3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『ピンポン』

パク・ミンギュ著、斎藤真理子訳
 中学校でいじめられ続けている「釘」と友人の「モアイ」。2人は原っぽで卓球台を見つけ、卓球に興じるようになる。卓球用品店主セクラテンに卓球史を伝授され、ハレー彗星の到来を待つが、ハレー彗星ではなく巨大なピンポン玉が下降してくる・・・
 本の背表紙にあらすじが紹介されているが、なんとこのあらすじ終盤までの展開をほぼ全て説明しちゃっている!ただ、それでも全く問題ないと思う。というよりもあらすじから想像するのとは大分違う感触の作品なのでは。確かに終盤は超SF的な展開になるが、それまでは語り手である釘とモアイの辛い学校生活が延々と続くのだ。いじめっ子チスとその取り巻きの悪質さ、それに対する釘とモアイの対抗できなさはひょうひょうと書かれているものの生々しく辛い。対抗する意思が奪われちゃうんだよなと。チスがちょっといい奴っぽい面を見せてもその後、やっぱりこいつクズだな!という振る舞いになるあたりはリアルだと思う。
 釘らの生活も、彼らと比較的親しくなると言えるセクラテンの生活も、どこか悲哀と諦念を帯びている。彼らは皆、この世からのはぐれもののようなのだ。モアイの従兄弟が好きだった作家の小説が作中作として紹介されるが、その内容もまた世界からずれた人たちの話だ。釘によると自分らは世界に「あちゃー」された存在。この言い回しのニュアンスが本当に上手いし翻訳も素晴らしい。そんな彼らが世界の命運を握る。継続するのかアンインストールするのか、釘の決断を見てほしい。

ピンポン (エクス・リブリス)
パク・ミンギュ
白水社
2017-05-27


カステラ
パク ミンギュ
クレイン
2014-04-19



『ビューティフル・デイ』

ジョナサン・エイムズ著、唐木田みゆき訳
 元海兵隊員のジョーは、人身売買された女性の救出を専門とするフリーランサー。ある日、仲介役のマクリアリーから、誘拐された上院議員の娘の救出という案件が入る。娘が働かされている娼館を見つけ、首尾よく侵入したものの、思わぬ邪魔が入る。娘の誘拐の背後には更に大きな陰謀があった。
 私がすごく好きなタイプの小説だった!1行目から香り高く味わい深い。ストーリーは殺伐としており文章はクールだが、訳者解説でも言及されているように所々に乾いたユーモアがある。文章のちょっとしたところにぐっとくる。これは翻訳もいいんだろうなぁ。
 ジョーの振る舞いは徹頭徹尾真面目なのだが、バカ真面目感がある。徹底したプロとしての、時に融通が利かないようにさえ見える振る舞いがそう感じさせるのだ。もちろん、身を守ることを考えてそういう行動になっているのだが。ジョー当人は自分はちょっと狂っている、まともではないが何とかまともに見せているという自覚を持っている。彼の行動は暴力的だが、ある部分では自分をまともさに留め置くためのもの、彼にとっての良識の発露でもあるように思える。というよりも、彼以外があまりに下衆で悪辣だ。多分ジョーは、当面自殺衝動からは遠のいていられるのではないか。怒りが自身の苦しみを忘れさせるのだ。ごく短い(ハヤカワ文庫にあるまじきぺらぺらさ)作品なのだが中身は濃密だ。あと、やっぱり金槌は強い。手斧も推したいが、入手しやすさ・携帯しやすさでは金槌に負けるな。

ビューティフル・デイ (ハヤカワ文庫NV)
ジョナサン エイムズ
早川書房
2018-05-19


『羊と鋼の森』

宮下奈都著
 山で育った外村は、高校生の時に学校のピアノの調律を目の当たりにし、自身も調律師を目指す。専門学校を卒業し、調律師として江藤楽器店に就職した外村は、先輩調律師の柳や、調律を目指すきっかけとなったベテラン調律師の板鳥と働くようになる。2016年、第13回本屋大賞受賞作。
 外村は山で育ち、世間知らずと言えば世間知らずで自分の世界が狭い。しかし彼は山のイメージ、森のイメージを生活の中でもピアノの音に対しても持ち続けており、そういう面では世界に広がりがある。・・・というふうに描きたかったのかもしれないが、どうにも浅いし薄い。どういう音を目指しているのか、ここでどういう音楽が流れているのかという説得力が希薄。双子の少女の演奏に対する姿勢もやたらとあっさりとしており表層的に思えた。どろどろしていればいいってものではないが、薄味すぎでは。ふわふわとしたイメージの断片を繋げただけで、軸となるものが弱い気がする。調律の専門学校ではどういう勉強をするのか、調律作業がどういう手順で行われるのかという具体的な部分は悪くないが。

