3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

本題名あ行

『屋上で会いましょう』

チョン・セラン著、すんみ訳
 職場でのハラスメントに疲れ切り屋上から飛び降りてしまおうかという衝動にかられた「私」は、先輩たちからある呪文書を渡される(「屋上で会いましょう」)。あるウェディングドレスの変遷(「ウェディングドレス44」)、韓国版吸血鬼はたまたゾンビ(「永遠にLサイズ」)、中東からの留学生の奇妙な体験(「ハッピー・クッキー・イヤー」)など9編を収録した短編集。
 『フィフティ・ピープル』が抜群に面白かった韓国作家の短編集。SFっぽいもの、ホラーテイスト、ちょっとファンタジックなものと、自分の隣に住んでいる人の話のような小説が入り混じっておりバラエティ豊か。ただ、素っ頓狂な設定であっても、そこに登場する人たち(往々にして女性)が感じる苦しさや居場所のなさは身近なものだ。表題作の「私」が現状から脱出しようという珍妙な試みの行き先には笑ってしまうのだが、笑えない。追い詰められ方は生々しく、もうぎりぎりの状態なのがわかるのだ。女性先輩たちは皆結婚して脱出ちゃうなんてひどい!という取り残され感とか、脱出したにせよそれが結婚という制度によるものだという納得のいかなさ。その納得のいかなさを逆手にとったとんでも設定ではあるのだが、現実と照らし合わせると更に悲しくなってしまうね…。とは言え、どの収録作も哀しみとおかしみが一体になっており、ペシミズムでは終わらせない。「離婚セール」のちょっと悲しくしんどいが身軽になるような後味がよかった。

屋上で会いましょう チョン・セランの本
チョン・セラン
亜紀書房
2020-07-31


『アコーディオン弾きの息子』

ベルナルド・アチャガ著、金子奈美訳
 1999年、カリフォルニアで死んだダビは、「アコーディオン弾きの息子」という回想録を書き残した。ダビの妻メアリー・アンは作家である「僕」ヨシェバにその本を渡す。故郷のバスク語で書かれたその本を、メアリー・アンは読むことができないのだ。ダビが家族にも読めない言語で語った過去とはどのようなものだったのか。幼馴染であるヨシェバとの間には何があったのか。
 バスクの田舎、オババに暮らしていたダビは、父親からアコーディオン奏者になることを期待され、上流階級の子供が通う学校に行かされるが、自分が心安らぎ馴染めるのは農夫や馬飼いたちの世界だった。野山の自然描写やその中での子供たちの生活が生き生きとしており、魅力がある。ただ、その美しい生活の背後には、スペイン内戦やフランコ政権の暗い記憶が控えているのだ。ダビの伯父は反体制派で、義理の弟であるダビの父とは折り合いが悪い。ダビは、父は軍に協力し殺人に関わったのではないかと疑い始める。ダビの疑いは彼自身にとっては劇的なもの、耐えがたいものなのだが、こういった疑惑はおそらく当時のバスクでは珍しいものではなかったのだろう。それくらい、生活と歴史の影の部分とが一体になっていることがわかる。ダビの著作は自分の子供時代、青春時代を回想するものであると同時に、自分たちの背後にあるそういった歴史、それに加わってしまったことへの痛みと自責を記録したものなのだ。だから故郷の母語で書かれなくてはならないし、妻子に読ませるつもりはないということなのだろう。
 そして「アコーディオン弾きの息子」はヨシェバの物語でもある。本著のいくつかの章はダビではなくヨシェバの手による「小説」だ。ダビの書いたものとヨシェバが書いたもの、両方により彼らにとっての真実が浮かび上がる。そしてダビが書いたものが、そう書かざるをえなかったものであったという苦しさも見えてくる。人はなぜ書くのか、なぜそのように書くのか、という部分にも迫った作品。


『雨をよぶ灯台』

マーサ・ナカムラ著
 仏が茶をたてる浅草寺、サンタクロースの任務を課された囚人、千葉県の駄菓子屋、実家から押しかけてくる犬、偽物のお父さん…様々なイメージが紡ぎだされる詩集。
 久しぶりに詩集を買ったわ…。本著は装丁自体が詩的で気になってしまったのだ。表紙絵にしろ題字フォントとデザインにしろ、イメージがふわーっと湧いてくる造本。装丁が、文章の引き出すイメージを支えているように思った。収録された16篇の詩は、硬質な表面の下にどろりとしたものが流れているような、どこか土着的で血の匂いのするようなものが多い。定期的に見る悪夢のような後を引く、とらえどころのないイメージだ。ただ、どろどろしているだけでなく、硬質な透明感もある。世界にすっと冷たい風が吹き込むようだった。最後に収録された「新世界」には、自分の内側から空の向こうへ抜けていくようなさわやかさと冷たい寂しさ、なつかしさを感じた。

