3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『笑いのカイブツ』

 不器用なツチヤタカユキ(岡山天音)はどんなアルバイトも長続きしないが、テレビの大喜利番組にネタを投稿することを生きがいにし、毎日気が狂うほどにネタを考え続けていた。お笑い劇場の作家見習いになるが、笑いを追求するあまり周囲に理解されずはじき出されてしまう。落ち込んでいた彼を救ったのはラジオ番組だった。番組にネタを投稿する「ハガキ職人」として注目を集めるようになったツチヤは、憧れの芸人から声を掛けられ上京するが。原作はツチヤタカユキの同名小説。監督は滝本憲吾。
 ツチヤは笑いに対しては大真面目にやっていて桁外れの集中力と情熱を見せるし、おそらく才能があるのだが、それが痛々しくもある。彼は万事に不器用で、特に人間関係は非常に不得意。笑いを作る仕事をしたくて劇場や放送局で見習いをするが、どちらも気遣いや根回し、時には自分のやり方を曲げる協調力等、人間関係を調整する力が必須。いくら笑いの才能があっても、その笑いを乗せる場を回していく力がないと役に立たないのだ。自分が好きなものについての才能はあるが、好きなものが乗っかっている場との相性が最悪というギャップは、ピンク(菅田将暉)が指摘するように大変な皮肉だ。今のメジャーな「お笑い」の世界(だけでなく周囲と協力して何かを作っていくような世界)ではいくら才能があってもツチヤのような人間は必要とされにくいだろう。
 ツチヤの才能を買っている芸人・西寺(仲野太賀)はそれがわかっているからツチヤに色々と教えよう、場に馴染ませようとするのだろうが、ツチヤにはそれが辛い。ただ彼の「もうムリです」という訴えは多分周囲に通じない。本作はツチヤに共感しやすいようには作っていないし、彼に本当に才能があるのかどうかも明言はしていない。そこが映画としてバランスの良い所だと思う。実際のところツチヤは身近にいたらかなり面倒くさいタイプだろう。しかし、この通じなさは胸に刺さった。ツチヤの「人間関係不得意」は相当極端だが、私もどちらかというとツチヤ寄りの人間なので、その部分だけは若干共感してしまう。
 ツチヤタカユキの自伝的小説が原作なので、作中のベーコンズはオードリーということなのだろうが、水木(板橋駿谷)の声の出し方・しゃべり方はかなり春日に寄せていている感じでちょっと笑ってしまった。西寺はそこまで若林に寄せてはいないが、何かの拍子にあっここは寄せたなという印象のところがある。

笑いのカイブツ (文春文庫)
ツチヤ タカユキ
文藝春秋
2019-06-06


ハガキ職人タカギ! (小学館文庫)
風カオル
小学館
2017-05-26





『私がやりました』

 有名な映画プロデューサーが自宅で拳銃により殺された。容疑者として逮捕されたのは無名の新人女優マドレーヌ(ナディア・テレスキウィッツ)。彼女は仕事の話があるとプロデューサー宅に呼び出されたが彼に襲われ、自分の身を守る為に撃ったと自供する。彼女のルームメイトで弁護士のポーリーヌ(レベッカ・マルデール)は無力な女性の正当防衛だと弁論し、マドレーヌの感動的なスピーチと相まって陪審員の心をつかみ無罪を獲得。更にマドレーヌは悲劇のヒロインとしてスターになる。しかし順風満帆な二人の前に真犯人だというオデット(イザベル・ユペール)が現れる。監督はフランソワ・オゾン。 
 オゾン監督はアクの強い作風のようでいて、映画によってウェルメイドな方向、キッチュな方向とかなり出力のコントロールをしており結構器用。本作はそこまで個性全開ではなくざっくりとしたコメディとして気楽に楽しめる娯楽作。犯罪を隠蔽する、あるいは冤罪を晴らすのではなく犯人役を取り合うという逆転発想がユニークだ。1930年代が舞台なのだがレトロな衣装と室内装飾も楽しい。
 登場する男性たちはほぼ全員、特に社会的地位がある人たちは少々まぬけで存在感は薄い。本作の主役はあくまで女性たちだ。マドレーヌとポーリーヌは全然個性は違うのだが、自分がいる業界で成功したい(そして男性に舐められたくない)という野心と独立心は共通している。共同戦線としてマドレーヌの裁判で賭けに出て見事勝利するわけだが、ここまでで1本の映画にできそうでもある。そこに絡んでくるのがオデット。彼女は無声映画自体のスターで今はおちぶれている。プロデューサー殺しは自分の犯行であ、マドレーヌとポーリーヌが得た富と名声は本来自分のものなんだから返せ!という彼女の主張も彼女自身も相当強烈だ。と同時に流石往年のスターということなのか、ポーリーヌが何となくオデットに惹かれてしまう風なあたり、オデット役にユペールを起用したからこその説得力だろう(言動だけだとそんなに魅力ある人とは思えないので…)。女性たちのアクの強さがぶつかり合い、つぶし合うかと思いきや…という少々毒があるがいけしゃあしゃあとした落とし方がいい。
 女性が活躍する物語だが、ポーリーヌが法廷で女性の権利についてとうとうとスピーチするシーンは、舞台が1930年であることを考えると少々先進的すぎる(現代の視線では当然のことなのだが)ようにも思った。いかにもこういうことを言いそうというフェミニズムのパロディとして作ったのかもしれないが、パロディとしてまだ消化しきれる段階に(少なくとも日本では)達していない面もあるのでは。現実問題としてこのくらいいちいいち言わないと伝わらないんだよなという気持ちにもなる。

