3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『完本 マタギ 矛盾なき労働と食文化』

田中康弘著
 フリーカメラマンの著者はマタギに興味を持ち、マタギの里として知られる秋田・阿仁に通って長年取材を続けた。マタギの人々と共に山を歩き猟や獲物の解体・料理を体験することで見えてくるマタギの生き方。本著は著者の『マタギ 矛盾なき労働と食文化』、『マタギとは山の恵みをいただく者なり』を底本とし、合本・再編集の上文庫化。
 狩猟から獲物の調理まで、主に食文化を中心にマタギの生活を観察・記録した本著。現代のマタギは一体どういう生活をしているのか、そもそもマタギという職業(?)だけで生活できるのか不思議だったのだが、狩猟のみで生活しているマタギはほぼおらず、他の職業と兼業で週末のみ狩猟に出るといったスタイルだそうだ。狩猟も他のマタギと予定を合わせていくことが多いので、こちらが思っているほど常時狩猟をしているわけではない。一方で、山に入って山菜やキノコを集めたり(天然のマイタケはやはり滅茶滅茶美味しいし貴重らしい)、川魚を捕ったりというのもマタギの生活の一部で、山と共に生きる山岳地のライフスタイルの一つと言った方がいいのかもしれない。著者が取材したマタギの人たちはどの人もとにかく山が好き!ということが伝わってくる。春夏秋冬どの季節の山にもそれぞれの魅力があることが、彼らの生活を通して見えてくる。著者は研究者ではないのでマタギ文化の伝来や日本における信仰の受容等に関する考察は少々怪しいのだが、実際に一緒に行動しマタギを観察・体験していくことによる生き生きとした記録になっている。マタギの人たちはとにかくよく歩く(そこそこ高齢の方が多いことを考えると驚異的だと思う)ので、これにカメラをもってついていく著者は相当大変だったろう。作中でも体力の限界とはこういうことかという描写が何度も出てくるのだが、それでも同行したい魅力があるというのも伝わってくるのだ。ロマンとは距離を置いた、実生活としてのマタギの生き方・技術の記録になっていると思う。
 ただ言わずもがなだが、マタギの伝統を受け継ぐ人は急速に減少しており、おそらくマタギとして猟銃を使いこなせる人もいなくなっていくという。マタギの生き方は現代的な生活の中では合理的というわけではない(山の民としては合理的なのだが)し利便性も低い。山に相当な魅力を感じていないと続けられないと思うが、子供の時に山に魅力を感じるような原体験をすること自体が難しくなったのだろう。作中でも阿仁やその近辺の寂れ方にも言及されている。阿仁に限ったことではないのだろうが、文化が失われていくのは少し寂しい(部外者としての勝手なノスタルジーではあるが)。




 

『マナートの娘たち』

ディーマ・アルザヤット著、小竹由美子訳
 弟の遺体を浄めようとする姉。本来は同性の役割であり周囲は止めるが彼女はがんとして聞き入れない(「浄め(グスル)」)。障害のある弟を持つ兄が語るある事件(「失踪」)。アラブ系女性リナはインターンとして働く企業で出世を目指し、懸命に努力していたが(「懸命に努力するものだけが成功する」)。様々な形で過酷な人生を生き延びる人々を描く短篇集。
 9編を収録した短篇集だが、登場人物たちの多くは自分が何者なのかゆらぎを感じていたり、アイデンティティの自認と周囲からの視線がずれていたりと、居場所のなさを感じている。彼らは移民、マイノリティーなのだが、著者がシリアからアメリカへの移民であるという背景が投影されているのだろう。ただ本作はわかりやすいマイノリティーの話ではなく、マイノリティーの多種多様さ、複雑さを前面に出したものだ。特に新聞記事やインタビュー、一人語り等がコラージュされた「アリゲーター」は圧巻。シリア系夫婦がリンチされた事件、黒人に対するリンチの記録、先住民に対する迫害等が現れるが、これらの迫害された側のエピソードに何らかのリンク・連帯が生じるわけではない。自分たちが迫害されていても他の属性の誰かを差別するという側面があり、迫害される側は一枚岩ではなく複雑なのだ。修羅の国としてのアメリカの姿が現れる一遍だが、この差別をしてしまうという欲望、自分より貶められる存在を作りたくなる欲望はどの国、どの場所でも生じる厄介なものだと思う。それ故恐ろしい。
 なお「懸命に努力するものだけが成功する」は映画「アシスタント」とほぼ同じような話で、このシチュエーションがいかに(むかつくことに)ありふれているかよくわかる。また「三幕構成による、ある女の子の物語」では登場人物がどうも『聖☆おにいさん』(中村光)のアニメを見ていたらしい。あれアメリカで見られるんだ…

