3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『嘘の木』

フランシス・ハーディング著、児玉敦子訳
 高名な博物学者で牧師のサンダリー師は、ある大発見を発表し評判になる。しかしその発見がねつ造だという噂が流れ、新聞報道にもなった。好奇の目にさらされることを恐れたサンダリー一家は、発掘現場での誘いがあったヴェイン島へ移住。しかしそこでも既に噂は流れており、肩身の狭い生活が始まった。しかしサンダリー師が不審な死を遂げる。島の人々は自殺と見て教会での埋葬を拒むが、娘のフェイスは父が自殺するはずないと疑問を持つ。サンダリー師は生前、「嘘の木」と呼ばれる植物を密かに栽培していた。嘘を養分とし、その実を食べたものに得難い知識を授けるというのだ。フェイスは嘘の木を使って父の死の原因を探ろうとする。
 ダーウィンの進化論によってキリスト教的な世界観が大きく揺さぶられていた時代を背景にしている。この時代背景と登場人物の行動原理が直結しており、使い方が上手い。当時の自然科学の考え方や社会的な価値観が、フェイスが抱える問題と深く関わっている。彼女は自然科学に興味を持つ聡明な少女だが、当時の社会では女性には理論的に物事を考える能力はないと考えられていた。フェイスがどんなに勉強し知識を披露しても周囲から評価されることはなく、むしろ女性としてはふさわしくない存在として扱われる。フェイスは科学者である父から認められたくてたまらないが、彼女が女性である以上、それは叶わないのだ。このフェイスの満たされなさ、父親の愛への渇望が痛いほど伝わってきて辛い。彼女の渇望が、彼女が撒く「嘘」を加速されていくが、途中からよしもっとやれ!とエールを送りたくなるくらい。
 彼女には天分の才能があるが、それはないものとされる。しかしこれは彼女に限ったことではない。女性達については「女性」というひとくくりの概念しかなく、個々がどのような能力、特性を持ち何が出来るのかという部分は男性の目にはとまらない。そこにいるがいない、不可視の存在としての一面を持つ。これが本作のミステリ部分の鍵になっているが、こんな不可視ありがたくもなんともないよな・・・。彼女ら個々の顔がはっきり見えてくる終盤は、フェイスにとっての救いでもあるか。

嘘の木
フランシス・ハーディング
東京創元社
2017-10-21


カッコーの歌
フランシス・ハーディング
東京創元社
2019-01-21


『動く標的』

ロス・マクドナルド著、田口俊樹訳
 石油王の富豪サンプソンが失踪した。私立探偵のリュウ・アーチャーはイレイン・サンプソン夫人から夫捜索の依頼を受ける。アーチャーが犯罪組織の関与を疑い始めた折、サンプソン邸に10万ドルを送金しろというサンプソン氏直筆の手紙が届く。アーチャーは身代金を要求する手紙だと判断する。
 新訳版はやはり読みやすい。一度読んだ作品のはずなのにストーリーの流れや犯人を全く思い出せず、新作を読むのと同じように新鮮に読んでしまった・・・。これは損したのだろうか得したのだろうか。ただ、あるシチュエーション、情景はそういえばこんな感じだったなと思いだす。私が本作を原作にしたポール・ニューマン主演の映画『動く標的』(ジャック・スマイト監督、1966年)を見たことがあるから映像としての印象の方が強いというのもあるだろう。しかし何より、私にとってロスマク作品の魅力は、プロットではなく情景の描写や情感にあるのだろう。サンプソンの娘ミランダが車を飛ばすシーン、新興宗教施設でのドタバタ、中年弁護士がふと見せる哀愁など。なお、翻訳家の柿沼瑛子が解説を寄せているが、著者の来歴やそれが作品に与えたと思われる影響にもざっくり触れており、ロスマク入門編には良い。

