3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

本・題名や行

『ゆえに、警官は見護る』

日明恩著
 港区芝浦のマンション前で、重ねられた自動車タイヤの中に立たされた焼死体が発見された。更に西新宿、幡ヶ谷でも同様の死体が発見され、猟奇的な手口は世間の注目を集める。警視庁刑事総務課刑事企画第一係の潮崎警視はお目付け役の宇佐美、田上と共に捜査に参加する。一方、新宿署の留置所勤務になった武本は、深夜の歌舞伎町で酔って喧嘩になり拘留された男・柏木のことがひっかかっていた。
 シリーズ4作目だが、もしかすると今までの潮崎・武本シリーズの中で一番刑事ドラマっぽいかもしれない。今回主に捜査を行う(といっても周囲の目を盗んでグレーすれすれのものだが)のは潮崎。本人の風変りなパーソナリティと派手な背景ばかりが注目されるが、実は地道な捜査に耐える堅実さや目配りの確かさ(これが育ちのいいということなんだろうなと・・・)が十二分に発揮されている。今回は正に潮崎ターンと言ってもいいだろう。また、彼のお目付け役、しかし意外と潮崎以上に暴走しそうな傾向も見せる宇佐美がとてもいいキャラクターだった。彼の独自の合理性や正直さは、警察という保守的な組織とは明らかに相性が悪い。有能なので排除はされないが煙たがられる、それを恐れないハートの強さと我の強さ。潮崎とは別の方向性で手ごわいのだが、妙な所で素直で可愛くなってしまう。まだ警察という組織に染まりきっていない正木の「普通」さが2人のアクを中和しており、とてもいいトリオだった。
 事件の背後にあるものが誰かの悪意や欲望というわけではない(そういったものがないわけではないが、大元は違う)、運不運としか言いようがないものだ。そういうものによって個人の人生が取り返しのつかないものになってしまうということがやりきれない。世界の理不尽さに対する犯人の慟哭に対し同情しつつも、警官として真っすぐ対峙する潮崎らの姿が眩しい。

 
ゆえに、警官は見護る
日明 恩
双葉社
2018-11-21




やがて、警官は微睡る (双葉文庫)

日明 恩
双葉社
2016-02-10

『予期せぬ瞬間 医療の不完全さは乗り越えられるか』

アトゥール・ガワンデ著、古屋美登里・小田嶋由美子訳、石黒達昌監修
 吐き気やめまい、身体の腫れや肥満。身近でありふれたように思える病でも、医療にはミスが付きまとう。医療ミスは根絶できるのか?患者が医療に求めるものとは何なのか?果たして良い医療とは?医者である著者が、研修医時代に著した医療エッセイのデビュー作。
 著者が研修医時代に体験したエピソードをまとめたものなので、著者の医師としてのスキルはまだ発展途上。未経験の処置に挑戦せざるをえなくて心臓バクバクでも患者の前では平気な顔をしていなくてはならない!というシチュエーションが頻繁に出てきて、すごくシリアスな状況なのにちょっと笑ってしまう。また文章は真面目だがどこかとぼけた感じがする。体験談ではあるが客観性が高く、その場のテンションや情緒に呑まれていない。これは著者の人柄なのだろうか、それとも職業柄なのだろうか(多分両方なんだろうけど)。
 著者が綴る事例の中には、患者の症状だけではなく、医者側の問題もある。不適切な処置を頻発するようになったにも関わらず、営業を止めることができない医者の話がとても面白かった。元々熱心で腕もいい医師がなぜ「悪い医者」になったのかという所は、医師に限ったことではないだろう。過労により客観性が失われていくというのが怖い。周囲がある程度強制介入しなければだめなんだろうな。
 医療技術の発達が目覚ましいとはいえ、診断の難しさや医療ミスは常に起こりうる。医師が人間である以上、ミスは避けられないのだ。では高度なAIや医療機器が人間に代わって全ての医療行為を行うようになればいいのかというと(実際、医師の診断よりAIがデータから診断した結果の方が打率が高いという統計は出ている)、そういうわけではなさそうだ。患者は(技術的に適切な処置がされるのは大前提として)何をもって良い医療だと見なすのかという問題がある。著者はそれを「思いやり」と表現するが、そのあいまいなものを体現できるのは、今の所人間だけだろう。

