3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

本題名あ行

『いなごの日/クール・ミリオン:ナサニエル・ウエスト傑作選』

ナサニエル・ウエスト著、柴田元幸訳
仕事を得る為にハリウッドにやってきた青年画家が、夢を追ってハリウッドにやってきた女優の卵や怪しげなセールスマンらと交流する『いなごの日』、立身出世を目ざし上京する青年の暗黒アメリカン・ドリームを描く『クール・ミリオン』他短編2編を収録。
 『いなごの日』の題名は本編終盤の暴動の様相と、黙示録のいなごのくだりからなのだろうが、何とも不吉な雰囲気を醸し出す。アメリカでいなごと言ったら、嵐のように大群がやってきて作物を食いつくして去っていく、という悪夢のようなイメージが自分の中であるからだろうか。しかし本作に登場する人たちはハリウッドのセレブなどではなく、何とか夢を掴みたいと集ってき、しかし夢潰えそうになっている貧しい人たちだ。食いつくすのではなく食いつくされる側だろう。食いつくのはむしろ、ハリウッドそのものだ。夢がかなうかもしれない、と思い続けてしまうことの残酷さを感じる。
 また、『クール・ミリオン』はアメリカン・ドリーム的な立身出世物語の悪意しかないパロディ。青年が成功を目指す度に失敗し、様々なものを奪われ文字通り全て無くしていく様を、笑いのめしていく。ブラックジョーク的おとぎばなしのようだ。主人公をはじめ登場人物の運命は悲惨なものなのだが、本人が徹底した善人でその悲惨さを自覚していないところがまたおかしくも哀しい。2編ともアメリカン・ドリームに中指立てて全否定している。夢を持つことに異を唱えているのではなく、それが叶うかのように思わせてしまうものに対してのアンチテーゼだ。


イナゴの日 [DVD]
ドナルド・サザーランド
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
2010-11-26

『悪魔のソナタ』

オスカル・デ・ミュリエル著、日暮雅道訳
 1888年、スコットランド・ヤードの若き敏腕警部イアン・フレイは、不本意ながら密命を受けエジンバラへ赴任する。切り裂きジャックを彷彿とさせる事件が起きたので内密に捜査しろと言うのだ。現地で彼と組むことになったのは、剛腕だがオカルトマニアのマグレイ警部だった。2人は反発しながら捜査を開始するが、あるバイオリンとの関係が浮かび上がってきた。
 フレイの一人称による語りだが、やたらと饒舌。饒舌な語りは聡明だが気取り屋で落ち着きがない彼のキャラクターを表現してはいるのだが、少々うるさい。国内外問わず、あまり上手くない小説は饒舌な一人称によるものが多いような気がするんだが、気のせいか。とは言え、本作がつまらないというわけではなく、フレイのスコットランドdisとマグレイのイングランドdisの応酬、つんけんしながら共闘していく様等、キャラクター小説としてはそこそこ楽しめる。マグレイがフレイを小娘扱い(フレイは身だしなみにうるさくやや神経質で、マグレイは無頓着なので)するあたりや、マグレイの身ぎれいにすればそれなりにイケメン設定等、何か狙っているんですか・・・という気がしなくもない。どちらかというとラノベ的なノリなのだろうか。オカルトめいた雰囲気は悪くないのだが、色々持ちだしてきた割にはあまり機能していない気がする。真犯人解明の際、急に現れたな感が出てしまった(伏線がもうちょっとあればなーと)感も残念。ミステリとしてはちょっと反則的じゃないかなと思う。犯人当てを読者にさせようという意図がない作品だと思うので、反則的もいいと言えばいいんだろうけど。

悪魔のソナタ (角川文庫)
オスカル・デ・ミュリエル
KADOKAWA/角川書店
2016-03-25

刑事たちの三日間 上 (創元推理文庫)
アレックス・グレシアン
東京創元社
2013-07-27






『インヴィジブル・シティ』

ジュリア・ダール著、真崎義博訳
ブルックリンのスクラップ置き場で、全裸で髪をそり上げた女性の死体が見つかった。記者のレベッカは遺体が警察ではなく黒衣の男たちに引き渡され、検死もされていないらしいことに驚く。被害者は正統派ユダヤ教徒のコミュニティに所属するユダヤ教徒だった。レベッカは真相を探ろうとするが、閉鎖的なコミュニティの壁にぶつかる。
ユダヤ教徒のコミュニティの特異さや、その中で生きる女性たちの複雑な心情が描かれるものの、こういったコミュニティを全否定しているわけではない。外部からはわかりにくい安心感や支え合いの姿勢があることにも言及されている。とはいえ、女性にとっては生き方の選択肢が極端に少ない世界ではあるよな・・・。レベッカは記者としての気概で事件を追っているのはもちろんなのだが、実はもっとプライベートな理由がある。レベッカ自身がユダヤ系であり、ユダヤ教徒だった母親は彼女が幼い頃に家出をして以来音信不通なのだ。彼女の中では、死んだユダヤ人女性の背景を調べることが、自分の母親の背景を知ることに重ねられている。母親への愛憎をひきずりながら事件を追うレベッカの姿はどこか危うい。そんな彼女のルームメイトであるアイリスの、ほどよい距離感を保った寄り添い方が印象に残った。

