3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『ローサは密告された』

 マニラのスラムで、小さな雑貨店を営むローサ(ジャクリン・ホセ)一家。ある日、ローサ夫婦は麻薬の密売容疑で逮捕されてしまう。ローサと夫は生活の為に、店で少量の麻薬を扱っていたのだ。警察から恐喝まがいの麻薬売人の密告要求と高額な保釈金の要求を突き付けられたローサと家族は、自分たちの生活を守る為に奔走する。監督はブリランテ・メンドーサ。第69回カンヌ国際映画祭主演女優賞受賞作。
 舞台はスラム、ローサは麻薬の売買もする個人商店主だが、それが特別なこととしては描かれていない。麻薬を売ることも、突然逮捕されることも、密告されることも、密告を強要されることもこの土地では普通のことなのだという、画面の中の「日常」感に圧倒された。ローサたちは、別に特別なことだと思っているわけではないんだよなと。裏社会とか闇社会とか俗にいうが、裏も表もない、これが今いる世界なんだという生々しさ。裏社会とかスラムの闇とか軽々しく言ったら、ローサたちにぶっとばされそうである。彼女たちは自分たちが運が悪かったとは思っているだろうけど、不幸だとはそれほど思っていないのではないか。ここはそういう世界だから、それに応じて生きるしかない。
 フィリピンの警察怖いし酷い!につきる話でもある。腐敗しきっており、麻薬も金も応酬して横流し(警部が札束を持って訪れる先が署長室というのがなんともはや)である。公的な保安機関が自分たちを守ってくれず、搾取する一方なので一般市民の無力感が半端ない。警察とギャングとやっていることが同じだし、権力の後ろ盾がある分警察の方が性質が悪い。不条理を解決できるのはお金だけという不条理さで、法治国家って何よ、という気分になってくる。こういう社会だと、「身を守る」ということへの意識のあり方のレベルが全然違ってくるんだろうな。
 ローサを含め登場人物たちが歩く背中が、度々映し出される。映画を観る側は背中についていく感じになるが、彼らが歩いていく先には目的は異なれどお金が絡んでいる。その金が、彼らの自由をわずかながら保証するのだ。ほぼ全編誰かしらがお金を追いかけていく話なので、見ていてなんだかげっそりしてしまった。お金のことばっかり見ていると、体も心も削られていく感じが(私個人は)するのだ。





『ロスト・イン・パリ』

 雪に覆われたカナダの小さな村に暮らす、図書館司書のフィオナ(フィオナ・ゴードン)には、彼女が子供頃にパリへと旅立った伯母マーサ(エマニュエル・リバ)がいた。ある日、マーサから老人ホームに入れられそうだから助けてくれという手紙が届く。フィオナは勇気を振り絞ってパリへ旅立つが、パリのアパートにマーサはいなかった。セーヌ川に落ちたフィオナは荷物もお金もパスポートも失くしてしまい大ピンチに。更に奇妙な男ドム(ドミニク・アベル)がフィオナに一目惚れして付きまとう。監督はベルギーの道化師夫婦であるドミニク・アベル&フィオナ・ゴードン。2人は製作、監督、脚本、主演を兼ねている。
 夏休みの香りが漂う楽しいファンタジー。これはファンタジーだし少々ナンセンスなのねと、序盤で納得させる。何しろ、フィオナが旅立つ時のカナダは吹雪なのに、彼女がパリに到着すると夏なのだ。いくらなんでもカナダはそこまで北ではない。しかしこういうデタラメがとてもチャーミング。自由の女神を見上げると星が文字通り動いているというのも、味わいがある。ちょっと笑っちゃうけどロマンティックな感じがするのだ。
 映画の楽しさはやはり動きの楽しさなんだなと実感する作品だった。人の体の動きが面白い、というのはプリミティブな面白さだと思うのだが、プリミティブ故に強い。冒頭、室内に雪が吹き込むシーンはコントかよ!と突っ込みたくなるようなベタな人体表現なのだが、やっぱり笑っちゃう。また、レストランでドムとフィオナが踊る、というかドムがフィオナを躍らせるシーンは、多分演じている2人とも相当踊れる(というか体を使える)人のはずなのに、ドムが踊れないフィオナをリードして動かしているように見える、更にそれが(写実的な描写というわけではなく)一つのショーになるように見える所にプロの技を見た。体の部分のちょっとした調整具合でそう見えるんだろうけど、面白いなぁと。また、マーサと旧友とが足だけでダンスするシーンも、とても可愛らしかった。本作、セリフの量はそんなに多くないし状況の説明もあまりされない。しかし、体の動きの表現は豊かで、寡黙な印象は受けない。フィオナの性格など、歩き方だけで伝わってくる気がする。
 生真面目で臆病だったフィオナが、めちゃくちゃな目に遭ううちに段々こなれて解放されていく様に、なんだかほっとする。伯母であるマーサはむしろ大胆で自由な生き方を選ぶ人で、その片鱗が作中のそこかしこに見られておかしい(マーサのある秘密をフィオナが知ってしまったシーンなど、なんだか気まずそうで)。マーサの自由さがフィオナにも染みこんでいくみたいだ。この解放されていく感じも夏休みぽかった。そして本作の素敵なところは、夏休みがまだ終わらないというところですね!