羊と鋼の森 (文春文庫)
宮下 奈都
文藝春秋
2018-02-09






『羊飼いの暮らし イギリス湖水地方の四季』

ジェイムズ・リー・バンクス著、濱野大道訳
 イギリス湖水地方で600年以上続く羊飼い一族に生まれ、。オックスフォード大学を卒業後、家業を継いだ著者。1年を通した羊飼いの仕事、伝統的な飼育法と現代のテクノロジーとの兼ね合い、そして湖水地方の四季を語る1冊。
 湖水地方というと美しい自然、伝統的な生活というイメージで見てしまう。でも現地で実際に「伝統的な生活」をしている人からすると、外野が何自然保護とか言ってるんだよ!って話なんだよなぁ。著者の言葉からは、代々の住民の暮らしの場としての湖水地方と、ツーリストにとっての湖水地方のギャップが見えてくる。そこで暮らす人にとっての自然保護と、国や自然保護団体にとっての自然保護は必ずしも一致しないのだ。ツーリストたちが湖水地方を自分たちが発見したもののように扱うのは、元々住んでいる人にとってはやはり奇妙なものだろう。
 著者は幼い頃から羊飼いになるつもりで、学校も途中でドロップアウトした。しかし祖父の引退により父親との関係がぎくしゃくしはじめたことがきっかけで、文学の世界に興味を持ち、オックスフォード大学に進学(学校への不適応や文字を書くことの困難さへの言及からすると、多少発達障害的な部分のある人なのかなという気もする)したという紆余曲折のあるキャリアを経ている。本作、羊飼いの仕事や湖水地方の自然の描写はもちろん面白いのだが、著者と祖父、父親との関係を追う、ビルドゥクスロマンとしての側面もある。祖父という絶対的な親愛と尊敬の対象がいたことで、父親との関係が更に拗れていくのがわかるし、著者本人にもその自覚がある。文学という(家族とは共有しない)自分の世界が出来たこと、進学により一旦家業と距離を置いたことで関係が修復されていくというのは、親子関係のあり方として何かわかる気がする。どこかの時点で自分の核を作るスペースが必要なんだろうなと。

羊飼いの暮らし イギリス湖水地方の四季
ジェイムズ リーバンクス
早川書房
2017-01-24






『独り居の日記』

メイ・サートン著、武田尚子訳
アメリカの詩人・小説家である著者が、世間と距離を置き片田舎で一人暮らしをしていた時代の、約1年間に綴った日記。著者は60年代後半に同性愛者であることをカミングアウトしたが、そのため大学の職を追われ、更に父親を亡くし、失意の中にあった。そんな中で、自分を徹底的に見直す手がかりとして書かれた文章が本著ということになるのだろう。世間から離れた暮らしとは言え、仙人のように何かを悟ったという風ではなく、著者はしばしば癇癪をおこす(自分でも作中で言及しているが、どうもかっとしやすい性格だったようだ)し、頻繁にしょげる。そういう気分の浮き沈みや自分のみっともなさを(おそらく)ちゃんと記しているところに、作家としての強さ、冷静さがあるのだと思う。自分の思考、感情と著作に対する誠実な態度が随所から窺えるのだが、それ故に文章を書くことの苦しさも常にある。また、自著に対する書評が芳しくなく落ち込んだり、好評に気を良くしたりする様は意外だった。全然超然とした人ではないんだなと。著者は本著を執筆中、物理的に他人と距離を置いて孤独を確保していたわけだが、精神的にも、どんなに親しい人や愛する人であっても立ち入らせることができない領域がある。著者の生活や、時折言及される身近な人との軋轢からは、そういう領域の存在を感じた。他人には(なまじ親密であればあるほど)なかなか理解されにくいことなのかもしれないが。

