3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『若おかみは小学生!』

 小学6年生の関織子、通称おっこ(小林星蘭)は交通事故で両親を亡くし、祖母・峰子(一龍斎春水)が経営する老舗旅館「春の屋」に引き取られる。旅館には少年の幽霊ウリ坊(松田颯水)や子鬼の鈴鬼(小桜悦子)が住みついており、おっこだけは彼らを見て、話をすることができた。若女将を目指して宿の手伝いを始めたおっこは、幽霊たちやライバル旅館の跡取り娘・秋野真月(水樹奈々)と接するうちに少しずつ成長していく。原作は令丈ヒロ子・亜沙美(絵)による児童文学シリーズ。監督は高坂希太郎。
 やたらと評判がいい割には上映規模がすぐに縮小されそうなので、慌てて見に行った。見てよかった!子供はもちろん、大人も楽しめる良作アニメーション。吉田玲子による脚本が大変しっかりしており、物語の軸がぶれない。題名から、小学生が女将として働く!働くことで居場所が出来るような話だとちょっと嫌だなぁと思っていたのだが(こと子供に関しては、労働と居場所・自己肯定がトレードされてはいけないと思うので)、そういった側面はそれほど強くない。おっこが旅館の仕事の大変さや面白さに気付いていくという要素はあるが、仮におっこが女将を継ぐと宣言しなくても、彼女の居場所は周囲と接するうちに出来ていくだろうと思える作りなのでほっとした。
 本作のキモは働くことよりもむしろ、おっこが家族の死とどう向き合い、受け入れていくかという所にある。おっこと不思議な友人たちのドタバタは楽しいのだが、ずっと伏線として事故の記憶がある。いわゆる喪の仕事と言えるだろう。そして、おっこにとっての喪の仕事の裏側には祖母にとっての喪の仕事もある。彼女もまた、娘夫婦の死に深く傷ついているのだ。おっこの(ウリ坊に強要されたものとはいえ)若女将発言を受け入れてしまうのも、彼女自身が何かよすがになるものを切実に必要としていたからではないかと感じた。
 物語のスタートが意外とヘビー、かつちょっと生々しいので、子供にはショックかもしれないなと思った。同時に、死者との近しさは子供(小学校中学年くらいまで)にはあまりぴんとこないのかもしれないとも(劇場内の反応を見ていて)思った。子供にとっては、具体的に側にいてくれないというのは一人ぼっちにされるのと同じことなのではないかなと。おっこも多分、当初はそう感じていたのかもしれない。ある程度成長したからこそ、いなくなった人達と自分との関係を捉えなおすことができるのだろう。
 なお、おっこの同級生でありライバル的存在の真月のキャラクターが最後までブレない、デレないところがとても良かった。彼女は自分の主義主張としてあの服装なのであり、おっこ言うところの「普通」におもねる必要はないだろう。
 脚本がしっかりしており、作画も非常によい。オーソドックスな演出がきちんとされており、かつカメラの動かし方がアニメーションとしてはユニーク(つまり作画がすごく大変そう・・・)なシークエンスが目立った。ただ難点として、キャラクターデザインの方向性が統一されていない印象を受けた。おっこやウリ坊、祖母や旅館の従業員達は同じ方向性のデザインと思えるが、おっこの両親はいわゆるジブリ系、幽霊のみよは90年代の萌えキャラ風テイストが入っており、ベクトルがちょっとちぐはぐ。特にみよのデザインは少々古い印象を受けた。


