3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『太陽がいっぱい』

パトリシア・ハイスミス著、佐宗鈴夫訳
 トム・リプリーは富豪のグリーンリーフ氏から、イタリアに行ったきりもどってこない息子・リディッキーを連れ戻してほしいと頼まれる。イタリアへ赴いたトムはディッキーと会うが、彼は女友達のマージと自由な生活を謳歌しており、アメリカに戻る気などさらさらなかった。トムはディッキーに近づこうと画策する。
 アラン・ドロン主演の映画化作品(後にマット・デイモン主演で『リプリー』として再映画化)が有名すぎて原作である本作を読みそびれていたが、ラストが映画と違うってこういうことか!ひとつ謎が解けました。トムはある犯罪を計画し、彼自身は完全犯罪と自負するが、実際の所あちらこちらにほころびがあり、今にも破綻しそうだ。その破綻の原因は、ほぼリプリー自身の振る舞いにあるところが面白い。余計なことをしなければそんなにヒヤヒヤしないで済むんだよ!と突っ込みたくなる。彼が余計なことをしてしまうのは、彼の願望が金を得ることそのものではなく、元の自分よりも優れた何者か=ディッキーになり認められたいという所にあるからだろう。観客がいなければ成り立たないのだ。やっている行為と動機が矛盾している。トムは元々俳優志望だったと作中で少しだけ言及されているのが示唆的だ。作中でも頻繁に一人芝居をしているが、屈折したナルシズムを感じる。自分自身ではなく自分が演じている役柄に対して過剰な自信があるという。
 また、今読むと明らかに、リプリーのリッキーに対する感情は恋であり、ディッキーがトムを疎んじるのはゲイフォビアと自分の中の同性愛的傾向への戸惑いとの入り混じったものであろうとわかる。結構あからさまに描かれてると思うけど、当時はそういう価値観自体ないことにされてたってことかな。

太陽がいっぱい (河出文庫)
パトリシア ハイスミス
河出書房新社
2016-05-07


リプリー [DVD]
マット・デイモン
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
2015-03-04

『太陽の棘』

原田マハ著
第二次大戦終結直後の沖縄に派遣されることになった、若き精神科医エド・ウィルソン。心に傷を負った大勢の兵士の診察に奔走する中、息抜きは同僚たちとのドライブだった。ドライブ中、沖縄の芸術家たちが作った共同体「ニシムイ美術村」に辿りつき、若き画家たちと交流が始まる。
ニシムイ美術村は実在した共同体だそうだ。それを沖縄駐在のアメリカ人の視点で描く所にひねりというか苦肉の策というかが見える(このあたりは文庫版についている佐藤優の解説が的確だった)。画家たちが抱える怒りはエドにとってわからないものであり、そのわからなさ、共有できなさは沖縄と本土を巡る問題を投影したものでもある。著者にはこれを描き切れるのか、沖縄の外から書いていいのかどうかという躊躇があったのかもしれないが、書き方で回避している。ただ、面白い題材なのだが、(著者の作品全般そういう印象なんだけど)画家たちの作品に対する対峙の仕方や、作品のディティール等の描写が通り一遍であっさりしている。全部予想の範疇内でほどほどに収められている感じで、読みやすいが後に残るものがない。もったいないなぁ。


太陽の棘 (文春文庫)
原田 マハ
文藝春秋
2016-11-10


楽園のカンヴァス (新潮文庫)
原田 マハ
新潮社
2014-06-27


『高い城の男』

フィリップ・K・ディック著、浅倉久志訳
第二次世界大戦が枢軸国の勝利に終わり、ナチス・ドイツと大日本帝国が分割統治している世界。分割統治下のアメリカでは『イナゴ身重く横たわる』という、連合国が第二次世界大戦に勝利したという設定の小説が流行、発禁処分となり、作者である「高い城の男」は保安警察に狙われていた。美術商のチルダンは顧客の田上に叱責され、再度商談に向かう。ロッキー山脈連邦に暮らすジュリアナは、トラック運転手のジョーと共に「高い城の男」に会いに行こうと思い立つ。ドイツでは首相の死によりナチ党内の権力争いが激化していた。
史実とは逆転したパラレルワールドが舞台だが、統治下アメリカの閉塞感、ユダヤ民族が置かれた状況(当然戦中よりも更に迫害はひどい)等が日常として迫ってくる。その閉塞感を打ち破る、あるいは気を紛らわせるために登場したのが『イナゴ身重く横たわる』で、実際ジュリアナはこの小説に心を奪われる。おそらく『イナゴ~』に描かれているのは読者にとっての「史実」なのだが、作中ではそんなバカな!と鼻で笑われる。しかし「高い城の男」にとっては書かずにいられなかった真理であり、ジュリアナにとって娯楽小説を越えた何かになっていく。フィクションが(作中人物にとっての)ノンフィクションを動かしていくのだ。『イナゴ~』の使われ方にしろ、チルダンが掴ませられる贋作品にしろ、もしかしてシリーズ化される予定だったのかなという気がする。続編では、フィクションがノンフィクションをより浸食し塗り替えていく展開だったのかも。本作で見られるのはその予兆だ。

