3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

本題名あ行

『円周率の日に先生は死んだ』

ヘザー・ヤング著、不二叔子訳
 田舎町の森の中で、3月14日、円周率の日に数学教師アダムの焼死体が発見された。第一発見者は彼の生徒で11歳のサル。サルは死体は登校時に偶然見つけたと言うが、救急救命士のジェイクはサルがリュックサックを持っていなかったことに疑問を抱く。一方社会科教師のノラも、大学教授だったアダムが辺鄙な町にやってきたこと、そしてサルの振る舞いに疑念を持つ。
 アダムの死後、ノラ視点を中心として事件の解明が進む現在パートと、アダムが死ぬまでを描くサル視点のパート、2つの時間軸がランダムに入り混じりながら物語が進む。その為読んでいる若干時系列理解が混乱しそうになるが、事件の日に一刻一刻と近づいていく緊張感が高まっていく。
 また現在パート中でも登場人物たちはしばしば過去を回想する。本作に登場する人たちの多くは過去に囚われているのだ。サルは事件の半年前に母親を亡くし、以来孤独な毎日を過ごしていた。更に母親の死をもたらしたものに気付き始めてしまう。サルの孤独がアダムとの距離を縮め、彼を第一発見者にしてしまった。一方ノラは兄の死にずっと負い目を感じている。ノラの父親もまた、息子の死から立ち直れずその姿がまたノラを苦しめ続けているのだ。そしてアダムにもある過去があった。過去にからめとられて動けず、更にそれぞれの過去がお互いを結び付けてある地点まで追いやってしまう。一見、偏狭な村社会を背景とした「田舎の事件」ぽい設定なのだが、方向性は大分違った。
 サルは自分の頭の中で物語を空想するのが好きな少年だ。アダムは彼を観察者としての才能があると言う。観察して自身の解釈によりそれを再構築する。ただその行為は、それを語る人・読む人にとって耳触りのいいもの、真実を隠蔽するものにもなりかねない。サルが、そして周囲の人たちがそれぞれの物語とどう向き合っていくのかという部分も、本作の一つのテーマになっていると思う。


エヴァンズ家の娘 (ハヤカワ・ミステリ)
ヘザー ヤング
早川書房
2018-03-15


『哀惜』

アン・クリーヴス著、高山真由美訳
 バーンスタブル署のマシュー・ヴェン警部は、ノース・デヴォンの海岸で男性の他殺死体が発見された事件を担当することになった。被害者は最近町へやってきたサイモン・アンドルー・ウォールデンと判明。彼はアルコール依存症を抱えていたが、新しい環境でやり直そうとしていたらしい。親しい友人も家族もいなかったらしい彼を誰が殺したのか。
 イギリス南西部の海沿いの町が舞台なのだが、風景の描写が美しくまずそこに惹かれる。マシューの家は海沿いで大水になったら浸水やむなしなロケーションなのだが、そのリスクを負ってもこの風景は得難いというほどなのだ。しかし美しい風景がある一方で、小さな町の人間関係は濃密で利害関係も複雑。マシューは地元出身だが実家とは絶縁状態に近く、夫は地域の複合施設の運営者という背景があり、彼個人と土地の距離感の取り方も難しい。生活しているだけでしがらみが積み重なっていき、気付いた時にはそこから逃れられない。外から来たサイモンにはその重さやままならなさは実感できなかったのかもしれない。風景の風通しはいいのに地域社会の風通しは悪いのだ。マシューの部下・ロスは上昇志向が強くいけすかない人という印象だったのだが、終盤で漏らす一言に、彼もまたしがらみの中でそういう振る舞いをしていたのかとはっとさせられ、彼に対する見方が変わった。
 ロスやマシューだけではなく、個々の登場人物がどういう人なのかという見せ方がとても上手い。人の描き方が一面的ではなく、1人の人について様々な側面が見えてきて、読んでいるうちに印象が変わってくる。そして人々が隠している部分、口にしない部分が事件の鍵になってくる。更に被害者であるサイモンの印象は人によって全く異なる。人間の多面性が作品の一つのモチーフになっている。

