3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『陸軍中野学校』

 昭和13年10月、三好次郎(市川雷蔵)ら18名の陸軍少尉が、九段の靖国神社に集合した。彼らは草薙中佐(加東大介)が極秘裏に設立した日本初の秘密諜報機関員養成学校、陸軍中野学校の第一期生として集められたのだ。入学する者は外部との連絡を一切絶ち、戸籍もなくし、今後偽名で通さなければならない。三好には母と婚約者の雪子(小川真由美)がいたが、彼女らには行き先不明の任務と告げたきりだった。監督は増村保造。
 スパイもの、というよりスパイ学校ものなのだが、スパイに必要な技能を生真面目に学ぶ様が妙に面白い。刑務所から金庫破りのプロを召喚して錠前の開け方を学んだりするのだ。他にも各種機械の組み立て修理や毒薬の扱い、暗号解読、拷問等色々な授業があるのだが、教師はどこから連れてきたのかとか、教師に対する口止めはどのようにしていたのかとか、色々気になってしまった。
 草薙中佐の中野学校にかける思いは熱く、当時の「頭の固い」軍では育てられない人材を作り出そうという意欲に満ちている。しかし、学校が訓練機関として機能していくと共に、従来の軍隊の体質とさして変わっていない面が露呈していくのがなかなかきつい。その場の盛り上がり、空気の読みあいで物事が決定してしまう薄気味悪さがある。このあたり、当時はどういう風に見られていたのだろうか。草薙は「去りたい者は去っていい」「俺を恨むか」と問うが、仮に当人にその気はなくても、異論は封殺される空気が醸し出されちゃってるんだよなぁ・・・。草薙も、それを見越したうえで熱血パフォーマンスをしているようにも見えるのだ。切腹の件など、あー日本って!とげんなりする。この前近代感!
 三好と雪子との期せずしてのすれちがいの悲劇は、メロドラマ性が高くてスパイ要素とはまた違った面白さがある。淡泊な三好に対し雪子が意外と情熱的で情念をにじませており、悲劇が際立っていた。なお、昭和13年が舞台で、戦争の為に調味料などが不足しているという描写があるのだが、雪子やバーの女性達の服装は結構おしゃれ。映画的な演出なのかもしれないが、洋服のデザインに凝る余裕はまだあったということなのかな。

陸軍中野学校 [DVD]
市川雷蔵
角川書店
2012-06-29



『リズと青い鳥』

 北宇治高校吹奏楽部の部員で、オーボエ奏者の鎧塚みぞれ(種崎敦美)とフルート奏者の傘木希美(東山奈央)は中学時代からの親友同士。2人とも3年生となり、高校最後のコンクールを控えていた。コンクールでの演奏曲に選ばれた「リズと青い鳥」にはオーボエとフルートのかけあいのパートがあり、みぞれと希美が奏者に選ばれた。しかし2人の掛け合いはなかなかうまくかみ合わない。テレビアニメ『響け!ユーフォニアム』の完全新作劇場版。製作はTVシリーズと同じく京都アニメーション、監督は山田尚子、脚本は吉田玲子。原作は武田綾乃の小説。
 京都アニメーション作品は輪郭線がどんどん細くなっていく傾向にあるようだが、本作の動画の輪郭線は本当に繊細。良質の、往年の少女漫画という印象だ。人間の動きの演出もとても丁寧で、特に手の動きの演出は凝っている。体の重心移動の微妙な表現なども細やかだ。山田監督がよく使う、あえてカメラのフォーカスをぼやかせるような演出は、これ必要かな?と疑問に思う所もいくつかあったが。
 吹奏楽部が舞台だから当然音楽は大きな要素なのだが、吹奏楽部が演奏する音楽以外の劇伴も、さりげなく良い。また、鳥の声や木々のざわめき、衣擦れや足音など、日常の中の音、生活音の演出が非常に冴えている。特に(題名からして鳥がキーだし)鳥の姿を使った演出が随所にあるのだが、鳥の鳴き声の入れ方にこの季節、この時間帯での聞こえ方という雰囲気が出ていてとても良かった。音響の良い環境で見るといいと思う。
 みぞれと希美の関係は、作中絵本であり楽曲である「リズと青い鳥」に登場するリズと少女との関係に重ねられていく。みぞれは「リズと青い鳥」を読んで、愛する者を手放す=自由にすることなんてできない、リズの気持ちがわからないと悩む。彼女にとってはリズ=自分、引っ込み思案な自分をひっぱり続けてくれた眩しい存在である希美=少女だ。しかしこの関係は後半で反転していく。みぞれと希美はお互いに自分が相手を縛っているのではと感じているのだ。何を持って相手を縛っているとしているのかは、2人の間でちょっとずれているのだが。このずれは、才能の度合いによるところが大きく、それが本作を美しくも微量に苦いものにしている。
 TVシリーズでも明確に提示されているのだが、みぞれには音楽の才能がある。彼女はおそらく音楽と共に生きていく人で、音大への進学を教師に勧められるのも頷ける。対して希美は、部活としては上手いというレベルだ。後輩の高坂(安済知佳)がみぞれを問い詰めるシーンがあるが、彼女のように何よりも先に音楽が来る人、「持っている」人には、みぞれの態度は音楽に対する不誠実さに見えてしまうのだろう。みぞれが自分の音楽を掴むことこそが、本作のクライマックスであるように思った。それは、希美と今までのように一緒にはいられないということでもある。しかしみぞれの音楽の一部は希美であり、2人が親友であることに変わりはないのだ。






