3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『ブルーノの問題』

アレクサンダル・ヘモン著、柴田元幸/秋草俊一郎訳
 子供時代に家族でムリェト島を訪れた夏の思い出(「島」)、ある一族のルーツの背景にボスニアの歴史が横たわる(「心地よい言葉のやりとり」)、ユーゴスラヴィアからアメリカにやってきた作家の異国悲喜こもごも(「ブラインド・ヨゼフ・プロネク&死せる魂たち」)。ボスニア・ヘルツェゴビナからアメリカへわたり英語で執筆をつづけた著者の短篇集。
 前述の作品だけではなく、著者の実体験を色濃く反映したと思われる作品が多い。「ブラインド・ヨゼフ・プロネク&死せる魂たち」の主人公であるプロネクが、文化交流プログラムで来米したものの故郷の政治的混乱により帰国できなくなるという流れは著者自身が体験したもので、自伝的な側面が強い作品だそうだ。この作品は収録作の中でも特に長く、異文化の中でとまどうプロネクの生活が時にユーモラス、時にシニカルに描かれて比較的読みやすい。が、読んでいるうちに段々怖くなってくる。母国の情勢は段々悪化し収拾がつかなくなり、プロネクの人生は考えていたものと全然別のものになっていってしまう。更にアメリカの生活に適応していくにつれ、ここが彼にとって異国・異文化であるということがきわだつ。アメリカの人々にとってプロネクの故郷の事情がいかに他人事かということも端々で見られるのだ。ここにいるのに居場所にならないままで、プロネク自身が何者なのか、どこにいるべきなのかあやふやになっていく。著者は自分の母国語以外の言語で執筆しているわけだが、その行為が生む文章に対する微妙な距離感、異物感みたいなものが漂ってくるように思った。時々すごくシニカルなのはこの執筆スタイルによる距離感が生むものではないだろうか(母国の状況が洒落にならないというのもあるだろうが)。子供の頃のちょっと面白おかしいエピソードが、背景を踏まえて読むとなかなかぞっとするという、おかしみと恐怖が入り混じった味わいが強く印象に残る。

ブルーノの問題
アレクサンダル・ヘモン
書肆侃侃房
2023-10-30


ノーホエア・マン
アレクサンダル ヘモン
白水社
2004-04-01




 

『夫婦間における愛の適温』

向坂くじら著
 夫の下手なマッサージでもっと気持ちよくなりたい。遊びで愛をやっているわけではない。死んだ方がましだという友人からの電話を受けて反論できない。詩人で国語教室の講師である著者による、日々の暮らしの中の感情を丹念に、しかし軽やかにユーモラスに綴るエッセイ。
 百万年書房という出版社から本著を含む「暮らし」という叢書(というかレーベルなのか?)が出ているのを初めて知ったのだが、出版社名も叢書名も何かいいな!本著は題名を筆頭にやたらと切れ味が鋭くて唸った。題名にもあるように夫との関係に言及したエッセイが多めだが、夫婦それぞれの性格・特質自体は大分違いそう、しかし相互に愛情はあり(著者の愛情の方が大分過大かつ表出の仕方に癖があるけど…)、必ずしもすべてかみ合っているわけではないが夫婦として稼働し続けているという生活の様が面白い。
 ただ、この必ずしもすべてかみ合っているわけではないが稼働し続ける、という様は何もパートナー間に限ったことではなく、様々な人間関係、集団の中で善かれ悪しかれ起きていることだろう。著者と母親や、口が悪く非常に頭が切れる友人の関係もそうだし、著者と塾の生徒、また著者が仕事を辞めなければならなかった経緯についても同様だろうと思う。そのずれ、かみ合わなさに一つ一つひっかかる著者の思考の厳密さというか誠実さが深く印象に残り、かつどこか切られるような痛さや寂しさもある。自分にそのような感情が生まれたのはなぜかという部分の掘り下げ方、保留しなささが深く、解析度が高い。しかし自分の感情の解析度がその都度高いというのは、かなり疲れる(情報過多で疲れるみたいな)し自身へのフィードバックで傷つくことでもあるだろう。実際、本著を読んでいると、この人情緒が大変だな…と思う所が多々ある。その情緒の大変さから逃げない所が、言葉(特に詩歌)を生業にする者の資質なのかもしれない。