予期せぬ瞬間
アトゥール・ガワンデ
みすず書房
2017-09-09


死すべき定め――死にゆく人に何ができるか
アトゥール・ガワンデ
みすず書房
2016-06-25


『憂鬱な10か月』

イアン・マキューアン著、村松潔訳
 “わたし”は逆さまになって母親のおなかのなかにいる。美しい母親と詩人の父親は別居中だ。そして母親は父親の弟と浮気をしており、2人で父親を殺そうとしているらしい。
 巻末の解説でも言及されているように、胎児版ハムレットという一風変わった作品。ストーリーの主軸はハムレットのパロディだが、他のシェイクスピア作品からの引用も多々ある。語り手の“わたし”は胎児で外の世界を自分の目で見ているわけではないが、母親と父親や義弟との会話や周囲の物音、体を通して伝わってくる母親の感情から、外の世界のことをある程度知ってはいるし、冷静に周囲を観察している。語りが全く子供っぽくなく、思慮深さと成熟を感じさせる、どうかすると両親や叔父よりも全然大人な考え方をしているところがおかしい。とは言え音や皮膚感覚のみで世界を感知するには限界があり、本人大真面目なのに時々妙な誤解の仕方をしているあたりはユーモラスだ。彼の周囲で起きている事柄はありふれた安いメロドラマでありサスペンスなのだが、胎児の目と、彼のしごく真面目でもったいぶった語り口を通すことで、新鮮かつ陰惨だが滑稽な味わいになっている。

憂鬱な10か月 (新潮クレスト・ブックス)
イアン マキューアン
新潮社
2018-05-31


ハムレット (岩波文庫)
シェイクスピア
岩波書店
2002-01-16


『約束』

ロバート・クレイス著、高橋恭美子訳
 ロス市警警察犬隊のスコット・ジェイムズ巡査と、相棒であるシェパードのマギーは、逃亡中の容疑者を捜索していた。住宅地内の一軒家の中で倒れている容疑者を発見するが、同時に大量の爆発物が屋内にあることがわかる。一方、私立探偵のエルヴィス・コールは、その一軒家にある人物を訪ねに来ていた。失踪したある女性の捜索の一環として訪問したのだが、殺人容疑をかけられてしまう。
 スコット&マギーの出会い編である『容疑者』のシリーズ続編だが、本作単品でも楽しめる。更に、コールは著者の別シリーズ(こちらの方が古く作品数も多い)コール&パイクシリーズの主役だそうだ。青年と犬の再生を描く警察小説だった前作と比べると、コールの活躍のせいかハードボイルドとしての側面が強い。コールは自分の流儀・職業倫理に忠実で、警察に容疑者扱いされても一貫して依頼者と捜索対象を守ろうとする。ただその忠実さ故、ちょっと自警団ぽい行動になってくるのは気になった。情報収集のやり方といい、人脈含め万能すぎない?スコットの振る舞いや対人態度はが等身大で時にドジだったり不器用だったりするのでギャップが際立つ。
 とは言え、意外な展開を見せて面白かった。警察犬・マギーの忠実さ、可愛らしさも魅力の一つだが、擬人化されすぎず、喜びも悲しみもあくまで「犬」として存在する(当然喋ったりしない)ところがとてもいい。また、ある女性をコールの仲間である傭兵が「知っている」ということの意味は胸を打つ。

約束 (創元推理文庫)
ロバート・クレイス
東京創元社
2017-05-11



『ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン』

ピーター・トライアス著、中原尚哉訳
 第二次大戦で日本とドイツが勝利し、アメリカ西海岸が日本の統治下にされた「日本合衆国」。検閲局に勤める石村大尉は、特高の槻野課員の訪問を受ける。彼女は石村のかつての上司である六浦賀将軍の行方を追っていた。高名なゲーム開発者だった六浦賀は、アメリカが戦争に勝利した世界を舞台とするゲーム「USA」を密かに開発し、アメリカ人抵抗組織に協力している疑いを掛けられていた。
 表紙絵の巨大ロボと口絵のコンセプトアートにはテンションが高まるが、実はこれ、表紙絵詐欺と言ってもいい。ロボは登場するが、それがメインというわけではないのだ。ロボが活躍するシーンの描写、そしてパイロットの言動には確かに熱くなるが・・・。本作はむしろフィリップ・K・ディック『高い城の男』を引き継ぐような歴史改変SFとして、所属する国と民俗に翻弄される人々を描いており、爽快感は薄い。むしろ息苦しく、悲観的だ。実際の戦中・戦後のアメリカでは日系人が迫害されたわけだが、本作では日本「以外の」血を持つ人たちが差別される。戯画的な「皇国」や日本軍の情景は露悪的でもあるが、どこの国であれ、軍国化すると似たり寄ったりな醜悪さを見せるものなのではとも思える。そして、自由と平等をうたうアメリカ人抵抗組織にしても、どこかファナティックで決して正義の味方的な描き方はされていない。もし彼らが権力を持ったら似たりよったりな醜悪さを見せるのではないかという、距離感がある。石村の行動の底にあったものが明らかになる最後のエピソードは、そういったイデオロギーや民族、国家を超えたところにあり、だからこそやりきれないのだ。
 なお、日本的な部分はむしろ、巻末の解説でも触れられているようにB級グルメ等の描写に色濃い。なぜそこにそんなに力を入れる?と首をひねったくらい。石村がB級グルメフードに対して妙に饒舌なのもそれっぽいなぁと思ったが、これは万国共通なのかな・・・。



