3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『エラリー・クイーン創作の秘密:往復書簡1947‐1950年』

ジョゼフ・グッドリッチ編、飯城勇三訳
 エラリー・クイーンとエラリー・クイーン、つまりプロット担当のフレドリック・ダネイと小説化担当のマンフレッド・B・リーが、『十日間の不思議』『九尾の猫』『悪の起源』執筆中に取り交わした書簡を収録し、彼らの激しいやりとりからその創作の過程を読み解くドキュメント。
 エラリー・クイーンが従弟ユニットであるということは有名だが、その創作作業がどのように進められてきたかがわかる資料というのは今まであまりなかったように思う。本著は彼らの往復書簡とその背景の解説を収録したものだが、ダネイのプロットがいわゆるプロットよりもかなり踏み込んで細かく指定していたらしい(プロットそのものの掲載はないのだが)ということ、リーは「小説」としての形状・美しさにより比重をかけていることがわかる。リーはどうも文章を(ダネイ視線だと)美麗にしすぎるきらいがあり、ダネイは自分の本意から小説の形状がずれていくことにいらだつ。どちらか、あるいは双方が「作業」として徹することができればここまでもめなかったのだろうが、そうするには美学がありすぎたのかも。
 2人のやりとりは普通なら一人の作家の頭の中で自問自答して創作を続ける過程になるのだろう。ただ、一人であればそこまで突き詰めなくていい、言語化しなくても何となく流せるところ、他人同士であると相手がどんどん追及してくることもあるし、その都度言葉を尽くして意図・意味あいを説明しないとならない。分担作業だから一人でやるよりちょっと楽かなと思いきや、一人でやるよりも大変そうだ。説明しないとならないという大変さに加え、やはり追及されたり反論されたりすると感情が動く。感情的になってしまい更に疲弊するという大変さもあるのだ。ダネイとリーはかなり率直に相手の主張に納得できず、うんざりしていることを伝えあっている。こういう状況でよく傑作の数々を完成できたものだと思うが、お互いぎりぎりまで妥協しなかった故の完成度だったということか。
 なお反目しっぱなしだった2人が珍しく完全同意なのがレイモンド・チャンドラーに対するdisだというところが何というか微笑ましかった。雑誌に掲載されたのが自分たちの作品ではなくチャンドラーの作品だったことを根に持っているのだが、よりによってあの作品では、まあクイーン的には納得いかないよな…。

エラリー・クイーン 創作の秘密: 往復書簡1947-1950年
ジョゼフ・グッドリッチ
国書刊行会
2021-06-06


エラリー・クイーン 推理の芸術
ネヴィンズ,フランシス・M.
国書刊行会
2016-11-28




『疫病短編小説集』

R.キプリング、K.A.ポーター著、石塚久郎監訳
 天然痘、コレラ、インフルエンザ等、歴史の中で何度も人類を脅かしてきた疫病の数々。それらは文学の中でどのように描かれてきたのか。コロナ・パンデミックの今、世界がどのように疫病を捉えてきたのか読み解く小説アンソロジー。
 疫病にまつわる7編の小説を収録。ポー『赤い死の仮面』は定番中の定番だろうが、こんな作品も書いていたのか!と意外だったキプリング、パンデミックの「その後」を書いたバラード等、単純にアンソロジーとして面白い。登場する疫病には天然痘、コレラ、インフルエンザがあるのだが、シンプルに疫病による現象のみにフォーカスするというよりも、疫病という現象とその背後にある社会的な状況が響きあっているという構造が目立つ。キプリングの「モロウビー・ジュークスの奇妙な騎馬旅行」「一介の少尉」からは、インドという異国・異文化に踏み込むことで病に感染していく(そしてそこには英国の植民地政策がある)、また感染が広がる場として軍隊という社会的な仕組みがあることが浮き上がってくる。また、1人の人間が病にかかっていく過程を主観的に描くキャサリン・アン・ポーター「蒼ざめた馬、蒼ざめた騎手」は、戦時下が舞台だ。主人公ミランダは戦時国債をなぜ買わないのかと冒頭でなじられる。彼女は生活に追われ体調も悪化し、戦争・愛国にはのめりこめない。病気と戦争が並走していくが、当事者にとって圧倒的に実体感をもって迫ってくるのは病だ。病死も戦死も死ではあるが、なぜ戦死には意味があるように扱われるのかという疑問も湧いてくる。
 なお、解説が作品を読み解く補助線としてかなり充実している。筆者が考える所の疫病小説の定義、疫病の記憶に残らなさはなぜという考察等、これを読む為だけに本著を手に取ってもいいかと思う。


