3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『最初の刑事 ウィッチャー警部とロード・ヒル・ハウス殺人事件』

ケイト・サマースケイル著、日暮雅通訳 
 1860年、イギリスのカントリーハウスで3歳の男児が惨殺死体となって発見されるという事件が起きた。屋敷の中には両親、兄姉ら、そして使用人たちがいた。多数の容疑者がいる中、当時創設まもなかったスコットランド・ヤードのウィッチャー警部の捜査は難航を極める。そして新聞や雑誌はあることないことを書きたてて大衆の好奇心を煽っていった。
 実際に起きた事件を当時の報道や裁判資料等により再構築したノンフィクション。とはいえ1860年の話なので、読んでいる方の感覚としては小説に近い。当時の警察の捜査方法はまだ手探りなので、ああー初動捜査がもっとうまくかみ合っていれば・・・ともどかしくなる。ウィッチャーは当時のヤードの中でも有能な警部だったそうだが、色々なものが上手くかみ合わない。地元の警察のやっかみにも足を引っ張られるし、被害者家族の非協力的な態度も足かせになる。警察の権限がまだ少ない世界だったことがわかる。当時のマスコミと世間の過熱も興味深い。過熱するのは現代と同じではあるが、事件のディティールを勝手に作ってしまいどんどんフィクション化していく。当時は家庭内なプライベートな領域、外からの目にさらしてはならないものという意識が非常に強くなっていたそうだが、その一方で他人の家庭で起きた事件に興味しんしんで家庭の事情を探りだしさらしものにしたいという欲求が増大していたという、うらはらさがとても面白い。ゴシップ好きにしてもいきすぎでなんでこんなに加熱したのかと思うくらい。容疑者の絞れなさ、まさかの自白等事実は小説より奇なりとは本当なんだなと。ただ、ノンフィクションである本作を読むと、人がなぜ殺人事件を扱うミステリ小説をこのんで読むのかわかってくる気がする。不条理な出来事にもかならず合理的な解決があると信じたくなるんだよな。




刑事たちの三日間 上 (創元推理文庫)
アレックス・グレシアン
東京創元社
2013-07-27

『ザ・サン 罪の息子(上、下)』

ジョー・ネスボ著、戸田裕之訳
 オスロの刑務所に服役中の麻薬中毒者サニーは、他の囚人からの「告解」を聞き許しを与える聖人のように扱われていた。しかし、サニーはある日脱獄し姿を消す。その後オスロ市内で殺人事件が相次いで起こる。オスロ警察殺人課のシモン・ケーファス警部は、殺人事件の連続性に気付き、サニーとの関連にも気づいていく。
 序盤はそれほどでもないのだが、序盤を過ぎると急にアクセル踏み込んでスピードを落とさない。物語の視点も場所・時系列も次々と変わり目まぐるしく、急展開に次ぐ急展開で一気に読んだ。題名からも推測できる通り、サニーがある人物の息子であり、父親が背負っていた荷を息子が肩代わりしけりをつけるという、濃厚な復讐譚としての側面がある。加えて、その人物とシモンの関係、シモンが背負っている問題が思わぬところで結びつき開示されていく。この人の罪に対する制裁、あるいは許しがどういう形で現れるのか、あるいは許しなどありえないのか、重苦しく密度が高いが滅法面白い。
 本作、登場人物数は結構多いのだが、一人一人の造形がしっかりと立ち上がっており、下っ端のギャングや麻薬中毒者に至るまで、使い捨て感がない。それぞれの視点の切り替え方、どこでどの登場人物の視点にするかという部分が抜群にうまいと思う。サニーを乗せるタクシーの運転手など、わずかな出番なのに人となりとここに至るまでがよくわかるキャラクターになっている。