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『LOGAN ローガン』

 ミュータントの大半が姿を消した2029年。不死の力を失いつつあるウルヴァリンことローガン(ヒュー・ジャックマン)は、老いて自身の力を制御できなくなりつつある“プロフェッサーX”チャールズ・エグゼビア(パトリック・スチュアート)を匿い、メキシコ国境付近で暮らしながら、リムジン運転手として働いていた。ある日ローガンは、ガブリエラという女性から少女ローラ(ダフネ・キーン)をノースダコタに送り届けてほしいと頼まれる。彼女はある組織に追われていた。監督はジェームズ・マンゴールド。
 ジャックマン演じるローガン=ウルヴァリンと言えばアメコミ原作の映画『Xメン』シリーズでお馴染み、最も人気のあるヒーローだろう。しかし本作はこれまでのXメンおよびウルヴァリンのシリーズ作品とはだいぶ色合いが異なる。これまでのシリーズとは別物でありつつ一応シリーズのキャラクターや設定は踏まえている(ローガンとチャールズの関係やチャールズの能力など、Xメンシリーズを見ておいた方がよくわかるだろう)という、間口が広いのか狭いのかよくわからない作品だ。作中でコミック本としての『Xメン』が登場し、ローガン自らコミックに描かれていることは嘘だ、作り話だと言うくだりがあるので、Xメンシリーズに対するメタフィクション的な側面もあるのか。
 ローガンにしろチャールズにしろ、明確に老いを感じさせる描写が多く、この点情け容赦ない。片足を悪くし、かつてのような治癒能力も衰えた(そして老眼鏡常備・・・)ローガンはともかく、チャールズがおそらくアルツハイマーが進み、時に脈絡のないことをしゃべり始めたりする様には、Xメンシリーズを見てきた人は愕然とするのでは。チャールズは元々、非常に知的で精神的に豊かな人という造形だったので、知性や情緒が損なわれた状態を見ているとやりきれない。とは言え、本作は辛気臭いわけではなく、殺伐とした中にも妙なユーモアが入り混じったりする。「ボケ老人」感を逆手にとったチャールズのリアクションや、車に八つ当たりするローガンの姿はどこかユーモラスだ。老人と子供を連れたロードムービーの味わいもある。
 これまでの、Xメンのヒーローとしてのウルヴァリンをある程度引き継ぎつつ全否定するような作品なので、ファンがどう受け止めているのか気になった。今までのヒーローとしての「戦い」は相手を殺すことにほかならず、人を殺したらもう元には戻れないと明言してしまう。この点を強調する為か、アメコミ映画としては異色なほど(アメコミ原作のものは大抵年齢制限がつかないように配慮されているので)血肉があからさまに飛ぶ。映画『シェーン』からの引用ではあるが、この言葉は戦い続けてきたローガンだけではなく、まだ子供であるローラもこの先背負っていくということでもある。しかしローガンはローラに対し、それでもなお生きろ、自分の人生を他人に蹂躙させるなと言い切る。こういうところが、すごくアメリカの映画という感じがするなぁと思った。自分の生は自分だけのものであり、何/誰の為に闘うかも自分が決めることだ。そういう意味では、ローガンは本作で、アメリカのヒーローとしての生を全うしたと言えるだろう。少なくともローラにとっては、ローガンはウルヴァリンであり最後までヒーローだった。
 

『ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー』

  幼い頃に科学者だった父親ゲイレン(マッツ・ミケルセン)を兵器開発の為に帝国軍に拉致され、父親の盟友で反乱軍の異端児だったソウ・ゲレラ(フォレスト・ウィテカー)に保護されたものの、ソウにも置き去りにされたジン・アーゾ(フェリシティ・ジョーンズ)は、一人きりで生きてきた。彼女の背景を知った反乱軍はジンに接触。ジンは反乱軍のキャシアン・アンドー(ディエゴ・ルナ)と共に、巨大兵器デス・スターの設計図入手に挑む。監督はギャレス・エドワーズ。
 スター・ウォーズシリーズの「エピソード4新たなる希望」直前に位置づけられる物語。とは言え、ジンにしろアンドーにしろジュダイではないし、そもそも世の中でジュダイやフォースの存在自体が眉唾ものだと思われているらしい。また当初、ジンは生きていくのに精一杯で、帝国軍だろうが反乱軍だろうが知らん、という態度だし、反乱軍であるはずのアンドーの態度にも「仕事」感が強く嫌々な風にすら見える(ゲイレン殺害の指令を受けているからというのもあるけど)。強い使命感があるわけではなく、行動のモチベーションはさほど強くない。キャラクターとしてもそれほど「立って」おらず、本当に「その他大勢」感がある。そのせいもあってか、物語前半はかなりかったるく平坦な印象。正直な所、少々退屈だ。
  しかし後半、急速に気分が盛り上がっていく。ジンに強いモチベーションが生まれ、アンドーたちもそれに感化されていくのだ。大して共通項も使命感もなかった人たちが、帝国軍の好きにさせてたまるか!という意地で繋がり、なんとかミッションを遂行しようとする。彼らの闘いが、エピソード4の「希望」に繋がるのだ。ジュダイたちの物語は王道の英雄物語だが、本作はその背後にいた多数の名もなき人々の物語だ。彼らにもそれぞれの人生があり物語があった、彼らがいたから次の物語に続いたのだと感じさせるクライマックスには、やはりぐっとくる。色々と(主に脚本上の)難点も多い作品なのだが、クライマックスの盛り上がりで帳消しになるくらい。
 キャラクターとして魅力があったのは、おそらく本作見た人の多くは同じことを言うだろうが、チアルート・イムウェ(ドニー・イェン)と相棒のベイズ・マルバス(チアン・ウェン)。チアルートは座頭市をイメージしたような盲目の僧侶だが、何しろドニー・イェンが演じているのでやたらと強い。しかし彼はジュダイではなく、フォースは使えないし、体感したこともないだろう。それでもフォースの存在を信じ続けている。その姿勢が何だか泣けた。ベイズはフォースを信じていないが、チアルートを信じ、時に無茶な彼の行動を支え続ける。ぐんぐん先に行っちゃうチアルートも、ぶつぶつ言いながらフォローするベイズも可愛いのだ。

『ロブスター』

 独身者は強制的にとあるホテルに送り込まれ、45日以内にパートナーを見つけなければ動物に変えられ森に放たれるという社会。妻と別れたデビッド(コリン・ファレル)はかつて犬に変えられた兄同伴でホテルに送られたが、ある出来事に耐えられず森へ逃げ出す。そこでは独身者たちがゲリラ組織を結成しており、デビッドは彼らの保護を受ける。組織の1人である近視の女(レイチェル・ワイズ)と恋に落ちるが、独身者のゲリラでは、恋愛は禁止されていた。監督はヨルゴス・ランティモス。
 監督の前作『籠の中の乙女』は、独自のルールが敷かれている家庭という密室を描いた奇妙な作品だったが、本作もまた、特殊ルール下の奇妙な世界。独身者には社会的な価値がなく、カップル(異性同性は問わない)として社会を構成しなければならないというのは、個人的にはまあそこそこ死にたくなる世界である。かと言って、独身者ゲリラに入ったら入ったで、カップルであること、特定の個人と恋愛をすることは許されない。どちらの社会も生き方を規定されているという意味では同じなのだ。滑稽だが、そのルールの極端さはどうにも怖い。
 デビッドがホテルに送られる際に色々問診を受けるのだが、その際にセクシャリティも聞かれる。ヘテロセクシャルかホモセクシャルかの選択は出来るが、バイセクシャルという選択肢はない(数年前に廃止されたというセリフがある)。また、靴のサイズを聞かれるのだが、端数のサイズはない。中途半端、曖昧なものは排除していく、あれかこれか、という世界なのだ。カップルが成立するかどうかという基準も、何となく好感が持てるといったものではなく、客観的に明らかな共通項(近視だとか鼻血が出やすいだとか)がないと、カップルだということにならないらしい。一方、独身者ゲリラの中では、セックスはもちろん、2人でダンスをすることも禁止されている。とにかく極端なのだ。人間はそもそもあっちかこっちかで割り切ることが出来ない、曖昧な存在だと思うのだが、本作ではその人間独特の曖昧な部分が否定されている。こういう社会だったら、人間やめて動物になる方がまだしも気楽っていう人もいるだろう。
 奇妙で笑ってしまうシーンも多々あるのだが、笑った直後にぞわりと寒気がする。デビッドが最後に直面する事態も、それやるの?!どうなの?!と迫ってくる。でもそれをやってしまうと、結局逃げ出した社会における「こうであれ」というものにまた従うことになるのでは。