最後のひとり
メアリ シェリー
英宝社
2007-12-01


『エラリイ・クイーン 推理の芸術』

フランシス・M・ネヴィンズ著、飯城勇三訳
 フレデリック・ダネイとマンフレッド・リーという従弟同士の作家ユニット、エラリイ・クイーン。1929年に『ローマ帽子の謎』を出版して以来、題名に国名を冠した探偵小説シリーズをヒットさせ、更にラジオ、映画、TVへ進出。またミステリ専門誌「EQMM」の創刊、アンソロジー編纂と活躍の場を広げた。クイーンのデビューから晩年までの変遷を追う評伝。
 ロジックに重きを置くダネイと、人物造形や光景のリアリティに重きを置くリー。決して常に仲がいいわけではない、むしろ激しい衝突が絶えなかった2人だが、ぶつかり合う部分があったからこそ成立した名作の数々。その過程が垣間見られる。国名シリーズばかりが有名だが、実は非常に多作、かつ凡作駄作も意外と多いことも再確認できた。短編を中編へ転用、みたいなリサイクル活動が目立つのも多作すぎたからか。クイーン名義で後に活躍する(あるいは一発屋)作家たちが執筆している(シオドア・スタージョンが『盤面の敵』を書いたのは知っていたが、こういうゴーストライター的な仕事も特に伏せられていない時代だったのかな。その辺の感覚も面白い)のをはじめ、アンソロジーの執筆陣にあの人やこの人がおりミステリファンには嬉しい。
 といっても、本作において2人の声を直接的に拾っている部分は案外少ない。本著のすごさはクイーンの仕事をほぼ全部、小説だけでなくアンソロジーや雑誌、特にラジオとテレビの仕事を網羅しているところだろう。音源や脚本が残っていないものも広範囲にカバーしており、かつ当時のキャスト情報や当時の視聴者の反応まで言及がある。エラリー役の俳優はなぜか私生活までエラリーなりきり傾向が出てしまうエピソードなどちょっとおかしい。映像化作品の評価は正直あまり高くないそうだが、見て見たかったな…。なお巻末には人名・事項索引と作品名索引、クイーン書誌も完備されており資料としての価値は高い。一応時系列順の構成なのだが話題があっちに行ったりこっちに行ったりして、少々散漫な印象はあった。でも密度は高くボリューム満点で正に圧巻。

エラリー・クイーン 推理の芸術
ネヴィンズ,フランシス・M.
国書刊行会
2016-11-28


九尾の猫〔新訳版〕 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
エラリイ・クイーン
早川書房
2015-08-21


『エリザベス・ビショップ 悲しみと理性』

コルム・トビーン著、伊藤範子訳
 20世紀アメリカにおける最も優れた詩人の一人、エリザベス・ビショップ。喪失体験の悲しみや痛みをストイックかつ精緻な詩として昇華し、高い評価を受けた。アイルランドの作家である著者は、ビショップの作品と人生を紐解いていく。
 私はビショップという詩人のことは実は知らなかったし、本著に登場する彼女と交流のあった詩人、作家のこともほとんど知らない。トビーンの著作ということで手に取ってみた。ビショップの作品が多数引用されているというわけではないのだが、その作品を読んでみたくなる。トビーンはビショップの作品を彼女の人生と重ねて分析していくが、ビショップが自分の人生を作品に反映した部分よりも、むしろしなかった、取捨選択が厳しくされているという部分に着目していく。豊かな表現だが決して饒舌にはならない。作品はあくまで作品で、人生やその時々の感情とはいったん切り離されたものとして成立しなくてはならないという厳しさがある。感情を直接盛り込むのではなく、具体的な物、風景のディティールの積み重ねの上に強い情感のイメージが構成されていく。非常に注意深く組み立てられているのだ。
 その厳しさは自分自身に対してだけではなく、ビショップが仲間の詩人たちに向ける態度でもあり、コビーン当人の態度でもあるのだろう。ビショップと彼女の「親友」であった詩人ロバート・ロウエルとの書簡は時にユーモラスだが、時にお互い刺し違えそうな言葉の応酬がある。創作者として認め合っているからこそのやりとりだろう。ビショップとロウエルは直接顔を合わせることはほとんどなかったそうだ。