雨をよぶ灯台 新装版
マーサ・ナカムラ
思潮社
2020-06-25


狸の匣
マーサ・ナカムラ
思潮社
2017-11-09


『アレックスと私』

アイリーン・M・ペパーバーグ著、佐柳信男訳
 鳥類のコミュニケーション・言語の研究者である著者は、1羽のヨウム相手の実験を始める。そのヨウム・アレックスは50の物体の名前、7つの色、5つの形、8つまでの数を学習した。著者との二人三脚で研究に多大な功績を残したアレックスとの道のりを記したノンフィクション。
 ヨウムが賢い、かつ音を発する能力(鳴き声のバリエーションの使い方)が高いというのは知っていたが、人間とのコミュニケーションをここまで出来るとは。ヨウムは大体人間の5歳児くらいの知能があるそうだ。人間の言語を教えていく訓練の組み立て方からは、人間の子供がどのように言語を獲得していくのかという過程もわかり、鳥類の知能に関する研究という側面だけでなく、言語学の側面からもとても面白い。訓練に飽きてしまうアレックスと著者たちの攻防や、アレックスの我儘に翻弄される様はユーモラスだが、ここまで(意固地になったり嫉妬したりはもちろん、これは人間をからかっているのでは?という行動まで)鳥と人間がコミュニケーションできる、それを立証できたということには感動する。鳥の情緒や思考は人間とは別物という認識を著者は持っているが、それであっても意思疎通は出来るし、人間と通じ合う情緒のようなものがある。
 一方で、科学の世界の意外なコンサバさ(当時、動物に独自の言語能力、知能があるという説自体大変バッシングを受けたとか)や女性研究者に対する偏見、不当な低い評価など、著者が戦わなければならなかったものの多さが随所でわかる。何より予算と研究室の確保に汲々としている様は、研究職の方なら涙なしには読めないのでは…。著者はアレックス財団を作りそこから捻出するようになったそうだが、それでも相当大変そう。研究ってお金かかるんですよね…研究者が裕福だなどというのは幻想…。

アレックスと私 (ハヤカワ文庫NF)
アイリーン M ペパーバーグ
早川書房
2020-10-01


フクロウのいる部屋
高木 尋士
集英社インターナショナル
2013-04-26


『おらおらでひとりいぐも』

若竹千佐子著
 74歳の桃子さんは郊外の新興住宅地で一人暮らし。見合い結婚の相手を放り出して一人上京した24歳の秋、住み込みのアルバイトをするうちに周造と出会い結婚、長男と長女が生まれて成長し独り立ち、そして周造は急死した。一人になった桃子さんの内側から、使ってこなかった故郷の言葉が沸き上がってくる。
 本作、語りの勝利だと思う。桃子さんは岩手出身なのだが、上京してからは標準語を通している。封印していた方言が年を取り一人になってからあふれ出てくるのだ。そして桃子さんが深く考える時、やはり自分が生まれ育った土地の、体に染みついた言葉が発せられる。桃子さんは故郷は嫌いだと思い続けていたのに皮肉ではあるが。その皮肉さは、「新しい女」を目指して故郷から飛び出したのに、周造に惚れて彼の前では「可愛い女」として妻・母として献身的尽くすという古典的な女になっしまっていたというのも皮肉だ。しかし桃子さんは一人になることで、そういった役割、ジェンダーから自由になっていく。桃子さんという個がむきだして立ち現れてくる、その様が鮮やかだ。この鮮やかさ、自由さは方言による語りだからこそ感じられたのではないかと思う。オフィシャルなものではなく、よりパーソナルな語りに感じられるのだ。

