3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『隠し部屋を査察して』

エリック・マコーマック著、増田まもる訳
 全体主義的な体制下で、隠し部屋に幽閉された人々を査察して回りその「罪」が語られる表題作、巨大な溝が出現し触れるものすべてを消失させていく「刈り跡」、古典本格ミステリと思いきや不可思議な領域に突入していく「窓辺のエックハート」等、奇妙な味わいの20編を収録した短編集。
 表題作である女性が「吐き出す」シーンのインパクトが絶大でそこばっかり思い出してしまう。この作品で隠し部屋に収監されている人たちは、非常にオリジナリティがあるというか、想像力が豊かで突出した人たち。作中世界ではその突出が罪とされるのだ。他の作品でも、過剰なオリジナリティ、やりすぎな妄想力を発揮する人たちが登場し、世界を奇妙な方向にねじまげていく。でも当人にとってはねじまげたのではなく、それがその人にとっての自然な状態なのだ。自然であろうとするとこの世の規範から見たら不気味なもの、許されないものになる。しかし、この世に合わせようとすると自分にとっては耐え難く不自然。このどうしようもない感じが全編に満ちているように思った。とは言え悲痛というわけではなく、不気味なものは不気味なまま、それはそれとして、という冷めたスタンス。そもそも世界は不可解で不気味なものであり、規範や常識の方が疑わしいのだ。

隠し部屋を査察して (創元推理文庫)
エリック・マコーマック
東京創元社
2006-05-20


パラダイス・モーテル (創元ライブラリ)
エリック・マコーマック
東京創元社
2011-11-30

『かつらの合っていない女』

レベッカ・ブラウン著、ナンシー・キーファー画、柴田元幸訳
 日本では小説家として知られているレベッカ・ブラウンと、強烈な色を使って様々なポートレートを描くナンシー・キーファーのコレボレート作品。テーマは設定せずに、キーファーの絵を見てブラウンが文章を書く、というスタイルで制作された作品だそうだ。
 ここにいることの痛みや違和感、生きることへの失意や諦念など、どちらかというとどす黒く、かつ突き刺さる作品が多い(「誰も」など痛切すぎて辛い)。しかし嘆きに溺れるのではなく、ブラックユーモアを交えて客観視する冷徹さをはらんでいる。感情を描くが情に流されないことで作品の強度が保たれているように思う。
 なお、本作の日本での出版に伴うレベッカ・ブラウンと柴田元幸のトークイベントに行ったのだが、大変面白かった。ブラウンが英語で、その翻訳を柴田が日本語での朗読があったのだが、先日見た映画『パターソン』の中で言及されていた「翻訳された詩はレインコートを着てシャワーをあびるようなもの」ということが、残念ながら実感できてしまった。どんなにいい翻訳も、原語とは違うんだよなぁと。詩の場合は韻や語感が大きく関わるので余計にそう感じられるのだろう。

かつらの合っていない女
レベッカ・ブラウン
思潮社
2017-09-11


犬たち
レベッカ・ブラウン
マガジンハウス
2009-04-23

『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場』

佐々涼子著
 2011年3月11日の東日本大震災によって、日本製紙工場石巻工場は津波に飲み込まれ大きな被害を受けた。日本で出版される本の紙の供給に欠かせない工場だが、閉鎖が噂されるほどのダメージだった。しかし工場長は半年での復興を宣言、従業員たちの戦いが始まる。その戦いを丹念に取材したルポ。
大変な力作で、ベストセラーになったのも納得。いまだに電子書籍を使ったことがない読書好きとしては、製紙工場とのご縁は深いはずなのだが、製紙の過程がどういうもので、その機械がどういうものなのかは本作を読んで初めて知った。製紙会社はもちろんなのだが、出版社の熱意もひしひしと伝わってくる。本当に「本の紙を待っている」のだ。そのオーダーに応えることが製紙会社の誇りなんだなと。工場の再開は困難に困難が重なる(どういう部分が困難なのか、というところも面白い)が、被災して個人の生活もままならない中、かろうじて踏ん張っていたのはその誇りがよりどころになっていたという面も大きかったんだろうとわかるのだ。また、災害時のマニュアルが整備されていること、何より優れたリーダーがいることが、こういう時に企業の将来を左右するんだと痛感する。
 工場再開の為の過程も興味深いのだが、最も大きなインパクトがあったのは津波が襲ってきた後の様子だ。臭いや音等の描写が生々しい。読んでいても辛いが、これを語った人は(そして聞き取りをした著者も)本当に辛かっただろうと。また極限状態の中、人の善良さや強さと同時に、弱さ醜さも露呈していく所には、多分そうなるだろうとはわかっていても、切りつけられるような気持ちになる。

