3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『リベルテ』

 「映画批評月間 フランス映画の現在」にて鑑賞。18世紀、フランス革命前夜。ルイ16世のピューリタン的に厳格な宮廷から追放された自由主義者の貴族たちは、ドイツ公爵ワルシャンの支援を求め国境を越える。2019年、アルベール・セラ監督作品。2019年カンヌ国際映画祭「ある視点」部門受賞作。
 森の中でこっそりと墜ち合い、サド的な世界で享楽にふける退廃貴族たちの姿を見つめる。どのショットも、特に前半は覗き見的なニュアンスが濃厚だ。3台のカメラで撮影しているが、俳優には今どのカメラが撮影しているのかは明示していないので、常に緊張感が漂う。俳優がカメラ位置を把握していないことで覗き見感が煽られるのだ。ただ、後半ではそういったショットの縛りが緩まっているように思えた。
 サド的世界ということで、SM、スカトロ満載。ヌードどころか局部も露出(作り物っぽく解釈に困るものもあるのだが)しており、いわゆる「過激」な作品ということになるのだろう。ただ、現代においてこういったえぐい性癖をそのままビジュアルとして見せることは果たして過激なのか?既に通った道でありもはやアナクロなのでは?という気がしてならなかった。サド的世界を見せること自体が目的ではなく、視線=カメラのあり方を実践すること自体が趣旨ということなのかもしれないが、だとするとこういった撮影対象にする必要あるのか?と思ってしまう。セックス(ないしはそれに類するもの)シーンは俳優の負担も大きいし、特に本作のそれは肉体的に結構しんどそうなので、これを俳優に強いることにより本作のクオリティはどの程度上がっているのか?心身の危険はなかったのか?と現場の事情まで心配になってしまう。『ルイ14世の死』と比べるとショットの強度も弱い気がするし…
 なお18世紀の衛生環境で本作のようなセックスをするのはリスク高すぎるのでは…。後々大変だと思う。感染症がものすごく心配になりましたね。

ルイ14世の死 DVD
フィリッペ・ドゥアルテ
紀伊國屋書店
2019-04-27


閨房の哲学 (講談社学術文庫)
マルキ・ド・サド
講談社
2019-04-12


『リトル・マン』

 EUフィルムデーズ2020にて配信で鑑賞。リトル・マンは森の中に家を作って、一人暮らしに満足していた。しかし自分の人生に欠けたものがあるという夢に悩まされ、眠れなくなってしまう。ある部屋を訪問しろと夢で告げられた彼は旅に出る。監督はラデク・ベラン。原作は2008年にチェコで出版された絵本。
 人形を使った実写映画。と言ってもアニメーション(ストップモーション)ではなく、操り人形を使った「人形劇」であるというところがユニーク。まさにチェコのお家芸!人形の動きにしろセットにしろ小道具にしろ緻密でやたらと力が入っており、なぜこれをわざわざ人形劇でやろうとした…?(コマ撮りができるアニメーションならまだわかるんだよね…)とその情熱に心打たれるやらあきれるやら。人形劇だからオールセットなのかと思ったら、ちゃんとロケをやっている(グラスの水や湖等でちゃんと「水」を使っているあたりが地味にすごい)という手間暇のかかり方。人形の造形は決して可愛らしいものではなく、妙にリアル志向だったり時にグロテスクだったりする。人間とも動物とも虫ともつかない不思議な造形のキャラクターが次々と登場する。原作の絵本がどういうビジュアルなのか気になるが、ちょっとグロテスクでとらえどころのない部分が魅力になっている。
 美術面には非常に拘りを感じるが、ストーリー展開や全体の構成はかなり大雑把。リトル・マンを引き回すだけ引き回しておいて、最後はあっさり収束させてしまう。そこで諸々説明してくれるのなら、最初からそこに行けばいいのに…と、今までの経緯は何だったんだろうと唖然とした。緻密な部分と大雑把な部分の落差が激しすぎる。おおらかで作品の自由度が高いとも言えるかもしれないけど…。