おらおらでひとりいぐも (河出文庫)
若竹千佐子
河出書房新社
2020-06-26




『あの本は読まれているか』

ラーラ・プレスコット著、吉沢康子訳
 冷戦下、1950年代のアメリカで、ロシア移民の娘であるイリーナはCIAにタイピストとして就職する。しかし彼女に課されたのは諜報員としての仕事だった。訓練を受け文書の受け渡し等を行うようになり、更にある特殊作戦に抜擢される。それは、共産圏で禁書になっているボリス・パステルナークの小説『ドクトル・ジバゴ』をソ連国民の中に浸透させプロパガンダに利用するというものだった。
 『ドクトル・ジバゴ』をソ連国民に読ませるという「作戦」が中心にあるが、3つの視点でストーリーは展開していく。イリーナと同僚の諜報員サリー、「わたしたち」として語るCIAのタイピストたち、そしてパステルナークの愛人オリガ。どれも女性たちのエピソードだ。この時代に女性に生まれたことで受ける不利益や屈辱にはやりきれないものがある。その一方で女性同士のいたわりやゆるやかな連帯の描き方はこまやかだ。イリーナとサリーの距離の縮まっていく様や2人の気分の華やぎが眩しい。ただ、小説の語りとして一番面白いと思ったのは「わたしたち」によるもの。タイピストとしてひとくくりにされ、個々の顔など特に意識されなかったであろう女性たちとしての「わたしたち」だが、その「わたしたち」の中には個々人の顔があり、その個々が共鳴しあっている声なのだ。一方、オリガのパートにはあまり面白みは感じなかった。古典的な尽くす女、いわゆる「女はたくましい」とか言われがちな造形の話だからか。むしろ「わたしたち」パートの手法のみで全編書かれたものが読んでみたかったかな~。東京創元社が激しく推していた作品だが、そこまでの傑作・名作という印象は受けなかった。わりとあっさりとしている。

あの本は読まれているか
ラーラ・プレスコット
東京創元社
2020-04-20


ドクトル・ジバゴ〈上巻〉 (新潮文庫)
ボリス・パステルナーク
新潮社
1989-04T


『今も未来も変わらない』

長嶋有著
 小説家を生業とする星子は40代。数年前に夫と離婚し同居している娘は受験を迎えようとしている。親友の志保とカラオケやドライブで盛り上がり、娘の学校の教師と友達になり、一方で一回り年下の男性と恋の予感がしていた。
 星子は女性であり中年であり作家であり母であり元妻であり恋人であり、という複数の属性を持っている。しかし本作を読んでいると、星子が「~の星子さん」であるという印象はない。星子はあくまで星子。他の登場人物も同様で、「~の」というくくりや属性を極力感じさせない書き方になっていると思う。もちろんそれぞれの年齢や性別、職業や家族間での続柄はあるだろう。しかしそれはその人全体を表すものにはならない。読者の前に立ち上がってくるのは星子であり志保であり、あくまで固有名詞としての人だ。そこがすごくよかった。星子は世間的には「おばさん」と呼ばれる年代なのだろうが、「おばさん」という感じもしない。星子という人が年齢を重ねて今40代、という感じのニュートラルさだ。
 相変わらず固有名詞の使い方が上手い。特定の題名や名称を出すことでその時はこういう気分だな!とはっきりわかるというのは面白いものだな。共通の体験、知識が必要とされることだから、どの固有名詞を使うかかなり匙加減のテクニックが要求されるはず。同時に、わかっている人にはわかるような描写で固有名詞までは出さない、という演出もあり、この使い分けが面白かった。GAPにエルメス合わせて怒られる映画ってあれだな!なお吉祥寺小説でもあるので、調子に乗って吉祥寺のカフェで完読した。

今も未来も変わらない (単行本)
長嶋 有
中央公論新社
2020-09-18


三の隣は五号室 (中公文庫 (な74-1))
長嶋 有
中央公論新社
2019-12-19


『おやときどきこども』

鳥羽和久著
 学習塾の指導者として、学びの現場で子供たちと向き合い続ける著者が、子供、そして保護者との対話の中で考えてきたことを綴った1冊。
 子供を育てていない者が読んでもとても面白かった。様々な子供、そして親が登場し、抱える問題もそれぞれだ。ただ、問題を抱えている子供は、自分では何が問題か上手く表現できない、場合によっては認識できていないというケースが多い。親の前では大丈夫なようにふるまう子供が結構いるのだ。そして親の側も、子供の問題に気付かない、またなんとなく気付いているけどよくわかっていないことが多い。子供の問題は大人の介入がないと解決しないことが往々にしてあるが、その介入が上手くいかないのだ。
 上手くいかなさの一因は、親が子供を自分とは全く別個の人格として尊重し難いという所にあるように思った。なんとなく自分の延長線上みたいに扱ってしまう。また時代の変化が急速で、親の常識が子供が置かれている状況に既に当てはまらなくなっている。そのすり合わせを仲介者的な著者らが手伝うわけだが、なかなかうまくはいかないのね…(とにかく親側に対話の姿勢がないとどうにもならない)。しかし何かがかみ合って親が変化すると、子供も劇的に変化したりする。著者らはそこに希望を託しているのだと思う。親子って本当に関係性の現象なんだな。全くの他人と共にどう生きていくのかという形が、親子という関係を通して見えてくるのだ。