哀惜 (ハヤカワ・ミステリ文庫)
アン クリーヴス
早川書房
2023-03-23


空の幻像 (創元推理文庫)
アン・クリーヴス
東京創元社
2018-05-31


『終わらない週末』

ルマーン・アラム著、高山真由美訳
 40代の夫婦、アマンダとグレイは2人の子供と一緒に、ニューヨーク郊外に借りた別荘で1週間の休暇を楽しむ予定だった。しかし真夜中、別荘の持ち主だという老夫婦がドアをたたく。ニューヨークが大停電に見舞われたので、出先から別荘へやってきたというのだ。インターネットもテレビも電話も繋がりなくなり、時折正体不明の轟音が響くようになる中、6人は状況を探り始めるが。
 アマンダの仕事のプレッシャーやグレイの気がいいがともすれば無責任な態度、また子供たちのいかにもティーンエイジャー的な自己中心さなど、一家が車で移動している序盤から不穏だ。不穏といっても具体的に非日常的な危機が襲ってくるわけではなく、どこの家庭でもありそうな細かい揉め事や不愉快さによる不穏さだ。ただ、別荘での生活が始まり、老夫婦が訪ねてくるにつれ、その不穏さが今まで体感したことのなに不穏さに変っていく。何が起きているのかわからないというところから、疑心暗鬼に陥り全員行動がおかしくなっていくのだ。それまで上手く(でもないか)隠していたずるさや弱さ、人種的偏見等、欺瞞が露呈してしまう。そしてそういう状況になっても生活は続いてしまう。その壊れていく様と終わらない様が並列してしまうという所が怖い。
 人間の卑小さの表現が凄くうまいのだが、逆に言うと、まあこうなるよなというシチュエーション、言わずもがなのことしか起きないので、ディティールが細かいという以上の面白さはあまり感じなかった。Netflixでの映画化が決まっているそうだが、映画ではかなりストーリー改変されるのでは。面白い小説というより上手い小説という印象。

終わらない週末
ルマーン アラム
早川書房
2022-08-17


渚にて 人類最後の日 (創元SF文庫)
ネヴィル シュート
東京創元社
2012-10-25








『円 劉慈欣短篇集』

劉慈欣著、大森望・泊功・齊藤正高訳
 不老不死の秘密を求める秦の始皇帝に10万桁まで円周率を算出しろと命じられ、荊軻は300万の兵による人列計算機を考案する(『円』)。表題作をはじめ、鯨による密輸の試みの顛末を描く『鯨歌』、貧しい村で教育に人生をささげた教師の最後の授業が驚きの結果をもたらす『郷村教師』、シャボン玉に魅せられた少女が画期的な発明にたどり着く『円円のシャボン玉』等、13篇を収録。
 SFの面白さのひとつは、今読者が生きている場に足を置きつつ、すごく遠くへ飛ばしてくれるところにあると思う。著者の作品の多くはそういう面白さ、驚きを持っている。特に表題作のスケールは笑ってしまうくらい(実際ある程度笑わせようとしていると思うのだが)。確かに仕組みとしてはそうかもしれないけどわざわざこれ言語化します?!突き抜け方が気持ちいい。それでいて最後には寂寥感を残す。小説としてのバランスは収録作中で一番では。近くと遠くが一気に繋がるという点では『郷村教師』もなかなかなのだが、ともすると狙いすぎになるところを堂々とやるので逆にあまり気にならない。体温が低そうな部分とエモーショナルな部分でのベタさに照れがない部分の兼ね合いが面白い。
 いかにも「中華SF」的な作品がある一方で、典型的な(ロケーションの匿名性が高い)SFぽい『繊維』は今や大流行りのマルチバースものだし、ユーゴスラビア紛争を背景にした『カオスの蝶』のような作品も。これは実際の出来事を読者側は知っているが故の後味の悪さがある。またオリンピックがはらむナショナリズム、スポーツの熱狂の功罪を織り込んだ『栄光と夢』は、架空の国が舞台ではあるが実際にこういうことがありそうな怖さがあった。