マナートの娘たち (海外文学セレクション)
ディーマ・アルザヤット
東京創元社
2023-04-11


五月 その他の短篇
アリ・スミス
河出書房新社
2023-03-24




『街に躍ねる』

川上佐都著
 小学生5年生の晶には高校2年生の兄・達がいる。達は最近学校に行かずずっと家にいる。晶は兄のことも、兄が最近ずっと描いている絵も好きだ。晶と達は父親が違う(母親が再婚し晶が生まれた)ことを両親は子供たちに伏せているが、兄弟共にうっすらと知っており、それは親には秘密だ。ある日自宅に遊びに来た同級生に兄の不登校を知られたことで、晶の気持ちは揺れていく。
 晶視点で語られる第一章「兄弟であるための話」、兄弟の母親である朝子の視点で語られる第二章「朝子の場合」の二部構成から成る。第二章は大分短めでアンバランスとも思えたが、主眼はあくまで子供・達の世界であり、朝子の視点はその補助線みたいなものか。ただ、第一章の答え合わせ的に第二章が配置されているわけではない。晶視点の第一章は、晶にわからないことには言及されない。達が不登校になった経緯も、学校側の対応も、両親がどういう話合いをしたのかも、晶は感知していないので文面には出てこない。一方で、同級生に兄の存在を「大変だね」的にいじられることへの不快感、それと同時に兄が変に思われないでほしいと思う、更にそれは兄の為ではなく自分のためではと、晶の感情の解析度は高い。あくまで晶という子供の知覚で描かれているところがいいし、だから兄や両親への愛(とは当人は言わないわけだが)が迫ってくる。
 では大人である朝子の視点が加わればより広い世界が見えるのかというとそういうわけでもない。大人であろうと、自分の子供のことであろうと、わからないことはわからないという立ち位置に徹している。朝子にとっても自分の感情の方がはっきりとわかるもので(前夫との離婚理由などこれは当人でないとわからないな!というえぐり方)、達に対してもわからないままおろおろし続けている感じだ。ただ、おろおろするなりに達の在り方を受け入れており、そこがこの家族を家族として維持させているものなのではと思わせる。

街に躍ねる (一般書)
川上 佐都
ポプラ社
2023-02-15

『惑う星』

リチャード・パワーズ著、木原善彦訳
 研究者シーオは妻アリッサを亡くし、幼い息子ロビンと2人で暮らしている。母親を急に失って情緒不安定になっているロビンの助けになればと、シーオは彼をfMRI(機能的磁気共鳴映像法)を用いた実験に参加させる。実験の効果はめざましく、ロビンの情緒は落ち着き驚くほどの聡明さを見せ始める。彼は母が生前取り組んでいた自然保護活動に取り組もうとする。
 パワーズの作品、特に近年の作品を読むと人類に対するペシミズムに裏打ちされており、やるせなくなる。前作『オーバーストーリー』でも環境破壊とそれを防ごうとする、しかしそれ故に人間社会からは異物として扱われる人たちが登場したが、本作も同じ系統にある。アリッサは生前、自然保護活動に力を注ぐ有能な活動家だったが、その活動は常に負け戦だった。ロビンもまた、絶滅危惧種の動物たちに関心を持ち彼らの保護を訴えようとする。聡明な彼は世間からもてはやされるが、彼の主張と真面目に向き合う人はわずかで、彼が世界を変えられる見込みはほぼなさそうだ。それでもロビンは自分が正しいと思うことをやろうとする。しかし父親であるシーオはロビンの信念を必ずしも信じられず、彼のことを当初とは違った形で理解できなくなっていく。子供が自分が知らない人間のようになっていくというのは普通に子育てをしていても起こることだが、シーオとロビンの場合は急速にそれが進み、親子が別の人間であること、親が子の為にできること・子供を守ることには限界があることを突き付けてくる。親子の物語として非常にやるせない。
 人間が技術発展、経済発展を推し進めた負の面が環境破壊だが、ロビンを安定させ彼の資質を発揮させたのも技術だ。人間は人間のより優れた状態、完璧な状態を引き出せるはずだという知識と技術に対する信頼と、その一方で個々の欲望を押しとどめることができなず自滅していくのではというペシミズムとが、色濃く表れているように思う。その間で引き裂かれていくのが科学者であり父親であるシーオなのでは。彼が妻からも息子からも置いていかれ、「惑う」様がずっと描かれている。

