3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『アウター・ダーク 外の闇』

コーマック・マッカーシー著、山口和彦訳
 社会から隔絶された僻地で暮らすキュラ・ホームとリンジーの兄妹。リンジーはキュラとの近親相姦により妊娠した子供を出産するが、キュラは赤ん坊を森の中に置き去りにし、リンジーには赤ん坊はすぐに死んだと告げる。しかしリンジーはキュラの嘘に気付き、赤ん坊を取り戻そうと放浪を始める。
 1968年に出版された著者の初期作品の初の邦訳になる。初期作品の『果樹園の守り手』、本作、『チャイルド・オブ・ゴッド』『サトゥリー』の4作を著者のテネシー時代の作品と呼ぶそうだ。本作の下敷きになっている著者自身の体験やキリスト教的寓意については巻末の訳者あとがき・解説に詳しく、読書の補助線になり助かった。特にキリスト教要素についてはなじみがない部分が多かったので、解説を先に読んでもよかったと思う。本作より前に書かれた『果樹園の守り手』は正直あまり冴えているとは思わなかったのだが、本作はマッカーシーの文体のスタイルが確立されつつあり、果てのない神話のように読者を引き回していくような印象を受ける。
 キュラとリンジーが町から町へさ迷っていく一方で、略奪者と思しき男たちが次々と行き合う人々を殺していく。キュラとリンジーともニアミスし緊張感が途切れない。巻き込まれる側・巻き込む側の違いはあれど、この先何か不吉なことが起きるだろうという不穏な空気が彼らの旅には付きまとっているのだ。特にリンジーは、彷徨う中で彼女に力を貸すように見える人もいるが、その人たちは必ず彼女に対価を求める、ないしはいきなり手のひらを返し破断になる。見るからに風来坊なキュラとはまた別の困難を抱えたまま歩んでいかなければならない。マッカーシーの作品は人間への期待が薄いというか、人間の業の部分、原罪的な部分を常に注視していることが本作の時点ではっきりしている。

アウター・ダーク―外の闇
コーマック・マッカーシー
春風社
2023-12-28


果樹園の守り手
コーマック・マッカーシー
春風社
2022-09-07


『哀れなるものたち』

アラスター・グレイ著、高橋和久訳
 19世紀末のグラスゴー。医学者のバクスターは身投げした女性の体にその女性の胎児の脳を移植して組成させるという驚異的な手術を成功させる。蘇生した女性・ベラは美しい容姿と無垢な心でバクスターの友人マッキャンドルスをはじめとする男性たちを惹きつける。マッキャンドルスのプロポーズを受け入れる一方でうさん臭い弁護士・ダンカンと駆け落ちをしたベルは世界を旅する中で急速に成長していく。
 本著はマッキャンドルスが記した手記を著者アラスター・グレイが発見し編集・発表したものという、重層的な構造になっている。グレイいわくマッキャンドルスは実在し彼の手記は事実に基づいている。作中には確かに実在した人物の名前も登場し、グレイによる膨大な注釈もマッキャンドルの手記のノンフィクション性を演出する。これが誰の語りなのかというラインを曖昧にしていくのだ。
 マッキャンドルスが記すのはベラという体は大人、精神は子供な女性が世界を見て成長・変化していく過程、いわば成長譚だ。まっさらな状態で世界と向き合うヴィクトリアは社会通念に染まっておらず、感情や欲望の発露も率直だ。強い自我を持ち社会的格差もジェンダーも踏み越えていくベラの行動は小気味良い。精神がまっさらな者から見たらこの社会のシステムは色々とおかしいということが、ベラの目を通して描かれていく。彼女はバクスターにより創造された存在だが、本作の下敷きになっている『フランケンシュタイン』のような悲しい創造物にはならない。バクスターも彼女を独立した存在として自分の元から手放すのだ。
 しかしマッキャンドルの手記の後に配置されたある人物の手記によって、上記のストーリーはひっくり返る。ひっくり返るというより「そうだけど、そうじゃない」と言った方がいいのか。ここでまた、誰が何の為に、誰に読ませたくて書いたのかという問題が浮かび上がる。題名の「哀れなるものたち」という言葉がこのひっくり返りによって更に際立ってくるのだ。本作、ヨルゴス・ランティモスにより映画化されて第80回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞しているが、この構造をどのように取り込んだのか(あるいは取り込まなかったのか)非常に気になる。

