3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

本・題名は行

『バイオリン狂騒曲』

ブレンダン・スロウカム著、東野さやか訳
 チャイコフスキーコンクールまで1カ月に迫ったある日、黒人バイオリニストのレイの楽器がホテルから消え、「身代金」を要求する手紙が残されていた。盗まれたのは、名器ストラディヴァリウスだったのだ。そのストラディバリウスはレイの曽祖父が名器とは知らずに弾いており長らく屋根裏部屋に眠っていたが、祖母からレイに譲られたのだ。しかし名器と知った親族たちは売却を主張し、レイはある取引をしていた。その上今回の盗難事件。レイは無事コンクールに出場することができるのか。
 青春音楽サスペンスとでも言いたくなる、一気に読ませる展開だった。レイの過去と現在を行き来する構造で、彼がどういう境遇から新進気鋭のバイオリニストとして活躍したのかというストーリーと、ストラディバリウス盗難の謎が平行して描かれる。レイの言動は現在パートでもわりと浮足立っていていかにも若いし、軽率に見える所もある。まだ未熟なのだ。しかし過去と現在2つの軸が合わさることで、レイの「幼年期の終わり」が描かれるのだ。青春物語としてはかなり苦い。
 本作、黒人であるレイが直面する人種差別がえぐい。学生時代のレイがある結婚式で投げつけれた言葉には、これ本当に2020年代のアメリカなの?!と愕然とした。そしてクラシック音楽に馴染みのある人には自明だろうが、黒人のクラシック奏者はまだまだ少ない。人種差別(とそれに連動してきた経済格差)が根深い芸術ジャンルというのは残念ながらまだまだあることがまざまざと描かれている。これらは自身が黒人音楽家でもある著者が実際に体験したことが元になっているというから、非常にしんどい。更にしんどいのは、レイの母親を筆頭に家族親族の殆どが彼の才能を理解も尊重もしないという所だ。家族のバックアップを受けられないのは普通に生きていてもしんどいのに、ことお金のかかるクラシック音楽を学ぶ身にとっては死活問題だろう。そりゃあ家族も経済的に厳しいのはわかるけど…。こういうのを(嫌な言葉だが)親ガチャというんだな。唯一彼の背中を押す祖母の存在が救いであり本作の肝になっている。

バイオリン狂騒曲 (集英社文庫)
東野 さやか
集英社
2023-07-21


『平家物語 犬王の巻』

古川日出男著
 室町時代、盲目の少年・友魚は琵琶法師となり、視力を奪った原因である平家の物語を収集していた。ある時出会った犬王と名乗る少年は異形に生まれながら天才的な能楽師だった。2人が奏でる楽曲は、犬王を世阿弥と人気を二分する存在に押し上げていく。
 題名は犬王だが、本作の語りはこれは友魚の物語だと断言する。友魚が語る犬王の物語であり、犬王の物語の中では彼自身の、そして平家の物語が語られ、それをまた地の文が友魚の物語として語る。語りのレイヤーがくるくると入れ替わっていき、軽やかだ。友魚と父の亡霊とのやりとりなどユーモラス。ただ、語りが入れ替わっていくということは語る立場によって物語が変わっていく、信用できないということでもある。友魚と犬王が演じるのは平家にまつわる本筋が取りこぼした、もしくはあえて伏せた物語だが、それは世に流通する「平家物語」にとっては異聞、都合の悪いものだ。
 犬王は実際に記録に残っている近江猿楽日吉座の大夫の名だそうだが、その名は世阿弥の影に隠れ後世には残らなかった。本著はその犬王をモデルとした作品であり、平家物語の異聞でもある。本著の舞台は室町時代なので平家が滅んでから100年以上経過しているわけだが、物語を通じて平家の記憶、そして平家やそれに連なる人々の残した怨念は依然として強く残っている。そしてその強さ故に猿楽の演目として人気を博し。将軍はその物語を所有したがる。「正当な」物語の所有が権力の正当さを裏付けるのだ。メインストリームの芸能は権力におもねる側面がある。それに直面した犬王と友魚の顛末には寂寥感も漂うが、それでもなお彼らの芸能が響くラストにはちょっとぐっとくる。

