3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

本・題名や行

『野生の樹木園』

マーリオ・リゴーニ・ステルン著、志村啓子訳
カラマツ、モミ、マツやクルミ、リンゴ等、身近な樹木について綴られる随筆集。一篇一篇が集まって、1冊の本が樹木園のようになっている。樹木の植物としての特質、その樹木が人間にどのように利用されてきたのか、神話や文学作品の中でどのように言及されてきたのか、そして著者自身の樹木との関わりの思い出。文章はくどくなく控えめなのだが、樹木に対する親密さが感じられる。自分にとって親しい存在を紹介するという、実体験に即した文章なのだ。私は植物にはそんなに詳しくはないが、樹木の傍にいると落ちつく感じはよくわかる。眺めているだけでも、なんとなくほっとするもんね。どこの国でもこの感覚は変わらないのだろうか。イタリアは日本と植栽がわりと似ている(ただ、馴染みのない樹木も登場するが)からかな。

『夜は短し歩けよ乙女』

 大学の後輩である「黒髪の乙女」(花澤香菜)に片思いしている「先輩」(星野源)は、「なるべく彼女の目に留まる」作戦、略して「ナカメ作戦」を敢行するが外堀ばかり埋まっても一向に彼女との関係は進展せずにいた。ある晩、披露宴の二次会から町に繰り出した乙女は珍事件に巻き込まれていく。原作は森見登美彦の同名小説。監督は湯浅政明。
 いやーこれは素晴らしいな!私が思うアニメーションの楽しさ、喜びに満ちている。背景(空間)もキャラクターもフォルムが伸び縮みし自由自在。こういう自由さがいいんだよ!原作では四季を通した連作集だったと思う(読んだのが大分前なので記憶が・・・)が、映画では一晩の出来事に圧縮されている。これは賛否が分かれるところだと思うが、私はとてもいいなと思った。空間やキャラクターのフォルムが自在に伸び縮みするアニメーションの方向性と、時間が伸び縮みするストーリーとが上手く合っているのだ。ふわーっと何かに夢中になっている人(乙女は冒険に夢中だし、先輩は恋で無我夢中だ)の中では、時間も空間もねじまがる。主観度がすごく高いと言えばいいのか。なお脚本は劇団ヨーロッパ企画の上田誠が手がけているが、力技ではあるが一点に向かってどんどん盛り上がっていく高揚感があった。
 原作の黒髪の乙女は、いわゆるモテそうな女子とはすこしずらしているようでいて、真向から「女」度の高い女子にひいてしまう男子にとっては、ちょいユニークかつ攻めすぎていなくてちょうどいい、まあこういうのがお好きなんでしょうねぇ!という一見あざとくない所があざといキャラクター造形だったように思う。映画では花澤が演じることで、かわいいが言動がよりフラットであざとさが軽減されているように思った。花澤の声質の効果もあるが、演技もあまり「かわいい」に寄せず、むしろ酒豪であったり性別関係ないニュートラルな気の良さ(実際乙女は老若男女に対して態度があまり変わらない)が感じられる演技になっていたと思う。
 また、先輩役の星野源は、キャラクターとしてはザ・星野源みたいな嵌まり方だし演技もこなれている。プロ声優ではない出演者としては、パンツ総番長役の秋山竜次も予想外にいい味わいだった。声優、俳優総じて、出演者のキャラクターへのはめ方が良かったように思う。
 ちなみに、私にとって本作は『ラ・ラ・ランド』よりも全然楽しいミュージカル映画だった。歌がすごく上手いというわけではないところが逆にいい。また、古本市で乙女がビギナーズラックにより掴んだ本は、私のお勧め本でもある(今は復刊され題名一部変わっている)。乙女お気に入りの絵本『ラ・タ・タム』も好きだったなぁと懐かしくなった。古本市パートは、実在の本の書影があちこちに出てくるので読書好きは見てみてほしい。原作者の名前ももちろん出てくる。

