読めるが、『天国でまた会おう』は読んでおいた方がいいかもしれない。あの子供がこんなことになるなんて…。彼女以外にも『キャッチ・ミー・イフ・ユーキャン』ばりに様々な専門職に成りすます詐欺師や、妻の元を目指す憲兵隊長、そして脱走兵になってしまうガブリエルとラウールら、様々な人たちの人生が交錯する群像劇。背後には迫りくる戦火があり、緊張感を高める。ストーリーの後半はほぼ全員が移動し続けているというシチュエーションも相まって、3部作の中で一番スピード感があり、文章のノリも妙にいい。ただ、物語のスケールは一番小さい(作中時間も短いので)。そこも読みやすさの一因だが、前2作に比べるとちょっと物足りなさも感じた。
 ガブリエルとラウールの関係は、最初は要領のいいラウールが一方的に生真面目なガブリエルを利用するというものだった。しかしなりゆきで道中共にするうちに関係がちょっとづつ変わってくる。ある地点ではっきり「友人」と表記される所に胸が熱くなる。著者はこういう所がさらっと上手い。また、うっとおしいおじさんかと思っていたレストラン店主ジュールの行動にもぐっときた。名もなき人たちの人生の劇的さ、どんな人生もそれぞれ劇的であるということが響くのだ。

われらが痛みの鏡 上 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
ピエール ルメートル
早川書房
2021-06-19


われらが痛みの鏡 下 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
ピエール ルメートル
早川書房
2021-06-19


『わたしたちが光の速さで進めないなら』

キム・チョヨブ著、カン・バンファ ユン・ジヨン訳
 討ち捨てられた宇宙ステーションで宇宙船を待ち続ける老人(「わたしたちが光の速さで進めないなら」)、成人の儀式で旅に出た子供たちのうち、何人かはいつも帰ってこなかった(「巡礼者たちはなぜ帰らない」)、遭難した惑星で異星人に遭遇した祖母の体験(「スペクトラム」)。最先端かつどこか懐かしい韓国発のSF短編集。
 身近さを感じる、ちょっと先の未来という感じの作品集。表題作は題名がまず良いのだが、人から様々なものが失われていく中で、もう共有するものがないとしてもどうしてもそこへ向かうのだという意志だけが残っていく様が寂しくも、力強い。共有するものをなくしてしまったのは自分たちの叡智の積み重ねの副産物でもあるのだが。より科学技術が発達し、高度に洗練され合理化される過程で取りこぼされるもの、取り残されていく存在がいることを見せていく。文明の発展は果たして人類を幸せにするのか?というSFのセオリー的な問いかけ、人間の限界を感じされる問いかけがなされていくのだ。 ザ・SF感のある「巡礼者たちはなぜ帰らない」は、人間は自分と異なるものを異なると認識しつつ差別しないことは可能なのか、差異を無くせば分断はなくなるのか、より人間的になると言えるのかという普遍的なテーマ。その一方で、人類と未知のものとの交錯の可能性を描いた「スペクトラム」や「共生仮説」のような作品も。特に「スペクトラム」は、異なるものへの礼節を感じさせ美しい。また「わたしのスペースヒーローについて」は人類のその先に行くやり方、選び方が清々しかった。ジェギョンがやったことで実は違う道をいくガユンの行く先も開けているのだ。

