3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『服従』

ミシェル・ウェルベック著、大塚桃訳
2022年の大統領選を控え、投票所テロが起こり報道管制がしかれたフランス。極右国民戦線のマリー・ルペンを破って当選したのは穏健イスラーム政権だった。ユイスマンスの研究者である大学教授の「ぼく」は学長が変わったことで退職をよぎなくされる。
イスラーム政権がフランスで誕生するというなかなか思い切った設定だが、イスラーム政権による政治そのものというよりも、政権が、政治が大きく変化していくのに、国民であるはずの自分が当事者のような気がせず、妙だと思ってもなんとなく変化を見過ごしてしまう、そして受け入れてしまうという無気力感に強い現代性を感じた。今現在のフランス大統領選が引き合いに出され再注目されている作品だが、むしろ今の日本の空気感に通ずるものがある。「ぼく」は自他共に認めるインテリではあるが、自分の知力(と言ってもこの人あまり頭良くない感じなんだけど・・・)でこの世界に太刀打ちできるという手ごたえは全く感じていないようだし、詭弁のような説得にもなんとなく流されてしまう。自分で考えることにもう疲れてしまっているようでもある。国内情勢の変化が彼の年齢上の変化、いわゆる中年の危機と重なっているのも一因か。ゆらぎながら手探りを続けるよりも「服従」してしまった方が楽なのだ。ただ、彼が流されっぱなしなのは、彼が男性だからというのも大きな要因だろう。新しい政府の方針の上では、男性である彼は改宗さえすれば、ぱっと見大きな不利益を被ることがない。「ぼく」がずっと気にしているのは自分の下半身事情だもんな・・・。自分が損をすることがなければ(他の立場の人が不当に扱われたり不利益を被ったりしても)それまでの主義主張は結構簡単に手放してしまうものだというところに、いやーな気持ちになる。そしてウェルベックは相変わらずいけすかないインテリ男の造形が上手いなー。ちょいちょいぶん殴りたくなるタイプである。

『舞台』

西加奈子著
29歳の葉太は、初めて一人で海外旅行に出た。行先はニューヨーク。ガイドブックを暗記して準備万端のはずが、初日に盗難に遭い、財布もパスポートも無くしてしまう。しかし葉太は「初日に盗難」というかっこわるさに耐えられず、警察にも大使館にも届けを出さずにやりすごしてしまう。
こ、これが自意識モンスターか!イタさの裏読みをしすぎだよ!行くところまで行くとこうなるのか!葉太は太宰治の作品に強く共感するように、「道化」としての自分を自覚しすぎてしまう人。頭は悪くないしルックスもいいのに、それが全くプラスに働いていない。周囲にどう見られているのか、どういう自分であれば周囲に不快感を与えないのか気にしすぎてしまう。多分、周囲はそこまで彼のことを気にしていないんだろうけど、そういう問題じゃないんだろうなぁ。私は葉太に共感するところはほぼないのだが、読んでいるうちに、ここまでやらないと楽になれないのかと、段々彼が気の毒になってくる。「イタい」自分には死んでもなりたくないのに、その自意識十分にイタくなってるよ!一見要領いいように見えるんだろういけど、これはこれで、行き難くて大変そう。どういう方向性であれ、自意識との折り合いの付け方は常に厄介だ。

