3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『ナイフをひねれば』

アンソニー・ホロヴィッツ著、山田蘭訳
 探偵ホーソーンの相棒として彼の活躍を本にしてきた”わたし”こと作家のホロヴィッツは、自身の作品に使う時間が削られることに耐え兼ね、ホーソーンに契約打ち切りを告げる。しかしその翌週、”わたし”は殺人容疑をかけられてしまう。自作の戯曲を酷評した劇評家が刺殺され、凶器は記念品として”わたし”に贈られ、かつ”わたし”の指紋がついている短剣だった。絶体絶命の”わたし”はホーソーンに助けを求める。
 シリーズ4作目だが今回は(作中人物の)ホロヴィッツが大ピンチ。ただこのピンチはホロヴィッツ本人のそこつさ、わきの甘さで増大されている気もする。私はこのシリーズに対し、出来がいいと思いつついまひとつ愛着がわかないのだが、それはワトソン役を過剰にまぬけに描く傾向があるからかもしれない。作家本人がモデルのキャラクターだから存分にやって大丈夫ということなのかもしれないが、そんなに墓穴を掘るようなことばかりさせなくても…と思ってしまった。とは言えミステリとしてはやはり手堅い。今回は「だれが」「なぜ」という本筋よりも、その周辺の細かい伏線の仕掛け方が相変わらずきちんとしていて謎解きミステリとしてはフェアなのでは。作品としてはやや小粒の印象ではあるが充分面白い。
 なお、ある人物のある行動の理由について、理由付けが今時それはちょっと古い(昔はこういう動機設定はあったが今はそれは動機=特異な条件としては扱わない傾向にあるのでは)のではと思った。実生活として古いというより、フィクションの在り方として最早そういう風潮にはないのでは。


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ケネス・ブラナー
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
2021-01-08





『七つの裏切り』

ポーリ・ケイン著、木村二郎訳
 町中で見知らぬ男に呼び止められた“おれ”。誰かと勘違いされたようだが、呼び止めた男は倒れこんでしまう。倒れた男をタクシーに乗せて運ぼうとするが彼は既に死んでいた(「名前はブラック」)。シェインは自分が投資したクラブ“71”の経営者・リガスに会い、クラブにこれ以上投資するつもりはないと告げる。リガスはシェインの昔馴染みであるロレインと結婚していた。リガスはロレインとは離婚することになったと言う(「“71”クラブ」)。1930年代に雑誌「ブラック・マスク」で活躍したが早々に姿を消した作家の作品集。
 帯によるとレイモンド・チャンドラーが絶賛したそうなので期待して手に取ったのだが、正直期待しすぎた。ハードボイルド小説史上の史料としての価値はあるが現代でも通用する作品かというと、時代背景的な価値観を差し引いても少々厳しいと思う。相当切り詰めたスピード感のある文体なのだが、切り詰めすぎて何が起きているのか今一つ分かりにくい。文体に対してプロットが複雑・詰め込みすぎというか…。プロット上ここはしっかり見せておかなければ、という箇所をさらっと流していくので読み終わった後肩透かしをくらったような気分になる。伏線を設定してあるのだが読者が気付けず(登場人物の移動経緯や物理的な位置関係が少々分かりにくいのも一因だと思う)何か唐突に物事が起こったように見えてしまうのだ。私の読み方が不注意だというのもあるだろうが、なかなかストーリー展開が頭に入ってこなくて参った。チャンドラーは本作を「ウルトラ・ハードボイルド文体」と評したそうだがウルトラすぎる。ハードボイルドにしてももう少し情感や文体の技巧があった方が読みやすいんだな…。そんな中比較的読みやすかったのはコンセプトがはっきりしている『“71”クラブ』『鳩の血』。

七つの裏切り (海外文庫)
ポール・ケイン
扶桑社
2022-12-23


よそ者たちの荒野 (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
ビル プロンジーニ
早川書房
1998-11-01






