3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『白骨 犯罪心理捜査官セバスチャン』

M・ヨート&H・ローセンフェルト著、ヘレンハルメ美穂訳
 トレッキング中の女性が山中で白骨死体を発見した。掘り起こされた遺体は6体。頭蓋骨に銃弾があり、他殺と見られる。トルケル率いる殺人捜査特別班は、犯罪尻学者のセバスチャンを伴い、現地に赴いた。一方、移民の女性シベカは夫の失踪の真実に関する手がかりを求め続けていた。
 (物語の都合上)どこかに繋がりがあるはず、でもどういう形で繋がるのか?という謎の提示で引っ張る。シリーズ1,2作目とは事件の背景、方向性は大分異なるが、より今の時代ならではの事件と言える。これは、トルケルらにしてみたら憤懣やるかたないというか、納得できないよな・・・。そして事件はさておきセバスチャンの暴走には拍車がかかっている。ある願望で目がくらみ、理性がおろそかになっているのだ。本作には彼の他にも理性がおろそかになっている人、判断力が鈍っている人がちらほら(どころではなく)登場し、やはり暴走、ないしはちょっと調子をおかしくしていく。彼らの根っこにあるのは孤独と自己顕示欲、必要とされたいという切実さではないか。これ、この先どうするのよ・・・というすごい終わり方をするので唖然。ここで終わるか!




『犯罪心理捜査官セバスチャン(上、下)』

M・ヨート&H・ローセンフェルト著、ヘレンハルメ美穂訳
 心臓をえぐりとられた少年の死体が発見され、トルケル・ヘーグルンド率いる国家刑事警察の殺人捜査特別班に救援要請が出された。4人の敏腕捜査官の元にトルケルの判断により合流したのは、犯罪心理捜査官のセバスチャン・ベリマン。有名かつ有能な心理学者で著作も多々あるセバスチャンだが、自己顕示欲が強く他人を見下し、セックス依存症という厄介者だった。
 前述のようにセバスチャンは自己顕示欲が強くて(女たらしであるということを割愛しても)面倒くさい男なのだが、本作に登場する主要な人たちは概ね自己顕示欲が強い。特に鑑識官のウスルラと刑事のヴァニヤにはその傾向が顕著だ。なまじ優秀な人たちなので他人からコケにされることが許せない、でも他人をコケにし見下すことには抵抗がない(というか無意識)という、セバスチャンに通じる厄介さを持つ。全編敵味方問わずマウンティング合戦が繰り広げられるのだ。事件本筋よりむしろそこが怖いよ!一緒に働きたくない!能力ないのにマウンティングに乗り出してくるうっかりさんもいるしな・・・。そして最後に驚愕の事実が明らかになり次作への引きもばっちり。著者チームは元々ドラマ脚本家だそうで、納得。




『母の記憶に』

ケン・リュウ著、古沢嘉通他訳
 不治の病にかかった母は、できるだけ長い間娘を見守る為ある選択をするが、それは娘と母とを隔てていくものでもあった。表題作を始め、ケン・リュウ版『羆嵐』とでもいうべき(しかし更にひねりのある)『烏蘇里羆』、疑史小説であり歴史の語り直しのような『草を結びて環を銜えん』『訴訟王と猿の王』『万味調和 軍神関羽のアメリカでの物語』、SFハードボイルド『レギュラー』(かっこいい!)、SFネタとして王道な『シミュラクラ』『パーフェクト・マッチ』など、16篇を収録した短編集。
 実に多作!短編を量産する一方で長編もばんばん書いてるもんなー。本作では表題作が短いながらもやはり印象深い。親が先に死ぬというのは自然なことではあるが、その一方でいつまでも若々しく元気な姿でいてほしい、自分より先に死んでほしくないという気持ちが(私には)ある。なのでこの作品の母親の行為は愛として受け止められるけど、これが気持ち悪い、非常に違和感を感じるという人も絶対いると思う。その気持ち悪さ、違和感を逆に前面に出したのが『シミュラクラ』だろう。愛故の行為が親と子を逆に隔てていく。親と子、世代と世代の狭間を描く作品が印象に残る短編集だった。そういった作品や時代小説的なものとは一風違うが、最後に収録された『『輸送年報』より「長距離貨物輸送飛行船」』が一番好き。大きなドラマがあるわけでもなく、飛行船とその内部、そして操縦士夫婦の生活描写に終始しているのだが、人と人との普遍的な関わりに言及されている。機械の細部の描写も魅力。