エリザベス・ビショップ 悲しみと理性
コルム・トビーン
港の人
2019-09-10


エリザベス・ビショップ詩集 (世界現代詩文庫)
エリザベス ビショップ
土曜美術社出版販売
2001-02


『Xと云う患者 龍之介幻想』

デイヴィッド・ピース著、黒原敏行訳
 小説家・芥川龍之介。彼が魅せられた東洋と西洋の伝承と信仰、震災による遺体と瓦礫が連なる光景、ポオ、河童、ドッペルゲンガー、夏目漱石が体験したロンドン等、芥川の作品のモチーフの幻想と不安とが入り混じっていく連作短編集。
 ジェイ・ルーピン訳の芥川作品を通してイギリス人である著者が幻視する芥川のコラージュでありマッシュアップ。大変な力技で二次創作的な愛着を感じる。芥川の不安を主観的に、客観的に追っていき、史実と芥川の創作、著者による幻想の境目がだんだん曖昧になっていく。芥川の周囲の人たちも登場するし、なんといっても夏目漱石が遭遇したロンドンの怪異の話がいい。
 日本語で読んでも違和感は感じない(芥川のコアなファンには異論があるかもしれないが)のはルーピンによる英訳が多分とても出来がいいこと、著者の読者としての鋭さ故なのでは。良い書き手は良い読者でもある。そして翻訳が素晴らしいことが英語を読めない私でもわかる!芥川の文体や文字表記をカバーした上で日本語へ変換する、正にはなれわざ。私は著者の装飾が多くねっとりとした文章(翻訳文ということになるけど)にずっと苦手意識をもっていたのだが、本作は日本語文章にしたときの良さがあった。

Xと云う患者 龍之介幻想
デイヴィッド ピース
文藝春秋
2019-03-22




『円卓』

西加奈子著
 小学校3年生の「こっこ」こと琴子は、三つ子の姉、両親、祖父母という大家族。家族は優しく理解があり、学校の同級生たちとも仲良くやっている。しかしこっこは不満だ。彼女が憧れているのは孤独と理解“されなさ”。こっこは自由帳に発見や思いつきを書き綴っていく。
 西加奈子って小説上手かったんだな!初めて分かった気がする(笑)!小学3年生の子供の視点と言葉の操り方が非常に上手い。こっこには世界はどのように見えているのか、更にその見え方を俯瞰するような視点も平行して維持する。こっこの同級生の朴くんは在日韓国人で、ぽっさんは吃音がある。彼女にとって、それは「かっこいい」部分なのだが、当人にしてみたらいじられたら嫌な部分かもしれない。自分の価値観と相手の価値観や気持ちの相違が、こっこにはまだぴんとこないのだ。聡明なぽっさんが彼女をたしなめつつ彼女の良さは認めている所が微笑ましい。ぽっさんとの話し合いや、ぽっさんの尊敬を得ているこっこの祖父らとのやり取りの中で、こっこは自分の言葉を獲得していく。
 大阪弁による台詞の数々は何となく『じゃりん子チエ』(はるき悦巳)あたりを思い出すが、同級生の多種多様なカラフルさは現代的。また、三つ子の姉らのあっけらかんとした自由さも魅力があった。

円卓 (文春文庫)
西 加奈子
文藝春秋
2013-10-10


『映画は絵画のように 静止・運動・時間』

岡田温司著
19世紀末に誕生した映画は、絵画や彫刻からどのような影響を受けてきたのか、そして映画の中に絵画や彫刻はどのように取り込まれてきたのか。メディアを飛び越えて反響しあうイメージを考察する。
映画も絵画・彫刻も見る側の視線を捉える、そして映画/絵画側から見る側に対して向けられた視線がある。視線をどうコントロールするか、という点では映画も絵画・彫刻は共通していると言える。では何が大きく違うのかというと、本作のサブタイトルにもあるように運動と時間だろう。絵画も彫刻も当然運動しないが、映画は運動を映し出し、時間をコントロールするものだ。その差異は大きい。映画の中に絵画や彫刻が出てくると何となく目がいってしまうのは、(元々絵画や彫刻に興味があるからってのもあるが)それが運動しない、静止しているものだからという面もあるのだろう。映画は瞬間の連続だが、絵画も彫刻も瞬間のみを記録する。そもそも絵画や彫刻には時間という属性がないと言った方がいいのか。本作の題名は『映画は絵画のように』だが、読んでいるとむしろお互いのお互い「ではない」部分の方に目が行く。映画ファンとしては、第Ⅲ章「メランコリーの鏡」、第Ⅵ章「静と動のあわいの活人画」が面白かった。特にⅥ章は、なんだこのメタ構造!と笑っちゃうような映画監督の拘りを感じる。
 

