3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『絵本をあなたに贈る』

髙村志保著
 長野県茅野市で「今井書店」を営む著者が、日々思ったこと、体験したことを様々な本の記憶を交えながらつづった読書エッセイ。
 題名には「絵本」とあるが、絵本だけではなく一般書の小説や随筆、図鑑や詩歌の本等、様々だ。生活の中で何かしら、特に不愉快なことや悲しいことがある度に、そういった思いに寄り添って緩和してくれる(読んでいて悲しい気持ちになる本であっても自分の悲しみ自体は緩和されるというのは不思議なことだ)本があるというのは幸せなことだと思う。そういった、読書を愛する人なら一度は感じるであろう思いが全編に綴られている。本を読まなくても済む人も当然いるわけで、それはそれで幸福なことだと思う。ただ、にっちもさっちもいかない時、疲れ果てた時に読書体験が拠り所になることは往々にしてあるんじゃないだろうか。自分のみではどうにもならない時には、本の中という自分の外からやってきたもの・自分のことではないが自分のことのように思えることに触れると、客観視してクールダウンできるからか自分だけではないと思えるからか、気持ちが楽になることがある。本著の中でもそういった出来事がいくつか語られるが、特に「落花生」は痛切だ。著者と父親との深い絆、そして抜き差しならなさは以前の著作『絵本の中へ帰る 完全版』でも垣間見られたが、こんなにもだったかと。それを言われたら立ち直れない…。そういう気持ちに寄り添うのも本だ。そういう寄り添う本を思い起こせる著者の引き出しの豊かさが魅力。

絵本をあなたに贈る
髙村 志保
河出書房新社
2023-08-26


絵本のなかへ帰る 完全版
髙村志保
夏葉社
2022-12-25


『英国古典推理小説集』

佐々木徹編訳
 ポーの『モルグ街の殺人』から始まった推理小説は次第に発展を遂げ、英語圏ではクリスティ、セイヤーズ、ヴァン・ダインやクイーンという名匠たちが活躍する1920年代から30年代の黄金期を迎える。しかしその前段階で、「推理小説」の古典とも言える作品があった。19世紀を中心に、日本では未訳だったものも含め「犯罪(あるいは何らかの事件)が発生し、それを探偵役の人物(素人もしくは玄人)が論理的な推理を働かせて解決するプロセスを主眼とした物語」(本著「はじめに」より)を紹介する作品集。
 ポーと同時代のディケンズ『バーナビー・ラッジ』第一章の抜粋から始まる本著、抜粋を収録しちゃうところにこれは推理小説だぞ!という編者の強い意志を感じた。そして実際、『バーナビー・ラッジ』の抜粋部分は推理小説的な語り口でやたらと面白いのだ。謎がありその謎の回答への筋道が示唆されるという構造はいつの時代も読者を引き付けるのか。『バーナビー・ラッジ』自体の趣旨は推理小説ではないので、人を引き付ける語りの構造をディケンズはよくわかっていたということでは。本文の他にエドガー・アラン・ポーによる書評も収録されているのだが、推理小説の構造、それの何が読者を引き付けるのかということが分析されており、これまた面白かった。
 捜査もの・冒険小説的な味わいもあるウォーターズ『有罪か無罪か』、素朴だが意外とロジカルに進めようとするヘンリー・ウッド夫人『七番の謎』、最初期の女探偵ものとも言えるキャサリン・ルイーザ・パーキンズ『引き抜かれた短剣』等楽しいが、インパクトがあったのはやはりチャールズ・フィーリクス『ノッティング・ヒルの謎』だろう。地の語りを用いず調書、証言、書簡等のみで構成された、当時としては結構攻めた作品なのではないかと思う。そして、あるパーツはオカルト的なのにそれ以外の部分を論理的にやろうとしすぎてちょっと破綻している、かつ大分読みにくいあたり、何とも言えない味わいがある。これ、当時の読者はちゃんとついてきていたのかな…。