『七つのからっぽな家』

サマンタ・シュウェブリン著、見田悠子訳
 母は他人の家に入って内装を変え品物を持ち帰ってしまう(「そんなんじゃない」)。離婚した妻と子供たちと両親の家を訪ねているのだが、両親は裸で駆け回っている(「ぼくの両親とぼくの子どもたち」)。家や家族にまつわる奇妙な物語7編を収録した作品集。
 家や家族にまつわる話ではあるが、ここに登場する家も家族も決して心地の良いものではない。「そんなんじゃない」に登場する母親は他人の家をあちこちいじってしまう。”私”はなんとかフォローしようとするが振り回されっぱなしだ。母親は他人に嫌がらせをしたいわけではなく、彼女にとってのあるべき”家”の姿を追い続けているように思えた。しかし、そんな“家”本当にあるのだろうか。また「ぼくの両親とぼくの子どもたち」では“ぼく”と妻とのかみ合わなさが露わになる。かといって実の両親とかみ合うかといったらおそらく全然かみ合わないんだろうけど。人が抱える世界との祖語観や欠落感を、家や家族という本来自分と合致しているはずのものの形を借りて描いているように思った。家族といても、家にいても安らぐわけではないのだ。
 ほっとさせてくれる話が一切ないのだが、最も痛切に感じられたのは「空洞の呼吸」。認知症を患っているらしい女性の一人称なのだが、徐々に彼女や彼女の家族、そして彼女の隣人に何が起きたのか、彼女が何をやったのかが見えてくるという、ミステリ的な切り口でもある。彼女のやることが隣人にとってどういう意味をもっていたのかわかる瞬間、あまりにいたたまれない。

七つのからっぽな家
シュウェブリン,サマンタ
河出書房新社
2019-05-28


わたしたちが火の中で失くしたもの
マリアーナ・エンリケス
河出書房新社
2018-08-23


『長い一日』

滝口悠生著
 1階に鉄鋼工場のある建物の上階に入居している夫婦。大家である鉄鋼工場のおじさんは仕事を引退する。夫婦は引っ越しを考え始める。新居を探し始めるがなかなかいい物件がない。ようやく引っ越しが決まるが、夫は今の家を離れがたくなる。
 2017年8月16日を起点に、工場の上の住居に越してきた頃、大家のおじさん・おばさんとの交流、家に遊びに来る友人たちとのやり取り、そして新居での生活等、過去と現在、そしてその先にわたる時間が1日の出来事のように濃縮されていく。視点も夫が中心なのかと思っていたら急に妻の視点になったり、友人の窓目くんや八朔さんになったり、おじさんやおばさんになったり、はたまた夫婦の想像の中の人物のものになったりする。時々「私」という一人称の語りが出るのだがこの「私」とは一体誰なのか?と一瞬戸惑う。時間が伸びたり縮んだり飛んだりするのが小説の面白さだなと実感した。そして視点がどんどん流れていく、連想によって始点とは全然違う方向に飛んでいく。いわゆる意識の流れのような書き方なのだが、本作の場合はその意識の流れが複数の主体を越えて連鎖し、段々混沌としていく。あの人はこう見ていたがこちらの人はこう見ていた、という多角的な形で場面が立ち上がってくる。見方のずれが人間関係の危うさを感じさせ、ごく普通に見える日常の中にどこか不穏さも漂う。一見だらだらエピソードが連鎖するように見えて、一周回って元に戻るような構成も不穏。今は何時なのか。

長い一日
滝口 悠生
講談社
2021-06-30






『長い別れ』

レイモンド・チャンドラー著、田口俊樹訳
 酔っぱらって連れの女性に見放された男、テリー・レノックスを助けた探偵フィリップ・マーロウ。2人は時々酒を一緒に飲む友人同士となった。ある夜、テリーに頼まれメキシコ国境まで送り届けたマーロウは、警察に拘留されてしまう。テリーには妻殺しの容疑がかかっていたのだ。更にテリーが自殺したという知らせと、マーロウ宛のテリーからの手紙が届く。
 チャンドラーの代表作である本作は既に清水俊二、村上春樹訳バージョンが出版されているが、田口俊樹による新訳で読んだ。これまでの日本語訳の中では一番パルプフィクション感があるというか、気取りがない文章なのではないか。チャンドラー初心者は本作から読むといいのではないかと思う。それと同時に、ちょっとした情景の描写(チャンドラーの魅力はむしろここにあると思う。気障で癇に障るという人もいそうだが私はこれが好きだ。ディティールに魅力がある)の詩情やユーモア、皮肉もしっかり味わえる。
 ある女性が初登場する場面で「夢」と称されるのだが、夢とは実体がない儚いものでもある。本作の重要人物となる男性も女性も、ある意味で「夢」だ。この2人、オム・ファタールとファム・ファタールがマーロウを挟んで配置されるという構図だったことを改めて意識させられた。「夢」という言葉は美しいが、摩耗して中身がすかすかになってしまった抜け殻としての「夢」、過去の「夢」でありそこからもう何も生まれないということが悲しいのだ。マーロウも彼・彼女の中に束の間の「夢」を見るわけだが、幸か不幸か彼はやがて夢から覚める。それもまた物悲しいが、夢に甘んじず、自分が傷つくとわかっていても落とし前をつける所がマーロウの生き方の魅力なのだろう。

