3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『バルコニーの男 刑事マルティン・ベック』

マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー著、柳沢由実子訳
ストックホルム中央の公園で、暴行され下着を奪われた少女の死体が発見された。彼女は前年、不審な男に話しかけられたことを警察で証言していた。その2日後、別の公園でまた少女の死体が発見される。果たして連続殺人なのか?公園で多発している強盗事件と関係はあるのか?刑事マルティン・ベックらは事件に取り組むが、手がかりは乏しく捜査は行き詰っていく。
角川文庫は、マルティン・ベックシリーズを新たに全巻発行する予定なのかな?だとしたらうれしいなー。本作はシリーズ4作目。スウェーデンの元祖警察小説、警察小説の金字塔と言われるだけのことはあり、安定した面白さがある。警察の捜査に焦点を当てた作品なので、いわゆるどんでん返しミステリ的な派手さはないのだが、地道な捜査の中で点と点がつながる瞬間や、「仕事」としての捜査のしんどさや刑事たちの人間模様等、地味ながら読ませる。慢性的な人員不足で全員疲労困憊というところには、先日読んだ『フロスト始末』(これはイギリスの話だけど)を思い出した。どこの国でも警察は大変だ・・・。また犯人がやったことは到底許されることではないのだが、本作の犯人の描写を読んでいると何だか悲しくなってきた。ここに至るまでに(特に現代であれば。本作は60年代の話だから)何か軌道修正することができたんではないかと。こういう人が行き着く先って、これしかないんだろうかとやりきれなくなる。なお、殺人犯対する恐怖から市民が自警団を結成して怪しげな人物を買ってに取り締まることに、ベックは強い憤りを見せる。ここに警官としての責任感と、司法国家とはどういうことかという自覚が見えた。

バルコニーの男 刑事マルティン・ベック (角川文庫)

マイ・シューヴァル
KADOKAWA
2017-03-25


刑事マルティン・ベックロセアンナ (角川文庫)
マイ・シューヴァル
KADOKAWA/角川書店
2014-09-25

『バッドエンドの誘惑 なぜ人は厭な映画を観たいと思うのか』

真魚八重子著
 世の中にはいわゆる「バッドエンド」、後味の悪い映画がたくさんある。後味の悪さも千差万別。その「厭さ」を分類し何が厭さをかきたて、同時になぜ人は厭な映画を観てしまう、あまつさえそれに癒されることすらあるのか読み解く映画評集。
 厭映画の分類の仕方に納得の技がある。そしてこまかいセクションの名称がパワーワードの連打で痺れる。第一章「バッドエンドの誘惑」内には「神は人の上に人を作った」、「絶望の長さ」、「報いなし」と飛ばしてくるし、更に国別厭な映画集(映画ファンなら予想の付く人もいるだろうが、厭映画充実度はデンマークがぶっちぎりである。北欧映画の厭さは一味違うぜ・・・)、第三章「女と子供」では、あの映画しかないだろう!という「幼女の嘘で村八分」、厭映画の定番とも言うべき「こども受難映画」等、てらいのない盛りの良さ。厭さでお腹いっぱいである。とは言え、紹介されている映画の半分近くを見ていることがわかったので、私は多分バッドエンドが嫌いではないし、厭な映画でないとカバーできない心の傷、というと大げさだけど陰りみたいなものってあるんだろうなと実感した。本著、その映画の何がどう「厭」なのか、その「厭」さの背景には何があるのかということに焦点を置いて丁寧に読み解いており、大変面白かった。読み手に対して過剰に立ち入らないが寄り添う感じの距離感が保たれており、真摯さがあると思う。