若おかみは小学生! Vol.1 [DVD]
小林星蘭
ギャガ
2018-07-25



『若い女』

パリで暮らす31歳の女性ポーラ(レティシア・ドッシュ)は10年付き合った恋人に振られて家を追い出され、お金も仕事もない。恋人の飼い猫ムチャチャを道連れに安宿や友人の家を渡り歩いていた。ようやく住込みのシッターの仕事を見つけ、ショッピングモールの下着店でも働き始めるが。監督・脚本はレオノール・セライユ。第70回カンヌ国際映画祭カメラドール受賞作品。
 ポーラのじたばたする様、自分をコントロールしきれずあとからあとからボロが出る様はかっこ悪いしみっともないのだが、何だか嫌いになれない。むしろ映画の女性主人公としては新鮮で引きつけられた。お友達にはあまりなりたくないタイプだが、どうかすると応援したくなってしまう。
 この嫌いになれなさ、ポーラの行動が「この年齢の女性ならこうするべき」「この年齢の女性ならこうあってしかるべき」という社会規範をガン無視しているところに所以するのかもしれない。ポーラは31歳で、世間的には仕事もし社会性も常識も備えているはずの立派な大人と言えるだろう。でも恋人に締め出されて泣きわめくし、猫は勝手に連れて行くし、まともに働いたことがない(学生時代に講師だった恋人と出会い、実家が裕福、かつプロカメラマンとしてブレイクした彼に養ってもらっていたらしい)。採用面接での彼女の受け答えは挙動不審かつ嘘ばかりだし、シッターのアルバイト先では「もっと若い人かと思ったわ」と雇い主に言われてしまう。シッター先の子供からも大人というよりも仲間扱い。やりたくないことはやりたくない、出来ないことは出来ない、欲望には忠実でいるという彼女の生き方は、正直と言えば正直。周囲には嘘ばかりつくが、自分には正直だ。
 恋人は彼女に成長しろ、成熟しろと言うのだが、そもそも成長や成熟って何だ?というのが彼女の言い分ではないか。彼女の行動には計画性はなく行き当たりばったりで、この手の話にありそうな「成長」や「気付き」を得る気配も希薄。唯一、疎遠だった母との関係が気持ち改善されるが、それも修羅場を経てだし(31歳はなかなか親と物理的に格闘ってしないから・・・)、結果も曖昧。そのなるようにしかならない、「大人」というカテゴリーでひとつにくくれない感じが時代の気分と合ってたように思う。

メニルモンタン 2つの秋と3つの冬 [DVD]
ヴァンサン・マケーニュ
ポニーキャニオン
2016-11-02



グロリアの青春 [DVD]
パウリーナ・ガルシア
オデッサ・エンタテインメント
2014-09-03


『ワンダー 君は太陽』

 10歳の少年オギー(ジェイコブ・トンブレイ)は生まれつきの障害のせいで、人とは違う顔のつくりをしている。その為長らく母親イザベル(ジュリア・ロバーツ)を教師に自宅学習をしていたが、小学5年生から学校に通うことになった。最初のうちは周囲から奇異の目で見られ、いじめにも遭うが、徐々に友達もでき、周囲の目も変わり始める。原作はR・J・パラシオのベストラー小説『ワンダー』、監督・脚本はスティーブン・チョボウスキー。
 オギーが環境に適応するというよりも、周囲が彼がどういう人間なのか知り接し方が変化していくことで、オギーが学校内での立ち位置を確保できるようになるという面が大きい。校長が言うように、私たちが知ろうとしないと、変わらないとということなのだろう。いじめられるのはオギーの責任ではないのだ。色々な人がおり、それが普通のこととして対応する世の中がいいんだという姿勢は、教師として正しい。若さ故にもうちょっとぎこちない新任教師にも、やはりそういう姿勢がある。オギーの周囲にいる大人が、教師も両親もちゃんとした人たちで理解があるので、安心して見ていられる。
 とは言え、オギーが周囲から好かれるようになった、評価されるようになったのは、彼が頭が良く、性格も良く、ユーモアを持っているからだろう。「普通」の小学5年生よりはもうちょっと出来る子、「持ってる」子なのだ。この「持ってる」部分が若干盛られすぎなように思った。それって「普通」なの?とも、そりゃああれだけ才能あって性格良ければ好かれるでしょ、とも。本人の生まれ持っての才能や努力で障害を克服しているように見えちゃうのは、ちょっと違う気がする。突出した才能がなくても、人柄が秀でているわけではなくても、障害や見た目に関係なく「普通」にお互い接することが出来るというのが正しいあり方なんじゃないかな・・・。
 オギーの視点だけではなく、家族や友人の視点から順番に物語が描かれ、オギーと家族との関係や、学校での人間関係がよりよくわかる。体が弱くケアが必要だった弟がいることで、良い子でいざるをえないオギーの姉のパートが切ない。彼女は元々弟が欲しかったのでオギーのことを大好きだし姉弟仲は良いのだが、時々両親に自分の方を見てほしいのだ。彼女の友人が、オギーと家族のことを太陽系みたいだと言うのだが、言い得て妙だ。自分以外の誰かが常に家族の中心で、自分の番は回ってこないというのは、ちょっときついと思う。

