3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

本・題名ら行

『リラとわたし ナポリの物語Ⅰ』

エレナ・フェッランテ著、飯田亮介訳
 リラが姿を消したと、彼女の息子から電話が入った。長年の友人である私の元に彼女がいるのではと疑ったのだ。リラと私は6才の時に出会い、私は彼女の個性と才能を羨みつつも憧れ、以来ずっと友人同士だった。
 アメリカとイタリアでミリオンセラーになったそうだが、確かに面白く納得。いわゆる派手で展開の速いエンターテイメント小説ではないが、「私」とリラが成長し変化していく、2人の関係も変わっていく様にぐいぐい読まされた。大きな物語の流れというよりも、「私」の内的な変化と外的な変化の軋轢、小さな緊張感のようなものに惹かれる。「私」が自分を取り囲む物事の様々な様相に気付いていくが、リラはその触媒のような存在でもあり、一番近い他者とも言える。そしてその様相が何を意味するものだったのか、成長するにつれ気付き、解釈が変わっていく過程にはどこか痛みもある。子供時代の火花のような強烈なきらめきは消えてしまう。しかし成長する、大人になるということは、また別の世界が見えてくるということでもあるのだ。
 「私」はリラの頭の良さや文才に憧れ、何とか彼女に追いつこうとする。しかしリラは、「私」が並ぼうとするとすぐに別のレベルに移動してしまう。友人と言っても近くて遠い。どんどん美しくなるリラは、やがて「私」とは別の世界を生きるようになる。一つの感情では表しきれない、その距離感の描き方が巧みだった。





『ローガン・ラッキー』

 脚が不自由なことを理由に工事現場での仕事をクビになったジミー・ローガン(チャニング・テイタム)は、イラクで片腕を失った元兵士の弟クライド(アダム・ドライバー)と一攫千金を企む。アメリカ最大のモーターイベント、NASCARレース会場に集まった現金を強奪しようというのだ。美容師でカーマニアンの妹メリー(ライリー・キーオ)も計画に加え、爆破のプロとして服役中のジョー・バング(ダニエル・クレイグ)に協力を求める。監督はスティーブン・ソダーバーグ。
 ソダーバーグの映画監督復帰第1作。小気味良い快作で、脚本(レベッカ・ブラウン)にほれ込んだと言う話にも頷ける。想像していたよりも1ターン多い感じというか、ちょっと長すぎないかなとは思ったが、登場人物が皆生き生きとしていてとても楽しかった。俳優が活かされているなぁと嬉しくなる。テイタムにしろドライバーにしろ、二枚目のはずなのに何とも言えない情けなさ、ボンクラ感を漂わせていている。また、久しぶりにチープかつ悪そうなダニエル・クレイグを見ることが出来てうれしい。刑務所の面会室で「服・役・中・だぞ」とやるシーンが妙にツボだった。ジョーはなかなかいいキャラクターで、爆破準備中に壁に化学式を書いて説明し始める所とか、見た目に寄らず几帳面で妙に可愛い。
 ローガン一族はやることなすこと上手くいかない、不幸な星のもとに生まれているのだとクライドは悲観している。実際、ジミーは失職し別れた妻との間にいる娘ともなかなか会えなくなりそうだし、携帯は通話料延滞で止められているし、色々と詰んでいる。クライドも、兄弟内で最もタフそうなメリーも傍から見たらぱっとしない。そんな彼らが一発逆転しようと奮起するので、犯罪ではあるがついつい応援したくなる。本作の語り口も、彼らの抜けている所を見せつつも、バカにしたり断罪したりはしない。意外に優しい視線が注がれている。根っからの悪人はおらず、犯罪者であっても彼らなりのマナー、良心がある。ジミーの作った「リスト」が意外とストーリーに反映されているにはにやりとさせられた。筋が通っているのだ。
 ソダーバーグ作品はクール、知的、スタイリッシュというイメージで、当人も労働者階級という感じではない(育つ過程でお金の苦労はしていなさそう・・・)のだが、泥臭い世界、お金のなさの実感、あるいはアメリカの「地方」感を意外と上手く描くし、そこに生きる人たちへの誠実さがあるように思う。本作、泥棒という要素では『オーシャンズ11』を連想するが、どちらかというと『エリン・ブロコビッチ』寄りかな。