『バンディーニ家よ、春を待て』

ジョン・ファンテ著、栗原俊秀訳
 イタリア系移民のスヴェーヴォ・バンディーニとその妻マリア、14歳のアルトゥーロ、12歳のアウグスト、8歳のフェデリーコという3人の息子から成るバンディーニ家。一冬の家族の姿を描く、著者の自伝的小説。
 主にスヴェーヴォ、マリア、アルトゥーロの視線から語られるが、3人とも気分の浮き沈みが激しく、ちょっと痙攣しているような文体だ。特にスヴェーヴォとアルトゥーロは良くも悪くも、熱狂的な所があり、エネルギーに満ち溢れており騒がしい。また、3人とも視野が広いとは言い難い人たちなので、その世界の狭さが息苦しかった。経済的に困窮しているという息苦しさと、夫婦関係、家族関係に行き詰っている息苦しさが入り混じっているのだが、そのどちらもこれ以外に生きる方法を知らない、ここ以外にどこも知らないというどん詰まり感により拍車をかけられているように思った。スヴェーヴォのキャラクターは強烈だ。煉瓦工事職人としての矜持はあるが、怒りっぽくて計画性がなく、父親としても夫としてもおおよそ役に立ちそうもない。しかしそんな彼をマリアは愛し、アルトゥーロは誇りに思っている。彼の「男らしさ」は彼自身の首を絞めることになりかねないのだが、妻にとっては執着の対象、息子にとっては憧れなのだ。それが何だかやりきれなかった。スヴェーヴォには良き夫・良き父であろうという意欲はあるのだが、毎回自分で台無しにしてしまう。無学であることへのコンプレックスと労働者としての誇り、イタリア移民であることへの引け目と自分の民族に対する誇りが彼の中でせめぎあっており、それが時に爆発する。彼自身が、何で自分が爆発するのか、自分の中のせめぎ合いが何なのかよくわかってないのだろう。全編、彼(だけでなくマリアやアルトゥーロ)の苛立ちと怒りが根底に流れているように思った。

『薔薇の奇跡』

ジャン・ジュネ著、宇野邦一訳
メトレー少年院を経てフォントヴロー中央刑務所に収容された「僕」は、そこで出会ったアルカモーヌ、ビュルカン、ディベールという美しい囚人たちのこと、そしてそこでの生活を回想する。著者の自伝的な要素が強いと言われる作品。ジュネと言えば本人も元泥棒で何度も投獄されており、かつ同性愛者であるということばかりが知られている気がするし、私もまずはそのイメージを思い起こす。今回、光文社古典新訳文庫版で読んだのだが、新訳だとかなり読みやすくなっている。過去の訳から受ける印象よりもかなり明瞭で理性的。確かに幻想が入り混じり時にナルシスティックではある(そして性的な部分はあけすけ)のだが、そこに溺れず、更に俯瞰するような冷静さがあると思う。幻想も陶酔も、監獄での(おそらく不愉快な)体験をねじ伏せて自分のものとするためのフィルターではないか。章だてがされておらず、メトレーとフォントブローの思い出が前置きなく入れ替わるので、読む側は今どの時代のことを読んでいるのか、誰についての記述なのか混乱するのだが、それも織り込み済みだろう。巻末の解説でも言及されているように、アルカモーヌ、ビュルカン、ディベールは3人の別人ではなく同じ人物のように思えてくる。著者のイメージの中の荒くれ者、少年のイデアのようなものに見える。

『ハイキャッスル屋敷の死』

レオ・ブルース著、小林晋訳
犯罪解決の実績を持つ歴史教師キャロラス・ディーンは、校長から調査を頼まれる。校長の友人ロード・ペンジに、殺害を示唆する脅迫状が送り付けられたというのだ。更に数日後、ペンジの秘書がペンジのオーヴァーを着た姿で射殺された。ディーンはペンジ一族が住むハイキャッスル屋敷に滞在することに。
1958年に発表されたイギリスの本格ミステリ。わけありの一族、古めかしい屋敷、不可解な犯罪、そして関係者一同に会しての謎解き。本当に由緒正しい本格見ミステリという感じでどこか懐かしい(実際50年代の作品なのだが)。謎解きを先延ばしにしているうちに被害が広がる様などもはや様式美。こういうのってやっぱり楽しいなぁ。トリックの一部が物理的にちょっと難しいんじゃないかという気はしたが・・・。ただ、事件の真相と犯人の動機は、ある人にかかっていたプレッシャー、責任の大きさを感じさせ痛ましい。なお、屋敷で出される食事が毎食やたらと豪華で、これ一日3回食べるってイギリス人はどういう胃袋持ってるのと思っていたら、ディーンがげんなりしていたのでやっぱり多すぎらしい。