『三の隣は五号室』

長嶋有著
とある2階建てアパートの1室。この部屋には、1人暮らしの学生も、老夫婦も、幼い子供を持つ夫婦も、単身赴任の会社員も、傷心の女性も、怪しげな男も暮らしていた。1960年代から2000年代に渡る歴代の入居者たちの日常を、アパートの一室を舞台にコラージュしていく。本作、表紙をめくって本編を読み始めてから、あれ?と思った。題字と目次ページがない。読み進んで行くと、こうきたか!と思わず笑ってしまった。変に凝った造本になってしまっているが、納得した。最近の著者の作品を読むと、日常のささいな行動の描写がより具体的、丹念になっており、大きな出来事は、一見全然起きない。が、心にずっとひっかかっているようなことは、案外どうでもいいようなことだったりする。また、大きなことが起きた時には気付かず、後になってからあれがそうだったかと思い当たる(ないしはそれすら思い出さない)ということは多々あると思う。こういう、その時はわからない、流してしまようなことを一つ一つ拾っていく方向が強まっている。そういうものの積み重ねで、人の人生は出来上がっていくのだろう。歴代入居者同士が行き会うことはないが、彼らの人生はここを出ても続いていくし、アパートがなくなっても続く(だろう)ということが、何となく頼もしい。

『ザ・カルテル(上、下)』

ドン・ウィンズロウ著、峯村利哉訳
麻薬王アダン・バレーラは脱獄し、自分を刑務所に送り込んだDEA捜査官アート・ケラーの首に賞金をかける。バレーラは抗争を続けるカルテルを纏めあげ自身の王国を拡大しようと動き出すが、アメリカもバレーラ打倒すべく動き出す。カルテルから身を隠し続けてきたケラーも戦場の最前線に復帰する。『犬の力』の続編だが、本作のみを読んでも、本作を読んでから『犬の力』を読んでもいいと思う(私は『犬の力』は読んだが細部を殆ど覚えていない・・・)。質量共に一大叙事詩のようだ。カルテルとアメリカとの戦い、カルテル間の戦いは凄まじく情け容赦がない。カルテルが強大になっていくにつれ、その組織だけではなく、地域や国家ぐるみで麻薬抗争に巻き込まれていく、その地に生まれたというだけでもう逃れられなくなっていく様が悪夢か悪い冗談のよう。悪夢というには惨状が生々しすぎるが。カルテルが生み出す悪夢の連鎖に呑みこまれまいとする人たちもわずかにおり、その姿勢は清々しいが、死と隣り合わせであり、彼ら/彼女らの顛末もまたやりきれない。バレーラとケラーの奇妙な結びつきは、おそらくこれ(ないしは類似したもの)しか落としどころがないだろうというところに落ちるが、その因縁もカルテルが生み出す混沌と破壊を垣間見た後では、ささやかなものに見えてしまう。彼らは各陣営の有力者だが、一部に過ぎないのだ。本作はフィクションだが、最近相次いで公開されているカルテル関係のフィクション、ノンフィクションと合わせて読むと説得力が増すかもしれない。私は数年前に見た映画『ゴモラ』(原作は同名のノンフィクション)を思い出した。『ゴモラ』はナポリのマフィアを取り上げており麻薬取引が主業というわけではないのだが、マフィアやカルテルの金が世界の金融・不動産に流れ込んでおり最早どうしようもない(カルテル/マフィアの金を引き上げてしまうと世界経済に多大な影響が出る)ということに暗鬱とした。本作中でも、カルテルの金は世界を駆け巡り影響を与え続けている。

『殺人者たちの王』

バリー・ライガー著、満園真木訳
“ものまね師”事件解決の2ヶ月後、ジャスパー、通称ジャズのもとをニューヨーク市警の刑事が訪ねてきた。ニューヨークで起きている連続殺人事件の捜査を手伝ってほしいというのだ。刑事に同行したジャズは事件現場をめぐるが、新たに発見された被害者の遺体には、「ゲームにようこそ、ジャスパー」というメッセージが遺されていた。21世紀最悪の殺人犯を父親に持つ高校生・ジャズが、持ち前の知識を活かして殺人事件を追う、『さよなら、シリアルキラー』に続くシリーズ2作目。父親のようになりたくないジャズは殺人から距離を置き、父親が仕掛けたゲームを無視しようとするが、否応なくひきこまれていく。父親のようにはなるまいと思いつつも、父親がしていたようなやり方で人の心をコントロールしてしまう所は危うくヒヤヒヤする。私はこういう人の心をコントロールしようという行為がすごく嫌いなんだなということに改めて気づいた(笑)。もう読んでてぞわーっとするもんね。ジャズは自分で思っているよりも危なっかしい。その危なっかしさをジャズ自身よりも察知しているのはガールフレンドのコニーと親友のハウイーだろう。今回は2人が大活躍するし、ジャズへの思いやりにはほろりとさせられる。が、こちらはこちらでより危なっかしいので読んでいて心臓に悪いのだが・・・。なお、本作は間tく持って3作目へのつなぎでええっここで終わるの!?ってところで終わるので、そういう締めが苦手な人は3作目が発行されてからまとめて読むことをお勧めする。なお来年5月発行予定だそうです。