『ロイヤル・コンセルトヘボウ オーケストラがやって来る』

 ウィーン・フィル、ベルリン・フィルと並ぶ世界三大オーケストラである、オランダのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(以下、RCO)。2013年、RCO創立125周年のワールドツアーを追ったドキュメンタリー・RCO初の公式記録映画でもある。監督はエディ・ホニグマン。
 ワールドツアーは1年間でヨーロッパ、北米、南米、アフリカ、アジア、オーストラリアの六大州を巡り、50公演を行うという大規模なもの(この他に通常の公演もある)。オーケストラだからそれなりの人数がおり、更に人数分の楽器が加わるという、大所帯での移動となる。楽団員たちは移動に慣れている様子ではあるが、心身ともにタフでないとこれはきつそうだなぁ。楽器に“パジャマ”(楽器ケースを覆う保冷パックのようなもの)を着せて温度と湿度をコントロールする等、作業のひとつひとつが物珍しくて面白かった。オーケストラが演奏しているシーンと、機内や空港、ホテルでのシーンが同じくらいの分量だった気がするが、移動することも仕事のうちなんだなと妙に納得した。これは、有名オーケストラのチケットが高い(日本では特になのかもしれないけど)のも納得せざるを得ない・・・。
 個々の楽団員が自分の楽器、演奏や好きな曲について語るシーンがある。この曲のここが好き!等という話題だと、皆一様にすごくいい顔をする。好きなものについて話すのってやっぱり楽しいよなぁ。打楽器、特にシンバル等、出番ではない時間帯は何をやっているんだろう、眠くなったりしないんだろうかという私の子供の頃からの疑問に回答が得られて満足。やっぱり意識飛んだりするんだな。
 また、楽団員ではない、鑑賞者側の一般人へのインタビューもある。アルゼンチンのタクシー運転手、アフリカの少女や、音楽教師。ロシアの老人など。彼らの佇まいや、音楽との向き合い方もいい。生活の一部として音楽がそこにあるという感じがすごくするのだ。彼らからは音楽だけでなく、仕事やこれまでどういう生活をしてきたか等の話も出てくるのだが、その人の人生の一部が垣間見える。特にロシアの老人の、楽ではなかった人生前半(当時のロシアでは同じような体験をした人は少なくなかったのかもしれないが)の話は、一見そんな雰囲気を漂わせない人物だけに、染みる。