『ウインドアイ』

ブライアン・エヴンソン著、柴田元幸訳
「彼」は子供の頃、自宅の窓のうち1つだけ、外側からはそこにあるのが見えているが、家の中からはどこにあるのかどうしてもわからないものがあると気付く。その窓に近づこうとした妹は姿を消したが、母親は「彼」に妹などいないと言う。妹の存在も窓の存在も、自分にはわかっているのに周囲からは否定されるという表題作を始め、軒並み不吉で禍々しい短篇集。表題作のように、自分の認識しているものを他人は認識していない、ないことにされるという恐怖がしばしば描かれる。また、自分の意識や体が何者かに乗っ取られていく、むしろ明け渡してしまった方が楽なのではという、自我も身体の輪郭もあやふやになっていくというパターンも度々現れる。人間の意識、感覚の曖昧さ、不確かさが一貫して描かれており、読んでいると自分の足元がゆらぐような気分になった。確たる自分などというものはなく、何か別のものと置き換えられても何も変わらない、自覚も起きないのではないかと。あからさまではないが、じわじわと嫌な感じがしのびよってくる。1編1編は短いのだが、よくこれだけトーンの揃った嫌な話を書くな!と感心する。

『あなたを選んでくれるもの』

ミランダ・ジュライ著、岸本佐知子訳
新作映画の脚本執筆に行き詰っていた著者は、地元のフリーペーパーの売買広告を目にする。様々な個人が、様々な物品を「売ります」と提示している。著者は広告主を訪ね、彼らの話を聞くことにする。
本作中で著者が脚本に行き詰っている映画は『ザ・フューチャー』(日本では2013年公開)。公開当時に見たが、正直、それほど自分の心にはヒットしなかった。著者の小説についても同様なのだが、ノンフィクションである本作はじわじわと染みてきた。著者が会いに行く人たちは全くの初対面の他人、しかも、普段著者(とおそらく読者)が生活している圏内ではあまり行き会わない異文化の人だ。彼らは著者の予想・世界の外から言葉を投げかけてくる。決して愉快な人たちばかりというわけではないが、全くの他者と向き合うことで、頭の風通しが良くなるような気持ちになる。著者がスランプから脱したのも、自分の頭の外にある予想外のものに揺さぶられたからではないだろうか。
 

『音の糸』

堀江敏幸著
音楽、楽曲そのものだけでなく物としてのレコードやその音楽を聴いた状況、場所等、様々な音楽にまつわる記憶を綴る随筆集。掲載誌が『クラシックプレミアム』なので、当然クラシックの楽曲が中心なのだが、著者の聞き手としての傾向や振れ幅が窺える。音楽をテーマにした随筆だが、不思議と楽曲そのものよりも、それを取り巻く諸々の、直接楽曲とは関係ない部分の描写の方が多い。そして、楽曲そのものを表現する言葉よりも、それを聴いた状況やそこから芋弦状に思いだした物事の描写の方が、不思議とどういう音楽か、どういう演奏だったのかということを感じさせるのだ。音の記憶に色々なものが紐づけられている。だから題名が『音の糸』なんだろうな。

『アックスマンのジャズ』

レイ・セレスティン著、北野寿美枝訳
 1919年のニューオリンズで、連続殺人事件が起きる。凶器が斧と見られたことから「アックスマン」と呼ばれるようになった犯人は新聞社に予告状を送り付け、「ジャズを聴いていない者は殺す」と宣言する。タある事情から警察内では嫌われ者のタルボット警部補はこの事件の捜査にあたる。一方、マフィアに犯人探しを依頼された元刑事のルカ、ピンカートン探偵社で事務をしているが探偵志望のアイダもこの事件を追っていた。
 実際に起きた未解決事件を題材にしているそうだ。1919年のニューオリンズが舞台ということで、様々な人種のコミュニティが共存しているが差別意識は強く、それがタルボットを苦しめ、アイダの足を引っ張る。タルボットには黒人の妻と子供がいるが、この時代、白人と黒人との結婚は許されないどころか、パートナーとしていることがわかっても周囲からのバッシングはもちろん、実際に暴力を振るわれかねない。自分が家族だと見なしている人たちを世間からは隠しておかなければならないのだ。また、アイダは白人として通用するくらい肌色が明るいが、それでも出自を知られると黒人として差別され、暴力を受ける。登場人物たちの背後、そして事件の背後には常に人種差別が横たわっており、これがあの時代の「普通」だったことを痛感させる。この「普通」に個人が対抗することがいかに難しいか、折々で感じさせるのだ。
 タルボット、ルカ、アイダはそれぞれ別個に事件を追い、それぞれがある結論を得る。彼らにとって見えるのは事件のある側面のみというところが小説の構造としては面白いが、事件を追う側にしてみたらなんか不消化だよな。・・・と思っていたら最後に思わぬ展開があり、これはうれしかった。続編も発行予定のようなので、今から楽しみ。
 なお、題名にジャズとつくが、ジャズが本筋に絡んでくるのは最初だけで予告状の内容も立ち消えになってしまうのには拍子抜けした。多分、実際に送られてきた予告状がそういう内容だったんだろうけど。