ワンダー Wonder
R・J・パラシオ
ほるぷ出版
2015-07-18


ウォールフラワー スペシャル・プライス [DVD]
ローガン・ラーマン
Happinet(SB)(D)
2015-12-02


『わたしはあなたのニグロではない』

 アメリカ黒人文学を代表する作家、ジョームズ・ボールドウィン。彼が残した文章を元に、1960年代から現代にいたるまでのアメリカの人種差別と暗殺の歴史に迫る。監督はラウル・ペック。
 作中にはボールドウィン本人が語っている映像も多数使われているのだが、(文学者だから当然と言えば当然なのだが)トークの言葉にも非常に力がある。話している時の立ち居振る舞いも含め、魅力のある人だったことがわかる。スピーチの巧みさでは、盟友であった公民権運動のリーダー、マドガー・エヴァースやマルコムX、キング牧師には及ばないのだろうが、強靭な知性を感じる。
 公民権運動真っ只中の1960年代から、現代に至るまでの報道、トークショー、また映画の映像等を繋ぎ合わせたドキュメンタリー。アメリカにおける黒人差別はどういうものなのか、どういう歴史があるのかを提示するが、60年代と現代とが交互に配置されていることで、人種差別の構造があまり変わっていないことがわかってくる。もちろん法律上の整備は各段に進んだし、現代の方が目に見える差別は減っている(はず)だろう。しかし、人間が他の人間を差別する時の構造は根強くある。なぜ差別をするのか、自分たちより下位とされる存在をねつ造してしまうのか、ボールドウィンの言葉は鋭く突いてくる。言葉の古びなさはびっくりするくらいだ。ボールドウィンの文学が普遍性を持つということと同時に、彼が指摘した問題がいまだ現役であるということなので、少々複雑ではあるが。
 作中、あるトークショーの中で、大学教授がボールドウィンの著作・主張に対して反論をする。人間は個々で異なり、人種はその内の要素の一つではない、私は無知な白人よりも教養ある黒人に共感する、人種間問題に拘りすぎだと。これに対するボールドウィンの返事は痛烈かつ切実なものだ。この教授の反論は、人種差別だけでなく様々な差別に対して言われがちなものだと思うのだが、彼の言葉は当事者にとっては全く的外れだろう。当事者にとって差別は今ここにある危機、生命を脅かすようなものであって、見方の問題とかそういうことではない。おそらくボールドウィンらも何度となく、「そういうことじゃないんだよ!」と叫びたくなったのだろう。

