3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

本・題名ま行

『medium 霊媒探偵 城塚翡翠』

相沢沙呼著
 推理作家の香月史郎は、霊媒・城塚翡翠と知り合う。城塚は死者を見ることができ、更に死者が死んだ現場で彼らを憑依させ死ぬ瞬間の記憶を体感することができると言う。彼女の心霊能力と香月の論理を駆使し、2人は様々な殺人事件の真相に迫る。
 連作集であり、個々の事件の間に大きな連続殺人事件が横たわるという構成。個々の事件はオカルト要素と論理的なミステリとの兼ね合いがなかなかうまく面白い。しかし城塚翡翠という若い女性の造形が、今時こんなあざといキャラ造形やります?大分感覚が古いのでは…と思っていたらそうきたか!シリーズ3作目まで出ているしドラマ化もされているので今更なのだが、これは予備知識ないまま読むとあっと言わされる面白さ。テンプレ化していたものをそういう風に使う段階になってきたんだなと実感した。相当力業のダイナミック伏線回収だが、けれんにてらいがなく見事。


invert 城塚翡翠倒叙集
相沢沙呼
講談社
2021-07-06




『魔王の島』

ジェローム・ルブリ著、坂田雪子監訳、青木智美訳
 会ったことのない祖母の訃報を受け、祖母が住んでいたという孤島にわたったサンドリーヌ。島は自然保護区に指定されており、終戦直後に働いていた者たちだけが居住していた。島ではかつて、キャンプに来ていた子供たちが全員死亡する事故があったという。島で祖母の痕跡を辿るうち、サンドリーヌは不安に襲われていく。
 サンドリーヌ視点の1989年の出来事、そして祖母であるシュザンヌ視点の1949年の出来事が交互に語られ、更にそこへもう一つのエピソードが織り込まれていく。本著の帯には「彼女のはなしは信じるな。」とあるが、そういう意味か!と唸った。いわゆる謎解きミステリとしてはアンフェアだし終盤まで何が起こっているのか判断できない構造なのだが、リーダビリティは高くどんどん読ませる。パーツのはまり方というか重なり方が終盤でどんどんわかってくるのだ。ミステリというよりサスペンス、しかも少々風変りなサスペンスと言った方がいいかもしれない。謎も恐怖も人の心と記憶の中にある。その外側に出ることはできない、というよりも当人がそれが出来ないように世界を作ってしまうという所が一番怖いのかも。帯や裏表紙のあらすじから受ける印象とは多分違う内容なので、予備知識なしで読むことをお勧めする。

魔王の島 (文春文庫)
ジェローム・ルブリ
文藝春秋
2022-09-01









『もっと遠くへ行こう。』

イアン・リード著、坂本あおい訳
 人里離れた一軒家に暮らしているジュニアと妻のヘン。ある日、「アウターモア」なる組織からテランスという男が訪問してくる。ジュニアが宇宙への一時移住計画の候補に選ばれたというのだ。ただし宇宙へ行くのはジュニアだけでヘンは連れていけない。妻を置いていくなど考えられないジュニアだが、ヘンの態度はよそよそしい。やがてテランスはジュニアの移住の準備と称して彼の家に入り浸るようになる。
 『もう終わりにしよう。』が非常に奇妙な味わいでインパクトを残した著者の2作目。今回はぱっとみよくあるSFぽい立て付けなのだが、奇妙な味わい度合いは十二分に発揮されている。帯に掲載されている「非凡な自分でありたいという凡庸な願いが、替えの利かない地獄を生む」(斜線堂有紀)という一文は、個人的には少々的を外している(ネタバレ防止のためのあえてかもしれないが)ように思った。本作は自分ジュニアの主観、一人称で進むのだが、人間の認識の独りよがりさ、相手との認識のずれがだんだん表面化していく。ジュニアのヘンにたいする態度は、彼女はこうであろう、彼女によかれと思って、というものなのだが、ヘンが実際にどういう人物で何を望んでいるのかはわからない。相手をよく見ている、コミュニケーションが取れているというのは幻想でしかないのでは。自分がどうありたいかというよりも、他者との関係に対するこうであろう、こうであれという思い込みと実情とのずれが不安をあおるのだ。自分にとって相手は、また相手にとって自分は何者なのか、その関係性は不変なのか、その人と全く同じ条件の別人がいたらそれは「その人」として成立してしまうのでは等、関係性における不穏さが平易な語り口の中から浮かび上がってくる。


 

