3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

本・題名は行

『ハリケーンの季節』

フェルナンダ・メルチョール著、宇野和美訳
 村のはずれに住む魔女の遺体が川で見つかった。何者かに殺され死体を捨てられたのだ。魔女は村の男たちからは恐れられ、女たちからは恐れられつつも頼りにされていた。魔女の過去に何があったのか、また魔女に関わった人たちに何があったのか。
 章ごとに中心となる人物が入れ替わり、人間模様と事件の全容が見えてくる。魔女も彼女のところに来る男たちも女たちも、皆暴力とセックス、欲望に翻弄されている。女性たちの多くはセックスを商売とし、男性たちはそれに群がる。また男性たちもまた自分の体を売り物にする。魔女は望まぬ妊娠をした女性たちの堕胎を助け、男性たちのセックスを買う。そのセックスは土着的な家父長制の価値観の中でのセックスであり、女性に対する抑圧は強い。自分の欲望を示せば不道徳扱いされるが相手の欲望に応じないとこれまた否定され、望まぬ妊娠というリスクも高い。義父から性的に搾取され望まぬ妊娠に途方に暮れる少女のパートが(他の章では彼女に向けられる視線がむき出しになることもあいまって)あまりに痛々しい。
 一方男性側は、いわゆる「強い男」「モテる(が1人の女性に拘泥しない)男」という男性像にあてはならないと「男」として認められず群れから疎外されていく。肉体的な強さ粗暴さとは距離感がある、あるいは欲望がクィアなものであった場合、群れの中では死活問題になる。マチズモの強い社会の中で女性がどう扱われるかという面と合わせ、男性にかけられる圧には女生徒は違った形でのきつさがあることが描かれている。魔女がトランス女性であるという要素が、魔女と関わる男性にとっての意味を更にひねったものにしている。改行や、会話をくくる括弧がなくつらつらと続いていく語り口はグルーヴ感を生むと同時に呪詛のようでもある。

ハリケーンの季節
フェルナンダ メルチョール
早川書房
2023-12-20

女であるだけで (新しいマヤの文学)
モオ,ソル・ケー
国書刊行会
2020-02-27



『ボーはおそれている』

 中年男性ボー(ホアキン・フェニックス)は、つい先ほどまで電話で会話していた母が突然死んだと魚知る。天井から落ちてきたシャンデリアに頭をつぶされたというのだ。母の葬儀の為に帰省しようとアパートを飛び出したものの、予期せぬトラブルが次々に起こり、帰省の旅はとんでもない方向に進んでいく。監督はアリ・アスター。
 アリ・アスター作品の中では一番嫌いじゃない部類の作品だった。3時間近い尺は流石に長すぎると思うが、悪夢に限ってなかなか覚めない出口のなさとうっとおしさを追体験するようだった。題名の通り、ボーは様々なものを恐れている。怖がりで、心配性なのだ。彼の住まいの周囲もアパートの中もやたらと治安が悪そうで、路上で暴力沙汰は起きているし隙あらば不法侵入されるし連続殺人犯までやってくる。不安要素のインフレで最早ギャグ、どんなスラムだよ!と突っ込みたくなるのだが、これはボーの主観の世界なのだろう。多分他の人にとってはちょっと柄が悪いが割と普通の街並みなのではないか。恐怖や不安はあくまで個々の主観に根差すもので、他人には理解しがたい部分がある。そのギャップがボーをどんどん追い詰めていくのだ。ボーはどちらかというとぼんやりとしていて自分の主義主張をあまり表明できないタイプだということが、子供時代のエピソードを交えることで徐々に見えてくる。そして彼の不安と恐怖が何に根差すのかということも。
 典型的な「母が怖い」案件の話ではあるのだが、ボー個人の母というより、母的なものの支配への恐怖というように思える。ボーの母親はかなり強権的な人のようなのだが、この人が特別変というわけではなく、母親が持ちがちなある傾向を誇張して描いている感じだ。だから普遍的な話になり得るのにすアウトプットの仕方が珍妙で、受け取る側(観客)にとっては普遍的な話ではないというねじれが生じているように思った(多分宗教的なものも絡んでいるのだと思うが)。ただボーの母親に対する恐れは彼から母親に対する一方的なものではなく、母親もまた彼をある意味恐れているという面がある。お互い様なのだ。お互いにもう愛せないと認め合ってしまえばこんなにこじれなかったかもしれないのに…という所はやはり普遍的な話に思えた。
 ラストは個人的には拍子抜け。ボーは悪夢から覚めてしまった(から悪夢の世界にはもういない)ということにならないか。