地図になかった世界 (エクス・リブリス)
エドワード P ジョーンズ
白水社
2011-12-21


To Pimp a Butterfly
Kendrick Lamar
Aftermath
2015-03-24


『ワンダーストラック』

 1977年ミネソタ。母親を交通事故で亡くした少年ベン(オークス・フェグリー)は、会ったことのない父親の手がかりを見つけ、ニューヨークに向かう。1927年ニュージャージー。聴覚障害を持つ少女ローズ(ミリセント・シモンズ)は厳格な父親に反発し、女優リリアン・メイヒュー(ジュリアン・ムーア)に会う為ニューヨークへ向かう。原作はブライアン・セルズニックの同名小説、監督はトッド・ヘインズ。
 2つの時代、2人の子供の親を求める旅路が平行して進行される。お互いのパートへの呼応の仕方、その呼応に合わせたもう一方の時パートへの切り替え方は、それほど洒脱というわけではないのだが、違和感はなくわかりやすい。ローズがここを通った50年後にベンが!というような時間を越えていく盛り上がりがある。舞台になるのが博物館や美術館、古本屋など、自分のツボをついてくる場所ばかり。博物館にこっそり寝泊まりするなんて、やってみたかったなー!本作、いつになくロマンチックで可愛らしい作品だ。子供が主人公で、子供が見ることも前提に作られているからだろうが、この先の人生に対するポジティブさを感じた。今は居場所がないかもしれないが、いつかきっと居場所が見つかる、あなたを待っている人がいるんだ(それは今期待しているものとは違うかもしれないけど)と語りかけてくるような優しさがある。
 ローズが映画を見に行くシーンがあるが、当時の映画はまだサイレント映画だ。サイレント映画であればローズは他の人たちと同じように楽しめる。しかし映画館にはトーキー映画到来のポスターが貼られている。この先、ローズは映画という世界からはじき出されてしまうのだ。彼女は旅の中でしばしば、この世界からはじき出されてしまうような体験をする。彼女にとって世界とはそういうもので、そういう世界を自分のものにしていく為の格闘があったんだろうなと、「その後」の彼女の姿を見て思った。ベンもまた、彼女とは違う形かもしれないが、そういう格闘を重ねていくのだろうかと。

キャロル [Blu-ray]
ケイト・ブランシェット
KADOKAWA / 角川書店
2016-08-26


クローディアの秘密 (岩波少年文庫 (050))
E.L.カニグズバーグ
岩波書店
2000-06-16



『わたしは、幸福(フェリシテ)』

 キンシャサに暮らすフェリシテ(ヴェロ・ツァンダ・ベヤ)はバーで歌って生計を立て、息子サモと2人で暮らしている。バーの常連で修理屋のタブーは彼女に気があり、何かと声をかけてくる。ある日、サモが交通事故に遭い、手術を受けるための費用が必要になった。フェリシテは金策に奔走するが、惨酷な知らせが彼女を待っていた。監督はアラン・ゴミス。
 カサイ・オールスターズによる音楽が素晴らしい。いわゆる美声というわけではない、特に叫ぶようなフェリシテの歌声は、この音楽に乗ると実に表情豊かで力強い。フェリシテはほぼ全編にわたって苦労の連続で、表情は硬く(無表情に味がある)、内面をたやすくは見せない。しかし歌う時だけは幸福感に満ち、エネルギーに包まれる。そんな彼女が歌えなくなる時、どれほど疲労し絶望が深いのかと痛感させられるのだ。
 金策に走り回る話というと、今年見た映画では『ローサは密告された』(ブリランテ・メンドーサ監督)を思い出した。『ローサ~』では保釈金の為にローサと家族が奔走するが、本作では息子の治療費の為にフェリシテが奔走する。警察も政府も腐敗しており最早アンタッチャブルな世界に突入している『ローサ~』に比べると、本作の方が貧しいながらもまだ殺伐としきってはいないように見える。とは言えお金のことを考え続けるのは心身が削られるものだ。彼女が「ボス」の家に押しかけた際の「私は物乞いじゃない」という言葉は、負け惜しみというよりも彼女にとっては正当性があると考えてのことだろうが、それでも(物理的にも)ボロボロになる。それでもやらざるを得ないというのが辛い。
 しかしそんな中でも、「わたしは幸福」と言えるであろう瞬間が訪れる。前述のように音楽に裏打ちされたシーンはもちろんなのだが、日常のちょっとしたことで、日が差し込むような気持ちになるのだ。無表情だったサモがある瞬間に見せる表情がすばらしかった。タブーの立ち振る舞いが引き出したものだが、彼の2人への関わり方がつかず離れず、でも諦めずといった感じで良かった。2人をサポートするが強権的ではないのだ。