『メイドの秘密とホテルの死体』

ニタ・プローズ著、村山美雪訳
 高級ホテルのメイドとして働いているモーリーは、9か月前に祖母を亡くし、心細さと家賃の支払い遅延を抱えたまま生活していた。ある日、清掃に入った客室で、大富豪ブラックの死体を発見する。警察の捜査が始まるが、社会性に乏しく誤解されがちなモーリーの言動、そしてブラックの妻ジゼルと交流があったことで、疑いの目を向けられてしまう。
 既に映画化が決まっている作品だそうだが、確かに面白い。モーリーは清掃に関しては非常に有能で、プロとしての誇りも持っている。一方で他人の表情や「言外の意図」を読み取ることが不得手で、何でも額面通りに受け止める為、周囲とのコミュニケーションは往々にしてぎこちなくなる。彼女自身も自分が世間に馴染めていないという自覚があり、支えである祖母を失ってからは不安な日々を送っている。一般的にはこういう時にどういう反応をすることが妥当なのか、というガイドラインが彼女には必要なのだ。本作はモーリーの一人称で進むので、彼女が見ている風景と読者=世間が見ている風景のズレがわかる。他人の言葉を素直に受け取るモーリーの危なっかしさが際立ってくるのだ。読者には事件の真相やどいつが悪人なのかということは早々に検討がつくのだが、モーリーにはわからない。でもモーリーのように言葉の裏を探らない、裏を持たせない態度の方が誠実なのかもしれないとも思えてくる。
 一方で世間側のモーリーに対する見方も、多分に一面的で、困った人・鈍い人扱いされてしまう。彼女の有能さや面白さは、表面的に接する同僚や刑事にはわからない。この「見え方」が本作の一つのモチーフになっているように思った。ぱっと見の姿が本当の姿だというわけではないし、見ようとしないと見えないものがある。モーリーにもまた、見ないようにしていたもの・見せないようにしていたものがある。読者は自分たちもいつの間にか、モーリーはこういう人だろうと自分たちが枠にはめていたことに気付くのだ。






『マジカルグランマ』

柚木麻子著
 女優の正子は映画監督と結婚し引退。しかし今では家庭内別居状態だ。75歳にしてCMでの再デビューを果たし、一躍ブレイクする。しかしある出来事がきっかけでバッシングにあい事務所を解雇され、一挙に生活は苦しくなる。金策に奔走するうち、正子は周囲を巻き込み我が道を突き進むようになる。
 題名のマジカルグランマとは、マジカルニグロやマジカルゲイといった言葉にならった「理想のおばあちゃん」を指す概念として正子が思い当たるもの。「理想のおばあちゃん」とは周囲にとって理想=都合のいい存在なのであって、おばあちゃん本人にとって都合がいいわけではない。マジカルグランマが助けるのは若者であって同世代の高齢者ではないのだと正子は悟るが、正にそうだなとはっとする。彼女が目指すのはマジカルグランマではなく、別の方向でマジカルな存在、自分のやりたいことをやり友人を助ける存在だ。
 ただ、この「なりたい自分」も誰かを助けたい気持ちも基本的に正子の自分本位なものであって、暴走気味になっていく所が愉快。読者にとっても気持ちよく気持ちを沿わせられる・都合のいいおばあちゃんにはしないぞという気合を感じた。自己顕示欲と承認欲求の権化のようになっていく正子だが、それが彼女にとってのなりたい自分、自分らしい自分なのだ。なりたい自分とか自分らしさと言葉だけなら耳さわりがいい印象だが、実際のところはそうでもない。やり続けるには胆力や図太さ、嫌われてもいいという割り切りも必要だろう。それでも、他人の欲望に自分をゆだね、誰かのニーズに沿うことだけを目的にする生き方よりは全然いい。なりふり構わない正子の姿に辟易する人もいるだろうが、自分の欲望に自覚的な姿は小気味よくもある。