わたしたちが光の速さで進めないなら
キム チョヨプ
早川書房
2020-12-03


『私のカトリック少女時代』

メアリー・マッカーシー著、若島正訳
 裕福な両親を早くに亡くし、父方の大叔母夫妻の元で、後に母方の祖父母の元でカソリック教徒として育ち、12歳で信仰の道から離れた著者が少女時代の思い出を綴った回想録。
 物にも愛情にも恵まれた環境から、いきなり子供に不慣れな叔母とケチな叔父の元に送り込まれたメアリーの困惑や、みすぼらしい恰好とみなしごであるという境遇から周囲の子供たちから奇異な目で見られる様、それに対するメアリーの反応、またカソリック系の学校に入学してからの女王様的同級生たちへのあこがれと彼女らの歓心を買おうとする必死さ等、軽快だが容赦がない描き方。また、信仰に対する疑問とそれを神父にぶつけていく様、それまでの価値観から軌道を変えていく様など鮮やかだ。子供時代の著者自身のことも家族のことも、思い出としてのノスタルジーを排している。更に各章の後に、章の内容と自分の実体験の記憶に齟齬があるのではという検証、思い出と事実のすり合わせがなされているという念の入れ方。書いたものが嘘にならないようにという意志の強さ(このあたりが信仰の道から離れた要因の一つではないかとも思われた)を感じるのだが、そもそも著者の主観で書かれた時点で純粋な事実とは言えないように思う。更に読者にとっては著者の「検証」自体がフィクションなのでは?とも読める。著者の意図とは違うのかもしれないがメタフィクション的な側面が生じているのだ。

私のカトリック少女時代 (須賀敦子の本棚)
メアリー・マッカーシー
河出書房新社
2019-04-23


 

『わたしを空腹にしないほうがいい 改訂版』

くどうれいん
 2016年6月から2017年6月まで、日々の料理や思い出の料理等、食が頻出する日記。ちんまりとした造本も魅力。
 著者は歌人・俳人・文筆家だそうだが、私はこの随筆集で初めてその名前を知った。日記のタイトルが俳句になっているので、随筆部分とのコントラストもまた楽しい。文章は率直でユーモアがあるが、正直故に辛辣な時も。時に意固地さや傲慢さ、気弱さを見せたりと、表情がくるくる変わる。一つ一つの素材は特に珍しいものではないかもしれないが、その変り方を一歩引いた所から観察し記す視線があるから、読ませるのだ。まだ自分のトーンが定まり切っていない、勢いと危うさのようなものをはらんでいて瑞々しい。そして著者が食べることが好き、料理が好きであることがよくわかる。食べ物そのものの描写や食べたときの感触だけでなく、それを作る時の動き、手さばきの表現に料理し慣れている人のそれを感じた。


口福無限 (講談社文芸文庫)
草野心平
講談社
2014-03-28




『若草物語』

ルイーザ・メイ・オルコット著、麻生九美訳
 メグ、ジョー、ベス、エイミーの四姉妹は、優しい母親と共に家を守り、南北戦争に従軍している父親の無事を祈っていた。隣家のローレンス氏やその孫のローリーらと親しくなり、成長していく姉妹の1年間。
 光文社古典新訳文庫版で読んだ。150年の間少女たち(だけではないが)に愛読されてきただけのことはあって、やはり面白い。四姉妹の姿が生き生きと立ち上がってくる。読書を愛し文筆家を目指す、率直で自立心が高いジョーが読者には一番人気があるのだろう(私も好きだ)が、新訳で改めて読むと、他の3人もそれぞれ個性がはっきりしており魅力がある。メグのいかにも「お姉さん」的な振る舞いとちょっと虚栄心に負けそうになるところや、ベスが人と接することを前よりも怖がらなくなっていく様、エイミーの気取り屋さんぶりの微笑ましさ等、書き分けがはっきりしており、彼女らの欠点も愛らしく見えてくる。何より、四姉妹にしろローリーにしろ、ちゃんと「子供」として描かれているということがよくわかった。家族の一員としての責任は求められるが、まだよく遊び良く学ぶ途上にある存在として位置づけられている。キリスト教的な教条や愛国心は現代の目からするとさすがに古いし、キリスト教下の家父長制はジョーの独立心とは矛盾する。それでもこの四姉妹のような女の子は今もいると思える、躍動感が感じられた。新訳でのジョーやローリーの話し言葉のニュアンスも、ほどよい砕け加減と性別のニュートラルさがあって良い。

若草物語 (光文社古典新訳文庫)
オルコット,ルイーザ・メイ
光文社
2017-10-11


若草物語 コレクターズ・エディション [DVD]
キルスティン・ダンスト
ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント
2009-09-02


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