ローサは密告された [DVD]
ジャクリン・ホセ
ポニーキャニオン
2018-03-02




『ワンダーウーマン』

 女性だけの島で育った王女ダイアナ(ガル・ギャドット)は最強の者しか持てないと伝えられる剣に憧れ、母親の言いつけを破り強くなるため修行に打ち込んできた。成長した彼女は、自分に秘められた能力があることに気付く。ある日、島に不時着したパイロットのスティーブ・トレバー(クリス・パイン)を助けるが、彼はイギリス軍のスパイで、彼を追ってドイツ軍までが島に乗り込んでくる。外の世界では大きな戦争が起きていると知ったダイアナは、戦いを止める為にスティーブと共にロンドンへと旅立つ。監督はパティ・ジェンキンス。
 本作、アメリカでは大ヒットし、女性監督による女性が主人公のアメコミ原作映画としては画期的という触れ込みで、実際その通りではあったのだろうが、そんなに新鮮味は感じなかった。また、女性をエンパワメントするというフェミニズム的要素も、さほど強くない(女性にとって不快な要素はほぼないと思われるが。クリス・パインが逆サービスカット的に脱いでいるのは笑ったけど)ように感じた。ハリウッドの男社会性がそれほど強固ということなのかもしれないが、ワンダーウーマンというヒーローの背景をどう認識しているのかで、受け取り方が違うのかもしれないなぁとは思う。アメリカと日本だと、見えているものが違うのかなと。日本の場合は「戦闘美少女」的で絵として見慣れているのでぱっと見新鮮味がないというのはあるだろう(ただ、戦闘美少女に必ず付加されている未成熟な少女としての可愛らしさはワンダーウーマンには意図されていないので、そこは大きく異なるが)。
 ダイアナは物理的な力と、膨大な言語を操り百科事典並の知識を持ち合わせているという知的な力を持ち合わせている。しかし彼女は、人間の社会のことは知らない。ロンドンに出てきたダイアナは様々なカルチャーショックに見舞われるが、これは彼女が世間知らずというよりも、人間の世は彼女から見たら妙なことばかりで、なんでこうなっているの?という感じなのではないかと思う。なぜ肌を見せてはいけないのか、なぜ動きやすい服を着てはいけないのか、なぜ死にそうな人を助けに行くことが不利益と見なされることがあるのか。彼女の疑問はプリミティブなものなのだ。
 本作、ダイアナを1人の人間・女性として見るものではないのではないかとふと思った。彼女は性別云々以前に神により近い存在で、彼女がロンドンにやってくるのは、神が人間の世に降り立ったという状況により近いのだろう。本作が帯びている神話性(ダイアナの母が語るのは正に神話としての自分たちの発祥だ)は、主人公が神の物語だから当然と言えば当然ということになる。同時に、人間の世のことは神にとっては(特に本作が設定しているようなギリシア神話の神々にとっては)基本的にどうでもいい他人事だ。その他人事を捨て置けずわざわざ乗り出してくるというのがダイアナのやっていることなわけだ。彼女の「愛」は恋愛における愛ではなく、人間に向けられる神の愛に近いものなのではないか。それだったら、愛によって世界を救うというのが月並みでも大げさでもないなと腑に落ちる。人間の負の面を見た神がそれでも地上に留まるかどうかという神話として見れば、ラスボスへの違和感を含め、そういうことかなと思えなくもない。『バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生』でも見られた宗教画のようなショットが本作でも使われているが、DCユニバースは神々の闘いというニュアンスを強めて、マーベルと差別化を図るのだろうか。




