3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

本・題名は行

『独り居の日記』

メイ・サートン著、武田尚子訳
アメリカの詩人・小説家である著者が、世間と距離を置き片田舎で一人暮らしをしていた時代の、約1年間に綴った日記。著者は60年代後半に同性愛者であることをカミングアウトしたが、そのため大学の職を追われ、更に父親を亡くし、失意の中にあった。そんな中で、自分を徹底的に見直す手がかりとして書かれた文章が本著ということになるのだろう。世間から離れた暮らしとは言え、仙人のように何かを悟ったという風ではなく、著者はしばしば癇癪をおこす(自分でも作中で言及しているが、どうもかっとしやすい性格だったようだ)し、頻繁にしょげる。そういう気分の浮き沈みや自分のみっともなさを(おそらく)ちゃんと記しているところに、作家としての強さ、冷静さがあるのだと思う。自分の思考、感情と著作に対する誠実な態度が随所から窺えるのだが、それ故に文章を書くことの苦しさも常にある。また、自著に対する書評が芳しくなく落ち込んだり、好評に気を良くしたりする様は意外だった。全然超然とした人ではないんだなと。著者は本著を執筆中、物理的に他人と距離を置いて孤独を確保していたわけだが、精神的にも、どんなに親しい人や愛する人であっても立ち入らせることができない領域がある。著者の生活や、時折言及される身近な人との軋轢からは、そういう領域の存在を感じた。他人には(なまじ親密であればあるほど)なかなか理解されにくいことなのかもしれないが。

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『服従』

ミシェル・ウェルベック著、大塚桃訳
2022年の大統領選を控え、投票所テロが起こり報道管制がしかれたフランス。極右国民戦線のマリー・ルペンを破って当選したのは穏健イスラーム政権だった。ユイスマンスの研究者である大学教授の「ぼく」は学長が変わったことで退職をよぎなくされる。
イスラーム政権がフランスで誕生するというなかなか思い切った設定だが、イスラーム政権による政治そのものというよりも、政権が、政治が大きく変化していくのに、国民であるはずの自分が当事者のような気がせず、妙だと思ってもなんとなく変化を見過ごしてしまう、そして受け入れてしまうという無気力感に強い現代性を感じた。今現在のフランス大統領選が引き合いに出され再注目されている作品だが、むしろ今の日本の空気感に通ずるものがある。「ぼく」は自他共に認めるインテリではあるが、自分の知力(と言ってもこの人あまり頭良くない感じなんだけど・・・)でこの世界に太刀打ちできるという手ごたえは全く感じていないようだし、詭弁のような説得にもなんとなく流されてしまう。自分で考えることにもう疲れてしまっているようでもある。国内情勢の変化が彼の年齢上の変化、いわゆる中年の危機と重なっているのも一因か。ゆらぎながら手探りを続けるよりも「服従」してしまった方が楽なのだ。ただ、彼が流されっぱなしなのは、彼が男性だからというのも大きな要因だろう。新しい政府の方針の上では、男性である彼は改宗さえすれば、ぱっと見大きな不利益を被ることがない。「ぼく」がずっと気にしているのは自分の下半身事情だもんな・・・。自分が損をすることがなければ(他の立場の人が不当に扱われたり不利益を被ったりしても)それまでの主義主張は結構簡単に手放してしまうものだというところに、いやーな気持ちになる。そしてウェルベックは相変わらずいけすかないインテリ男の造形が上手いなー。ちょいちょいぶん殴りたくなるタイプである。

『歩道橋の魔術師』

呉明益著、天野健太郎訳
1979年の台湾、台北。西門町と台北駅の間には、幹線道路に沿って立ち並ぶショッピングモール「中華商場」があった。歩道橋には子供達に手品を見せて手品用具を売る「魔術師」がいた。「ぼく」は旧友と会い、魔術師の記憶を呼び覚ましていく。
中華商場を舞台とした連作集。どれも大人となった「ぼく」「わたし」が子供時代を回想するという構造で、そのどこかしらに魔術師が登場する。過ぎ去ってしまった時代の、今はもう存在しない場所(中華商場は取り壊されている)を舞台としておりノスタルジックさが漂うが、その思い出、あるいはその過去から繋がる現在にはしばしば身近な人の死が関わっており、どこか影がある。子供時代の傷や後悔は、大人になってもずっと尾を引き時にその人を蝕み続けるという側面も感じさせるのだ。良かれ悪しかれ、子供時代の体験はその人の人生に影響し続ける。しかし、本作では子供の頃のどうということない日常の中に、ふっと魔法がかかる瞬間がある。この魔法がかかる瞬間を日常とシームレスにつないでいく、文章の平熱感がいい。この人にとってはそういうことだから、これはこれで真実だと思わせる。