『バルコニーの男 刑事マルティン・ベック』

マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー著、柳沢由実子訳
ストックホルム中央の公園で、暴行され下着を奪われた少女の死体が発見された。彼女は前年、不審な男に話しかけられたことを警察で証言していた。その2日後、別の公園でまた少女の死体が発見される。果たして連続殺人なのか?公園で多発している強盗事件と関係はあるのか?刑事マルティン・ベックらは事件に取り組むが、手がかりは乏しく捜査は行き詰っていく。
角川文庫は、マルティン・ベックシリーズを新たに全巻発行する予定なのかな?だとしたらうれしいなー。本作はシリーズ4作目。スウェーデンの元祖警察小説、警察小説の金字塔と言われるだけのことはあり、安定した面白さがある。警察の捜査に焦点を当てた作品なので、いわゆるどんでん返しミステリ的な派手さはないのだが、地道な捜査の中で点と点がつながる瞬間や、「仕事」としての捜査のしんどさや刑事たちの人間模様等、地味ながら読ませる。慢性的な人員不足で全員疲労困憊というところには、先日読んだ『フロスト始末』(これはイギリスの話だけど)を思い出した。どこの国でも警察は大変だ・・・。また犯人がやったことは到底許されることではないのだが、本作の犯人の描写を読んでいると何だか悲しくなってきた。ここに至るまでに(特に現代であれば。本作は60年代の話だから)何か軌道修正することができたんではないかと。こういう人が行き着く先って、これしかないんだろうかとやりきれなくなる。なお、殺人犯対する恐怖から市民が自警団を結成して怪しげな人物を買ってに取り締まることに、ベックは強い憤りを見せる。ここに警官としての責任感と、司法国家とはどういうことかという自覚が見えた。

バルコニーの男 刑事マルティン・ベック (角川文庫)

マイ・シューヴァル
KADOKAWA
2017-03-25


刑事マルティン・ベックロセアンナ (角川文庫)
マイ・シューヴァル
KADOKAWA/角川書店
2014-09-25

『バッドエンドの誘惑 なぜ人は厭な映画を観たいと思うのか』

真魚八重子著
 世の中にはいわゆる「バッドエンド」、後味の悪い映画がたくさんある。後味の悪さも千差万別。その「厭さ」を分類し何が厭さをかきたて、同時になぜ人は厭な映画を観てしまう、あまつさえそれに癒されることすらあるのか読み解く映画評集。
 厭映画の分類の仕方に納得の技がある。そしてこまかいセクションの名称がパワーワードの連打で痺れる。第一章「バッドエンドの誘惑」内には「神は人の上に人を作った」、「絶望の長さ」、「報いなし」と飛ばしてくるし、更に国別厭な映画集(映画ファンなら予想の付く人もいるだろうが、厭映画充実度はデンマークがぶっちぎりである。北欧映画の厭さは一味違うぜ・・・)、第三章「女と子供」では、あの映画しかないだろう!という「幼女の嘘で村八分」、厭映画の定番とも言うべき「こども受難映画」等、てらいのない盛りの良さ。厭さでお腹いっぱいである。とは言え、紹介されている映画の半分近くを見ていることがわかったので、私は多分バッドエンドが嫌いではないし、厭な映画でないとカバーできない心の傷、というと大げさだけど陰りみたいなものってあるんだろうなと実感した。本著、その映画の何がどう「厭」なのか、その「厭」さの背景には何があるのかということに焦点を置いて丁寧に読み解いており、大変面白かった。読み手に対して過剰に立ち入らないが寄り添う感じの距離感が保たれており、真摯さがあると思う。

