津村記久子著
高校を卒業したばかりの理佐と小学生の妹・律は、山間にある町に引っ越し2人暮らしを始める。母親の恋人が律を虐待し、理佐の進学費用を使い込んだ為だ。理佐はそば屋に就職するが、そのそば屋にはそば粉を引くための水車があり、水車小屋にはネネというヨウムがいた。姉妹とその周囲の人たち、そしてネネの40年間を描く。
1981年、1991年、2001年、2011年という4つのパートから構成されている。10代だった理佐も小学生だった律も、どんどん大人になっていく。成長するにつれてものの見え方や他人に対する認識が変わっていく様にはっとする。こういう親切のやり方は確かに子供にはぴんとこないだろうとか、あの時のあれはこういうことだったのかという認識のギャップが埋まっていくのだ。そして姉妹もまた、自分たちを手助けしてくれた大人のように成長していく。母親とその恋人以外は概ねまともな大人ばかりなので、そうかまともな大人とはこういうことだった…と読者側としても襟を正してしまった。
姉妹はいわば親を捨てて(というか親が親をやることを放棄したので)2人で暮らし始める。自分の進学、ついては将来設計をいきなりめちゃくちゃにされた理佐の怒りと悲しみや、母親の恋人の自分に対する態度を淡々と説明する律の姿は非常に辛いし、その嫌さが生々しい。まだ未成年の身で妹を養おうという理佐の行動は無謀なのだが、そうせざるを得ないという彼女の覚悟、年少の者は守らねばというまともさが非常によくわかるのだ。
ただ、理佐と律の心もとない生活には、それを少し手助けしようという人たちがぱらぱらと現れていく。彼ら彼女らもまた、年少の者は守らねばというまともさを持っている人たちだ。理佐の就職と引っ越しを助けてくれた職場の先輩を筆頭に、そば屋の店主夫妻や地元のコーラスグループの人たち、律の担任教師や同級生の親、ネネの世話を一緒にしている老婦人等が現れていく。濃密な関わりではなく、一線を守った浅めの好意や援助が複数あるという所がポイントだろう。本作には理佐・律姉妹以外にも、居場所がなくて水車付近に流れ着いてくる心もとない人たちが登場するが、彼・彼女らは浅めの関係、他人としての思いやりやいたわりでずっと繋がっていく。他者を思いやる、助け合うというのはこういう形でいいのではないか。本作はある種家族小説的ではあるのだが、その家族的な集団は血が繋がっていない全くの他人で、お互いに自主的に選んで家族的な関係になっていく。これが今の家族、というよりも他人と共に生きていこうとする形の一つの在り方なのかなと思った。大事なのは血縁ではなく、的確に支え合える、手助けができる関係にあるということだ。その中心に人間ではないネネがいるという所もまた面白い。