苦い涙 [Blu-ray]
ドゥニ・メノーシェ,イザベル・アジャーニ,ハリル・ガルビア,ハンナ・シグラ
Happinet
2023-12-06


しあわせの雨傘 [Blu-ray]
ジュディット・ゴドレーシュ
ギャガ
2019-01-09




『私の大嫌いな弟へ ブラザー&シスター』

 舞台俳優として活躍する姉アリス(マリオン・コティヤール)と、弟で詩人のルイ(メルビル・プボー)の間には深い因縁があり長年憎み合っている。アリスは演出家である夫との間に10代の1人息子がいる。ルイは人里離れた山中で妻と暮らしており、会うこともなかった。しかし両親が交通事故に遭い、2人は再会せざるを得なくなる。監督はアルノー・デプレシャン。
 映像に豪華さが感じられ、カメラの動きがドラマチック。ああ映画を見ているな!と思える映画だった。冒頭のトラックが向かってくるシーンのあからさまさはあまりにあからさまなのだが、これを堂々とやるのが映画なんだよなと。撮影に豊かさがあるというか、映像に厚みがある感じ。
 アリスとルイの憎しみ合いは、はたから見るとお互いに何がそんなに嫌なのかいまいちわからない。子供の頃は仲が良かったというのだが、ある時からアリスはルイを憎み、それを受けてルイもアリスを憎む。アリスの憎しみはルイの才能への嫉妬からだと後に明かされるものの、先に才能を発揮し両親から期待されていたのはアリスだ。ルイの憎しみはアリスが自分を遠ざけたからだとも、両親が自分ではなく姉を愛したからだとも言えることは言えるが、どれもぴったりとは当てはまらない。ルイはアリスをサイコパス扱いをするが、アリスの娘、つまり自分の甥への非難はこじつけもいい所で、全く褒められたものではない。どっちもどっちなのだ。むしろ姉と弟がお互いを離れないようにするために憎しみで縛り合いお互いの原動力とする、共依存のような関係とも思えた。他人にはよくわからないという所がまさに2人の世界という感じ。本来ならルイと支え合うパートナーであるはずの彼の妻は、彼のケア要員としての側面しか見せない。
 姉弟と両親との関係が印象残った。両親はアリスをお姫様扱いでちやほやしその才能も高く評価する。一方でルイに対しては努力不足と道の定まらなさを指摘し、何者かになれと言い続ける。特に母親はルイのことを嫌っていたらしいと言う。家族間の愛はあるがどこかアンバランスでいびつ。しかし家族というのはどの家族であっても他人が見たらどこかしらいびつかもしれない。



