3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

本題名あ行

『恐るべき太陽』

ミシェル・ビュッシ著、平岡敦訳
 仏領ポリネシアのヒバオア島に、5人の作家志望の女性たちが集まった。人気ベストセラー作家のピエール=イヴ・フランソワが主宰するワークショップ<創作アトリエ>が開かれるのだ。しかし作家が突然姿を消し、女性たちも何者かに殺害されていく。
 作品のあらすじの時点で連続殺人ものかつクリスティの有名作をなぞったものであることが明かされているのだが、そこはネタバレにならない、本作の醍醐味はそこにはないという自信ゆえか。なお個人的にはクリスティに対するオマージュという側面にはあまり重きを置いていないじゃないかなと思う。本作はワークショップの参加者が記した原稿、参加者のうちの1人の娘の日記、参加者のうちの1人の夫の視点という3種の視点で構成されている。となればこれは叙述トリック(ということまであらすじ紹介に掲載されているので…)だが、読んでいるうちにその奇妙さ、ちぐはぐさが気になってくる。これはもしや、と思っていたらなるほどやはり、と。この仕掛けであれば連続殺人であることがわかっていてもミステリ要素にはあまり影響ないか。ただそれ以外の部分で結構作りが雑な所があり、全体としては面白いことは面白いけど大味といった感じ。フランスと仏領との関係が垣間見えるあたりはご当地ミステリ的味わいも。観光客が天国天国と持ち上げても、現地の人はそりゃあ醒めているよね…。

恐るべき太陽 (集英社文庫)
ミシェル・ビュッシ
集英社
2023-07-06


黒い睡蓮 (集英社文庫)
ミシェル・ビュッシ
集英社
2017-10-20




『おくれ毛で風を切れ』

古賀及子著
 受験や卒業式や進学の準備をしたり、水道の修理をしたり、綿あめを作ったり、コロナウイルスに感染したり、時々山から子供たちの父が来たり。母と息子と娘、3人暮らしの家族の日々を綴る日記エッセイ。
 『ちょっと踊ったりすぐにかけだす』が反響を呼んだ(私も絶賛した)著者による日記エッセイ第2弾。『ちょっと~』に未収録の分と書下ろしを加えた1冊。引き続き著者の目の良さと、それに伴う言葉の瞬発力に唸る。日記ってある種瞬発力勝負で、熟考して書くと上手くいかないような気がする。パワーワード(題名からしてすごい)がぽんぽん出てくるのでうれしくなってしまう。また今回は著者が読んでいる本に関する言及が気持ち多いように思う。この人はこういう読み方をするのか、という新鮮味があった。日記だと意外と自分がどう考えたということは書かない、あったことを書くという方向になるからか。本ではないが、ピナ・バウシュのダンスを敬遠していたが実際に見ると「その情念は冷静なポップでしっかりコーティングされていて最高」と評している様に、あっこういう言葉のはめ方があったか!と思った。言葉の出方が鮮やかで、決して派手な出来事が起きるわけではないのだが目の前の事象がいちいち新鮮に見える。子供さん2人の資質の違いも際立ってきて、成長のほどが見えこれまた面白い。他所の子供って面白いよな…。

おくれ毛で風を切れ
古賀及子
素粒社
2024-02-02


富士日記(上) 新版 (中公文庫)
武田百合子
中央公論新社
2019-06-28



『アウター・ダーク 外の闇』

コーマック・マッカーシー著、山口和彦訳
 社会から隔絶された僻地で暮らすキュラ・ホームとリンジーの兄妹。リンジーはキュラとの近親相姦により妊娠した子供を出産するが、キュラは赤ん坊を森の中に置き去りにし、リンジーには赤ん坊はすぐに死んだと告げる。しかしリンジーはキュラの嘘に気付き、赤ん坊を取り戻そうと放浪を始める。
 1968年に出版された著者の初期作品の初の邦訳になる。初期作品の『果樹園の守り手』、本作、『チャイルド・オブ・ゴッド』『サトゥリー』の4作を著者のテネシー時代の作品と呼ぶそうだ。本作の下敷きになっている著者自身の体験やキリスト教的寓意については巻末の訳者あとがき・解説に詳しく、読書の補助線になり助かった。特にキリスト教要素についてはなじみがない部分が多かったので、解説を先に読んでもよかったと思う。本作より前に書かれた『果樹園の守り手』は正直あまり冴えているとは思わなかったのだが、本作はマッカーシーの文体のスタイルが確立されつつあり、果てのない神話のように読者を引き回していくような印象を受ける。
 キュラとリンジーが町から町へさ迷っていく一方で、略奪者と思しき男たちが次々と行き合う人々を殺していく。キュラとリンジーともニアミスし緊張感が途切れない。巻き込まれる側・巻き込む側の違いはあれど、この先何か不吉なことが起きるだろうという不穏な空気が彼らの旅には付きまとっているのだ。特にリンジーは、彷徨う中で彼女に力を貸すように見える人もいるが、その人たちは必ず彼女に対価を求める、ないしはいきなり手のひらを返し破断になる。見るからに風来坊なキュラとはまた別の困難を抱えたまま歩んでいかなければならない。マッカーシーの作品は人間への期待が薄いというか、人間の業の部分、原罪的な部分を常に注視していることが本作の時点ではっきりしている。