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コロムビアミュージックエンタテインメント
2009-03-18


 

『淪落の人』

 事故で半身不随となったリョン・チョンウィン(アンソニー・ウォン)は離婚して妻子とは別居、妹とも疎遠で一人暮らし。フィリピン人のエブリン(クリセル・コンサンジ)を住み込み家政婦として雇うが、彼女は英語は喋れるが広東語は喋れず、リョンは英語がわからない。最初はお互いイライラしていたが、徐々に親しみと信頼を築いていく。監督・脚本はオリバー・チャン。
 フルーツ・チャン製作とのことで、久しぶりに彼が関わる作品を見られてうれしい。フルーツ・チャン作品の常連だったサム・リーもリョンの友人ファイ役で出演しているが、これがまたいい。どこかセクシーなんだよな。
 リョンとエブリンは雇用主と被雇用者という関係で、最初は双方上下関係を意識している。広東語がわからないエブリンのことをリョンは侮ってもいる。エブリンの方も家政婦仲間から「広東語がわかるとアピールしてはだめ、バカの振りをした方が余計な仕事が増えない」とアドバイスされる。しかしリョンは英語を少しずつ学び始めるし、エブリンもバカの振りはしたがらない。面倒くさくても、お互いに人格を持った個人として付き合っていこうとする。雇用関係が維持されたまま、対等の関係を築くことは可能だろう。「奥様」の死を嘆き悲しむ家政婦仲間にも、おそらく同じような関係があったのだ。
 実の母親よろいもリョンの方がエブリンの意志を尊重し彼女の力を信じているというのは、少々皮肉でもある。リョンは肉親とは疎遠で、エブリンは離婚手続き中で母との関係は良くなさそう。肉親よりも近くにいる他人の方がお互いに理解と尊重を持っているのだ。親密ではあるが、疑似家族とはまた違う。ファンは時にリョンの息子のようでもあるが、あくまで「親友」であり、他人同士であるというところはぶれない。他人として支えあう(が、一線は越えない)というのが現代的だった。

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『リチャード・ジュエル』

 1996年、オリンピック開催中のアトランタ。警備員のリチャード・ジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)は公園で不審なカバンを見つけるが、その中には爆弾が仕込まれていた。一躍英雄になったジュエルだが、FBIは彼を容疑者として捜査を開始。しかもメディアがそれをセンセーショナルに報道してしまい、ジュエルは国中から貶められる。弁護士ブライアント(サム・ロックウェル)とジュエルの母ボビは、ジュエルの名誉回復の為立ち上がる。監督はクリント・イーストウッド。実話を元にしたドラマだそうだ。
 ジュエルはいい人ではあるが、かなり癖のある、問題を抱えた人でもある。彼が無実だということは実際の事件の経緯から映画を見る側にはわかってはいるのだが、いや本当に無実なのか?後ろ暗いところがあるのでは?とうっかり思ってしまうような怪しさもある。その怪しさ、プロファイリングによる犯人像を過信し、FBIはひっこみがつかなくなってしまった。低所得の白人男性で銃愛好家、政治的にはかなりコンサバ(ゲイフォビア的発言がありひやりとする)、英雄願望ありという、いかにもいかにもな人間像だが、物的証拠には乏しい。そもそも早い段階で物理的に無理なのでは?という疑問は出てくるのだが、それでもジュエル容疑者路線で話が進んでしまうという所が怖い。
 ジュエルは「法の元に正義を執行する」ことへの拘りが強く、警察官への道を諦めきれずにいる。警察やFBIの捜査の仕方や法律にも詳しい(だから疑われたという面もある)。警察やFBIと自分とを一体化する傾向があり、その拘りはちょっと病的でもある。自分が容疑者として逮捕され、詐欺まがいの取り調べを受けてもなおFBIに協力的な姿勢を見せてしまうというのは不思議なのだが、大きなもの、力=権力を持つ側に自分を置く(ように思いこむ)ことで自分のプライドを守ろうとしていたのかとも思えた。とは言え、それは思い込みにすぎない。彼がそこから自由になる、本当の意味での自尊を取り戻す瞬間は小気味が良い。
 なお、女性記者が絵にかいたような悪女、ヒールとして描かれており、これはちょっと単純すぎではないかと思った。全くのフィクションならともかく(フィクションであっても今時これはないと思うが)、実在のモデルがいる場合は単純化しない方がいいのでは。本作、当時の実際の映像を随所で使っており、下手にノンフィクション感があるだけに余計にそう思った。メディアが掻き立てたイメージによって人生を損なわれた人を描いているのに、本作でまた同じことをやってしまっているのではないかと。

