3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『プルーストと過ごす夏』

アントワーヌ・コンパニョン、ジュリア・クリステヴァ他著、國分俊宏訳
プルーストの『失われた時を求めて』を、8人の筆者がそれぞれの切り口で解説する。テーマは個々の登場人物であったり、時間であったり、芸術であったりと様々。
8人はいずれもプルーストの熱心な読者で、研究書の出版や映像作品の製作を手掛けたいわば手練れだが、意外なほど読みやすく平易な書き方になっている。本作に掲載された内容は、元々、ラジオ番組(「~と過ごす夏」という教養番組シリーズがあるそうだ)の為の講演内容だそうで、間口は広く設定してある。プルーストというとどうも敷居が高いし、そもそも『失われた時を求めて』を完読したわけでもないし・・・としり込みしていたが、本作はむしろまだ読んでいないけどちょっと興味があるという人、今読んでいる途中だという人にお勧めしたくなる。『失われた~』の研究、批評というよりも、この作品にはこういう魅力がありますよ、プルーストはこういう意図を込めているんですよというナビゲーションとして機能している。私は『失われた~』は光文社古典新訳文庫で読んでいる為に、まだ読みかけなのだが、早く続きを読みたくなった。プルーストがちょっと身近に感じられる。特にプルーストの読書についての言及は、深く納得がいくもの。彼は読者、鑑賞者としても優れていたんだろうなとわかるのだ。

プルーストと過ごす夏
アントワーヌ・コンパニョン
光文社
2017-02-16


『プラージュ』

誉田哲也著
 たった一度、魔が差したせいで薬物に手を出し、仕事も住む場所も失った元サラリーマンの貴生。怪しい不動産屋から紹介されたのは、「プラージュ」というシェアハウスだった。住人達は皆個性が強く、貴生同様に訳ありらしい。家主の潤子が1階で営むカフェを手伝いつつ、人生をやりなおそうとする貴生だが。
 貴生視点のパートが比較的多いものの、プラージュの住人達それぞれの視点が入れ替わる群像劇と言った方がいいかもしれない。その視点変更する構成を使ったミステリも仕込んであるのだが、これは正直中途半端かなぁ・・・。こういう仕掛けがあった方がよかろうと、無理矢理ねじ込んだ感じがする。やるならもっと徹底してやってほしい。住民の中では貴生が一番アクがなく、良くも悪くも普通の人なのだが、こういう人でも何かの歯車がずれると、人生とんでもないことになってしまうという生々しさはある。誰にでも起こりうることなのだ。そして、人生のレールは一度外れると軌道修正するのは至難の業であり、過去の過ちはレッテルとしてずっと剥がれない。だから脛に傷持つ人に対してもう少しフラットな姿勢があってもいいのではという希望、とは言えやってしまったことはなかったことにならない、その上でどうやりなおしていくのかだという決意がシェアハウスを支えている。ただ、この希望と決意の物語化がわりと典型的なので、あまり深みのある味わいにはなっていない。さらっと読むように書いたのかなという雰囲気。ドラマ化されたそうだが、そのさほど深くはない所がアレンジしやすくて映像化素材に向いているのかも

プラージュ (幻冬舎文庫)
誉田 哲也
幻冬舎
2017-06-28


豆の上で眠る (新潮文庫)
湊 かなえ
新潮社
2017-06-28

『ブラインド・マッサージ』

畢飛宇著、飯塚容訳
 南京の「沙宗琪マッサージセンター」は、親友同士の沙復明と張宗琪が共同出資して開いたマッサージ店。2人の店長も他のマッサージ師たちも盲目で、店の中では盲人の社会がつくられていた。ある日、沙復明のかつての同級生・王が恋人・小孔を連れ職を求めてやってきた。王は株で失敗して開業資金を失い、小孔は恋人の存在を家族に言えず、駆け落ち同然だった。
 私は本作を原作にしたロウ・イエ監督の同名映画(とてもいい)を先に見ていたので、映画はここのアレンジを変えていたのかとか、実際はこのパートが結構長かったのか等、映画と比較しながら読んだのだが、本作自体がとてもいい小説だ。盲人の世界の描写の細やかさ、彼らの形成している「社会」のあり方は小説の方がよりくっきりと立ち上がってくる。マッサージ師たちの間での感情のベクトル、微妙なパワーバランスの危うさは、限定された人間関係の中では起こりがちなもので、温かみがあると同時に人間関係の狭さと偏狭さによる息苦しさを感じる。人間関係の厄介さ、羨望や嫉妬はどこの国であれどんな人であれ同じなのだ。映画と同様に強く印象を残したのは、王の弟の借金を巡る振る舞い。長男の難儀さがのしかかってくる。また、この騒動にけりをつける行動がとんでもないのだが、それが彼の誇りによるものだという所に、彼が今まで何を我慢して何を支えに生きてきたのかが露わになり痛切だ。一人の人間としての誇りであり、盲人としての誇りでもある。本作は、登場人物それぞれの「訳あり」な部分や狡猾さや衝動を描く一方で、それぞれの誇りにも度々言及する。人は何に依って立つのかという部分がそこから垣間見えるのだ。それにしても借金騒動の顛末、これで王は少し自由になれたのではとも思えるが、弟がけろっとしている所がまた腹立つんだよなー。どこの世界にも無自覚なクズっているよな・・・。


