3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『鬱の本』

 憂鬱な時、鬱を患う時に読んだ本、思い出す本、それ自体鬱のような本等、鬱と本を巡る総勢84人によるエッセイアンソロジー。
 本著の著者たちによる「鬱」は、憂鬱な気分であったり病の状態としての鬱であったり、その境目であったりと人それぞれだ。84人いれば84人の鬱・憂鬱がある。そして84通りの「鬱の本」があるのだ。鬱といえばやはり太宰治だシオランだと納得のチョイスがあったり、滝本竜彦の寄稿を読んで生きていたかとほっとしたら、不登校『NHKにようこそ!』に希望と安心を与えられたというエッセイ(ふぉにまる著)があって何という呼応…!と震えたりする。ルーキーからビッグネームの超ベテランまで、あの人もこの人も鬱々としている。が、その鬱々が読者にはまるものかどうかはわからない。読者の鬱々もまた人それぞれだから。鬱々としがちな人に向けて作られた本ではあるが、キャッチする側に寄り添うかどうかというとまた別問題。
 実際のところ、複数の著者が言及している通り病気としての鬱が重篤な時は読書などできないだろう。しかし一方で、鬱の時に本が生きるよすがになったと書く人もいる。これはどちらも正しい。その間をいったりきたりするのが鬱々と生きがちな人の生き方なのではないか。なるべく読み続けられるように。

鬱の本
点滅社
2023-12-05


生誕の災厄 新装版
E.M. シオラン
紀伊國屋書店
2021-06-15




『うつくしが丘の不幸の家』

町田その子著
 高台の住宅地に建つ、築21年の一軒家を購入した美保理と譲夫婦は、1階を美容室に改装して新しい暮らしを始めようとしていた。しかし近所の住民からこの家は「不幸の家」と呼ばれており、住んでいた家族は皆去っていったと聞かされる。「不幸の家」に暮らした5つの家族の物語。
 1軒の家の歴代入居者を時代(といってもそんなに長いスパンではないが)遡って描いていく連作短編集。オープニングとエンディングの繋げ方が美しかった。入居している人たちの家族構成も年代も様々なのだが、家族として暮らすことについて一つの岐路に差し掛かるという点は共通している。家族が解散しそうだったり、形が変わりそうだったり、そもそも家族と言えるものだったのかとはたと気付いたりする。彼女ら・彼らはそれぞれ難しい状況にあるが、「こうでなければ」「こうだったはず」という思い込みの枠がゆるむことによって、少し前に踏み出すことができるのだ。その背中を押す役割を往々にして担うのが、「不幸の家」の隣に住む年配女性、信子。彼女がどういう人生を送ったのかという側面も連作を辿っていくうちに見えてきて、一つのミステリ要素のようでもある。冒頭の「おわりの家」で信子が少々感情的になるのには、そういう背景があったからかと腑に落ちるのだ。
 本作に登場する「家族」のメンバー構成はまちまちだが、いずれも子供を含む、ないしはその期待や予感がある。様々な家族の形を描いていても、良き家族のイメージ(子供がいることが「より善きこと」とされている)自体は結構古典的。子供がいてもいなくても異性間でも同性間でも家族となり得るはずだが。