夫婦間における愛の適温 暮らし
向坂くじら
株式会社百万年書房
2023-07-27


せいいっぱいの悪口 (暮らし)
堀 静香
百万年書房
2022-10-22


『フォレスト、ダーク』

ニコール・クラウス著、広瀬恭子訳
作家のニコールは創作のスランプ中で、夫との関係も微妙になってきている。創作の糸口を求めて子供時代を過ごしたテルアビブのホテルに宿泊したところ、ユダヤ人教授から「イスラエルでのカフカの第二の人生」に関わる仕事を依頼される。一方、ニューヨークで弁護士として成功し富を築いたエプスティーンは、順風満帆だった人生に突然迷いを感じる。富を手放し、彼は生まれ故郷であるテルアビブへ飛ぶ。
 2人の大人が人生に迷い、そこから抜け出す糸口を探してテルアビブを訪れる。ニコールは中年女性、エプスティーンは老年男性で年齢も性別も職業も経済状態も全く違う。はっきりと創作に行き詰っているニコールに対し、エプスティーンは既に富豪といってもいいくらいだ。ただ、2人にはユダヤ人であるという共通項がある。そして2人とも、伝統的なユダヤ人としての生き方とは距離を置いていた。勝手に「ユダヤの誇り」扱いされてイラっとするニコールの反応は、こういう人実際にいそうだなと思わせるもの。ルーツはルーツだろうが、創作のすべてがそこに根差すと思われても困るだろう。そして実際のところ、このルーツは結局彼らを救うわけではない。個人の迷宮を抜ける糸口になるのは結局個人的な記憶なのだ。個人の記憶は民族の記憶にはなりえない、自分がこれまで生きてきたようにしか生きられないのかもしれない。民族を国家に置き換えても言えるだろうが、個人の記憶の集積と言えるかもしれないけど、個人を全面的にゆだねられるものでもないんだろうなと。

フォレスト・ダーク (エクス・リブリス)
ニコール・クラウス
白水社
2022-08-26


カフカ短篇集 (岩波文庫)
カフカ
岩波書店
1987-01-16




『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』

長谷敏司著
 コンテンポラリーダンサーの護堂恒明は、事故で右足を失う。ダンサーとしての道を絶たれ失意の中にいた恒明だが、同じカンパニーにいた谷口に、AI義肢のモニターになる話を持ち掛けられる。谷口が主宰するダンスカンパニーは、人のダンスとロボットのダンスを分ける人間性の手続き(プロトコル)を表現しようとしていた。恒明は人間のダンサーとしてAI義肢と共生するダンスを追求し始める。
 人間の身体能力、フィジカルとしてのヒューマニティを追求するダンサーが肉体の自由を奪われる。それがどういうことなのか、更にリハビリのもどかしさや不安、絶望感等がひしひしと伝わる。ダンスする体をこれほど具体的に的確に書く小説ってなかなかない(大体ダンスは言語化が困難だからダンスなわけで)のでは。人間の体とそれに伴う精神の変化を掘り下げてくる。そして、AI義肢という機械であり人工知能であるものと生身の肉体がどのように折り合いをつけていくのかという、異物とのファーストコンタクト、一種のコミュニケーションがそこに重なってくるのだ。AIとのコミュニケーションといっても言語や人間が言うところの意志伝達によるものではなく、AI、ロボットにとってのダンスを意味する思考はどういうものなのかという、全く文脈の違うものと近づいていかなくてはならない。人間がロボットの方に合わせていく、それの意図を汲もうとする所が本作の面白さでは。全く違う文脈がかみ合った時の感動があるのだ。
 ただ、ロボットにとってのダンス、踊る意志を描きつつも、一貫して描かれるのは人間性だ。人間性は何によって形作られ、何をもって人間性というのか。恒明の父は伝説的ダンサーだが、老いて痴呆も生じていく。介護の描写がこれまた過酷で、介護者の疲弊や経済的・時間的な切迫も、被介護者の苛立ちや不安も生々しい。恒明の思っていた父の人間像は失われていく。が、それは人間性を失うということと必ずしもイコールではないのでは。恒明と父とのファーストコンタクトとも言えるように思った。