アウター・ダーク―外の闇
コーマック・マッカーシー
春風社
2023-12-28


果樹園の守り手
コーマック・マッカーシー
春風社
2022-09-07


『哀れなるものたち』

アラスター・グレイ著、高橋和久訳
 19世紀末のグラスゴー。医学者のバクスターは身投げした女性の体にその女性の胎児の脳を移植して組成させるという驚異的な手術を成功させる。蘇生した女性・ベラは美しい容姿と無垢な心でバクスターの友人マッキャンドルスをはじめとする男性たちを惹きつける。マッキャンドルスのプロポーズを受け入れる一方でうさん臭い弁護士・ダンカンと駆け落ちをしたベルは世界を旅する中で急速に成長していく。
 本著はマッキャンドルスが記した手記を著者アラスター・グレイが発見し編集・発表したものという、重層的な構造になっている。グレイいわくマッキャンドルスは実在し彼の手記は事実に基づいている。作中には確かに実在した人物の名前も登場し、グレイによる膨大な注釈もマッキャンドルの手記のノンフィクション性を演出する。これが誰の語りなのかというラインを曖昧にしていくのだ。
 マッキャンドルスが記すのはベラという体は大人、精神は子供な女性が世界を見て成長・変化していく過程、いわば成長譚だ。まっさらな状態で世界と向き合うヴィクトリアは社会通念に染まっておらず、感情や欲望の発露も率直だ。強い自我を持ち社会的格差もジェンダーも踏み越えていくベラの行動は小気味良い。精神がまっさらな者から見たらこの社会のシステムは色々とおかしいということが、ベラの目を通して描かれていく。彼女はバクスターにより創造された存在だが、本作の下敷きになっている『フランケンシュタイン』のような悲しい創造物にはならない。バクスターも彼女を独立した存在として自分の元から手放すのだ。
 しかしマッキャンドルの手記の後に配置されたある人物の手記によって、上記のストーリーはひっくり返る。ひっくり返るというより「そうだけど、そうじゃない」と言った方がいいのか。ここでまた、誰が何の為に、誰に読ませたくて書いたのかという問題が浮かび上がる。題名の「哀れなるものたち」という言葉がこのひっくり返りによって更に際立ってくるのだ。本作、ヨルゴス・ランティモスにより映画化されて第80回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞を受賞しているが、この構造をどのように取り込んだのか(あるいは取り込まなかったのか)非常に気になる。

哀れなるものたち (ハヤカワepi文庫)
アラスター グレイ
早川書房
2023-09-26




『アウト・オブ・民藝』

軸原ヨウスケ・中村裕太著
 柳宗悦が「発見」したとも言える民藝。しかしそこから零れ落ちるもの、外れていった人たちがある。民藝運動の周縁にスポットをあて、様々な資料から読み解いた相関図を元に民藝運動の広がりと、何が民藝か否かをわけてきたのかという境目をさぐっていく。
 イベントを収録したような対談形式の著作なので、ある程度この分野を把握していないとわかりにくい部分もあるのだが、とても面白かった。私は柳の美的感覚により提唱された「民藝」に魅力を感じ好きではあるのだが、柳の美的感覚に依って選別されることで元々の地域性から一旦切り離されてしまったものではないか、部外者が新たな価値を付加することで本来の製作者から横取りしているような側面があるのではないかと気になっていた。そういうもやもやを感じていたのは後世の私たちだけではなく、比較的同時代の中でもそういった視点・批判があったことが本著でわかる。結構辛辣な批判もあって面白いし、研究者やコレクター其々が「民藝」「民芸」の何に惹かれ、自分の中でどういう位置づけにしていくのかという所も興味深かった。初めて知る人物や知っている人物等多数登場しており、あっこの人知っている!という楽しさも。今年は西村伊作とその家族については展示を見たばかりだったし、光源社にも久しぶりに行ったので、自分の体験と重なってちょっとうれしかった。なおカバー裏の人物相関図は本気の労作なので必見。


