3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『お前らの墓につばを吐いてやる』

ボリス・ヴィアン著、鈴木創士訳
 青年リーは兄の知人から本屋の仕事を紹介され、店に出入りする若者らと乱痴気騒ぎを繰り返すようになる。しかし彼にはある目的があった。白い肌の黒人である彼は、白人に殺された弟、虐げられる兄の復讐をしようとしていたのだ。彼は裕福な白人の姉妹に目を付ける。
 著者がアメリカ人を偽装して執筆、出版しベストセラーになった(訳者解説を読むと炎上商法ぽいな・・・)ものの発禁処分になった作品。過激な性描写(さすがに11,12歳の子供とセックスするのは糾弾されるだろう)が発禁の理由だったのだろうが、黒人が復讐の為に白人を殺すという内容が物議をかもしたという面もあったのだろう。その物議は、著者を本作執筆に駆り立てた差別への怒りと並行しているものだ。リーは軽妙で人あしらいが上手いが、その愛想の良さの下には、肌の色で他人を分別する者たちへの怒りと侮蔑が渦巻いている。お前ら間に入り込み、裏をかき、全て奪ってやるという意気込みと冷酷があり、罪悪感などは見せずに突き進む。疾走感のある悪漢小説として読める所もベストセラーになった一因か。

お前らの墓につばを吐いてやる (河出文庫)
ボリス ヴィアン
河出書房新社
2018-05-08


白いカラス Dual Edition [DVD]
ニコール・キッドマン
ハピネット・ピクチャーズ
2004-11-05


『オンブレ』

エルモア・レナード著、村上春樹訳
 御者のメンデスとその雇われ人である「私」アレン、17歳の娘マクラレン、インディアン管理官のフェイヴァー夫妻、無頼漢のブライデン、そしてアパッチに育てられたと言う噂の「オンブレ(男)」ことジョン・ラッセル。彼らは駅馬車に乗り、次の街までアリゾナの荒野を走っていた。しかし賊に襲われ、ファイヴァー夫人が人質にとられてしまう。
 レナード作品を村上春樹が翻訳って、相性どうなの?(とは言え村上春樹は翻訳者としてはそんなにクセを出さないし腕はいいんだと思うけど)と思っていたが、意外と違和感ない。本作はレナードがいわゆる「レナード・タッチ」を獲得する前の初期作品、しかも西部小説でミステリや犯罪小説と雰囲気がちょっと違うという面が大きいからだろう。乾いた低温度のタッチで、ごつごつしていると言ってもいいくらい。ラッセルの行動とこの文体とがマッチしており、とても良い。
 ラッセルは白人社会とアパッチの両方に足を置く(どちらにも完全には所属出来ないということでもある)一匹狼的な人物で、一見非情な振舞い方に見える。しかし窮地に陥った時、割に合わなくても人としてやるべきことをやらざるを得ないという姿が鮮烈。そりゃあ「私」も語り継ぎたくなるな!併録の『3時10分発ユマ行き』にも同じような倫理で動く人物が登場する。一見頭が固くてつまらない生き方に見えるかもしれないが、人間かくありたいものです。なお『3時10分~』は2度映画化されているが、2007年公開『3時10分、決断のとき』(ジェームズ・マンゴールド監督)は私にとってのかっこよさが詰まっており大好き。

オンブレ (新潮文庫)
エルモア レナード
新潮社
2018-01-27


3時10分、決断のとき [Blu-ray]
ラッセル・クロウ
ジェネオン・ユニバーサル
2013-12-20


『オリヴィエ・ベカイユの死/呪われた家 ゾラ傑作短編集』

ゾラ著、國分俊宏訳
 若く美しい妻と共に田舎からパリに出てきたオリヴィエ・ベカイユは、貧しい暮らしの中、健康を害して倒れる。体は動かず、周囲からは死んだと見なされ葬儀の準備が行われるが、ベカイユの意識は依然としてそこにあった。このままでは埋葬されてしまうと焦るが。表題作を含む5篇を収録した短編集。
 『オリヴィエ・ベカイユの死』、ベカイユが死ぬまでの話なのかと思って読み始めたらいきなり死んでいる(本人の意識では死んでない)のでびっくりしたよ!当時、生きたまま埋葬されてしまった事件が実際にあったらしく、その事件に発想を得たのではないかとのこと。ベカイユは生き埋め(火葬の国でなくてよかったね・・・)になるのではと恐怖すると同時に、未亡人と見なされる妻が近所の青年に獲られてしまうのではと嫉妬に狂う。これはホラーか復讐譚かと思っていたら、思いのほか清々しい結末に思えた。しがらみを振り切ることが出来たんじゃないかなと。逆に、振り切れず拘泥されていくのが最後に収録された『スルディス夫人』。才能のある夫とそれを支える妻という構図に一見見えるが、徐々に夫が妻に浸食されていく。スルディス夫人の夫の絵の才能に対する執着は、自分が得ることが出来なかったものの代替物でもあるが、代替物が本物を越えていく様が描かれている。そして夫婦関係としては結構円満とも言えるあたりが少々怖くもある。
 ゾラの作品は構成がシンプルで文章も(訳文を読む限りでは)直線的。案外読みやすい作風だったんだなと実感した。ラストにひとオチつける、短編として座りのいい作品が揃っており面白かった。時代背景が割とはっきり描き込まれており、登場する人たちに生活感がある。金の工面に四苦八苦するエピソードが多いのも泣ける。