『舞台』

西加奈子著
29歳の葉太は、初めて一人で海外旅行に出た。行先はニューヨーク。ガイドブックを暗記して準備万端のはずが、初日に盗難に遭い、財布もパスポートも無くしてしまう。しかし葉太は「初日に盗難」というかっこわるさに耐えられず、警察にも大使館にも届けを出さずにやりすごしてしまう。
こ、これが自意識モンスターか!イタさの裏読みをしすぎだよ!行くところまで行くとこうなるのか!葉太は太宰治の作品に強く共感するように、「道化」としての自分を自覚しすぎてしまう人。頭は悪くないしルックスもいいのに、それが全くプラスに働いていない。周囲にどう見られているのか、どういう自分であれば周囲に不快感を与えないのか気にしすぎてしまう。多分、周囲はそこまで彼のことを気にしていないんだろうけど、そういう問題じゃないんだろうなぁ。私は葉太に共感するところはほぼないのだが、読んでいるうちに、ここまでやらないと楽になれないのかと、段々彼が気の毒になってくる。「イタい」自分には死んでもなりたくないのに、その自意識十分にイタくなってるよ!一見要領いいように見えるんだろういけど、これはこれで、行き難くて大変そう。どういう方向性であれ、自意識との折り合いの付け方は常に厄介だ。

『ポピュリズムとは何か 民主主義の敵か、改革の希望か』

水島治郎著
大衆迎合主義とも呼ばれ、民主主義を蝕むとされがちなポピュリズム。しかしラテンアメリカでは一部のエリート層による支配から人民を解放する力になったという歴史がある。現在、ヨーロッパのポピュリズム政党は、リベラル、民主主義を前提とした上で既存政党の批判や移民の排斥を訴えており、一筋縄ではいかない。今、世界で猛威を振るうポピュリズムを、各国での状況を紹介、分析した1冊。
各国の状況がその歴史的な背景を踏まえて分かりやすく説明されており、入門書としても、事例集としてもなかなか面白かった。ポピュリズムというと何となく極右との繋がりがあって怖い、というイメージを持っていたのだが、確かに前身が極右政党であるケースは少なくないが、少なくとも現在はかなりマイルド、穏健な団体が増えているようだ。うまくいくと、危機感を感じた既存勢力が自己改革に励み国内情勢が好転、という影響もあるそうだ。その一方で移民排斥、イスラム圏の仮想敵化は概ね共通している。そして、先般のアメリカ大統領選でもそうだったが、既存の政党の政策ではカバーされていない、見捨てられていると感じている層をいかに獲得するかに注力している。国民の声をすくいあげていくのが民主主義国家ならば、ポピュリズムはやはり民主主義の一環ということになる。が、ポピュリズムが強すぎると「それ以外」の人は排斥されていくという、表裏一体ゆえの厄介さがある。一概に悪とは言えないが弊害も大きい。表層的な「悪者」を設定してそれに対するヘイトを原動力にしがちだという部分も悩ましい所だろう。良くも悪くも感情を煽る行為が原動力になりがちなところがある。

『映画と本の意外な関係!』

町山智浩著
映画の中には、様々な本や言葉が登場する。その出典や背景を知ることで、映画をより深く読み解くことができる。原作小説や引用された言葉、劇中で使われた曲の歌詞など様々な「言葉」を解説。
映画を見ているだけだと気づかない(字幕の都合で割愛されちゃったりもするし)引用が色々説明されていて、映画も本も好きな人には特に面白いのでは。著者はまえがきで「誰かの家を訪ねると、本棚が気になるんです」と書いているが、私もそう。映画の中に出てくる本棚や登場人物が読んでいる本は当然気になってまじまじと見てしまう。そういう人にはうってつけのコラムだ。人によっては言うまでもないよというようなメジャーな引用から、日本では未公開作品に関する話まで、幅広くとっつきやすい1冊だと思う。一つの映画や本から、他の作品、あるいは他のジャンルへと知識とイメージが連鎖していくことは、どんな分野にせよ鑑賞を続ける上での醍醐味だと思う。途中から映画のあらすじ説明の分量が妙に増えてくるのは、連載媒体の読者層に関係しているのか、時間がなかったのか・・・。なお第16章で著者が大炎上させてしまったある案件に言及、かつ詫びを入れているが、たまにまたやらかしそうになっているので気をつけて下さいね(笑)。

