3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『悪い夢さえ見なければ ロングビーチ市警殺人課』

タイラー・ディルツ著、安達眞弓訳
 全身をナイフで切り裂かれた女性の死体が発見された。地元高校の教師だったその女性に、刑事ダニーはなぜか見覚えがあるような気がした。目撃者も目ぼしい手がかりもない中、ダニーと相棒のジェンは捜査に奔走する。
 ダニーは中年、初老に近いくらいの年齢なのかと思って読んでいたら、全然若い!私より若い!嘘でしょ!これは年齢設定ミスマッチ等ではなく、ダニーはそのくらい疲れ切っているということなので、まずそこにショックを受けた。彼は過去のある事件によって深く傷つき、アルコール依存症に近い状態で、過去の記憶による悪夢に悩まされている。その苦しみが彼から活力や若々しさを奪っているのだ。過去の記憶、傷が表面化しなくても癒えておらず、じわじわと浸食し続けるしんどさ。この過去からの絶え間ない浸食による苦しみはは、被害者が味わっていたものと似ているのかもしれない。被害者の過去がまたきついのだ。どこの世界にもろくでなしがいるな!
 時に暴走しそうなダニーを支えるのが日系女性刑事のジェン。格闘技に秀でており、地元の子供たちに道場で稽古もつけている。恋愛要素はなく、お互いに対する思いやりのある関係な所がいい。地道な捜査による警察小説で、犯人の特定などなかなかまどろっこしいのだが、ダニーとジェンという人たちの物語として今後の伸びしろが期待できそう。





『悪いうさぎ』

若竹七海著
 家出した女子高生ミチルを連れ戻す仕事に成功(しかし負傷)した私は、これがきっかけで失踪したミチルの同級生の捜索依頼も受ける。同級生・美和は無断で外泊するような娘ではないと言うのだ。美和の失踪を調べるうち、彼女の周囲の少女たちが他にも姿を消していることがわかる。
 私=葉村晶は探偵としてはそこそこ優秀なようだがすごく頭が切れるというわけではないし、人脈もそこそこ、体力は人並みだしお金にはそれほど余裕はないようだ。能力的にも人柄的にも、普通かつ至ってまともだからこそ、彼女が相対する人たちの異常さが際立っていく。少女の失踪を主軸として複数のトラブルに葉村は巻き込まれていくのだが、どの事件も自分より弱い相手を虐げたい・相手を支配し自分に力があると実感したいという欲望・悪意が根底にある。女性である葉村にもその悪意は向けられるのだ。葉村は窮地でパニックに陥ったり、理不尽や悪意に怒ることはあるが基本理性的。その理性が読者を引っ張っていき読みやすい。

悪いうさぎ (文春文庫)
若竹 七海
文藝春秋
2004-07-01


依頼人は死んだ (文春文庫)
若竹 七海
文藝春秋
2003-06-01



『わたしの本当の子供たち』

ジョー・ウォルトン著、茂木健訳
 1949年、マークからのプロポーズを機にパトリシアの世界はふたつに分岐した。マークと結婚した世界、結婚を断った世界、彼女は全く異なる人生を歩んでいく。どちらの人生が本当の彼女の人生なのか?
 パトリシアは、マークと結婚した場合もしなかった場合も、全く別のものではあるが喜びと悲しみ、そして子どもたちを得ていく。どちらがより良い、彼女に最適かなど読者にも判断できない(実際。どちらの人生も読んでいてすごく面白い!)。時間の不可逆性、一度に両方は生きられないという切なさが、彼女の人生が進むにつれ切実に迫ってくる。どちらの人生でも彼女は大きなものを得るが、同時に得られなかったもの、失ったものの大きさも迫ってくるのだ。生きていくことは、そういった「やむなし」感と付き合っていくことなんだなと。終盤のパトリシアはある意味、「やむなし」を否定しているとも思えるのだが。
 彼女が生きる2つの世界の歴史は、現実の(読者の)歴史とは少しずつ違う。その少し違う部分が読む側の心にひっかかりをつくっていく。もしかしたら第3のパトリシアがいて、その世界は読者が生きる世界と同一のものかもしれないと。

わたしの本当の子どもたち (創元SF文庫)
ジョー・ウォルトン
東京創元社
2017-08-31


図書室の魔法 上 (創元SF文庫)
ジョー・ウォルトン
東京創元社
2014-04-27


『忘れられた巨人』

カズオ・イシグロ著、土屋政雄訳
中世らしきブリテン島に暮らす老夫婦、アクセルとベアトリス。2人は離れて暮らす息子に会いに旅に出る。2人は色々なことを忘れているような気がしていた。そして村の人々も、物事をすぐに忘れてしまうようだった。6世紀~7世紀ごろを舞台とした時代小説かと思いきや、どうやらアーサー王伝説を下敷きにした部分もあるらしく、徐々に伝説や魔法の世界の色合いが強まっていく。著者の作品はしばしば、あるジャンルの形式をとりつつ、そこからはみ出していく、あるいは別のジャンルに移行していくような構造をしているが、本作も同様。過去作だと『わたしたちが孤児だったころ』の作りに近いように思った。終盤でどんどん別の領域に入っていく感じがするところと、登場人物の記憶がそれぞれ食い違ってくる、穴のあいた部分が出てくるところが、そう思わせるのかもしれない(そして終盤のぶん投げてるっぽさも・・・)。記憶は本作の大きなモチーフだ。アクセルとエリザベスの記憶はしばしば食い違う。深く愛し合う2人であっても見ている景色は別である、愛し合っているということ自体がお互いの認識違いかもしれないという意識の曖昧さが、不安を高める。もしかすると、2人は記憶をなくすことでかろうじて共に居続けられたのかもしれないのだ。そして記憶は、個人のものだけではなく集団のものでもある。記憶をなくすことの功罪についての問答は、現代の戦争責任問題にも通ずるだろう。忘れるしか解決法はないのか。だとすると、歴史には何の意味もないことになってしまう。かといって歴史を(善意によるものでも)ねつ造してしまうのも危険だが。ブリテン人とサクソン人の対立を背景にした、記憶をめぐるやりとりには、不穏な空気がまとわりつく。

『ワーカーズ・ダイジェスト』

津村記久子著
大阪のデザイン事務所に勤める奈加子は取引先の建築会社との打ち合わせで、自分と同じく32歳で同じく苗字が佐藤、しかも誕生日も同じという重信と会う。重信は東京支社所属で、たまたま大阪に来ていたのだ。将来の具体的な夢や目標があるわけでもなく、日々の仕事をそこそこの意欲でこなしていく2人の1年間を描く。男女が出会ったらそこから何かが始まる、というパターンが小説にしろ映画にしろつきものだが、本作の2人はたまたま仕事で会っただけで、別に始まらない。しかし折に触れて「佐藤さん」のことをふと思い出す。この距離感がよかった。仕事で誰かに会うのって大概そういうことだ。また、2人が仕事に大層な情熱を注いでいるわけでもなく、それが日常だから、生活だから働くという働き方なところもいい。だからといって仕事が大嫌いだというわけではないし、そういう働き方だから人生がつまらない、なんてことはないのだ。そりゃあそうだよな!平熱で、日常の一環として仕事をする人の日々を丹念に(でもさらっと)描いている。本作、仕事のディティールが具体的で、こういうお客さんいるよなとか、こういうクレームあるよなとか、胃が痛くなる様まで想像できる。奈加子が悩まされるクライアントのゴネ方は、これまさに私の上司(あれっ客じゃないや)!と思った。
 
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