3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

本・題名ま行

『ミステリ原稿』

オースティン・ライト著、吉野美恵子訳
 夫、子供と暮らすスーザンの元に、20年前に別れた前夫から小説の原稿が送られてくる。小説家志望だった前夫エドワードはとうとう長編『夜の獣たち』を書きあげ、彼女に読んでほしいと言うのだ。スーザンは原稿を読み始めるが、その小説は1人の男トニーが暴力の最中へ投げ出される物語だった。『ノクターナル・アニマルズ』(トム・フォード監督)として映画化され、文庫版は映画と同題名とのこと。
 原稿の読者であるスーザン視点のパートと、作中小説である『夜の獣たち』のパートが交互に配置される。スーザンは『夜の獣たち』をよみながら小説の主人公トニーの視線に自分を重ね、かつ、トニーに前夫であるエドワードを重ねていく。更にスーザンの視線はトニーだけでなく、彼の妻子や彼らに絡んでくる男たちにも重ねられていく。彼らの中の暴力性はスーザンの中にもあり、そして小説を生んだエドワードの中にも潜んでおり、それが呼応していくかのようだ。読書という行為がどのようなものか、上手く描かれた作品だと思う。必ずしも小説の主人公に共感、主人公目線で読むわけではなく、小説内の様々な部分に感情や記憶を呼び起こされていくと同時に違和感を覚えもする感じ。スーザンはエドワードの原稿を読むことによって、彼が自分を揺さぶろうとしている、自分に影響を及ぼそうとしていると感じ、それに反発もするのだが、それが読書という行為(そしておそらく小説を書くという行為)だよなと。
 『夜の獣たち』には、理性的かつ非暴力的故に妻子を奪われたトニーが、徐々に暴力側に引き込まれていく様が描かれている。非暴力的であることが「男らしくない」と非難されるのって(おそらくアメリカでは顕著なのだろうが)辛いな・・・。暴力へのストッパーは社会的に絶対必要とされているのに、ストッパーがかかっていることを非難されもするとは。暴力が否定される一方で暴力を強要されるような二律背反がある。




血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)
コーマック・マッカーシー
扶桑社
2007-08-28

『まほろ駅前狂騒曲』

三浦しをん著
 まほろ市で便利屋を営む多田の元に、高校の同級生・行天が転がり込んで同居生活もはや3年目。地域密着型の便利屋として営業を続ける多田便利軒は、親族の見舞い代行やバスの運行チェック等も相変わらず引き受けている。ある日、行天の元妻が、2人の間に生まれた実の子を便利屋として預かってほしいと依頼に来る。
 シリーズ3作目にして完結編。同題名で映画化もされた(お勧めです)。今回は、行天がなぜ過去を一切口にしないのか、家族と疎遠なのか、子供を忌避するのか、その行動の根っこにある部分が明かされる。多田も行天も家族にまつわる傷を持つが、それぞれ形は違う。その傷を理解できる、共感できる等ということは言わない所が、2人の距離感のある種の折り目正しさを感じさせる(実際の言動はお互い失礼なことばっかりだけど・・・)。多田が行天に対して言えるのは、お前は大丈夫だ、お前を信じているんだということだ。本シリーズ、ユーモラスな中にも苦さ寂しさが滲むのは、過去の変えられなさが常にまとわりつくところにあるだろう。しかし同時に、過去は変えられないが傷は痕が残るとしても塞がる、人生やり直しは出来ないかもしれないが仕切り直しは出来る。行先がほのかに明るいのだ。はるという、問答無用で前を向いている幼い子供の存在にひっぱられてのことであるのはもちろん、これまでのシリーズで登場した人たちがそれなりに、あるいは何となく元気に生きている、その中に多田も行天もいるのだという時間の積み重ねによるところが大きいように思う。