母をたずねて三千里 ファミリーセレクションDVDボックス
二階堂有希子
バンダイビジュアル
2012-11-22






『ヒート2』

マイケル・マン、メグ・ガーディナー著、熊谷千寿訳
 1988年シカゴ。ニール・マコーリー率いる強盗団はメキシコの麻薬カルテルの現金貯蔵庫を狙っていた。一方、シカゴ市警殺人課の刑事ヴィンセント・ハナはは高級住宅地を狙った連続強盗殺人事件を追っていた。そして7年後、LAでの銀行強盗事件で両者は交錯。ニールの仲間だったクリス・シハーリスは新しい名前と身分を手に入れメキシコへと逃れる。
 マイケル・マン監督による1995年の映画『ヒート』の前日譚かつ続編として書かれた本作。冒頭で『ヒート』の内容をざっくり説明してくれるので映画を見ていなくても大丈夫だと思う。私は一応『ヒート』を見直してから本作を読んだのだが、さすがに映画の方は古さを感じてしまった。また、映画と比べるとクリスが大分スマートというか頭がいいので、えっこういう人だったの!?と意表を突かれた。映画だとギャンブル依存で妻との関係も崩壊していたので、本作で2人のなれそめを知ると、あのカップルには情熱的な過去があったのにこんなことになってしまうのかとやるせない。映画『ヒート』を挟む過去未来の時間軸が1冊に収録されているのだが、この構造だと何があって、何を経て、どこへ至るのか、という流れが時間を越えて徐々に見えてくる。同時に人の変わっていく部分、変われない部分が成功と悲劇の両方を引き起こしていくという哀感も漂う。ニールは同じようなことを繰り返していたのかと。長いスパンで描かれる物語の醍醐味はこういう所にあるのだろう。
 一方で描かれる犯罪の種類の変化も時代の動きを感じさせ興味深かった。クリスは犯罪最先端へと移動していくのだが、これは本作の続きがあるんだろうな。とするとハナは旧世界の住民として取り残されていくのだろうかという予感も。