『ローマに消えた男』

 国内最大野党の党首であるエンリコ(トニ・セルヴィッロ)は、統一選挙を前に支持率低迷に悩んでいた。世間からの批判高まる中、エンリコは突然姿を消す。部下のアンドレア(ヴァレリオ・マスタンドレア)は苦肉の策として、エンリコの双子の兄弟ジョヴァンニ(トニ・セルヴィッロ)を替え玉にする。ジョヴァンニは哲学の教授だったが心を病み入院、最近退院したばかりだった。ユーモアと機知にとんだジョヴァンニの言葉は大衆の心をとらえ、支持率は持ち直していく。一方エンリコは、元恋人のダニエル(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)の元に身を隠していた。監督・脚本はロベルト・アンドー。
 ユーモラスでどこか幻想的でもある、不思議な味わいの作品だった。エンリコとジョヴァンニは双子だが、1人の人物の異なる面のようでもある。兄弟は、お互いの「あったかもしれない人生」を生きているようでもあるのだ。セルヴィッロが1人2役を演じているが、対称的な兄弟なのに、顔が同じという点を別としても、立ち居振る舞いのどこかが繋がっている雰囲気が出ている。
 ジョヴァンニの言葉が大衆を魅了していく様は、巻き返しの勢いが楽しいものの、ちょっと怖くもある。ジョヴァンニは実は(少なくとも作中では)具体的なことは何も話さない。そんなに大したことは言っていないのだ。ただ、彼の言葉はその解釈を聞き手にゆだね、言葉の向こう側に、実際にあるかどうかはさておき、言葉以上のものがあると感じさせる。相手の想像力にゆだねるというのは政治家としてはちょっとずるいんじゃないかと思うけど、こういう言葉が今のイタリアでは受けそうなのかな。だとすると、待望されているのは政治の言葉ではなく、文学や哲学が用いる言葉ではないかと思うけど。
 ところで、欧米文化では「(相手をリードして)踊れる男はモテる」という文化が昔からあるんだなぁと妙に感心した。全然違うタイプの映画だけど『パレードへようこそ』でも踊る男はモテてたもんな。

『ロマンス』

 新宿・箱根を結ぶロマンスカーで、車内販売担当のアテンダントをしている北條鉢子(大島優子)。車内で怪しい万引き未遂男を見つけ追求したところ、男は箱根駅で逃げ出した。すったもんだの末、その男・桜庭洋一(大倉孝二)に破り捨てた母親からの手紙を見られてしまう。桜庭はなぜか、母親を探しに行こうと強引に鉢子を連れ出し、箱根の名所を2人で回る羽目になる。監督・脚本はタナダユキ。
 題名はロマンスだが、男女2人の間にロマンスらしきものが全く生まれないところがいい。男女がいれば恋愛が生まれる、って話ばかりな方が不自然で、本作のようにどうもこうもならない(なりそうになるが甘やかなものは全くない)ことの方が実際は多いだろう。鉢子と桜庭は、あくまで他人、ただの人と人として行動を共にする。その共にする理由も、あんまりしっかりしたものではなく、どこかふらふらしている。鉢子の母親がタイミングよく箱根に来ている可能性はかなり低い。それは双方わかっている。2人に必要なのは、日常と日常の隙間の時間みたいなもので、だからこそ自分の日常にはいないはずの人が同行者として都合がいいのだ。
 鉢子の持つ母親へのわだかまりはさして珍しいものでもないのだが、だからこそ切実だ。そんなことにこだわっている自分、家族で楽しかった瞬間を思い出してしまう自分が更に嫌になる、というのは何かわかる気がする。ショボい悩みだからよりしみじみしてしまうのだ。
 一方、桜庭の抱えている事情もなかなかにしょうもないものなのだが、本人にとってはどん詰まり状態。そういう状態になっている自分が嫌でしょうがない、という部分では2人とも共通している。だから桜庭はちょっとした逃避行に飛び出してしまうし、鉢子も(一見嫌々だが)それに乗っかってしまう。
 逃避行をやってみても、彼らの問題が解決するわけではない。でも少しだけ風通しが良くなる。その「少し」でまた日常をやりくりできるようになっていくんだろうなって思えるところがいい。