あの頃エッフェル塔の下で
ディナーラ・ドルカーロワ
2020-05-13




『別れる決心』

 登山中の男性が山頂から転落死した。現場を見た刑事ヘジュン(パク・ヘイル)は事故ではなく殺人ではないかと疑う。被害者の年の離れた妻で、中国からの移民であるソレ(タン・ウェイ)に容疑をかけ、捜査を進めていくが、彼女にはアリバイがあった。取り調べを進める中で、ヘジュンはソレに惹かれていく。やがて手がかりが見つかり、事件は解決したかに見えたが。監督はパク・チャヌク。
 予告編の印象とはだいぶ違う方向に転がっていくので驚いた。一方的な妄執かと思っていたらお前もか!という双方向、しかし決定的に食い違っていてその食い違い加減がやばいというラブサスペンス。話の形式としてはよくあるかもしれないのだが、形式の中の要素の組み合わせ方や強弱が大分おかしいと言えばいいのか、不思議な作品だと思う。撮影が素晴らしく、どのショットもばっちり決まっているし、室内装飾の美術面等も相変わらず美しい。ビジュアルの端正さで中身の奇妙さ、いびつさを忘れそうになる。
 監督へのインタビューで、いわゆるファム・ファタールを越えたい(脱却したい)ということを言っていたのが印象に残った。確かにソレは話の枠組みからすると一見、ヘジュンを惑わすファム・ファタール
に見える。しかし彼女の振る舞いは2人の立場の不均等(方や国の庇護を受ける警官、方や後ろ盾を失くした外国人)さ、また言語の壁から来るものだろう。いわゆる「悪女」ではなく、ヘジュンの後輩が言うようにむしろ「可哀そう」なのだ。普通であれば「可哀そう」に思えるシチュエーションをそうは見えなくするというのが、ファム・ファタールという型であり、監督はそれを取り外してフラットにしようとしたのかもしれない。
 ただ、ファム・ファタールという型を取り外したとは言えるのかもしれないが、また別の型に着地してしまっているように思う。ヘジュンとソレの恋はどっちもどっちな執着の仕方ではあるが、恋を全うさせるためにソレの方がより多くのものを求められる。失うものの多さが違うのだ。どうも女性側に献身を求めすぎなような気がした。献身的な女性というのも、女性を描く際の古典的な一つの型だろう。新しい女性像を見せようとして逆に古典返るしている。監督が献身的な女性、苛まれる女性にフェティッシュを持っているのかなという気もするが。

荊棘の秘密(字幕版)
チェ・ユファ
2022-01-14


お嬢さん 通常版 [Blu-ray]
チョ・ジヌン
TCエンタテインメント
2017-07-05



『ワンダ』

 夫や子供と別れ、映画館で財布を盗まれたワンダ(バーバラ・ローデン)は、たまたま入ったバーでデニスという男と知り合う。デニスについていったワンダはいつのまにか犯罪の共犯者として逃避行に同行することになってしまう。監督・脚本・主演はバーバーラ・ローデン。1970年製作。
 監督のバーバーラ・ローデンについては全く知らなかったのだが、本作は1970年ヴェネツィア国際映画祭で最優秀外国映画賞を受賞したものの、アメリカでは全く注目されなかった。ローデン自身は48歳で病気の為死去しており、海外での配給権を俳優のイザベル・ユペールが獲得し、映画保存組織とGUCCIの支援を受けてプリントが修復されたという経緯があるそうだ。アメリカン・ニューシネマの雰囲気を持ちつつ、主に男性監督による男性主人公の物語だったそれの影の部分のような作品になっている。従来だったら主人公はデニスなのだろうが、本作は彼の「同行者」になってしまったワンダの物語だ。影の側から見たアメリカン・ニューシネマと言う感じ。
 冒頭、炭鉱らしき所からワンダが出ていく様がロングショットで延々と映されるのだが、場違い感が強烈。この人なんでここで暮らしていたんだろうという、場へのそぐわなさがある。ただ、彼女はどこに行ってもそんな感じなのではという気もした。居場所のないワンダはそれ故声をかけられればどこへでもふらふらとついていく。その状況でよくデニスについていくな!とびっくりするのだが、ワンダには他に選択肢がなく、あったとしても五十歩百歩でどちらがマシかなどわからない。だったら何であれ必要とされた方についていくということなのかもしれない。投げやりとも楽観的ともいえる態度なのだが、自分の人生に対する価値評価がすごく低いから、多くを求めなさすぎるからとも言える。自分なんてこのくらいだから、という諦めが彼女の行動原理になっているように思えるのだ。どこへ行ってもかりそめの場所にしかならず、誰からも大切にされない彼女の姿が痛々しくやりきれない。最後のショットの希望のなさも強烈。

リバー・オブ・グラス
マイケル・ブシェミ
2021-07-16


ロゼッタ [DVD]
オリヴィエ・グルメ
東芝デジタルフロンティア
2000-10-27


 
 