プロトコル・オブ・ヒューマニティ
長谷 敏司
早川書房
2022-10-18


My Humanity
長谷 敏司
早川書房
2014-10-30


『男も女もみんなフェミニストでなきゃ』

チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ著。くぼたのぞみ訳
 ナイジェリア出身の作家である著者が、2012年12月にアフリカに焦点をあてて毎年開かれる会議・TEDxEustonで行ったトークに加筆した文章を書籍化したもの。
 本著の内容は題名の通り、フェミニズムに関する講演なのだが、全学校図書館に必ず1冊所蔵してほしいくらい、平易でわかりやすく、今必要とされていることが描かれている。著者が語るフェミニズムと言う言葉に対するマイナスイメージや、性別によって「こうであれ」とされている、また「こうであろう」と思い込まれている事例、またジェンダーに対する無自覚さなど、日本とほぼ同じ状況だ。著者がフェミニストって自称しない方がいいよ不幸だと思われるしと言われてじゃあハッピー・フェミニストと自称します!とするあたりなど笑ってしまった。皆そんなにフェミニストが怖いかよ…。ナイジェリアの方が強力な父権社会文化にあると思うのだが、日本は無自覚なジェンダー不平等が根強いのでは。まずはこれって不平等だったんだ、ジェンダー問題だったんだと気付くところから始めないとならない。    「ジェンダーの問題は、私たちがありのままの自分を認めるのではなく、こうある「べき」だと規定するところにあります。もしもジェンダーによる機体の重圧がなくなったら、私たちはどれほど幸せで、個々人が本当の自分でいられるかを想像してみてください」という一文は、なぜジェンダー教育が(老若男女に)必要なのかを端的に表している。人間は社会からは逃れられないから、ある程度は社会の中でこうあるべき、という規範に沿わなくてははならないだろう。ただ、その規範は不均等を生むのでは?妥当性あるの?それによって私は幸せになるの?という疑問と常に向かい合い、不公正なら社会を変えていこうとする姿勢もまた必要だろう。
 また、「なかには「なんで『フェミニスト』って語を使うの?なぜ人間の権利擁護が必要だと思う、とか、そんなふうにいわないの?」という人もいます。理由は、それでもはごまかしになるからです」という一文以降の内容は、日本でもtwitterあたりでしばしば目にするやりとりへのアンサーになっており必読。

男も女もみんなフェミニストでなきゃ
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ
河出書房新社
2017-04-19


私は男でフェミニストです
チェ・スンボム
世界思想社
2022-01-28




『ブッチャー・ボーイ』

パトリック・マッケイブ著、矢口誠訳
 ”ぼく”フランシスは子供時代、小さな田舎町に住んでいた。父さんは元ミュージシャンだが酒を飲んでばかり、母さんは”修理工場”へ時々連れていかれる。ロンドンで働いているアロおじさんが帰省するのを楽しみにしつつ、親友のジョーと遊びまわり、イングランド帰りのフィリップをからかう。しかしある事件を起こし矯正院に入れられてしまう。
 全編フランシスの一人称で語られ、文章には妙なグルーヴ感がある。かなり下品で現代だったら晃館差別用語等もあるのだが、一気に語り上げる勢いがある。彼の意識のアップダウンと文章のスピード、温度が直結している感じだ。しかし彼はいわゆる「信用できない語り手」だ。時に意識が飛び、時に視界は大きくゆがんで幻想が入交り、またかなり意識が混乱したりするので、今客観的に何が起こっているのかということがよくわからないところもあるのだ。話が進むにつれて、あれはそういうことだったのか、と読者は後追いで気付いていく。そして、目くらましのようなフランシスの語りの裏側にある痛ましさ(とみられるのを彼は拒否するだろうが)が浮かび上がってくる。客観的に見たら相当悲惨な話だ。だんだん見えてくる彼の認知のゆがみと、周囲の反応とのギャップが辛かった。彼の意識がずっと子供のままなのが、更にやりきれない。
 本作の舞台は1960年代のアイルランド。アイルランド出身だがイングランドで生活していたニュージェント夫人への敵意と屈折した憧れは、このあたりの背景も関係しているのだろう。肉屋が手堅い就職先とみられているらしい一方でうっすら蔑まれている感じも、当時の社会背景が関係しているのだろうか。その肉屋でフランシスは働くのだが、彼が元々周囲から哀れまれ、同時に忌避されている様が肉屋という職業と呼応しているように思った。フランシスの家庭の問題や矯正院での神父からの性的虐待等、彼の境遇の悲惨さは当時のアイルランド社会の反映という側面も多分にあるのだろう。
 
