3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『レイトン・コートの謎』

アントニイ・バークリー著、巴妙子訳
 田園のお屋敷レイトン・コートで、屋敷の主人であるスタインワース氏の死体が発見された。密室状態で額を撃ち抜かれ遺書もある現場の状況から、警察は自殺とにらむ。しかし作家のロジャー・シェリンガムは殺人とにらみ、友人アレックをワトソン役にして真相解明に乗り出す。
 英国探偵小説黄金期の巨匠と称される著者の長編第一作目。探偵ロジャー・シェリンガムといえば『毒入りチョコレート事件』『ジャンピング・ジェニイ』が印象深いが、本作が初登場となる。『毒入り~』『ジャンピング~』は本格ミステリとしてはかなり捻った、あの当時ここまで攻めた本格があったのか!と読んだ時には驚いたが、本作はスタンダードでフェアプレイ精神に則った謎解きミステリ。あまり皮肉っぽくなく朗らか、いっそユーモアミステリと言ってもいいくらいでもある。その朗らかさはとにかく黙っていられない、やかましくて大分うざいシェリンガムのキャラクターに寄る所が大きい。自信満々でワトソン役のアレックを小馬鹿にしつつ振り回すが、自分も度々大暴投をする。ある大暴投は大分早い段階で読者にもオチが予想できるのだが、明らかにわからせようとしてやっているボケみたいなもので、バークリーは結構お笑い好きというか、しかめっつらしいミステリは嫌だなと思っていたのではないか。
 なお本作、冒頭の父親への献辞はなかなかぐっとくる。親子で同じ趣味を持てるっていいよな。

レイトン・コートの謎 (創元推理文庫)
アントニイ・バークリー
東京創元社
2023-08-31


ジャンピング・ジェニイ (創元推理文庫)
アントニイ・バークリー
東京創元社
2009-10-30


『レニーとマーゴで100歳』

マリアンヌ・クローニン著、松村潔訳
 重い病気で余命宣告をされ入院中の、17歳の少女レニー。病院内でレニーは83歳の老婦人マーゴと知り合う。病院内のアート教室に参加した2人は、2人の人生を合わせた100年を絵に描くことにする。
 レニーとマーゴは孫と祖母くらいに年齢が離れている。しかし2人は死が近いという共通項がある。死ぬことに先輩も後輩もなく、ある意味平等だ。とは言えレニーとマーゴではこれまで生きてきた長さが違う。レニーはマーゴの83年を彼女と分け合うことで、100年相当に濃縮された、自分が実体験していない未来をも含めた17年を生きられたのではないかと思う。一方でマーゴもレニーの計画に乗って自分の人生を振り返ることで、過去の自分の思い残しを掘り起こし、もう一度今の人生に引き寄せることができた。年齢を超えた友情が2人の人生を良きものにする、というか人生の良さに気付かせるのだ。友人関係に年齢は関係ない、お互いへの愛と尊重が大事なのだとしみじみと感じる。
 レニーは才気走っており聡明なのだが、才気で自分の不安をガードしているようにも見える。神父との問答や看護師たちとのやりとりは、レニーが自分の理屈で相手をやり込めようとする「イキり」が見えて生意気であると同時にほほえましい。彼女が死に向かう恐怖をイキりで抑え込もうとしていることがわかるだけになおさらだ。最初は頼りなげでレニーのこともあまり理解していないのでは?と思われた神父が、実際は彼の相手の話を否定せず聞く、自分を押し付けないという態度がレニーの救いになっていたことがわかってくる。「聞く」態勢をキープするのって実は難しいんだよなと。