『わたしは最悪。』

 医大に入り外科を専攻していたものの心理学へ転身、更にカメラマンへの道を目指すも頓挫、今はグラフィックノベル作家のパートナー・アクセルと同居しつつ、本屋で働いているユリヤ(レナーテ・レインスヴェ)。アクセルは子供を欲しがっているがユリヤは「いまではない」と感じている。ある夜、知らない人のパーティーに紛れ込んだユリヤはアイヴァンと出会い、強く惹かれあう。監督はヨアキム・トリアー。第74回カンヌ国際映画祭で女優賞を受賞。
 オスロの風景が魅力的な作品。そして、邦題は少々的を外しているように思った。ユリヤは移り気で30歳間近になっても軌道が定まらず「自分探し」状態なのだが、それってそれほど珍しいことでも「最悪」なことでもないだろう。浮気が本気になったというのも最悪というほどのことではないし、彼女と父親との関係にしても良くはないが最悪というわけでもない。見る前はもっと突出して人生の軌道から外れてしまう人の話かと思っていたのだが、結構凡庸、普通なのだ。普通の人の話だからつまらないというわけではないが、自分が期待していた話とは方向が違って、調子がくるってしまった。もっと無茶苦茶でもいいのにな…
 予告編でも使われているファンタジックなシーンは本作の前半にある。確かにユリヤとアイヴァンとの出会いはファンタジックで夢のようだし、運命的な再会の描写も正に「この人が!」という2人だけの高揚感に満ちている。ただ、映像的な面白さはここがクライマックスで、あとはいたって「普通」。ユリヤとアイヴァンの人生のある章を、次々と見せていく。人生にはファンタジックな瞬間はごくわずかで、あとはわりと面倒くさいあれこれの積み重ねだ。ユリヤがその面倒くささを受け入れていく過程でもある。とは言え、彼女の人生がだんだん落ち着いたものになってしまうところがなんだか寂しい。地味に彼女がやりたかったことに回帰してはいくのだが、スチール写真は撮影者の「自分」が出すぎないものだろうし、結局そのくらいの「表現」が彼女にはちょうど良かったのかもしれないが。
 なお、女性の人生にまとわりつくジェンダー問題も女性が主人公である以上出てくるのだが、パートナーがいる故に表面化する問題でもあるなぁと。子供が欲しい時期がパートナーと一致しない(そもそもいつか子供を欲しくなるだろうという前提なのか…)とか、関係の破綻=住居を失うことだとか、パートナーがそこそこ活躍して知名度があると自分の人生は添え物みたいだとか、まあ色々と世知辛い。

母の残像(字幕版)
デヴィッド・ストラザーン
2017-06-02


若い女(字幕版)
ナタリー・リシャール
2019-11-08


『私はヴァレンティナ』

 ブラジルの田舎町に母親と引っ越してきた17歳のヴァレンティナ(ティエッサ・ウィンバッグ)。通称名で学校に通う手続きの為、家を出て現在行方不明の父親を捜しているが、なかなか連絡がとれない。転校先の学校で友人もできるが、自分がトランスジェンダーであることは周囲に隠していた。しかし年越しパーティーで仮面をつけた男性に襲われてしまい、その後、匿名の嫌がらせや脅迫が彼女を襲い始める。監督・脚本はカッシオ・ペレイラ・ドス・サントス。
 ブラジルはLGBTQの権利保障に積極的だそうだが、本作の最後に表示されるテロップによるとトランスジェンダーの中途退学率は82%、平均寿命は35歳だそうだ。トランスジェンダーにとっては依然として差別が根強く残り、相当生きづらい社会であることが垣間見える。ヴァレンティナがさらされる暴力には、そういった社会背景を反映しているのだ。ヴァレンティナ本人にとっては彼女が口にするように「だから何」(ヴァレンティナはヴァレンティナなのだから)ということで、世間が大騒ぎし憎しみを募らせる様は非常に理不尽で一方的。更に、ヴァレンティナの場合はトランスジェンダーであることと同時に、女性であることで受ける性的被害、二次被害がある。被害者の落ち度にされ、大騒ぎするなと言われ、更に自分のアイデンティティーを否定されるという二重の苦しみだ。ヴァレンティナは気丈ではあるが、彼女が脅しにさらされる様には息が詰まりそうな苦しさ、怖さがあった。
 非常にハードな状況ではあるのだが、ヴァレンティナの母親が常に彼女の味方でいるというのは大きな救いだ。実務的な処し方で力になるだけではなく、彼女の存在そのものを一貫して肯定し共に戦う。ヴァレンティナが折れずに踏ん張ることができるのは、この根本的な肯定が土台にあるところが大きいように思った。また、学校の校長や教師がトランスジェンダーへのヘイトに対してある程度毅然と対処しているのも必要なことだろう。周囲の大人がどう振舞うのかが、若年者にとっては非常に大きい。一方でヴァレンティナの同級生は、いわゆる有害な男性性を体現するような兄の元で生活している。彼の価値観は変化するのだろうか、彼も兄のようになるのだろうかと思わざるを得ない。
 校長とのやり取りで何度も「(通称での通学等が)法律で認められている」という言葉が出てくるのだが、ヴァレンティナにはヴァレンティナとして生きる権利が保障されているということをはっきり表すためだろう。個々人の意識の変化と法的なバックアップとの両輪で社会が変わっていくのだ。
 ヴァレンティナの親友2人のうち、1人が妊婦というのが面白い。日本だと学校が退学させたがりそうだけど、学校側に受け入れ態勢がちゃんとあるということだろう。もう1人はゲイ男性だが、これは「はぐれものの女子を助けてくれるゲイ男性」というステレオタイプすぎるように思った。ただ、ヘテロ男性がトランスジェンダー女性と仲良くなるというシチュエーションが相当にリアリティを持ちにくい社会背景なのだろうか。ヴァレンティナを助けるのは皆女性なのだ。