平家物語 犬王の巻 (河出文庫)
古川日出男
河出書房新社
2021-12-21


劇場アニメーション『犬王』(完全生産限定版) [Blu-ray]
アヴちゃん(女王蜂)
アニプレックス
2022-12-14


『ハムネット』

マギー・オファレール著、小竹由美子訳
 18歳のシェイクスピアは8歳年上の地主の娘アグネスと結婚し、長女、さらに男女の双子が生まれる。双子はハムネットとジュディスと名付けられるが、ハムネットは11歳の時に死んだ。僅かに残されたシェイクスピアの妻子にまつわる記録を元に、アグネスという1人の女性の姿を描き出す。
 シェイクスピアの妻というといわゆる悪妻のイメージがあるが、本当に悪妻だったのか?そもそも後世に一方的に悪妻扱いされるのってどうなの?ともやもやしそうなところをカバーしてくれるのが本著。小説なのでもちろんフィクションなのだが、ある女性、ある夫婦の物語としてとても面白い。(作中の)アグネスは薬草の知識が豊富で養蜂家でハヤブサを飼いならすという、当時の世間からは大分浮いた人だ。彼女を良く思わない人もいるが、アグネスの動植物に関する知識は確かなもので、生活力があり精神的にも自立している。一方でシェイクスピアは実家の商売には向かず、暴君としてふるまう父親を恐れて生きてきた。共通項がなさそうな2人が瞬時に惹かれ合うというのは不思議なのだが、2人にとって結婚は親から少し自由になる方法でもあった。しかしアグネスがシェイクスピアの中に見出したもの、劇作への情熱が長じて2人の距離を広げることになる。アグネスもシェイクスピアも、それぞれの根幹にある世界、各々の中の変えられない部分をお互いに理解することはできない。それが息子の死によって露呈していく。子供の死に対する悲しみを夫婦間で共有できない、お互いに悲しみの形が違うことで関係が崩れるというモチーフは様々な小説、映画で見受けられるが、本作もその一環とも言える。ただアグネスとシェイクスピアは、関係を元に戻せなくともお互いを尊重するという域にはたどり着いたのではないか。『ハムレット』上演と重なるクライマックスは圧巻。
 なお作中ではシェイクスピアという名前は使われていない。彼はアグネスの夫であり、アグネスにとっての彼は文豪シェイクスピアではないのだ。あくまでアグネスが主体の物語ということか。

ハムネット (新潮クレスト・ブックス)
マギー・オファーレル
新潮社
2021-11-30


新訳 ハムレット (角川文庫)
河合 祥一郎
KADOKAWA
2012-10-01




 

『緋色の記憶』

トマス・H・クック貯、鴻巣友季子訳
 チャタム村に美術教師として赴任してきたミス・チャニング。彼女の美しさと長らく海外を旅してまわっていたという経歴にひかれた「わたし」は、彼女に勧められスケッチを始める。しかしミス・チャニングがやってきたことで村の平穏は大きくかき乱されることになる。
 弁護士となった「わたし」が老年になってから回想するという形式。なので、語り手には何が起きるかわかっている、そして読者はこの先不幸が訪れることを繰り返し示唆されながら読み進めることになる。今回新版が出たので10数年ぶりに読み直した。「上手くて面白いが嫌な話」という印象の記憶しか残っていなかったのだが、やはり上手いし面白い。そしてやはり嫌な話だった。新録された解説でも言及されているが、緋色といえば『緋文字』であり、個人同士の感情の問題を共同体が一方的に断罪しつるし上げるという行為の恐ろしさが予感されるのだ。著者の手腕はこの予感の感じさせ方、におわせ方の巧みさにある。一歩間違えるとかなり下卑た印象、やりすぎになりそうなところ、程よい所で留めかつ読者の興味を途切れさせない。更に文章に詩情があり美しい。訳文もあえて古めかしい表現を使っているところがあり、過去の回想というノスタルジーが強まる。
 ただ本作の怖い所は、前述したような共同体の道徳の独りよがりさだけではなく、個人の一方的な思い入れ、それがたどり着いた取り返しのつかない地点にある。そこにたどり着くまでにこの人たちに何があったのか、なぜそうなったのかということがひとつづつ積み上げられていくのだ。若い者ほど独りよがりになりがちとは言うが、自分のロマンティシズムを他人に託すことの傲慢さ、身勝手さが痛烈だ。回想という形式になっていることで、行為の取返しのつかなさがよりインパクトを残す。

緋色の記憶〔新版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
トマス H クック
早川書房
2023-04-25