哀れなるものたち (ハヤカワepi文庫)
アラスター グレイ
早川書房
2023-09-26




『アウト・オブ・民藝』

軸原ヨウスケ・中村裕太著
 柳宗悦が「発見」したとも言える民藝。しかしそこから零れ落ちるもの、外れていった人たちがある。民藝運動の周縁にスポットをあて、様々な資料から読み解いた相関図を元に民藝運動の広がりと、何が民藝か否かをわけてきたのかという境目をさぐっていく。
 イベントを収録したような対談形式の著作なので、ある程度この分野を把握していないとわかりにくい部分もあるのだが、とても面白かった。私は柳の美的感覚により提唱された「民藝」に魅力を感じ好きではあるのだが、柳の美的感覚に依って選別されることで元々の地域性から一旦切り離されてしまったものではないか、部外者が新たな価値を付加することで本来の製作者から横取りしているような側面があるのではないかと気になっていた。そういうもやもやを感じていたのは後世の私たちだけではなく、比較的同時代の中でもそういった視点・批判があったことが本著でわかる。結構辛辣な批判もあって面白いし、研究者やコレクター其々が「民藝」「民芸」の何に惹かれ、自分の中でどういう位置づけにしていくのかという所も興味深かった。初めて知る人物や知っている人物等多数登場しており、あっこの人知っている!という楽しさも。今年は西村伊作とその家族については展示を見たばかりだったし、光源社にも久しぶりに行ったので、自分の体験と重なってちょっとうれしかった。なおカバー裏の人物相関図は本気の労作なので必見。


アウト・オブ・民藝 改訂版
裕太, 中村
誠光社
2019-12-15


『アロエ』

キャサリン・マンスフィールド著、宗洋訳
 ニュージーランドに暮らす幼い姉妹のロッティとケザイア、その母親リンダ、リンダの母親であるフェアフィールド夫人。3世代の女性を中心にある一家の日常を描く。
 本著はマンスフィールドの名作と言われる『プレリュード』のロングバージョンだが、生前には出版されなかった。マンスフィールドの死後に夫のジョン・ミドルトン・マリーの編集によって出版され、原稿に残されていたメモの内容もそのまま組み込まれている。アメリカ版のクノップ版、イギリス版のコンスタブル版の2パターンがありレイアウトとページ数が少々違うそうだが、本著はアメリカ版からの翻訳。マンスフィールド本人としては未完成作、他作品の素材となる習作という認識だったのだろう。彼女は自身の原稿の多くを破棄していたそうだが、このレベルのものがばんばん破棄されていたかと思うと勿体ない…。そのくらいの完成度でマリーが出版を決めたというのも納得。
 特別な事件が起きるわけではなく、一家の生活が繊細に緻密に描かれる。特に子供たちの描写が素晴らしい。自分がこういう子供時代を過ごしたと錯覚しそうなくらいだ。母親と別行動になった時の強烈な不安や親の関心を切望する様、また何かに集中していたと思ったらふいに気がそれていくという脈絡のわからなさ等、子供ってこういう生き物だった!という説得力が強烈だった。一方で、その子どもたちの母親であるリンダ、その妹ベリルの大人だがどこか成熟しきらない、与えられた役割に甘んじない、ないしは拒絶するような振る舞いもかなり現代的に思えた。特にベリルのちょっと芝居がかっている所や一見奔放な振る舞い方は、一家の中で今一つ居場所がないことやリンダに対するコンプレックスから自衛する為のものに見え、時に痛々しく刺さる。
 とにかく文章が非常に美しく、未完成な所が逆に魅力になっている、もっとこの先を読みたいと思わせる作品。

