3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『インヴィジブル・シティ』

ジュリア・ダール著、真崎義博訳
ブルックリンのスクラップ置き場で、全裸で髪をそり上げた女性の死体が見つかった。記者のレベッカは遺体が警察ではなく黒衣の男たちに引き渡され、検死もされていないらしいことに驚く。被害者は正統派ユダヤ教徒のコミュニティに所属するユダヤ教徒だった。レベッカは真相を探ろうとするが、閉鎖的なコミュニティの壁にぶつかる。
ユダヤ教徒のコミュニティの特異さや、その中で生きる女性たちの複雑な心情が描かれるものの、こういったコミュニティを全否定しているわけではない。外部からはわかりにくい安心感や支え合いの姿勢があることにも言及されている。とはいえ、女性にとっては生き方の選択肢が極端に少ない世界ではあるよな・・・。レベッカは記者としての気概で事件を追っているのはもちろんなのだが、実はもっとプライベートな理由がある。レベッカ自身がユダヤ系であり、ユダヤ教徒だった母親は彼女が幼い頃に家出をして以来音信不通なのだ。彼女の中では、死んだユダヤ人女性の背景を調べることが、自分の母親の背景を知ることに重ねられている。母親への愛憎をひきずりながら事件を追うレベッカの姿はどこか危うい。そんな彼女のルームメイトであるアイリスの、ほどよい距離感を保った寄り添い方が印象に残った。

『いとしのおじいちゃん映画 12人の萌える老俳優たち』

ナイトウミノワ著
映画の中に登場する素敵な、愛すべきおじいちゃん俳優12人をピックアップし、俳優としての仕事とその出演作を紹介するコラム集。各章の最後が、次の章へのおじいちゃんへのリレーのような締めになっているところがいい。こういうつなぎ方好きなんだよな。おじいちゃんと言っても、おじいちゃんなら誰でもいいわけではなく、まえがきできちんとおじいちゃん規定をしているのだが、これはなかなか納得できる。性を感じさせ過ぎない(全くないのではなく、ほのめかす程度)というのは重要だよな。おじいちゃんには素敵さと同時に安心感を感じたい。イアン・マッケランで始まりクリストファー・リーで締めるという、ですよね!な構成だが、個人的にはテレンス・スタンプがエントリーされているのに満足。あんまり主演作多くないからネタに乏しいのではないかと思っていたが、そんなことなかった。また、クリストファー・ウォーケンの癖、パーソナルスペースに関する言及にはなるほどなと。軽やかかつどこかとぼけたようなスタイルの語り口だが、取り上げられている作品の肝の部分については率直、かつ配慮のある言及がされていて、読み流させない良さがあった。

『イエスの幼子時代』

J・M・クッツェー著、鴻巣友季子訳
移民船に乗って、5歳くらいの男の子と港町にやってきた初老の男。2人に血縁はなく元々知り合いでもなかったが、男の子が母親とはぐれた為に、一緒に探すと約束をしたのだ。2人は新しい名前と住家を与えられ、新しい生活を始めるが、馴染めないことも多々あった。
作品の題名が題名なので男の子=イエスであり、聖書をモチーフにした作品らしいということはすぐにわかる。とは言え、そこをそれほど前面に出しているわけではないので、聖書の内容についてさほど知らなくても(私程度の知識でも)問題はない。むしろ、2人は難民であり、未知の文化圏に入っていかざるを得ない人が抱える問題を描いているようにも読める。男は自分が所属していた文化と、新しく参入した文化の間で引き裂かれていき、どちらにも上手く所属できない。彼の心は古い世界にいるのだが、新しい世界を経験すると、反感を持ちつつもそちらがいいような気もしてくるのだ。彼が感じる「正しさ」は簡単にふらつき、頼りがない。男があえて(特に男女の関係において)「古い」価値観の持ち主として描かれているのも、新しい環境、社会の在り方に上手く適応できない感じを強めていると思う(個人的には、こういう男性には反感しか感じないが・・・)。とは言え、新しい環境はどこかディストピア的でもある。管理社会的かと思ったら、それほど合理的に管理されているわけでもなく無駄も多そうというアンバランスさが気になった。
一方、男の子の言動はこの年齢の「子供」っぽい、理屈が通らない依怙地さのあるもの。翻訳も上手いのだろうが、子供の面倒くささってこういうやつだよなー!と強烈に感じさせる。男の右往左往に関係なく、子供は子供で新世界を見ているのだ。なお本作、続編も予定されているそうだ。

