3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

本・題名は行

『ブラインド・マッサージ』

畢飛宇著、飯塚容訳
 南京の「沙宗琪マッサージセンター」は、親友同士の沙復明と張宗琪が共同出資して開いたマッサージ店。2人の店長も他のマッサージ師たちも盲目で、店の中では盲人の社会がつくられていた。ある日、沙復明のかつての同級生・王が恋人・小孔を連れ職を求めてやってきた。王は株で失敗して開業資金を失い、小孔は恋人の存在を家族に言えず、駆け落ち同然だった。
 私は本作を原作にしたロウ・イエ監督の同名映画(とてもいい)を先に見ていたので、映画はここのアレンジを変えていたのかとか、実際はこのパートが結構長かったのか等、映画と比較しながら読んだのだが、本作自体がとてもいい小説だ。盲人の世界の描写の細やかさ、彼らの形成している「社会」のあり方は小説の方がよりくっきりと立ち上がってくる。マッサージ師たちの間での感情のベクトル、微妙なパワーバランスの危うさは、限定された人間関係の中では起こりがちなもので、温かみがあると同時に人間関係の狭さと偏狭さによる息苦しさを感じる。人間関係の厄介さ、羨望や嫉妬はどこの国であれどんな人であれ同じなのだ。映画と同様に強く印象を残したのは、王の弟の借金を巡る振る舞い。長男の難儀さがのしかかってくる。また、この騒動にけりをつける行動がとんでもないのだが、それが彼の誇りによるものだという所に、彼が今まで何を我慢して何を支えに生きてきたのかが露わになり痛切だ。一人の人間としての誇りであり、盲人としての誇りでもある。本作は、登場人物それぞれの「訳あり」な部分や狡猾さや衝動を描く一方で、それぞれの誇りにも度々言及する。人は何に依って立つのかという部分がそこから垣間見えるのだ。それにしても借金騒動の顛末、これで王は少し自由になれたのではとも思えるが、弟がけろっとしている所がまた腹立つんだよなー。どこの世界にも無自覚なクズっているよな・・・。


かつては岸 (エクス・リブリス)
ポール ユーン
白水社
2014-06-25



『フロスト始末(上、下)』

R・D・ウィングフィールド著、芹澤恵訳
 相変わらず人手不足であえぐデントン署。フロスト警部は少女の失踪事件、強姦事件、スーパーマーケットへの脅迫事件にバラバラ死体と、厄介な事件を次々と背負いこんでいた。一方、マレット署長は新たに着任したスキナー主任警部と組み、フロストを他所の署に移動させ厄介払いしようと画策していた。
 上下巻のボリュームだが滅法面白く、特に下巻に入ると一気に読みきってしまった。著者の急逝により、シリーズ最終作となった本作。フロスト警部は相変わらず下品だしだらしないしセクハラ発言は多いし、経費の水増し請求がバレて大変なことになる。ぱっと見ダメ人間的な振舞だが、実際の所仕事熱心で、ぼやきつつも大変なハードワーカー(むしろワーカホリックの傾向が強い)であるのも相変わらずだ。欠点が多い割に部下や同僚からは愛されているっぽいのは、彼には(マレットやスキナーと異なり)部下を思いやり彼らに対する責任は負うという姿勢があり、何より警官としての矜持を持ち続けているからだろう。例え周囲が自分のミスを責めなくても、警官である自分が自分のことを許せない、だから踏ん張り続けるのだという筋の通し方にはやはりぐっとくる。今回、フロスト警部は少々センチメンタルで、亡くなった妻のことを何度も回想する。フロスト夫妻の心が離れていく過程は、ありがちな話ではあるのだがだからこそやるせない。対称的にデントン署が今回抱える事件は陰惨な色が濃く、やりきれない展開も。ことなかれ主義で事件の現場に関してはわれ関せずのマレットですら、絶句するような事態も起きる。泥沼状態の中であがき続けるフロスト警部とデントン署の面々の奮闘にエールを送りたくなる。続きがもう読めないというのは寂しい限り。