アロエ
キャサリン・マンスフィールド
春風社
2023-09-01




『アオサギの娘』

ヴァージニア・ハートマン著、国弘喜美代訳
 スミソニアン博物館で鳥類画家の仕事をしているロニは、休暇を取ってフロリダの実家に戻ってきた。母親の認知症が進んで施設に入らざるを得なくなったのだ。弟夫婦は実家は借家にするという。複雑な思いで実家を片付けるロニだが、「ボイドの死についてあなたに話しておかなくてはいけないことがあります」という手紙を見つけた。野生動物保護管理官だった父ボイドは25年前に沼で溺死したのだ。ロニは父の死の真相を調べ始める。
 フロリダを舞台にした小説や映画をいくつか見たことがあるが、沼地地帯の描写のイメージが強い。本作も沼地の地形や、そこに生息する鳥たちの描写が生き生きとしていて美しい。ロニは沼地と鳥や魚に馴染んで成長した。それらの知識を教えたのがロイドだったのだ。ロニにとってロイドは最愛の父親だが、その失踪と死が彼女の傷となり故郷から遠ざけていた。さらにある事件が彼女と母親の間に深い溝を作っていることが徐々にわかってくる。ロニはいわゆる田舎の社会に嫌気がさして上京したというわけではなく、故郷の沼地に深い愛着を持っているが、同時に忌避しているのだ。旧友が彼女をフロリダに留めようとする様はともすると大きなお世話に見えるが、ロニが生き生きとしていられるのは本来はこの沼地なのだとわかってのことだろう(それにしても差し出がましいなと思わなくもないのだが)。
 実家の片づけにしろ博物館とのやりとりにしろ、ロニが妙にぐずぐずしていて若干いらっとするのだが、この物事が進展してしまうと知りたくなかったことを知ってしまうかもしれない、家族との関係も故郷との関係も後戻りできない地点に到着してしまうかもしれないと恐れているようにも思った。嫌なことは先延ばしにするタイプ。気持ちはわからなくもない。

アオサギの娘 (ハヤカワ・ミステリ)
ヴァージニア・ハートマン
早川書房
2023-05-09


My Picture Book 世界の鳥
マット・メリット
青幻舎
2018-12-12



『歩くこと、または飼いならされずに詩的な人生を生きる術』

トマス・エスペダル著、枇谷玲子訳
 作家である著者は徒歩で旅をし、歩く中で思索にふける。なぜ電車や自動車、飛行機ではなくわざわざ歩いて旅をするのか。歩くことと考えること、書くことの関連性、そして歩くことと関連の深かった作家、哲学者の紹介を綴る1冊。
 著者はノルウェーを代表する作家だそうだが、歩くこととの関連の深さはノルウェーという土地で生活していることと関連が深いように思う。さすがに冬場の徒歩旅行は無理だろうが、歩いていて心地よい、歩き甲斐のある環境が近郊に多いかどうかという点が、考え方に影響している側面はあるのでは。といっても、著者の徒歩旅行はどうにも危なっかしく、いわゆるアウトドアを趣味にしている人の歩き方とは思えない。そんな装備で大丈夫?!油断しすぎじゃない?!とハラハラさせられた。著者の徒歩旅行はアクティビティとしての徒歩旅行というよりも歩くことのイメージ先行というか、歩くことによって頭の中で発生する諸々の方が重要視されているように思う。時に少々ナルシスティックな文章になるのもそれ故か。とは言え様々な文学、アートが紹介されていく流れは楽しい。あまり屋外と関係なさそうなジャコメッティが登場するあたりは意外だったが、旅することで様々な土地を訪れ、その土地との関連でトピックが引き出されていく。そのともすると唐突な所も本作の面白さでは。