かつては岸 (エクス・リブリス)
ポール ユーン
白水社
2014-06-25



『フロスト始末(上、下)』

R・D・ウィングフィールド著、芹澤恵訳
 相変わらず人手不足であえぐデントン署。フロスト警部は少女の失踪事件、強姦事件、スーパーマーケットへの脅迫事件にバラバラ死体と、厄介な事件を次々と背負いこんでいた。一方、マレット署長は新たに着任したスキナー主任警部と組み、フロストを他所の署に移動させ厄介払いしようと画策していた。
 上下巻のボリュームだが滅法面白く、特に下巻に入ると一気に読みきってしまった。著者の急逝により、シリーズ最終作となった本作。フロスト警部は相変わらず下品だしだらしないしセクハラ発言は多いし、経費の水増し請求がバレて大変なことになる。ぱっと見ダメ人間的な振舞だが、実際の所仕事熱心で、ぼやきつつも大変なハードワーカー(むしろワーカホリックの傾向が強い)であるのも相変わらずだ。欠点が多い割に部下や同僚からは愛されているっぽいのは、彼には(マレットやスキナーと異なり)部下を思いやり彼らに対する責任は負うという姿勢があり、何より警官としての矜持を持ち続けているからだろう。例え周囲が自分のミスを責めなくても、警官である自分が自分のことを許せない、だから踏ん張り続けるのだという筋の通し方にはやはりぐっとくる。今回、フロスト警部は少々センチメンタルで、亡くなった妻のことを何度も回想する。フロスト夫妻の心が離れていく過程は、ありがちな話ではあるのだがだからこそやるせない。対称的にデントン署が今回抱える事件は陰惨な色が濃く、やりきれない展開も。ことなかれ主義で事件の現場に関してはわれ関せずのマレットですら、絶句するような事態も起きる。泥沼状態の中であがき続けるフロスト警部とデントン署の面々の奮闘にエールを送りたくなる。続きがもう読めないというのは寂しい限り。

フロスト始末〈上〉 (創元推理文庫)
R・D・ウィングフィールド
東京創元社
2017-06-30

フロスト始末〈下〉 (創元推理文庫)
R・D・ウィングフィールド
東京創元社
2017-06-30

『服従』

ミシェル・ウェルベック著、大塚桃訳
2022年の大統領選を控え、投票所テロが起こり報道管制がしかれたフランス。極右国民戦線のマリー・ルペンを破って当選したのは穏健イスラーム政権だった。ユイスマンスの研究者である大学教授の「ぼく」は学長が変わったことで退職をよぎなくされる。
イスラーム政権がフランスで誕生するというなかなか思い切った設定だが、イスラーム政権による政治そのものというよりも、政権が、政治が大きく変化していくのに、国民であるはずの自分が当事者のような気がせず、妙だと思ってもなんとなく変化を見過ごしてしまう、そして受け入れてしまうという無気力感に強い現代性を感じた。今現在のフランス大統領選が引き合いに出され再注目されている作品だが、むしろ今の日本の空気感に通ずるものがある。「ぼく」は自他共に認めるインテリではあるが、自分の知力(と言ってもこの人あまり頭良くない感じなんだけど・・・)でこの世界に太刀打ちできるという手ごたえは全く感じていないようだし、詭弁のような説得にもなんとなく流されてしまう。自分で考えることにもう疲れてしまっているようでもある。国内情勢の変化が彼の年齢上の変化、いわゆる中年の危機と重なっているのも一因か。ゆらぎながら手探りを続けるよりも「服従」してしまった方が楽なのだ。ただ、彼が流されっぱなしなのは、彼が男性だからというのも大きな要因だろう。新しい政府の方針の上では、男性である彼は改宗さえすれば、ぱっと見大きな不利益を被ることがない。「ぼく」がずっと気にしているのは自分の下半身事情だもんな・・・。自分が損をすることがなければ(他の立場の人が不当に扱われたり不利益を被ったりしても)それまでの主義主張は結構簡単に手放してしまうものだというところに、いやーな気持ちになる。そしてウェルベックは相変わらずいけすかないインテリ男の造形が上手いなー。ちょいちょいぶん殴りたくなるタイプである。