フロスト始末〈上〉 (創元推理文庫)
R・D・ウィングフィールド
東京創元社
2017-06-30

フロスト始末〈下〉 (創元推理文庫)
R・D・ウィングフィールド
東京創元社
2017-06-30

『バッドエンドの誘惑 なぜ人は厭な映画を観たいと思うのか』

真魚八重子著
 世の中にはいわゆる「バッドエンド」、後味の悪い映画がたくさんある。後味の悪さも千差万別。その「厭さ」を分類し何が厭さをかきたて、同時になぜ人は厭な映画を観てしまう、あまつさえそれに癒されることすらあるのか読み解く映画評集。
 厭映画の分類の仕方に納得の技がある。そしてこまかいセクションの名称がパワーワードの連打で痺れる。第一章「バッドエンドの誘惑」内には「神は人の上に人を作った」、「絶望の長さ」、「報いなし」と飛ばしてくるし、更に国別厭な映画集(映画ファンなら予想の付く人もいるだろうが、厭映画充実度はデンマークがぶっちぎりである。北欧映画の厭さは一味違うぜ・・・)、第三章「女と子供」では、あの映画しかないだろう!という「幼女の嘘で村八分」、厭映画の定番とも言うべき「こども受難映画」等、てらいのない盛りの良さ。厭さでお腹いっぱいである。とは言え、紹介されている映画の半分近くを見ていることがわかったので、私は多分バッドエンドが嫌いではないし、厭な映画でないとカバーできない心の傷、というと大げさだけど陰りみたいなものってあるんだろうなと実感した。本著、その映画の何がどう「厭」なのか、その「厭」さの背景には何があるのかということに焦点を置いて丁寧に読み解いており、大変面白かった。読み手に対して過剰に立ち入らないが寄り添う感じの距離感が保たれており、真摯さがあると思う。

『バンディーニ家よ、春を待て』

ジョン・ファンテ著、栗原俊秀訳
 イタリア系移民のスヴェーヴォ・バンディーニとその妻マリア、14歳のアルトゥーロ、12歳のアウグスト、8歳のフェデリーコという3人の息子から成るバンディーニ家。一冬の家族の姿を描く、著者の自伝的小説。
 主にスヴェーヴォ、マリア、アルトゥーロの視線から語られるが、3人とも気分の浮き沈みが激しく、ちょっと痙攣しているような文体だ。特にスヴェーヴォとアルトゥーロは良くも悪くも、熱狂的な所があり、エネルギーに満ち溢れており騒がしい。また、3人とも視野が広いとは言い難い人たちなので、その世界の狭さが息苦しかった。経済的に困窮しているという息苦しさと、夫婦関係、家族関係に行き詰っている息苦しさが入り混じっているのだが、そのどちらもこれ以外に生きる方法を知らない、ここ以外にどこも知らないというどん詰まり感により拍車をかけられているように思った。スヴェーヴォのキャラクターは強烈だ。煉瓦工事職人としての矜持はあるが、怒りっぽくて計画性がなく、父親としても夫としてもおおよそ役に立ちそうもない。しかしそんな彼をマリアは愛し、アルトゥーロは誇りに思っている。彼の「男らしさ」は彼自身の首を絞めることになりかねないのだが、妻にとっては執着の対象、息子にとっては憧れなのだ。それが何だかやりきれなかった。スヴェーヴォには良き夫・良き父であろうという意欲はあるのだが、毎回自分で台無しにしてしまう。無学であることへのコンプレックスと労働者としての誇り、イタリア移民であることへの引け目と自分の民族に対する誇りが彼の中でせめぎあっており、それが時に爆発する。彼自身が、何で自分が爆発するのか、自分の中のせめぎ合いが何なのかよくわかってないのだろう。全編、彼(だけでなくマリアやアルトゥーロ)の苛立ちと怒りが根底に流れているように思った。