動く標的【新訳版】 (創元推理文庫)
ロス・マクドナルド
東京創元社
2018-03-22


動く標的 [DVD]
ポール・ニューマン
復刻シネマライブラリー
2011-12-26

『運命と復讐』

ローレン・グロフ著、光野多惠子訳
 劇的な出会いにより一目でお互い恋に落ち、スピード結婚したロットとマチルド。売れない俳優のロットをマチルドは支え続け、やがてロットは劇作家として大成功する。2人の恋と結婚は運命、のはずだった。
 結構な長さなのだがリーダビリティが高く、一気に読んだ。本作はいわば前半戦=運命、後半戦=復讐にわかれた構成で、裏表のような関係にある。ロットは自分とマチルドの関係は運命的なものと信じており、彼女は聖女のように純真で献身的だと言う。しかしこれはあくまでロット側の意見。ロットの思い込みの強さと天然の人の良さ、愛されることに慣れている人特有のある種の無神経さが、彼のマチルド像を作り上げている。前半、マチルドは理想的な妻として家庭をきりもりし、パーティー客をもてなし、ロットを励まし続け彼とのセックスにも没頭する。しかし、その為に彼女が払った努力や犠牲には、ロットは本当には気付かないし無頓着だ。中盤、彼が女性を賛美するつもりで典型的な女性蔑視に繋がるスピーチをする。彼はマチルドを深く愛し続けるが、そういう部分は刷新されないままなのだ。ではマチルドは実際のところどういう女性なのか、というのが後半で、誰に対する「復讐」なのかも明らかになっていく。
 夫婦は所詮他人で、相手について知っている部分などごくわずかなのかもしれないと本作は迫ってくる。そして、そういう状況であっても愛は成立していると言えるのか、いや成立しているはずだというゆらぎが特に後半では前面に出てくる。言葉で具体的に嘘をつくだけでなく、真実を話さないことも嘘になるのかもしれないが、それは不誠実とはまた別のものだ。誠実だからこそ話さないということもある。相手の強さを正確に計測した結果とも言えるのだ。耐えられない事実よりは嘘や沈黙の方がいい場合もあるのでは。
 しかし本作のような設定の場合、あれこれ画策するのは大抵女性の方な気がするのはなぜだろう。




『ウインドアイ』

ブライアン・エヴンソン著、柴田元幸訳
「彼」は子供の頃、自宅の窓のうち1つだけ、外側からはそこにあるのが見えているが、家の中からはどこにあるのかどうしてもわからないものがあると気付く。その窓に近づこうとした妹は姿を消したが、母親は「彼」に妹などいないと言う。妹の存在も窓の存在も、自分にはわかっているのに周囲からは否定されるという表題作を始め、軒並み不吉で禍々しい短篇集。表題作のように、自分の認識しているものを他人は認識していない、ないことにされるという恐怖がしばしば描かれる。また、自分の意識や体が何者かに乗っ取られていく、むしろ明け渡してしまった方が楽なのではという、自我も身体の輪郭もあやふやになっていくというパターンも度々現れる。人間の意識、感覚の曖昧さ、不確かさが一貫して描かれており、読んでいると自分の足元がゆらぐような気分になった。確たる自分などというものはなく、何か別のものと置き換えられても何も変わらない、自覚も起きないのではないかと。あからさまではないが、じわじわと嫌な感じがしのびよってくる。1編1編は短いのだが、よくこれだけトーンの揃った嫌な話を書くな!と感心する。

『有頂天家族 二代目の帰朝』

森見登美彦著
天狗の赤玉先生の跡継ぎである“二代目”がイギリスから帰国し、天狗の世界も狸の世界もざわつき始めた。赤玉先生と二代目とは犬猿の仲、かつ赤玉先生の愛弟子である弁天と二代目の間も険悪だった。赤玉先生のお世話係である狸の矢三郎は天狗同士の騒動をなんとかやりすごそうとするが、狸の世界でも覇権争いが起こっていた。
アニメ化に伴い読んでおくかと手に取ったが、1作目より更に読みやすい。基本的な設定が既にわかっているからというのもあるが、構成、文章の技術が上がっていると同時に、いい意味で入れ込み過ぎない(ように見える。実際はまあ大変だったんでしょうが・・・)スタイルに収まっている。スペクタクル的な見せ場が減っている(今回は前回ほど狸が化けない)と同時に、家族の情愛がよりするっと自然な形で表れているように思う。日和見な狸たちの騒動は愉快でおかしいが、血のしがらみや恨みつらみから逃れられない姿はどこかもの悲しくもある。矢三郎たち一家の「仇」にも、そこまでこじらせることなかったのに・・・という哀れさがあるのだ。それはともかく、二代目と弁天が出そろった所で、そもそもの元凶は赤玉先生じゃないのか?!という気がしてならない(笑)。