『ビビビ・ビ・バップ』

奥泉光著
ジャズピアニストのフォギーこと木藤桐は、世界的ロボット研究者の山荻から、電脳空間内の「墓」の音響調整を依頼されていた。加えて山荻は、自分の「葬式」でピアノを演奏してほしいと頼む。その頼みがきっかけで、フォギーはとんでもない事件に巻き込まれていく。
電子情報が全て死滅した「パンデミック」後に再び都市が創設されたという、21世紀を舞台にしたSF的冒険活劇、なのだが山荻のレトロ趣味のせいで電脳世界内に1960年代新宿が出現し、実在した伝説的ジャズミュージシャンたちのアンドロイドによるセッションが実現し、更に有名落語家たちや歴代棋士のアンドロイドも登場するという、未来と過去(と言っても複製だが)が入り混じる賑やかさだ。1960年代の新宿には有名人も次々ゲスト出演してきて、山荻氏結構ミーハーだったのねという気分にも。このあたりの知識が豊富な人が読めばより楽しいのだろう。語り口調の軽妙さに加え、フォギーが呑気かつ流されやすい性格なので、緊急を要する事態なのに一向に緊急感が出てこないあたりがおかしい。高度に情報化され肉体も様々に調節できる科学技術が普及した、いかにもSF的な世界だが、それは一定水準以上の経済力を持つ層のみ(つまりフォギーもそこそこ富裕層なのだ)で、その下にはいまだに肉体労働に勤しむ貧困層が広く厚く存在するという、かなり極端なディストピア格差社会になっていることが垣間見えるあたり、うっすらと寒くなる。そういう層は存在しないかのように登場人物たちの営みが行われているだけになおさらだ。なお本作の語り手は猫型アンドロイド。AIの方が世界を俯瞰しているのだ。

『ヒッチコック/トリュフォー』

 フランソワ・トリュフォーによるアルフレッド・ヒッチコックのインタビュー集であり、映画の教科書として名高い『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』。当時のインタビューの音声(動画はない。インタビュー当時も写真のみの撮影だったようだ)や、マーティン・スコセッシやウェス・アンダーソン、クリストファー・ノーランら、現在活躍している監督たちへのインタビューにより構成されたドキュメンタリー。監督はケント・ジョーンズ。なお日本語字幕は日本における『定本~』の翻訳者、山田宏一が担当している。
 私は『定本 映画術 ヒッチコック/トリュフォー』は未読なのだが、なぜヒッチコックとトリュフォーなのかということは前々から不思議に思っていた。ヒッチコックの作家性を世に知らしめたのがトリュフォーということだったのか。それまでヒッチコックは職人的な監督、商業監督という認識だったのだろうが、トリュフォーはヒッチコックの技法を分析し、本人に確認していく。その技法が後々どのように見られ、影響を与えてきたのかを、現代の監督たちが語る。私はヒッチコックに対してトリュフォーに対しても熱心な観客ではないし、映画の技法面にも疎いので何だか申し訳ない気分にもなったが、とても面白かった。ヒッチコックの演出、画面の作り方はシステマティックでもあるのだが、それを極めていくと実にヒッチコックぽい、というスタイルになる。
 いいインタビュアー、聞き手というのはどういうものか、ということを見ながら考えた。単に聞き上手なだけではだめだろう。トリュフォーはヒッチコックへのインタビューの際、時間をかけて入念に下準備をしてから臨んだそうだ。インタビュー対象(とその作品)に対する知識はもちろん、映画というジャンル全体について知識がある、かつ映画だけではなく様々な引出しがあって相手の反応に応じて取り出せる、という状態があってこそのインタビュー・・・だとすると大分ハードルが高い。しかしその高いハードルを越えてきたから、ヒッチコックはトリュフォーを信頼し話をしたのだろう。相手が自分(と自分がいる分野)のことをわかってるな、よく見てくれてるなと思えれば、そりゃあ積極的に話したくなるよな。色々なインタビューを読んでいても、分野に関わらずいいインタビューってインタビュアーの知識が広いし深いケースが殆どだと思う。