まほろ駅前狂騒曲 (文春文庫)
三浦 しをん
文藝春秋
2017-09-05


まほろ駅前狂騒曲 DVD通常版
瑛太
ポニーキャニオン
2015-04-15

『政と源』

三浦しをん著
つまみ細工の簪職人の源二郎と元銀行員の国政は幼馴染。2人の年齢を合わせて146歳になる長年の付き合いだ。弟子やその恋人がひっきりなしに出入りし賑やかに暮らす源二郎と、妻が娘夫婦の家に行き目下一人暮らしの国政は、身近な人たちのちょっとしたトラブルに関わり合っていく。
おじいちゃんブロマンスだが、さすが著者というべきかツボを押さえており危なげがない。源二郎と国政は性格も価値観も、暮らし方も対称的で一見反りが合わなさそうだ。しかしなぜか馬が合い、お互いの違いも尊重している。頻繁にお互い行き来しているわりには、内面には立ち入らない所があるのは、友情の折り目正しさというか、親友でも他人であるという距離感を弁えているからだろう。そして夫婦もまた他人である。国政と妻との人生終盤になってからの軋轢、というか軋轢があることに国政が全く気付かない所は、「あるある」感抜群なのだが、家族だからという安心感に甘えてきたつけが回ってきたと言うことなのだ。そもそもそれが甘えだと気付いていない所が厄介なんだけど・・・。全般的に源二郎の造形の方がファンタジー寄りで国政の方が実体感あるのだが、自分の身近にどちらのタイプが多いかで見え方が変わってきそう。
政と源 (集英社オレンジ文庫)
三浦 しをん
集英社
2017-06-22


ぐるぐる♡博物館
三浦 しをん
実業之日本社
2017-06-16




『幻の女』

ウイリアム・アイリッシュ著、稲葉明雄訳
 町をさまよっていたヘンダースンは、バーで奇妙な帽子を被った女と出会い、気晴らしに彼女をレストランと劇場に誘う。お互いに名前も聞かずに別れたが、帰宅したヘンダースンを待っていたのは妻の死体と警官、そして殺人容疑だった。ヘンダースンはアリバイとしてバーの女の存在を主張するが、バーテン始め、誰もその女を覚えていないと言うのだ。
 本作、出だしの文章のかっこよさ(もとい気障さ)で有名だが、大どんでん返し系ミステリとして面白かったんだな・・・。実は以前に読みかけたものの頓挫していたことを半分くらい読んでから思い出した。なぜ頓挫したかというと、おそらく証人探しの流れがご都合主義的で強引に思えたからだろう。ただ、終盤になるとそのご都合主義込でなるほど!というサプライズが待っている。正直強引なことは強引なのだが、力技で成立させてしまっている。誰も自分の言うことを信じてくれない、しかも他人からの証言が自分の記憶をいちいち否定していくという悪夢のような設定と、死刑のタイムリミットが迫る中での証人探しというスリリングさで読ませる。プロットの力技感と文章のスタイリッシュさのミスマッチに味があった。ところで、当時の女性にとって帽子ってそんなに重要なファッションアイテムだったんですかね・・・。他人と同じ帽子を被るなんて屈辱的!というテンションがいまいちわからない。

幻の女 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 9-1))
ウイリアム・アイリッシュ
早川書房
1976-04-30

幻の女 [DVD]
フランチョット・トーン
ジュネス企画
2010-05-25

『もう生まれたくない』

長嶋有著
震災が起きた年の夏、その翌年、翌々年。マンモス大学の医務室に勤務する春菜、同僚のシングルマザー美里、謎めいた清掃員の神子、大学講師の布田やその教え子である遊里奈や素成夫ら、様々な人たちと「死」の交錯を描く群像劇。
「死」と言っても、芸能人など著名人の訃報であったり、知り合いの知り合いくらいの距離感のある人の訃報であったり、ごく身近な人の訃報であったりと、その距離感は様々だ。人の死は殆どの場合突然訪れる。当人にとっても他人にとっても脈絡なく生じる。だからショックだし混乱するのだ。そして、死んだ人の時間がそこで止まってしまうにもかかわらず、他の人の時間は死者にこだわりがあろうとなかろうと否応なしに進む。その強制的な進み方が、死者の関係者にとってはきつい、しかし同時に強制的であるから若干気が楽になってくるという面もある。題名は「もう生まれたくない」だけど、決してそういう否応なしに時間が流れる感じが、ある年のある時点からふっと次の年のある時点へ、中間を割愛して移行する章立てで強調されている。
相変わらず実在の固有名詞や個人名の使い方が上手い。本作の場合は過去のある時代、「死んだ」ものへのほのかな懐かしみ(といってもその対象と深い関係があるわけでもないのだが。そういう身勝手な郷愁ってあると思う)を感じさせる。

もう生まれたくない

長嶋 有
講談社
2017-06-29


問いのない答え (文春文庫)