惑う星
リチャード・パワーズ
新潮社
2022-11-30


オーバーストーリー
リチャード・パワーズ
新潮社
2019-11-08




『魔王の島』

ジェローム・ルブリ著、坂田雪子監訳、青木智美訳
 会ったことのない祖母の訃報を受け、祖母が住んでいたという孤島にわたったサンドリーヌ。島は自然保護区に指定されており、終戦直後に働いていた者たちだけが居住していた。島ではかつて、キャンプに来ていた子供たちが全員死亡する事故があったという。島で祖母の痕跡を辿るうち、サンドリーヌは不安に襲われていく。
 サンドリーヌ視点の1989年の出来事、そして祖母であるシュザンヌ視点の1949年の出来事が交互に語られ、更にそこへもう一つのエピソードが織り込まれていく。本著の帯には「彼女のはなしは信じるな。」とあるが、そういう意味か!と唸った。いわゆる謎解きミステリとしてはアンフェアだし終盤まで何が起こっているのか判断できない構造なのだが、リーダビリティは高くどんどん読ませる。パーツのはまり方というか重なり方が終盤でどんどんわかってくるのだ。ミステリというよりサスペンス、しかも少々風変りなサスペンスと言った方がいいかもしれない。謎も恐怖も人の心と記憶の中にある。その外側に出ることはできない、というよりも当人がそれが出来ないように世界を作ってしまうという所が一番怖いのかも。帯や裏表紙のあらすじから受ける印象とは多分違う内容なので、予備知識なしで読むことをお勧めする。

魔王の島 (文春文庫)
ジェローム・ルブリ
文藝春秋
2022-09-01









『マジカルグランマ』

柚木麻子著
 女優の正子は映画監督と結婚し引退。しかし今では家庭内別居状態だ。75歳にしてCMでの再デビューを果たし、一躍ブレイクする。しかしある出来事がきっかけでバッシングにあい事務所を解雇され、一挙に生活は苦しくなる。金策に奔走するうち、正子は周囲を巻き込み我が道を突き進むようになる。
 題名のマジカルグランマとは、マジカルニグロやマジカルゲイといった言葉にならった「理想のおばあちゃん」を指す概念として正子が思い当たるもの。「理想のおばあちゃん」とは周囲にとって理想=都合のいい存在なのであって、おばあちゃん本人にとって都合がいいわけではない。マジカルグランマが助けるのは若者であって同世代の高齢者ではないのだと正子は悟るが、正にそうだなとはっとする。彼女が目指すのはマジカルグランマではなく、別の方向でマジカルな存在、自分のやりたいことをやり友人を助ける存在だ。
 ただ、この「なりたい自分」も誰かを助けたい気持ちも基本的に正子の自分本位なものであって、暴走気味になっていく所が愉快。読者にとっても気持ちよく気持ちを沿わせられる・都合のいいおばあちゃんにはしないぞという気合を感じた。自己顕示欲と承認欲求の権化のようになっていく正子だが、それが彼女にとってのなりたい自分、自分らしい自分なのだ。なりたい自分とか自分らしさと言葉だけなら耳さわりがいい印象だが、実際のところはそうでもない。やり続けるには胆力や図太さ、嫌われてもいいという割り切りも必要だろう。それでも、他人の欲望に自分をゆだね、誰かのニーズに沿うことだけを目的にする生き方よりは全然いい。なりふり構わない正子の姿に辟易する人もいるだろうが、自分の欲望に自覚的な姿は小気味よくもある。