『ワイルド・スピード ICE BREAK』

 キューバでバカンスを過ごしていたドミニク(ヴィン・ディーゼル)とレティ(ミシェル・ロドリゲス)。ドミニクに正体不明の女(シャリーズ・セロン)が接触し、ほどなくしてドミニクはファミリーを裏切る。女の正体はサイバーテロリスト・サイファーで、自分の計画にドミニクを引き入れたのだ。FBIを休職中のホブス(ドウェイン・ジョンソン)はファミリーを招集しサイファーを阻止しようとする。上司であるミスター・ノーバディ(カート・ラッセル)は、彼にかつての敵であるデッカード・ショウ(ジェイソン・ステイサム)と協力しろと命じる。監督はF・ゲイリー・グレイ。
  ファミリーという言葉がしばしば使われ、ドモイニクと仲間を繋ぐものでもあり拠り所となっている。今回はそのファミリーをドミニクが裏切るという、意表をついた展開だ。では何の為ならファミリーを裏切る、裏切らざるを得ないのか?という所で、更にファミリー、家族というものが浮かび上がってくる。また、ドミニクと仲間たちによるファミリー以外にも、血縁による家族=ファミリーも複数描かれ、正にファミリー映画。そして、ファミリーが一つの岐路にたちまた変化していく兆しも感じさせる。このファミリー、地元の「仲間」的な共同体賛歌には若干憧れ若干反感覚えというスタンスで見ているが、本作ではショウの「家庭の事情」が垣間見られたのは愉快だった。
  相変わらず車の大量消費に拍車がかかっている。元々カースタントが見所だったシリーズだと思うのだが、最近のシリーズ作はカーアクションの「アクション」の意味合いがちょっと変わっちゃったんじゃないかというか、車での対決ってそっちかよ!という突っ込み待ちになっている気がする。本作、どうも自動運転がある程度導入されている世界という設定のようなのだが、事前説明なくそういう要素がいきなり出てくるので、ちょっとびっくりした。車は大量に出てくるけど、それほど愛着を感じない使い方なので、車好きが作るカーアクション映画とは違うんだろうなぁ・・・。ただ、キューバのパートではヴィンテージカーっぽい車体が揃えられていて楽しい。
 ストーリーも設定も相変わらず大味なのだが、派手なアクションパートとキャラクターのやりとりで見せるパートとのメリハリが、これまでよりもついていたように思う。今までは、派手なアクションが続きすぎて却って眠くなってしまったのだが、今回はそういうことがなかった。新キャラクターである青二才捜査官リトル・ノーバディ(スコット・イーストウッド)の投入によって、今までいまひとつ置き所が中途半端だったローマン(タイリース・ギブソン)が活きてきたように思う。ボケに対してツッコミではなく更にボケで応じるというボケのラリーで楽しませてくれる。

『わたしは、ダニエル・ブレイク』

 大工として働いてきた59歳のダニエル・ブレイク(デイブ・ジョーンズ)は心臓を患い、ドクターストップにより働くことができない。国の援助を受けようとするが、複雑な仕組みやインターネット上でしか申請ができないという規則によってままならない。そんな折、同じく援助を拒まれ難儀していたシングルマザーのケイティ(ヘイリー・スクワイアーズ)と出会い、彼女と子供達を手助けするようになる。監督はケン・ローチ。
 本作のパルムドール受賞については、悪くはないが受賞するほどではない、またケン・ローチか等々の反論もあったが、確かにパルムドールにしては小粒ではあるだろう。しかしそれ以上に、今こういう作品が必要なんだ、正に現代の作品として立ち上がっているのだという、監督と、本作を受賞作に選んだ選考委員の強い意志を感じた。正直、本作見るまでは今更ローチが受賞なんて随分保守化してるなー等と思っていた。申し訳ない。ケン・ローチ監督の怒りと反骨精神がみっしりと籠っている、かつ適度なユーモラスさもあって小粒だがタフな作品だった。なお監督の作品としては、イギリスでの興行成績は相当いい部類だったそうだが、本作のような作品が集客するということは、ダニエルに共感する人が大勢いるということだろう。
 ダニエルが苦戦する公的支援申請は、いかに申請者を振るい落とすか、そして振るい落とされ方が申請者の選択である体裁にするかという部分に注力しているんだろうなぁとげんなりするものだった。お役所仕事による無駄の多さ、融通の利かなさというよりも、戦略的に煩雑に、切り捨てるための理由を用意しているのだろう。最早不条理コメディのようだ。また、オンライン申請のみというシステムには驚いた(日本はまだそこまでじゃないですよね)。パソコンに不慣れな層は最初から振るい落とされてしまう。働いていたらパソコン位使えるでしょということかもしれないが、ダニエルのようにそういうものを使わない仕事の人だっている。何だか申請や審査の過程で、申請者のプライドをどんどん削いでいこうとしているみたいなのだ。まだ努力が足りない、真剣さが足りないって、じゃあどこまでやればいいんだよ!と叫びたくなるし、そもそも基本的な生活・生命を左右する援助は真面目・不真面目の別なく受けられるべきなんじゃないのと思う。
 ダニエルはシステムのおかしさの一つ一つに声を上げるが、苦境から抜け出すのは難しい。しかし彼が声を上げることで、同じように声を上げる人や、彼に手を差し伸べる人は出てくるだろう。ダニエルはおかしいと思ったことにすぐ声をあげるのと同様、困っている人がいるとためらわず手を差し伸べる。そして自分自身、周囲にも結構助けを求める。頼めば、皆結構助けてくれるのだ(ダニエルの隣人の若者たちのタフさと軽妙さが救いになっていた)。こういうちょっとした手助けをためらわないことが、ひいては多くの人を支えるようになるかもしれない。苦境を他人事にしない想像力が求められているのだ。わたしも、ダニエル・ブレイクだと思えるかどうかなのだろう。もっとも、現状そのくらいしか出来ることはないだろうというところが辛いのだが・・・。
 経済的に追い詰められ、自分を切り売りしていくしていかざるを得ない時の消耗感とか、どうしようもない感じが迫ってきて辛い。ケイティがバスルームの掃除をしているシーンはやりきれないし、フードバンクのシーンでは泣いてしまった。追い詰められるというのはこういうことなんだよなぁと。そして、(当人の責任・能力の有無に関わらず)人はこんな追い詰められ方されていいはずないのだ。これを防ぐのが福祉の役割のはずなのに(なお、作中のフードバンクは民営)。