歩くこと、または飼いならされずに詩的な人生を生きる術
トマス・エスペダル
河出書房新社
2023-02-27


ウォークス 歩くことの精神史
レベッカ・ソルニット
左右社
2020-06-05


『悪魔はいつもそこに』

ドナルド・レイ・ポロック著、熊谷千寿訳
 オハイオ州南部の田舎町に育ったアーヴィン。母親は若くして病に倒れ、父親は母親を救おうと狂信的な儀式にふけるようになり、アーヴィンにもそれを強制した。しかし母親は亡くなり、その後を追うように父は自殺。アーヴィンは祖母に引き取られ、義妹レノラと共に生活するようになる。一方、ヘンダーソン夫妻はヒッチハイカーの若者を標的とした連続殺人に耽っていた。
 アーヴィンはいわゆる宗教二世とも言えるのだろうが、父親の信仰が独特すぎる。愛に根差す狂信のエネルギーがありすぎるのだ。父親の狂信的な生き方は妻と子供を守らなくてはという動機に根差しており、それはアーヴィンにも影響を与えていく。そのアーヴィンの家族を巡る忌まわしい記憶と、ヘンダーソン夫妻の殺人旅行、更に悪徳警官や欲望にまみれた新任牧師等、複数の全く関係なさそうなエピソードが繋がっていく。この繋げ方もすごく技巧的というわけではなく、結構力業だ。彼らの共通項は何らかの悪、正に「悪魔がいつもそこに」いるような人たちだという所だろう。ではどの悪魔が一番強いのかという話になっていくのだが、その繋がり方、繋がった後の転がり方がすさまじい。救いとか良心みたいなものがほぼないのだ。かといっていわゆる「悪人」ともカテゴライズしにくい。邪悪だがそもそもそういう存在であり悪「人」という人間味はあまり感じられないと言えばいいのか。人の道から外れるというのはこういうことかという空恐ろしさがある。

悪魔はいつもそこに (新潮文庫 ホ 24-1)
ドナルド・レイ・ポロック
新潮社
2023-04-26


ポップ1280(新装版) (海外文庫)
ジム・トンプスン
扶桑社
2019-08-02




『哀惜』

アン・クリーヴス著、高山真由美訳
 バーンスタブル署のマシュー・ヴェン警部は、ノース・デヴォンの海岸で男性の他殺死体が発見された事件を担当することになった。被害者は最近町へやってきたサイモン・アンドルー・ウォールデンと判明。彼はアルコール依存症を抱えていたが、新しい環境でやり直そうとしていたらしい。親しい友人も家族もいなかったらしい彼を誰が殺したのか。
 イギリス南西部の海沿いの町が舞台なのだが、風景の描写が美しくまずそこに惹かれる。マシューの家は海沿いで大水になったら浸水やむなしなロケーションなのだが、そのリスクを負ってもこの風景は得難いというほどなのだ。しかし美しい風景がある一方で、小さな町の人間関係は濃密で利害関係も複雑。マシューは地元出身だが実家とは絶縁状態に近く、夫は地域の複合施設の運営者という背景があり、彼個人と土地の距離感の取り方も難しい。生活しているだけでしがらみが積み重なっていき、気付いた時にはそこから逃れられない。外から来たサイモンにはその重さやままならなさは実感できなかったのかもしれない。風景の風通しはいいのに地域社会の風通しは悪いのだ。マシューの部下・ロスは上昇志向が強くいけすかない人という印象だったのだが、終盤で漏らす一言に、彼もまたしがらみの中でそういう振る舞いをしていたのかとはっとさせられ、彼に対する見方が変わった。
 ロスやマシューだけではなく、個々の登場人物がどういう人なのかという見せ方がとても上手い。人の描き方が一面的ではなく、1人の人について様々な側面が見えてきて、読んでいるうちに印象が変わってくる。そして人々が隠している部分、口にしない部分が事件の鍵になってくる。更に被害者であるサイモンの印象は人によって全く異なる。人間の多面性が作品の一つのモチーフになっている。

哀惜 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
アン クリーヴス
早川書房
2023-03-23