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『リンドグレーン』

 アストリッド(アルバ・アウグスト)は教会の土地に住む信仰に厚い家庭に育ったが、教会の教えや倫理観、保守的な土地柄に息苦しさを覚えていく。文才を見込まれ地元の新聞社で働くようになった彼女は能力を発揮し始めるが、親子ほど年の離れた社主ブロムベルイ(ヘンリク・ラファエルセン)と恋に落ち、彼の子供を身ごもる。妻子があるブロムベルイは不貞が露見し罪に問われることを恐れ、アストリッドをストックホルムの秘書専門学校へ送り出す。監督はペアニレ・フィシャー・クリステンセン。
 スウェーデンの国民的児童文学作家、アストリッド・リンドグレーンの若かりし日を描く伝記映画。日本語題名はリンドグレーンだが、正確には彼女がリンドグレーン(結婚後の夫の姓なので)になる以前の物語だ。リンドグレーンの作品には長靴下のピッピを筆頭に好奇心旺盛で元気いっぱいな女の子がしばしば登場するが、本作を見るとそれはアストリッド自身が持ち合わせていた気質らしい。保守的な田舎ではかなり自由奔放、かつ落ち着きのない気性と見なされていたのではないだろうか。両親や兄弟に愛されていても、教会が所有する土地に住み、父親が教区の中でもそこそこのポジションにいる家庭だったそうなので、娘がシングルマザーになるということに両親はかなり頭を悩ませたのでは。一方で、スモーランド地方の自然豊かな環境や家畜に囲まれた生活が、後のリンドグレーンの作品に投影されていることもわかる。
 そんな自由闊達なアストリッドが、ブロムベルイとの関係にどっぷりはまってしまい、ストックホルムで彼を待ち続けやきもきする様はどうにも歯がゆい。保守的な価値観からは逸脱したところのある人だったろうが、こういう所は、仕方のないことではあるが当時の価値観から離れられない。ただ、ある時点でブロムベルイに対する態度を変える。仕事をはじめ、子供が生まれたことで世界が広がった彼女には、ブロムベルイの不誠実さが見えてしまったということだろう。このあたりの葛藤にストーリーの大分を割いており、作家への道は本作中内では提示されないので、作家リンドグレーンの姿を期待するとちょっと肩すかしだった。
 なお、アストリッドの幼い息子役の子役が大変上手かった。拗ねる姿がすごくリアル。また、子供の咳の音が生々しくて喘息持ちとしてははらはらしてしまった。更に具合悪くなる時の、深い咳の音なのだ。




 