緋文字 (光文社古典新訳文庫)
ホーソーン
光文社
2014-09-26



『辮髪のシャーロック・ホームズ 神探福邇の事件簿』

真理斬著、舩山むつみ訳
 19世紀末の香港。名探偵と名高い福邇(フーアル)とその親友である医師の華笙(ホアション)は、数々の難事件を解決してきた。2人の出会いを含む、その活躍を収録した短篇集。
 邦題を見れば一目瞭然なように、舞台を香港に置き換えたホームズパスティーシュ。実は原題および本編にホームズという文字は一つも入っていない。福邇と華笙の中国語読みはホームズ、ワトソンの読みを彷彿とさせるものらしいのだが、他の言語圏の読者にはさすがにわからないだろう。しかし本編を読むと、これはあの事件、この人はあの登場人物へのオマージュだなということが、それほどコアなホームズ読者ではない私にもはっきりわかる。原典の骨組み、要素の抽出とその置き換えがかなりうまくいっているのではないか。福邇と華笙の掛け合いも原典の雰囲気に近い。ホームズよりは福邇の方が対外的に折り目正しく身近な人にとっては可愛げがある感じはするのだが、これは翻訳の妙だろうか。華笙が食いしん坊らしいあたりも可愛らしい。
 特に当時の香港の時代背景や世界の中での立ち位置の織り込み方が上手いので、歴史小説としても(私は歴史に疎いのだが)楽しめる。当時の香港の雰囲気を味わうだけでもなかなか楽しい。巻末の注釈が読書の補助線になるので、当時の香港のことをあまり知らなくても楽しめると思う。
 なお本作、「福邇の活躍を華笙が記録した物語はかつて新聞に掲載され人気だった。原文が散逸してしまった後、編集者の杜軻南(ドゥー・コナン)が収集・再編。多くの読者を得たが抗日戦争後に絶版。2017年から再販が始まった」という旨が著者による序文に記されている。つまり福邇は実在の人物で著者=真理斬が原文を整理しなおした、という体で書かれているのだ。凝っている!

辮髪のシャーロック・ホームズ 神探福邇の事件簿 (文春e-book)
莫理斯(トレヴァーモリス)
文藝春秋
2022-04-22




『破果』

ク・ビョンモ著、小山内園子訳
 45年のキャリアを積んだベテランの女殺し屋・爪角(チョガク)。しかし老いを止めることはできず、ある日大きなミスを犯し怪我を負う。なんとか行きつけの病院にたどり着くが、馴染みの医者はおらず、代理で勤めていた医者と秘密を共有することになってしまう。
 主人公が65歳女性で殺し屋という設定だけでわくわくしてしまうが、爪角がフィクションにありがちな「かっこいいおばあちゃん」ではなく、ごくごく地味で埋没しそうな外見、かつ内面も仕事(殺しだが)に対して実直で人付き合いは苦手という地味さ。決して器用な人間ではない。更に、プロとして鍛錬しており男性とも対等に渡り合えるとはいえ、肉体の老いには勝てないことがはっきりと描かれているあたりはシビア。若い殺し屋に追い詰められていく様は残酷でもある。一方で、若い医師に惹かれたりもするし、衝動的に行商の老人を助けてしまったりする。爪角は老人として描かれるが、パターン化された老人ではなく、爪角という一人の人間として描かれている。
 なぜか「おじいちゃん」「おばあちゃん」はパターン化されやすい。爪角は「おばあちゃん」と言われるであろう年齢だが、「おばあちゃん」という言葉に付きまとう母性やケア精神はあまり見せない。老人や子供を気遣うのは一般的な人としての配慮であって、母性は関係ない。若い男性に惹かれるのも単に惹かれたのであって、失った息子を重ねるわけではない。そもそも若者であろうが老人であろうがそういうものだろうが、歳をとることでそういった人として普通の反応が爪角に出てくるという所が面白い。爪角は老いて殺し屋としては不自由になっていくのだろうが、人として自由になっていく側面もあるのかもしれない。ラストにはささやかな自由を感じた。
 冒頭、若い女性が中年男性に絡まれるエピソードがあるが、実際に非常によくあるパターンだ。爪角の人生はこういった女性故に見舞われる困難によって流れが決まっていく。爪角自身はそれを困難として嘆いたりはしないが、受け入れというより諦念に近いものだろう。本作がロマンチシズムに流れすぎないのは、そういった苦さが根底にあるからではないかと思う。

