3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

本題名あ行

『音の糸』

堀江敏幸著
音楽、楽曲そのものだけでなく物としてのレコードやその音楽を聴いた状況、場所等、様々な音楽にまつわる記憶を綴る随筆集。掲載誌が『クラシックプレミアム』なので、当然クラシックの楽曲が中心なのだが、著者の聞き手としての傾向や振れ幅が窺える。音楽をテーマにした随筆だが、不思議と楽曲そのものよりも、それを取り巻く諸々の、直接楽曲とは関係ない部分の描写の方が多い。そして、楽曲そのものを表現する言葉よりも、それを聴いた状況やそこから芋弦状に思いだした物事の描写の方が、不思議とどういう音楽か、どういう演奏だったのかということを感じさせるのだ。音の記憶に色々なものが紐づけられている。だから題名が『音の糸』なんだろうな。

『アックスマンのジャズ』

レイ・セレスティン著、北野寿美枝訳
 1919年のニューオリンズで、連続殺人事件が起きる。凶器が斧と見られたことから「アックスマン」と呼ばれるようになった犯人は新聞社に予告状を送り付け、「ジャズを聴いていない者は殺す」と宣言する。タある事情から警察内では嫌われ者のタルボット警部補はこの事件の捜査にあたる。一方、マフィアに犯人探しを依頼された元刑事のルカ、ピンカートン探偵社で事務をしているが探偵志望のアイダもこの事件を追っていた。
 実際に起きた未解決事件を題材にしているそうだ。1919年のニューオリンズが舞台ということで、様々な人種のコミュニティが共存しているが差別意識は強く、それがタルボットを苦しめ、アイダの足を引っ張る。タルボットには黒人の妻と子供がいるが、この時代、白人と黒人との結婚は許されないどころか、パートナーとしていることがわかっても周囲からのバッシングはもちろん、実際に暴力を振るわれかねない。自分が家族だと見なしている人たちを世間からは隠しておかなければならないのだ。また、アイダは白人として通用するくらい肌色が明るいが、それでも出自を知られると黒人として差別され、暴力を受ける。登場人物たちの背後、そして事件の背後には常に人種差別が横たわっており、これがあの時代の「普通」だったことを痛感させる。この「普通」に個人が対抗することがいかに難しいか、折々で感じさせるのだ。
 タルボット、ルカ、アイダはそれぞれ別個に事件を追い、それぞれがある結論を得る。彼らにとって見えるのは事件のある側面のみというところが小説の構造としては面白いが、事件を追う側にしてみたらなんか不消化だよな。・・・と思っていたら最後に思わぬ展開があり、これはうれしかった。続編も発行予定のようなので、今から楽しみ。
 なお、題名にジャズとつくが、ジャズが本筋に絡んでくるのは最初だけで予告状の内容も立ち消えになってしまうのには拍子抜けした。多分、実際に送られてきた予告状がそういう内容だったんだろうけど。

『アメリカン・ブラッド』

ベン・サンダース著、黒原敏行訳
元ニューヨーク市警のマーシャルは、犯罪組織への潜入捜査を終えた後、証人保護プログラムの下で暮らしていたが、地元の若い女性の失踪事件を追い始める。同じころ、チンピラのトロイは麻薬カルテルのボスであるレオンから資金を奪おうとしていた。一方、組織は殺し屋「ダラスの男」をマーシャルを始末するために差し向けていた。
現代のアメリカが舞台だが、どこか西部劇を思わせる。マーシャルの独特の行動規範と流れ者っぽさにはそんな雰囲気があるし、バニスターも来ては去っていくという男だ。マーシャルの「得意技」も西部劇由来だろう。各章が主要登場人物の名前になっており、視点が入れ替わりつつ物語が展開していく。マーシャルが捜査官だった頃のエピソードも徐々に明かされ、何が彼をこのような行為に駆り立てるのかわかってくる。一方で、バニスターの背景も見えてくる。2人とも、ある出来事により一線を越えてしまった人たちなのだ。2人が死闘へと突き進んでいく中、トラウマをかかえつつも冷静さを保ち職務を全うしようとする、女性警官ショアのパートが印象に残る。女性である、ということによるキャラ立てや役割分担みたいなものがされていない書き方もよかった。