『陸軍中野学校』

 昭和13年10月、三好次郎(市川雷蔵)ら18名の陸軍少尉が、九段の靖国神社に集合した。彼らは草薙中佐(加東大介)が極秘裏に設立した日本初の秘密諜報機関員養成学校、陸軍中野学校の第一期生として集められたのだ。入学する者は外部との連絡を一切絶ち、戸籍もなくし、今後偽名で通さなければならない。三好には母と婚約者の雪子(小川真由美)がいたが、彼女らには行き先不明の任務と告げたきりだった。監督は増村保造。
 スパイもの、というよりスパイ学校ものなのだが、スパイに必要な技能を生真面目に学ぶ様が妙に面白い。刑務所から金庫破りのプロを召喚して錠前の開け方を学んだりするのだ。他にも各種機械の組み立て修理や毒薬の扱い、暗号解読、拷問等色々な授業があるのだが、教師はどこから連れてきたのかとか、教師に対する口止めはどのようにしていたのかとか、色々気になってしまった。
 草薙中佐の中野学校にかける思いは熱く、当時の「頭の固い」軍では育てられない人材を作り出そうという意欲に満ちている。しかし、学校が訓練機関として機能していくと共に、従来の軍隊の体質とさして変わっていない面が露呈していくのがなかなかきつい。その場の盛り上がり、空気の読みあいで物事が決定してしまう薄気味悪さがある。このあたり、当時はどういう風に見られていたのだろうか。草薙は「去りたい者は去っていい」「俺を恨むか」と問うが、仮に当人にその気はなくても、異論は封殺される空気が醸し出されちゃってるんだよなぁ・・・。草薙も、それを見越したうえで熱血パフォーマンスをしているようにも見えるのだ。切腹の件など、あー日本って!とげんなりする。この前近代感!
 三好と雪子との期せずしてのすれちがいの悲劇は、メロドラマ性が高くてスパイ要素とはまた違った面白さがある。淡泊な三好に対し雪子が意外と情熱的で情念をにじませており、悲劇が際立っていた。なお、昭和13年が舞台で、戦争の為に調味料などが不足しているという描写があるのだが、雪子やバーの女性達の服装は結構おしゃれ。映画的な演出なのかもしれないが、洋服のデザインに凝る余裕はまだあったということなのかな。

陸軍中野学校 [DVD]
市川雷蔵
角川書店
2012-06-29



『リズと青い鳥』

 北宇治高校吹奏楽部の部員で、オーボエ奏者の鎧塚みぞれ(種崎敦美)とフルート奏者の傘木希美(東山奈央)は中学時代からの親友同士。2人とも3年生となり、高校最後のコンクールを控えていた。コンクールでの演奏曲に選ばれた「リズと青い鳥」にはオーボエとフルートのかけあいのパートがあり、みぞれと希美が奏者に選ばれた。しかし2人の掛け合いはなかなかうまくかみ合わない。テレビアニメ『響け!ユーフォニアム』の完全新作劇場版。製作はTVシリーズと同じく京都アニメーション、監督は山田尚子、脚本は吉田玲子。原作は武田綾乃の小説。
 京都アニメーション作品は輪郭線がどんどん細くなっていく傾向にあるようだが、本作の動画の輪郭線は本当に繊細。良質の、往年の少女漫画という印象だ。人間の動きの演出もとても丁寧で、特に手の動きの演出は凝っている。体の重心移動の微妙な表現なども細やかだ。山田監督がよく使う、あえてカメラのフォーカスをぼやかせるような演出は、これ必要かな?と疑問に思う所もいくつかあったが。
 吹奏楽部が舞台だから当然音楽は大きな要素なのだが、吹奏楽部が演奏する音楽以外の劇伴も、さりげなく良い。また、鳥の声や木々のざわめき、衣擦れや足音など、日常の中の音、生活音の演出が非常に冴えている。特に(題名からして鳥がキーだし)鳥の姿を使った演出が随所にあるのだが、鳥の鳴き声の入れ方にこの季節、この時間帯での聞こえ方という雰囲気が出ていてとても良かった。音響の良い環境で見るといいと思う。
 みぞれと希美の関係は、作中絵本であり楽曲である「リズと青い鳥」に登場するリズと少女との関係に重ねられていく。みぞれは「リズと青い鳥」を読んで、愛する者を手放す=自由にすることなんてできない、リズの気持ちがわからないと悩む。彼女にとってはリズ=自分、引っ込み思案な自分をひっぱり続けてくれた眩しい存在である希美=少女だ。しかしこの関係は後半で反転していく。みぞれと希美はお互いに自分が相手を縛っているのではと感じているのだ。何を持って相手を縛っているとしているのかは、2人の間でちょっとずれているのだが。このずれは、才能の度合いによるところが大きく、それが本作を美しくも微量に苦いものにしている。
 TVシリーズでも明確に提示されているのだが、みぞれには音楽の才能がある。彼女はおそらく音楽と共に生きていく人で、音大への進学を教師に勧められるのも頷ける。対して希美は、部活としては上手いというレベルだ。後輩の高坂(安済知佳)がみぞれを問い詰めるシーンがあるが、彼女のように何よりも先に音楽が来る人、「持っている」人には、みぞれの態度は音楽に対する不誠実さに見えてしまうのだろう。みぞれが自分の音楽を掴むことこそが、本作のクライマックスであるように思った。それは、希美と今までのように一緒にはいられないということでもある。しかしみぞれの音楽の一部は希美であり、2人が親友であることに変わりはないのだ。