ヒート 2 (ハーパーBOOKS)
メグ ガーディナー
ハーパーコリンズ・ジャパン
2023-05-18


ヒート 製作20周年記念版 [Blu-ray]
アシュレイ・ジャッド
ウォルト・ディズニー・ジャパン
2021-04-21






『ハイファに戻って/太陽の男たち』

ガッサーン・カナファーニー著、黒田寿郎/奴田原睦明訳
 クウェイトへの密入国を試みる男たちの過酷な運命(「太陽の男たち」)、ある親子の悲劇的な運命(「ハイファに戻って」)、故郷を追われる一族の旅路(「悲しいオレンジの実る土地」)。パレスチナ問題を背景にした現代アラビア語文学を代表する作品集。
 著者はパレスチナに生まれ難民となり、パレスチナ解放運動に従事しつつ作品を執筆し1972年、36歳の若さで亡くなった。著者が亡くなってから50年以上が経っているがパレスチナ問題は解決に向かうどころか、今現在悲惨な状況になっている。パレスチナ問題について知っているとは到底言えないが、本作を読むとパレスチナに生きる、またそこを去らざるを得ないというのがどういうことなのか少しだけ感じられるように思う。
 表題作でもある「ハイファに戻って」は、パレスチナを追われた側と入植した側とがあまりに皮肉な出会い方をするのだが、譲歩の余地が全くなさそうな所が不条理劇のようですらある。お互いに主張し合うというよりも、経っている土壌が違うのでかみ合わないままのように思えるのだ。パレスチナの「外」、自分たちは当事者ではないという人たちに対する痛烈な皮肉を感じたのは「彼岸へ」。亡霊の語りで、この場所で生きざるを得ないというのがどういうことか語られる。「何がいまわしいかって、自分に”それじゃあ“っていう先のことが、からっきし与えられてねぇってことがわかったときくらい、無残なことはねえですよ」という言葉が端的に状況を表している。今読むべき作品、だがそんな動機ではなく読みたかった(読める状況だとよかった)。

ハイファに戻って/太陽の男たち (河出文庫)
カナファーニー,ガッサーン
河出書房新社
2017-06-06



ガザの美容室(字幕版)
ダイナ・シバー
2019-03-06



『ブルーノの問題』

アレクサンダル・ヘモン著、柴田元幸/秋草俊一郎訳
 子供時代に家族でムリェト島を訪れた夏の思い出(「島」)、ある一族のルーツの背景にボスニアの歴史が横たわる(「心地よい言葉のやりとり」)、ユーゴスラヴィアからアメリカにやってきた作家の異国悲喜こもごも(「ブラインド・ヨゼフ・プロネク&死せる魂たち」)。ボスニア・ヘルツェゴビナからアメリカへわたり英語で執筆をつづけた著者の短篇集。
 前述の作品だけではなく、著者の実体験を色濃く反映したと思われる作品が多い。「ブラインド・ヨゼフ・プロネク&死せる魂たち」の主人公であるプロネクが、文化交流プログラムで来米したものの故郷の政治的混乱により帰国できなくなるという流れは著者自身が体験したもので、自伝的な側面が強い作品だそうだ。この作品は収録作の中でも特に長く、異文化の中でとまどうプロネクの生活が時にユーモラス、時にシニカルに描かれて比較的読みやすい。が、読んでいるうちに段々怖くなってくる。母国の情勢は段々悪化し収拾がつかなくなり、プロネクの人生は考えていたものと全然別のものになっていってしまう。更にアメリカの生活に適応していくにつれ、ここが彼にとって異国・異文化であるということがきわだつ。アメリカの人々にとってプロネクの故郷の事情がいかに他人事かということも端々で見られるのだ。ここにいるのに居場所にならないままで、プロネク自身が何者なのか、どこにいるべきなのかあやふやになっていく。著者は自分の母国語以外の言語で執筆しているわけだが、その行為が生む文章に対する微妙な距離感、異物感みたいなものが漂ってくるように思った。時々すごくシニカルなのはこの執筆スタイルによる距離感が生むものではないだろうか(母国の状況が洒落にならないというのもあるだろうが)。子供の頃のちょっと面白おかしいエピソードが、背景を踏まえて読むとなかなかぞっとするという、おかしみと恐怖が入り混じった味わいが強く印象に残る。

ブルーノの問題
アレクサンダル・ヘモン
書肆侃侃房
2023-10-30


ノーホエア・マン
アレクサンダル ヘモン
白水社
2004-04-01




 