ナチュラルウーマン [DVD]
ニコラス・サヴェドラ
アルバトロス
2018-08-03


Girl/ガール
ティヒメン・フーファールツ
2020-04-03


 

『私は確信する』

 フランス南西部トゥールーズで、38歳の女性スザンヌ・ヴィギエが失踪した。夫である法学部教授のジャックに殺人容疑がかかるが、決定打となる動機も証拠もない。一心で無罪とされたものの検察は控訴。彼の無実を確信するノラ(マリーナ・フォイス)はデュポン・モレッティ弁護士(オリヴィエ・グルメ)に弁護を頼み込む。自らも250時間に及ぶ通話記録を調べるうちに、新しい事実がわかりはじめる。監督はアンドワーヌ・ランボー。
 実際の事件を元にした作品だが、作中の裁判の前提が色々微妙で気になってしまった。ヴィギエを有罪にするには物的な証拠がなさすぎて、ほぼ曖昧な状況証拠と警察の推測が根拠。また大量の通話記録も誰が何の目的で録音していたのか謎。事件が起きる前や直後のものもあるので、容疑をかけたから録音したというわけではないだろう。フランスの司法制度では珍しいことではないのか?実際もこういう条件だったのだろうか。だとするとちょっと奇妙な気がするが、マスコミのヴィギエ有罪論の過熱具合を加味し、陪審員制度下(この裁判は陪審員制度)なら有罪に持ち込めると踏んだのか?だとすると、被疑者のイメージ操作にばかり注力することになるのでは…。世間が「有罪」のストーリーを望んでいるのだ。
 ノラもまさしくこの点を懸念してモレッティに弁護を依頼するのだが、彼女は彼女で裁判にのめりこみすぎている。自分の仕事や家族は後回しだ。社会正義の為とは言えるが、それ以上にノラはノラで「無罪」というストーリーを見たがり夢中になっているように思えた。手にした情報を自分が望むストーリーに都合がいいようにあてはめていく。それはマスコミや世間がセンセーショナルに煽るのと似通ってしまう。
 モレッティが言うように疑わしきは罰せず、が法の原則だが、人間はそれでは納得できないのかもしれない。何か明瞭なストーリーを求めてしまう。警察の捜査やマスコミの推測もベースにはストーリーの想像があり、それは別に悪いことではないのだが、法の判断とは別物だ。裁判で問われるのはまず法に則ってどう判断されるかというところだろう。本作、何が真実なのかを描く作品ではない。法を適切に運用することはカタルシスとは往々にして一致しないのだ。