おやときどきこども
鳥羽和久
ナナロク社
2020-06-20


親子の手帖
鳥羽 和久
鳥影社
2018-03-22




『赤毛のアン』

ルーシー・モード・モンゴメリ著、村岡花子訳
 プリンス・エドワード島のグリン・ゲイブルスに暮らす兄妹・マシュウとマリラは、農作業を手伝わせるために孤児の男の子を引き取ろうと決める。知人に頼んで子供を連れてきてもらったものの、やってきたのは女の子だった。アン・シャーリーというその少女は空想好きで風変わりだったが、徐々にマリラとマシュウにとってかけがえのない存在になっていく。
 実は今までちゃんと通読したことがなかったのだが、こんなに面白かったのか!そしてアンの11歳から16歳までの成長過程を結構なスピードで綴っていく。空想好きでおしゃべり、テンションの上がり下がりが激しく時に非常に頑固なアンの言動はとにかく目まぐるしい。そこがちょっとうるさくもあるのだが、率直でものおじしない態度や「お話」が大好きな内面の豊かさが良い。赤毛とそばかすへのコンプレックスの強さや「膨らんだ袖」、美しさへの執着は当時としてもルッキズム強すぎない?という気がするが、年齢を重ねるにつれ執着が弱まっていく。単純に大人になっていくからというのもあるだろうが、周囲から一個人としての愛情を受けることで、自分は自分として容姿も含め肯定できるようになっていくのだと思う。とは言え、人並みに可愛い服を着たいという気持ちは自然だし、それなりの服を着られるようになってほっとしましたが…。町の世話役的で「世間」代表みたいなリンド夫人もアンの服装はあんまりだと思っていたというのにはちょっと笑ってしまった。
 アンの成長物語ではあるが、少女時代のユニークで自由なアンが、空想する頻度も落ち、上の空なこともあまりなくなり、地に足のついた女性になってしまうのはちょっと寂しい。ただ。一方でもう若くはないマリラとマシュウ、特にマリラが変化していく物語でもあって、大人になってから読むとむしろこちらの方が心を打つ。彼女が表に出さなかったユーモア(ユーモアがあるということは最初に示唆されるのだが)や愛情深さがにじみだしていくのだ。


赤毛のアン Blu-ray メモリアルボックス
槐柳二
バンダイビジュアル
2014-03-26


『おれの眼を撃った男は死んだ』

シャネル・ベンツ著、高山真由美訳
 迎えに来た兄によって叔父夫婦の元から助け出されたラヴィーニアだが、更に過酷な運命が待ち受ける(「よくある西部の物語」)。ヒッチハイクで実父の元に向かう「わたし」にはある目的と過去があった(「思いがけない出来事」)。西部劇の舞台のような南北戦争後の町、16世紀イギリス、現代のアメリカ、未来とも異世界ともつかないとある遺跡等、舞台がバラエティに富んでいる短編集。
 収録された作品の舞台は場所も時代も様々。西部劇そのもののような作品から、時代劇やSFまで、さまざまなジャンルにわたっているとも言える。語り口調、小説としての構造の仕掛けもまちまちだ。しかし不思議と統一感がある。全ての作品の根底にはこの世で生きる苦しみ、暴力と欲望とが流れていてハッピーエンドには程遠い。どの作品も常に傷口が開いて血を流しているような、読んでいる側を切りつけてくるような容赦のなさ。ただ、同時に非常に美しい瞬間がある。O.ヘンリー賞を受賞したという「よくある西部の物語」(コーマック・マッカーシーぽいと思う)のラストのは残酷で救いがないのだが、彼女の人生全てがこの一瞬で立ち上がってくるような密度を感じた。
 社会の底辺、隅っこで生きる人たちの生が描かれるが、特に女性として生きる苦しさ、選択肢のなさが抉ってくる。女性はだれかの妻、姉妹、娘、母、恋人であり独立した存在として扱われない。「死を悼む人々」はまさにそういう話で、主人公に認められている価値は、誰に所属する女か、ということだ。また寓話的な「アデラ」は独立した存在である女性が、世間の価値観によって引きずりおろされる話とも読める。
 収録作はすべて必読だが、「オリンダ・トマスの人生における非凡な出来事の奇妙な記録」は、アメリカの現状を踏まえると正に今読むタイミングなのではと思う。1838年に黒人女性が書いた手記という体の作品なのだが、当時のアメリカ南部の「進歩的な」白人の欺瞞や差別の無自覚さが時にユーモラスに醜悪に描かれている。そして黒人であり女性であることの自由のなさも。

おれの眼を撃った男は死んだ
シャネル・ベンツ
東京創元社
2020-05-20


血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)
コーマック・マッカーシー
扶桑社
2007-08-28





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