『わたしに会うための1600キロ』

 母親を亡くした喪失感から、麻薬とセックスにのめり込み、結婚生活を破たんさせ何もかも失ったシェリル・ストレイド(リース・ウィザースプーン)。人生を仕切りなおす為に、徒歩による1600キロの旅、パシフィッククレストレイルに出る。実在の女性シェリル・ストレイドの自叙伝を元にした作品。監督はジャン=マルク・バレ。
 シェリルはトレイルの経験もなく、アウトドアが得意なわけでもない。パシフィッククレストレイルに出たのは無謀もいいところなのだが、イタい人、考えの足りない人というわけではない。彼女はトレイルに本とノートを持っていくほど読むこと・書くことに熱心だし、トレイルの名簿に文学作品からの引用を書き添えるくらい教養豊か。生前の母親とのやりとりからも、無鉄砲ではなくむしろ理知的な人なんだろうと察しがつく。彼女がトレイルに出るというのは、相当どうかしていたということなのだ。本作で一番びりびりきたのは、基本ちゃんとしているはずの人がここまでがたがたに崩れてしまうという所だった。
 彼女が生活を破たんさせてしまったのは、母親の死が契機になっている。母親はシェリルと弟を女手一つで育て、シェリルと一緒に大学にも通っていた。シェリルと母親の関係は非常に強く、当然喪失感も強烈だ。母親の死がそんなに堪えるのか、理解ある優しい夫でも支えることができないのかという人もいるかもしれない。だが、個人的には他人事とは思えなかった。親と二人三脚みたいに育ってきちゃうと、いなくなった時に茫然とする(特にシェリルの母親の場合は若くして急激に病状が悪化するという状況だし)と思う。闘病を支えてきたなら、燃え尽き感も強いだろう。私は幸いにもこういう経験はまだないけど、身につまされるわ・・・。
 なお、母親がほぼ成人の弟にいそいそとご飯を作ってあげる姿に、読んでいるもの(大学で勉強していること)とやっていることが違う、とチクリと言ってしまうはすごくよくわかる。弟が母親の病気と直面出来ず逃げてしまうのもわかる。母親はずっと母親でいてくれるものって気がしているんだよなと。だからいなくなるという現実が目の前にくるとパニックになってしまうのだろう。
 本作、シェリルがトレイルをしている現在と、なぜここに至ったかという過去がフラッシュバックのように入り乱れた構成になっている。これがすごく良くできていると思った。記憶のよみがえり方、特に嫌なことを思い出した時の嫌な記憶の連鎖の仕方の再現度がやたら高い。いい記憶は連鎖しないんだけどなぁ・・・。

ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