うつくしが丘の不幸の家 (創元文芸文庫)
町田 そのこ
東京創元社
2022-04-28


違国日記(1) (FEEL COMICS swing)
ヤマシタトモコ
祥伝社
2017-11-22





『WIN』

ハーラン・コーベン著、田口俊樹訳
 容姿端麗、頭脳明晰、武術の達人で名家の出、そして大富豪であるウィンザー・ホーン・ロックウッド三世。自由気ままな生活をする傍ら、趣味で悪党成敗をしている。ある日、ロックウッド家から盗難されたフェルメールの作品が殺人現場で見つかる。更に迷宮入りしたテロ事件や一族にまつわる隠し事等、様々な謎が立て続けに彼を襲う。
 ハーラン・コーベンと言えば「マイロン・ボライター」シリーズだろう!と本シリーズが書店店頭から消えても思い続けているのだが、ここにきてまさかのスピンオフ作品。マイロンの親友、というかマイロン推し烈火勢同担拒否の男・ウィンの活躍をまたこの目で拝めるとは。生きているといいことあるもんだな!ウィンに全く湿っぽい所がなく独自のルール、正当性で突き進むので、ナイーブ寄りなマイロンシリーズよりも感触は軽め。何しろ色々お金と権力の力で解決できるので話が早い。自家用ヘリを主人公が使いこなす小説、意外とないでしょう。
 そんなウィンが最もてこずるのが血縁に関わる問題であるというのが、意外とコンサバ。しかし代々続く富豪の名家というのはこういうものかもしれないなー。ウィンに家族がいるということ、家族に対してある程度の愛着を示すということ自体が新鮮なのだが、なかなか血と伝統からは逃れられないのか。一般的な愛情や執着からは距離を置いている彼でも、親族に対しては譲歩してしまうという所に血族という仕組みの根深さを感じた。ウィンが丸くなったというよりも、そういう価値観が体に叩き込まれている感じ。

WIN (小学館文庫)
ハーラン・コーベン
小学館
2022-11-04


カムバック・ヒーロー (ハヤカワ・ミステリ文庫)
ハーラン コーベン
早川書房
1998-10T




『うろん紀行』

わかしょ文庫著
 海芝浦で笙野頼子『タイムスリップ・コンビナート』を思い、永井荷風『墨東綺譚』を踏まえて東向島を散策する。ある場所と読書体験とが結びついていく、読書録であり紀行文。
 前々から題名が気になっていた。なにしろ「うろん」だ。「紀行」はなんとなくゆったりとした旅路、晴れやかな気持ちを呼び起こすが、「うろん」とつくと一気に不穏な空気が漂ってくる。実際、本著中の紀行はお目当ての施設がたまたま休館日だったり、台風の影響で乗るはずだった路線が運航中止になって急遽予定変更したり、どこかあやふやで行き先がわからない。しかし、読書と組み合わせるとなぜかしっくりとくる。作中に出てくる場所に行くというだけではなく、その場の空気や著者の行動によって、本の中身がどんどん広がって、こういう作品だったのか、という発見に至る。特に作品と関係あるんだかないんだかわからない第九章『産業道路』は圧巻。コストコと『万延元年のフットボール』って普通つながらないでしょ…。しかし本章で言及される『万延元年~』は異様な迫力をもって迫ってくるのだ。コストコの物量の圧と大江の文章の圧がなぜかリンクしていく。私、コストコを楽しむのは無理かもしれないなと納得させられてしまった。
 本を読みどこかへ行くという行為の中で、著者の人生の変化が垣間見えるという所に陰影がある。1冊通して一つの旅のように思えた。「わかしょ文庫」として書くことが「わたし」が生きることだという文がある。著者にちょって「わかしょ文庫」であること=書くことは、どこかに所属する、誰かに紐づく存在であることから自由になり、ただ単に「わたし」であり続けることなのだろう。どこにも所属しない自分だけの名前、というかあり方が生きていくには必要なのだ。ここはとても共感した。