マジカルグランマ (朝日文庫)
柚木 麻子
朝日新聞出版
2022-07-07


おらおらでひとりいぐも (河出文庫)
若竹千佐子
河出書房新社
2020-06-24



『マリアビートル』

伊坂幸太郎著
 幼い息子の敵討ちを企てる「木村」、優等生の顔の裏に悪魔のような心を隠す中学生「王子」、裏社会の大物からある依頼を受けた「蜜柑」と「檸檬」コンビ、運の悪さは随一の殺し屋「天道虫」。東京から盛岡へ向かう東北新幹線の中で、それぞれの仕事と思惑を抱いた殺し屋たちが交錯する。
 2010年に出版された日本の小説が2022年にハリウッドで映画化、しかもブラッド・ピット主演になるなど、本作出版当時は想像もしなかった。文庫化された時に読んでいるはずなのだがほぼ忘れており、今回再読。一応、題名にあるとおりマリアビートル=天道虫こと七尾が中心にいるが、群像劇としての側面の方が強い。各章ごとにそれぞれの登場人物の視点に切り替わるというスタイルだ。東京駅から盛岡駅に向かう東北新幹線の中のみで展開される物語で、空間と時間(東京・盛岡間で3時間弱くらいか?)が限定されている特殊状況下サスペンスとも言える。これは確かに映画向きだなと思った。何しろ作中のランタイムが映画1本の時間に近いし、誰がいつどこにいるかという位置関係がわかりやすい。これは著者のテクニックの手堅さもあるのだろうが、登場人物の動線描写がしっかりしてるので、映像に起こしやすそう。また限定された空間での格闘は映像向き、というよりアクション映画のイメージで本作が書かれたのだろう。順番が逆だ。映画化おめでとうございます。
 ただ、面白くてスピーディーですごく読みやすいのだが、読んだ後にすぱっと中身を忘れてしまうタイプの作品ではあると思う。予想外の何かというものはあまりない。ミステリ・サスペンス的なサプライズはあるが、そういうサプライズがあることは想定内なタイプの作品だ。だが本作はそれでいい。エンターテイメントに徹した、読者に愛着を持たせすぎない潔さと言えるだろう。

マリアビートル (角川文庫)
伊坂 幸太郎
KADOKAWA
2014-08-15


グラスホッパー (角川文庫)
伊坂 幸太郎
KADOKAWA
2014-08-15





『鞠子はすてきな役立たず』

山崎ナオコーラ著
 子供のころから「働かざるもの食うべからず」という父親の言葉を聞かされてきた小太郎。自分もお金を稼ぐ為に高卒で銀行に就職し、それなりに順調な生活だった。そんな折交際するようになった鞠子は大学院卒で書店でアルバイトをしており、結婚後は主婦志望だった。2人は結婚し、主婦となった鞠子は趣味を持とうと絵手紙や家庭菜園などに挑戦。やがて小太郎も巻き込まれていく。『趣味で腹いっぱい』を改題し文庫化。
 文庫の題名の方が圧倒的にいい!生産性や有用性とは無縁でも楽しく生きていいじゃないか。それこそ基本的人権というものだろう。本著はそこに至る小太郎と鞠子の生活の変化を平明に描写していく。私は「働かざるもの食うべからず」という言葉が大嫌いなのだが、これが世間一般の価値観だということはわかる。小太郎もそういった世間の価値観(というより彼の父親の価値観)の中で生きてきて疑問を感じることもなかった。一方鞠子は仕事に重きは置いておらず、自分が好きなことで大成しようという意欲もない。彼女は自分が興味があること、楽しいことを無理のない範囲でやることを目的としており、その為に主婦をやることにも抵抗はない。では鞠子は自立していないというかというと、そういうわけではないだろう。彼女の精神は自立している。堂々としているので、小太郎も何となく納得してしまうのだ。本作はお互い全然価値観が違う夫婦の人生をユーモラスに描くと同時に、労働と生活って何だろうということを等身大の視線で考え、言語化していく。鞠子に感化され小太郎が変わっていく様も、鞠子が「他立」を発見する様も、読んでいてちょっと胸が熱くなった。
 なお、本作「しんぶん赤旗」に連載されていたそうだ。この紙面にこの小説が連載されるというのは、妙に筋が通っている。