空の幻像 (創元推理文庫)
アン・クリーヴス
東京創元社
2018-05-31


『雨に打たれて』

アンネマリー・シュヴァルツェンバッハ著、酒寄進一訳
 舩旅の途中、パレスチナのヤッフェを観光することになったビリーと船長。船長はビリーに色々と語り掛けるが彼女はそっけない(「約束の地」)。列車の車中で私たちは1人のユダヤ人少年に出会う。彼はパレスチナへ行こうとしていた(「移民」)。発掘調査中の私たちは荒野で地形調査をしている若い少尉を訪ねる。彼はマラリア熱で苦しんでいた(「雨に打たれて」)。ヨーロッパから中近東へ旅する人の視点で描かれる短編小説集。
 同一とみられる登場人物が繰り返し出てくるので、連絡短篇集という趣が強い。数人のグループで遺跡の発掘に従事しており、中東地域の発掘現場を渡り歩いている。しかし本作ではオリエンタリズム、エキゾチズム的なものはあまり感じられない。現地をそういう視線で見ているという描写があっても、そこに対する批判的な見方が差し込まれているように思った。その土地、文化に愛着はあっても自分たちは所詮よそ者でありそこに根差す、責任を持つことはできないという諦念があるように思う。かといって彼らが故郷に居場所があるかというと、それもまた微妙だ。逆に、どこにいてもよそ者の根無し草的な人たちだからこういう生活が出来るのか。
 かなりインパクトの強い女性が登場する所が印象に残った。「ベニ・ナイザブ」に登場するマダムの欲望への忠実さと性懲りのなさは憎めない。また「女ひとり」に登場するカトリーンはともすると情がないようにも見える時に気難しい人だが、それもまた彼女の強さだ。彼女らを身勝手と非難する気にはあまりならない。

雨に打たれて
アンネマリー・シュヴァルツェンバッハ
書肆侃侃房
2022-09-30



移動祝祭日(新潮文庫)
ヘミングウェイ
新潮社
2016-04-22


『アイダホ』

エミリー・ラスコヴィッチ著、小竹由美子訳
 アイダホ山中に暮らす音楽教師のアン。歳が離れた夫のウエイドは若年性認知症を発症しており、奇妙な行動が増えてきた。彼にはかつて前妻ジェーンと長女ジューン、二女メイがいたが、彼女たちはもういない。ジェーンがメイを殺害し、ジューンは行方不明になったのだ。ウエイドの症状は進行する一方で、時に娘がいたこともわからなくなっていく。
 ジェーンが何をしたのか、ジューンとメイに何があったのかは、本作を読んでいくうちに徐々にわかってくる構成。本のあらすじの部分で事件のあらましが明記されているのは、慎重に構成されていることがわかるだけに(事前に知っていても作品の良さが損なわれるわけではないのだが)少々勿体ないようにも思った。それともショッキングな内容が含まれる場合は事前にわかっていた方がいいのかな。
 アン、ウエイド、ジューンとメイ、そしてジェーンや彼らが関わった人たちの記憶が、1970年代から2000年代まで長いスパンで少しずつ集積され、繋がっていく。その中で、彼らがどのように出会い、何を思い、そして何が起きてその後どうなったのかという全体像が見えてくる。物事を大きく変えてしまった事件は、その時間の重なりの中のほんの一瞬なのだ。彼らの人生の流れは見えてくるが、その事件がなぜ起きたのか、そこに至る心的な要因はあったのか、その瞬間ジェーンは何を思ったのかという部分は明言されない。これは説明し得ない、安易に理由をつけてはいけないものだという著者の指針が感じられる。
 ジェーンが起こした事件も、ウエイドを襲う病も、またある少年の身に起きた事故も、理不尽で理解しがたい悲劇と言える。そういった理不尽さが物語の底辺にあるのだが、その上でなお人の営みや世界の美しさがあることが痛切に伝わってくる。特に、収監されたジェーンと同房のエリザベスとの間に友情が生まれていく様には心打たれた。ジェーン側だけでなくエリザベス視点の記述が先行して配置されていることで、彼女らの関係やジェーンがどのような状態にあったのかということがよくわかってくるのだ。彼女らがお互いにかけがえのない存在(たとえ出獄後に会うことがなくても)になっていく、このような状況にあってもかけがえのない存在が生まれ得るという所に希望がある。

アイダホ (エクス・リブリス)
エミリー・ラスコヴィッチ
白水社
2022-07-30


ピアノ・レッスン (新潮クレスト・ブックス)
マンロー,アリス
新潮社
2018-11-30


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