『バロック美術 西洋文化の爛熟』

宮下規久朗著
 17世紀を中心に花開いたバロック様式。ルネサンス期の端正で調和を重視する古典主義に対し、豪華絢爛で躍動感あふれる表現を特徴とする。建築・彫刻・絵画という表現分野を横断し、カラヴァッジョ、ルーベンス、ベルニーニ、ベラスケスらの代表作を取り上げ、美術史上の位置づけ、時代背景との関連等から解説する。
 何とカラー写真200点以上収録、というかほぼフルカラーと言ってもいい贅沢新書である。バロック様式は美術史の中でも自分にとって何となく洗練されていない印象で、あまり魅力を感じない時代様式だったのだが、そもそもバロックってどういう様式で時代としてはいつ頃からいつ頃までを指すの?とふと思った所に丁度良い新刊が出てきたので手に取ってみた。一般的にバロック様式とは時代的にはルネサンス様式の後に位置し、相対立する要素が衝突・融合し止揚されるダイナミックな、劇場的な美術表現を持つ。また西洋の17世紀美術全般を指す。本著ではテーマ別にその特徴や代表的な作品を紹介しているが、西洋美術の宗教(キリスト教)との関わりの深さが浮き彫りになる構成でもある。宗教改革と連動して表現方法が変化していき、より劇場的で大衆に訴求する美術が登場する。そして時代が進むにつれ宗教的な教化のツールとしての側面は薄れ世俗的な要素が強くなってくる。
 前述の通り主要な作家が取り上げられているが、カラヴァッジョの作品がいかに革新的だったか、後進に多大な影響を与えたことが改めてよくわかった。平明でない、スポット的な光によって画面上の物語を演出するという技法を確立した人だったんだなと。このバロックの特徴である光の使い方を洗練していった延長線上にいるのがフェルメールということになるのだろう。カラヴァッジョとフェルメールとでは大分作風が違うが、どちらもバロックの一環(国は違うが時代的には同じくくり)という所がバロックの面白さでもあるのかもしれない。
 また、第3章「死」、第4章「幻視と法悦」ではバロック様式のかなりキッチュというか、フェティッシュな面が現れているように思う。天井画のやりすぎスペクタクル感にはちょっと笑ってしまうし、ベルニーニの極端に精緻に美化されて逆になまめかしくなっている聖人像等には作家のフェティッシュが感じられる。当時の美術の中心地であったイタリアから他エリア、中南米やスペイン、北方のドイツ・チェコ・ロシア等へのバロックの伝播も紹介されており盛りだくさんな一冊。

バロック美術 西洋文化の爛熟 (中公新書)
宮下規久朗
中央公論新社
2023-10-23


バロックの光と闇 (講談社学術文庫)
高階 秀爾
講談社
2017-11-11




『亡霊の地』

陳思宏著、三須祐介訳
 台湾の故郷の武重・永靖を捨て、ベルリンで暮らしていた作家の陳天宏は恋人を殺してしまい刑務所に収監されていた。刑期を終え十数年ぶりに永靖に帰省する。両親は既に他界、姉たちは結婚したが、一番下の姉は狂って自殺した。折しも故郷は中元節を迎え、死者の魂を迎える準備が進んでいた。
 登場人物一覧によると陳天宏が主人公とされているが、物語の語りは彼だけではなく父親、母親、兄、姉たちそれぞれが交互に似ない、更に生者も死者も入り乱れる。1人の人物の来歴というよりも、ある一族の数十年にわたる物語と言った方がいい。この一家がどのように壊れていったのかという経緯が、家族のメンバーそれぞれの視点の語りにより、パズルのように片鱗が組み合わさっていくのだ。家族の間でどのような嘘があり、誰が何を隠していて本当はどういったことが起きていたのかが最後に明らかになる。しかしこれは読者に対してのみ明らかにされるもので、個々の家族は知ることがない。家族というのはお互いよく知っているようでいて個々の核となる部分のことはお互いに知らない、むしろ立ち入らない方が平和なこともある。
 ただ、本作で起こる悲劇の背後にあるのは家族の問題であると同時に、当時の台湾の地方の社会にのける問題でもある。陳天宏は同性愛者だが、彼の故郷にセクシャルマイノリティの居場所はなく、そういったセクシャリティが明らかになれば排除される。本当の自分でいることは自殺するようなこと(実際に死に追いやられてしまう人おいる)なのだ。また母や姉たち、そして父が抱えてきた苦しさもまた、時代や土地における社会通念から生じる部分が少なからずある。故郷を愛していてもその故郷では生きていけない、にもかかわらず故郷の風景は自分の中に深く根を張り染みついているという辛さ。なお、陳天宏の恋人が経済的に困窮し極右団体を拠り所にするようになる様、やはり経済的に逼迫するとそういう方向に走りやすいのかとこれまた辛いものがあった。