『バンディーニ家よ、春を待て』

ジョン・ファンテ著、栗原俊秀訳
 イタリア系移民のスヴェーヴォ・バンディーニとその妻マリア、14歳のアルトゥーロ、12歳のアウグスト、8歳のフェデリーコという3人の息子から成るバンディーニ家。一冬の家族の姿を描く、著者の自伝的小説。
 主にスヴェーヴォ、マリア、アルトゥーロの視線から語られるが、3人とも気分の浮き沈みが激しく、ちょっと痙攣しているような文体だ。特にスヴェーヴォとアルトゥーロは良くも悪くも、熱狂的な所があり、エネルギーに満ち溢れており騒がしい。また、3人とも視野が広いとは言い難い人たちなので、その世界の狭さが息苦しかった。経済的に困窮しているという息苦しさと、夫婦関係、家族関係に行き詰っている息苦しさが入り混じっているのだが、そのどちらもこれ以外に生きる方法を知らない、ここ以外にどこも知らないというどん詰まり感により拍車をかけられているように思った。スヴェーヴォのキャラクターは強烈だ。煉瓦工事職人としての矜持はあるが、怒りっぽくて計画性がなく、父親としても夫としてもおおよそ役に立ちそうもない。しかしそんな彼をマリアは愛し、アルトゥーロは誇りに思っている。彼の「男らしさ」は彼自身の首を絞めることになりかねないのだが、妻にとっては執着の対象、息子にとっては憧れなのだ。それが何だかやりきれなかった。スヴェーヴォには良き夫・良き父であろうという意欲はあるのだが、毎回自分で台無しにしてしまう。無学であることへのコンプレックスと労働者としての誇り、イタリア移民であることへの引け目と自分の民族に対する誇りが彼の中でせめぎあっており、それが時に爆発する。彼自身が、何で自分が爆発するのか、自分の中のせめぎ合いが何なのかよくわかってないのだろう。全編、彼(だけでなくマリアやアルトゥーロ)の苛立ちと怒りが根底に流れているように思った。

『薔薇の奇跡』

ジャン・ジュネ著、宇野邦一訳
メトレー少年院を経てフォントヴロー中央刑務所に収容された「僕」は、そこで出会ったアルカモーヌ、ビュルカン、ディベールという美しい囚人たちのこと、そしてそこでの生活を回想する。著者の自伝的な要素が強いと言われる作品。ジュネと言えば本人も元泥棒で何度も投獄されており、かつ同性愛者であるということばかりが知られている気がするし、私もまずはそのイメージを思い起こす。今回、光文社古典新訳文庫版で読んだのだが、新訳だとかなり読みやすくなっている。過去の訳から受ける印象よりもかなり明瞭で理性的。確かに幻想が入り混じり時にナルシスティックではある(そして性的な部分はあけすけ)のだが、そこに溺れず、更に俯瞰するような冷静さがあると思う。幻想も陶酔も、監獄での(おそらく不愉快な)体験をねじ伏せて自分のものとするためのフィルターではないか。章だてがされておらず、メトレーとフォントブローの思い出が前置きなく入れ替わるので、読む側は今どの時代のことを読んでいるのか、誰についての記述なのか混乱するのだが、それも織り込み済みだろう。巻末の解説でも言及されているように、アルカモーヌ、ビュルカン、ディベールは3人の別人ではなく同じ人物のように思えてくる。著者のイメージの中の荒くれ者、少年のイデアのようなものに見える。

『ハイキャッスル屋敷の死』

レオ・ブルース著、小林晋訳
犯罪解決の実績を持つ歴史教師キャロラス・ディーンは、校長から調査を頼まれる。校長の友人ロード・ペンジに、殺害を示唆する脅迫状が送り付けられたというのだ。更に数日後、ペンジの秘書がペンジのオーヴァーを着た姿で射殺された。ディーンはペンジ一族が住むハイキャッスル屋敷に滞在することに。
1958年に発表されたイギリスの本格ミステリ。わけありの一族、古めかしい屋敷、不可解な犯罪、そして関係者一同に会しての謎解き。本当に由緒正しい本格見ミステリという感じでどこか懐かしい(実際50年代の作品なのだが)。謎解きを先延ばしにしているうちに被害が広がる様などもはや様式美。こういうのってやっぱり楽しいなぁ。トリックの一部が物理的にちょっと難しいんじゃないかという気はしたが・・・。ただ、事件の真相と犯人の動機は、ある人にかかっていたプレッシャー、責任の大きさを感じさせ痛ましい。なお、屋敷で出される食事が毎食やたらと豪華で、これ一日3回食べるってイギリス人はどういう胃袋持ってるのと思っていたら、ディーンがげんなりしていたのでやっぱり多すぎらしい。

