3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『ルイス・ウェイン 生涯愛した妻とネコ』

 ルイス・ウェイン(ベネディクト・カンバーバッチ)は早くに父を亡くし、母と妹たちを養う為に挿絵画家して働くようになる。ある日、妹の家庭教師として雇われたエミリー(クレア・フォイ)と出会う。恋に落ちた2人は周囲から身分違いと猛反対されながら結婚し、田舎に新居を構える。しかしほどなく、エミリーは末期がんを患っていることがわかり、どんどん弱っていく。ルイスは庭に迷い込んできた子猫にピーターと名づけ、エミリーのために子猫の絵を描き始める。監督はウィル・シャープ。
 ルイス・ウェインの名前は知らなくても、彼の絵を見たことはあるという人は少なくないのでは。ユーモラスな猫たちの絵や、花や星(本作を見ると、あれは電気の描写なんだろうなと腑に落ちる)と組み合わせたような抽象度の高い猫の絵が有名だろう。そのルイス・ウェインの伝記映画。ブルジョワ層の女性が働きに出るということはあまりないので、家長であるウェインが家族全員(妹が多い!)を養わなければならず常に経済難だったり、ブルジョワ層と家庭教師との結婚が一大スキャンダルだったり、そもそも猫をペットにするという習慣がまだ定着していなかったりと、時代背景の描写にはあらためてそうだったのかと興味深かった。特に猫が愛玩動物としてイギリスで定着したのは、ウェインの作品の影響もあったみたい。
 ウェインがエミリーと人生を共にしたのはわずか3年程度。死に別れてからの人生の方がずっと長い。しかしその3年の記憶が彼の人生を支え続けたということがよくわかる。失った人についての記憶は、愛情故に残った人たちを苦しめもするがそれ以上に、幸福な時間の記憶は何かの時に、自覚の有無は別として支えになっていく。そしてエミリーとの結婚により不仲になった妹たちとも、幸福な時間は確かにあったし、そこには愛情があった。彼女らとの記憶もまた、ウェインの人生の一部であり支えだったのでは。妹の最後の言葉がそれを物語っている。
 ベネディクト・カンバーバッチは本当に演技が上手いんだなと実感する作品だった。彼が得意とする奇矯な人を演じているが、青年時代から老年時代まで一貫して違和感がないのはすごい。特に老年時代は老けメイクで演じているのだが、下手するとわざとらしいおじいちゃん演技になりそうなところ、普通に年を取っている人の感じが出ていた。歩き方の変化等上手い!


エジソンズ・ゲーム(字幕版)
ニコラス・ホルト
2020-08-07



『ルイ14世の死』

 太陽王と呼ばれ、豪奢を突くしベルサイユ宮殿を作ったルイ14世(ジャン=ピエール・レオ)は死の床にあった。廷臣や医者たちは王の回復の為に尽力する一方で、死に備えつつあった。監督はアルベルト・セラ。
 カメラ数台をほぼ固定して撮影しているようだ。非常にかっちりと絵を作りこんでいるように見える。特にライティングはレンブラントの絵画を思わせるような光と影のコントラストを強調したもので、同時に輪郭ははっきりさせすぎない。影の中に対象が沈んでいくような印象も受ける、絵画的なもの。絵を作りこんでいるように見える一方で、カメラの前を平気で誰かが横切ったり、話している人が他の人の影に隠れて肝心の表情が見えなかったりする。それでOKにしてしまうんだなという、不思議な新鮮さがあった。自分の絵の設計に強烈な自信のある監督なように思う。また、室内はほぼ薄暗いままで見た目では昼も夜もわからない。屋外から聞こえる鳥のさえずりや虫の声で、時間が経過したことが何となくわかってくるという、音の使い方が良かった。
 ルイ14世はほぼ寝たきりで、回復は見込めないだろうという状況なのだが、死にそうでいてなかなか死なない。人間が死ぬのには時間がかかるんだなぁと妙に感心した。ある死が始まってから完了するまでを延々追っている映画とも言える。
 人の死という一般的に深刻な事態が進行している一方で、そこかしこに妙なユーモアがある。そこでそんな勇壮な音楽入れるの?!(作中、いわゆるサウンドトラック的音楽がかかるのは多分ここだけ)とか、王が帽子を取って挨拶したり、ビスケットを食べたりするだけで廷臣たちが拍手したり。こびへつらっていると言うわけだが、不思議と皮肉っぽさはない。帽子のくだりに関しては、王自身もこっけいなのをわかってやっているふしがあるように思う。ユーモラスなのだ。
 当時最先端であろう医術を施す医師たちがいる一方で、オカルトまがいの薬を処方するエセ医師もいる。周囲はどちらが適切とも決められずにおり、この時代の科学と迷信とがせめぎ合っている感じがした。医師たちの処置は現代から見ると的外れでもあるのだが、その行動には科学的な精神があるように思った。何でも確認し、トライ&エラーを重ねてデータを蓄積する。最後の医師の発言には笑ってしまうが、科学者の姿勢としては真っ当だろう。科学の前では王も平民も一症例にすぎないのだ。