レニーとマーゴで100歳 (新潮クレスト・ブックス)
マリアンヌ・クローニン
新潮社
2022-01-31


幸せなひとりぼっち (ハヤカワ文庫NV)
フレドリック バックマン
早川書房
2016-10-21


『レイン・ドッグズ』

エイドリアン・マッキンティ著、武藤陽生訳
 北アイルランドの古城の中庭で、女性の転落死体が発見された。現場は重量級の城門が固く閉ざされ、城壁を乗り越えるにも周囲の監視カメラを避けることは困難という密室状態。王立アルスター警察隊警部補のショーン・ダフィは捜査にあたるが、警視正が爆殺されたという知らせが入る。IRAの犯行と思わ得れたが。
 ショーン・ダフィシリーズ5作目だが、今までで一番フックが強いかもしれない。ショーンの私生活の危機から始まる冒頭から、密室殺人、暗殺、そして大物のスキャンダルへと展開していきぐいぐい読ませる。ダフィと同僚のローソン、クラビーとの会話のテンポが良く、会話文の魅力に磨きがかかった印象。ローソンもクラビーも良い奴なのだ。部下であるローソンの、数字に強くて生真面目だけど音楽の趣味はダフィとは合わないあたりも可愛い。翻訳文もなかなか飛ばしていて、もうおなじみの相槌「あい」はもちろん、「ねこまっしぐら」に至ってはそれあり?!やりすぎじゃない?!というくらい。でもそれが不自然に感じられない馴染み方なのだ。女性の口語のこなれ方も生き生きとしていて自然。
 面白くて一気読みしてしまう作品だが、このシリーズは毎回どこか物悲しく渋い。これは当時のアイルランドの社会背景や警察の立ち位置の複雑さに加え、ダフィの捜査が往々にして負け戦の気配濃厚だという所からくる。ダフィは警察の中でちょっと浮くくらい、忖度せず刑事としての筋を通そうとする。しかしその筋は、政界や経済界の思惑によって圧をかけられてしまう。それでも損得度外視で戦おうとするダフィの姿勢が、本シリーズ最大の魅力だろう。なおダフィ、結構インテリで音楽・文学(今回、えっそれ読んでるんだ!とうれしくなる部分があった)に造詣が深いことがこれまでわかっている
のだが、今回なんとピアノの腕前まで披露している。こういうところも警察官らしからぬ所なのか。

レイン・ドッグズ ショーン・ダフィ (ハヤカワ・ミステリ文庫)
エイドリアン マッキンティ
早川書房
2021-12-16


中二階 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)
ニコルソン ベイカー
白水社
1997-10-01






『零號琴(上、下)』

飛浩隆著
 特殊楽器技芸士のセルジゥ・トロムボノクと相棒のシュリバンは、ある大富豪の依頼で惑星・美縟の中心都市・磐記にやってきた。古代から伝わる巨大な楽器・美玉鐘が500年ぶりに再建される、その演奏に参加しろというのだ。この都市では仮面を纏う文化が根付いており、美玉鐘の演奏と共に、首都の全住民が参加する「假面劇」が上演される。様々な思惑が錯綜する中、祭りの日が近づいてくる。
 本作を読んだ人たちがプリキュアプリキュア言っていた意味がようやくわかった。プリキュアだしまどマギだし巨神兵とか出てきますよね…。日本の漫画、アニメに散見される要素を取り込みつつ、それらが土壌にある文化の中で生まれたがまた別の方向性を目指しており、これは日本のSF小説でないと出来ない表現ではないかと思った。既存のフィクション、大衆に好まれるフィクションに対するメタ構造でもある。假面同士の情報の同期化はある物語に対する共通認識・ある解釈がファン・世間の間で広がって定着していくシステムのように思えた。またワンダが作る假面劇は二次創作みたいなものだ。そして、假面劇の行方はフィクションがフィクションを消費する側と溶け合って血肉になる、または反逆することでもあるだろう。ある社会の成り立ちとその行く末を描いた小説ではあるのだが、本作そのものがフィクションとその受容論にもなっている。また、肉体と個のアイデンティティのあり方に関わる部分は、著者のこれまでの作品とも通ずるものがあるように思った。
 固有名詞のややこしい漢字の読ませ方に若干イラっとする(全てルビを振ってほしい…)が、なぜこの文字を当てたのかちゃんと意味がある。なお、シュリバンの喋り方だけデフォルメの度合いが違うというか、別文脈の表現になっている感じがして、かなり違和感があった。別文脈にしてもダサいセリフ回しだと思うのだが読者(私)側の世代的なものだろうか。
 