うろん紀行
わかしょ文庫
代わりに読む人
2021-08-12


『裏切り(上、下)』

シャルロッテ・リンク著、浅井晶子訳
 ロンドン警視庁の刑事ケイトは、故郷のヨークシャーに帰郷した。元刑事の父親が自宅で殺されたのだ。名警部として有名だった父に対する復讐ではと地元警察は見ていたが、犯人は絞り込み切れないまま時間が経過していた。ケイトは自分でも事件を探りはじめるが、地元警察の担当警部との間には軋轢が生じる。
 ケイトは確かにロンドン警視庁の刑事ではあるのだが、特に有能というわけでもなく、むしろ署内での評価は低い。彼女は集団内での振る舞いが苦手で自己評価が低い為、周囲からも低く見られがちなのだ。事件が進展していくうちに実は頭はよく仕事もできる一面があるとわかってくるのだが、自信のなさや卑屈さが都度都度足を引っ張る。ケイトのぱっとしなさ、振る舞いの不器用さの描写がいちいち具体的で刺さった。とにかく組織に向いていない。こういう造形の探偵役、ちょっと珍しいのでは。一方、ヨークシャーの地元警察のケイレブ警部は良心的でそこそこ仕事はできるのだが、アルコール依存症から復帰したばかり。探偵役の2人がどちらも問題を抱えている。自分の資質や考察を自分が裏切るということになりかねないのだ。
 題名の通り「裏切り」が実に様々な意味合いで物語中にちりばめられている。ある人が自分が思っていた人物像と実は異なった時、相手にだます意図はなかったとしても裏切られたような気持ちになる。また、自分の期待通りに相手が動かなかった時も、裏切られたような気持ちになるだろう。そして明確に他者の信頼を裏切るという行為もある。意図しない裏切り、意図した裏切りが連鎖して事件の形が立ち上がっていくという構成が上手い。

裏切り 上 (創元推理文庫)
シャルロッテ・リンク
東京創元社
2022-06-30


裏切り 下 (創元推理文庫 Mリ 7-6)
シャルロッテ・リンク
東京創元社
2022-06-30


『失われたものたちの本』

ジョン・コナリー著、田内志文訳
 母親を亡くし、父親の再婚と再婚相手との間に子供が生まれたことで、深い孤独を感じてる12歳のデイヴィッド。父親の再婚相手が所有する古い屋敷で暮らすうち、その屋敷においてあった本たちの囁きが聞こえるようになる。ある日、死んだはずの母親の声に導かれて異世界に迷い込む。そこは物語に出てくる人狼やトロル、そして子供をさらうねじくれ男が蠢く世界だった。元の世界に戻る為、デイヴィッドはその世界の王が所蔵しているという『失われたものたちの本』を探す旅に出る。
 デイヴィッドは義母に父親を取られたと思って孤独と怒りを抱えるが、彼が見ている世界はあくまで12歳の子供の視野のもので、理解が行き届かない所も大きい。父親もデイヴィッドのそういう部分をよくわかっておらず、すれ違っているのだ。そのすれ違いや寂しさが、彼を異界へと引き込んでしまう。子供の主観の世界が序盤でよく描かれていると思った。
 異世界の旅が進むにつれ、デイヴィッドが暮らす屋敷に置いてあった本に書かれた内容が、少しずつ形を変えて反映されていることがわかってくる。ただ、本というフォーマットや物語というものの機能・特質がそれほどストーリーと結びついていないように思った。世界の構造やある人物の目的を小出しにせず、終盤でまとめて明かすので、唐突に感じたことも一因かもしれない。また、デイヴィッドが暮らす世界は第二次大戦下なのだが、これがあまり活かされていない。現実に戻っても辛いことばかりだから異世界にとどまった方がいいのではという迷いを生じさせるためかもしれないが、デイヴィッドはまだ戦時下の過酷さを知らないし、家庭環境による要因のみで十分な気がした。何か伏線になっているのかと思ったら何もないので逆にびっくりしたよ…。
 デイヴィッドの成長物語でもあるが、それ故に少々教条的になってしまったのが気になった。彼が成長した瞬間を「成長した」と説明してしまうのには興ざめ。デイヴィッドを動かした原動力が何なのか、もっと深堀りされていたら印象が違ったかもしれない。また、翻訳文の語り口はなぜこの文体にしたのか少々疑問。お伽噺的な感じにしたかったのか?そこまでやらなくてもいい気がした。