バーナビー・ラッジ(上)
チャールズ・ディケンズ
グーテンベルク21
2022-05-27






『円周率の日に先生は死んだ』

ヘザー・ヤング著、不二叔子訳
 田舎町の森の中で、3月14日、円周率の日に数学教師アダムの焼死体が発見された。第一発見者は彼の生徒で11歳のサル。サルは死体は登校時に偶然見つけたと言うが、救急救命士のジェイクはサルがリュックサックを持っていなかったことに疑問を抱く。一方社会科教師のノラも、大学教授だったアダムが辺鄙な町にやってきたこと、そしてサルの振る舞いに疑念を持つ。
 アダムの死後、ノラ視点を中心として事件の解明が進む現在パートと、アダムが死ぬまでを描くサル視点のパート、2つの時間軸がランダムに入り混じりながら物語が進む。その為読んでいる若干時系列理解が混乱しそうになるが、事件の日に一刻一刻と近づいていく緊張感が高まっていく。
 また現在パート中でも登場人物たちはしばしば過去を回想する。本作に登場する人たちの多くは過去に囚われているのだ。サルは事件の半年前に母親を亡くし、以来孤独な毎日を過ごしていた。更に母親の死をもたらしたものに気付き始めてしまう。サルの孤独がアダムとの距離を縮め、彼を第一発見者にしてしまった。一方ノラは兄の死にずっと負い目を感じている。ノラの父親もまた、息子の死から立ち直れずその姿がまたノラを苦しめ続けているのだ。そしてアダムにもある過去があった。過去にからめとられて動けず、更にそれぞれの過去がお互いを結び付けてある地点まで追いやってしまう。一見、偏狭な村社会を背景とした「田舎の事件」ぽい設定なのだが、方向性は大分違った。
 サルは自分の頭の中で物語を空想するのが好きな少年だ。アダムは彼を観察者としての才能があると言う。観察して自身の解釈によりそれを再構築する。ただその行為は、それを語る人・読む人にとって耳触りのいいもの、真実を隠蔽するものにもなりかねない。サルが、そして周囲の人たちがそれぞれの物語とどう向き合っていくのかという部分も、本作の一つのテーマになっていると思う。


エヴァンズ家の娘 (ハヤカワ・ミステリ)
ヘザー ヤング
早川書房
2018-03-15


『円 劉慈欣短篇集』

劉慈欣著、大森望・泊功・齊藤正高訳
 不老不死の秘密を求める秦の始皇帝に10万桁まで円周率を算出しろと命じられ、荊軻は300万の兵による人列計算機を考案する(『円』)。表題作をはじめ、鯨による密輸の試みの顛末を描く『鯨歌』、貧しい村で教育に人生をささげた教師の最後の授業が驚きの結果をもたらす『郷村教師』、シャボン玉に魅せられた少女が画期的な発明にたどり着く『円円のシャボン玉』等、13篇を収録。
 SFの面白さのひとつは、今読者が生きている場に足を置きつつ、すごく遠くへ飛ばしてくれるところにあると思う。著者の作品の多くはそういう面白さ、驚きを持っている。特に表題作のスケールは笑ってしまうくらい(実際ある程度笑わせようとしていると思うのだが)。確かに仕組みとしてはそうかもしれないけどわざわざこれ言語化します?!突き抜け方が気持ちいい。それでいて最後には寂寥感を残す。小説としてのバランスは収録作中で一番では。近くと遠くが一気に繋がるという点では『郷村教師』もなかなかなのだが、ともすると狙いすぎになるところを堂々とやるので逆にあまり気にならない。体温が低そうな部分とエモーショナルな部分でのベタさに照れがない部分の兼ね合いが面白い。
 いかにも「中華SF」的な作品がある一方で、典型的な(ロケーションの匿名性が高い)SFぽい『繊維』は今や大流行りのマルチバースものだし、ユーゴスラビア紛争を背景にした『カオスの蝶』のような作品も。これは実際の出来事を読者側は知っているが故の後味の悪さがある。またオリンピックがはらむナショナリズム、スポーツの熱狂の功罪を織り込んだ『栄光と夢』は、架空の国が舞台ではあるが実際にこういうことがありそうな怖さがあった。

