3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『リトル・ボーイ 小さなボクと戦争』

 第二次世界大戦中のアメリカ、西海岸の小さな町。8歳の少年ペッパー(ジェイコブ・サルバーティ)は年齢の割に背が低く、町の子供達からもからかわれてばかりだった。しかし父親(マイケル・ラバポート)は「相棒」として彼に愛情を注ぎ励まし続ける。しかし徴兵検査ではねられた兄の代わりに父親が戦地に赴く。父親になんとかして帰ってきてもらいたいペッパーは、司祭(トム・ウィルキンソン)から全て達成すれば神の力で願いが叶うというリストを渡され、課題達成に奔走する。その中で、日系人収容所から戻ってきたハシモト(ケイリー=ヒロユキ・タガ)と親しくなる。監督・脚本はアレハンドロ・モンテベルデ。
 ペッパーと父親との繋がりが強く印象に残った。ペッパーと父親は、ある時はカウボーイ、ある時は怪盗等、一緒に「ごっこ」遊びに興じる。父親が嫌々付き合っているというのではなく、2人の間でファンタジーが成立しており、「物語」ではあるが「嘘」ではないのだ。父親との物語の中で投げかけられる「やれるか?」という言葉が、ペッパーをその後も支え続ける。
 ペッパーには、なぜ父親がなかなか帰ってこないのか、司祭がなぜリストを渡したのか等、よくわからないことばかりだ。彼はそのわからなさを、自分にとっての「物語」の中で自己流に解釈していく。リストを達成すれば奇跡が起きて父親が帰ってくる、その為には「敵」であるハシモトに親切にしなければならないというふうに。物語が彼が直面する出来事を回収しきれなくなったりもするのだが、その時は周囲の大人がフォローしたり、ペッパー自身がその困難に対応する力をつけてきたりしているところにほっとする。
 ハシモトとの関係は、徐々に心の通ったものになっていくが、ハシモトが町の中で置かれた立場には当時の世相が見えてなかなか辛い。長年アメリカに住んでアメリカ国民として生活していても、アメリカ人の仲間としては見てもらえないのかと。かといってハシモトにとって日本は祖国であり続けるし、どちらの方がより自分にとって重要とは言えないだろう。ハシモトに対する差別や暴力に加担する人たちについても、なぜそういうことになるのか、という部分をやんわりとだが見せている。戦争で失ったものを、誰かのせいにしないとやっていられないという人もいるのだ。
 色合いはビビッドで、映像の質感はざらっとした、昔の映画っぽいノスタルジックな雰囲気がある。おとぎ話的な描き方だが、決して見る側をあまやかしてはいないところがいい。ハシモトに対する暴力や差別に大人たちははっきりとNoとは言わない(歯止めとなっているのは司祭だけなのだ)し、ペッパーと家族が最後に見せる表情は、決してはっきりと晴れ晴れとしたものではないのだ。描かれなかった諸々のことがその背後にあると感じさせる。

『リザとキツネと恋する死者たち』

 EUフィルムデーズにて鑑賞。日本人大使未亡人の住込み看護師として働くリザ(モーニカ・ヴァルシャイ)。彼女の傍には、彼女にしか見えない日本人歌手の幽霊・トミー谷(デヴィッド・サクライ)がいた。日本のロマンス小説に憧れるリザは、30歳の誕生日に外出し、小説内のシチュエーション通り、ハンバーガー店に入る。しかしその間に、トミー谷の呪いで未亡人は死亡していた。そしてリザに好意を持った男性は次々に変死していく。監督はウッイ・メーサーローシュ・カーロイ。
 1970年代のハンガリーが舞台の作品なのだが、何とも言えず奇妙な味わい。本作を日本配給した人、よく見付けたな・・・。日本へのオマージュが盛り込まれているが、70年代のハンガリーから見た「なんちゃって日本」なので、キッチュさが増している。九尾の狐とかよく知ってるなーとは思うが、本来の伝説とはまた違うものになっているし、作中で流れる日本語歌謡曲も、日本の歌謡曲のようでそうではないという不思議さ。当然、日本人観客ばかりの環境で見たのだが、おそらく本来は笑い所ではないところで笑いが沸く、そして本来の笑い所でも更に沸くというウケっぷりだった。当初はシネマカリテでのレイトショー上映だけだったように記憶しているが、もうちょっと上映規模広げても大丈夫だったんじゃないかな。 
  リザに好意を持った人は次々に死ぬという、結構ブラック、かつリザにとっては洒落にならないハードな状況なのに、死にっぷりが豪快すぎて笑ってしまう。そして一方では、すごくまっすぐなラブストーリーでもあるのだ。「なかなか死なない男」の粘り強さが素晴らしい。
画面内のディティールの作りこみ方は、ウェス・アンダーソン監督を思わせるところもあるが、アンダーソン作品ほど徹底していない。どこか野暮ったく隙がある。そこがかわいらしさでもある。善悪のジャッジが意外と曖昧で、混沌とした世界観なところがいい。
 ところで、カーテンでドレスを作るというのは、映画においてある種のセオリーなんだろうか。