『さよなら、シリアルキラー』

バリー・ライガ著、満園真木訳
田舎町ロボズ・ノッドで指を切り取られた女性の死体が発見された。高校3年生のジャズは、これは連続殺人事件でまた被害者が出ると保安官に訴える。ジャズが主張するのには理由があった。彼の父親は21世紀最大と言われた連続殺人犯で、彼は父親の「仕事」の詳細を聞かされ続けていたのだ。保安官はジャズに事件への関与を禁じるが、ジャズは独自に事件を調べ始める。ジャズは聡明かつ殺人事件の知識は豊富で、世渡り上手に見える。だがまだ子供で、色々とおぼつかないところも多く、先走って事態を悪化させたりもする。アンバランスなのだ。彼のアンバランスさは、父親と自分は違うはず、しかし実のところ父親と同じ殺人鬼なのではという恐れをぬぐいきれないことからくるところが大きい(父親のジャズに対する「教育」のハラスメント感が強烈)。猟奇殺人をめぐるサスペンスではあるのだが、ジャズが自分の中の恐れにどう立ち向かい、自分が何であるかどう掴んでいくかというジュブナイル小説として、苦さの中に清々しさがある。自分の親からは逃げられない、しかし親と自分は、自分の意志で別物になれるのだ。ジャズのガールフレンド・コニーと親友・ハウイーのそれぞれ異なった強さが彼を支えており、これも清々しかった。

『ザ・ドロップ』

デニス・ルヘイン著、加賀山卓朗訳
バーテンダーのボブは、ごみ容器に捨てられていた子犬を拾う。近くのアパートに住むナディアの助けを得て子犬を飼い始めたボブは、新しい人生を踏み出したように感じる。しかし勤め先のバーに強盗が入り、裏社会絡みの厄介事に巻き込まれていく。映画化された作品だそうだが、日本公開はされないのかなー。後半で景色ががらりと変わって見える。ボブが生まれ変わろうとするし、それは成功したようにも見えるが、最後まで読むと、実は本来の自分を受け入れ、生まれ変わるのを諦めたのではないか、長い「猶予」が終わっただけというようにも思える。一見清々しいが、その背後には深い諦念があるのではないか。ボブの孤独や何者でもなさ、何も持たなさが実に身にしみる。

『災厄の町〔新訳版〕』

エラリイ・クイーン著、越前敏弥訳
アメリカの小さな町・ライツヴィル。作家のエラリイ・クイーンはこの町を気に入り貸家を探す。彼が住むことになった家は、ライツヴィルの名門ライト家の娘ノーラがジム・ヘイトと結婚した際の新居だったが、結婚式直前にジムは失踪、以来ノーラは失意の中にいた。しかし突然ジムが戻り、夫婦は幸せを取り戻したかに見えた。ある日、ノーラは3通の手紙を見つけた。ジムの筆跡のその手紙には、妻の死を告げる文章が記されていた。旧家で起きた殺人事件、閉鎖的な町の雰囲気という、横溝正史作品のような雰囲気。新訳だと町の人々、そして町の雰囲気自体がより生き生きと読める。また、訳者解説でも言及されているが、新訳になったことでトリックの意図がより明確に(作者の意図が誤解なく)読み取れるようになっている。実は真相はかなり早い時点で読み取れるし、なぜエラリイがそこを見落とすのか不可解ではあるのだが、伏線の置き方は初期作品よりもストーリーの一部として組み込まれたものになっていると思う。特に、ある人物がなぜ口を閉ざしているのか、という点についての解への引っ張り方、クライマックスでの明かし方はカタルシス(すっきるするという類のものではないが)がある。
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