『屋根裏の仏さま』

ジュリー・オオツカ著、岩本正恵・小林由美子訳
 20世紀初頭、相手の写真だけを頼りに日本からアメリカへ嫁いで行った「写真花嫁」たち。写真は全くの別人、現地では過酷な労働が待っていることも多々あったが、少しずつ、つつましやかではあるが生活は軌道に乗っていく。しかし日米開戦と共に日系人の強制収容が始まる。
 「わたしたち」という主語により語られる物語。「わたしたち」は嫁いで行った大勢の娘たちの声の総体であり、一つの声のようでいて多種多様なあり方を見せる。語りが合唱のようなハーモニーを形成しており、大きな声のうねりとなっていると同時に、実は「わたしたち」というものはなくて「わたし」が大勢いる、同じ「わたし」はいないのだと感じさせるのだ。対して、最後の章の「わたしたち」のみ、日系女性たちではなく、彼女らが町からいなくなった後に残った住民たち、日系ではないアメリカ人たちを指す。こちらは個人の声の総体ではなく、「わたしたち」という大きな主語の影に個人が隠れている。「わたしたち」は関わったが「わたし」は関わっていないというように、「わたし」という個人の要素を薄めているという対比がなされているように思う。「わたしたち」という主語のあやうさを含む機能を味わえる作品。

『夜、僕らは輪になって歩く』

ダニエル・アラルコン著、藤井光訳
 劇作家ヘンリーが率いる伝説的な小劇団は、内戦の後十数年ぶりに再結成され各地を公演旅行することになった。新人オーディションにより選ばれた青年・ネルソンもその公演旅行に加わり、ある山間の町を訪れる。そその町でのある出会いにより、其々の人生は大きく変わっていく。
 語り手である“僕”が何者で、ネルソンの人生にどういう形で関わってくるのかはなかなか明かされない。また“僕”や取材相手の言葉からはネルソンが何らか事件を起こした、あるいは巻き込まれたらしいとわかってくるが、その実態もなかなか明かされない。全てが起こってしまった後、“僕”は後追いでその経緯を調べ、語っていく。取材相手であるネルソンの元恋人やヘンリーら劇団のメンバー、またヘルソンの実母も、実際の所何が起きたのか全ては知らないし、彼らの言葉を総合しても、事態の真相は曖昧でそれぞれの話が重層的に重なっているにすぎない。ネルソン(とその周囲の人たち)が「演じる」ことと密接な関係にあることも、この曖昧さを増幅させているように思う。その時に応じて周囲が求める姿を演じているのではという気もしてくるのだ。語られている物語は、「おそらくこうであろう」というネルソンの物語にすぎない。最終的に彼は語られることを拒否するが、それは演じること=物語を誰かに提供することの断念によるのかもしれない。

『四日間の不思議』

A.A.ミルン著、武藤崇恵訳
かつて暮らしていた屋敷をふと訪れたジェーンは、叔母の死体を発見し、同様して“凶器”の位置を変え指紋をふき取り、更に窓から脱出して地面に足跡を残してしまう。容疑者扱いを恐れ、友人ナンシーの手を借りて田舎に身を隠したが、警察の捜査は彼女が思いもよらなかった方向に進んでいた。
ミルンと言えば『くまのプーさん』を書いた児童文学作家として有名だが、一方でミステリ小説『赤い館の秘密』も有名。本作もミステリ小説・・・なのだが、冒頭からちょっと調子がおかしい。ミルンのユーモアが存分に発揮されており、とても楽しく読んだ。ジェーンを筆頭に登場人物全員にやや妄想癖と思い込みの強さがあり、それが事件をどんどんややこしくしていく。むしろ本格ミステリのパロディみたいだし、実際、ジェーンもナンシーもミステリ小説好き(子供時代に2人で使った「暗号」も披露される)。絵にかいたような「頭の悪い警官」も登場するが、名探偵は登場せずに事態がどんどんややこしくなる。各人が余計なことをしなければ真相は明白だったかもしれないのに(笑)。