高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)
フィリップ・K・ディック
早川書房
1984-07-31


『野生の樹木園』

マーリオ・リゴーニ・ステルン著、志村啓子訳
カラマツ、モミ、マツやクルミ、リンゴ等、身近な樹木について綴られる随筆集。一篇一篇が集まって、1冊の本が樹木園のようになっている。樹木の植物としての特質、その樹木が人間にどのように利用されてきたのか、神話や文学作品の中でどのように言及されてきたのか、そして著者自身の樹木との関わりの思い出。文章はくどくなく控えめなのだが、樹木に対する親密さが感じられる。自分にとって親しい存在を紹介するという、実体験に即した文章なのだ。私は植物にはそんなに詳しくはないが、樹木の傍にいると落ちつく感じはよくわかる。眺めているだけでも、なんとなくほっとするもんね。どこの国でもこの感覚は変わらないのだろうか。イタリアは日本と植栽がわりと似ている(ただ、馴染みのない樹木も登場するが)からかな。

『夜は短し歩けよ乙女』

 大学の後輩である「黒髪の乙女」(花澤香菜)に片思いしている「先輩」(星野源)は、「なるべく彼女の目に留まる」作戦、略して「ナカメ作戦」を敢行するが外堀ばかり埋まっても一向に彼女との関係は進展せずにいた。ある晩、披露宴の二次会から町に繰り出した乙女は珍事件に巻き込まれていく。原作は森見登美彦の同名小説。監督は湯浅政明。
 いやーこれは素晴らしいな!私が思うアニメーションの楽しさ、喜びに満ちている。背景(空間)もキャラクターもフォルムが伸び縮みし自由自在。こういう自由さがいいんだよ!原作では四季を通した連作集だったと思う(読んだのが大分前なので記憶が・・・)が、映画では一晩の出来事に圧縮されている。これは賛否が分かれるところだと思うが、私はとてもいいなと思った。空間やキャラクターのフォルムが自在に伸び縮みするアニメーションの方向性と、時間が伸び縮みするストーリーとが上手く合っているのだ。ふわーっと何かに夢中になっている人(乙女は冒険に夢中だし、先輩は恋で無我夢中だ)の中では、時間も空間もねじまがる。主観度がすごく高いと言えばいいのか。なお脚本は劇団ヨーロッパ企画の上田誠が手がけているが、力技ではあるが一点に向かってどんどん盛り上がっていく高揚感があった。
 原作の黒髪の乙女は、いわゆるモテそうな女子とはすこしずらしているようでいて、真向から「女」度の高い女子にひいてしまう男子にとっては、ちょいユニークかつ攻めすぎていなくてちょうどいい、まあこういうのがお好きなんでしょうねぇ!という一見あざとくない所があざといキャラクター造形だったように思う。映画では花澤が演じることで、かわいいが言動がよりフラットであざとさが軽減されているように思った。花澤の声質の効果もあるが、演技もあまり「かわいい」に寄せず、むしろ酒豪であったり性別関係ないニュートラルな気の良さ(実際乙女は老若男女に対して態度があまり変わらない)が感じられる演技になっていたと思う。
 また、先輩役の星野源は、キャラクターとしてはザ・星野源みたいな嵌まり方だし演技もこなれている。プロ声優ではない出演者としては、パンツ総番長役の秋山竜次も予想外にいい味わいだった。声優、俳優総じて、出演者のキャラクターへのはめ方が良かったように思う。
 ちなみに、私にとって本作は『ラ・ラ・ランド』よりも全然楽しいミュージカル映画だった。歌がすごく上手いというわけではないところが逆にいい。また、古本市で乙女がビギナーズラックにより掴んだ本は、私のお勧め本でもある(今は復刊され題名一部変わっている)。乙女お気に入りの絵本『ラ・タ・タム』も好きだったなぁと懐かしくなった。古本市パートは、実在の本の書影があちこちに出てくるので読書好きは見てみてほしい。原作者の名前ももちろん出てくる。