『ブルーに生まれついて』

 1950年代。甘いマスクとソフトな歌声で、ジャズ界のジェームズ・ディーンともてはやされたトランペット奏者チェット・ベイカー(イーサン・ホーク)だが、麻薬に溺れていく。1966年、麻薬がらみのトラブルで顎と歯に重傷を負い再起不能かと思われたが、ジェーン(カルメン・イジョゴ)の献身的な愛情に支えられ、ドラッグを絶ちミュージシャンとして再起を図る。監督・脚本はロバート・バドロー。
 ジャズミュージシャン、チェット・ベイカーの伝記映画というよりも、彼に対するオマージュのような雰囲気だと思う。伝記としてはエピソードが断片的すぎることに加え、ベイカーが主演を務めるベイカーの自伝映画が作中作として挿入されるので、虚実混じった感が強くなる。映画で妻エレインを演じたジェーンが実際に彼のパートナーとなり、自伝映画はベイカーが重傷を負ったことにより製作中止になってベイカーの記憶の中にしかないので、なおさらレイヤーが入り混じる。これはベイカーとエレインの思い出なの?それともジェーンとの思い出なの?と混乱するところも。ベイカーにとっては、2人とも同じような存在なのかもしれないなとふと思った。
 重傷からリハビリを重ね、再起不能と思われていたベイカーが奇跡の復帰を遂げる。遂げることは遂げるのだが・・・。実在の人物だからネタバレも何もないのだが、何とも苦い。確かに大変な努力があったのだろうが、心の弱さはどうしようもないのか。ジェーンとの二人三脚のようなリハビリの過程も、愛が深いとも言えるが依存しているとも言える。彼女には彼女の目標があるということを全く考慮していないということが終盤で露呈してしまい、これまた苦い。才能は確かにあるのだが、弱く脆すぎる。同時代の天才であるマイルス・デイヴィスの存在が大きすぎ、プレッシャーに耐えられなかったというのも、プロとしてどうなのよ!と言いたくなってしまう。マイルスはマイルス、自分は自分というふうには思えなかったんだろうなぁ。情けないのだが、自分が生きる場所がジャズの世界にしかない以上、そこで否定されたら生きていけないというところが痛切。
 イーサン・ホークのどこか弱弱しいルックスが、役柄と合っており好演。トランペットはさすがに吹替え(でも演奏の仕方は特訓したそうで、素人目には違和感はない)だが、歌は本人が歌っている。私はホークにセクシーさを感じたことはなかったのだが、本作での歌声にはぐっときた。この曲、本当にいい曲だったんだなとしみじみさせられた。

『薔薇の奇跡』

ジャン・ジュネ著、宇野邦一訳
メトレー少年院を経てフォントヴロー中央刑務所に収容された「僕」は、そこで出会ったアルカモーヌ、ビュルカン、ディベールという美しい囚人たちのこと、そしてそこでの生活を回想する。著者の自伝的な要素が強いと言われる作品。ジュネと言えば本人も元泥棒で何度も投獄されており、かつ同性愛者であるということばかりが知られている気がするし、私もまずはそのイメージを思い起こす。今回、光文社古典新訳文庫版で読んだのだが、新訳だとかなり読みやすくなっている。過去の訳から受ける印象よりもかなり明瞭で理性的。確かに幻想が入り混じり時にナルシスティックではある(そして性的な部分はあけすけ)のだが、そこに溺れず、更に俯瞰するような冷静さがあると思う。幻想も陶酔も、監獄での(おそらく不愉快な)体験をねじ伏せて自分のものとするためのフィルターではないか。章だてがされておらず、メトレーとフォントブローの思い出が前置きなく入れ替わるので、読む側は今どの時代のことを読んでいるのか、誰についての記述なのか混乱するのだが、それも織り込み済みだろう。巻末の解説でも言及されているように、アルカモーヌ、ビュルカン、ディベールは3人の別人ではなく同じ人物のように思えてくる。著者のイメージの中の荒くれ者、少年のイデアのようなものに見える。

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