『リビング ザ ゲーム』

 ラスベガスで開催される、大規模な格闘ゲーム大会「EVO」で二連覇を果たし、ゲーム界のカリスマ選手的な立ち位置にある梅原大吾。その梅原に挑む若手プレーヤー、ももち。そしてアメリカ、フランス、台湾等、世界中のトッププレイヤーたち。人前でゲームをする姿を見せることを生業とするプロ ゲーマーたちを追うドキュメンタリー。監督は合津貴雄。
ちょっと時間があるから見てみるか、くらいの気分で見たのだが、とても面白かった。私は今では一切ゲームをやらないのだが、まさかストリートファイターの動画を見てこんなにも拳を握りしめる日が再び来るとは・・・。ゲームと縁がない人でも面白く見られるように配慮されている作品。構成がしっかりとしていて、この大会はどのくらいの規模で、この大会とこの大会の間にどんな経緯があって、といった部分の提示がゲームを知らない人にもわかりやすいと思う。対象となっているゲームが、画面内で起こっていることが分かりやすい格闘ゲームだというのも勝因だろう。単純に絵になるし気分が盛り上がりやすい。
 TVゲームプレーヤーに限らずどのジャンルにおいてもだろうが、スタープレイヤーであることと、その分野の技術が高いこととは、必ずしも一致しない。正確には、スターになるには技術プラスαが必要なのだろう。そしてそのプラスαは、個人のキャラクター性であったりメンタルの特異さであったり、往々にして努力ではどうにもならない。梅原とももちを見ているとそのあたりを痛感してなかなかに辛い。ゲームやらない私が見ていてもそう思うから、ドキュメンタリーとしては大成功と言えるんだろうけど・・・。梅原は(ゲーム外様の私が知っているくらいだから)やはり天才肌だしメンタリティがちょっと特異なんだろうな。勝敗ぎりぎりのところで「面白そうな方」を選べるというのは相当心が強くないと出来ないだろうし、「面白そうな方」に踏み切れることこそが、彼をスターにしている。彼のプレーは見ていて盛り上がるのだ。
 対してももちはおそらく非常にテクニックはあるが、堅実でいまひとつ華がないと思われる。本作、ももちとパートナーのチョコブランカに密着できたというのが勝因になっていると思う。梅原は、スターすぎて共感の要素がないので、ゲーム知らない人にはあまり訴求してこない。人としての弱さが垣間見えるももちの方がドラマ性があるのだ(当人にとってはいい迷惑かもしれないけど・・・)。