アウト・オブ・民藝 改訂版
裕太, 中村
誠光社
2019-12-15


『鬱の本』

 憂鬱な時、鬱を患う時に読んだ本、思い出す本、それ自体鬱のような本等、鬱と本を巡る総勢84人によるエッセイアンソロジー。
 本著の著者たちによる「鬱」は、憂鬱な気分であったり病の状態としての鬱であったり、その境目であったりと人それぞれだ。84人いれば84人の鬱・憂鬱がある。そして84通りの「鬱の本」があるのだ。鬱といえばやはり太宰治だシオランだと納得のチョイスがあったり、滝本竜彦の寄稿を読んで生きていたかとほっとしたら、不登校『NHKにようこそ!』に希望と安心を与えられたというエッセイ(ふぉにまる著)があって何という呼応…!と震えたりする。ルーキーからビッグネームの超ベテランまで、あの人もこの人も鬱々としている。が、その鬱々が読者にはまるものかどうかはわからない。読者の鬱々もまた人それぞれだから。鬱々としがちな人に向けて作られた本ではあるが、キャッチする側に寄り添うかどうかというとまた別問題。
 実際のところ、複数の著者が言及している通り病気としての鬱が重篤な時は読書などできないだろう。しかし一方で、鬱の時に本が生きるよすがになったと書く人もいる。これはどちらも正しい。その間をいったりきたりするのが鬱々と生きがちな人の生き方なのではないか。なるべく読み続けられるように。

鬱の本
点滅社
2023-12-05


生誕の災厄 新装版
E.M. シオラン
紀伊國屋書店
2021-06-15




『いずれすべては海の中に』

サラ・スピンカー著、市田泉訳
 ある日突然自分の赤ん坊の夢を見る。その子供はカリフォルニアの海から姿を現し私を待っている(『そしてわれらは暗闇の中』)。長年連れ添った夫はある時から建築家としての夢を失くした。彼が設計していたのは何だったのか(『深淵をあとに歓喜して』)。世代間宇宙船の中で失われかけた文化の記憶と歴史を伝え続ける人々(『風はさまよう』)。あらゆる世界線のサラ・スピンカーが集合するコンベンションで起きた殺人事件(『そして(Nマイナス1)人しかいなくなった』)。フィリップ・K・ディック賞を受賞した短篇集。
 著者の作品は長篇の『新しい時代への歌』を先に読んでいたのだが、本著の方が個人的にはずっと良いと思う。短編の方が上手い作家なのでは。文明の衰退した世界が往々にして舞台となっているが、ディストピアSF的でありつつ、どこかノスタルジーを感じさせる。表題作では何らかの問題で地上は荒廃し、方舟のような巨大客船に乗って生き延びようとした人たちもその閉塞感に耐えられなくなっている。『風はさまよう』はその閉塞感の中で世代を重ねていく様が描かれる。『オープン・ロードの聖母様』は長篇『新しい時代への歌』のスピンオフ的作品で、肉体を伴うライブが激減したパンデミック後の世界のバンドマンたちのロードノベル。どの作品でも世界は黄昏ており、すぐに滅ぶことはなくてもゆっくりと衰退していくように思われる。しかしその中でも衰退する=死滅ではなく、今この瞬間に生きている人間がいること、そこにはささやかでも美しさや喜びがありその生は無意味ではないことが描かれている。個人的に好きな作品は『一筋に伸びる二車線のハイウェイ』。自分が失ってしまったものへの諦念、しかし失ったものを何かにゆだねることができる、自分が全く別の場所・ものと関連付けられることの奇妙さとある種の爽快感みたいなものがユーモアを交えて語られる。

いずれすべては海の中に (竹書房文庫)
サラ・ピンスカー
竹書房
2022-05-31


新しい時代への歌 (竹書房文庫 ぴ 2-1)
サラ・ピンスカー
竹書房
2021-09-15


『アロエ』

キャサリン・マンスフィールド著、宗洋訳
 ニュージーランドに暮らす幼い姉妹のロッティとケザイア、その母親リンダ、リンダの母親であるフェアフィールド夫人。3世代の女性を中心にある一家の日常を描く。
 本著はマンスフィールドの名作と言われる『プレリュード』のロングバージョンだが、生前には出版されなかった。マンスフィールドの死後に夫のジョン・ミドルトン・マリーの編集によって出版され、原稿に残されていたメモの内容もそのまま組み込まれている。アメリカ版のクノップ版、イギリス版のコンスタブル版の2パターンがありレイアウトとページ数が少々違うそうだが、本著はアメリカ版からの翻訳。マンスフィールド本人としては未完成作、他作品の素材となる習作という認識だったのだろう。彼女は自身の原稿の多くを破棄していたそうだが、このレベルのものがばんばん破棄されていたかと思うと勿体ない…。そのくらいの完成度でマリーが出版を決めたというのも納得。
 特別な事件が起きるわけではなく、一家の生活が繊細に緻密に描かれる。特に子供たちの描写が素晴らしい。自分がこういう子供時代を過ごしたと錯覚しそうなくらいだ。母親と別行動になった時の強烈な不安や親の関心を切望する様、また何かに集中していたと思ったらふいに気がそれていくという脈絡のわからなさ等、子供ってこういう生き物だった!という説得力が強烈だった。一方で、その子どもたちの母親であるリンダ、その妹ベリルの大人だがどこか成熟しきらない、与えられた役割に甘んじない、ないしは拒絶するような振る舞いもかなり現代的に思えた。特にベリルのちょっと芝居がかっている所や一見奔放な振る舞い方は、一家の中で今一つ居場所がないことやリンダに対するコンプレックスから自衛する為のものに見え、時に痛々しく刺さる。
 とにかく文章が非常に美しく、未完成な所が逆に魅力になっている、もっとこの先を読みたいと思わせる作品。