『彼女がエスパーだったころ』

宮内悠介著
かつてスプーン曲げで人気を博した「超能力者」及川千晴に取材を申し込んだ“私”は、彼女の実像、そして彼女の夫の死の真相を探る。表題作の他、5編を収録。
超能力、百匹目の猿、オーギトミー、代替医療等、科学とオカルトの間のグラデーション部分から題材を取った短篇集だが、理論的・科学的な説明をつけ、それでもなお曖昧な部分を残すというコンセプトの連作になっている。物理的なトリックは解明できるし、客観的な説明もできる。しかしそれが生み出された状況、人間の心理は時に非合理的で、当事者にしかわからない。あるいは当事者ですらわからない超越的な何かによって引き起こされることもある。本作で扱われるモチーフは一般的には胡散臭いとされるものだが、それはこの当事者にしかわからない、観察者を突き放さざるを得ないという性質によるのだろう。そこが本作の持ち味になっている。最初の作品と最後の作品で、ある閾値というモチーフがリンクしていくのもいい。著者は作品ごとに腕を上げている印象があり、本作も面白かった。

『狩人の悪夢』

有栖川有栖著
人気ホラー作家の白布施と雑誌の企画で対談した有栖川は、京都・亀岡にある彼の自宅を訪問することになった。しかし有栖川が泊まった翌日、白布施の亡きアシスタントが住んでいた家で、右手首のない女性の死体が発見される。
待ってましたよ!な火村&アリスシリーズ最新長編。作中、アリスのサラリーマン時代にインターネットが既に普及していたことにあっさりとなっていて(本シリーズは23年続いている。アリスはプロ作家になる前はサラリーマンだった設定)、長期にわたるシリーズを続けていく秘訣を垣間見ましたね・・・。1人の男の人生こそが最大の謎だった前作『鍵の掛かった男』と比べると、今回はオーソドックスな謎解きもの。仮説→反証、仮説→反証し推理の範囲を狭めていく。まどろっこしく感じられるような重複(というか反復か?)描写もあるのだが、終盤の推理の為にはこれが必要だったんだなと腑に落ちる。ただ今回は犯人特定に至るまでの推理過程はもちろんなのだが、最後の一手である、どうやって犯人に告白させるかという部分の方に目がいった。
(以下若干ネタバレになるかもしれないが)今回の推理には明確な物証がない。最後の推理はある人物の口から語られるのでシリーズ中でも珍しいパターンだと思うのだが、犯人にはこの人物によって追求されるのが一番堪えるということが、(「だから堪える」と文章上明記されるわけではないのだが)真相解明と共にわかってくる。この部分、動機を含めて二重の意味での謎解きになっているのだ。加えて、火村はこういうことをこの人物にさせるのかという、キャラクターの側面を垣間見た感もある。著者の近年の作品は、規定の枠の中でどういうマスの埋め方をしていくかという技巧的な(しかもすごーく地味かつ地道な)部分に特化している気がするが、今回はこう来たか・・・。しかしあとがき読むと「まだ新しいことがやれそうな気がする」的なことをさらっと言っているので恐ろしいかつ頭が下がります。