円 劉慈欣短篇集 (ハヤカワ文庫SF)
劉 慈欣
早川書房
2023-03-07


老神介護 (角川書店単行本)
古市 雅子
KADOKAWA
2022-09-07




『絵葉書のように』

武田百合子著、武田花編
 著者の単行本未収録エッセイ集『あの頃』から50編を収録した作品集。夫・武田泰淳をはじめ亡くなった親しい人たちの思い出や、日々の暮らしの中で変わっていく風景、一方で日々の食事等の変わらない物事等を率直に写し取る。
 著者はかつては「武田泰淳の妻」的言われ方だったのだろうが、今や著者の作品の方が広く読まれている、経年に耐えているような印象がある。著者の文はあまり飾り気がなく率直で、「うまいこと言ってやった」みたいな小細工や「置きに来た」感が希薄だ。本著の編集をした娘である武田花によると、著者は文章を本にまとめる時には必ず細かく手を入れていたというから、無造作とは真逆の文章と言えるだろう。しかし読んでいると無造作に感じられる。無造作に感じられるくらいに正確に、正直に記そうとしたということだろう。だから経年しても色あせないのかもしれない。
 『富士日記』に連なるような日常を写し取ったエッセイも良いのだが、泰淳やその友人らの姿の陰影が深い。彼らの言動の切り取り方が、その人の芯の部分をくりぬくようなとても的確なものに思える。泰淳が病に倒れてからの友人たちの思いやりの深さ、また泰淳の友人に対する思慕には、人はこういう風に友人を思えるのかと胸を突かれた。こういう情の深さは自分にはない(時代的なものもあるのかもしれないが)のではないか。特に埴谷雄高が泰淳がガンであると知らされたときの反応は深く印象に残った。著者の文章が率直で装飾がない為、より悲しみが際立つ。

絵葉書のように (中公文庫 た 15-13)
武田 百合子
中央公論新社
2023-03-23


武田百合子対談集 (単行本)
武田 百合子
中央公論新社
2019-11-19




『絵本のなかへ帰る』

髙村志保著
 茅野市で父親から受け継いだ「今井書店」を営む著者が、幼いころから親しんだ作品、本を売るという商売に携わるようになってから巡り合った作品の思い出を綴る。大人の視線と子供の視線が交錯する31冊の本にまつわるエッセイ集。
 著者の書店の販路は保育園や幼稚園の占める割合が多く、本著内にも保育士や保護者らが登場する。まさに絵本を読む現場の声だろう。今の日本で子供を育てる、保育という仕事、そして子供の本を売るという仕事に従事することの困難さ(もちろん喜びも多々あるのだろうが)が垣間見られた。そして著者自身も親として息子との関係に葛藤する。息子とのエピソードは関係性のしんどさが窺えた。親子といってもやはり他人で、すごく近い存在なのにわからないという所が全くの他人に対するわからなさよりもしんどいのだろう。著者と息子とである絵本の解釈が違うというエピソードがあるのだが、親子で価値観が大分違うと、その違いを受け入れるまでの葛藤が結構ありそうだ。情の深い人ほど苦しいのではないだろうか。そういった苦しさや葛藤をそっと支えてくれるのも絵本だったのだろう。
 読み聞かせに関するエピソードが多いのも本著の特徴。著者自身が書店経営の傍らで読み聞かせ活動を続けている(中学校での読み聞かせもしている様子なのにはびっくりした)。また著者自身が父親から読み聞かせをしてもらっており、その体験が深く染みついているということがわかる。絵本の語りは父親の語りで、著者と父親とが2人で読んでいるようだった。私もたくさん読み聞かせをしてもらったがこういう感覚はなかった(誰かとの思い出という形での本の記憶はない)ので、読書体験というのは本当に人それぞれだと新鮮に感じた。父親への思いの深さも感じる、ある意味父親の思い出に捧げられたような作品でもある。