『失われた時を求めて 5 第三篇 ゲルマントのほうⅠ』

マルセル・プルースト著、高遠弘美訳
美しいゲルマント夫人に憧れる“私”は、散歩する夫人を待ち伏せ何とか一目見たいと願う。ゲルマント夫人の甥である友人サン=ルーを訪ねて“私”は兵営を訪ねる。サン=ルーは訪問を歓迎するが、“私”はゲルマント夫人に紹介してもらえないかと期待していた。
光文社古典新訳文庫版でちまちまと『失われた時を求めて』を読み進んでいる。いつになったら終わるんだとちょっと心配にはなるし一気に読みたい人には不便だろうが、新しい訳だとさすがに読みやすい。文章が古くなることで誤解していた部分も、修正されるというメリットもある。“私”とサン=ルーの会話は意外と気安く距離感も近く、これは結構ないちゃいちゃ感なのではないだろうか・・・。サン=ルーの恋人がちょっととんがった、擦れた(ように演出している)所のある女性だという雰囲気がよく出ており、“私”が微妙に見下している感じも伝わる。本篇の中心にあるのは、“私”のゲルマント夫人への片思い。片思いといってもゲルマント夫人は30歳以上年上でまともに相手にされそうもないのだが、ストーカーまがいの「出待ち」はするわ、サン=ルーに対して何でスムーズに紹介してくれないんだよ!と軽くイラつくわで、なかなかに10代っぽい(“私”は17歳の設定)。具体的な恋というよりも、あるイメージに対する強烈かつ一方的な憧れ、彼の人生における片思いの結晶化みたいなもので、「隣の女の子」的なアルベルチーヌ(第二篇で登場)への思いとはまた違う。第一、二篇よりも“私”の若々しさ、若さ故のあさはかさが際立つ。サン=ルーの若さや育ちの良さ故の微量の傲慢さのようなものも率直に描かれているが、“私”の中にもそれはあるのだ。

『宇宙ヴァンパイアー』

コリン・ウィルソン著、中村保男訳
 新潮文庫"村上・柴田翻訳堂”シリーズより。地球の宇宙船ヘルメス号により、難破した巨大な宇宙船が発見され、中に置いてあった美女の遺体が地球に持ち帰られた。しかしその生命体は、他の生命体のエネルギーを吸収する宇宙ヴァンパイアとでも言うべき存在だった。ヘルメス号の船長カールセンは、生命体が人間の体に憑りつき、さらにその体を乗り換えていると気づく。  コリン・ウィルソンといえば『アウトサイダー』くらいしか知らなかったが、こういう作品も書いていたのか。ただ本作、既出の"村上・柴田翻訳堂”シリーズの中では一番読むのがきつかった・・・。SFとしてはかなり古さを感じる。また、古さをカバーできるほど小説として上手くない(笑。しかし巻末に収録された村上春樹と柴田元幸の対談でも、上手い小説ではないって言われてたもんなぁ)。話の流れがとっちらかっている印象があるのと、宇宙ヴァインパイアの存在の仕方や行動原理が今一つ統一されていない、後から一気に解説される内容とちぐはぐになっているように思った。著者の興味は、そういう部分にはないんだろうな。多分、男女間でのエネルギーのやりとりとかそっちの方に力が入っているんだろうけど、そのへんも今となっては時代遅れっぽいのが辛い。カールソンたちが生命体への対策を考え出すあたりまで、相当努力して読み進めないとならなかった。本作のような形での人類に対する高次元の存在って、最近のSFではあまり見なくなった気がする(最近は高低というより存在の在り方を相対的に見せるものが多いのかなと)。