『ガール・セヴン』

ハンナ・ジェイミスン著、高山真由美訳
 ロンドンに暮らすイギリス人と日本人のハーフ、高山清美、通称セヴン。彼女は家族を惨殺されるという過去を持っていた。ホステスとして働くクラブのオーナーで恋人のノエルからの紹介で、殺し屋のマークと知り合う。マークはセヴンに興味を持ち、家族を殺した犯人を探そうと申し出る。
 女性の為のノワール、という触れ込みだったが、「女性」という部分はそれほど強く感じず、持たざる者が手持ちの札でなんとかかんとかサバイブしていくという、性別にはあまり関係ない側面の方が前面に出ている(著者の意図とは違うのかもしれないが)と思う。セヴンは賢いが犯罪には素人で、しばしば判断ミスにより危機に追い込まれるのだが、そこから機転をフル回転させてリカバリーしていくたくましさと柔軟さがある。このエピソードの回収どうなってるの?という部分が所々あって気になったのだが(伏線なのか何なのかわからん・・・)、家族の死に対する罪悪感に苦しみつつ、それに落とし前をつけようとするセヴンの葛藤が迫ってきて、最後まで一気読みだった。ただ、シリーズ化したいのか謎が全て解明されるわけではないので、その部分ではものたりない。この終わり方だと、セヴンが更なる泥沼にはまっていくとも思えるので。

『環八イレギュラーズ』

佐伯瑠伽著
人と話すのが極端に苦手でオタクの高校2年生・喚子の体に、何かが新入してきた。それは他の宇宙から「脱獄囚」を追ってきた「刑事」で、地球で活動するために人間の体を必要としていた。30分以内に同級生・邦治の自閉症の弟・泰弘に触れないと喚子の人格が消えると「刑事」は通達。なんとか泰弘に触れると「刑事」は彼の体に異動し、泰弘の人格が喚子の体に異動し、喚子は泰弘と体を共有する羽目になってしまう。邦治と、同じく同級生の茜は事態を知り、「脱獄囚」を捕らえ泰弘を元の体に戻そうとする。設定は面白いのだが、小説としては難点が多い。「刑事」と「脱獄囚」の行動規範や出来ることの範囲等の設定が多すぎ、ルールブックと事例を読んでいるような気がした。また、「刑事」と喚子たちのコミュニケーション方法は、「刑事」が提示する複数のカード状のものを読み説くというものだが、ルール上クリアな部分と曖昧な部分が混在していていかようにも解釈できそうなので、これを正しく読み解くのは至難の業ではないかと思う。また、登場人物の「キャラ」度の階層とでもいうものが個々の登場人物や場面によってまちまちで統一されていない。読んでいてすごくちぐはぐな印象を受けた。もっとも、とてもよく書けている部分もある。自閉症の人の特性や、自閉症の人を家族に持つということがどういう風なのか、実感がこもっていると思う。邦治が感情を表に出す(ように見える)泰弘(の肉体)を見て心を揺さぶられるという件は痛切だった。邦治自身も、もし泰弘が「普通」だったらと想像してもせんないこととわかっているけど、いざその「もし」を目にしてしまったら平常心ではいられないのだ。なお舞台が自分にとってなじみの深い場所ばかりで、おおあの古本屋が出ている!等という楽しさもあった。

『カラスの教科書』

松原始著
ゴミを散らかしたり鳴き声がうるさかったり、そこそこの大きさで妙に威圧感があったりで、賢いと言われつつ何となく嫌われがちなカラス。しかし彼らの生態を丹念に観察していくと、そのユニークさや愛らしさが分かってくる。動物行動学者である著者によるカラスの生態解説本、まさに教科書。カラスが車道にクルミを落として、走ってくる車を利用して殻を割るという話や、自分をいじめた人間はいつまでも忘れずに攻撃してくるという話は聞いたことがあったが、本作中でも言及がある。確かに車にクルミをひかせようとするが、効率と回収に伴う危険(車道に降りるわけだし)を考えると、果たして「賢い」やり方と言えるのか?とのこと。生物にとっての「賢さ」とは、人間が言う所の頭の良さと全くの同意ではないという言及が印象に残った。もっとも、車にクルミを牽かせることを趣味や娯楽と考えるなら、それはそれで賢さなのかもしれないが。私は元々カラスが結構好きなのだが、本作を読んでより愛着が沸いてきた。ハシブトカラスとハシボソカラスの分布のがいかに変わってきたのか等、(カラスに限ったことではないだろうが)人間の生態が現在のカラスの生態を作ったという側面も大きいのだ。人間が嫌がるカラスの行動も、カラス側にとってはそれなりの理由があるし、人間が誘発している部分もある。そこを理解すると、カラスが苦手だと言う人の苦手意識も薄れるんじゃないかな。ユーモアたっぷりで楽しく、気楽に読める1冊。