失われたものたちの本 (創元推理文庫)
ジョン・コナリー
東京創元社
2021-03-11


はてしない物語 (エンデの傑作ファンタジー)
ミヒャエル・エンデ
岩波書店
1982-06-07






『歌え、葬られぬ者たちよ、歌え』

ジェスミン・ウォード著、石川由美子訳
 少年ジョジョは「父さん」と病に伏せる「母さん」と共に暮らし、幼い妹ケイラの面倒を見ている。時々帰ってくるレオニとは反りが合わず、レオニは服役中のマイケルを待ち続けている。ジョジョには死んだ少年の姿が見える。そしてレオニは死んだ兄の亡霊を見ていた。
 ジョジョ、リッチー、レオニの一人称語りのパートが交互に配置されている。その中で、あいまいだった彼らの関係・状況が徐々に見えてくる。ジョジョが「父さん」「母さん」と呼ぶ人たちはいるが、ではレオニは何者なのか、ジョジョが見ている幽霊らしき少年は何者なのかということもわかってくる。同時に、本作が一つの家族の物語であるということが見えてくるのだ。ジョジョの主観では親は親と思えず、頼りに出来ない存在だ。一人でケイラをケアするジョジョの姿はいじらしいが、責任感が空回りしているようで痛々しくもあった。一方親は親で、子供への愛情がないわけではないが、大人としてどのようにふるまえばいいのかわからず、自分のことだけで精一杯。彼らの認識のずれ、噛み合わなさがそれぞれの視点からの景色が交互に配置されることで際立ってくる。おそらく距離が縮まることはないのではと思える所が厳しい。
 一方、家族の物語の背後にあるのは、アメリカの黒人の歴史だ。個の記憶と集団の記憶が呼応していくようだった。黒人であるレオニと白人であるマイケルの結婚をマイケルの両親は絶対に許さない。リッチーの過去の秘密も、彼が黒人でなかったら生じなかったものだろう。黒人がどのような存在とされてきたのか、彼らの人生に刻み込まれている。そして纏わりつく亡霊たちは正に「葬られぬ者たち」だ。彼らの声がジョジョらを呼び込み続けるような余韻が残る。

フライデー・ブラック
ナナ・クワメ・アジェイ=ブレニヤー
駒草出版
2020-12-02


ビール・ストリートの恋人たち (早川書房)
ジェイムズ ボールドウィン
早川書房
2019-01-31




『海と山のオムレツ』

カルミネ・アバーテ著、関口英子訳
 イタリア、カラブリア州の小さな村で育った「僕」の半生は、様々な食べ物で彩られている。祖母の得意料理である「海と山のオムレツ」を挟んだシュティプラ(柔らかいパン)、サルデッラや腸詰サラミのンドゥイヤ、鰯の塩漬け、じゃがいもやさくらんぼ、スイカ。郷土の料理と食材と共に少年・青年時代が綴られる自伝的短編集。
 私はそれほど食に重きを置く方ではないのだが、本作を読むと(少なくとも本作に登場する人たちにとって)それぞれの家庭の料理が一つの文化であり、家族の共通の記憶、個々のアイデンティティの一部となっていることがよくわかる。「僕」の母親は息子が食べているかいつも心配し、大人になってからも帰省する度に食料を持たせる。食べさせることが親の愛なのだ。多分本当に美味しい料理なのだろうが、「僕」の思い出と結びつくことで更に美味しそうに感じられる。「僕」の父親が郷土料理自慢をするのも無理はないなと思えるのだ。著者の小説『風の丘』はやはり自伝的な要素が含まれているが、本作の方がより「思い出話」的なまろやかさがあって、『風の丘』で描かれたような土地の厳しさは陰をひそめている。特に父親の造形は、ベースは同じだが派生の方向が変わっているように思った。本作の父親もやはり頑固で生まれ育った土地に根差した生活を愛するが、土地や一族への呪縛めいたものは薄い。故郷を離れた息子の人生に納得はしないまでも、受け入れている。息子の側も少し鬱陶しがりつつ真っすぐな愛情を向けている感じがする。子供時代の楽しい思い出がちゃんと生きているのだ。