コロッサル・ユース [DVD]
ヴェントゥーラ
紀伊國屋書店
2009-05-30





『ルージュの手紙』

 パリ郊外に住むクレール(カトリーヌ・フロ)の元に、長年音信不通だった元義母のベアトリス(カトリーヌ・ドヌーブ)から連絡が入る。重要な話があるから会いたいと言うのだ。30年前、ベアトリスが家を出て行った後に父親は自殺し、クレールは彼女を許せずにいた。しかし、脳腫瘍を患っているというベアトリスを放っておけず、不承不承付き合うようになる。監督はマルタン・プロヴォ。
 クレールは助産師という仕事にも、これまでの自分の人生にも誇りを持っている。地に足の着いた生活をする彼女には、破天荒で感情の赴くままに生きるベアトリスのやり方は理解できない。生活者として生き生きとするクレールと、放蕩者として生き生きとするベアトリスは対称的だ。しかし2人の間には、何か通じ合うものが生まれてくる。かつて短い時間とは言え母娘であったから、父親=夫という2人が愛し合た存在があったからというのは一因にすぎないだろう。むしろ、それぞれのやり方で人生を楽しんでおり、相手の人生を尊重しているからではないだろうか。クレールはベアトリスの食生活や喫煙等生活習慣に色々口出しするし、ベアトリスはクレールの野暮ったい服装やストイックな食生活に難癖つけるが、ある一線以上はお互い踏み込まない。口出しはするが、相手を否定するようなことは言わないという大人の振る舞いだ。ベアトリスはずうずうしく振舞うが、一線は弁えているように思えた。
 この距離感の保ち方は、クレールと恋人(らしき)ポール(オリヴィエ・グルメ)の間にも言える。ポールは親切で色々とクレールの世話をやいてくれるが、彼女が踏み込んでほしくなさそうな部分には踏み込まない。クレールはポールに好意は持っているが、常に一緒にいてほしいわけではないだろう。それぞれ自分の生活があり、お互い都合がつくときに一緒に過ごすというスタンスの無理のなさが好ましい。クレールは節制したきちんとした生活を好むのに、自由人ぽいポールと付き合っているしポールの生活態度についていちゃもんつけたりしない。それはそれ、これはこれ的な、領域の重なる部分と重ならない部分をちゃんと見分けている感じがして面白かった。