『うつくしい人』

西加奈子著
他人の目を気にし、空気を読みまくって生きることに疲れ果てた百合は、ちょっとしたことで勤務していた会社を辞め、発作的に離島のリゾートホテルを訪れる。そこで出会ったのは風変わりでデリカシーのないバーテン・坂崎と美形だがセクシャルな臭いのしないドイツ人・マティアスだった。そんなに凝った構成ではないし、小説としての読み応えもいまひとつなのだが、百合の周囲に対する気の回し方、過剰に周囲の動きを気にしてしまう感じの描き方は、こういう人なんだな、こういう人いるんだろうなという説得力がある。百合は、たとえ直接的に自分に関わることでなくても、周囲の人の気分を損ねたくないのだ。それは気がきくとか優しいとかではなく、極端な臆病さのようでもある。彼女のそういう態度には、「うつくしい」姉への反感とコンプレックスがあるのだが、姉のうつくしさとある種の鈍感さへの苛立ちも、ああそういうことってあるだろうなと思わせるもの。姉は自分の世界だけで生きているが、周囲からの見られ方ばかり気にしている百合には、自分の世界というものがおそらくないのだ。

『失われた時を求めて④ 第二篇「花咲く乙女たちのかげにⅡ』

マルセル・プルースト著、高遠弘美訳
避暑地バルベックを訪れた「私」は、貴族階級の人々や高名な画家と交流を深め、サン・ルー侯爵とは親友のような関係になる。とりわけ「私」の心をとらえたのは、避暑に訪れていた少女たち、特にアルベルチーヌという活発な少女だった。光文社古典新訳文庫版で読んでいるのだが、ようやく4冊目。全14巻だそうなのであと何年かかるんだろう・・・。今回は避暑地でのひと夏が舞台ということで、夏休みのような浮き立った気分に包まれている。予想外に青春小説ぽさを感じた。年長の才人や、にぎやかな少女たちへの憧れに彩られているのも、青春ぽさを強めている一因だろう。特に少女たちの描写は、最初は「少女たち」という群れとしての認識だったのが、徐々に個々の個性が見えてくるところが楽しい。「私」が勝手にこうであろう、と少女たちの姿を夢想していたところ、画家に紹介されて実際に顔を合わせる羽目になり焦るところなども、いかにも若くてユーモラスでもある。今回、これは青春の黒歴史だな!と笑ってしまう部分が多いのも意外だった。「私」は自分が見たいように他人や物事を見るところがあるが、段々見方が変わっていく。「私」がどんどん変化していく様がわかる、流れるようなパートでもあった。そこもまた青春ぽい。

『歌の翼に』

トマス・M・ディッシュ著、友枝康子訳
宗教と経済が支配し、食料・燃料危機が慢性化している、ある時代のアメリカ。歌うことによって肉体から魂を解き放つ“飛翔”という現象があることは知られていたが、宗教的な理由で多くの州では禁じられていた。少年ダニエルは飛翔したいという熱烈な願望に取りつかれていたが、ある策略により刑務所に入れられてしまう。辛酸をなめた刑務所暮らしの後、学校で知り合った富豪の娘ボウアと結婚するが、ボウアは飛翔したまま、魂の抜けた状態になってしまう。ダニエルは植物状態のボウアを連れニューヨークへ遁走、飛翔への思いを捨てられず歌手を目指す。かなり保守的、閉鎖的な、おそらく近未来を舞台とした物語。飛翔が禁止されているのは、飛翔が個人の精神、欲望を解放することに他ならないからだろう。歌うことが精神の解放とつながっているというのはイメージしやすいと思う。ダニエルは飛翔したいと願い、歌のレッスンに励むが、歌の才能はないと言われてしまう。社会からの規制と、自分の才能による規制との双方向から、ダニエルの夢への道は閉ざされてしまう。それでも飛翔したいと願い続けるダニエルは、飛翔という少年時代の夢と、ボウアの体を維持するという生活の間で徐々に引き裂かれていくようでもある。物語が大きく動くのは彼がニューヨークへ行ってからなのだが、そこに至るまでの分量が結構な長さで、ペース配分がちょっと奇妙。彼が自分がどういう人間か、自覚するまでにかかる時間を描きたかったのだと思う。明言はされないコード(それこそ「空気読め」って感じで)によって抑制された社会の息苦しさ、居心地の悪さも印象に残る。この不寛容さ、なんだか現代の日本と似ているなと。

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