『リメンバー・ミー』

 靴職人の一族に生まれたミゲル(アンソニー・ゴンザレス)は音楽が大好きで、伝説的ミュージシャン、デラクルスに憧れている。「死者の日」の祭りで開催される音楽コンテストに出場したいミゲルは、デラクスルの霊廟に収められていたギターを手にする。ギターを奏でると同時に、彼は死者の国に迷い込んでしまう。死者の国で亡き親族に会ったミゲルは、夜明けまでに生者の世界に戻らないと本当に死者になってしまうと告げられる。監督はリー・アンクリッチ。
 ピクサー・アニメーションの新作長編作品だが、アニメーションのクオリティは相変わらず凄まじい。特に質感へのこだわりには唸る。人や衣服の肌合いがどんどん進化しているのがわかる。また、水の透明感と光の反射・透過感の再現度の高さがまた上がっているように思う。キャラクターの動きの面では、ミゲルがギターを弾くシーンが度々あるのだが、指の動きの演技がすばらしい。ちゃんとこの音ならこういう動きだろうな、と想像できるのだ。ギターを弾く人ならよりニュアンスがわかるのでは。
 ビジュアルはとても充実していてカラフルで楽しいが、今一つ気持ちが乗りきれなかった。ミゲルの祖母エレナの振る舞いにどうしても抵抗があって、家族は大事にしなくちゃ!という気持ちになれない。ミゲルの一族ではある事情から「音楽は一族を不幸にする」と考えられていて、代々音楽を聴くことも演奏することも禁じている。しかしその掟は曾曾祖母個人の体験に基づくものだ。他の家族にも当てはまるとは限らない。そういう個人的なことを家族と言えど他人に強制する姿勢が嫌なのだ。何が大切なのかは人それぞれ、家族より大切なものがある人もいるだろう。なので、家族は愛し合い支え合える、何よりも大切な存在であるという前提で話を進めないでほしいのだ。そりゃあ、上手くいっている間は家族は良いものだろうが、毒にしかならない家族というのも多々いると思うんだよね・・・。少なくともストーリー前半でのミゲルの家族は、彼を個人として尊重していないように見える。
 また、生者に忘れ去られると死者の国の死者は存在できなくなる=二度死ぬというルール、感覚としてはわかるが、生きている親戚縁者のいない死者たちがスラム街に住んでいるというのは、ちょっとひどいと思う。親戚縁者の多さ・ないしは著名人であったことと個人の生の価値とは一致するものではないだろう。そもそも生の価値は他人が決めるものではないと思うんだけど・・・。





『リュミエール!』

 1895年12月28日、撮影と映写の機能を持つ「シネマトグラフ」で撮影された映画『工場の出入り口』などが上映された。撮影したのはシネマトグラフの発明者でもあるルイ&オーギュスト・リュミエール兄弟。本作はリュミエール兄弟が撮影した短編映画で構成された、「映画の父」へのオマージュ作品。監督はリュミエール研究所のディレクターを務めるティエリー・フレモー。
 1895年から1905年の10年間に撮影された1422本の短編映画(1本約50秒)のうち、108本から構成された本作。有名な『工場の出入り口』はもちろん、リュミエール社のカメラマンによって海外で撮影された映像も含む。リュミエール兄弟(とリュミエール社)の作品を纏めて見られる機会はなかなかないと思うので、貴重な1作なのでは。なお映像は4Kデジタルで修復されており非常にクリア。一見の価値はある。
 「映画」は最初から「映画」なんだな!と『工場の出入り口』を見てちょっと感動した。題名の通り、工場の門から工員たちが出てくるだけの映像なのだが、これは「映画」だなと思わせる何かがある。しかもこの作品複数バージョンがあるのだが、バージョンが進むにつれ全体の構造がより「映画」的な、最後にちゃんとクライマックスが用意されたものになっていくのだ。リュミエール兄弟は最初から映画はこういうものだ!という風には考えてはいなかったろう(そもそも映画という概念がまだなかったはず)。しかし、最初から映画のセンスを持った人たちではあったんだろうと思う。奥行を意識した構図、対象物の動き、カメラの移動といったものが、短編作品を重ねるにつれどんどん構築されていくのがとても面白かった。基本的な構造は、既に現代の映画と変わらない。
 海外での映像など顕著なのだが、知らないものを見たい・見せたいという初期衝動みたいなものに満ちている。わずか1分足らずの作品だが、熱量があるのだ。そこで動いているものをただ撮影するのではなく、動きの演出、ストーリーの付与、トリック撮影等がどんどん盛られていく。こういうこともできるぞ!という発見の連続だったのだろう。その驚き、新鮮さがちょっとうらやましい。