亡霊の地
陳思宏
早川書房
2023-05-23


自転車泥棒 (文春文庫)
呉 明益
文藝春秋
2021-09-01


『羊の怒る時 関東大震災の三日間』

江馬修著
 1923年9月1日11時58分32秒、関東大震災が発生し、建物の崩落に伴う火災によって東京は火の海になった。大きな災禍に混乱し不安に駆られる人たちの間では「朝鮮人が暴動を起こし火をつける」というデマが広がり、自警団的にふるまう集団によって多くの朝鮮人が虐殺された。実体験をもとに小説化した実録小説。
 本著は記録文学の金字塔と呼ばれているそうだが、震災の翌年から連載が始まったというから記憶が相当生々しいはずで、それを一応フィクションという形に落とし込むのは精神的にかなり苦しかったのではないか。よっぽど書き残さなければならないという思いがあったのだろう。ただ文章自体はむしろ平坦で、却って日常の延長としての災禍、そして虐殺であるということが伝わってくる。主人公「自分」は著者自身がモデルなのだろうが、朝鮮人の友人がいるにも関わらず暴動の噂を半ば信じ、浮足立つ人たちを諫めることもできず流されていく。良心あるインテリだがそこまで勇気が持てない、筋を通せないという造形の等身大さだ。集団の熱気を目の当たりにするとそうそう反論できない(反論したら自分がやられるだろう)という肌感覚がある。
 あくまで一市民の視点で書かれていることで、本当に当時は何が起きているのかわからなかった、だから噂ばかり広がって大惨事になったということがよくわかる。ただ、そもそも社会のベースに朝鮮人への差別意識がごく普通のものとしてあり(主人公自身も朝鮮人と親しくはしているが暴動の噂にそれほど疑問は持たない)、非常時はそういったものが不安の拠り所になってしまうという側面も見える。異質とみなす誰か・何かのせいにして叩くことで自分の中で理屈が通って安心できる、みたいな心理があるのだろう。どこか嬉々として人々が暴力に乗っていく様が本当に怖い。が、どこで起きてもおかしくない、いや今現在も起きている現象だろう。
 なお主人公は明治神宮の近く、代々木あたりに住んでいたようなのだが、当時この辺りは「東京」という認識ではなかったということに改めて驚いた。あのあたりは震災前は田舎だったと知識としては知っていたけど、代々木付近から今の文京区の方に行くこと「東京に行く」と言っていると、ちょっとびっくりする。


『夫婦間における愛の適温』

向坂くじら著
 夫の下手なマッサージでもっと気持ちよくなりたい。遊びで愛をやっているわけではない。死んだ方がましだという友人からの電話を受けて反論できない。詩人で国語教室の講師である著者による、日々の暮らしの中の感情を丹念に、しかし軽やかにユーモラスに綴るエッセイ。
 百万年書房という出版社から本著を含む「暮らし」という叢書(というかレーベルなのか?)が出ているのを初めて知ったのだが、出版社名も叢書名も何かいいな!本著は題名を筆頭にやたらと切れ味が鋭くて唸った。題名にもあるように夫との関係に言及したエッセイが多めだが、夫婦それぞれの性格・特質自体は大分違いそう、しかし相互に愛情はあり(著者の愛情の方が大分過大かつ表出の仕方に癖があるけど…)、必ずしもすべてかみ合っているわけではないが夫婦として稼働し続けているという生活の様が面白い。
 ただ、この必ずしもすべてかみ合っているわけではないが稼働し続ける、という様は何もパートナー間に限ったことではなく、様々な人間関係、集団の中で善かれ悪しかれ起きていることだろう。著者と母親や、口が悪く非常に頭が切れる友人の関係もそうだし、著者と塾の生徒、また著者が仕事を辞めなければならなかった経緯についても同様だろうと思う。そのずれ、かみ合わなさに一つ一つひっかかる著者の思考の厳密さというか誠実さが深く印象に残り、かつどこか切られるような痛さや寂しさもある。自分にそのような感情が生まれたのはなぜかという部分の掘り下げ方、保留しなささが深く、解析度が高い。しかし自分の感情の解析度がその都度高いというのは、かなり疲れる(情報過多で疲れるみたいな)し自身へのフィードバックで傷つくことでもあるだろう。実際、本著を読んでいると、この人情緒が大変だな…と思う所が多々ある。その情緒の大変さから逃げない所が、言葉(特に詩歌)を生業にする者の資質なのかもしれない。