『映画は絵画のように 静止・運動・時間』

岡田温司著
19世紀末に誕生した映画は、絵画や彫刻からどのような影響を受けてきたのか、そして映画の中に絵画や彫刻はどのように取り込まれてきたのか。メディアを飛び越えて反響しあうイメージを考察する。
映画も絵画・彫刻も見る側の視線を捉える、そして映画/絵画側から見る側に対して向けられた視線がある。視線をどうコントロールするか、という点では映画も絵画・彫刻は共通していると言える。では何が大きく違うのかというと、本作のサブタイトルにもあるように運動と時間だろう。絵画も彫刻も当然運動しないが、映画は運動を映し出し、時間をコントロールするものだ。その差異は大きい。映画の中に絵画や彫刻が出てくると何となく目がいってしまうのは、(元々絵画や彫刻に興味があるからってのもあるが)それが運動しない、静止しているものだからという面もあるのだろう。映画は瞬間の連続だが、絵画も彫刻も瞬間のみを記録する。そもそも絵画や彫刻には時間という属性がないと言った方がいいのか。本作の題名は『映画は絵画のように』だが、読んでいるとむしろお互いのお互い「ではない」部分の方に目が行く。映画ファンとしては、第Ⅲ章「メランコリーの鏡」、第Ⅵ章「静と動のあわいの活人画」が面白かった。特にⅥ章は、なんだこのメタ構造!と笑っちゃうような映画監督の拘りを感じる。
 

『有頂天家族 二代目の帰朝』

森見登美彦著
天狗の赤玉先生の跡継ぎである“二代目”がイギリスから帰国し、天狗の世界も狸の世界もざわつき始めた。赤玉先生と二代目とは犬猿の仲、かつ赤玉先生の愛弟子である弁天と二代目の間も険悪だった。赤玉先生のお世話係である狸の矢三郎は天狗同士の騒動をなんとかやりすごそうとするが、狸の世界でも覇権争いが起こっていた。
アニメ化に伴い読んでおくかと手に取ったが、1作目より更に読みやすい。基本的な設定が既にわかっているからというのもあるが、構成、文章の技術が上がっていると同時に、いい意味で入れ込み過ぎない(ように見える。実際はまあ大変だったんでしょうが・・・)スタイルに収まっている。スペクタクル的な見せ場が減っている(今回は前回ほど狸が化けない)と同時に、家族の情愛がよりするっと自然な形で表れているように思う。日和見な狸たちの騒動は愉快でおかしいが、血のしがらみや恨みつらみから逃れられない姿はどこかもの悲しくもある。矢三郎たち一家の「仇」にも、そこまでこじらせることなかったのに・・・という哀れさがあるのだ。それはともかく、二代目と弁天が出そろった所で、そもそもの元凶は赤玉先生じゃないのか?!という気がしてならない(笑)。

『エジプト十字架の秘密』

エラリー・クイーン著、越前俊弥・佐藤桂訳
田舎町アロヨで、首なしで貼り付けにされた死体がT字路で発見されるという事件が起きた。“T”だらけの事件に興味を持ったエラリーは捜査を開始するが、めぼしい情報は得られなかった。そして半年後、再び”T”だらけの事件が起きる。クイーンの国名シリーズ5作目。
過去に一度読んだことがある作品なのだが、今回新訳で読んで、私は真犯人を別の人と勘違いしていたことに気づきましたね・・・!人間の記憶ってほんといいかげんだなー。そして記憶に残っている以上にやたらと長距離移動する話だった。エラリーが事件をあちこちを訪れる様は、かなりドタバタ劇っぽくて落ち着きがない。ここまで引っ張る必要あるのか?って気もするが、ひっぱりまわした上での、トリックを見破るきっかけが非常にシンプルだという所が、本格ミステリとしての醍醐味だろう。この部分は本当にすっきりしていて、あーっ!て思うんだよなー。ここまで絞り込めるものかと。この一点でそれまでのぐだぐだも納得させる力がある。ただそこに至るまでの引っ張り具合がな・・・。小説としてはアンバランスなんだけど、本格ミステリとしては確かに高評価になると思う。

『おばあさん』

ボジェナ・ニェムツォヴォー著、栗栖継訳
美しい谷間で娘一家と暮らすようになったおばあさん。教育はないが、様々な知恵と温かい心と勇気を持ち、孫たちを愛し、家事に励む。おばあさんと家族、谷間の人々との交流を描く。19世紀チェコの有名な作家による、国民的文学作品だそうだ。あとがきによるとニェムツォヴォーは民族・社会解放運動の先駆者で、当時チェコを支配していたオーストリア政府から目をつけられていたそうだ。そのせいもあって非常に経済的には苦しい一生だったとか。本作にも民族主義的な要素は多く、チェコの国土への愛や、皇帝に対する素朴な敬愛等も描かれる。またおばあさんは敬虔なクリスチャンなので様々な宗教儀式、また冠婚葬祭の描写も多い。チェコの昔ながらの生活習慣や伝統、民話等を記録しておこうという意図もあったのかもしれない。教条的な部分も多いのだが、四季を通した自然の描写、生活のあれこれの描写が生き生きとしていてとても楽しい。おばあさんは自分は昔堅気だと自認しており昔のやり方であれこれやるが、若者にそれを押し付けるようなことはしない。人それぞれの生き方があると理解しており、個人を尊重しているところは意外と現代的でもあった。