絵本のなかへ帰る 完全版
髙村志保
夏葉社
2022-12-25


子どもと本 (岩波新書)
松岡 享子
岩波書店
2015-02-21


『夜明け前、山の影で エベレストに挑んだシスターフッドの物語』

シルヴィア・ヴァスケス=ラヴァド著、多賀谷正子訳
 性暴力サバイバーである著者は、同じような体験をした女性たちと共にエベレストへの旅を企画する。更に、仲間たちの思いを託され単身でエベレスト登頂に挑む。世界七大陸最高峰の登頂した登山家であり、性暴力被害者の回復支援NPO<カレイジャス・ガールズ>主催者である著者が、自身の半生と登山を振り返るノンフィクション。
 エベレストへの登山の行程と、登山に目覚めるまでの著者の過去が交互に語られる。登山は基本的に男性の世界で女性登山家はまだ少なく、更にエベレスト級の山に登る為の高度な装備は、まだまだ男性サイズが中心らしい。このあたりは意外だった。共に山頂へ登るチームも男性ばかりだが、登山家同士とは言え女性への偏見がないとは言えないし、ハラスメントに遭った人の話も挿入される。それでも著者が山に登るのはなぜなのか、過去の回想から段々背景が見えてくる。山は厳しいがすべて受け入れてくれる(油断するとすべて奪われるが)という著者の気持ちが伝わってくるのだ。著者にとって必要だったのは自分がそのまま受け入れられている、存在を許されていると感じることだった。
 登山の過程も相当過酷なのだが(屈強な人でも予期せぬ不調でリタイアを余儀なくされる世界なのだとよくわかる)、登山の世界に入るまでの著者の人生がこれまた過酷。著者は子供の頃に身近な大人からの性暴力被害を受け続けており、それがトラウマとなって成人してからも自暴自棄な行為を繰り返す。性加害描写がかなり具体的なので、読んでいて苦しくなる読者もいるかもしれない。加害を受けることで自己肯定感が削がれ、そこから回復するにはとても時間がかかるということがよくわかった。特に著者の場合は家族をはじめ周囲からの助けがあまり得られない状態、かつ周囲の期待に応えようとすることで自分を追い詰めてしまう。大人になってからもお酒に溺れたり、体を壊すまで働いたり、また特定のパートナーとの安定した関係を築くことが困難だったりと、人生が相当「詰んだ」状態になってしまうのだ。心身共に揺れが大きくヘロヘロになっていく著者の姿が痛々しい。更に著者はオープンリー・レズビアンなのだが、故郷のペルーでは同性愛はまだまだ忌避されており、両親は最後まで彼女のセクシャリティを認めることはなかった(父親は性暴力被害のことも知らないままだった)。自分が受け入れられている、今の自分で大丈夫だと肯定される体験が希薄なまま人生が進んでいくのだ。当時の著者は人生はそういうものだと思っていたろうが、これはかなりきつい。
 そんな状況を打開する糸口となるのが登山だったのだ。啓示を受けたようにいきなり登山を始めるというのがユニークなのだが、人生の転機とはそういうものかもしれない。著者は世界七大陸最高峰登頂に成功する。それは特別なことではあるが、彼女のサバイバーとしての回復は特別なものではなく、適切な理解と支えがあれば回復し得るものだと感じさせる。著者もそう信じて<カレイジャス・ガールズ>と山に登るのだろう。

夜明けまえ、山の影で エベレストに挑んだシスターフッドの物語
シルヴィア・ヴァスケス=ラヴァド
双葉社
2022-11-17


『雨に打たれて』

アンネマリー・シュヴァルツェンバッハ著、酒寄進一訳
 舩旅の途中、パレスチナのヤッフェを観光することになったビリーと船長。船長はビリーに色々と語り掛けるが彼女はそっけない(「約束の地」)。列車の車中で私たちは1人のユダヤ人少年に出会う。彼はパレスチナへ行こうとしていた(「移民」)。発掘調査中の私たちは荒野で地形調査をしている若い少尉を訪ねる。彼はマラリア熱で苦しんでいた(「雨に打たれて」)。ヨーロッパから中近東へ旅する人の視点で描かれる短編小説集。
 同一とみられる登場人物が繰り返し出てくるので、連絡短篇集という趣が強い。数人のグループで遺跡の発掘に従事しており、中東地域の発掘現場を渡り歩いている。しかし本作ではオリエンタリズム、エキゾチズム的なものはあまり感じられない。現地をそういう視線で見ているという描写があっても、そこに対する批判的な見方が差し込まれているように思った。その土地、文化に愛着はあっても自分たちは所詮よそ者でありそこに根差す、責任を持つことはできないという諦念があるように思う。かといって彼らが故郷に居場所があるかというと、それもまた微妙だ。逆に、どこにいてもよそ者の根無し草的な人たちだからこういう生活が出来るのか。
 かなりインパクトの強い女性が登場する所が印象に残った。「ベニ・ナイザブ」に登場するマダムの欲望への忠実さと性懲りのなさは憎めない。また「女ひとり」に登場するカトリーンはともすると情がないようにも見える時に気難しい人だが、それもまた彼女の強さだ。彼女らを身勝手と非難する気にはあまりならない。