トラフィック [DVD]
マイケル・ダグラス
東宝ビデオ
2001-12-21


エリン・ブロコビッチ コレクターズ・エディション [DVD]
ジュリア・ロバーツ.アルバート・フィニー.アーロン・エッカート
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
2007-07-25

『リプリーをまねた少年』

パトリシア・ハイスミス著、柿沼瑛子訳
いくつかの殺人をおかしながらも、パリ郊外の屋敷で妻と悠々自適に暮らしているトム・リプリー。彼の前に家出少年のフランクが現れる。フランクは実はアメリカの億万長者の二男だったが、父親を殺したと告白するのだ。トムは戸惑いつつも、少年とベルリンに旅立つ。しかし旅先でフランクが誘拐されてしまう。
シリーズ1作目から比べると、いやーお金の余裕は心の余裕なんだなーとしみじみ感じる。『太陽がいっぱい』の頃のトムだったら、むしろ自分が誘拐犯になって身代金の要求してたよね!トム、お前丸くなったな!トムとフランクの間には疑似父子とも恋人ともつかないような情愛が通ってくるが、それをトムが悪用しないあたり、やはり大人と子供という一線は弁えている。ともするとフランクに振り回されているようにも見えるあたり、新鮮だ。父親殺しの罪悪感で押しつぶされそうなフランクを、トムは立ち直らせようと尽力する。過去は忘れろ、新しい人生を生きろと説得するのだ。しかし、彼の言葉はフランクに本当の意味では届かない。フランクは自分の魂、自分の過去への忠実さ、責任を捨てることは出来ないのだ。自分自身に対する誠実さがあるとも言える。また、フランクがそういう人柄でなければ、トムが強く惹かれることもなかっただろう。この関係、『贋作』のバーナードとの関係も彷彿とさせる。トムは自分にないものを持つ人に惹かれるが、それゆえに関係は長くは続けられない。哀切、かつどこか尻切れトンボ的なラストは、トムがフランクに対して手を繋ぎきれなかった後悔、そして所詮自分にはわからない存在だという諦めをにじませるものだった。

リプリーをまねた少年 (河出文庫)
パトリシア ハイスミス
河出書房新社
2017-05-08


テリー ホワイト
文藝春秋
1991-09

『ロボット・イン・ザ・ガーデン』

デボラ・インストール著、松原葉子訳
 様々な仕事をするアンドロイドが普及した近未来のイギリス。両親を亡くして家と遺産を相続したものの無職のままのベンは、弁護士として活躍する妻エイミーを苛立たせていた。ある日ベンは、自宅の庭に古びた旧式ロボットがいるのを発見する。なぜかそのロボットを特別だと感じたベンは、彼を「タング」と名付ける。彼を修理できる作り主を探しに、タングと共に旅に出るが。
 弱気な男とロボットとの珍道中を描くロードムービー的な作品だが、タングの造形はロボットというよりも、幼い子供のそれだ。そこが可愛らしくて楽しいという人もいるだろうが、私はどうも物足りなかった。ロボットならロボット、AIとしての知性と成長を持つはずで、人間のそれとは違うからこそ面白いのに!と。著者はSF的な意図は本作に込めておらず、子供のメタファーとしてのロボットとして描いているのだろう。でもそれだったらロボット設定にしなくていいよね(笑)。当初ベンは自分自身未熟で子供の親なんてとてもとても、という感じなのだが、手間のかかるタングと共に生活することで、誰かをケアすること、心を配ることを学んでいく。本作冒頭、家庭内でのベンの振る舞いは、エイミーが出ていくのも当然だよ!というしょうもないもの。このしょうもなさ、周囲への配慮のなさが妙に生々しく説得力があった。なお、ベンとタングが日本に行くパートがあるのだが、日本人はロボット好きというのはもう定説になっているのか・・・