鞠子はすてきな役立たず (河出文庫 や 17-8)
山崎 ナオコーラ
河出書房新社
2021-08-06


かわいい夫
山崎ナオコーラ
河出書房新社
2020-04-03


『真似のできない女たち 21人の最低で最高の人生』

山崎まどか著
 俳優、作家、画家、写真家、音楽家、デザイナー等、インパクトのある人生を送った21人の女性たち。主に1940年代~70年代に活躍した、日本ではあまり知られていない人たち(私が知っていたのはシンガーのカレン・ダルトンと料理研究家のジュリア・チャイルドの名前のみ)の生き方を紹介するエッセイ。
 『イノセント・ガールズ』を改題し文庫化された作品だそうだが、著者も作中で言及しているように、「イノセント・ガールズ」という題名よりも「真似のできない女たち」という題名の方がしっくりくる。イノセントでガールズだと甘やかなイメージがしそうだが、登場する女性たちは皆甘くない。強烈な自我と個性、様々な欲望や苦しみを持っており、それに忠実だ。そういう人たちなので、当時はもちろん現代にいたるまで奇異の目で見られがち。本著は、彼女らに対するそういった見方を軌道修正し、ジャンル付けされない一個人として捉えなおそうという書き方になっている。
 彼女らの多くが世間からは理解されなかったり、世間的には「不幸」とみられる生き方をしたりする。ただ、読んでいると本人たちはそんな気持ちはなかったんだろうなと思えてくる。彼女らはたとえ結末が悲劇的だったとしても(孤独死どころか殺人事件の被害者になってしまった人も)、自分の意思で人生に挑んでいたしやりたいことをやろうとした、またそういう生き方しかできなかったのだ。読後感は意外と清々しい。ただ、生まれる時代が違えばまた違う選択肢があった人もいたのではないかなとも思ってしまう。それはそれで、ここまでやりたいことをやろうとする強烈な人生になったかどうかわからないけど。外圧があったからそういうあり方になったという面もあるのでは。




『まとまらない言葉を生きる』

荒井裕樹著
 近年「言葉が壊れてきた」。言葉が壊されるとは、人の尊厳を傷つけるような言葉発せられ、生活圏に紛れ込んでいること。また社会に大きな影響力を持つ人が、対話を一方的に打ち切ったり、説明を拒絶したり、責任をうやむやにしたり、対話をあおったりする言葉を発したりすることから感じられる。そういった行為は、言葉の持つ信頼性を損なうものだ。それにあらがっていく言葉をそっと紹介する18編のエッセイを収録。
 本著で紹介される言葉は、主に障碍や病気を持った人のものだ。著者が「被抑圧者の自己表現」をテーマとした文学研究を行っており当事者との交流が深いという事情もあるだろうが、何より彼らがメインストリームから外れた場所にいる、往々にして「みんな」からはじかれがちな人々だからだろう。大文字の主語からは零れ落ちてしまう認識や感覚を救い取っている言葉なのだ。それは近年とみに好まれる「わかりやすさ」では表現しえないものだ。わかりやすい言葉を使うことは、様々な多様なものを切り落としていくことでもある。自分が今「みんな」側にいたとしても、いつ切り落とされる側になるかわからないのに、皆そういうことをあまり考えないんだろうかと度々思っているのだが、本著はわかりやすさの危険さに言及し続けており、深くうなずいた。同時に、自分もまたわかりやすさに乗っかってしまわないかどうか常に自戒が必要だと感じた。わかりにくさ、複雑さと向き合い続けることは面倒くさいし体力がいる。わかりやすさが好まれる社会は、余裕がない(知的な体力に回せる余力がもはやない)社会でもあると思う。
 本著は広く読まれてほしいのだが、真っ先に読んでほしい人たちはこういう本は読まないし、仮に読んだとしても全く意に介さないんだろうなぁという諦めもある。私のように、なんとなくもやもやしているけど言語化できないという層にまずは届いてほしい。

まとまらない言葉を生きる
荒井裕樹
柏書房
2021-05-13


障害者差別を問いなおす (ちくま新書)
荒井裕樹
筑摩書房
2020-04-17


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