夫婦間における愛の適温 暮らし
向坂くじら
株式会社百万年書房
2023-07-27


せいいっぱいの悪口 (暮らし)
堀 静香
百万年書房
2022-10-22


『パチンコ(上、下)』

ミン・ジン・リー著、池田真紀子訳
 釜山沖にある影島。下宿屋の娘キム・ソンジャは、裕福な仲買人のハンスと出会い恋に落ち、やがて身ごもる。しかしハンスには妻子がいた。悩むソンジャに牧師のイサクが子供の父親になると申し出る。結婚した2人はイサクの兄が住む日本・大阪へ渡った。3代にわたる在日韓国人一家の波乱に満ちた人生を描く。
 著者はソウル生まれで子供の頃にニューヨークに移住したそうだ。著者自身も一時期日本で暮らしていたそうだが、作中の日本描写の違和感のなさは丹念な取材と共に実体験も活きているのかもしれない。町の雰囲気とか場所の距離感とかに作中の一家は在日韓国人だが、日本に限らず世界中でこのような移民一族の物語があるのだろうと思わせる、ローカルなのだが世界に開かれた作品だと思う。全米100万部突破というのも頷ける。ソンジャたちが日本で逢う困難や周囲の悪意ない差別等、そして移民2世3世の親世代との価値観のギャップと葛藤等、こういうことって多々あるんだろうなというものだ。特にソンジャの孫ソロモンの日本人ガールフレンドの言動は、当人は自分は理解があると思っているしコリアンに好意的なつもりだが差別に他ならないという、非常にありがちなもの。自分も同じようなことをしているのではないかと刺さってくる。あからさまな差別よりもある意味厄介だ。
 また、血の繋がりによる家族の絆の濃さと厄介さも強く印象に残る。まずは血縁者を頼って異国で生活していくのだが、血の繋がりに必要以上の意味を読み取ってしまうのは悲劇にもつながるのだ。ある人物が辿った道は実にやりきれないものだった。
 ソンジャとその親族、やがてその同僚や友人ら、様々な人の視点で描かれる。時代背景もありソンジャを筆頭に女性たちの苦難には読んでいて辛くなる部分もあった。一方でソンジャの義兄であるヨセプの実に家父長制的な振る舞いは癇に障るのだが、男なら自分一人で家族を養わなければならない、妻を働かせるのは恥だという意識は、男性にとっても大きなプレッシャーであるということも伝わってくる。また「強くて有力者である男」の象徴であるようなハンスが、ソンジャがなぜ自分を拒むようになったのかが最後までぴんときていない様もまた、家父長制の弊害であるように感じた。ハンスはソンジャとその子供を愛しているのだろうが、その愛は自分の財産に対する愛のように見えた。

パチンコ 上 (文春文庫)
ミン・ジン・リー
文藝春秋
2023-07-05


パチンコ 下 (文春文庫 り 7-2)
ミン・ジン・リー
文藝春秋
2023-07-05


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