ロボット・イン・ザ・ガーデン (小学館文庫)
デボラ インストール
小学館
2016-06-07






『六白金星・可能性の文学 他十一篇』

織田作之助著
 何をやってもどん臭い青年・楢雄の人生を描く表題作の他、著者が戦後に発表した短編小説11篇と評論2篇を収録した岩波文庫版。
『夫婦善哉』収録作と比べると、作品単体の構成のバランスが良くなっており、『夫婦善哉』ばかりが有名なのは勿体ないことだなと改めて思った。1篇内の構成がかなり整理されるようになっている(特に『アド・バルーン』は語りの組み立てが活きていると思う)ので読みやすく、かつ独特の奇妙なグルーヴ感は保たれている。表題作をはじめ、著者の小説では主人公が一定の行動原理から抜け出さずに延々とループしていくような感覚があるのだが、それがグルーヴ感のようなものになっている。この人なんでこんなしょうもないことばっかりやっているのかと思いつつ、持って生まれた業ならもうしょうがないわという気分にもなってくる。この、そう生まれたんだからそう生きるしかない、という諦念のようなものが底辺に流れているように思う。評論『可能性の文学』では、志賀直哉(というよりも彼の文学に対するフォロワーの無批判性)に対する反抗心を表明しているが、逆に志賀の文学が文壇にいかに絶対的な影響を与えていたのかわかる。私小説的なもの、自然主義的なものが作ってしまった文学表現の一つの限界は、早い段階から指摘されていたことが垣間見える。なお本編中、著者が太宰治、坂口安吾と飲んでいる時のエピソードが披露されるのだが、「お前は何を言っておるのか」と真顔になる部分も。文士同士のわちゃわちゃに萌える方は目を通してみては。



天衣無縫 (角川文庫)
織田 作之助
KADOKAWA
2016-10-06

『楽園の世捨て人』

トーマス・リュダール著、木村由利子訳
 カナリア諸島のフエルテヴェントゥラ島。海辺に遺棄された車から、およそ三カ月の男の子の餓死死体が発見された。タクシー運転手兼ピアノ調律師のエアハートは、警察が事件をうやむやにしようとしていると知り、何かに掻き立てられるように事件の真相を調べ始める。
 舞台はカナリア諸島だが、優れた北欧ミステリに授与されるガラスの鍵賞受賞作。著者はデンマーク人で、主人公のエアハートはデンマークからスペインへの移住者なのだ。島ではどこか「よそ者」感ぬぐえないエアハートの立ち位置が、事件を探る探偵役としての視線に繋がっているように思った。しかしこの探偵役、あまりにも危なっかしい。1章に1回くらい、えっちょっと落ち着いて行動しては・・・とたしなめたくなるような突飛な行動に出る。その行動は絶対裏目に出るぞ!と読んでいて思うし実際負のスパイラルでエアハート自身にも収拾がつかなくなっているのだが、なぜそうしてしまうのか、という部分について具体的な説明はない。彼の推理や行動は、多分に「こうあってほしい」というフィルターがかかっているものだ。恋人たちには愛し合っていてほしい、母親は子供を愛しいつくしんでほしいと言うように。それは自己満足的なものでもあり、危なっかしい。彼は世捨て人のように生きているが、まだ悟りの境地には程遠く、失ったものを諦めきれず、未練たらたらなのだ。彼の未練に物語自体が引き回されているようだ。

『レクイエムの名手 菊地成孔追悼文集』

菊地成孔著
著者が10数年にわたって綴ってきた追悼文をまとめた、サブタイトルの通り追悼文集。著者の職業上、ミュージシャンやジャズ評論家への追悼文が多い。実際に著者と交流があった人へのものも、そうでないが著者にとって大切だった人へのものも(エリザベス・テイラーとかマイルス・デイヴィスとか)ある。当然のことではあるが相手との関係によって文章のテンション、どこまで踏み込むか(自分の知り合いだから踏み込める/踏み込めない場合、面識はない「有名人」だから踏み込める/踏み込めない場合があるなと)が変化してきて、その距離感みたいなものが興味深かった。著者の文章は概ね躁的でどんどん書き飛ばしていく(もちろん推敲されているはずだが)イメージがあるのだが、所々で、この人についてはこれ以上は書けないという壁のようなものが出現することがあるのだ。それとは別に強く印象に残ったのは「加藤和彦氏逝去」。故人の仕事に対する深い敬意と愛があると同時に、(故人に対してとは限らない)苛立ちのような、そうじゃないだろう!という苦渋のようなものが入り混じっているように思った。