破果
ク ビョンモ
岩波書店
2023-02-22


おらおらでひとりいぐも (河出文庫)
若竹千佐子
河出書房新社
2020-06-26


『本屋で待つ』

佐藤友則、島田潤一郎著
 広島県の町の本屋「ウィー東城店」。本屋の息子として生まれた著者は親の事業を継ぐ形でこの店の店長となった。「半端者」だった学生時代、店の経営の立て直しに四苦八苦した青年時代、そして経営者として地方の個人商店の生き残り方を模索していく過程とそこで気付いたこと、出会った人たち。地域の小売店に何ができるかが見えてくるエッセイ。
 著者は親が本屋をやっていたから本屋を継いだのだが、本は(少なくともかつては)信用度の高い商品であるという指摘は、日常的に本を読んでいると意外と盲点だった。昔は何か知りたかったら本で調べるしかなかった。本屋は知識を売る店だったのだ。そしてその名残、かつ高齢者が多い地方の町という地域性からか、ウィー東城店には本を買う以外の相談事が持ち込まれてくるという所が面白い。本屋=何か解決方法を知っているかも、という期待感、信頼感があるのだ。著者はここに本屋(だけではなく小規模な商店)の活路があると考える。個人商店的な本屋というと目利きがセレクトした本を売るというイメージがあるが、著者は自分はむしろ本に詳しいわけではないと言う。持ち込まれた携帯電話やプリンターの修理の手配に奔走したり、年賀状の宛名印刷をしたり、一見書店とは関係なくとも「お客さんの為」に動くのだ。いやお客さんでなくとも町の人の為であり、町の人に活気がないと商店にも活気は出ないだろう。題名の「待つ」とはそういう来店者たちを待つということかと思っていたら、後半でもっと大きな「待つ」の意味がわかってきてきてはっとした。周囲がじっと待っている方が人は自分で歩みだす。著者は若いころはむしろ待てない人だった様子だが、徐々に待てる人になっていった、それによって店のスタッフも変化していったという過程が心を打つ。巻末のスタッフへのインタビューもぐっときた。

本屋で待つ
佐藤友則
夏葉社
2022-12-25


「待つ」ということ (角川選書)
鷲田 清一
KADOKAWA
2013-04-11


『ハッピークラシー 「幸せ」願望に支配される日常』

エドガー・カバナス、エヴァ・イルーズ著、高里ひろ訳
 90年代に創設され、アメリカを中心に世界に広まったポジティブ心理学。「幸せの科学」をうたうこの心理学は、幸福は数値として客観的に規定でき、幸福、ポジティブであることが人間にとって善であると唱える経験科学。自己啓発やコーチング、マインドフルネスなど様々な形で広まったこの学問には、過去にも批判的指摘が多々されてきた。それらの批判を踏まえつつ、心理学者と社会学者の著者らがポジティブ心理学の問題点をとらえた研究所。
 本著はフランスでベストセラーになったそうで、流石フランスというか何というか…少なくともアメリカではベストセラーにはならなさそうだ。ポジティブ心理学はビジネスシーンで引き合いに出されることが多いので耳にしたことはあったが、個人的には正直うさんくさいと思ってきた。そもそも幸福という抽象概念を科学的に定量評価できる、万人にあてはめられるという主張自体がおかしい思うのだが。著者らはポジティブ心理学で幸せになる、成功する人がいること自体は否定していないが、この学問(と呼べるのなら)が人間の状態をあまりに単純化していること、また新自由主義と自己責任社会との相性が良すぎる点を批判している。幸福か否かが個人の資質や努力に基づくということにしておけば、不自由や不平等があっても個人の努力の問題で、政治や行政や企業の問題ではないということにできてしまう。また常に気分が安定しており機嫌がよく、不平不満を言わずに「自分の価値を高める」労働に邁進する、そして自分の幸福以外にあまり興味がない人間は、企業や国家にとってとても都合がいい労働力になるだろう。実際、企業や国がポジティブ心理学を広める為の投資をしたことで急速に広まったそうだ。
 ポジティブ心理学の最大の問題は、物事が辛い・上手くいかない要因を個人の中に設定することで社会制度の不備や不平等などの問題を見えにくくすること、それらに対する怒りや疑問を抑えこんでしまい改革に発展しにくくなることだろう。自己責任論は責任を取りたくない企業や国にとって非常に好都合だ。しかし実際は、幸福は個人的な事柄ではあるが、社会・環境等外的な条件によって規定されてしまう面がある。幸福を追求するここと怒りやネガティブさは矛盾しないし、多くの人が幸せになるためにはまずシステム改良からという部分も多々あると思うのだが。