『ロスト・リバー』

 住民がどんどん流出し、産業もなくなりゴーストタウン化しつつある街ロスト・リバー。少年ボーンズ(イアン・デ・カーステッカー)はクズ鉄集めをして生活費と自動車のパーツを稼いでいた。隣家に祖母と2人住む少女ラット(シアーシャ・ローナン)から、かつて貯水池を作るために町の一部を水の底に沈めた、それ以来街には呪いが掛けられている、呪いを解くには水底から何か持ちかえらなければならないという伝説を聞く。一方、ボーンズの母ビリー(クリスティーナ・ヘンドリックス)は家のローンを払う為に怪しげなクラブで働き始める。監督は俳優のライアン・ゴズリング。本作が初監督作になるそうだ。
 デヴィッド・リンチがとにかくかっこいいとされていた時代の若手監督の映画やらMVやらを彷彿とさせる美術と世界観だった。ゴーストタウンと化した街、廃墟となったホールでダンスする少年と少女、グロテスクなショーを見せるクラブのけばけばしさ、そして水面から突き出した街灯。好きな人は好きだろうなぁ。ゴズリングの中の青春時代というか、少年性みたいなものが垣間見えた気がした。スティーブン・キング作品とかも好きなんじゃないかな。
 鬼気迫るサスペンスというよりもおとぎ話のような雰囲気で、街が廃れていく様は正に呪いのように見える。なぜ廃れたのかという具体的な要因が見えてこない(説明がない)ので、それこそ疫病か何かで一気にごっそりと人口が減ったんじゃないかと思ってしまう。チンピラが街を牛耳っているのだが、あれだけ人口減って産業もなくなっていたら、街を支配してもメリットないんじゃない?被支配民が少なすぎない?と思ってしまった。そういうツッコミは多々入れられそうな話なのだが、あくまで雰囲気重視なので突っ込むだけ野暮だろう。
 祖母が動けないラットはともかく、ボーンズやビリーがこの街に拘る理由は、明瞭ではない。ビリーにとっては夫と暮らした家があるからという理由があるにはあるが、身の危険まで感じるようになった場所で、幼い子供(ボーンズの下に弟がいる)がいたらむしろ心配で引っ越したくなるんじゃないかと思うが。それでも留まり続けてしまう、ということが街の呪いなのだろう。留まってしまう気持ちもわからなくはない。土地への愛着って理屈を超えたものだと思う。そこから自由になるには、呪いを解くくらいのインパクトが必要なんだろうな。

『6才のボクが大人になるまで』

 6才のメイソン(エラー・コルトレーン)は母オリヴィア(パトリシア・アークエット)と姉サマンサ(ローレライ・リンクレイター)と暮らしていたが、母が大学への復学を望み、祖母の住むヒューストンへ引っ越す。離婚してアラスカへ行っていたという父メイソンSr.も顔を見せるようになった。少年とその家族の12年間を描いたドラマだが、主要キャストを変えずに、本当に12年間かけて撮影したというとんでもない作品。監督・脚本はリチャード・リンクレイター。
 主要キャストが入れ替わらないので、登場人物の加齢はごくごく自然。かなり時間の流れの省略は大胆だが、演じる俳優が交代した場合のような違和感がない。時間の流れに、俳優の変化ではなくて風俗(ゲーム機の世代交代とか、ハリーポッターなどのその時期の流行もの)の移り変わりの方ではたと気づくというほどだ。
 演じる側にとっても、自分の加齢がそのまま登場人物に投影されるわけで、俳優本体と役柄とのシームレスさが興味深かった。自分の加齢をまざまざと刻まれるのはきついんじゃないかなという気もするが、こういう体験はなかなか出来ないだろうし、俳優にとっては面白かったのだろうか。製作側は先が見えなくてひやひやだったろうけど・・・。ただ、一貫して同じ俳優が演じていることの本作における効果がどの程度なのかは、正直わからない。脚本演出がしっかりしているから、途中で子役から大人の俳優に代っても、それで見劣りするとは考えにくい。どちらかというと、一度こういう撮り方をしてみたかったから撮った、という側面の方が大きいんじゃないかな。
 パトリシア・アークエットに徐々に皺が増え、たっぷりとした二の腕を披露している姿や、イーサン・ホークの白髪の増え方、体の緩み方には、なんだか感動してしまった。リンクレイター監督は、この2人に信頼されているんだろうなぁ。だからというわけではないが、主人公よりもむしろ、徐々に「老い」に近づくこの2人の方に視線がいった。私の年齢の問題もあるだろうけど、大人の(外見ではなく言動の)変化の方が子供の変化より、おっ!という気分になるのだ。
 リベラル派だったメイソンSr.が再婚した女性は、ガチガチの保守層(おじいちゃんがメイソンの誕生日にライフル、おばあちゃんは聖書をくれるようなおうち)だが、それでも意外とうまくやっていたりする姿には、この人、遅まきながら大人になったんだなぁと感慨深くなった。人生はタイミングだ、みたいな言葉が出てくるが、オリヴィアと結婚していた時にその「大人」さを得ていたら、2人は離婚しなかったかもしれない。また、オリヴィアが再婚相手と毎回同じような雰囲気で破局するのにも、苦笑いしてしまう。それが悪いというのではなく、人生ってこういうもんだよなと思えるのだ。
 終盤、大学生となったメイソンが同級生の女の子と語らうシーンがあるが、そこで本作のテーマそのものみたいな言葉が出てくる。えっここまでやっといてそれ言っちゃう?と少々興ざめだった。言わなくてわかるけどなぁ。


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