『エジプト十字架の秘密』

エラリー・クイーン著、越前俊弥・佐藤桂訳
田舎町アロヨで、首なしで貼り付けにされた死体がT字路で発見されるという事件が起きた。“T”だらけの事件に興味を持ったエラリーは捜査を開始するが、めぼしい情報は得られなかった。そして半年後、再び”T”だらけの事件が起きる。クイーンの国名シリーズ5作目。
過去に一度読んだことがある作品なのだが、今回新訳で読んで、私は真犯人を別の人と勘違いしていたことに気づきましたね・・・!人間の記憶ってほんといいかげんだなー。そして記憶に残っている以上にやたらと長距離移動する話だった。エラリーが事件をあちこちを訪れる様は、かなりドタバタ劇っぽくて落ち着きがない。ここまで引っ張る必要あるのか?って気もするが、ひっぱりまわした上での、トリックを見破るきっかけが非常にシンプルだという所が、本格ミステリとしての醍醐味だろう。この部分は本当にすっきりしていて、あーっ!て思うんだよなー。ここまで絞り込めるものかと。この一点でそれまでのぐだぐだも納得させる力がある。ただそこに至るまでの引っ張り具合がな・・・。小説としてはアンバランスなんだけど、本格ミステリとしては確かに高評価になると思う。

『エンピツ戦記 誰も知らなかったスタジオジブリ』

舘野仁美著、平林享子構成
スタジオジブリのアニメーターとして、動画チェックとして27年間のキャリアを積んだ著者が語る、アニメーターという仕事、ジブリというスタジオの姿。スタジオジブリの広報誌『熱風』に連載された回顧録を書籍としてまとめたもの。巻末に構成者あとがきがついているのだが、それによると著者の言葉は当初はもっと鋭く率直だったそうだ。登場する人たちの殆どは現役なので、さすがに諸々配慮して柔らかい言い方に修正したらしい。とは言え、配慮が窺える言い回しではあるが、個人、組織に対する言葉はやはり鋭い。明瞭な否定の言葉はないものの、著者の中ではここはひっかかっていることなんだろうなとか、このあたりは問題だと思っているんだろうな、という意識が透けて見えるところが面白かった。動画チェックというポジションの板挟み感や細かな気の回し方等、これは本当にきつかったろうなと思う(基本的に「ダメ出し」する仕事なので社内でも煙たがられるし動画と仲良くなりすぎるとダメ出ししにくくなる)。著者は宮崎駿の側で長年働いてきたわけだが、アニメーターとしての姿とはまた違う、経営者としての宮崎、上司としての宮崎の姿が描かれている。昔気質の騎士精神みたいなものを持っているという指摘にはなるほどなと。そして高畑勲はやはり怖い人なのだった・・・。上の人たちが特定局面で超有能かつ癖のあるタイプだと部下は大変だよなー。勉強にはなるだろうけど、自分が食われないようにする距離感の取り方が難しい。

『エピローグ』

円城塔著
オーバー・チューリング・システム(OTC)が現実世界の解像度を上げ続け、人類が“こちら側”へと退転した世界。特化採掘大隊の朝戸と支援ロボット・アラクネは、OTCの構成物質(スマート・マテリアル)を入手するため、現実宇宙へ向かう。一方、ふたつの宇宙で起こった連続殺人事件を刑事クラビトは捜査していた。
著者の『プロローグ』で発生したシステムの行き着く果てを描いたような本作。物語とは何か、文字による記述というシステムはどこへ行くのか?書けば「そうこうこと」になり延々と書換えられるという文章の性質そのものを小説内の設定として組み込むという試みなのかなと思ったが、これは意外と落としどころが難しい設定なんだなとも。何しろ何度でも書換えられるので、様々な方向から様々な都合で世界が改変されてしまう。そもそも小説とはそういうものだが、それをいかにして「小説」というフォーマットに落とし込んでいくのか。はたまた、フォーマットに落とし込むことにどういう意義があるのか、という小説と言う形態の広がり方について考えさせられる。読む側以上に、書く側にとって、なぜ小説と言う形態なのか、という課題は重いのだろう。

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