水車小屋攻撃 他七篇 (岩波文庫)
エミール・ゾラ
岩波書店
2015-10-17

『オトコのカラダはキモチいい』

二村ヒトシ・岡田育・金田淳子著
 AV監督の二村と、腐女子文化研究家の金田、そして進行役の文筆家で同じくBLに造詣が深い岡田の3人が、男性の肉体の官能について熱く語る。イベント内容の収録に描き下ろしを加えた対談集。
 第一章タイトルがいきなり「これからのアナルの話をしよう」なので結構なパンチの効き方だが、本文も主に岡田・金田のテンションの高さと語彙の豊富さによるパワーワード連打で大変面白かった。腐女子って大概言葉使いのスキル高いですね・・・。やはり妄想力の強い人は言葉の使いこなし度も高いのか。BLというファンタジーにおける男性の官能を語ると同時に、生身の男性の身体機能の仕組みから解説、また実際にゲイ男性への聞き取りを行う。男性にとって、ファルス以外の機能で官能を得るというのはかなり抵抗がある、自分が性的対象として見られるのも受け入れがたい、と二村は指摘する。自らが性的対象であることを否定したいという構図の非対称性に男性当人は割と無自覚っぽいのが不思議でもある。一方で、ファルス中心のあり方に息苦しさを感じる男性も少なくない。官能にこうでなければ、という枠はないはず、享受するもしないももっと自由でいい(まあ法律の範囲内でですが)。「こうであろう」とされている男性の官能は、一見主体的なようでいて「こうであろう」に振り回されるものだったと言える。BLは主に女性が享受するものとは言え、そこから逸脱しているからウケてる(一方で強い拒否感を持たれる)んだろうなぁ・・・。欲望の対象に自分自身は当事者として介在しないというBLの読み方は、男性にとってはなかなか習得しにくいもののようだ。しかしそのハードルを越えると新しい世界が!(という実例が本著中にもあって笑ってしまった)




『女の一生』

ギィ・ド モーパッサン著、永田千奈訳
 男爵家の一人娘ジャンヌは、両親から愛され何一つ不自由なく育った。17歳で預けられていた修道院から出て実家に戻ったジャンヌは、将来への希望に胸を膨らます。美青年のジュリアン子爵と結婚するが、人生はジャンヌの希望を裏切り始める。
 昨年、映画化作品(『女の一生』ステファヌ・ブリゼ監督)を見て原作も読んでみた。光文社古典新訳文庫版で読んだのだが、新訳のせいかとても読みやすくあっという間に読めた。話としては大変とっつきやすいので、古典文学だからと構えずもっと早くに読んでおけばよかったなー。しかし面白いのだがジャンヌの「人生」は転落の一途で読んでいて実に辛い。ハンサムだがケチで浮気性の夫ジュリアン、甘やかされ放題で金ばかりせびる息子ポールという家族の存在によって、どんどん不幸になっていくのだ。あーなんとなく流されるように結婚しちゃダメ!と地団太踏みたくなるが、この時代の女性には他の選択肢はさしてなかったはず。加えて、そもそも男女関係なく人生にはっきりとした選択肢はなく、多くの人間はほぼ流されるように生きるものではないかとも思えてくる。ジャンヌは自分に降りかかるものをただ受け入れていくように見えるが、それは読者の姿からそう遠いものではないだろう。不運・不幸に流されていく中でも美しくきらめく忘れられない瞬間があり、そこが人生の美しさでもあり厄介さでもあるように思う。