『独り居の日記』

メイ・サートン著、武田尚子訳
アメリカの詩人・小説家である著者が、世間と距離を置き片田舎で一人暮らしをしていた時代の、約1年間に綴った日記。著者は60年代後半に同性愛者であることをカミングアウトしたが、そのため大学の職を追われ、更に父親を亡くし、失意の中にあった。そんな中で、自分を徹底的に見直す手がかりとして書かれた文章が本著ということになるのだろう。世間から離れた暮らしとは言え、仙人のように何かを悟ったという風ではなく、著者はしばしば癇癪をおこす(自分でも作中で言及しているが、どうもかっとしやすい性格だったようだ)し、頻繁にしょげる。そういう気分の浮き沈みや自分のみっともなさを(おそらく)ちゃんと記しているところに、作家としての強さ、冷静さがあるのだと思う。自分の思考、感情と著作に対する誠実な態度が随所から窺えるのだが、それ故に文章を書くことの苦しさも常にある。また、自著に対する書評が芳しくなく落ち込んだり、好評に気を良くしたりする様は意外だった。全然超然とした人ではないんだなと。著者は本著を執筆中、物理的に他人と距離を置いて孤独を確保していたわけだが、精神的にも、どんなに親しい人や愛する人であっても立ち入らせることができない領域がある。著者の生活や、時折言及される身近な人との軋轢からは、そういう領域の存在を感じた。他人には(なまじ親密であればあるほど)なかなか理解されにくいことなのかもしれないが。

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『服従』

ミシェル・ウェルベック著、大塚桃訳
2022年の大統領選を控え、投票所テロが起こり報道管制がしかれたフランス。極右国民戦線のマリー・ルペンを破って当選したのは穏健イスラーム政権だった。ユイスマンスの研究者である大学教授の「ぼく」は学長が変わったことで退職をよぎなくされる。
イスラーム政権がフランスで誕生するというなかなか思い切った設定だが、イスラーム政権による政治そのものというよりも、政権が、政治が大きく変化していくのに、国民であるはずの自分が当事者のような気がせず、妙だと思ってもなんとなく変化を見過ごしてしまう、そして受け入れてしまうという無気力感に強い現代性を感じた。今現在のフランス大統領選が引き合いに出され再注目されている作品だが、むしろ今の日本の空気感に通ずるものがある。「ぼく」は自他共に認めるインテリではあるが、自分の知力(と言ってもこの人あまり頭良くない感じなんだけど・・・)でこの世界に太刀打ちできるという手ごたえは全く感じていないようだし、詭弁のような説得にもなんとなく流されてしまう。自分で考えることにもう疲れてしまっているようでもある。国内情勢の変化が彼の年齢上の変化、いわゆる中年の危機と重なっているのも一因か。ゆらぎながら手探りを続けるよりも「服従」してしまった方が楽なのだ。ただ、彼が流されっぱなしなのは、彼が男性だからというのも大きな要因だろう。新しい政府の方針の上では、男性である彼は改宗さえすれば、ぱっと見大きな不利益を被ることがない。「ぼく」がずっと気にしているのは自分の下半身事情だもんな・・・。自分が損をすることがなければ(他の立場の人が不当に扱われたり不利益を被ったりしても)それまでの主義主張は結構簡単に手放してしまうものだというところに、いやーな気持ちになる。そしてウェルベックは相変わらずいけすかないインテリ男の造形が上手いなー。ちょいちょいぶん殴りたくなるタイプである。

『歩道橋の魔術師』

呉明益著、天野健太郎訳
1979年の台湾、台北。西門町と台北駅の間には、幹線道路に沿って立ち並ぶショッピングモール「中華商場」があった。歩道橋には子供達に手品を見せて手品用具を売る「魔術師」がいた。「ぼく」は旧友と会い、魔術師の記憶を呼び覚ましていく。
中華商場を舞台とした連作集。どれも大人となった「ぼく」「わたし」が子供時代を回想するという構造で、そのどこかしらに魔術師が登場する。過ぎ去ってしまった時代の、今はもう存在しない場所(中華商場は取り壊されている)を舞台としておりノスタルジックさが漂うが、その思い出、あるいはその過去から繋がる現在にはしばしば身近な人の死が関わっており、どこか影がある。子供時代の傷や後悔は、大人になってもずっと尾を引き時にその人を蝕み続けるという側面も感じさせるのだ。良かれ悪しかれ、子供時代の体験はその人の人生に影響し続ける。しかし、本作では子供の頃のどうということない日常の中に、ふっと魔法がかかる瞬間がある。この魔法がかかる瞬間を日常とシームレスにつないでいく、文章の平熱感がいい。この人にとってはそういうことだから、これはこれで真実だと思わせる。