エジソンと映画の時代
チャールズ・マッサー
森話社
2015-04-08

『リトル・ボーイ 小さなボクと戦争』

 第二次世界大戦中のアメリカ、西海岸の小さな町。8歳の少年ペッパー(ジェイコブ・サルバーティ)は年齢の割に背が低く、町の子供達からもからかわれてばかりだった。しかし父親(マイケル・ラバポート)は「相棒」として彼に愛情を注ぎ励まし続ける。しかし徴兵検査ではねられた兄の代わりに父親が戦地に赴く。父親になんとかして帰ってきてもらいたいペッパーは、司祭(トム・ウィルキンソン)から全て達成すれば神の力で願いが叶うというリストを渡され、課題達成に奔走する。その中で、日系人収容所から戻ってきたハシモト(ケイリー=ヒロユキ・タガ)と親しくなる。監督・脚本はアレハンドロ・モンテベルデ。
 ペッパーと父親との繋がりが強く印象に残った。ペッパーと父親は、ある時はカウボーイ、ある時は怪盗等、一緒に「ごっこ」遊びに興じる。父親が嫌々付き合っているというのではなく、2人の間でファンタジーが成立しており、「物語」ではあるが「嘘」ではないのだ。父親との物語の中で投げかけられる「やれるか?」という言葉が、ペッパーをその後も支え続ける。
 ペッパーには、なぜ父親がなかなか帰ってこないのか、司祭がなぜリストを渡したのか等、よくわからないことばかりだ。彼はそのわからなさを、自分にとっての「物語」の中で自己流に解釈していく。リストを達成すれば奇跡が起きて父親が帰ってくる、その為には「敵」であるハシモトに親切にしなければならないというふうに。物語が彼が直面する出来事を回収しきれなくなったりもするのだが、その時は周囲の大人がフォローしたり、ペッパー自身がその困難に対応する力をつけてきたりしているところにほっとする。
 ハシモトとの関係は、徐々に心の通ったものになっていくが、ハシモトが町の中で置かれた立場には当時の世相が見えてなかなか辛い。長年アメリカに住んでアメリカ国民として生活していても、アメリカ人の仲間としては見てもらえないのかと。かといってハシモトにとって日本は祖国であり続けるし、どちらの方がより自分にとって重要とは言えないだろう。ハシモトに対する差別や暴力に加担する人たちについても、なぜそういうことになるのか、という部分をやんわりとだが見せている。戦争で失ったものを、誰かのせいにしないとやっていられないという人もいるのだ。
 色合いはビビッドで、映像の質感はざらっとした、昔の映画っぽいノスタルジックな雰囲気がある。おとぎ話的な描き方だが、決して見る側をあまやかしてはいないところがいい。ハシモトに対する暴力や差別に大人たちははっきりとNoとは言わない(歯止めとなっているのは司祭だけなのだ)し、ペッパーと家族が最後に見せる表情は、決してはっきりと晴れ晴れとしたものではないのだ。描かれなかった諸々のことがその背後にあると感じさせる。

『リザとキツネと恋する死者たち』

 EUフィルムデーズにて鑑賞。日本人大使未亡人の住込み看護師として働くリザ(モーニカ・ヴァルシャイ)。彼女の傍には、彼女にしか見えない日本人歌手の幽霊・トミー谷(デヴィッド・サクライ)がいた。日本のロマンス小説に憧れるリザは、30歳の誕生日に外出し、小説内のシチュエーション通り、ハンバーガー店に入る。しかしその間に、トミー谷の呪いで未亡人は死亡していた。そしてリザに好意を持った男性は次々に変死していく。監督はウッイ・メーサーローシュ・カーロイ。
 1970年代のハンガリーが舞台の作品なのだが、何とも言えず奇妙な味わい。本作を日本配給した人、よく見付けたな・・・。日本へのオマージュが盛り込まれているが、70年代のハンガリーから見た「なんちゃって日本」なので、キッチュさが増している。九尾の狐とかよく知ってるなーとは思うが、本来の伝説とはまた違うものになっているし、作中で流れる日本語歌謡曲も、日本の歌謡曲のようでそうではないという不思議さ。当然、日本人観客ばかりの環境で見たのだが、おそらく本来は笑い所ではないところで笑いが沸く、そして本来の笑い所でも更に沸くというウケっぷりだった。当初はシネマカリテでのレイトショー上映だけだったように記憶しているが、もうちょっと上映規模広げても大丈夫だったんじゃないかな。 
  リザに好意を持った人は次々に死ぬという、結構ブラック、かつリザにとっては洒落にならないハードな状況なのに、死にっぷりが豪快すぎて笑ってしまう。そして一方では、すごくまっすぐなラブストーリーでもあるのだ。「なかなか死なない男」の粘り強さが素晴らしい。
画面内のディティールの作りこみ方は、ウェス・アンダーソン監督を思わせるところもあるが、アンダーソン作品ほど徹底していない。どこか野暮ったく隙がある。そこがかわいらしさでもある。善悪のジャッジが意外と曖昧で、混沌とした世界観なところがいい。
 ところで、カーテンでドレスを作るというのは、映画においてある種のセオリーなんだろうか。