女の一生 (光文社古典新訳文庫)
モーパッサン
光文社
2013-12-20


脂肪のかたまり (岩波文庫)
ギー・ド・モーパッサン
岩波書店
2004-03-16


『オープン・シティ』

テジュ・コール著、小磯洋光訳
 若い精神科医である私は、マンハッタンを歩き回る。老いた恩師や偶然出会った幼馴染との交流、日々面談する患者たちとのやりとりと、アメリカ同時多発テロを経たマンハッタンという町、そして故郷であるナイジェリアの歴史と文化が交錯していく。
 散歩をしている時が一番考え事をしやすいという人は一定数いると思うが(私もだが)、「私」もそうした1人なのだろう。散歩小説とでも言いたくなる。もちろん恩師を見舞ったり、旅行に行ったりと色々なことをしているのだが、それらをリアルタイムで語るのではなく、後々散歩しながらつらつらと思い出していくようなスタイルだ。自分の体験やその時の思考の流れと、語り口とに一定の距離感があり、個人的な事柄も歴史的な事柄も並列され、繋がっている。観察者としての視点が強いのだ。しかし語り手が観察者に徹していられるほど、この世界はシンプルではない。突如として暴力にさらされ、また自身が加害者になり得る。「私」は被害者としての自分については客観的に言及するが、加害者としての自分には一切言及しない。この差が、観察者に徹する事が不可能であるということであり、その言及のなさはショッキングでもあった。それに言及していくことが歴史を学ぶということでもあるのだろうが、「私」はまだそこに至っていないのだ。





『大鎌殺人と収穫の秋 中年警部クルティンガー』

フォルカー・クルプフル&ミハイル・コブル著、岡本朋子訳
 バイエルン地方の村で、悪質旅行業者、元医師の作家が相次いで殺された。どちらも死体の首が鎌で切られていたことから、警察は連続殺人とみなす。クルフティンガー警部は部下を率いて捜査に着手するが、奇妙な暗号に振り回され右往左往する。
 ドイツはドイツでも大分地方色が強いので、邦訳されているドイツミステリとはちょっと味わいが異なる。方言や地方独自の文化への言及も多く、ご当地ミステリ的な味わいも。クルフティンガーは偏屈な中年男だが警官としては結構真面目。とはいえ頭が切れるというタイプでもなく、勘違いも多い。ちょっと独特の鈍さ(まあ現実の人間はこんなもんかなと思うけど・・・)があって、捜査が遅々と進まず読んでいて少々いらっとした。クルフティンガーとしては不本意だが、妻の方が記憶力がいいし勘もいい。妻に捜査に協力してもらうものの、不満タラタラで険悪にもなる。とは言え、なんだかんだで円満な夫婦模様も楽しいクルフティンガーはちょっと鈍いしいわゆる切れ者ではないし頑固だけど、人間としては真っ当なのだ。ミステリとしては謎解きが唐突な感があり、また暗号が恣意的過ぎるんじゃないかと言う気もするが、登場人物の私生活のゴタゴタや地方色のディティールが楽しい作品。事件自体は陰惨なんだけど。






『音の糸』

堀江敏幸著
音楽、楽曲そのものだけでなく物としてのレコードやその音楽を聴いた状況、場所等、様々な音楽にまつわる記憶を綴る随筆集。掲載誌が『クラシックプレミアム』なので、当然クラシックの楽曲が中心なのだが、著者の聞き手としての傾向や振れ幅が窺える。音楽をテーマにした随筆だが、不思議と楽曲そのものよりも、それを取り巻く諸々の、直接楽曲とは関係ない部分の描写の方が多い。そして、楽曲そのものを表現する言葉よりも、それを聴いた状況やそこから芋弦状に思いだした物事の描写の方が、不思議とどういう音楽か、どういう演奏だったのかということを感じさせるのだ。音の記憶に色々なものが紐づけられている。だから題名が『音の糸』なんだろうな。

『丘の上のバカ ぼくらの民主主義なんだぜ2』

高橋源一郎著
朝日新聞論壇時評を中心にまとめた『ぼくらの民主主義なんだぜ』の続編。2015年から2016年前半あたりまでの原稿をまとめたものだが、今現在に至るまでに、書かれた次期より更に、民主主義ってなんだ!と叫びたくなるような事態が次々に起こり、読んでいて若干空しさを感じることもあった。ただ、そこで空しく諦めてしまってはだめだよという姿勢が本作の根底にはある。丘の上のバカでいい、声を上げ続けなくてはならないのではないかと。なお、私は小説家としての高橋源一郎のイメージからは、新聞で(文学以外の)論評をするとは思っていなかった。なぜやるようになったのか不思議だったのだが、本著の中でそこに至るまでの経緯や覚悟が垣間見え、なるほどなと腑に落ちた。
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