『神の水』

パオロ・バチガルピ著、中原尚哉訳
水源が枯渇し、慢性的な水不足に苦しむ近未来のアメリカ。水資源の利権を握る富裕層は環境完全都市に閉じこもり、水供給をコントロールして更に利益を得ていた。アメリカ西部では最後の水供給源となったコロラド川の利権をめぐり、ネバダ、アリゾナ、カリフォルニアの州間抗争が激化していた。ラスベガスの有力者キースに雇われた水工作員(ウォーターナイフ)のアンヘルは、調査の為フェニックスへ向かう。一方、フェニックスに暮らすジャーナリストのルーシーは、水利権争いに巻き込まれたらしい知人の死の真相を追う。『ねじまき少女』では石油資源が枯渇した世界を描いたバチカルビだが、今度は水不足の世界。そして更に生々しく過酷な資源争いが描かれる。アメリカは自壊状態で州間では戦争が頻発しており、自治も限界状態なのだ。生活の根幹を支えるものを絶たれると、人間の尊厳とか信念とかはたやすく折れてしまうという実もふたもなさ。登場人物たちは現状をなんとか打開しようとエネルギッシュではあるが、状況、というか時代の流れが速すぎて彼らの認識が既に過去のものになっているというところが辛い。読者側には、彼らの「古い認識」の方が人として正しいのではと思えるのだろうが、本作の世界はその先に行ってしまっているのだ。『ねじまき少女』もそうだったが、人間と人間がつくる社会に対する視線が冷徹で、面白いが時々辛くなる。人間に対する見切りが潔すぎる感じ。

『観察する男 映画を一本撮るときに、監督が考えること』

相田和弘著
 “観察映画”と称された優れたドキュメンタリー作品を撮り続けている著者。新作『牡蠣工場』が2月20日に公開される。その製作過程、またなぜドキュメンタリーの道に入ったのかを、本著の出版元であるミシマ社のインタビュー、そして自身のコラムにより綴る。『牡蠣工場』を楽しみにしているので、予習として読んだ。著者の作品は一般的なドキュメンタリー映画とは少々作り方が異なる(事前に脚本を考えない、事前の取材をしない、テロップを出さない、ナレーションを入れない等)のだが、そういう方法で製作するのはどんな感じでどんな段取りになっているのか、自身の説明によりよくわかる。そして、著者が相当に体力のある人だということもわかる。でないと、時間・情報量的に膨大な編集作業に耐えられそうもない!撮影自体も、過去作を見ていても体力的・物理的に大変そう(全部自分でやらないとならないので)だなと思ったが、圧倒的に編集の方が大変そう。しかも結構な長編ばかりなので、3時間かけて全編チェックして再度編集してまた3時間チェック・・・というような作業になる。私は映像制作の知識がないので、ログを書く(映像の中で起きていることを全部書き出す)という時点で、言われてみれば当然なのだが茫然とした。意外だったのは、“観察映画”というスタイルが著者のメンタリティや生まれ持っての特性から生まれたものではなく、自分に対する縛りとして発生したものだということだ。本来は説明したいタイプ、むしろ説明しすぎるタイプの人だというのだ。映像だけで説明するのは考えているよりはるかに難しい(これも、映像を作らない人にとっては指摘されて初めて気づくことだった)。しかし縛りをつけないと説明しすぎのつまらない作品になる。行間がないと、想像したり考えたりという鑑賞者のアクションが起こりにくいのだろう。説明したがりな人が“観察映画”を作っていてフラストレーション感じないのかな?と思ったが、映像を作るのと言葉を駆使するのとはまた違うんだろうなぁ。

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