『ブルーに生まれついて』

 1950年代。甘いマスクとソフトな歌声で、ジャズ界のジェームズ・ディーンともてはやされたトランペット奏者チェット・ベイカー(イーサン・ホーク)だが、麻薬に溺れていく。1966年、麻薬がらみのトラブルで顎と歯に重傷を負い再起不能かと思われたが、ジェーン(カルメン・イジョゴ)の献身的な愛情に支えられ、ドラッグを絶ちミュージシャンとして再起を図る。監督・脚本はロバート・バドロー。
 ジャズミュージシャン、チェット・ベイカーの伝記映画というよりも、彼に対するオマージュのような雰囲気だと思う。伝記としてはエピソードが断片的すぎることに加え、ベイカーが主演を務めるベイカーの自伝映画が作中作として挿入されるので、虚実混じった感が強くなる。映画で妻エレインを演じたジェーンが実際に彼のパートナーとなり、自伝映画はベイカーが重傷を負ったことにより製作中止になってベイカーの記憶の中にしかないので、なおさらレイヤーが入り混じる。これはベイカーとエレインの思い出なの?それともジェーンとの思い出なの?と混乱するところも。ベイカーにとっては、2人とも同じような存在なのかもしれないなとふと思った。
 重傷からリハビリを重ね、再起不能と思われていたベイカーが奇跡の復帰を遂げる。遂げることは遂げるのだが・・・。実在の人物だからネタバレも何もないのだが、何とも苦い。確かに大変な努力があったのだろうが、心の弱さはどうしようもないのか。ジェーンとの二人三脚のようなリハビリの過程も、愛が深いとも言えるが依存しているとも言える。彼女には彼女の目標があるということを全く考慮していないということが終盤で露呈してしまい、これまた苦い。才能は確かにあるのだが、弱く脆すぎる。同時代の天才であるマイルス・デイヴィスの存在が大きすぎ、プレッシャーに耐えられなかったというのも、プロとしてどうなのよ!と言いたくなってしまう。マイルスはマイルス、自分は自分というふうには思えなかったんだろうなぁ。情けないのだが、自分が生きる場所がジャズの世界にしかない以上、そこで否定されたら生きていけないというところが痛切。
 イーサン・ホークのどこか弱弱しいルックスが、役柄と合っており好演。トランペットはさすがに吹替え(でも演奏の仕方は特訓したそうで、素人目には違和感はない)だが、歌は本人が歌っている。私はホークにセクシーさを感じたことはなかったのだが、本作での歌声にはぐっときた。この曲、本当にいい曲だったんだなとしみじみさせられた。

『プロローグ』

円城塔著
小説を書こうとしている「わたし」は、執筆にあたり言語表記の範囲を決め、登場する13氏族を制定していく。しかし次々と異常事態が起こり、「わたし」は「わたし」とすれ違いつつ、執筆の為、喫茶店から地方への出張、海外へも出向き、アメリカ・ユタ州で登場人物と再会する。
著者初の「私小説」だそうだが、誰にとっての「私小説」なのか。「わたし」は小説を書こうとしつつ、日本語の構造を解析し、自作を構成する言葉の統計を取ったり、作家が作った物語と、偶発的に言葉の並び替えによって生じた文章とはどう違うと言えるのか思索したり、プログラミングで小説は生成されるのではと考えたりする。小説が、それを構成する言語がどのように構成されているのか、解体しつつシュミレーションしているようだった。「わたし」は何重にも存在し、「わたし」であることにさほど重要性はない。「わたし」にとっての私小説ではなく、「小説」にとっての、どのように生成され構造されていくかという私小説であるように思った。しかし、もっと頭のいい読者だったらより読み込めるんだろうなぁと思うと悔しい!なお、装丁が中身を的確に表していると思う。

『ブレイクの隣人』

トレイシー・シュヴァリエ著、野沢佳織訳
1792年、英国。海の向こう、フランスでは革命の真っ最中で、その熱はロンドンにも飛び火していた。英国南部の村で暮らしていたケラウェイ一家は、ロンドンに引っ越す。家具職人の父・トマスは、大道具係としてサーカス団の興行主アストリーに雇われた。都会の暮らしになかなかなじめない長男のジェムは、ロンドンっ子の少女マギーと友達になる。2人はジェムの家の隣に住む、革命を支持するという噂があるブレイク氏に興味を持つ。
ブレイク氏とは、詩人で画家のウィリアム・ブレイク。作中でも次作の詩や絵画を披露している。彼が生きた時代のロンドンの雰囲気、市井の人々の生活、当時フランス革命がイギリスにどのような影響を与えていたのか、生き生きと描かれていて面白い。元々階級社会ではあるが、当時のロンドンは富と貧が狭いエリアですみ分けられており、明暗をくっきり見てとれてしまう。庶民の暮らしは厳しく、下には下がいる世界だ。とは言え、物語はジェムやマギーら、子供達の視点から進む。少年少女の成長物語ブレイクは当時の人たちから(いや現代人からしても)見たら先進的すぎてエキセントリック。近所からも不審者扱いされているし、王制廃止論者なので迫害も受ける。しかしジェムやマギーにとっては自分達と対等に接する数少ない大人だ。ブレイクは相手が子供、しかも抽象的な話や芸術文化に縁のない子供だと言うことを考慮せずに話すのだが、ジェムにとってはそれが視野を広げる手がかりとなる。歴史小説であると同時に、スタンダードな少年少女の成長物語として楽しかった。しかし当時の女性は人生の選択肢が男性以上に限られていて辛いな・・・。