『路地裏の迷宮踏査』

杉江松恋著
本格ミステリ黎明期から1960年代くらいまでを中心に、数々の作品を残した海外の作家53人を紹介する書評、というよりも作家ガイドブック。日本ではあまり知られていない作家も多く含まれる。作家のプロフィール、おすすめ作品紹介はもちろん、当時の世相、社会背景までさらっと解説しており、著者の知識の幅と過不足のないバランス感が実感できる。一見、時代性とは無縁に思える作品であっても、その時代からは逃れられないし、積極的に時代性(ないしは時代に対するアンチテーゼ)を取り込み生き残る作品もあって、指摘されないとここは意識しなかったなと既読作品に対して気付いたところも。正直、大半の作家の作品は手に取ったことがない(多少読んでいるのはバークリー、ウォー、ブラウン、リューインくらいだもんなぁ・・・)が、ちゃんと読んでみたくさせるところが著者の腕。意外なところではO・ヘンリーをミステリ枠で扱っている。ミステリ小説に多少関心のある人にとっては、軽い読み物としてちょうどいいと思う。一気読みというよりも、休憩時間や寝る前に1章だけ読みたいという感じ。なお、著者はバランス感覚に優れているとは思うのだが、一か所これはちょっと言葉遣いのミスしたなという所があり、そこだけひっかかった。

『レモン畑の吸血鬼』

カレン・ラッセル著、松田青子訳
 イタリアのレモン畑の側にたたずむ老人は、実は吸血鬼。レモンの果汁には血液への渇望を抑える鎮静効果があるのだ。同じく吸血鬼だが血は吸わず、日光も恐れない妻と出会って以来、彼もそうなるべく努力をしてきたが。表題作をはじめ、奇妙な設定・味わいの短編8編を収録。
 世界の隙間に落っこちてしまったような人が登場する作品が多い。吸血鬼はもちろんだが、日本の製糸工場からアイディアを得た『お国の為の糸繰り』は産業の為に踏みつけにされていく若い女性達の物語だし、『証明』は開拓時代のアメリカで、実際にあったという奇妙な法律に翻弄される少年を描く。『任期終わりの厩』は何と歴代のアメリカ大統領が馬に転生して集っているという設定で、そもそも人間ではない!また『エリック・ミューティスの墓なし人形』は、隙間に落ちてしまったような人をそうではない人から見た話であり、加えてそうではない人が更に突き落としてしまった顛末とも言える。
 なぜ自分がなのか、どうすれば人並み(と世間で思われている様)になれるのかという苦しみが見え隠れし、全般的にユーモラスだがもの悲しく痛切。特に『お国の為の糸繰り』は人為的に世間から外され隠蔽されてしまった人たちの呪詛と復讐であり、「変態」の仕方はSF的な味わいもあった。特に痛切さを感じたのは『帰還兵』。題名の通り、PTSDに苦しむ帰還兵とマッサージ師の交流だが、過去由来の苦しみを取り除くことの是非を考えさせられる。取り除くということは現在のその人を構成するものが変わってしまうということだが、かといって苦しみで摩耗していくのを見過ごせるのか。彼女の選択が正しかったのかどうかはわからないままだ。

『ラスト・ウェイ・アウト』

フェデリコ・アシャット著、村岡直子訳
 テッド・マッケイは脳腫瘍を苦に自殺を企てる。拳銃を頭にかまえた時、玄関の扉が激しく叩かれる。訪問者の男・リンチは、ある組織からテッドに依頼があると言う。その依頼内容とは、テッドと同じような自殺志願者を殺してほしいというものだった。
 テッドが奇妙な出来事にどんどん巻き込まれていく、と思ったらえっそっちのジャンル?!しかし更に読み進めるといややっぱりそっち?!という風に、どんどん変容していく小説で、先が気になり大変面白い。何を言ってもネタバレになりそうで困るなぁ。語りのレイヤーや伏線の置き方等複雑な部分もあり、何度もページを逆走して確認したりもしたのだが、その煩雑さも気にさせない、一種のノリの良さみたいなものがある。途中で登場してくるローラという女性の造形がなかなかよかった。野心家ではあるが、ちょっと専門バカみたいな所があり、駆け引きはするが悪女というわけではないという、紋切型ではない具体性がある。もっとも彼女に限らず、登場人物にしろその場の情景にしろ、描写は具体的でディティールが細かい。そんな中、テッドという人の個性はいまひとつ掴めないまま話が進む。しかしこれも作者の企みのうちだろう。最後まで気を抜けない。
 
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