『リビング ザ ゲーム』

 ラスベガスで開催される、大規模な格闘ゲーム大会「EVO」で二連覇を果たし、ゲーム界のカリスマ選手的な立ち位置にある梅原大吾。その梅原に挑む若手プレーヤー、ももち。そしてアメリカ、フランス、台湾等、世界中のトッププレイヤーたち。人前でゲームをする姿を見せることを生業とするプロ ゲーマーたちを追うドキュメンタリー。監督は合津貴雄。
ちょっと時間があるから見てみるか、くらいの気分で見たのだが、とても面白かった。私は今では一切ゲームをやらないのだが、まさかストリートファイターの動画を見てこんなにも拳を握りしめる日が再び来るとは・・・。ゲームと縁がない人でも面白く見られるように配慮されている作品。構成がしっかりとしていて、この大会はどのくらいの規模で、この大会とこの大会の間にどんな経緯があって、といった部分の提示がゲームを知らない人にもわかりやすいと思う。対象となっているゲームが、画面内で起こっていることが分かりやすい格闘ゲームだというのも勝因だろう。単純に絵になるし気分が盛り上がりやすい。
 TVゲームプレーヤーに限らずどのジャンルにおいてもだろうが、スタープレイヤーであることと、その分野の技術が高いこととは、必ずしも一致しない。正確には、スターになるには技術プラスαが必要なのだろう。そしてそのプラスαは、個人のキャラクター性であったりメンタルの特異さであったり、往々にして努力ではどうにもならない。梅原とももちを見ているとそのあたりを痛感してなかなかに辛い。ゲームやらない私が見ていてもそう思うから、ドキュメンタリーとしては大成功と言えるんだろうけど・・・。梅原は(ゲーム外様の私が知っているくらいだから)やはり天才肌だしメンタリティがちょっと特異なんだろうな。勝敗ぎりぎりのところで「面白そうな方」を選べるというのは相当心が強くないと出来ないだろうし、「面白そうな方」に踏み切れることこそが、彼をスターにしている。彼のプレーは見ていて盛り上がるのだ。
 対してももちはおそらく非常にテクニックはあるが、堅実でいまひとつ華がないと思われる。本作、ももちとパートナーのチョコブランカに密着できたというのが勝因になっていると思う。梅原は、スターすぎて共感の要素がないので、ゲーム知らない人にはあまり訴求してこない。人としての弱さが垣間見えるももちの方がドラマ性があるのだ(当人にとってはいい迷惑かもしれないけど・・・)。