『白鯨(上、中、下)』

ハーマン・メルヴィル著、八木敏雄訳
 アメリカ東部のナンケットにやってきたイシュメールは、宿屋で同宿した南洋の銛打ちクイークェグと共に、捕鯨船に乗り込む。その船の船長エイハブは、かつて白いマッコウクジラ、モビー・ディックに片足を食いちぎられ、その白鯨への復讐に燃えていた。1851年に発表された作品だが、アメリカ文学を代表する作品であり、世界の十大小説のひとつとも言われている。同時に、日本語訳は文体がかなり読みにくいとも聞いていたので、今まで億劫がって手に取らなかったのだが、ようやく読んでみた。危惧していたよりはずっと読みやすく、それほど込み入った文体ではない。読みにくいと言われるのは、複数の文章表現の形式が混在しているからではないかなと思った。いわゆる「お話」の部分に限っても、イシュメール視点を中心に、各登場人物のモノローグによるパートや、ちょっとミュージカルのような(歌曲のような)パート等、「語り」の形式は複数ある。語りのトーンも、勇壮な叙事詩のようであったり、ホラ話的であったり、怪談のようであったりと次々変化していく(メルヴィルは、冗談好きというか、笑いのセンスがある人だったように思う)。さまざまな文学の形式を本作に全部入れてみたいという試みだったのではないか。
 また、鯨の生態や身体構造、また捕鯨のやり方や捕鯨船の構造に関する博物誌的なパートがやたらと長い。捕鯨に関しては、舞台が捕鯨船だからまあわかるのだが、鯨の品種をひとつひとつ挙げていかれると、ちょっと飛ばさせてもらおうかな・・・という気分にはなる。しかし、この部分が重要なのだと思う。鯨の生態について具体的に説明することで、鯨は鯨という動物(本作が発表された当時は魚の仲間の扱いだが)であり、それ以上でも以下でもないという位置づけがはっきりとする。モビー・ディックの悪魔的な様相は、エイハブがモビー・ディックに対して投影しているイメージ、つまりエイハブの心の中にあるものに過ぎない。悪魔的なのは白鯨ではなくエイハブの執着心なのだということを、より浮彫にする為の博物誌パートなのかなと思った。なお、岩波文庫版は挿絵が掲載されているのでお勧め。

『背信の都(上、下)』

ジェイムズ・エルロイ著、佐々田雅子訳
1941年のアメリカ、LA。日系人一家が惨殺される事件が起きた。日系人鑑識官のヒデオ・アシダは捜査に関わるが、日本による真珠湾攻撃が起き、日系人の立場は悪化していく。LA市警のダドリー・スミスは上層部の意図をくみ、戦時下でも捜査を続け公正さをアピールしつつ、殺人事件は日系人か変態の犯行という「真相」に落とし込もうとする。次期市警候補のウィリアム・パーカーは、アシダに接近しスミスの失脚を狙う。しかしスミスもまたアシダに接近していた。殺人事件の捜査、そして市警内のポジション争いが本筋にあるはずなのだが、読んでいるうちにだんだん何の話かわからなくなってくる。個々の登場人物の欲望や情念が、徐々に暴走していき、正義も真相も二の次になっていくように見えるのだ。真相を追うアシダやパーカーもまた、世間からの圧力や自分自身の中の暴力への衝動から逃れる為、正義を曲げざるを得なくなっていく。しかし、最初から正義も真相もおいてけぼりな話でもある。正義も真相も二の次にしているのは、警察の上部にいるもの、アメリカという国そのものだからだ。政府は世論をコントロールし戦意高揚につながるよう、真相をでっちあげようとする。著者の近年の作品では、度々「偽史」としてのアメリカの側面が描かれるが、本作から始まる新シリーズもそういう様相を見せるのだろうか。本作は著者の「LA四部作」の前日譚にあたる新作シリーズで、四部作の登場人物が若き日の姿で登場する。ダドリー・スミスの怪物性が本作で既に発揮されているところが恐ろしい。人たらしでありつつ非情、しかしもろさもある。完結すると一大クロニクルになるのだろう。どういう形で『ブラック・ダリア』まで辿りつくのか。無事完結することを願う。