ブッチャー・ボーイ
パトリック・マッケイブ
国書刊行会
2022-01-27


ブッチャー・ボーイ【字幕版】 [VHS]
イーモン・オーウェンズ
ワーナー・ホーム・ビデオ
2000-02-10


『プロジェクト・ファザーフッド』

ジョルジャ・リープ著、宮﨑真紀訳
 ロサンゼルス南部の街ワッツで、子供を持つ男性たちの自助グループ「プロジェクト・ファザーフッド」が設立された。人類学者・ソーシャルワーカーの著者は運営側として参加し、メンバーたちの話に耳を傾け、時に反発・論争しつつ共にコミュニティの再生に取り組んでいく。
 ワッツ地区はいわゆるスラム街で伝統的に黒人貧困層が暮らし、近年はラティーノも増えている。ギャングの抗争が絶えず、若年層のうちから犯罪に手を染め刑務所に入り、出所後は貧困に陥る。金銭の為に犯罪や薬物に手を出してまた刑務所へ、という負の連鎖が止まらない状況だ。父親が刑務所に入っていたり家庭を顧みなかったりで、父親を知らないという男性も多い。そういう男性たちは、いざ父親となってもどのようにふるまっていいかわからず家庭と疎遠になってしまう人も多い。負の連鎖を止め父親たちを支えるためには自助グループが有効だというのだ。ギャングスタが牛耳るエリアにはギャングスタの価値観が根付いており、それをひっくり返していくのは至難の業で、その価値観への違和感に著者は何度もぶつかる。それを全否定してはいけないというのがしんどい所だ。しかし地域住民ではない著者にとってメンバーとは「あんたにはわからない」という関係が前提にある。ここで安易にわかったつもりになったら彼らの信頼は得られないだろう。わからないものとして著者は真摯に向き合っていく。メンバーが父親としての自覚やコミュニティ再生の必要性に目覚めても、女性蔑視(リスペクトする女性=ママというのが何ともはや…)やLBGTQに対する憎悪は根深いままでげんなりするが…。
 一方、彼ら自身が父親という存在を強く求めてきた、それゆえにギャングという疑似父兄的集団に引き寄せられてしまうという面があるという。彼らの父親としての躓きやすさには、仕事のなさ、経済的困窮が背景にあるというのはもちろんなのだが、「(所属文化圏内における)男性であれ」という価値観であるように思った。ここから離れるのは相当難しいのでは。


『復讐の家』

ステフ・チャ著、宮内もと子訳
 2019年、黒人少年が射殺された事件をきっかけに、LA近郊では人種間の緊張が高まっていた。韓国系アメリカ人のグレイスは両親が営む薬局で働いている。元ギャングの黒人ショーンは更生し運送業に励んで地道に暮らしている。しかしある銃撃事件を発端に彼らの日常は崩壊していき、やがて隠されていた過去が呼び覚まされる。1991年に実際にあった事件をもとに、完全なフィクションとして書かれた作品。
 黒人も韓国系移民も、アメリカでは非白人として見られる。が、非白人として扱われた民族同士が公正さの為に連帯できるかというとそうでもない。グレイス側の視点もショーン側の視点も生々しい。どちらがよりいい、悪いというわけではないのだが、溝の埋められなさが際立ってくる。社会的な背景に個人的な事情が重なって、復讐に火がついていくのだ。
 ただこの復讐が的を得た復讐(などというものはないかもしれないが)なのかというとちょっと微妙で、主語を拡大しすぎた復讐と思える。差別との闘い、公正さを求める戦いにおいて他者への共感は重要だが、それを「私たち」のこととして語るのは当事者に対して傲慢ではないか?という恐れもわいてくるのだ。どこまでを「私」としてどこからを「私たち」とするのか。
 ショーン一家とグレイス一家をつなぐことになる白人ジャーナリストが登場するのだが、彼に対してショーンは懐疑的だ。彼にとってジャーナリストはショーンたちの悲劇にただ乗りしているだけで、記事として書かれた犠牲者の姿は実像とは異なる。記事になることで犠牲者は人々の記憶に残り続けるが、ショーンが望む形でではない。しかしショーンの身内もまた、「善き犠牲者」のイメージを望んでしまう。家族の実像は封印されてしまうのだ。事件の真相は明らかになっても割り切れないものが重く残る。