長い別れ (創元推理文庫)
レイモンド・チャンドラー
東京創元社
2022-04-28



『ナイルに死す』

アガサ・クリスティー著、加島祥造訳
 美貌の資産家であるリネット・リッジウェイは、友人の婚約者だったサイモン・ドイルと結婚。2人はハネムーンでエジプトを訪れるが、ドイルの元婚約者ジャクリーン・ド・ベルフォールが2人を付け回す。不安を覚えたリネットは旅行でエジプトを訪れていた名探偵ポワロに相談する。そしてナイル河を旅する豪華客船の中で事件が起きる。
 昔何度か読んだことがある作品だが、内容もすっかり忘れていることだし映画鑑賞前に再読しておこうかなーと思って読み始めたら、まあいきなり面白い。これがクリスティの凄みか。登場人物はある程度類型的だが、その分「どういう人」ということが短い文章でも伝わってくる。人の妬みやひがみ等、悪意とまではいかないがちょっとした意地悪い言動、揶揄含みの言動の描き方が抜群に上手い。「持っている」人の、決して悪意はないが持っているからこその無神経さや尊大さ等、なかなかえぐってくる。ミステリのトリック自体は、クリスティ作品の中ではどちらかというと強引な方だと思う(トリックそのものよりも目くらましの方が巧み)が、メロドラマとしての側面で読ませる。
 以前に読んだ時はあまり印象に残らなかったのだが、形は違えどマザコン的な人が2人出てくる。一方はいわゆる毒親の子、もう一方は母親の理解があり仲がいい。毒親持ちの人が、もう一方の母親が自分の母親だったらと漏らす所が痛ましかった。

ナイルに死す (クリスティー文庫)
加島 祥造
早川書房
2012-08-01


ナイル殺人事件 [DVD]
マギー・スミス
KADOKAWA / 角川書店
2018-04-27




『ナイトメア・アリー 悪夢小路』

ウィリアム・リンゼイ・グレシャム著、矢口誠訳
 カーニヴァルの巡回ショーで働く手品師のスタン・カーライルは、占い師のジーナと関係を持ち、彼女の読心術の技を記したノートを入手する。若く美しいモリーと組んでヴォードヴィルへの進出を果たし、一攫千金の野心を燃やし続けるが。
 1946年出版の作品だが、ギレルモ・デル・トロ監督による映画化が決まったそうで、日本で翻訳出版されたのも映画化により後押しされたからだろう。翻訳されてよかった、ありがとうデル・トロ…。タロットカードをモチーフにした章構成、カーニヴァルの怪しげな雰囲気、読心術に心霊体験というオカルトめいた要素が満載なのだが、本作の趣旨はやはり犯罪小説、ノワール小説だろう。スタンはあるやり方でのし上がっていくのだが、彼が扱うのは人の心で神秘的な要素はない。むしろ下世話に徹している。可愛げがあった青年が、怪しさを道具立てに人の心操って富を得ていくうちにどんどんクズ野郎になっていく、そして今度は自分の心に翻弄されて失墜していくので、そこにあるのはあくまで人の欲だ。野心は人を奮い立たせもするが、人生も理性も良心も捻じ曲げてしまうことが往々にあることを、スタンの人生が体現しているのだ。他人の心は読めるしコントロールできるが、自分の内面やごく身近な人の内面には無頓着で、それが彼を破滅させる。愚者のカードで始まり吊るされた男で終わるという構成が見事、かつぞっとした。あれはこの人のことだったのかと。