『生きて帰ってきた男 ある日本兵の戦争と戦後』

小熊英二著
1925年、北海道生まれの小熊謙二は、母親がすぐになくなった為、東京・高円寺の祖父の元で育った。貧しい生活の中、旧制中学を出て働きに出たものの、太平洋戦争が始まり1944年に出征。満州へ派兵され戦後はシベリアに抑留される。やっとのことで帰国しても仕事はなく、更に結核で数年入院。健康を取り戻し、ようやく仕事を始め、軌道に乗せていく。1人の帰国兵の人生を当人から聞き取りをし、それを通して日本の社会の変化を見つめる。著者の父親・謙二という1人の人の人生であると同時に、一般人、特に比較的社会の下層から見た日本社会の変容として、とても面白かった。謙二の話の内容がかなり詳細でよく聞き取れていることに加え、その話の内容の裏を取る作業、当時の文化、経済、政治の状況をの記述が理解する上でのいいサポートになっていて、読みやすい。いわゆる「普通の人」の体験談と言えるのだろうが(著者は周囲に「普通とは言いにくい(30代まで波乱万丈なことに加え、客観性が高く観察眼があり、記憶もしっかりしているので語り手としては優秀)」と言われたそうだが、語る当人の意識としてはおそらく「普通」なのだろう)、「普通の人」1人1人を見ていくとどれも独自性があって、「普通の人」とは種々様々な人たちの集団でしかないんだということを実感した。太平洋戦争下で戦況や政府の方針をどうとらえていたのか等、興味深かった。また、高度成長といっても実感のある「高度成長」の恩恵を受けていたのは中流以上の層だったのかな等、いわゆる歴史の教科書に書かれていることと現場とのギャップみたいなものもあって、そのへんのずれも面白い。

『生きるとは、自分の物語をつくること』

小川洋子・河合隼雄著
作家の小川洋子と、臨床心理学者の河合隼雄の対談集。小川の小説『博士の愛した数式』が映画化された際に河合が興味を持ち、推薦コメントを寄せたことがきっかけで対談が実現したそうだ。臨床心理学者である河合は当然、多くのカウンセリングをしてきたわけだが、カウンセリングを行うことと、小説を書く/読むことはちょっと似ているように思う。河合が言うところの「自分の物語をつくる」ということなのだろう。私は河合の著作が好きでわりと読んでいたのだが、この「自分の物語をつくる」と言う感覚は当時ぴんとこなかった。近年、ようやくわかってきた気がする。カウンセリングの上では、患者がカウンセラーに話すことで自分のことが腑に落ちていくんじゃないかと思うが、小説を読むのも、それと似た効果があるのではないか。おそらく、小説を書くこともそうなのだろう。なぜ人はフィクションを必要にするのかということの一端に触れた気がする。

『イザベルに ある曼荼羅』

アントニオ・タブッキ著、和田忠彦訳
「私」はかつての知人であるイザベルの行方を探す。彼女はポルトガルのサラザール独裁政権下で地下活動に関わり、姿を消した。彼女は逮捕されたとも自殺したとも噂されていた。9人の証言者の話から、イザベルの姿が浮かび上がっていく。著者最後の作品となるそうだ。不在の人物を「私」が追うという構造は、著者の初期の作品『インド夜想曲』を彷彿とさせる。相手を追ううちにだんだん円の中心に近づいていき、中心で霧散するような構造も似ている。イザベルに関する証言はまちまちで、彼女の姿がくっきり見えたかと思いきや、全く違う姿に見えたりもする。証言者の中に過去の亡霊が登場し始めるあたりから、世界のあり方はどんどん曖昧に、怪しくなってくる。そもそもイザベルとは本当に存在したのか?「私」の知っているイザベルと9人の証言者が知るイザベルは同一人物なのか?と読んでいるうちに読者ももやもやしてくるのではないか。しかし、そのもやもや、イザベルという存在の曖昧さこそが著者の狙いだろう。サブタイトルに曼荼羅とあるが、これは作中で言及されるように砂で描く曼荼羅のこと。砂の曼荼羅は完成すると同時に崩され、再び描き始められる。イザベルの姿もこれと同じなのだろう。何度も再生され、その度に違う姿を見せるのだ。 人の認識・記憶とはそういうものではないかと思う。1人の中の記憶は思い出すごとに少しずつ違い、同じ事柄についても見ている人によって違うものが見えているのだ。

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