『舞台』

西加奈子著
29歳の葉太は、初めて一人で海外旅行に出た。行先はニューヨーク。ガイドブックを暗記して準備万端のはずが、初日に盗難に遭い、財布もパスポートも無くしてしまう。しかし葉太は「初日に盗難」というかっこわるさに耐えられず、警察にも大使館にも届けを出さずにやりすごしてしまう。
こ、これが自意識モンスターか!イタさの裏読みをしすぎだよ!行くところまで行くとこうなるのか!葉太は太宰治の作品に強く共感するように、「道化」としての自分を自覚しすぎてしまう人。頭は悪くないしルックスもいいのに、それが全くプラスに働いていない。周囲にどう見られているのか、どういう自分であれば周囲に不快感を与えないのか気にしすぎてしまう。多分、周囲はそこまで彼のことを気にしていないんだろうけど、そういう問題じゃないんだろうなぁ。私は葉太に共感するところはほぼないのだが、読んでいるうちに、ここまでやらないと楽になれないのかと、段々彼が気の毒になってくる。「イタい」自分には死んでもなりたくないのに、その自意識十分にイタくなってるよ!一見要領いいように見えるんだろういけど、これはこれで、行き難くて大変そう。どういう方向性であれ、自意識との折り合いの付け方は常に厄介だ。

『ブルーに生まれついて』

 1950年代。甘いマスクとソフトな歌声で、ジャズ界のジェームズ・ディーンともてはやされたトランペット奏者チェット・ベイカー(イーサン・ホーク)だが、麻薬に溺れていく。1966年、麻薬がらみのトラブルで顎と歯に重傷を負い再起不能かと思われたが、ジェーン(カルメン・イジョゴ)の献身的な愛情に支えられ、ドラッグを絶ちミュージシャンとして再起を図る。監督・脚本はロバート・バドロー。
 ジャズミュージシャン、チェット・ベイカーの伝記映画というよりも、彼に対するオマージュのような雰囲気だと思う。伝記としてはエピソードが断片的すぎることに加え、ベイカーが主演を務めるベイカーの自伝映画が作中作として挿入されるので、虚実混じった感が強くなる。映画で妻エレインを演じたジェーンが実際に彼のパートナーとなり、自伝映画はベイカーが重傷を負ったことにより製作中止になってベイカーの記憶の中にしかないので、なおさらレイヤーが入り混じる。これはベイカーとエレインの思い出なの?それともジェーンとの思い出なの?と混乱するところも。ベイカーにとっては、2人とも同じような存在なのかもしれないなとふと思った。
 重傷からリハビリを重ね、再起不能と思われていたベイカーが奇跡の復帰を遂げる。遂げることは遂げるのだが・・・。実在の人物だからネタバレも何もないのだが、何とも苦い。確かに大変な努力があったのだろうが、心の弱さはどうしようもないのか。ジェーンとの二人三脚のようなリハビリの過程も、愛が深いとも言えるが依存しているとも言える。彼女には彼女の目標があるということを全く考慮していないということが終盤で露呈してしまい、これまた苦い。才能は確かにあるのだが、弱く脆すぎる。同時代の天才であるマイルス・デイヴィスの存在が大きすぎ、プレッシャーに耐えられなかったというのも、プロとしてどうなのよ!と言いたくなってしまう。マイルスはマイルス、自分は自分というふうには思えなかったんだろうなぁ。情けないのだが、自分が生きる場所がジャズの世界にしかない以上、そこで否定されたら生きていけないというところが痛切。
 イーサン・ホークのどこか弱弱しいルックスが、役柄と合っており好演。トランペットはさすがに吹替え(でも演奏の仕方は特訓したそうで、素人目には違和感はない)だが、歌は本人が歌っている。私はホークにセクシーさを感じたことはなかったのだが、本作での歌声にはぐっときた。この曲、本当にいい曲だったんだなとしみじみさせられた。