零號琴 上 (ハヤカワ文庫JA)
飛 浩隆
早川書房
2021-08-18


零號琴 下 (ハヤカワ文庫 JA ト 5-5)
飛 浩隆
早川書房
2021-08-18


『レイチェルが死んでから』

フリン・ベリー著、田口俊樹訳
 姉レイチェルの家を訪れたノーラは、吊るされた犬の死体、そして血まみれのレイチェルを発見する。警察は殺人事件として捜査を始めるが、ノーラは15年前にレイチェルが襲われ暴行を受けた事件と関連があると考え、独自の犯人探しに固執していく。
 これは邦題が上手い!正に「レイチェルが死んでから」ノーラが何を考えどう行動していくのかという話なのだ。彼女の一人称なので、過去の記憶も現在の出来事も、あくまでノーラが感じ、考えた範疇にとどめられている。なので、実際にあの時、そして今何が起きたのかは、実のところ不明瞭な部分も多い。いわゆる「信頼できない語り手」で、思考も行動もどこかふわふわしている。彼女が何を意図しどこへ向かっているのか、なんとなくはぐらかされている感じがするのだ。そのはぐらかしの理由が原題「Under the harrow」にあるということなので、邦題によって二重にはぐらかされているという面も。苦しすぎると物事への対し方が傍から見ると不可解なものになってしまう。ノーラの苦しみの道筋を描いた話でもあるのだ。

レイチェルが死んでから (ハヤカワ・ミステリ文庫)
フリン ベリー
早川書房
2018-11-06





レベッカ (上) (新潮文庫)
ダフネ・デュ・モーリア
新潮社
2008-02-28

『レクイエムの名手 菊地成孔追悼文集』

菊地成孔著
著者が10数年にわたって綴ってきた追悼文をまとめた、サブタイトルの通り追悼文集。著者の職業上、ミュージシャンやジャズ評論家への追悼文が多い。実際に著者と交流があった人へのものも、そうでないが著者にとって大切だった人へのものも(エリザベス・テイラーとかマイルス・デイヴィスとか)ある。当然のことではあるが相手との関係によって文章のテンション、どこまで踏み込むか(自分の知り合いだから踏み込める/踏み込めない場合、面識はない「有名人」だから踏み込める/踏み込めない場合があるなと)が変化してきて、その距離感みたいなものが興味深かった。著者の文章は概ね躁的でどんどん書き飛ばしていく(もちろん推敲されているはずだが)イメージがあるのだが、所々で、この人についてはこれ以上は書けないという壁のようなものが出現することがあるのだ。それとは別に強く印象に残ったのは「加藤和彦氏逝去」。故人の仕事に対する深い敬意と愛があると同時に、(故人に対してとは限らない)苛立ちのような、そうじゃないだろう!という苦渋のようなものが入り混じっているように思った。