マジカルグランマ (朝日文庫)
柚木 麻子
朝日新聞出版
2022-07-07


おらおらでひとりいぐも (河出文庫)
若竹千佐子
河出書房新社
2020-06-24



『マリアビートル』

伊坂幸太郎著
 幼い息子の敵討ちを企てる「木村」、優等生の顔の裏に悪魔のような心を隠す中学生「王子」、裏社会の大物からある依頼を受けた「蜜柑」と「檸檬」コンビ、運の悪さは随一の殺し屋「天道虫」。東京から盛岡へ向かう東北新幹線の中で、それぞれの仕事と思惑を抱いた殺し屋たちが交錯する。
 2010年に出版された日本の小説が2022年にハリウッドで映画化、しかもブラッド・ピット主演になるなど、本作出版当時は想像もしなかった。文庫化された時に読んでいるはずなのだがほぼ忘れており、今回再読。一応、題名にあるとおりマリアビートル=天道虫こと七尾が中心にいるが、群像劇としての側面の方が強い。各章ごとにそれぞれの登場人物の視点に切り替わるというスタイルだ。東京駅から盛岡駅に向かう東北新幹線の中のみで展開される物語で、空間と時間(東京・盛岡間で3時間弱くらいか?)が限定されている特殊状況下サスペンスとも言える。これは確かに映画向きだなと思った。何しろ作中のランタイムが映画1本の時間に近いし、誰がいつどこにいるかという位置関係がわかりやすい。これは著者のテクニックの手堅さもあるのだろうが、登場人物の動線描写がしっかりしてるので、映像に起こしやすそう。また限定された空間での格闘は映像向き、というよりアクション映画のイメージで本作が書かれたのだろう。順番が逆だ。映画化おめでとうございます。
 ただ、面白くてスピーディーですごく読みやすいのだが、読んだ後にすぱっと中身を忘れてしまうタイプの作品ではあると思う。予想外の何かというものはあまりない。ミステリ・サスペンス的なサプライズはあるが、そういうサプライズがあることは想定内なタイプの作品だ。だが本作はそれでいい。エンターテイメントに徹した、読者に愛着を持たせすぎない潔さと言えるだろう。

マリアビートル (角川文庫)
伊坂 幸太郎
KADOKAWA
2014-08-15


グラスホッパー (角川文庫)
伊坂 幸太郎
KADOKAWA
2014-08-15





『鞠子はすてきな役立たず』

山崎ナオコーラ著
 子供のころから「働かざるもの食うべからず」という父親の言葉を聞かされてきた小太郎。自分もお金を稼ぐ為に高卒で銀行に就職し、それなりに順調な生活だった。そんな折交際するようになった鞠子は大学院卒で書店でアルバイトをしており、結婚後は主婦志望だった。2人は結婚し、主婦となった鞠子は趣味を持とうと絵手紙や家庭菜園などに挑戦。やがて小太郎も巻き込まれていく。『趣味で腹いっぱい』を改題し文庫化。
 文庫の題名の方が圧倒的にいい!生産性や有用性とは無縁でも楽しく生きていいじゃないか。それこそ基本的人権というものだろう。本著はそこに至る小太郎と鞠子の生活の変化を平明に描写していく。私は「働かざるもの食うべからず」という言葉が大嫌いなのだが、これが世間一般の価値観だということはわかる。小太郎もそういった世間の価値観(というより彼の父親の価値観)の中で生きてきて疑問を感じることもなかった。一方鞠子は仕事に重きは置いておらず、自分が好きなことで大成しようという意欲もない。彼女は自分が興味があること、楽しいことを無理のない範囲でやることを目的としており、その為に主婦をやることにも抵抗はない。では鞠子は自立していないというかというと、そういうわけではないだろう。彼女の精神は自立している。堂々としているので、小太郎も何となく納得してしまうのだ。本作はお互い全然価値観が違う夫婦の人生をユーモラスに描くと同時に、労働と生活って何だろうということを等身大の視線で考え、言語化していく。鞠子に感化され小太郎が変わっていく様も、鞠子が「他立」を発見する様も、読んでいてちょっと胸が熱くなった。
 なお、本作「しんぶん赤旗」に連載されていたそうだ。この紙面にこの小説が連載されるというのは、妙に筋が通っている。

