ブレンダン・スロウカム著、東野さやか訳
チャイコフスキーコンクールまで1カ月に迫ったある日、黒人バイオリニストのレイの楽器がホテルから消え、「身代金」を要求する手紙が残されていた。盗まれたのは、名器ストラディヴァリウスだったのだ。そのストラディバリウスはレイの曽祖父が名器とは知らずに弾いており長らく屋根裏部屋に眠っていたが、祖母からレイに譲られたのだ。しかし名器と知った親族たちは売却を主張し、レイはある取引をしていた。その上今回の盗難事件。レイは無事コンクールに出場することができるのか。
青春音楽サスペンスとでも言いたくなる、一気に読ませる展開だった。レイの過去と現在を行き来する構造で、彼がどういう境遇から新進気鋭のバイオリニストとして活躍したのかというストーリーと、ストラディバリウス盗難の謎が平行して描かれる。レイの言動は現在パートでもわりと浮足立っていていかにも若いし、軽率に見える所もある。まだ未熟なのだ。しかし過去と現在2つの軸が合わさることで、レイの「幼年期の終わり」が描かれるのだ。青春物語としてはかなり苦い。
本作、黒人であるレイが直面する人種差別がえぐい。学生時代のレイがある結婚式で投げつけれた言葉には、これ本当に2020年代のアメリカなの?!と愕然とした。そしてクラシック音楽に馴染みのある人には自明だろうが、黒人のクラシック奏者はまだまだ少ない。人種差別(とそれに連動してきた経済格差)が根深い芸術ジャンルというのは残念ながらまだまだあることがまざまざと描かれている。これらは自身が黒人音楽家でもある著者が実際に体験したことが元になっているというから、非常にしんどい。更にしんどいのは、レイの母親を筆頭に家族親族の殆どが彼の才能を理解も尊重もしないという所だ。家族のバックアップを受けられないのは普通に生きていてもしんどいのに、ことお金のかかるクラシック音楽を学ぶ身にとっては死活問題だろう。そりゃあ家族も経済的に厳しいのはわかるけど…。こういうのを(嫌な言葉だが)親ガチャというんだな。唯一彼の背中を押す祖母の存在が救いであり本作の肝になっている。