長嶋 有
文藝春秋
2016-07-08

『未来のイブ』

ヴィリエ・ド・リラダン著、斎藤磯雄訳
 青年貴族エドワルドは、ヴィーナスのような肉体と完璧な美貌を持つアリシヤを恋人にしていた。しかし彼女の魂は卑俗で、エドワルドは苦悩する。彼の苦悩を知った発明家のエディソンは、人造人間ハダリーにアリシヤを写した肉体を与える。
 エディソンとエドワルドが語る女性論は、1886年に発表された小説、また異端の作家の作品だということを差し引いても(だって1870年代にイプセンやトルストイやドストエフスキーがいるし、同時代にはモーパッサンやゾラがいるのに・・・。まあリラダンはリアリズム的に人間の心理や社会を描いた文学には興味がなかったんだろうけど)、ちょっとミソジニーがひどいんじゃないかな・・・。エディソンが発明した電話の発展形のような通信機器や、彼の屋敷の仕掛け、ハダリーの「中身」の描写等、SF的なエッセンスは時代を先取りしている感がありさほど色あせていない(一つの様式美として生き残っている)が、ピュグマリオン的願望とアリシヤに対するdisに関しては、当然のことながら現代の視線で読むとかなりきつい。エドワルドは理想の女性として人造人間を手に入れるが、彼にとっての理想の女性というのは、あくまで自分が想定している範疇から出ない存在であり、自分の延長線上の存在と言える。どこまで行っても自分でしかなく、そこに他者は存在しない。人形愛というのならわかるが、中途半端に人格を欲しているのが性質悪い。貞淑で聡明であれ、しかし自分より聡明であるなというのがな・・・。アリシヤの肉体を愛しつつ精神を軽蔑するエドワルドの苦悩にも、肉欲なら肉欲でいいじゃん!と突っ込みたくなる。このあたりは、さすがに時代を超えるのは難しいだろう。そもそも、それはアリシヤのせいじゃなくて肉体に惹かれてやまない自分の問題だよね・・・。

未来のイヴ (創元ライブラリ)
ヴィリエ・ド・リラダン
東京創元社
1996-05-01


メトロポリス / Metropolis CCP-315 [DVD]
アルフレート・アーベル
株式会社コスミック出版
2012-03-26

『夫婦善哉 正続』

織田作之助著
豊かな商家「ぼんぼん」だった柳吉と、てんぷら屋の娘として生まれ芸者になった蝶子は所帯を構える。柳吉はふらふらと遊んでばかりで蝶子が芸者で稼ぎ、やがて商売を始めるが。他、主に戦中期の代表作を収録した中短編集。岩波文庫版で読んだ。
「おっさん」「おばはん」と呼び合い喧嘩が絶えないが別れることもできず、住まいと商売を転々としていく。とにかく商売を始めてはつぶし、また始めてはつぶし、その折々で柳吉が浮気するという繰り返し。このループのみで小説が成立してしまっているというのも何だかすごい。ループするうちに不思議なグルーヴ感が生まれてくるのだ。構成に締りがないようでいて、だらだら続くこと自体が小説の駆動力になっている。ずっとお金の話と夫婦の愚痴が続いているような話なのになぁ・・・。柳吉のだらしなさ、流されやすさには、こんな男とは絶対付き合いたくないと思うが、この夫婦のどこにでも流れて生きていける感じはちょっとうらやましい。少ないお金で生活していける時代だったというのもあるんだろうけど、土地にも商売の種類にも拘らずどんどん転がり続けるタフさというか、性懲りのなさがある。他の作品もとかくお金、お金なのだが不思議と息苦しくない。上に這い上がれない人には這いあがれない人なりの人生が用意されているからか。


夫婦善哉 正続 他十二篇 (岩波文庫)
織田 作之助
岩波書店
2013-07-18

夫婦善哉 [DVD]
森繁久弥
東宝
2005-02-25


『ミステリ国の人々』

有栖川有栖著
 ミステリ小説には様々な人々が登場する。探偵やその助手、犯人や被害者だけではない。そんな「ミステリ国の人々」52人を紹介していくブックガイド。各章に添えられた挿画も、取り上げられた作品をなるほど!という形でモチーフ化しているものが多く楽しかった。
 登場人物に焦点を当てたブックガイドは多々あるが、その登場人物がメイン登場人物とは限らないという所がユニーク。もちろん探偵・悪漢・ヒーローも多く登場するが、えっその人モブじゃなかったけ・・・?という人も。目の付け所が上手い。その登場人物のチャーミングさ(ないしは不愉快さ)を紹介すると共に、登場する作品も紹介していく。更に、そもそもミステリとはどういうジャンルなのか、ミステリにおける仕掛け・文脈とは何か、どのような歴史背景があるのかまで関連付けて解説するという、ミステリというジャンルの解説本としての側面もある。まえがきで自認しているように、著者はこういうのが上手い(笑)。決して美文・流麗というわけではないが、解析・説明の的確さ(つまり著者自身が優れたミステリの読み手であり書き手である)がある。なお、個人的にはフィリップ・マーロウではなくリュウ・アーチャーを取り上げている所に拍手したい。