『プロローグ』

円城塔著
小説を書こうとしている「わたし」は、執筆にあたり言語表記の範囲を決め、登場する13氏族を制定していく。しかし次々と異常事態が起こり、「わたし」は「わたし」とすれ違いつつ、執筆の為、喫茶店から地方への出張、海外へも出向き、アメリカ・ユタ州で登場人物と再会する。
著者初の「私小説」だそうだが、誰にとっての「私小説」なのか。「わたし」は小説を書こうとしつつ、日本語の構造を解析し、自作を構成する言葉の統計を取ったり、作家が作った物語と、偶発的に言葉の並び替えによって生じた文章とはどう違うと言えるのか思索したり、プログラミングで小説は生成されるのではと考えたりする。小説が、それを構成する言語がどのように構成されているのか、解体しつつシュミレーションしているようだった。「わたし」は何重にも存在し、「わたし」であることにさほど重要性はない。「わたし」にとっての私小説ではなく、「小説」にとっての、どのように生成され構造されていくかという私小説であるように思った。しかし、もっと頭のいい読者だったらより読み込めるんだろうなぁと思うと悔しい!なお、装丁が中身を的確に表していると思う。

『ブレイクの隣人』

トレイシー・シュヴァリエ著、野沢佳織訳
1792年、英国。海の向こう、フランスでは革命の真っ最中で、その熱はロンドンにも飛び火していた。英国南部の村で暮らしていたケラウェイ一家は、ロンドンに引っ越す。家具職人の父・トマスは、大道具係としてサーカス団の興行主アストリーに雇われた。都会の暮らしになかなかなじめない長男のジェムは、ロンドンっ子の少女マギーと友達になる。2人はジェムの家の隣に住む、革命を支持するという噂があるブレイク氏に興味を持つ。
ブレイク氏とは、詩人で画家のウィリアム・ブレイク。作中でも次作の詩や絵画を披露している。彼が生きた時代のロンドンの雰囲気、市井の人々の生活、当時フランス革命がイギリスにどのような影響を与えていたのか、生き生きと描かれていて面白い。元々階級社会ではあるが、当時のロンドンは富と貧が狭いエリアですみ分けられており、明暗をくっきり見てとれてしまう。庶民の暮らしは厳しく、下には下がいる世界だ。とは言え、物語はジェムやマギーら、子供達の視点から進む。少年少女の成長物語ブレイクは当時の人たちから(いや現代人からしても)見たら先進的すぎてエキセントリック。近所からも不審者扱いされているし、王制廃止論者なので迫害も受ける。しかしジェムやマギーにとっては自分達と対等に接する数少ない大人だ。ブレイクは相手が子供、しかも抽象的な話や芸術文化に縁のない子供だと言うことを考慮せずに話すのだが、ジェムにとってはそれが視野を広げる手がかりとなる。歴史小説であると同時に、スタンダードな少年少女の成長物語として楽しかった。しかし当時の女性は人生の選択肢が男性以上に限られていて辛いな・・・。

『ブロディ先生の青春』

リュミエル・スパークス著、木村政則訳
 1930年代、エディンバラの女子学校で教鞭をとるブロディ先生は、お気に入りの生徒を集め、芸術や哲学、歴史を個人的に教えていた。「ブロディ隊」と呼ばれる彼女たちは、革新的な教育方針を取るブロディ先生に眉をひそめる校長や他の教師たちにとっては頭の痛い存在だった。10歳だった「ブロディ隊」の少女たちはやがて17歳になり、ある「裏切り」が起きる。
 美人で理知的、博学な(ように見える)ブロディ先生にブロディ隊の少女たちは夢中になり、ブロディ先生も彼女たちに出来る限りの知識を与え、導こうとする。が、それは本当に教育なのか?少女たちは成長するにつれ、当然世界が広がるので、ブロディ先生の知識には偏りがあり、彼女の「正しさ」は一面的なものにすぎないことがわかってくる。個人の自主独立と自由を奨励するはずの彼女の教育は、自分の考えに生徒たちをあてはめ、自分のコピーを作ることにすぎないのではと。それでも彼女らはブロディ先生に愛想をつかすということはなく、先生の実態を察しつつ付き合っていく。多感な時期にインパクトのある年長者と接すると、その影響はずっと残るのだろう。教育者をやるにはそういう危険に自覚的でないとならないと思うが、ブロディ先生にその自覚がない。1人の少女はそこに気付き、ある行動に出る。ブロディ先生はいつでも今が自分の青春だというふうに振舞うが、生徒たちの青春は生徒たちそれぞれのもので、ブロディ先生のものではないのだ。ちょっとした影響力を持ってしまった人は、こういう誤解をしやすいんだろうなぁ。
 様々な時系列、それぞれの体験と妄想が入り混じり、にぎやかでユーモラス。しかしぞわっと怖くなる瞬間がある。特にブロディ隊の1人で妄想力豊かなサンディの妄想こうじての行動にははらはらさせられる。

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