『いとしのおじいちゃん映画 12人の萌える老俳優たち』

ナイトウミノワ著
映画の中に登場する素敵な、愛すべきおじいちゃん俳優12人をピックアップし、俳優としての仕事とその出演作を紹介するコラム集。各章の最後が、次の章へのおじいちゃんへのリレーのような締めになっているところがいい。こういうつなぎ方好きなんだよな。おじいちゃんと言っても、おじいちゃんなら誰でもいいわけではなく、まえがきできちんとおじいちゃん規定をしているのだが、これはなかなか納得できる。性を感じさせ過ぎない(全くないのではなく、ほのめかす程度)というのは重要だよな。おじいちゃんには素敵さと同時に安心感を感じたい。イアン・マッケランで始まりクリストファー・リーで締めるという、ですよね!な構成だが、個人的にはテレンス・スタンプがエントリーされているのに満足。あんまり主演作多くないからネタに乏しいのではないかと思っていたが、そんなことなかった。また、クリストファー・ウォーケンの癖、パーソナルスペースに関する言及にはなるほどなと。軽やかかつどこかとぼけたようなスタイルの語り口だが、取り上げられている作品の肝の部分については率直、かつ配慮のある言及がされていて、読み流させない良さがあった。

『エンピツ戦記 誰も知らなかったスタジオジブリ』

舘野仁美著、平林享子構成
スタジオジブリのアニメーターとして、動画チェックとして27年間のキャリアを積んだ著者が語る、アニメーターという仕事、ジブリというスタジオの姿。スタジオジブリの広報誌『熱風』に連載された回顧録を書籍としてまとめたもの。巻末に構成者あとがきがついているのだが、それによると著者の言葉は当初はもっと鋭く率直だったそうだ。登場する人たちの殆どは現役なので、さすがに諸々配慮して柔らかい言い方に修正したらしい。とは言え、配慮が窺える言い回しではあるが、個人、組織に対する言葉はやはり鋭い。明瞭な否定の言葉はないものの、著者の中ではここはひっかかっていることなんだろうなとか、このあたりは問題だと思っているんだろうな、という意識が透けて見えるところが面白かった。動画チェックというポジションの板挟み感や細かな気の回し方等、これは本当にきつかったろうなと思う(基本的に「ダメ出し」する仕事なので社内でも煙たがられるし動画と仲良くなりすぎるとダメ出ししにくくなる)。著者は宮崎駿の側で長年働いてきたわけだが、アニメーターとしての姿とはまた違う、経営者としての宮崎、上司としての宮崎の姿が描かれている。昔気質の騎士精神みたいなものを持っているという指摘にはなるほどなと。そして高畑勲はやはり怖い人なのだった・・・。上の人たちが特定局面で超有能かつ癖のあるタイプだと部下は大変だよなー。勉強にはなるだろうけど、自分が食われないようにする距離感の取り方が難しい。

『失われた時を求めて 5 第三篇 ゲルマントのほうⅠ』

マルセル・プルースト著、高遠弘美訳
美しいゲルマント夫人に憧れる“私”は、散歩する夫人を待ち伏せ何とか一目見たいと願う。ゲルマント夫人の甥である友人サン=ルーを訪ねて“私”は兵営を訪ねる。サン=ルーは訪問を歓迎するが、“私”はゲルマント夫人に紹介してもらえないかと期待していた。
光文社古典新訳文庫版でちまちまと『失われた時を求めて』を読み進んでいる。いつになったら終わるんだとちょっと心配にはなるし一気に読みたい人には不便だろうが、新しい訳だとさすがに読みやすい。文章が古くなることで誤解していた部分も、修正されるというメリットもある。“私”とサン=ルーの会話は意外と気安く距離感も近く、これは結構ないちゃいちゃ感なのではないだろうか・・・。サン=ルーの恋人がちょっととんがった、擦れた(ように演出している)所のある女性だという雰囲気がよく出ており、“私”が微妙に見下している感じも伝わる。本篇の中心にあるのは、“私”のゲルマント夫人への片思い。片思いといってもゲルマント夫人は30歳以上年上でまともに相手にされそうもないのだが、ストーカーまがいの「出待ち」はするわ、サン=ルーに対して何でスムーズに紹介してくれないんだよ!と軽くイラつくわで、なかなかに10代っぽい(“私”は17歳の設定)。具体的な恋というよりも、あるイメージに対する強烈かつ一方的な憧れ、彼の人生における片思いの結晶化みたいなもので、「隣の女の子」的なアルベルチーヌ(第二篇で登場)への思いとはまた違う。第一、二篇よりも“私”の若々しさ、若さ故のあさはかさが際立つ。サン=ルーの若さや育ちの良さ故の微量の傲慢さのようなものも率直に描かれているが、“私”の中にもそれはあるのだ。

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