円 劉慈欣短篇集 (ハヤカワ文庫SF)
劉 慈欣
早川書房
2023-03-07


老神介護 (角川書店単行本)
古市 雅子
KADOKAWA
2022-09-07




『絵葉書のように』

武田百合子著、武田花編
 著者の単行本未収録エッセイ集『あの頃』から50編を収録した作品集。夫・武田泰淳をはじめ亡くなった親しい人たちの思い出や、日々の暮らしの中で変わっていく風景、一方で日々の食事等の変わらない物事等を率直に写し取る。
 著者はかつては「武田泰淳の妻」的言われ方だったのだろうが、今や著者の作品の方が広く読まれている、経年に耐えているような印象がある。著者の文はあまり飾り気がなく率直で、「うまいこと言ってやった」みたいな小細工や「置きに来た」感が希薄だ。本著の編集をした娘である武田花によると、著者は文章を本にまとめる時には必ず細かく手を入れていたというから、無造作とは真逆の文章と言えるだろう。しかし読んでいると無造作に感じられる。無造作に感じられるくらいに正確に、正直に記そうとしたということだろう。だから経年しても色あせないのかもしれない。
 『富士日記』に連なるような日常を写し取ったエッセイも良いのだが、泰淳やその友人らの姿の陰影が深い。彼らの言動の切り取り方が、その人の芯の部分をくりぬくようなとても的確なものに思える。泰淳が病に倒れてからの友人たちの思いやりの深さ、また泰淳の友人に対する思慕には、人はこういう風に友人を思えるのかと胸を突かれた。こういう情の深さは自分にはない(時代的なものもあるのかもしれないが)のではないか。特に埴谷雄高が泰淳がガンであると知らされたときの反応は深く印象に残った。著者の文章が率直で装飾がない為、より悲しみが際立つ。

絵葉書のように (中公文庫 た 15-13)
武田 百合子
中央公論新社
2023-03-23


武田百合子対談集 (単行本)
武田 百合子
中央公論新社
2019-11-19




『絵本のなかへ帰る』

髙村志保著
 茅野市で父親から受け継いだ「今井書店」を営む著者が、幼いころから親しんだ作品、本を売るという商売に携わるようになってから巡り合った作品の思い出を綴る。大人の視線と子供の視線が交錯する31冊の本にまつわるエッセイ集。
 著者の書店の販路は保育園や幼稚園の占める割合が多く、本著内にも保育士や保護者らが登場する。まさに絵本を読む現場の声だろう。今の日本で子供を育てる、保育という仕事、そして子供の本を売るという仕事に従事することの困難さ(もちろん喜びも多々あるのだろうが)が垣間見られた。そして著者自身も親として息子との関係に葛藤する。息子とのエピソードは関係性のしんどさが窺えた。親子といってもやはり他人で、すごく近い存在なのにわからないという所が全くの他人に対するわからなさよりもしんどいのだろう。著者と息子とである絵本の解釈が違うというエピソードがあるのだが、親子で価値観が大分違うと、その違いを受け入れるまでの葛藤が結構ありそうだ。情の深い人ほど苦しいのではないだろうか。そういった苦しさや葛藤をそっと支えてくれるのも絵本だったのだろう。
 読み聞かせに関するエピソードが多いのも本著の特徴。著者自身が書店経営の傍らで読み聞かせ活動を続けている(中学校での読み聞かせもしている様子なのにはびっくりした)。また著者自身が父親から読み聞かせをしてもらっており、その体験が深く染みついているということがわかる。絵本の語りは父親の語りで、著者と父親とが2人で読んでいるようだった。私もたくさん読み聞かせをしてもらったがこういう感覚はなかった(誰かとの思い出という形での本の記憶はない)ので、読書体験というのは本当に人それぞれだと新鮮に感じた。父親への思いの深さも感じる、ある意味父親の思い出に捧げられたような作品でもある。