『アメリカン・ブラッド』

ベン・サンダース著、黒原敏行訳
元ニューヨーク市警のマーシャルは、犯罪組織への潜入捜査を終えた後、証人保護プログラムの下で暮らしていたが、地元の若い女性の失踪事件を追い始める。同じころ、チンピラのトロイは麻薬カルテルのボスであるレオンから資金を奪おうとしていた。一方、組織は殺し屋「ダラスの男」をマーシャルを始末するために差し向けていた。
現代のアメリカが舞台だが、どこか西部劇を思わせる。マーシャルの独特の行動規範と流れ者っぽさにはそんな雰囲気があるし、バニスターも来ては去っていくという男だ。マーシャルの「得意技」も西部劇由来だろう。各章が主要登場人物の名前になっており、視点が入れ替わりつつ物語が展開していく。マーシャルが捜査官だった頃のエピソードも徐々に明かされ、何が彼をこのような行為に駆り立てるのかわかってくる。一方で、バニスターの背景も見えてくる。2人とも、ある出来事により一線を越えてしまった人たちなのだ。2人が死闘へと突き進んでいく中、トラウマをかかえつつも冷静さを保ち職務を全うしようとする、女性警官ショアのパートが印象に残る。女性である、ということによるキャラ立てや役割分担みたいなものがされていない書き方もよかった。

『映画は絵画のように 静止・運動・時間』

岡田温司著
19世紀末に誕生した映画は、絵画や彫刻からどのような影響を受けてきたのか、そして映画の中に絵画や彫刻はどのように取り込まれてきたのか。メディアを飛び越えて反響しあうイメージを考察する。
映画も絵画・彫刻も見る側の視線を捉える、そして映画/絵画側から見る側に対して向けられた視線がある。視線をどうコントロールするか、という点では映画も絵画・彫刻は共通していると言える。では何が大きく違うのかというと、本作のサブタイトルにもあるように運動と時間だろう。絵画も彫刻も当然運動しないが、映画は運動を映し出し、時間をコントロールするものだ。その差異は大きい。映画の中に絵画や彫刻が出てくると何となく目がいってしまうのは、(元々絵画や彫刻に興味があるからってのもあるが)それが運動しない、静止しているものだからという面もあるのだろう。映画は瞬間の連続だが、絵画も彫刻も瞬間のみを記録する。そもそも絵画や彫刻には時間という属性がないと言った方がいいのか。本作の題名は『映画は絵画のように』だが、読んでいるとむしろお互いのお互い「ではない」部分の方に目が行く。映画ファンとしては、第Ⅲ章「メランコリーの鏡」、第Ⅵ章「静と動のあわいの活人画」が面白かった。特にⅥ章は、なんだこのメタ構造!と笑っちゃうような映画監督の拘りを感じる。
 

『有頂天家族 二代目の帰朝』

森見登美彦著
天狗の赤玉先生の跡継ぎである“二代目”がイギリスから帰国し、天狗の世界も狸の世界もざわつき始めた。赤玉先生と二代目とは犬猿の仲、かつ赤玉先生の愛弟子である弁天と二代目の間も険悪だった。赤玉先生のお世話係である狸の矢三郎は天狗同士の騒動をなんとかやりすごそうとするが、狸の世界でも覇権争いが起こっていた。
アニメ化に伴い読んでおくかと手に取ったが、1作目より更に読みやすい。基本的な設定が既にわかっているからというのもあるが、構成、文章の技術が上がっていると同時に、いい意味で入れ込み過ぎない(ように見える。実際はまあ大変だったんでしょうが・・・)スタイルに収まっている。スペクタクル的な見せ場が減っている(今回は前回ほど狸が化けない)と同時に、家族の情愛がよりするっと自然な形で表れているように思う。日和見な狸たちの騒動は愉快でおかしいが、血のしがらみや恨みつらみから逃れられない姿はどこかもの悲しくもある。矢三郎たち一家の「仇」にも、そこまでこじらせることなかったのに・・・という哀れさがあるのだ。それはともかく、二代目と弁天が出そろった所で、そもそもの元凶は赤玉先生じゃないのか?!という気がしてならない(笑)。

ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