『屋根裏の仏さま』

ジュリー・オオツカ著、岩本正恵・小林由美子訳
 20世紀初頭、相手の写真だけを頼りに日本からアメリカへ嫁いで行った「写真花嫁」たち。写真は全くの別人、現地では過酷な労働が待っていることも多々あったが、少しずつ、つつましやかではあるが生活は軌道に乗っていく。しかし日米開戦と共に日系人の強制収容が始まる。
 「わたしたち」という主語により語られる物語。「わたしたち」は嫁いで行った大勢の娘たちの声の総体であり、一つの声のようでいて多種多様なあり方を見せる。語りが合唱のようなハーモニーを形成しており、大きな声のうねりとなっていると同時に、実は「わたしたち」というものはなくて「わたし」が大勢いる、同じ「わたし」はいないのだと感じさせるのだ。対して、最後の章の「わたしたち」のみ、日系女性たちではなく、彼女らが町からいなくなった後に残った住民たち、日系ではないアメリカ人たちを指す。こちらは個人の声の総体ではなく、「わたしたち」という大きな主語の影に個人が隠れている。「わたしたち」は関わったが「わたし」は関わっていないというように、「わたし」という個人の要素を薄めているという対比がなされているように思う。「わたしたち」という主語のあやうさを含む機能を味わえる作品。

『夜、僕らは輪になって歩く』

ダニエル・アラルコン著、藤井光訳
 劇作家ヘンリーが率いる伝説的な小劇団は、内戦の後十数年ぶりに再結成され各地を公演旅行することになった。新人オーディションにより選ばれた青年・ネルソンもその公演旅行に加わり、ある山間の町を訪れる。そその町でのある出会いにより、其々の人生は大きく変わっていく。
 語り手である“僕”が何者で、ネルソンの人生にどういう形で関わってくるのかはなかなか明かされない。また“僕”や取材相手の言葉からはネルソンが何らか事件を起こした、あるいは巻き込まれたらしいとわかってくるが、その実態もなかなか明かされない。全てが起こってしまった後、“僕”は後追いでその経緯を調べ、語っていく。取材相手であるネルソンの元恋人やヘンリーら劇団のメンバー、またヘルソンの実母も、実際の所何が起きたのか全ては知らないし、彼らの言葉を総合しても、事態の真相は曖昧でそれぞれの話が重層的に重なっているにすぎない。ネルソン(とその周囲の人たち)が「演じる」ことと密接な関係にあることも、この曖昧さを増幅させているように思う。その時に応じて周囲が求める姿を演じているのではという気もしてくるのだ。語られている物語は、「おそらくこうであろう」というネルソンの物語にすぎない。最終的に彼は語られることを拒否するが、それは演じること=物語を誰かに提供することの断念によるのかもしれない。

『四日間の不思議』

A.A.ミルン著、武藤崇恵訳
かつて暮らしていた屋敷をふと訪れたジェーンは、叔母の死体を発見し、同様して“凶器”の位置を変え指紋をふき取り、更に窓から脱出して地面に足跡を残してしまう。容疑者扱いを恐れ、友人ナンシーの手を借りて田舎に身を隠したが、警察の捜査は彼女が思いもよらなかった方向に進んでいた。
ミルンと言えば『くまのプーさん』を書いた児童文学作家として有名だが、一方でミステリ小説『赤い館の秘密』も有名。本作もミステリ小説・・・なのだが、冒頭からちょっと調子がおかしい。ミルンのユーモアが存分に発揮されており、とても楽しく読んだ。ジェーンを筆頭に登場人物全員にやや妄想癖と思い込みの強さがあり、それが事件をどんどんややこしくしていく。むしろ本格ミステリのパロディみたいだし、実際、ジェーンもナンシーもミステリ小説好き(子供時代に2人で使った「暗号」も披露される)。絵にかいたような「頭の悪い警官」も登場するが、名探偵は登場せずに事態がどんどんややこしくなる。各人が余計なことをしなければ真相は明白だったかもしれないのに(笑)。

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