『夜より黒きもの』

高城高著
好景気に沸く、昭和60年代のススキノ。価格が高騰した土地目当ての地上げが続いており、キャバレー“ニュータイガー”の黒服・黒頭悠介の知り合いの飲食店も、執拗な嫌がらせに悩まされていた。黒頭は知人の不動産業者と事情を探る。
敏腕黒服の黒頭が活躍する短編5編を収録。ちょうどバブル真っ盛りの札幌・ススキノが舞台なのだが、本当に景気が良くて、ちょっとした中小企業の重役クラスでも結構な遊びが出来た時代だったんだなとしみじみした。今でも当然、クラブ通い、キャバレー(というもの自体今は激減している気がするが)通いをする人はいるだろうしお金はあるところにはあるわけだが、猫も杓子もという感じではなくなっちゃったんだなぁと。ただ、お金の流れ自体は現代の方が早いなという実感も。舞台となる80年代は、弁当箱サイズの携帯電話がぼちぼち出回ってきた頃で、黒頭も相手と連絡を取る為にいちいち店に戻ったりする。なんだか懐かしい。ただ、ぼちぼちバブル崩壊の気配も漂い始め、早々に(自業自得とは言え)悲劇を起こしてしまう人も。おそらく、黒頭の商売も斜陽を迎えていく。事件やミステリ的な要素というよりも、ある時代のある場所をのぞき見する面白さを味わう作品。

『幽霊ピアニスト事件』

フレドゥン・キアンプール著、酒寄進一訳
ピアニストのアルトゥルは死んでから50年後の1990年代の世界になぜか蘇った。生きている人たちにも彼の姿は見えるし話も出来る。音楽大学の学生ベックの助けを得て、風変わりな学生たちと同居生活を始めるが、奇妙な出来事が相次ぎ、ついに殺人事件が起きる。自分と同じような死者が関わっていると気づいたアルトゥルは、犯人を探し始める。死者も生者も順応力がありすぎる!蘇ったアルトゥルが現状を理解するのはともかく、アルトゥルに自分は実は死者なんだと打ち明けられたベックがあっさり受け入れ、しかも住処を提供して友情が芽生えるまでの展開が速い!頭柔らかいなぁ。奇妙な味わいのミステリだが、現代のパートと、アルトゥルが生きていた第二次大戦中、ナチスの侵略が始まりつつあったフランスでのエピソードが交互に配置されており、徐々にアルトゥルがなぜ死んだのか、彼は何に負い目を感じているのかが明らかになる。これはアルトゥルだけでなく、あの時代の多くの人たちが負った負い目なのだろう。そして犯人が抱えた怒りも、あの時代に生きた一部の人たちが抱えていたもの(だからといって犯人の行動は正当化されないが)だろう。一見コミカルなのだが、ある時代の悲劇が背後にあり、色濃く影を落としている。最後、あっけなく終わるようにも見えるのだが、アルトゥルが蘇った理由はここにあったという潔さもある。

『雪と珊瑚と』

梨木香歩著
シングルマザーの珊瑚は赤ん坊の雪を抱え、どう働けばいいか途方に暮れていた。そんな折、「赤ちゃん、お預かりします」という張り紙を見かけ、年配女性くららに雪を預けることになる。親との縁が薄く他人に頼ることを知らなかった珊瑚が、徐々に周囲と関係を強めていく。珊瑚は何でも自分で何とかするのが当然という境遇で育ち、自立していると言えば自立しているが、その世界は狭く世間知らずでもある。彼女が少しずつ世界を広げていく様は成長物語のようでもある。ただ、彼女の生き方を本作は手放しで賞賛しているわけではない。肯定はしているが、彼女を否定する人もいるだろう、見方を変えればこう見えるだろうということをちらつかせる。珊瑚自身が、同情をかっているように見えるのではないか、「かわいそうだから応援しよう」的な接し方をされているのではないかと神経を使っている。彼女はそのように見られたくないし、施しは受けたくない。だからこそ頑なに一人でなんとかしようとしている(本作は、そこからいかに柔らかくなっていくかという話でもある)。しかしそれでも、そういうふうに見る人はいる。終盤、珊瑚は1通の手紙を受け取るのだが、これが強烈だ。ただ、珊瑚は反感買うだろうなと言うのはわからなくはない。真面目すぎる人、ストイックすぎる人が傍にいると、何となく自分が責められているような気分になる人もいるんじゃないかなー。