コリーニ事件 [DVD]
フランコ・ネロ
TCエンタテインメント
2020-12-02


失踪当時の服装は【新訳版】 (創元推理文庫)
ヒラリー・ウォー
東京創元社
2014-11-28



『わたしの叔父さん』

 27歳のクリス(イェデ・スナゴー)は家族を失って以来、年老いた叔父(ペーダ・ハンセン・テューセン)の農場で暮らしている。足の不自由な叔父の介助をし、牛の世話と耕作に明け暮れ、週に1回スーパーマーケットへ買い出しに行くという、代わり映えのない日々が続いていた。しかしクリスは獣医になるという夢を思い出し、教会で出会った青年とデートするようになる。叔父さんも彼女の背中をそっと押すが。監督・脚本はフラレ・ビーダセン。
 デンマーク、ユトランド半島の農村を舞台にした静かなドラマ。クリスと叔父さんの生活はほぼ2人で完結している。たまに旧知の獣医が来てもお喋りがはずむわけでもない。クリスも叔父さんも言葉少ない性質だが、2人の間では通じ合っている。と同時に、2人ともお互いに言葉に出来ない気持ちがあり、それ故相手に伝わらないことも多々あるだろうと垣間見えてくる。クリスの農場と叔父さんに対する思いもその一つだ。彼女は獣医になりたくて大学進学まで計画していたものの、家族が死んだために断念し、叔父と同居するようになった。酪農という仕事にも叔父に対しても愛着があり、今の暮らしが不幸せというわけではない。とは言え全て納得ずくかというと、そういうわけでもないだろう。序盤、機械の修理をする叔父を見るクリスの表情の複雑さは、ちょっと鬼気迫るものがあって打ちのめされてしまった。静かなドラマだが、全く穏やかでも心温まるわけでもない。自分の人生、家族の人生に対する思いが矛盾をはらみ単純ではないこと、一筋縄ではいかないことが立ち現れていく。
 エレンは時に叔父や農場から離れたくなるが、いざ距離を置くイベントが起こるととたんにしり込みする。叔父への愛と心配だけではなく、彼女がこれまで体験してきたこと故に人一倍恐怖を感じるのだろうという事情も垣間見えるのだが、それにしても極端に思えた。デートに叔父を連れて行ってしまうエピソードはユーモラスな所ではあるのだろうが、エレンの傷の深さが垣間見えて正直笑えない。叔父さんも彼女の背中を押すようでいて、明言はしないという所が少々狡い気もする。ラストの皮肉さ、人生のままならなさが本作をより渋いものにしていた。

ぼくのおじさん [DVD]
戸田恵梨香
TOEI COMPANY,LTD.(TOE)(D)
2017-05-10


ゴッズ・オウン・カントリー [Blu-ray]
ジェマ・ジョーンズ
ファインフィルムズ
2019-06-04




『私をくいとめて』

 ひとりきりの生活を長らく続けている31歳の黒田みつ子(のん)。脳内の相談役「A」と会話することで心の平和を保ち、週末の一人レジャーも板についている。ある日、みつ子は取引先の若手社員・多田(林遣都)に恋心を抱き、晩御飯のおかずを分け合う仲になるが、次の一歩を踏み出せずにいた。原作は綿矢りさの小説。監督・脚本は大九明子。
 みつ子と「A」との会話は声に出していたらちょっとヤバい人だろうけど、やっていること自体はそんなに突飛というわけでもないだろう。誰しも、多かれ少なかれ自分内での討論みたいなものはやっているのでは。はたから見ていたら、みつ子は多分そんなに変わった人ではない、ごく普通なように見えるだろうし、実際わりとちゃんと生活している。ただ、そのごく普通さ、ちゃんとした生活を維持するために押さえ込んでいるもの、主にマイナス感情なものが多々ある。温泉でのエピソードは唐突にも見えるだろうが、普段押さえているものを象徴するような事態が目の前で起きて自分の中身を「くいとめ」られなくなりそうということだろう。対芸人だからとかではなく、会社の中であってもご近所づきあいレベルであっても、女性が世の中でただ生きているだけでもさらされる「嫌なこと」が象徴されていた。「A」が現れなくなった歯科医とのひと悶着もこれと同種の出来事だ。そして、衝動をくいとめてしまう自分自身に嫌悪感が抱くという堂々巡りがまた辛い。
 コミカルな描き方ではあるが、みつ子の苦しさは笑えない。辛さを一人で処理していると、どんどん自家中毒みたいになっていくのだ。ローマにいる間は「A」が出てこないのは、親友と一緒にいるからだろう。何が辛いということを具体的に言わなくても、そこに呼応してくれる人がいれば、Aがいなくても食い止められる。ラストのみつ子の言葉、やっとそれを投げられる相手がきたのだとちょっとほっとした。

私をくいとめて (朝日文庫)
綿矢 りさ
朝日新聞出版
2020-02-28


勝手にふるえてろ
片桐はいり
2018-05-06


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