『探偵はひとりぼっち』

東直己著
 人柄の良さで周囲から愛されていたオカマのマサコちゃんが殺された。しかし、警察の捜査は一向に動きを見せずない。若い頃に彼女の恋人だったという大物代議士が、スキャンダルを恐れて隠ぺいしようとしたのではという噂がススキノに流れ始め、ゲイコミュニティーには怯えが広がっていた。マサコちゃんの友人だった「俺」は、真相を突き止めようと動き始めるが、身辺に怪しげな男たちが現れる。『探偵はバーにいる』シリーズの4作目。映画『探偵はバーにいる2』の原作でもある。
 「俺」は口を閉ざす人たちに対して納得がいかない。おかしなことはおかしいと言い、怒るべきところでは怒るべきだというのが彼のやり方なのだろう。ただ、それは守るべきものを持たない、身ひとつだから出来ることだと思う。「俺」は苛立ちを旧知の記者・松尾にぶつけてしまう。この時の松尾の反応が強く印象に残った。松尾もゲイコミュニティーの人たちも、ススキノの住人たちも、「俺」から見たら卑怯なのかもしれないが、それを「俺」に責められる筋合いはないだろう。「俺」は松尾に諌められ一応退くものの、おそらく本当にはぴんときていない。そんな「俺」に、最後に大変な事態が起きる。「俺」はそれを引き受けられるのかどうか、続きがちょっと気になる。
 なお、80年代が舞台なのだが、やっぱりバブルだったんだなー。「俺」はさしたる収入源がなさそうなのに、今現在の「金がない」とは大分趣が違う。もし今同じような設定だったら、多分銀行口座からお金引き出せないよな。

『黄昏の彼女たち(上、下)』

サラ・ウォーターズ著、中村有希訳
第一次大戦後の1922年。ロンドン郊外の屋敷に母親と住むフランシスは、戦争で兄弟を失い、父も亡くなり、生活為に屋敷の2階を人に貸すことにした。引っ越してきたのはレナードとリリアンのバーバー夫妻。常に他人の気配がする生活に慣れないフランシスだが、リリアンと仲良くなっていく。やがて強く惹かれあうようになったフランシスとリッリアンだが、ある事件が起きる。上巻と下巻ではがらりと雰囲気が変わるので、これは分冊されて(分量的にも)正解なんだろうなぁ。上巻はロマンス、下巻はサスペンス色が濃くなる。フランシスはリリアンへの思いにともすると振り回され、しかし彼女の為により強くなろうとする。フランシスは経済的な困難や過去の出来事によって、自分の人生を枠にはめてしまい思うように生きることを諦めていたが、リリアンとの出会いによってまた情熱を取り戻していくのだ。前半では恋愛によってフランシスがどんどん生き生きとしていくのだが、その分後半の展開はやりきれない。ある事件によって、彼女らが得たと思っていた強さも意思も失われ、猜疑心と罪悪感に苛まれるようになるからだ。2人の間に生まれた魔法のようなものが、あっという間に崩れていく過程は苦く切ない。それでも、「それ以外の選択は出来ない」ことがある。崩れ去ってもなお残るものがあるのではないかと提示するような、薄闇の中のラストシーンが印象に残った。

『ダイナー』

平山夢明著
闇サイトで募集していたわけありのバイトに手を出したオオバカナコは、拷問に遭遇し、会員制のダイナーにウェイトレスとして売り飛ばされた。ダイナーの客は全員殺し屋。マスター兼シェフのボンベロも料理の腕は絶品だが凄腕の殺し屋らしい。かろうじて命拾いしたオオバカナコだが、はたして生きてダイナーを出られるのか。バイオレンスがっつり盛りで殺し方もグロテスク。しかし出てくる料理は実にジューシーで(ご遺体もジューシーだけど・・・)おいしそう。何と言っても「ダイナー」だからハンバーガーがメインメニューなのだが、このパテは肉汁たっぷりなんだろうなぁ、かといって油っぽくはなく肉のがつんとした味わいに満ちているんだろうなぁ、ジビエ使ってパテとか贅沢!とよだれがわきそう。サイドメニューのスフレなども美味しそう。殺し屋たちも美味しい物の前では、一人の人間として素を垣間見させる。しかし稼業が身にしみついており、素の垣間見させ方がむしろ物悲しくもある。オオバカナコのセリフの語尾がちょっと不自然(いわゆる女言葉で今時これはないかなと)なのだが、彼女の意外なしぶとさ、ギリギリの線で普通の人としての感覚を失わないところが、ボンベロや殺し屋たちに化学反応を起こし、彼女を思わぬ境地に連れていく。

『たとえ傾いた世界でも』

トム・フランクリン&ベス・アン・フェンリイ著、伏見威蕃訳
1927年、ミシシッピ川が増水し、周囲の町には洪水が迫っていた。夫ジェシと共に密造酒を作っているディキシー・クレイは、赤ん坊を亡くした悲しみから立ち直れずにいた。一方、潜入捜査の為、相棒ハムと共に町へ向かっていた密造酒取締官インガソルは、銃撃戦から免れた赤ん坊を拾ってしまう。ディキシー・クレイが赤ん坊を亡くしたことを聞き、彼女に赤ん坊を託す。お互いの素性を知らない2人は、徐々に惹かれあっていくが。『ねじれた文字、ねじれた路』の著者フランクリンと、詩人としても活躍するフェンリイとの共作。このお2人、夫婦だそうだ。『ねじれた~』は男性2人が「もう一度やり直す」話だったが、本作は悲しみを抱えた男女が「もう一度やり直す」ことを試みる。ディキシー・クレイの強さ故の悲しみと、インガソルの寄る辺ない生き方をしてきたが故の悲しみのコントラストに陰影がある。激しい女と茫洋とした男(インガルスがブルーズを愛するのは、自分に欠けた濃い感情を補おうとしているようにも見える)、一見対照的なのだが、2人とも、ここが自分の居場所である、という確信を持てずに生きてきた(ディキシー・クレイの場合は確信を持てないというより、途中で見失ってしまったと言った方がいいが)人たちであり、だからこそ惹かれあう。1927年の大洪水は実際にあったことで、この時の災害対策でフーヴァーが株をあげたのだとか。禁酒法下であることも含め、時代背景の色濃さも面白い。

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