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『ルーム』

 5歳のジャック(ジェイコブ・トレンブレイ)は、母親のジョイ(ブリー・ラーソン)と「部屋」で暮らしている。ジャックは「部屋」から出たことがなく、外に世界があることも理解できずにいる。「部屋」に来るのは、オールド・ニック(ジョーン・ブリジャーズ)だけ。ジョイはオールド・ジャックに誘拐され、7年間「部屋」に閉じ込められていたのだ。ジョイはジャックに外の世界を教え、自分も脱出するために賭けに出る。原作はエマ・ドナヒューの小説『部屋』。監督はレニー・アブラハムソン。
 ジャックが置かれてきた状況は、客観的には異常で悲惨と言われるだろう。しかし、ジャックは「部屋」しか知らない。彼にとっては「部屋」が世界で、それがおかしいとか可哀そうだとかいう発想はない。ジャックは「部屋」に戻りたがったり、「部屋」での体験を話したりして、ジョイはその度に傷つく。しかしジャックにとっては、それが正しいのかどうかは別として、子供にとっては親=世界くらい存在が大きく、幼いうちは他を求めないし知らないものだろう。母親と常に緊密な世界は、ジャックにとってはそれなりに満ち足りて平和だったのかもしれない。それは、当事者であるジャックにしかわからないことなのだが。
 当事者しかわからない、というのはジョイにとっても同様だ。テレビのインタビュアーは、彼女に逃げようとは思わなかったのか、ジャックの処遇に他の道がないか考えなかったのかと問う。外野だから言えることで、当事者にとってはそんなところまで考えが及ばないだろう。実際の所、あの状況でジャックの健康も情緒も健やかであるよう配慮し育て(「部屋の中で運動させたり文字を教えたり、ビタミン剤を要求したりと、ジョイの努力は涙ぐましいものがある)、脱出させたということは、ジョイは相当タフだし聡明だということだと思うが・・・。後からこうだったんじゃないか、ああすればよかったんじゃないかと周囲が(これは当人もだろうけど)言うのは、言ってしまいがちだけど無神経だし意味がないなとしみじみ。ジョイもまた、「部屋」での暮らしと自由になってからの暮らしのギャップや、自分が閉じ込められていた間の家族や世の中の変化、そして何よりなぜ自分だったのかということで苦しむ。ジャックは子供なだけに変化もすぐに吸収・適応していくが、元々「部屋」の外にいたジョイはそうはいかないのだ。
 ジャックにとって「部屋」の外の世界はまさしく別世界。初めて世界を体験するというのはこういう感じかと、ジャックの目を借りて追体験するようだった。ただ、彼にとってなぜ何もかもが新鮮なのかという原因を考えると、新鮮さの見せ方としてこれが正しいのか(倫理的に問題はないのか)わからなくなってくるのだが。

『るろうに剣心 伝説の最期編』

 『るろうに剣心 京都大火編』の続編。明治政府転覆を企む志々雄真実(藤原竜也)の戦艦から海に逃れた緋村剣心(佐藤健)は、かつて剣術の師匠であった比古清十郎(福山雅治)に助けられる。志々雄を倒すために奥義を会得したいと、剣心は清十郎に頼み込む。一方、志々雄は戦艦の威力を示し、政府に対して剣心を捕え、処刑しろと要請する。原作は和月伸宏の漫画。監督は大友啓史。
 京都大火編に比べると、そんなに上映時間は変わらないのにコンパクトに収まっている印象。こなさなくちゃならない要素がこちらの方が(まだしも)少ないからかな?ただ、アクションシーンはどういうわけか前回よりも見難くなっている気がした。俳優の技術的な問題もあるのかもしれないけど、なぜここで(漫画で言ったら)コマ割るのかな?みたいな部分が多かったように思う。1ショットが短すぎ、つなぐところも不自然で動きの連続性が分断されているような印象を受けた。私のアクションに対する好みの問題もあるのだが、もっと長めのショットで、カメラ寄りすぎずで見てみたかった。カメラをがちゃがちゃ動かしすぎだし細部に寄りすぎなんだよ・・・。
 ストーリーの組み立て・落としどころとしては、原作との兼ね合いを考えても妥当だったのではないだろうか。志々雄一派の個々の面子の紹介とか、蒼紫(伊勢谷友介)の扱いなどなげやりもいいところなのだが、原作を読んでいることが鑑賞の前提になっているんだろうし、そんなに難点にはならないのかな。
 大友監督にとっては、ドラマ『竜馬伝』と対になる作品という気持ちがあるんじゃないのかな。『竜馬伝』は大河ドラマ、本作は歴史ファンタジーとでもいうような作風だが、終盤の志々雄の言葉や明治政府の態度を見ると、表裏関係は意識していたんじゃないかな思う。『竜馬伝』は時代の先端に立った(そして歴史に残った)人の話だけど、本作は時代のメインストリームから振り落とされた人たち(クライマックスの5対1バトルなんて全員貧乏くじひいた組だよなと)の話とも言える。最後の伊藤らによる「あれ」は、真面目にやってる設定なのかもしれないけど茶番や皮肉にも見えた。どっちのつもりだったんだろう。まあ本作、厳密に史実を踏まえているわけではないから別にいいといいえばいいんだけど・・・。