『リップヴァンウィンクルの花嫁』

お見合いサイトで知り合った鶴岡鉄也(地曳豪)と結婚することになった皆川七海(黒木華)。結婚式で自分側の親族が足りず、SNS上の知り合いから紹介された何でも屋の安室(綾野剛)に、「親戚役」の手配を頼む。結婚式は無事終わったが、新婚早々鉄也に浮気疑惑が発覚、それを確かめようとした七海も、義母から浮気の疑いをかけられ、離婚を突きつけられてしまう。行くところがなくなり途方に暮れた七海に、安室は様々なバイトを紹介する。バイト先で知り合った女優の里中真白(Cocco)と七海は意気投合する。監督・原作・脚本は岩井俊二。
 映画が始まるなり、あー岩井俊二作品だわーという何とも言えない感慨に襲われた。透明感があってキラキラした映像、同じく透明感があってキラキラした音楽(本作はクラシックのピアノ曲を多用しているのだが、使い方がいい)、当然透明感があってキラキラしてチャーミングな女性達。見るの久々なんで忘れてたけど、そういえば岩井俊二作品てこんな感じだったわーという雰囲気を再確認した。
 ただ本作、これまでの岩井監督作品の中でもとりわけフェティッシュ、かつ変態性の高い作品に仕上がっていると思う。中盤までの七海の少々過剰な翻弄されやすさ・流されやすさや、意思表明が苦手な感じにはかなりイライラさせられるし、キャラクターとしての手応えをあまり感じないが(七海がすごく頭が悪いように見えてしまう)、こういうのが好きなんだろうなぁ。観客をイライラさせる、かつヒロインに反感感じさせるリスクを犯してもこう撮りたい!みたいな妙な情熱を感じた。また、真白と知り合ってからの女子2人のいちゃいちゃ感や身体の伸びやかさを感じさせるシークエンスは、さすが岩井俊二といった感じ。愛着がだだ漏れである。そして今回唸ったのが、これだけフェティッシュ全開でも下品にはならず、しかも180分という長尺なのにダレないし飽きない。映像美先行の人というイメージがあったが、(作風の好き嫌いは別として)監督としてのスキルやっぱり高かったんだなと改めて感心した。
 七海は、最初からある人の操りの下におり、翻弄され続ける。しかし不思議なことに、操りの下にあるはずなのに、彼女は翻弄されて自分を取り巻く環境が変わっていくにつれて、どんどん自由になっていくように見える。大声も出せる嫌なことは嫌だとごねることもできるようになる。自分の意思で結婚(ここにはさすがにある人の介入はないと思われる)したはずの新婚当初が、一番枠にはめられているように見えるのだ。
 主演の黒木は、作品によって動き方にしろ声にしろ、全然別のタイプの人に見える。やっぱりいい役者なんだなと実感した。また、何でも屋役の綾野の、愛想はいいが心がない感じ、本当に「何でも」やってしまいそうな振舞いが上手い。そしてCoccoのインパクトにはちょっと驚いた。本作、裏返すとは真白の物語とも言えるが、Coccoが演じたからこそ、そこに説得力が出たように思う。