『ヨハネスブルグの天使たち』

宮内悠介著
ヨハネスブルグに住む戦災孤児スティーブは、スラム化した高層ビルの上から何年も繰り返し落下し続ける人型ホビーロボットの1体が自分たちを認識していると気づき、捕獲しようとする。NY、ジャララバード、ハドラマウト、東京の5つの都市の荒廃と人の在り方を描く連作短篇集。歌う少女型ロボットが各話を繋ぐ短篇集。描かれる近未来の世界は、戦争や内戦、テロにより荒廃しており、人類は斜陽を迎えている。最終話「北東京の子供たち」では、大人たちは仮想の世界に逃げ込んでいる、あるいは別の世界を見ようと模索しているようでもある。そういう世界の中で生きるしかない、という諦念が作品の底辺に流れているが、これがすごく「今」な感じがする。紛争が続き人類の発展は尻すぼみな世界は、現実の現代に繋がっているのだ。最早SFで希望に満ちた未来というのは描きにくくなっている、あるいは描いても説得力がないのだろう。ただ、本作から過度にペシミスティックという印象は受けなかった。むしろ、そこからどう生きるか、たとえ人間・民族としての形態を変えても、というような先細りではあってもしぶとさも感じさせる。前作『盤上の夜』から小説として格段に冴えていて(『盤上の夜』もよかったが)直木賞ノミネートも納得。

『八日目の蝉』

角田光代著
野々宮希和子は不倫相手・秋山丈博の家にこっそりと立ち入る。どうしても秋山夫妻の赤ん坊を見たかったのだ。自分に向かってほほ笑む赤ん坊を見た希和子は、衝動的に赤ん坊を連れ去り、母と娘として逃亡生活を始める。薫(本名は秋山恵理菜)と名付けられた子供は、希和子を母親と信じて成長していく。2011年に映画化(成島出監督)もされた。私は映画は公開時に見たけれど、原作小説である本作はなぜか読みそびれていて、今回ようやく読んだ。映画は力作だったけど、原作も面白い。原作の方が構成がよりストレート(映像と活字というフォーマットの違いによるところも大きいが)で、一気読み度が高かった。希和子は子供が欲しいと切望し、薫(恵理菜)に母親として愛情を捧ぐ。自分に実の赤ん坊さえいれば、自分が母親だったならという思いがだだ漏れしていく様にはさほど関心を引かれなかったが、この人はどうしてこうなっちゃったのかな、という意味では関心を引かれた。母親にならなかった自分ではだめなのか、なぜだめなのか、という部分が、作中では(希和子の一人称なので)言うまでもないことにされている。でも読んでいる側としては、その言うまでもないことこそが知りたいのだ。後半は育った薫=恵理菜の一人称パートだが、彼女に対してもまた、この人はどうしてこうなっちゃったのかな、と考え続けさせられる。もっとも、恵理菜の場合は希和子よりも自分を客観視できているので、彼女自身にも自覚がある。映画と比較するとそこは際立っているし、秋山夫妻の弱さも恵理菜の客観性あってこそわかってくるのだ。母性云々というよりも、「なぜ私なんだ」という答えのない問いを問い続ける人たちの苦しみを描いた作品だと思う。たまたまあなただった、ということにどう納得すればいいのか。

ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