新自由主義の廃墟で: 真実の終わりと民主主義の未来
ウェンディ・ブラウン
人文書院
2022-05-26


『頬に悲しみを刻め』

S・A・コスビー著、加賀山卓朗訳
 かつて殺人罪で服役し、出所後は造園業で地道に生計を立ててきた黒人のアイク。ある日、警察から息子がパートナーと共に惨殺されたと知らされる。アイクは白人男性のパートナーのいる息子を受け意入れられず、親子の間には溝があった。警察の捜査が進まぬ中、アイクは息子のパートナーの父親バディ・リーと共に、殺人犯を探し始める。
 早くも今年の翻訳ミステリでベスト級が出てきてしまった。著者の前作『黒き荒野の果て』も良かったが、本作は構成やテーマの構成が更にうまくなっているように思う。そして古典的な形式を現代のものにブラッシュアップし、ジャンルへの批評になっているという側面を受け継いでいる。愛する者を奪われた男が復讐に乗り出すというストーリーは古典的だが、彼らが見舞われた悲劇は、彼らも持ち合わせている偏見や不寛容に根差したものだ。2人の悔恨は息子を亡くしたことだけでなく、息子を理解しようとしなかったこと、自分の価値観を更新しようとしなかったことにある。彼らは犯人捜しの中で考え方を変化させていくが、本来向き合うべきだった息子はもうおらず、時すでに遅しだ。2人は徐々に事件の真相に近づくが、復讐は彼らを救わないし息子も救わない。そこにかっこよさや爽快感はない。そもそも最初から意識が違えば、と思わずにいられないのだ。
 アイクは黒人、バディ・リーは白人で、2人の間には肌の色によって見える世間が違うという溝も横たわる。バディ・リーはしばしば無神経な発言をするのだが、そこも徐々に修正されていく。2人がバディとして機能するようになっていく様が本作にほのかな明るさを与える。しかしそれも遅すぎるのだ。もっと早くに出会えていればという悔恨がここにもある。

頰に哀しみを刻め (ハーパーBOOKS)
S・A コスビー
ハーパーコリンズ・ジャパン
2023-02-16


黒き荒野の果て (ハーパーBOOKS)
S・A コスビー
ハーパーコリンズ・ジャパン
2022-02-16




『フォレスト、ダーク』

ニコール・クラウス著、広瀬恭子訳
作家のニコールは創作のスランプ中で、夫との関係も微妙になってきている。創作の糸口を求めて子供時代を過ごしたテルアビブのホテルに宿泊したところ、ユダヤ人教授から「イスラエルでのカフカの第二の人生」に関わる仕事を依頼される。一方、ニューヨークで弁護士として成功し富を築いたエプスティーンは、順風満帆だった人生に突然迷いを感じる。富を手放し、彼は生まれ故郷であるテルアビブへ飛ぶ。
 2人の大人が人生に迷い、そこから抜け出す糸口を探してテルアビブを訪れる。ニコールは中年女性、エプスティーンは老年男性で年齢も性別も職業も経済状態も全く違う。はっきりと創作に行き詰っているニコールに対し、エプスティーンは既に富豪といってもいいくらいだ。ただ、2人にはユダヤ人であるという共通項がある。そして2人とも、伝統的なユダヤ人としての生き方とは距離を置いていた。勝手に「ユダヤの誇り」扱いされてイラっとするニコールの反応は、こういう人実際にいそうだなと思わせるもの。ルーツはルーツだろうが、創作のすべてがそこに根差すと思われても困るだろう。そして実際のところ、このルーツは結局彼らを救うわけではない。個人の迷宮を抜ける糸口になるのは結局個人的な記憶なのだ。個人の記憶は民族の記憶にはなりえない、自分がこれまで生きてきたようにしか生きられないのかもしれない。民族を国家に置き換えても言えるだろうが、個人の記憶の集積と言えるかもしれないけど、個人を全面的にゆだねられるものでもないんだろうなと。

フォレスト・ダーク (エクス・リブリス)
ニコール・クラウス
白水社
2022-08-26


カフカ短篇集 (岩波文庫)
カフカ
岩波書店
1987-01-16




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