絵本のなかへ帰る 完全版
髙村志保
夏葉社
2022-12-25


子どもと本 (岩波新書)
松岡 享子
岩波書店
2015-02-21


『夜明け前、山の影で エベレストに挑んだシスターフッドの物語』

シルヴィア・ヴァスケス=ラヴァド著、多賀谷正子訳
 性暴力サバイバーである著者は、同じような体験をした女性たちと共にエベレストへの旅を企画する。更に、仲間たちの思いを託され単身でエベレスト登頂に挑む。世界七大陸最高峰の登頂した登山家であり、性暴力被害者の回復支援NPO<カレイジャス・ガールズ>主催者である著者が、自身の半生と登山を振り返るノンフィクション。
 エベレストへの登山の行程と、登山に目覚めるまでの著者の過去が交互に語られる。登山は基本的に男性の世界で女性登山家はまだ少なく、更にエベレスト級の山に登る為の高度な装備は、まだまだ男性サイズが中心らしい。このあたりは意外だった。共に山頂へ登るチームも男性ばかりだが、登山家同士とは言え女性への偏見がないとは言えないし、ハラスメントに遭った人の話も挿入される。それでも著者が山に登るのはなぜなのか、過去の回想から段々背景が見えてくる。山は厳しいがすべて受け入れてくれる(油断するとすべて奪われるが)という著者の気持ちが伝わってくるのだ。著者にとって必要だったのは自分がそのまま受け入れられている、存在を許されていると感じることだった。
 登山の過程も相当過酷なのだが(屈強な人でも予期せぬ不調でリタイアを余儀なくされる世界なのだとよくわかる)、登山の世界に入るまでの著者の人生がこれまた過酷。著者は子供の頃に身近な大人からの性暴力被害を受け続けており、それがトラウマとなって成人してからも自暴自棄な行為を繰り返す。性加害描写がかなり具体的なので、読んでいて苦しくなる読者もいるかもしれない。加害を受けることで自己肯定感が削がれ、そこから回復するにはとても時間がかかるということがよくわかった。特に著者の場合は家族をはじめ周囲からの助けがあまり得られない状態、かつ周囲の期待に応えようとすることで自分を追い詰めてしまう。大人になってからもお酒に溺れたり、体を壊すまで働いたり、また特定のパートナーとの安定した関係を築くことが困難だったりと、人生が相当「詰んだ」状態になってしまうのだ。心身共に揺れが大きくヘロヘロになっていく著者の姿が痛々しい。更に著者はオープンリー・レズビアンなのだが、故郷のペルーでは同性愛はまだまだ忌避されており、両親は最後まで彼女のセクシャリティを認めることはなかった(父親は性暴力被害のことも知らないままだった)。自分が受け入れられている、今の自分で大丈夫だと肯定される体験が希薄なまま人生が進んでいくのだ。当時の著者は人生はそういうものだと思っていたろうが、これはかなりきつい。
 そんな状況を打開する糸口となるのが登山だったのだ。啓示を受けたようにいきなり登山を始めるというのがユニークなのだが、人生の転機とはそういうものかもしれない。著者は世界七大陸最高峰登頂に成功する。それは特別なことではあるが、彼女のサバイバーとしての回復は特別なものではなく、適切な理解と支えがあれば回復し得るものだと感じさせる。著者もそう信じて<カレイジャス・ガールズ>と山に登るのだろう。

夜明けまえ、山の影で エベレストに挑んだシスターフッドの物語
シルヴィア・ヴァスケス=ラヴァド
双葉社
2022-11-17


『英国屋敷の二通の遺書』

R・V・ラーム著、法村里絵訳
 植民地時代に英国人が建築したグレイブルック荘は、代々の主が非業の死を遂げていることで知られていた。元警察官で数々の事件を解決してきたハリス・アスレヤはグレイブルック荘の現主人・バスカーに雇われた。バスカーは何者かに命を狙われ、自分が自然死を遂げた時用と不審死を遂げた時用、2通の遺言書を作成。そして不審死の際はアスレヤに犯人を突き止めてほしいと考えたのだ。
 インドを舞台にしたミステリだが、英国の古典ミステリを思わせるような趣。周囲から孤立したお屋敷、そこに住む富豪と訳ありの親族や少々不審な周囲の人々、そして名探偵。かなりレトロな雰囲気で、携帯電話が出てくるまで現代の話だと気付かなかったくらいだ。謎解きも非常にオーソドックス。少々要素を盛りすぎ、また種明かしが終盤に寄りすぎなきらいはあるのだが、ある物がなぜそこにあったのか、という部分の仕掛けが犯行目的のミスリードにもつながっており、なるほど!と思わせる。
 古典的ミステリとしてクリスティが好きな人にはお勧め。ただ、クリスティがインドが舞台の話を書いた時にはエキゾチズム混じりで舞台が描かれるが、本作の場合著者はインド出身で、土地に対する過剰なロマンシズムは希薄。「現地」としての感覚で描かれているように思う。
 なお一か所、物理的にどういう状況なのかイメージしにくくて困惑した部分があった。原文がわかりにくいのか翻訳がわかりにくいのか…。門を持ち上げるってどういうこと?