『リメンバー・ミー』

 靴職人の一族に生まれたミゲル(アンソニー・ゴンザレス)は音楽が大好きで、伝説的ミュージシャン、デラクルスに憧れている。「死者の日」の祭りで開催される音楽コンテストに出場したいミゲルは、デラクスルの霊廟に収められていたギターを手にする。ギターを奏でると同時に、彼は死者の国に迷い込んでしまう。死者の国で亡き親族に会ったミゲルは、夜明けまでに生者の世界に戻らないと本当に死者になってしまうと告げられる。監督はリー・アンクリッチ。
 ピクサー・アニメーションの新作長編作品だが、アニメーションのクオリティは相変わらず凄まじい。特に質感へのこだわりには唸る。人や衣服の肌合いがどんどん進化しているのがわかる。また、水の透明感と光の反射・透過感の再現度の高さがまた上がっているように思う。キャラクターの動きの面では、ミゲルがギターを弾くシーンが度々あるのだが、指の動きの演技がすばらしい。ちゃんとこの音ならこういう動きだろうな、と想像できるのだ。ギターを弾く人ならよりニュアンスがわかるのでは。
 ビジュアルはとても充実していてカラフルで楽しいが、今一つ気持ちが乗りきれなかった。ミゲルの祖母エレナの振る舞いにどうしても抵抗があって、家族は大事にしなくちゃ!という気持ちになれない。ミゲルの一族ではある事情から「音楽は一族を不幸にする」と考えられていて、代々音楽を聴くことも演奏することも禁じている。しかしその掟は曾曾祖母個人の体験に基づくものだ。他の家族にも当てはまるとは限らない。そういう個人的なことを家族と言えど他人に強制する姿勢が嫌なのだ。何が大切なのかは人それぞれ、家族より大切なものがある人もいるだろう。なので、家族は愛し合い支え合える、何よりも大切な存在であるという前提で話を進めないでほしいのだ。そりゃあ、上手くいっている間は家族は良いものだろうが、毒にしかならない家族というのも多々いると思うんだよね・・・。少なくともストーリー前半でのミゲルの家族は、彼を個人として尊重していないように見える。
 また、生者に忘れ去られると死者の国の死者は存在できなくなる=二度死ぬというルール、感覚としてはわかるが、生きている親戚縁者のいない死者たちがスラム街に住んでいるというのは、ちょっとひどいと思う。親戚縁者の多さ・ないしは著名人であったことと個人の生の価値とは一致するものではないだろう。そもそも生の価値は他人が決めるものではないと思うんだけど・・・。





『リュミエール!』

 1895年12月28日、撮影と映写の機能を持つ「シネマトグラフ」で撮影された映画『工場の出入り口』などが上映された。撮影したのはシネマトグラフの発明者でもあるルイ&オーギュスト・リュミエール兄弟。本作はリュミエール兄弟が撮影した短編映画で構成された、「映画の父」へのオマージュ作品。監督はリュミエール研究所のディレクターを務めるティエリー・フレモー。
 1895年から1905年の10年間に撮影された1422本の短編映画(1本約50秒)のうち、108本から構成された本作。有名な『工場の出入り口』はもちろん、リュミエール社のカメラマンによって海外で撮影された映像も含む。リュミエール兄弟(とリュミエール社)の作品を纏めて見られる機会はなかなかないと思うので、貴重な1作なのでは。なお映像は4Kデジタルで修復されており非常にクリア。一見の価値はある。
 「映画」は最初から「映画」なんだな!と『工場の出入り口』を見てちょっと感動した。題名の通り、工場の門から工員たちが出てくるだけの映像なのだが、これは「映画」だなと思わせる何かがある。しかもこの作品複数バージョンがあるのだが、バージョンが進むにつれ全体の構造がより「映画」的な、最後にちゃんとクライマックスが用意されたものになっていくのだ。リュミエール兄弟は最初から映画はこういうものだ!という風には考えてはいなかったろう(そもそも映画という概念がまだなかったはず)。しかし、最初から映画のセンスを持った人たちではあったんだろうと思う。奥行を意識した構図、対象物の動き、カメラの移動といったものが、短編作品を重ねるにつれどんどん構築されていくのがとても面白かった。基本的な構造は、既に現代の映画と変わらない。
 海外での映像など顕著なのだが、知らないものを見たい・見せたいという初期衝動みたいなものに満ちている。わずか1分足らずの作品だが、熱量があるのだ。そこで動いているものをただ撮影するのではなく、動きの演出、ストーリーの付与、トリック撮影等がどんどん盛られていく。こういうこともできるぞ!という発見の連続だったのだろう。その驚き、新鮮さがちょっとうらやましい。



エジソンと映画の時代
チャールズ・マッサー
森話社
2015-04-08

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