『ブロディ先生の青春』

リュミエル・スパークス著、木村政則訳
 1930年代、エディンバラの女子学校で教鞭をとるブロディ先生は、お気に入りの生徒を集め、芸術や哲学、歴史を個人的に教えていた。「ブロディ隊」と呼ばれる彼女たちは、革新的な教育方針を取るブロディ先生に眉をひそめる校長や他の教師たちにとっては頭の痛い存在だった。10歳だった「ブロディ隊」の少女たちはやがて17歳になり、ある「裏切り」が起きる。
 美人で理知的、博学な(ように見える)ブロディ先生にブロディ隊の少女たちは夢中になり、ブロディ先生も彼女たちに出来る限りの知識を与え、導こうとする。が、それは本当に教育なのか?少女たちは成長するにつれ、当然世界が広がるので、ブロディ先生の知識には偏りがあり、彼女の「正しさ」は一面的なものにすぎないことがわかってくる。個人の自主独立と自由を奨励するはずの彼女の教育は、自分の考えに生徒たちをあてはめ、自分のコピーを作ることにすぎないのではと。それでも彼女らはブロディ先生に愛想をつかすということはなく、先生の実態を察しつつ付き合っていく。多感な時期にインパクトのある年長者と接すると、その影響はずっと残るのだろう。教育者をやるにはそういう危険に自覚的でないとならないと思うが、ブロディ先生にその自覚がない。1人の少女はそこに気付き、ある行動に出る。ブロディ先生はいつでも今が自分の青春だというふうに振舞うが、生徒たちの青春は生徒たちそれぞれのもので、ブロディ先生のものではないのだ。ちょっとした影響力を持ってしまった人は、こういう誤解をしやすいんだろうなぁ。
 様々な時系列、それぞれの体験と妄想が入り混じり、にぎやかでユーモラス。しかしぞわっと怖くなる瞬間がある。特にブロディ隊の1人で妄想力豊かなサンディの妄想こうじての行動にははらはらさせられる。

『プリズン・ブック・クラブ コリンズ・ベイ刑務所読書会の一年』

アン・ウォームズリー著、向井和美訳
 ジャーナリストである著者は、カナダのコリンズ・ベイ刑務所で読書会を運営するボランティア活動に誘われる。 取り上げる本は、『怒りの葡萄』『またの名をグレイス』『ガラスの城の子供たち』等、小説からノンフィクションまで幅広い。読書会の1年を追ったドキュメント。
 読書は1人でするものだが、複数でその本について話し合う読書会でなければ得られないものもある。自分と違う読み方をする人の話を聞くことで、その本についての理解がより深く広くなる。自分の思考の外側に手が届くとでも言えばいいのか。読書が直接的に囚人の更生の役に立つのかどうかは何とも言えないが、自分について、また周囲の人たちについて考えそれを言語化し整理する力はつくだろうし、それが立ち直りの手助けになったりはするのだろうと思う。実際、参加している囚人たちの中には、どんどん深い読み方をし、それを文章にしていく人たちもいる。物事を色々な方向から見るということに慣れていくのだ。
 著者に関しても同様で、自分の読み方と、囚人たち(というか自分以外の全ての人)の読み方は違うのだと折に触れて確認していく。どちらが正しいというわけではなく、どちらの読み方もできるから読書は素敵なのだろう。読書会は、様々な読み方に触れる機会なのだ。読書会の司会者が「この作品のテーマは?」と問うのはその様々さをないがしろにすることではないかと気になったが、読書に慣れてない人にとっては、ひとつのテーマがあると仮定した方が読みやすい(読んでいて納得しやすい)のかもしれない。
 人はなぜ本を読むのか、読書にどんな意義があるのかという疑問への回答となっている作品だと思う。閉塞した環境でプレイバシーも乏しい刑務所の中では、読書はある種の避難所のようなものでもある。これは刑務所の外の世界でも同じだろう。カナダの刑務所事情や囚人をめぐる社会状況が垣間見えるところも面白かった。