『霊の棲む島 エリカ&パトリック事件簿』

カミラ・レックバリ著、富山クラーソン陽子訳
初夏の夜、1人の女性が血まみれの手で何かから逃げるように、フェイルバッカ沖のグローシャール島を目指していた。女性の連れは幼い息子1人。島には古い家と灯台だけがあり、幽霊が住みついているという伝説があった。数日後、自治体の大きなリゾート・プロジェクトに関わっていた経理担当者が、自宅で銃殺された。男は死ぬ直前にグローシャール島を訪れていたらしい。刑事パトリックと、その妻で作家のエリカは捜査に乗り出す。エリカ&パトリックシリーズ7作目。2人の間に双子が生まれているが、その直前には大きな悲劇があり、エリカの妹アンナは立ち直れず、エリカも罪悪感にさいなまれている。家族内の大きな問題と、殺人事件の捜査が平行していく、更に事件の背後にいる人物の立ち回り、加えて19世紀のある女性の運命が並走する。いくつもの筋が並走していく構成だ。本作では、女性のDV被害が大きな要素になっている。北欧のミステリを読むと、男女平等に社会参加をし福祉が充実しているという北欧諸国のイメージって何なの?というくらい、DV問題や極端な女性差別が描かれている。差別的というよりも、もっと根深いところでの憎悪(相手が女性だったり異民族だったりする)があるような雰囲気で、なかなかげっそりさせてくれる。19世紀のエピソードにおける女性嫌悪は、その原因の設定にちょっと問題がある(というか、嫌悪するようになるというのはわかるが、原因としてイコールではないというフォローがないと、また別の嫌悪につながるのではないかと)思うが・・・。パトリックら地元の警官たちは、無能ではないが極めて有能というわけでもない(というよりも、田舎なので大きな事件に慣れていない)。しばしば聞き逃し、チェックし忘れをする。それでもシリーズ開始時から比べると、各段に仕事のできる人たちになっている!成長しているなぁ。

『レズビアン短編小説集』

ヴァージニア・ウルフ他著、利根川真紀編訳
19世紀末から20世紀前半、女性、また男女両方のパートナーを持った女性作家たちによる、女性の物語17編を収録したアンソロジー。ウルフを筆頭にキャサリン・マンスフィールド、ガートルート・スタインなどの有名どころから日本ではあまりなじみのない作家まで、色々読めてお得感あり。1人の作家につき複数作収録されているところが、アンソロジーとしては珍しいかもしれない。同じレーベルから発行されている『ゲイ短編小説集』と対になる感じか。ただ、本作の方が、一個人の心の機微、葛藤に切り込んでいるように思え(どれも書かれた時代が比較的現代に近いからかもしれないが)、個人的には心にしみる作品が多かった。世の中に自分の居場所がない、しっくりこない感じとどう向き合う、ないしはやりすごすのか。いわゆる「人並み」であることが自分にとっての幸せになりえないということが、今よりももっともっときつい時代だったんだなぁとしみじみとした。それにしてもガートルート・スタインの文体は独特すぎるな!これ当時はどういうスタンスで読まれていたんだろう・・・。

『霊応ゲーム』

パトリック・レドモンド著、広瀬順弘訳
イギリスのパブリック・スクールの学生で14歳のジョナサンは、同級生にいじめられ、教師にも目の敵にされ、辛い思いをしていた。しかしある日、一匹狼的な学生リチャードと親しくなる。大人びて自信に満ちたリチャードにジョナサンは憧れ、彼との友情に夢中になるが、一方でそれまで友人同士だった同級生とは距離が出来ていく。同時に、ジョナサンをいじめていた同級生たちの身に次々と異変が起こる。幻の傑作、待望の文庫化との触れ込みだが、確かにこれは傑作レベルの面白さ。結構なボリュームにも関わらず一気読みだった。霊応ゲーム(日本でいうコックリさんみたいなもの)を小道具としてオカルト的な雰囲気でカモフラージュしたミステリかと思って読んでいたら、意外とホラーの方向性が強い。しかし恐ろしいのは霊や悪魔ではなく、人の心。霊や悪魔は、人の中の悪を盛り上げる補助的なものにすぎない。ジョナサンとリチャードの友情は最初は瑞々しく美しいものだ。しかし、相手への執着が強まるとそれはもう友情とは言えないものになっていく。大人からしたらなぜそんなことでと思うかもしれないが、世界が学校の中(しかも全寮制)のみで、独特のヒエラルキーに従わざるを得ないことで、選択肢がそれしかないと思い込んでしまうのだ。追い詰められていく少年たちの姿は痛ましい。とはいえ、子供だけではなく大人も相手を所有しコントロールする欲望から逃れられない。人間関係が密封されている学校や家庭だとよけいにそれがつのるのだろう。逃げ場がないもんなぁ。もうちょっと違った環境だったら、リチャードとジョナサンの関係はよい友達として継続していたかもしれないと思うと、やりきれないものがある。

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