英国屋敷の二通の遺書 (創元推理文庫 M ラ 12-1)
R・V・ラーム
東京創元社
2022-03-19


もの言えぬ証人 (クリスティー文庫)
加島 祥造
早川書房
2012-08-01




『エリザベス女王の事件簿 ウィンザー城の殺人』

S・J・ベネット著、芹澤恵訳
 英国のウィンザー城で開催された宿泊晩餐会(ダイン・アンド・スリープ)。つつがなく晩餐会は終了したかに見えたが、よく朝、来賓の1人だった若いロシア人ピアニストが、あられもない恰好の遺体で発見された。警察とMI5はロシアのスパイによるものとみなすが、エリザベス女王は違和感を感じる。
 なんとエリザベス2世が探偵役を務めるミステリ。英国では女王をこういう感じでいじってOKなんだなーと文化の違いを垣間見た感がある。日本で天皇が探偵役のミステリ小説って多分出てこなさそうだもんな…。謎解きミステリとしては正直少々中途半端で、MI5長官がいくらなんでも愚かすぎないか?その遺留品についてその解釈は苦しいのでは?それは状況的にもっと早く誰かが気付くのでは?と色々と気になってしまった。城の警備状況や警察、MI5の働きについてはあまりリアリティはない。ただ本作の売りはそこではなく、エリザベス女王という(実在の)登場人物の魅力と、女王という立場だからこそできること、そしてできないことがあるという描写にある。御年90歳だが頭脳明晰で好奇心とユーモアがあると同時に、優れた外交家・策略家でもある。ただ、老人であること・女性であることで多分に過小評価されており、内心ぼやいたりする。側近が女王にショックを与えるような醜聞は聞かせないように色々と配慮するが、実際のところはその程度ではびくともしないわけだ。
 そして女王という立場は、周囲から信頼されなければならない、配下の者を(たとえ本当に能力不足だったとしても)貶めてはいけないという部分は、なるほどなと思った。高い地位にあるからこそ、周囲に花を持たせ常に配慮するという特殊性がある。その表立って動けないという状況が、安楽椅子探偵的な面白さを生む。理由はわからないまま、女王のリクエストに応えて動く秘書官補ロージーの奮闘も楽しい。彼女の造形は現代的で良いが、ハイヒールは辛そう。なお実在の要人も色々登場するのだが、(本著が書かれた2020年当時)プーチンは大っぴらに悪役扱いしていいことになっているんですね…。そしてオバマ夫妻(作中では現役)とメルケルへの好感度は高い。これは英国国民全般の見方なのだろうか。


やんごとなき読者 (白水Uブックス)
アラン・ベネット
白水社
2021-08-28




『エリザベスの友達』

村田喜代子著
 97歳になる初音さんは、戦後、幼い娘を連れて満州から日本に引き揚げてきた。今では2人の娘の顔もわからなくなっている。おぼろげな意識の中で鮮やかに思い出されるのは天津租界での華やかな生活だ。ドレスや宝石で身を飾り、自ら付けた英語名で呼び合い、女性たちは自由だった。
 老人ホームと天津租界を行き来する初音さんの意識は、最晩年を迎えて最も自由になっているように思える。初音さんの娘の千里や満州美も、だんだんそれを理解していく。初音さんと同じ世界を見るとはいかないまでも、認知症の人の世界に寄り添っていくのだ。自分の身近な人が認知症になると自分の知っているその人ではなくなっていくようでなかなかきついが、その人の中には、やはりその人独自の世界があり続けるのだろう。それがわかると心が少し楽になるんだろうけど。老人のインナーワールドのふくらみの描写がのびやかで楽しい。
 初音さんは夫の仕事に伴い天津へ渡った。同じような駐在職の婦人らと交流するが、租界での彼女らは日本にいるよりもずっと自由。英国の文化が根付いた土地では、「家」や夫の付属品ではなく一個人としてふるまえる土壌があるのだ。とは言えその自由は植民地という場で、元々いた現地の人たちを踏みつけにして成立した、特権階級としての自由と豊かさだ。痴呆で記憶も朧気になった老人が中国での行いを激しく詫びるという場面が作中出てくるが、初音さんらにはそういった意識はあったのだろうか。またそういう場であったから自由を謳歌でき美しい思い出が残ったということも、じゃあその後の(一応民主化されたはずの)日本での生活はどうだったのだろうと複雑な気分になる。

エリザベスの友達 (新潮文庫) [ 村田 喜代子 ]

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