『舞台』

西加奈子著
29歳の葉太は、初めて一人で海外旅行に出た。行先はニューヨーク。ガイドブックを暗記して準備万端のはずが、初日に盗難に遭い、財布もパスポートも無くしてしまう。しかし葉太は「初日に盗難」というかっこわるさに耐えられず、警察にも大使館にも届けを出さずにやりすごしてしまう。
こ、これが自意識モンスターか!イタさの裏読みをしすぎだよ!行くところまで行くとこうなるのか!葉太は太宰治の作品に強く共感するように、「道化」としての自分を自覚しすぎてしまう人。頭は悪くないしルックスもいいのに、それが全くプラスに働いていない。周囲にどう見られているのか、どういう自分であれば周囲に不快感を与えないのか気にしすぎてしまう。多分、周囲はそこまで彼のことを気にしていないんだろうけど、そういう問題じゃないんだろうなぁ。私は葉太に共感するところはほぼないのだが、読んでいるうちに、ここまでやらないと楽になれないのかと、段々彼が気の毒になってくる。「イタい」自分には死んでもなりたくないのに、その自意識十分にイタくなってるよ!一見要領いいように見えるんだろういけど、これはこれで、行き難くて大変そう。どういう方向性であれ、自意識との折り合いの付け方は常に厄介だ。

『ポピュリズムとは何か 民主主義の敵か、改革の希望か』

水島治郎著
大衆迎合主義とも呼ばれ、民主主義を蝕むとされがちなポピュリズム。しかしラテンアメリカでは一部のエリート層による支配から人民を解放する力になったという歴史がある。現在、ヨーロッパのポピュリズム政党は、リベラル、民主主義を前提とした上で既存政党の批判や移民の排斥を訴えており、一筋縄ではいかない。今、世界で猛威を振るうポピュリズムを、各国での状況を紹介、分析した1冊。
各国の状況がその歴史的な背景を踏まえて分かりやすく説明されており、入門書としても、事例集としてもなかなか面白かった。ポピュリズムというと何となく極右との繋がりがあって怖い、というイメージを持っていたのだが、確かに前身が極右政党であるケースは少なくないが、少なくとも現在はかなりマイルド、穏健な団体が増えているようだ。うまくいくと、危機感を感じた既存勢力が自己改革に励み国内情勢が好転、という影響もあるそうだ。その一方で移民排斥、イスラム圏の仮想敵化は概ね共通している。そして、先般のアメリカ大統領選でもそうだったが、既存の政党の政策ではカバーされていない、見捨てられていると感じている層をいかに獲得するかに注力している。国民の声をすくいあげていくのが民主主義国家ならば、ポピュリズムはやはり民主主義の一環ということになる。が、ポピュリズムが強すぎると「それ以外」の人は排斥されていくという、表裏一体ゆえの厄介さがある。一概に悪とは言えないが弊害も大きい。表層的な「悪者」を設定してそれに対するヘイトを原動力にしがちだという部分も悩ましい所だろう。良くも悪くも感情を煽る行為が原動力になりがちなところがある。

『映画と本の意外な関係!』

町山智浩著
映画の中には、様々な本や言葉が登場する。その出典や背景を知ることで、映画をより深く読み解くことができる。原作小説や引用された言葉、劇中で使われた曲の歌詞など様々な「言葉」を解説。
映画を見ているだけだと気づかない(字幕の都合で割愛されちゃったりもするし)引用が色々説明されていて、映画も本も好きな人には特に面白いのでは。著者はまえがきで「誰かの家を訪ねると、本棚が気になるんです」と書いているが、私もそう。映画の中に出てくる本棚や登場人物が読んでいる本は当然気になってまじまじと見てしまう。そういう人にはうってつけのコラムだ。人によっては言うまでもないよというようなメジャーな引用から、日本では未公開作品に関する話まで、幅広くとっつきやすい1冊だと思う。一つの映画や本から、他の作品、あるいは他のジャンルへと知識とイメージが連鎖していくことは、どんな分野にせよ鑑賞を続ける上での醍醐味だと思う。途中から映画のあらすじ説明の分量が妙に増えてくるのは、連載媒体の読者層に関係しているのか、時間がなかったのか・・・。なお第16章で著者が大炎上させてしまったある案件に言及、かつ詫びを入れているが、たまにまたやらかしそうになっているので気をつけて下さいね(笑)。

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