ナイトメア・アリー 悪夢小路 (海外文庫)
ウィリアム・リンゼイ・グレシャム
扶桑社
2020-09-25


フリークス [DVD]
レイラ・ハイアムズ
ジュネス企画
2004-03-25




『なぜならそれは言葉にできるから 証言することと正義について』

カロリン・エムケ著、浅井晶子訳
 暴力を受けた被害者は自分の体験を話すことが難しい。暴力はその人と世界との「こうあるはず」という約束事を壊してしまうので、自分に何が起きたのか認識し表現できるようになるまでに時間がかかるのだ。語ること、聞くこと、聞いたことを伝えることについて著者が考えたエッセイ集。
 序盤の、暴力被害について被害者は言語化できるまでに時間がかかるという話は、ホロコーストで、戦地で、また災害による暴力に関連して語られるが、最近(ずっと以前からある問題だけど)の問題としては性犯罪被害の際の証言のしにくさや二次被害を連想した。著者のいう語りにくさには当然そういった被害によるものも含んでいる。被害者が暴力について語るとき、直接的に語ることはできない。途中で脇道にそれたり、何か定期的に障害が挿入されたりする。あまりに辛い故に、あったそのままを言語化することはできず、すこしずつずらしながら、何回もリトライをしてというような婉曲的な語りになる。その語りに証言としての信憑性はあるのか?と問う人もいるが、被害者が語れるのかどうかは、聞く側がそれを聞く態勢を取れているかどうかにもかかっている。被害者が世界との関係を取り戻すには、聞き手の誠実さ、他者への想像力に基づく真剣さが必要だ。まともに聞く人がいてこそ語れるという、相互関係がある。語れなさを語り手の責任にするのは筋が違うのだ。
 今まさに進行形の問題にかかわる文章が随所にあるのだが、特に今の日本では「リベラルな人種差別」「民主主義という挑戦」は必読ではないかと思う。


憎しみに抗って――不純なものへの賛歌
カロリン・エムケ
みすず書房
2018-03-16


『流れは、いつか海へと』

ウォルター・モズリイ著、田村義進訳
 身に覚えのない罪を着せられ刑務所に収監され、ニューヨーク市警を追われた元刑事のジョー・オリヴァー。10数年後、私立探偵となった彼の元に依頼が舞い込む。警察官を射殺した罪で死刑を宣告された黒人ジャーナリストの無実を証明してほしいというのだ。一方、彼自身の冤罪について、彼を「はめた」と告白する手紙が届く。オリヴァーは2つの事件の捜査を開始するが、予想以上に大きな闇に足を踏み入れていく。
 何とも古風なハードボイルド。タブレットが出てこなかったら70年代、80年代くらいの話だと言われてもわからないかも。オリヴァーは無実の罪を着せられ、獄中で心身ともに深く傷つく。妻との関係もこれがダメ押しになり破局。とは言え彼がハメられた罠は、えっ今時そんなトラップに引っかかるの?!というもので、彼自身のわきの甘さに付け込まれたとしか言いようがないんだよな…。オリヴァーには好みの女性がいると手を出さずにはいられないという悪癖があったのだ。妻との関係が破綻するのも時間の問題だったろうし、だからこそ自分を見放したことについて妻をあまり強くは責められないという自覚もある。シャバに戻ってからの振る舞いにも、ちょっとセックス依存症的な側面もあるように思えた。本作にいまひとつ乗れなかったのは、彼の女性との関係性、女性に求めるものには色々と問題あるのではと思えたのに、そこはスルーされていたからかもしれない。娘も出来が良すぎて、だ大分オリヴァーに都合のいい設定。なお、オリヴァーをサポートする元凶悪犯メルが、クレイジーだが仁義を守る良い(便利すぎるが)キャラクター。そして何だそのファッショニスタぶりは…。

流れは、いつか海へと (ハヤカワ・ポケット・ミステリ)
モズリイ,ウォルター
早川書房
2019-12-04


ブルー・ドレスの女 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
ウォルター モズリイ
早川書房
1995-12T





『何があってもおかしくない』

エリザベス・ストラウト著、小川高義訳
 アメリカの田舎町アムギャッシュに暮らす、教師や農家、写真家など「普通」の人たちの日常と、この町から出ていき作家になったルーシー・バートンの新刊が日常に起こすさざ波を描く連作集。
 著者の『私の名前はルーシー・バートン』の姉妹編だそうだ。本著の中に出てくる作家の新刊本というのが、このルーシー・バートンの新作で、ルーシー自身も登場する。本作に出てくる人たちの多くは、過去へのわだかまりを解決できないまま、ずっと引きずっている。人によっては何がわだかまりなのかも自覚していない。わだかまりの正体を突き付けられる、あるいは徐々に受け入れていく過程を描いた作品が多いように思った。普通の人たちの普通の生活を描いたと言えるのだろうが、「普通」は人それぞれであり全ての人生は異なる。他人の人生がどういうものかなどわからないし、人生の評価など当人にだってできないのだろう。細部の具体的なディティールの積み重ねがそれぞれの人生が唯一であることを際立たせていた。特に親子や兄弟の間の気持ちのしこりのようなものの描き方が、自分の中にあるものと呼応して、なかなか胸に刺さる。

何があってもおかしくない
Elizabeth Strout
早川書房
2018-12-05


私の名前はルーシー・バートン
Elizabeth Strout
早川書房
2017-05-09




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