『リリーのすべて』

 1926年のデンマーク、風景画家のアイナー・ベルナー(エディ・レッドメイン)は、肖像画家の妻ゲルダ(アリシア・ビカンダー)に頼まれ、女性モデルの代役を務めた。モデルとしてポーズを取るうち、アイナーは自分の内面は女性であると気づいていく。やがて「リリー」という名の女性として振舞う時間が増え、アイナーは自分の精神と肉体との不一致に激しく苦しむようになる。監督はトム・フーパー。第88回アカデミー賞でビカンダーが助演女優賞を受賞。実在した、世界で初めて性転換手術を受けた人がリリーのモデルになっているそうだ。
 冒頭、デンマークの田舎(湿地帯か?)の風景が美しい。こういう風景好きだなぁと思っていると、それがアイナーの風景画になる。彼の絵は評価されるだけのことはあって魅力的だった。一方、ゲルダの肖像画は悪くないが、最初は今一つフックがない。リリーをモデルとすることで「本質を捉えている」と評価されるようになるというのは、ちょっと説明的すぎないかなと思ったが、リリーをモデルとして以降の方が、人気が出るのも納得できる面白みのある絵になっているあたりは、ちゃんと配慮されているなと思った。リリーとしての時間が長くなるにつれ、アイナーは作品制作から遠のいていくというのも面白い。アイナーの表現欲求は、内面を押し殺していたことから生まれていたのかもしれない。
 女性達のドレスや、独特なアレンジがされたアイナーの服、また冷ややかな色合いや奥行の取り方がヴィルヘルム・ハンマースホイ(デンマークの画家)の絵画を彷彿とさせる室内セットの作り方等、美術面は目に楽しい。俳優たちも上手くハマっており、いい映画ではある。しかし、なんとなく釈然としないものが残った。終盤、リリーの運命の描き方に悲壮感が出過ぎな気がする。確かに生まれた時代が違えばもっと多くの選択肢や可能性があったのかもしれないが、リリー本人が自分らしく生きる為に選択したことだから、そんなに悲しみに満ちた感じに(少なくとも当人的には)しなくてもなぁ。エンドロール前の字幕でフォローはされているけど、あんまり湿っぽくなるのは嫌だなと思った。
 とは言え、ゲルダにとってはアイナーという夫を失い、リリーという友人も失うという、二重の喪失になるわけだから、悲劇と言えば悲劇なのかもしれないが・・・。ゲルダはリリーの存在に戸惑うが、彼女を理解しようと努める。しかし、アイナーもリリーもゲルダとは別の人間で、ゲルダがどんなに悲しんでも、アイナー/リリーは自分の道を進まざるを得ない。ゲルダはアイナーと会った時、もう1人の自分みたいだったと言う。彼の内面が女性だからそう感じたのかなとも思ったが、それはやはり幻想だったのかもしれない。

『リトルプリンス 星の王子さまと私』

 母親の“人生設計”の通りに必死で勉強する少女(マッケンジー・フォイ)。ある日、隣家の老人(ジェフ・ブリッジス)と知り合う。若い頃飛行士だったという老人は、不時着した砂漠で出会った不思議な男の子の物語を語りだした。監督はマーク・オズボーン。
 サン=テグジュペリ作『星の王子さま』を下敷きにした作品。老人は、小説に登場した飛行士の晩年の姿らしい。『星の王子さま』って、センシティブかつ種のアイコン的な作品であるだけに、原作にしたりオマージュにしたりというのは難しいという印象を持っていた(どうしても説教臭くなりがちだと思う)のだが、本作は『星の王子さま』の要素を上手に使っている(後半、王子の扱いについて一部ひっかかるところはあるが、基本的に出来がいいのでまあよしとする)。原作云々はおいておいても、モチーフの使い方、後半での伏線の回収の仕方がきちんとしており、手堅い良作という印象だ。脚本にしても映像にしても、情報の整理と提示の仕方が的確で気持ちが良かった。
 少女は母親の方針で、有名校への入学を目指し、勉強に励むが、毎日のスケジュールは分刻みできっちりと決められている。母親にとっては、この“人生設計”は完璧なのだ。かなりカリカチュアされてはいるが、多かれ少なかれこういう親はいるんだろう。不測の事態が起きたらどうするの?と不思議になるが、そもそも彼女が思う”人生設計”に不測の事態はないことになっているんだろうな。少女は賢い、いわゆるいい子なので母親に協力し(両親は離婚しているらしい)期待に応えようとするし、実際、順調に課題をこなしていく。しかし彼女が全く平気というわけではないことが、冒頭の入学試験の様子でわかるのだ。ただ、彼女は自分が大丈夫ではないという自覚はあまりないように見える。今まで大丈夫じゃなかったと自分でわかってくるのは、老人と、彼の物語に触れてからだ。
 自覚があるにしろないにしろ、人が「大丈夫じゃない」時に物語が手助けしてくれるというのは、実感としてすごくよくわかる。物語は具体的に何かの役にたつわけではない。それでも、自分の苦しさを相対化したり、もやもやに風穴を開けるような効果がある。そして、今(あるいはこの先)の苦しさが自分にとってどういうものなのかという、道筋をつける手助けになるのだ。後半、少女の現実とファンタジーとが入り混じった展開になるが、これは彼女が自分をとりまくものを物語として消化しようとしてるということだろう。彼女には近い将来、哀しい別れが訪れるかもしれない。でも、物語を生きることは、それを飲み込んでいく手助けになるのではないか。

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