『ハリウッド警察特務隊』

ジョゼフ・ウォンボー著、小林宏明訳
ロサンジェルス市警の地域防犯調停局、通称カラスは、生活環境に関するあらゆる問題に対応する、民事専門の特務隊。騒音や駐車違反、家庭内暴力等に関する通報に対処している。パトロール警官から転属したハリウッド・ネイトとロニー・シンクレアも地域住民への対応に追われていた。ある日ネイトは、セクシーな美女マーゴットに一目ぼれする。マーゴットはトップレス・バー経営者アジズの妻で、夫とは別居中だった。一方ロニーはコンビを組んだビックス・ラムステッドに惹かれるが、彼にはある問題があった。ハリウッドを舞台とした警官たちの群像劇『ハリウッド警察25時』の続編。コミカルさと、警官という仕事のきつさ、痛切さとのバランスがやはり上手くぐいぐい読める。特に、地域社会に根を下ろした誠実な警官である一方、自分を滅ぼしかねない問題を抱えるビックスの生き方が痛切だ。真面目で優しい人ほど苦しい職業なのかもしれないなと思わせる。様々な警官が登場するが、皆一面的な描き方はされておらず、群像劇としての面白さがある。嫌われ役にもそれなりの味わいがあるのだ。また、何とかして金を稼ごうとするヤク中の男・レナードのダメ人間さ、いきあたりばったりさはコミカルな味わいを加えていた。

『叛逆航路』

アン・レッキー著、赤尾秀子訳
ある事情により、辺境の惑星で暮らすデレクは、宇宙戦艦”トーレンの正義”のAIだった。かつては人格を4000体の肉体に転写して共有する“属躰(アンシラリー)”を操っていたが、今は1人だけだ。デレクはある目的の為、行き倒れていたところを助けたかつて”トーレンの正義”戦艦の副官だったセイヴァーデンを連れ、旅を続ける。ヒューゴー賞、ネビュラ賞受賞作品だそうだが、とんがったというよりも、オーソドックスなSFではないのかな。AIであり、その成り立ち故に「個」の概念が人間とは異なるデレクが、自分はなぜあることをやろうとしているのか、それをやろうとしている自分とは何なのか模索し続ける、ビルドゥクスロマンのようでもあった。また、社会的な役割や言語上の人称に性差が存在しない社会が舞台の中心なので、三人称が常に「彼女」。こういうふうに描かれると、自分が小説を読む上で、登場人物が男性なのか女性なのかということに意識を左右されていたんだなと、改めてわかる。気にしていないようでいて、結構状況判断の材料にしていたんだな。それだけに、日本語訳上で性別を示唆する一人称が使われているのがちょっと気になるんだけど・・・。原語だとどうなってたのかな。辺境の星だと性差がまだ残っているので、「彼」と言うべきなのか「彼女」と言うべきなのかデレクが迷う等という場面も。

『パールストリートのクレイジー女たち』

トレヴェニアン著、江國香織訳
1936年の3月半ば、田舎町から都会に出てきた“僕”と妹のアン=マリー、そして当時27歳だった母親は、パールストリート238番地の前の階段で父親を待ち続けていた。父親は母親の元を去り放浪していたが、家を用意したから来るようにと手紙が来たのだ。しかし父親は現れず、3人での暮らしが始まった。冒険小説で知られる著者が、子供時代の体験を元に描く私小説的作品。彼らが住むパールストリートは貧しい人たちが住む地区で、決して品がいいというわけでもない。“僕”らには異文化だが、賢い“僕”はそれなりに適応していく。むしろ、決してそこに迎合しない母親の姿の方が、強いが痛々しく、時に愚かしくも見える。まだ幼い“僕”にもそれがわかっており、時に母親に「勘弁してくれ」と言いたくもなる。それでも母親を守ろうとする姿にはぐっとくると同時に、家族の愛情の不条理さみたいなものも感じた。家族を愛していることは、家族が錘になるということでもある。それを早い段階で悟ってしまった“僕”は、はしっこいが実は損な性分だったのではないか。子供の世界と、その間に垣間見える大人の世界が非常に生き生きとしていて、厳しい生活を描いているのにきらめいている。それは時に悲哀も帯びているのだが。

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