雨に打たれて
アンネマリー・シュヴァルツェンバッハ
書肆侃侃房
2022-09-30



移動祝祭日(新潮文庫)
ヘミングウェイ
新潮社
2016-04-22


『英国屋敷の二通の遺書』

R・V・ラーム著、法村里絵訳
 植民地時代に英国人が建築したグレイブルック荘は、代々の主が非業の死を遂げていることで知られていた。元警察官で数々の事件を解決してきたハリス・アスレヤはグレイブルック荘の現主人・バスカーに雇われた。バスカーは何者かに命を狙われ、自分が自然死を遂げた時用と不審死を遂げた時用、2通の遺言書を作成。そして不審死の際はアスレヤに犯人を突き止めてほしいと考えたのだ。
 インドを舞台にしたミステリだが、英国の古典ミステリを思わせるような趣。周囲から孤立したお屋敷、そこに住む富豪と訳ありの親族や少々不審な周囲の人々、そして名探偵。かなりレトロな雰囲気で、携帯電話が出てくるまで現代の話だと気付かなかったくらいだ。謎解きも非常にオーソドックス。少々要素を盛りすぎ、また種明かしが終盤に寄りすぎなきらいはあるのだが、ある物がなぜそこにあったのか、という部分の仕掛けが犯行目的のミスリードにもつながっており、なるほど!と思わせる。
 古典的ミステリとしてクリスティが好きな人にはお勧め。ただ、クリスティがインドが舞台の話を書いた時にはエキゾチズム混じりで舞台が描かれるが、本作の場合著者はインド出身で、土地に対する過剰なロマンシズムは希薄。「現地」としての感覚で描かれているように思う。
 なお一か所、物理的にどういう状況なのかイメージしにくくて困惑した部分があった。原文がわかりにくいのか翻訳がわかりにくいのか…。門を持ち上げるってどういうこと?

英国屋敷の二通の遺書 (創元推理文庫 M ラ 12-1)
R・V・ラーム
東京創元社
2022-03-19


もの言えぬ証人 (クリスティー文庫)
加島 祥造
早川書房
2012-08-01




『アイダホ』

エミリー・ラスコヴィッチ著、小竹由美子訳
 アイダホ山中に暮らす音楽教師のアン。歳が離れた夫のウエイドは若年性認知症を発症しており、奇妙な行動が増えてきた。彼にはかつて前妻ジェーンと長女ジューン、二女メイがいたが、彼女たちはもういない。ジェーンがメイを殺害し、ジューンは行方不明になったのだ。ウエイドの症状は進行する一方で、時に娘がいたこともわからなくなっていく。
 ジェーンが何をしたのか、ジューンとメイに何があったのかは、本作を読んでいくうちに徐々にわかってくる構成。本のあらすじの部分で事件のあらましが明記されているのは、慎重に構成されていることがわかるだけに(事前に知っていても作品の良さが損なわれるわけではないのだが)少々勿体ないようにも思った。それともショッキングな内容が含まれる場合は事前にわかっていた方がいいのかな。
 アン、ウエイド、ジューンとメイ、そしてジェーンや彼らが関わった人たちの記憶が、1970年代から2000年代まで長いスパンで少しずつ集積され、繋がっていく。その中で、彼らがどのように出会い、何を思い、そして何が起きてその後どうなったのかという全体像が見えてくる。物事を大きく変えてしまった事件は、その時間の重なりの中のほんの一瞬なのだ。彼らの人生の流れは見えてくるが、その事件がなぜ起きたのか、そこに至る心的な要因はあったのか、その瞬間ジェーンは何を思ったのかという部分は明言されない。これは説明し得ない、安易に理由をつけてはいけないものだという著者の指針が感じられる。
 ジェーンが起こした事件も、ウエイドを襲う病も、またある少年の身に起きた事故も、理不尽で理解しがたい悲劇と言える。そういった理不尽さが物語の底辺にあるのだが、その上でなお人の営みや世界の美しさがあることが痛切に伝わってくる。特に、収監されたジェーンと同房のエリザベスとの間に友情が生まれていく様には心打たれた。ジェーン側だけでなくエリザベス視点の記述が先行して配置されていることで、彼女らの関係やジェーンがどのような状態にあったのかということがよくわかってくるのだ。彼女らがお互いにかけがえのない存在(たとえ出獄後に会うことがなくても)になっていく、このような状況にあってもかけがえのない存在が生まれ得るという所に希望がある。

アイダホ (エクス・リブリス)
エミリー・ラスコヴィッチ
白水社
2022-07-30


ピアノ・レッスン (新潮クレスト・ブックス)
マンロー,アリス
新潮社
2018-11-30


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