アロエ
キャサリン・マンスフィールド
春風社
2023-09-01




『絵本をあなたに贈る』

髙村志保著
 長野県茅野市で「今井書店」を営む著者が、日々思ったこと、体験したことを様々な本の記憶を交えながらつづった読書エッセイ。
 題名には「絵本」とあるが、絵本だけではなく一般書の小説や随筆、図鑑や詩歌の本等、様々だ。生活の中で何かしら、特に不愉快なことや悲しいことがある度に、そういった思いに寄り添って緩和してくれる(読んでいて悲しい気持ちになる本であっても自分の悲しみ自体は緩和されるというのは不思議なことだ)本があるというのは幸せなことだと思う。そういった、読書を愛する人なら一度は感じるであろう思いが全編に綴られている。本を読まなくても済む人も当然いるわけで、それはそれで幸福なことだと思う。ただ、にっちもさっちもいかない時、疲れ果てた時に読書体験が拠り所になることは往々にしてあるんじゃないだろうか。自分のみではどうにもならない時には、本の中という自分の外からやってきたもの・自分のことではないが自分のことのように思えることに触れると、客観視してクールダウンできるからか自分だけではないと思えるからか、気持ちが楽になることがある。本著の中でもそういった出来事がいくつか語られるが、特に「落花生」は痛切だ。著者と父親との深い絆、そして抜き差しならなさは以前の著作『絵本の中へ帰る 完全版』でも垣間見られたが、こんなにもだったかと。それを言われたら立ち直れない…。そういう気持ちに寄り添うのも本だ。そういう寄り添う本を思い起こせる著者の引き出しの豊かさが魅力。

絵本をあなたに贈る
髙村 志保
河出書房新社
2023-08-26


絵本のなかへ帰る 完全版
髙村志保
夏葉社
2022-12-25


『終わりのない日々』

セバスチャン・バリー著、木原善彦訳
 19世紀半ば、大飢饉に襲われたアイルランドで家族を失い、アメリカ大陸に渡ってきたトマス・マクナルティは自分と同年代で同じく宿無しの少年ジョン・コールと出会う。美しい顔立ちでまだ小柄な2人は、ミズーリの鉱山町の酒場で、女装して鉱山で働く男たちのダンスの相手をする仕事に就く。やがて成長した2人は食う為に軍隊に入り、先住民との闘い、そして南北戦争へ赴いていく。
 トマスとジョンは出会って間もなく、深い愛で結ばれていく。トランスジェンダーという概念がまだなかった時代に、男性として生まれそこそこ優秀な兵士として働きながら女性としてのアイデンティティーに目覚めていくトマスの語りは、軽やかでジェンダーをもさらっと超えていく。そこにはさほど葛藤がなく、トマスという主体は依然としてトマスだし、ジョンとの絆も変わらずあり続ける。彼の語りは素朴だが軽妙、ユーモラスで時に冷徹だ。彼の自我がすごくしっかりしているので周囲が激変してもセクシャリティが変容しても語りがブレない。舞台設定は古典的な西部劇だがクィアな青春物語でありラブストーリーでもあるのだ。
 一方で、アメリカという国の歴史がいかに血生臭いかという側面もまざまざと見せつけられる。先住民との闘いの野蛮、無慈悲さが淡々と描かれ、当時の一兵卒の視線だったらこういうものだろうとは思うが、だからこそぞわっとする。そして南北戦争の泥沼感には、戦争の恐ろしさは死が安易すぎる恐ろしさであると同時に、時にそれを上回る飢えの恐ろしさだと痛感させられる。とにかくずっと飢えているというのがしみじみ怖い。備蓄のない戦争は最悪だな…。

終わりのない日々 (エクス・リブリス)
セバスチャン・バリー
白水社
2023-06-02


その丘が黄金ならば
C・パム・ジャン
早川書房
2022-07-20





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