鞠子はすてきな役立たず (河出文庫 や 17-8)
山崎 ナオコーラ
河出書房新社
2021-08-06


かわいい夫
山崎ナオコーラ
河出書房新社
2020-04-03


『真似のできない女たち 21人の最低で最高の人生』

山崎まどか著
 俳優、作家、画家、写真家、音楽家、デザイナー等、インパクトのある人生を送った21人の女性たち。主に1940年代~70年代に活躍した、日本ではあまり知られていない人たち(私が知っていたのはシンガーのカレン・ダルトンと料理研究家のジュリア・チャイルドの名前のみ)の生き方を紹介するエッセイ。
 『イノセント・ガールズ』を改題し文庫化された作品だそうだが、著者も作中で言及しているように、「イノセント・ガールズ」という題名よりも「真似のできない女たち」という題名の方がしっくりくる。イノセントでガールズだと甘やかなイメージがしそうだが、登場する女性たちは皆甘くない。強烈な自我と個性、様々な欲望や苦しみを持っており、それに忠実だ。そういう人たちなので、当時はもちろん現代にいたるまで奇異の目で見られがち。本著は、彼女らに対するそういった見方を軌道修正し、ジャンル付けされない一個人として捉えなおそうという書き方になっている。
 彼女らの多くが世間からは理解されなかったり、世間的には「不幸」とみられる生き方をしたりする。ただ、読んでいると本人たちはそんな気持ちはなかったんだろうなと思えてくる。彼女らはたとえ結末が悲劇的だったとしても(孤独死どころか殺人事件の被害者になってしまった人も)、自分の意思で人生に挑んでいたしやりたいことをやろうとした、またそういう生き方しかできなかったのだ。読後感は意外と清々しい。ただ、生まれる時代が違えばまた違う選択肢があった人もいたのではないかなとも思ってしまう。それはそれで、ここまでやりたいことをやろうとする強烈な人生になったかどうかわからないけど。外圧があったからそういうあり方になったという面もあるのでは。




『ミュージアムグッズのチカラ2』

大澤夏美著
 日本各地の美術館・博物館のオリジナルグッズを収集・紹介したヒット作『ミュージアムグッズのチカラ』まさかの第二弾。「かわいさを楽しみたい」、「感動を持ち帰りたい」、「マニアックを堪能したい」、「もっと深く学びたい」という4つの方向性にわけて様々なグッズを紹介する。
 1作目はミュージアムグッズの紹介であると同時に、グッズを販売している博物館・美術館に行きたくなる好作だった。選りすぐりのグッズ、1冊では紹介しきれないものがまだまだあったんだなぁと感心するが、それは日本にはまだまだ面白い美術館・博物館が色々とあるということだろう。グッズを通して美術館・博物館がどういう趣旨で運営されているのか、そこに携わる職員の情熱、そして施設の魅力が伝わってくる。グッズの写真を見ているだけでも楽しいのだが、なぜその形状に至ったのかという経緯がわかるとより楽しいし(八尾市立しおんじやま古墳学習館のグッズに「歯ブラシ」があるのだが、なぜ歯ブラシなのか初めて知った)、グッズに込められた思いに心打たれたりもする。そしてやはり地方の美術館・博物館に行きたくなる!
 ミュージアムグッズは自分用に買うだけでなく、お土産として買うという側面もあるだろう。このグッズだとあの人にいいかも、これはあの人が喜びそうだな、これは小さくて持ち運びも楽そう、等々色々と想像ふくらみ楽しい。今回自分用にほしくなったのは室生犀星記念館の豆本ブローチと、野付半島ネイチャーセンターのオリジナル・ピンバッチ。お土産にいいなと思ったのは福井県立若狭歴史博物館の解体新書ノートと高知県立牧野植物園のMakino orijinal blend tea。

ミュージアムグッズのチカラ2
大澤夏美
国書刊行会
2022-05-28



『(見えない)欲望へ向けて クイア批評との対話』

村山敏勝著
 規範が作用する場から見えない欲望を引き出し、新たな解釈を与えるというクィア批評。英文学の様々な古典やセジウィック、ジジェク、バトラーらの理論を元にクィア批評の現在までの流れとそのあり方、それを用いてどのような思考の展開が可能なのか論じていく批評集。
 クィアとは何ぞや、ということがこれまでぴんときていないままクィア批評を目にすることも多かったのだが、本著によるとざっくりと(性的な)規範からの逸脱であり、異性愛/同性愛という二分法自体への批評にあたる概念ということになるだろうか。セクシャリティが基盤となって発生した概念なのでクィア批評もセクシャリティなし、というかセクシャリティの規範なしには成立しないことになるのだろうか。現在はセクシャリティのマジョリティ、マイノリティの差異が社会の中にあるが全部フラットな状態で「規範」が希薄になった時(そういう時は多分こないだろうが。異性愛/同性愛という対立項があっても同性愛の中でもまた別の規範が生まれるわけだし。規範はグループの中で延々と生じていく)、クィア批評って成立するのだろうかということをちょっと考えた。
 それはさておき本著、私には少々荷が重かったな…やはりラカンもジジェクもセジウィックも通過していない者には高いハードルだったか。とは言えクィア批評という視点で古典文学を読み直すというのはやはり面白い。新しい概念が出てくると思考の飛距離が伸びるものなんだなと。その思考が人間のセクシャリティから離れられない故に生まれたものだという所がまた奇妙に思える。


<女>なんていないと想像してごらん
ジョアン・コプチェク
河出書房新社
2004-07-21




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