復讐の家 (集英社文庫)
宮内 もと子
集英社
2021-04-20


白が5なら、黒は3 (ハヤカワ・ミステリ)
ジョン ヴァーチャー
早川書房
2021-02-03


『プロジェクト・ヘイル・メアリー(上下)』

アンディ・ウィアー著、小野田和子訳
 “ぼく”は見知らぬ空間で目覚めた。体は動かず、医療目的らしい様々な管が取り付けられており、コンピューターが話しかけてくる。自分の名前も何者かもここがどこでなぜ自分がここにいるのかも思い出せない。いったい“ぼく”は何者で、何が起こったのか?ようやく身を起こして周囲を探ってみると、どうやら宇宙空間にいるらしいとわかるが。
 『火星の人』のウィアー再び!という感じのSFサバイバルアドベンチャー。右も左もわからない状態から、場所、時間、環境、そして自分が何者で何をしようとしていたのかを分析し記憶を辿っていく様はミステリ小説のようでもありスリリング。しかし、洒落にならない状況なのに基調が明るくコミカルだ。主人公が一人であってもユーモアを忘れず知的好奇心に満ちており、生き残る気満々なのだ。へこたれ絶望しそうになりながらも、減らず口を一人でたたき自分ツッコミを忘れないという姿勢こそ、彼の正気を保っているのではないかと思った。
 そして何より、人間の善性と科学に対する信頼が一貫して保たれている。本作で地球に生じる危機と主人公が置かれた状況からすると、一回くらい闇落ちしてもおかしくないのに、彼はふつうの人としての善良さを保ち続ける。これは作家にとって結構勇気がいることではないかと思う。シチュエーション的に人間のダークサイドを描いた方が楽といえば楽な部分もあるのではないか。そこを徹底してオプティミズムを貫くというのは逆にハードル高いだろう。異文化交流など上手くいきすぎな気もするのだが、この方向でいくんだよ!という強い意志に何だか感動してしまった。そして科学の徒に対する愛と信頼の深さにも。技術そのものには善も悪もないが、知性は基本的に善きもののはず、という信頼があるのだ。

プロジェクト・ヘイル・メアリー 上
アンディ ウィアー
早川書房
2021-12-16


プロジェクト・ヘイル・メアリー 下
アンディ ウィアー
早川書房
2021-12-16




 

『フクロウの家』

トニー・エンジェル著、伊達淳訳
 フクロウをこよなく愛し、共に暮らし、研究し、フクロウたちが暮らす保護活動に励んできた著者が、自らとフウロウの交流や、様々なフクロウの暮らし方や体の特徴を、著者自身によるたくさんの挿画とともに紹介していく。
 著者は作家、画家、彫刻家であり、環境教育の教師であり、特に鳥類に造詣が深く、自然環境に関する作品を多数発表しているそうだ。本著でもその多才ぶりが発揮されている。掲載されている挿画はすべて著者によるものなのだが、これがすごくいい。白黒のペン画のようなのだが、フクロウの羽の細かい模様や質感がくっきりと表現されており、図鑑の絵のよう。しかし図鑑に使われる絵よりもフクロウのキャラクター性が前面に出ており、表情が豊かだ。また背景とのバランスや画面構成など、デザイン性も高い。著者の絵が目的で本著を手に取る読者も多いのでは。
 それにしてもフクロウがこんなに多種多様だとは初めて知った。生息地も温順な土地から寒冷地までとかなり広いし、大きさも手のひらサイズから体長50,60センチ以上と幅広い。小型のフクロウを捕獲して食べてしまうフクロウもいるそうだ。フクロウといえば木のうろに住んでいるというイメージだったが、地面の穴に巣作りをする種類もいるというのも意外。


フクロウの家
トニー・エンジェル
白水社
2019-02-01


ふくろうくん (ミセスこどもの本)
アーノルド・ローベル
文化出版局
1976-11-20


ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