『ヴィクトリア』

 3か月前にスペインのマドリードからベルリンにやってきたヴィクトリア(ライア・コスタ)。クラブからの帰り道で、リーダー格のゾンネ(フレデリック・ラウ)ら4人の地元の若者に声を掛けられる。お互いぎこちない英語で会話を交わすうちに意気投合し、楽しい時間を過ごすが、若者の1人ボクサーが請け負った「仕事」のことで、ヴィクトリアは運転手をしてほしいと頼まれる。監督はセバスチャン・シッパー。
 全編140分ワンカットで撮影されたという話題だけが先行していたので、映像はいかにも「どや顔」しているのかなと思ったら、事前に知っていないと(少なくとも私は)ワンカットだと気づかなかったかもしれない。見ている間、ワンカットだなということはいちいち意識しなかった。つまり、ごく自然に撮られているように見える。もちろん140分をワンカットで撮ること自体は相当難しく面倒くさいだろうから、撮影の技術が高い、役者の動きもいいということなのだろう。これは意外だった。もちろん奇をてらってみようとかあえて難しいことに挑戦してみようという意気込みがあってのことだろうが、それが鼻につかない。
 本作、ヴィクトリアが運転席に座ってからの展開は、「えっそっちの方?」という意外性はあるものの、ストーリー自体はかなりシンプルだし捻りはない。また、ヴィクトリアをはじめとする登場人物の行動はあまりに計画性がなく、頭が悪く見える。140分を一気に駆け抜ける構造でなければ、かなりうんざりしたかもしれない。そこを含んでのワンカットというわけでもないだろうが、ヴィクトリアの巻き込まれ型ヒロインという側面と、考えなしで勢いだけで突っ走っていく若者たちの青春劇という要素に、撮影方法がうまくかみ合っていたのだと思う。
 ヴィクトリアはベルリンに来たばかりで友達がまだいないと話す。ゾンネたちとのパーティーは、彼女にとって久しぶりな屈託なく楽しめる時間だったのだろう。冒頭、ヴィクトリアがゾンネたちに話しかけられるシーンで、真夜中に複数男性から声を掛けられる(まあナンパされる)という状況で警戒しないのかなと思ったのだが、それだけさびしかったということかもしれない。もっとも、彼女の行動はその後も聡明とは言い難いものだ。しかし、追い込まれたヴィクトリアは機転がきくところを見せる。ホテルでの行動からも、経済的に安定した家庭(そこそこいいホテルで食事したり泊まったりすることに慣れているくらいの)の育ちなのかな?と窺える。彼女の背景についてはさほど具体的には語られないが、行動の端々に見え隠れするところが面白かった。

『分解された男』

アルフレッド・ベスター著、沼沢洽治訳
24世紀、人の心を透視するエスパーの出現により、犯罪の隠ぺいはおろか、計画すら不可能になった世界。王国(モナーク)物産のニューヨーク本社社長ベン・ライクは、ライバルである巨大コングロマリットの社長ド・コートニー殺害を目論み成功する。刑事部長パウエルは不可能と思われていた犯罪の真相解明に乗り出す。第1回ヒューゴー賞受賞作。1953年の作品なのだが、意外と古びていない。心や記憶を読まれてしまう世界で、犯罪の計画や記憶をいかに隠ぺいするかという部分は案外大雑把だなという気もしたのだが、犯罪の記憶を「読んで」もそれだけでは有罪扱いできず、物理的に立証しなければならないというミステリとしてのロジック上の縛りがあるところが面白い。終盤まで、この点は意外とブレないのだ。SF設定だけど雰囲気は悪漢小説(あくどいがどこか筋が通っているライクのキャラクターは魅力的だ)とか警察小説に近く、SFとしてのスケール感は終盤にまとめて襲ってくる。ここは確かに圧巻なのだが、ぎりぎりでこのネタ出すんですか・・・。何だか希望に満ちた雰囲気のラストのように見えるが、これって結構なディストピアなのではないだろうか。

『ふむふむ おしえて、お仕事!』

三浦しをん著
作家である著者が、15職業16人の女性に、その仕事についてインタビュー。靴職人、染色家、漫画家アシスタントやビール開発、動物園の飼育係等、様々な職業の人が登場する。聞き手である著者の姿勢が、素直に好奇心が現れているもので、意外と聞き上手なのかもしれない。子供の頃からこの職業になりたかった人もいるし、紆余曲折あってこの職業に辿りついたという人もいるが、仕事への姿勢は皆真摯で、追求心があるという点では共通している。うーん、私は一つのことを追求するのが苦手なので、というかそもそも働くのが嫌いなので何だかうらやましい・・・。仕事を好きと言えるというのは、姿勢の問題というより資質の問題のような気がしてきた。一番面白いなと思ったのは、鎌倉のお土産屋さん。何でお土産屋さん?というところからして、あまり肩に力が入っていなくていい。文庫版では登場してくれた人たちのその後にも言及されている(仕事だから、当然転職とか配置換えとかがあるし、結婚や出産もある)ところも、それぞれの人生が続いているなとうれしくなる。なお、文庫版には解説(著者によるものではない)がついているのだが、これがどうにも的外れだった。男性へのインタビュー/男性のインタビュアーはつまらないという言及があるのだが、それは男女関係なく下手なインタビューだったというだけでは・・・。
 
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