『ルパン三世』

 秘宝「クリムゾンハート・オブ・クレオパトラ」を手に入れる為、ルパン三世(小栗旬)、次元大介(玉山鉄二)、石川五右エ門(綾野剛)、峰不二子(黒木メイサ)は、強固なセキュリティを誇る要塞「ナヴァロンの箱舟」に挑む。原作はモンキー・パンチ。監督は北村龍平。
 原作はもちろんモンキー・パンチなんだけど、世間一般で定着しているのはモンキー・パンチの漫画を原作としたアニメ版、特にいわゆる「赤ルパン」版だろう。本作もモンキー・パンチの漫画よりもむしろ「赤ルパン」のイメージに近づけて実写化しているのだろう。何かややこしい実写化だな・・・。予告編の段階で原作やアニメのファンにとっての「これじゃない」感がぷんぷん漂ってきていて、どんなことになるやらと思いつつ見に行ったのだが、これは原作のイメージが云々の問題じゃないですね・・・。
 私はルパン三世は好きだけどすごくファンというわけではないし、仮に原作のファンだったとしても(本作に限らず)映画と原作は別物だから、映画は映画として面白ければ問題ないと思っている。しかし本作、そもそも映画としてあまり面白くない。途中で「1年後」というテロップが出て本題、という流れなのだが「1年後」になるまでがやたらと長い。序盤、中盤、終盤のペース配分にメリハリがなくて単調だ。そして長い。もうちょっと短い尺にならなかったのかな・・・いらないエピソードいっぱいあった気がするんだけどな・・・
 一番きつかったのは、単調さも含めてとにかく野暮ったいこと。北村監督はアクション映画の人のはずなのにアクションシーンはショット細切れで(俳優の能力的な問題もあるんだろうけど)がっかりだし、コミカルなシーンはスベるし、「富豪」の表現が昔の漫画の富豪っぽくて脱力しちゃうし。ルパン三世は洒脱なコミカルさが味なんじゃなかったのか!いやルパン関係なくダサいわ!と突っ込みたくなる。
 ただ、声を大にして言っておきたいのは、本作のつまらなさは俳優のせいではないということだ。イメージが定着しきっているキャラクターを演じるのはきついと思うが、小栗筆頭に頑張っていると思うし、黒木メイサの峰不二子は案外悪くなかった。それにしても小栗旬は主演映画に関しては貧乏くじばっかり引いているイメージだな・・・。努力の跡が見えるだけにかわいそう。


『るろうに剣心 京都大火編』

 2012年に公開された『るろうに剣心』の続編。かつて「人斬り抜刀斎」の異名を取った緋村剣心(佐藤健)は、神谷薫(武井咲)が師範代をつとめる神谷道場で平和な暮らしを送っていた。しかし抜刀斎から暗殺者役を引き継いだ志々雄真実(藤原竜也)が、自分を「処分」した明治政府への復讐を企てていると知り、志々雄のいる京都へ向かう。原作は和月伸宏の同名漫画。監督は大友啓史。
 前作公開時の記事で、漫画的な表現ではなく時代劇、アクション映画としての表現として作った、というような話を読んだ記憶があるのだが、本作ではむしろ漫画的な方向(製作サイドが意図しているのかはわからないが)に振ってきた印象を受けた。志々雄と十本刀が登場する時点で、ビジュアル面の都合で漫画的にせざるをえないのだろうが(志々雄の「包帯」も、もう明らかに「包帯」ではない(笑)。衣装担当の苦労がしのばれる)。一応、明治時代が舞台ではあるが、既になんちゃって明治状態だし史実に忠実というわけではない。アクションもいわゆる肉弾戦のアクション映画とは見え方が違って、ワイヤーアクションを使った香港の歴史ファンタジー映画っぽいニュアンスとでも言えばいいのか・・・。いわゆる時代劇のアクションではないなと思った。特に宗次郎戦など予想外に原作のテイストを感じたから、そう思ったのかもしれないが。
 相変わらず佐藤の身体能力が高く、これだけ動ける俳優を使えたら、アクションシーンをより速く、速くとしたくなるのもわかる気がする。佐藤は決して演技が上手いというわけではないと思うのだが、やはり華があるというか、見映えがいい。また、瀬田宗次郎を演じた神木隆之介の動きが意外とよく、ルックスと相まって「うわ宗次郎だ!」という(原作ファンにとっては)軽い感動があった。
 ただ、前作同様、長すぎる。特に後半~終盤にかけては冗長に感じるところがあった。しかも前後編の前編なので、見る側にとってのハードルを(ただでさえシリーズ続編なのに)そんなに上げていいのか?という気も。

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