『白鯨(上、中、下)』

ハーマン・メルヴィル著、八木敏雄訳
 アメリカ東部のナンケットにやってきたイシュメールは、宿屋で同宿した南洋の銛打ちクイークェグと共に、捕鯨船に乗り込む。その船の船長エイハブは、かつて白いマッコウクジラ、モビー・ディックに片足を食いちぎられ、その白鯨への復讐に燃えていた。1851年に発表された作品だが、アメリカ文学を代表する作品であり、世界の十大小説のひとつとも言われている。同時に、日本語訳は文体がかなり読みにくいとも聞いていたので、今まで億劫がって手に取らなかったのだが、ようやく読んでみた。危惧していたよりはずっと読みやすく、それほど込み入った文体ではない。読みにくいと言われるのは、複数の文章表現の形式が混在しているからではないかなと思った。いわゆる「お話」の部分に限っても、イシュメール視点を中心に、各登場人物のモノローグによるパートや、ちょっとミュージカルのような(歌曲のような)パート等、「語り」の形式は複数ある。語りのトーンも、勇壮な叙事詩のようであったり、ホラ話的であったり、怪談のようであったりと次々変化していく(メルヴィルは、冗談好きというか、笑いのセンスがある人だったように思う)。さまざまな文学の形式を本作に全部入れてみたいという試みだったのではないか。
 また、鯨の生態や身体構造、また捕鯨のやり方や捕鯨船の構造に関する博物誌的なパートがやたらと長い。捕鯨に関しては、舞台が捕鯨船だからまあわかるのだが、鯨の品種をひとつひとつ挙げていかれると、ちょっと飛ばさせてもらおうかな・・・という気分にはなる。しかし、この部分が重要なのだと思う。鯨の生態について具体的に説明することで、鯨は鯨という動物(本作が発表された当時は魚の仲間の扱いだが)であり、それ以上でも以下でもないという位置づけがはっきりとする。モビー・ディックの悪魔的な様相は、エイハブがモビー・ディックに対して投影しているイメージ、つまりエイハブの心の中にあるものに過ぎない。悪魔的なのは白鯨ではなくエイハブの執着心なのだということを、より浮彫にする為の博物誌パートなのかなと思った。なお、岩波文庫版は挿絵が掲載されているのでお勧め。

『背信の都(上、下)』

ジェイムズ・エルロイ著、佐々田雅子訳
1941年のアメリカ、LA。日系人一家が惨殺される事件が起きた。日系人鑑識官のヒデオ・アシダは捜査に関わるが、日本による真珠湾攻撃が起き、日系人の立場は悪化していく。LA市警のダドリー・スミスは上層部の意図をくみ、戦時下でも捜査を続け公正さをアピールしつつ、殺人事件は日系人か変態の犯行という「真相」に落とし込もうとする。次期市警候補のウィリアム・パーカーは、アシダに接近しスミスの失脚を狙う。しかしスミスもまたアシダに接近していた。殺人事件の捜査、そして市警内のポジション争いが本筋にあるはずなのだが、読んでいるうちにだんだん何の話かわからなくなってくる。個々の登場人物の欲望や情念が、徐々に暴走していき、正義も真相も二の次になっていくように見えるのだ。真相を追うアシダやパーカーもまた、世間からの圧力や自分自身の中の暴力への衝動から逃れる為、正義を曲げざるを得なくなっていく。しかし、最初から正義も真相もおいてけぼりな話でもある。正義も真相も二の次にしているのは、警察の上部にいるもの、アメリカという国そのものだからだ。政府は世論をコントロールし戦意高揚につながるよう、真相をでっちあげようとする。著者の近年の作品では、度々「偽史」としてのアメリカの側面が描かれるが、本作から始まる新シリーズもそういう様相を見せるのだろうか。本作は著者の「LA四部作」の前日譚にあたる新作シリーズで、四部作の登場人物が若き日の姿で登場する。ダドリー・スミスの怪物性が本作で既に発揮されているところが恐ろしい。人たらしでありつつ非情、しかしもろさもある。完結すると一大クロニクルになるのだろう。どういう形で『ブラック・ダリア』まで辿りつくのか。無事完結することを願う。

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