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『ビビビ・ビ・バップ』

奥泉光著
ジャズピアニストのフォギーこと木藤桐は、世界的ロボット研究者の山荻から、電脳空間内の「墓」の音響調整を依頼されていた。加えて山荻は、自分の「葬式」でピアノを演奏してほしいと頼む。その頼みがきっかけで、フォギーはとんでもない事件に巻き込まれていく。
電子情報が全て死滅した「パンデミック」後に再び都市が創設されたという、21世紀を舞台にしたSF的冒険活劇、なのだが山荻のレトロ趣味のせいで電脳世界内に1960年代新宿が出現し、実在した伝説的ジャズミュージシャンたちのアンドロイドによるセッションが実現し、更に有名落語家たちや歴代棋士のアンドロイドも登場するという、未来と過去(と言っても複製だが)が入り混じる賑やかさだ。1960年代の新宿には有名人も次々ゲスト出演してきて、山荻氏結構ミーハーだったのねという気分にも。このあたりの知識が豊富な人が読めばより楽しいのだろう。語り口調の軽妙さに加え、フォギーが呑気かつ流されやすい性格なので、緊急を要する事態なのに一向に緊急感が出てこないあたりがおかしい。高度に情報化され肉体も様々に調節できる科学技術が普及した、いかにもSF的な世界だが、それは一定水準以上の経済力を持つ層のみ(つまりフォギーもそこそこ富裕層なのだ)で、その下にはいまだに肉体労働に勤しむ貧困層が広く厚く存在するという、かなり極端なディストピア格差社会になっていることが垣間見えるあたり、うっすらと寒くなる。そういう層は存在しないかのように登場人物たちの営みが行われているだけになおさらだ。なお本作の語り手は猫型アンドロイド。AIの方が世界を俯瞰しているのだ。

『ヒッチコック/トリュフォー』

 フランソワ・トリュフォーによるアルフレッド・ヒッチコックのインタビュー集であり、映画の教科書として名高い『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』。当時のインタビューの音声(動画はない。インタビュー当時も写真のみの撮影だったようだ)や、マーティン・スコセッシやウェス・アンダーソン、クリストファー・ノーランら、現在活躍している監督たちへのインタビューにより構成されたドキュメンタリー。監督はケント・ジョーンズ。なお日本語字幕は日本における『定本~』の翻訳者、山田宏一が担当している。
 私は『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』は未読なのだが、なぜヒッチコックとトリュフォーなのかということは前々から不思議に思っていた。ヒッチコックの作家性を世に知らしめたのがトリュフォーということだったのか。それまでヒッチコックは職人的な監督、商業監督という認識だったのだろうが、トリュフォーはヒッチコックの技法を分析し、本人に確認していく。その技法が後々どのように見られ、影響を与えてきたのかを、現代の監督たちが語る。私はヒッチコックに対してトリュフォーに対しても熱心な観客ではないし、映画の技法面にも疎いので何だか申し訳ない気分にもなったが、とても面白かった。ヒッチコックの演出、画面の作り方はシステマティックでもあるのだが、それを極めていくと実にヒッチコックぽい、というスタイルになる。
 いいインタビュアー、聞き手というのはどういうものか、ということを見ながら考えた。単に聞き上手なだけではだめだろう。トリュフォーはヒッチコックへのインタビューの際、時間をかけて入念に下準備をしてから臨んだそうだ。インタビュー対象(とその作品)に対する知識はもちろん、映画というジャンル全体について知識がある、かつ映画だけではなく様々な引出しがあって相手の反応に応じて取り出せる、という状態があってこそのインタビュー・・・だとすると大分ハードルが高い。しかしその高いハードルを越えてきたから、ヒッチコックはトリュフォーを信頼し話をしたのだろう。相手が自分(と自分がいる分野)のことをわかってるな、よく見てくれてるなと思えれば、そりゃあ積極的に話したくなるよな。色々なインタビューを読んでいても、分野に関わらずいいインタビューってインタビュアーの知識が広いし深いケースが殆どだと思う。

