3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『音の糸』

堀江敏幸著
音楽、楽曲そのものだけでなく物としてのレコードやその音楽を聴いた状況、場所等、様々な音楽にまつわる記憶を綴る随筆集。掲載誌が『クラシックプレミアム』なので、当然クラシックの楽曲が中心なのだが、著者の聞き手としての傾向や振れ幅が窺える。音楽をテーマにした随筆だが、不思議と楽曲そのものよりも、それを取り巻く諸々の、直接楽曲とは関係ない部分の描写の方が多い。そして、楽曲そのものを表現する言葉よりも、それを聴いた状況やそこから芋弦状に思いだした物事の描写の方が、不思議とどういう音楽か、どういう演奏だったのかということを感じさせるのだ。音の記憶に色々なものが紐づけられている。だから題名が『音の糸』なんだろうな。

『おばあさん』

ボジェナ・ニェムツォヴォー著、栗栖継訳
美しい谷間で娘一家と暮らすようになったおばあさん。教育はないが、様々な知恵と温かい心と勇気を持ち、孫たちを愛し、家事に励む。おばあさんと家族、谷間の人々との交流を描く。19世紀チェコの有名な作家による、国民的文学作品だそうだ。あとがきによるとニェムツォヴォーは民族・社会解放運動の先駆者で、当時チェコを支配していたオーストリア政府から目をつけられていたそうだ。そのせいもあって非常に経済的には苦しい一生だったとか。本作にも民族主義的な要素は多く、チェコの国土への愛や、皇帝に対する素朴な敬愛等も描かれる。またおばあさんは敬虔なクリスチャンなので様々な宗教儀式、また冠婚葬祭の描写も多い。チェコの昔ながらの生活習慣や伝統、民話等を記録しておこうという意図もあったのかもしれない。教条的な部分も多いのだが、四季を通した自然の描写、生活のあれこれの描写が生き生きとしていてとても楽しい。おばあさんは自分は昔堅気だと自認しており昔のやり方であれこれやるが、若者にそれを押し付けるようなことはしない。人それぞれの生き方があると理解しており、個人を尊重しているところは意外と現代的でもあった。

『丘の上のバカ ぼくらの民主主義なんだぜ2』

高橋源一郎著
朝日新聞論壇時評を中心にまとめた『ぼくらの民主主義なんだぜ』の続編。2015年から2016年前半あたりまでの原稿をまとめたものだが、今現在に至るまでに、書かれた次期より更に、民主主義ってなんだ!と叫びたくなるような事態が次々に起こり、読んでいて若干空しさを感じることもあった。ただ、そこで空しく諦めてしまってはだめだよという姿勢が本作の根底にはある。丘の上のバカでいい、声を上げ続けなくてはならないのではないかと。なお、私は小説家としての高橋源一郎のイメージからは、新聞で(文学以外の)論評をするとは思っていなかった。なぜやるようになったのか不思議だったのだが、本著の中でそこに至るまでの経緯や覚悟が垣間見え、なるほどなと腑に落ちた。

『男という名の絶望 病としての夫・父・息子』

奥田祥子著
理不尽なリストラ、妻の不貞、実母の介護や子供との溝など、様々な問題と直面し苦しむ男性たち。その苦しみの背景には「男であること」の呪縛があることが、インタビューを通じて見えてくる。ジャーナリストである著者が当事者男性やその家族に取材、考察する。読めば読むほど女も辛いが男も辛い、つまり世間の大半の人が辛いということにぐったりとする。取材に応じた、問題を抱えている男性たちの殆どが、精神的にかなりぎりぎりな状態にある。多数の取材対象の中から、かなり端的な事例を選んでいるのだろうが、それにしてもこういう状態になる前に何か手立てがあったのでは、とも思う。抱えている問題は様々でそれぞれ深刻なのだが、彼らの殆どは自分の問題を誰かに相談することができない。男なのにこんなことを話すのは恥ずかしい、という意識があるだろうし、世間が認める「男らしい男」になれない自分を認められないという面もあるだろう。しかしその「男らしい男」として成功しているのは、かなり限られた人たちなのではないか。一握りの勝ち組の価値観に付き合う必要があるのだろうか。また殆どの取材対象が、妻や子等周囲の人たちと十分なコミュニケーションが取れていない。家庭内に「男」として頑張っているつもりが、家庭内での「男」としての居場所をなくすことになってしまっている。ただ、彼らの問題の更に背後には、雇用の不安定化や賃金の上がらなさ等の経済的要因、また画一的な「男性」の価値観しか認めない企業、社会の在り方など、個人レベルではどうにもならない問題がある。著者も言及しているが、一時期、男性の生き方も柔軟化する傾向が見られたが、不況に伴いまた硬直化しているように思う。そういう社会では女性も生き辛いはずだ。なお、著者も自覚しているようだが、男性という社会規範から自由であろうとしつつ、著者の文章にも「男性だから」というフィルターがかかっているように感じた部分がある。問題は根深い。