『蜜蜂と遠雷』

恩田陸著
3年ごとに日本で開催される芳ヶ江国際ピアノコンクールは近年注目を集めており、新たな才能の発見が音楽業界内でも待たれていた。かつて天才少女として名を馳せたものの母の死以来ピアノ演奏から離れていた栄伝亜夜(20歳)、ジュリアード音楽院の英才マサル・C・レヴィ=アナトール(19歳)、楽器店勤務のサラリーマンで出場年齢制限ぎりぎりの高島明石(28歳)、そして養蜂家の父と共に各地を転々とし、自分のピアノを持たないという風間塵(15歳)。それぞれ異なる才能を持ったピアニストたちが競うコンテストを描く。
1つのコンクールの1次予選から3次予選、そして本選までを通して描くので、ピアノコンクールというものがどういうシステムで稼働しており、どういう人たちが関わっており、出場者たちの心情はどういうものなのかという業界もののような面白さがあった。ピアニストたちにだけスポットを当てているのかと思っていたが、コンテストの審査委員やコンサートホールの運営側、オーケストラ(本選はオーケストラとの共演なので)指揮者や調律師、またピアニストたちの家族や恩師、友人たちなど、様々な人の視線からコンクール全体、そして彼らの音楽の有り方が描かれ、群像劇としても面白い。音楽の有り方は正に十人十色なのだが、ずば抜けた演奏の下では一つの色に引っ張られ、同じ風景を見ることがある。そこが聴衆を前にした演奏の面白さなのかもしれない。
とてもよく調べて丁寧に書かれた労作・力作で、リーダビリティも高い。音楽をやる、というのがどういうことなのかという説得力もある。ただ、よく書かれているが故に、音楽を小説で表現することの限界も感じずにはいられない。演奏している奏者はどういう状態なのか、ということは十分に表現できても、どういう音楽であるかという部分は、書かれれば書かれるほど空々しく感じられてしまう。かなりの文字数でどういう感じの演奏なのか、ということを描いているのだが、段々飽きてきてしまった。

『胸騒ぎのシチリア』

 ロックスターのマリアン(ティルダ・スウィントン)は声帯手術後の保養の為、恋人のカメラマン・ポール(マティアス・スーナールツ)とシチリアのバンテッドリーア島で過ごしていた。そこへマリアンの元夫で音楽プロデューサーのハリー(レイフ・ファインズ)が、最近娘だとわかったというペン(ダコタ・ジョンソン)を連れてやってくる。ハリーはマリアンとの復縁を望んでいた。監督はルカ・グァダニーノ。
 シチリアの風景はものすごくきれい!観光映画としても効果抜群なのだが、ちょっと変てこな印象。出てくる映像はキラキラしたシチリア海と浜辺があって風情のあるコテージと田舎町があって、そこで美しい男女がいちゃついたり諍いを起こしたりして、というような、イタリア映画黄金時代を(私が勝手に)思い起こすようなものなのだが、ショットのつなぎ方にやたらと躍動感がある。本作、マリアンがロックスターということもあってロック、特にローリングストーンズの音楽が印象的な使われ方をしているのだが、映像のリズムがロックっぽいのだ。イタリア映画的なムーディーな音楽は殆ど出てこなかったように思う。
 登場人物はほぼ4人のみでマリアンとハリーはおそらく50歳前後、ポールはマリアンより若く、ペンはぐっと離れて20歳前後といったところだ。この配置からすると、若く美しい女性が年長の3人の関係を引っ掻き回すパターンが定番だろうし、実際ペンはポールに対して気を引こうとするし、半分くらいは成功しているように見える。
 が、やはり本作での人間関係のゆらぎはマリアンを中心としてハリー、ポールの3人の間で生じているように思う。マリアンとハリーは離婚したとは言えお互いの仕事に理解もあり、ウマは合うので再会すれば親密な空気は生じる。一方で、ハリーとポールの間にも親密さがあるところが面白い。そもそもポールをマリアンに紹介したのはハリーなので、この3人が共犯関係のようにも見えてくる。とはいえ、ハリーがマリアンとの復縁を望んでいる以上、マリアンと(ぱっと見)円満なポールとの間には嫉妬が生じる。親密さと嫉妬とがそれぞれを反対方向にひっぱり、なんとも面倒臭い感じになっているのだ。ペンは結局、榧の外だったように思う。彼女の若さと聡明さも、3人の因縁に対するアドバンテージにならないのだ。マリンは当初、ペンに対してすごく若いしハリーに付き合わされて(父親の元妻とその恋人の家に連れて行かれてもな・・・きまずいよねってことだろう)かわいそう、みたいな態度を見せていたのだが、案外それが実際の所だったのかもしれない。

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