『拾った女』

チャールズ・ウィルフォード著、浜野アキオ訳
ある夜、サンフランシスコのカフェに現れた小柄なブロンドの女。ヘレンと名乗る彼女は、ハンドバックをどこかで無くしてお金の持ち合わせもないと言う。カフェの店員ハリーは、泥酔している彼女に金を貸し、適当なホテルまで送り届けた。翌日、金を返しにやってきたヘレンと会い、ハリーは衝動的に店を辞め、彼女と同棲を始める。しかしアルコール依存症のヘレンとの生活はすぐに破綻し、2人は死の誘惑に抗えなくなる。1954年に発表された巨匠の初期作品が待望の邦訳だそうだが、著者の作品を読むのは本作が初めて。途中までは破滅的なボーイミーツガール(ボーイやガールという年齢ではないが)であり、ボニー&クライドみたいなことになっていくのか?と思っていたら、中盤以降、あれ?という方向にずれこんでいく。そして最後、はっとした。このラストで、これまで見ていた景色ががらりと変わってしまう。ハリーが捨て鉢すぎやしないか、また彼とヘレンに対する周囲の反応に微妙な違和感を感じていたのは、そういうことでもあったのかと。本作はいわゆる謎解きミステリの体裁ではないが、このラストが一大トリックになっている。そして、これがトリックとして成立してしまうということが、なぜ思いが至らなかったのかと読者を責めるのだ。

『美術館の舞台裏 魅せる展覧会を作るには』

高橋明也著
美術館の運営、展覧会の企画開催は具体的にどのような内容なのか、日本の展覧会開催の特徴とは?学芸員、キュレーターの仕事はどのよう なものなのか、三菱一号館美術館の初代館長である著者による、「美術館の仕事」の紹介とでもいうべき新書。美術館に行くことは度々あっても、その内情につ いてはそれほど知らなかったので、なるほどなーと色々興味深かった。美術館内での業務ってほんと幅広くて諸々だ。これを学芸員が全部担うのって(向き不向 きもあるし)大変。研究職的な側面のイメージが強い職種だと思うが、実際は企画広報とか営業に近い業務の占める割合が大きいんじゃないかな。海外における 美術館のトップに求められる資質の違いの比較が面白い。アメリカの場合、マダム受けの良さが必要だとか。なぜなら資金の多くを寄付金が占めているからだと か。イタリアでは政治的な側面が強いというのも面白い。地方ごとの独立性が高くてその地方の政治と結びついた人材がトップに立つことが多いんだとか。だか ら日本でイタリアの美術館から作品を借り受ける時、複数の地方(ミラノとローマ両方みたいに)と交渉するのは難しいそうだ。これは新鮮だった。これらに比 べると日本の美術館の地位は著しく低いな・・・。なお、一番びっくりしたのは海外から作品を運搬する時の費用。イヤー大変!

『独りでいるより優しくて』

イーユン・リー著、篠森ゆり子訳
生まれ育った中国に暮らしビジネスマンとしてそこそこ成功した泊陽(ボーヤン)は、年上の幼馴染、シャオアイの死を同じく幼馴染の黙然(モーラン)、孤児でシャオアイの家に寄宿していた如玉(ルーユイ)にメールで知らせる。しかし2人から返事はない。シャオアイの心身を損なった事故には、かつて3人が関わってしまったかもしれないのだ。実に上手い、しかしだからこそやりきれない。泊陽はシャオアイにつなぎとめられるかのように国に残り、黙然と如玉は彼らから距離を置くかのように渡米する。しかし、お互いにお互いを忘れることはできないと悟り、地に足を付けた幸せを手に出来ずにいる。ただ、たとえ過去の事件がなければ彼らにまた違った関係があったのかというと、どうもそうではなさそうな気もする。泊陽は如玉に思いを寄せ、黙然は明らかに泊陽に片思いをしていたが、彼らの関係はそこからどうにも動かなかったのではないかと思う。アメリカに渡った如玉は家事の手伝いやシッターをして生計を立てているが、仕事先の女主人やその夫が、中国での生活や渡米した経緯、死んだ友達との関係を尋ねてくるのを、不思議がり、疎ましがる。他人の背景などなぜ知りたがるのか、それが彼女にとって重要なことだろうとなぜ決めつけるのか。彼女が彼女の物語を持っていることを期待する、物語があって当然と期待するのはなぜなのか。そもそも、なぜそれを他人に話さねばならないのか。如玉はそういったものを必要としない人なのだ。過去の事件があろうがなかろうが、彼女はそういう人だろうし、それゆえ泊陽や黙然と一緒にいても、相手により孤独を感じさせることになっただろう。彼女にとって、「独りでいるより優しく」とはならないのだ。

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