『踊る骸 エリカ&パトリック事件簿』

カミラ・レックバリ著、富山クラーソン陽子訳
長女が生まれ、育児に追われるエリカとパトリック。パトリックは育児休暇を取っているが、職場である警察署の様子が何かと気になり、エリカは執筆に専念できずにいた。自宅の屋根裏で母親の古い日記とナチスの勲章を見つけたエリカは、地元の歴史家エーリックに勲章を預けた。しかしエーリックは殺されてしまう。エリカは母の日記を読み始めるが、冷淡だった母が書いたとは思えない情感豊かなものだった。しかし日記には戦争の影が落ちるようになり、ある日を境に途切れてしまう。スウェーデンの人気ミステリシリーズ5作目。第二次世界大戦中の出来事が現在に影響する歴史ミステリとしての側面と、エリカ姉妹の母親はなぜ娘たちに冷淡だったのかという、家族のミステリとの2本柱だ。北欧のミステリを読んでいると、ネオナチや過激な右翼が度々登場するが、本作にも移民排斥を訴える右翼団体が登場する。労働問題や国の財政問題との関わりが深いのだろうが、この偏狭さ、違うものを排除したいという欲望は何なんだろうなと毎回考えてしまう。ただ、一方で新しい価値観に目を開く人物もいる。毎回厄介者扱いされていた警察署長メルバリに、まさかの転機が訪れる。これには、人間何歳になっても変われるのかも、捨てたもんじゃないなって気分に。そして愛は人を変えるのかと(笑)。語弊があるかもしれないが、ミステリ以外の部分にとても読み所がある。「育児あるある」「夫婦あるある」が満載で、夫婦間で感じる不公平感や親子のわだかまり等、細かいニュアンスがよく書けていて、恋人から夫婦へ、家族へ(あるいはその逆)と生活が変わるにつれて、登場人物たちどのように変わっていくのかという点で、とても楽しめるシリーズだと思う。

『奥の部屋』

ロバート・エイクマン著、今本渉訳
子供の頃「私」が買ってもらった人形の家には、外側からは見えない部屋があった。大人になった私はある日、あの人形の家そっくりな屋敷を見かける。表題作『奥の部屋』を始め、幼馴染の女性に起こった何事かを描く『学友』、森の魔を垣間見る『髪を束ねて』等7篇を収録した短篇集。私はホラーは苦手なのだが、本作の怖さ(ジャンルとしてはモダン・ホラーでくくられるようだが、著者自身はいわゆるホラーとしては書いていないのかなという気も)はすごく面白かった。はっきりと、こういう対象が、こういう事象が出現したから怖い、というのではなく、怖さはあるが対象が何者なのかよくわからない、今起きているのが一体どういう事象なのか説明されないという所に恐さがある。得体の知れなさを描いた作品群とも言える。特に『学友』の最後の1文の破壊力には唸った。いきなり観察者を当事者側に引き込むのだ。

『オールド・テロリスト』

村上龍著
2018年の東京。渋谷のNHKの社屋で爆発事件が起きた。更に池上の商店街、そして歌舞伎町の映画館で無差別テロが起きる。妻子に去られ廃人寸前だったライターのセキグチは、謎の人物の示唆によりその全てに立ち会い、記事にすることになる。背景に見えてきたのは老人たちのグループ。彼らは皆、旧満州国に縁があるというのだ。中学生たちによる独立国家建国を描く『希望の国のエクソダス』の続編となる作品だっそうだが、『希望~』を読んでいなくても大丈夫(私は読んでいない)。本作は若者たちではなく老人たちが事件の中心にいる。気力にあふれた老人が無気力な若者を実行犯としてテロを起こしていくのだが、読みながらずっと、これはテロって言うのかなと釈然としなかった。テロというと抑圧された者がやむにやまれず暴力的な抗議を起こす、というイメージだけれども、本作のテロの首謀者である老人たちは、不平不満はあるが、抑圧されているというほどでも、危機的な状況にあるわけでもなさそう。この社会をひっくり返したいと思っているが、強い問題意識からというよりも、現状がつまらないからで、こうしなくては、みたいな使命感は薄いように思えた。テロリストというよりも愉快犯ぽい。そもそもあなたたちがひっくり返したがっている社会は少なからずあなたたちが築いてきたんじゃないですか・・・と言いたくなる。そのへん、著者がどのくらい自覚的なのかよくわからない。