海と山のオムレツ (新潮クレスト・ブックス)
アバーテ,カルミネ
新潮社
2020-10-29

ふたつの海のあいだで (新潮クレスト・ブックス)
アバーテ,カルミネ
新潮社
2017-02-28


『うたうおばけ』

くどうれいん著
 「おばけ」になって歌う岬、失恋の「葬式」のために喪服姿でやってきたミオ、暗号好きなスズキ、振られる為に東京に来た著者を迎えてくれたタムさんとのどか。さまざまな「ともだち」がぞろぞろ登場するエッセイ集。
 「工藤さんって友達多そうっすよね」と言われて、げ、と思ってしまうという著者。友達という言葉が苦手、友達の多さが人間の価値だなんて安易なものさしだ!というわけで大変共感できるのだが、しかし本著を読んでいると著者はばっちりと友達が多いし、その友達を非常に大切にしており誠実であるように思える。友達ではなく「ともだち」。世間でよかろう美しかろうとされている関係とはちょっと違う、しかし得難い関係性。情が深いというよりも、相手の個性、あり方に対する尊重がお互いにあるのだと思う。それは友人でも恋人でも家族でも同じだ。「仲良く」と「尊重」は必ずしも一致しない。「みんな仲良く」である必要はないんだよな。
 それにしても、著者が結構な頻度で振られており、その振られ方に対するエネルギーがなんだかすごい。えっこんな強烈に悲しむようなことだったっけ?これが若さか…。

うたうおばけ
くどうれいん
書肆侃侃房
2020-04-29





『嘘と魔法(上、下)』

エルサ・モランテ著、北代美和子訳
 両親を早くに亡くし、養母に育てられたエリーザ。養母も亡くなり一人きりになった今、彼女は一族の秘密、祖父母、そして両親の秘められたロマンスを語り始める。
 大人になったエリーザが語る一族のストーリーは、熱烈な恋、実らぬ愛、不実と嫉妬等、強烈な感情の嵐が吹き荒れている。登場人物の誰しも方向性は違うが利己的・自分本位だ。彼らの声の大きさが強烈。熱烈な恋が描かれたラブロマンス大河ドラマではあるものの、その思いは往々にして一方通行だ。彼らが見ている相手の姿は思い込みにより脚色されており、自分の頭の中にいる相手に対してずっと呼びかけ続けているようなものだ。相手がどういう人物で何を考えどう行動しているのかということは、あまり想像していないように思える。だから思いの交歓、ハーモニーがあるのではなく、それぞれの声が大音量でばらばらに響いているという感じなのだ。成就する恋愛がない恋愛小説と言える。熱烈に恋愛をしているように見えるアンナとエドアルドであっても、その思いと立場は対等ではなく、お互いへの思いやりがあるとは言い難い。またアンナとフランチェスコのように、何かしら成就したような気配があっても時既に遅し。
 本作、エリーザの語りという構造になっており、語られるのはあくまで「エリーザによる一族の歴史」で、いわゆる信用できない語り手と言える。そしてエリーザが語る歴史の元になっているものが更に、ある作為をもって書かれたものなのだ。語りに二重のフィクション性があり、それが更に小説というフィクションの形をとっているという入れ子構造。登場人物たちの恋と同じく、エリーザが語るのは彼女の頭の中にだけある作りものなのかもしれないのだ。だからこそ読者にとっては面白く次は、次はどうなるのとページをめくり続ける。まさに嘘と魔法。

嘘と魔法 上 (須賀敦子の本棚)
モランテ,エルサ
河出書房新社
2018-12-18


嘘と魔法 下 (須賀敦子の本棚)
モランテ,エルサ
河出書房新社
2018-12-18



 
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