『オルフェオ』

リチャード・パワーズ著、木原善彦訳
3年前に大学を辞めた、現代音楽家で特任教授ピーター・クレメント・エルズは、微生物の遺伝子に音楽を組み込む研究を自宅で行っていた。しかし、微生物を製造していたということでバイオテロの容疑をかけられてしまう。逃避行を続けながら、自分の人生を思い返す。音楽の歴史や技法に関する情報がふんだんに盛り込まれているが、それを遺伝子と結び付けるところがパワーズらしい。ある分野が、ぱっと見関係なさそうな分野に途方もないスケールで繋がってくる。そのスケールの大きさと、エルズの人生の何度かのピークを迎えながらも毎回不発に終わる感じ、エルズ自身はいたって地味な感じが対称的だ。それは美しいがどこか物悲しい。その行為の美しさが誰にも理解されないというのもあるし、そもそも価値があるのかわからず徒労に終わっているのかもしれない、エルズの妄想にすぎないのではとも思えてくるのだ。エルズは自分の音楽を賞賛されたい、理解されたいという気持ちはあるのだが、その一方で、それを拒否しているようでもある。いわゆる「音楽」の形で自分が目指す完全形を再現するのは無理だから、遺伝子レベルで美しい、完全な音楽を残そうとする。しかし万人にとって完全な音楽というものがあり得るのなら、音楽のバリエーションはこんなに増えなかったのではないか。美しさとは多分に個人の経験から生じてくるのではないか。エルズと娘のやりとりを読むうちにふとそう思った。だからこそのあのラストなのではないかと。

『狼少女たちの聖ルーシー寮』

カレン・ラッセル著、松田青子訳
狼少女たちを人間らしく強制する寮生活を描く表題作の他、幽霊に憑依されやすい姉とワニと暮らす少女、睡眠矯正キャンプに来た子供たち、ミノタウロスの父親と西部を目指す少年、幽霊の見えるゴーグルで死んだ妹を探す兄弟など、奇妙でおかしい、しかしどこか怖い味わいの短編集。殆どの作品は子供たちが主人公だ。彼らは幽霊が見えたり、親が人外だったりと一風変わった設定の持ち主だが、彼ら自身は無力な子供で特に何かができるわけでもない。彼らの感じる不安や恐怖は、まさに子供としての、所属する世界も自身の力も限定されているからこそのものだ。どこにいても自分の居場所だと感じられない様や、家族との間に生じる違和感が描かれた作品が目立つ。本作に登場する子供たちの殆どが、家族を既に失っている、または失いつつあるのだ。彼らはその状況の中でもがくばかりで、どこにも出口がないように見える。大人になればまた違った景色が見えるのかもしれないが、子供の時は「今」しか感じられないんだよなとほろ苦い気分になった。特に、「貝殻の街」で少女が感じる(物理的・精神的な)出口のなさはやりきれない。絶望的な状況を描いていてもなんとなくおかしく笑ってしまうような作風だが

『大きな熊が来る前に、おやすみ。』

島本理生著
私と徹平は一緒に暮らし始めて半年になる。おだやかな生活に思えたが、突然徹平が暴力をふるう。それでも共に暮らし続けるが。表題作をはじめ、女性の一人称による、男女の物語3編を収録。関係の不穏さは表題作が最も高い。お互いのほの暗い部分、子供時代に起因する部分が呼応しあうが、それが幸せな結果を生むとは限らない。見つめても見つめても相手の輪郭がよくわからず、お互い暗い中で手探りしあうが、良く見えなくて怪我をしてしまうというような関係だ。それでも関係を続けるのなら手探りを続けるしかないのだ。相手の暗がりを見ないようにするという手もあるけど、続けていると手痛いしっぺ返しが来るんだろうなぁ・・・。逆に相手と自分の違いがわかりすぎて憎しみが沸き起こるという、『クロコダイルの午睡』もボディブローのようにきいた。主人公の外見や育ちに対する引け目がちょっとやりきれない。なお、どの短編の「私」も自炊をきちんとしていて、料理の場面がこなれているところがいい。基本的に地に足のついた人たちなんだなと。

ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