『リップヴァンウィンクルの花嫁』

お見合いサイトで知り合った鶴岡鉄也(地曳豪)と結婚することになった皆川七海(黒木華)。結婚式で自分側の親族が足りず、SNS上の知り合いから紹介された何でも屋の安室(綾野剛)に、「親戚役」の手配を頼む。結婚式は無事終わったが、新婚早々鉄也に浮気疑惑が発覚、それを確かめようとした七海も、義母から浮気の疑いをかけられ、離婚を突きつけられてしまう。行くところがなくなり途方に暮れた七海に、安室は様々なバイトを紹介する。バイト先で知り合った女優の里中真白(Cocco)と七海は意気投合する。監督・原作・脚本は岩井俊二。
 映画が始まるなり、あー岩井俊二作品だわーという何とも言えない感慨に襲われた。透明感があってキラキラした映像、同じく透明感があってキラキラした音楽(本作はクラシックのピアノ曲を多用しているのだが、使い方がいい)、当然透明感があってキラキラしてチャーミングな女性達。見るの久々なんで忘れてたけど、そういえば岩井俊二作品てこんな感じだったわーという雰囲気を再確認した。
 ただ本作、これまでの岩井監督作品の中でもとりわけフェティッシュ、かつ変態性の高い作品に仕上がっていると思う。中盤までの七海の少々過剰な翻弄されやすさ・流されやすさや、意思表明が苦手な感じにはかなりイライラさせられるし、キャラクターとしての手応えをあまり感じないが(七海がすごく頭が悪いように見えてしまう)、こういうのが好きなんだろうなぁ。観客をイライラさせる、かつヒロインに反感感じさせるリスクを犯してもこう撮りたい!みたいな妙な情熱を感じた。また、真白と知り合ってからの女子2人のいちゃいちゃ感や身体の伸びやかさを感じさせるシークエンスは、さすが岩井俊二といった感じ。愛着がだだ漏れである。そして今回唸ったのが、これだけフェティッシュ全開でも下品にはならず、しかも180分という長尺なのにダレないし飽きない。映像美先行の人というイメージがあったが、(作風の好き嫌いは別として)監督としてのスキルやっぱり高かったんだなと改めて感心した。
 七海は、最初からある人の操りの下におり、翻弄され続ける。しかし不思議なことに、操りの下にあるはずなのに、彼女は翻弄されて自分を取り巻く環境が変わっていくにつれて、どんどん自由になっていくように見える。大声も出せる嫌なことは嫌だとごねることもできるようになる。自分の意思で結婚(ここにはさすがにある人の介入はないと思われる)したはずの新婚当初が、一番枠にはめられているように見えるのだ。
 主演の黒木は、作品によって動き方にしろ声にしろ、全然別のタイプの人に見える。やっぱりいい役者なんだなと実感した。また、何でも屋役の綾野の、愛想はいいが心がない感じ、本当に「何でも」やってしまいそうな振舞いが上手い。そしてCoccoのインパクトにはちょっと驚いた。本作、裏返すとは真白の物語とも言えるが、Coccoが演じたからこそ、そこに説得力が出たように思う。


『リリーのすべて』

 1926年のデンマーク、風景画家のアイナー・ベルナー(エディ・レッドメイン)は、肖像画家の妻ゲルダ(アリシア・ビカンダー)に頼まれ、女性モデルの代役を務めた。モデルとしてポーズを取るうち、アイナーは自分の内面は女性であると気づいていく。やがて「リリー」という名の女性として振舞う時間が増え、アイナーは自分の精神と肉体との不一致に激しく苦しむようになる。監督はトム・フーパー。第88回アカデミー賞でビカンダーが助演女優賞を受賞。実在した、世界で初めて性転換手術を受けた人がリリーのモデルになっているそうだ。
 冒頭、デンマークの田舎(湿地帯か?)の風景が美しい。こういう風景好きだなぁと思っていると、それがアイナーの風景画になる。彼の絵は評価されるだけのことはあって魅力的だった。一方、ゲルダの肖像画は悪くないが、最初は今一つフックがない。リリーをモデルとすることで「本質を捉えている」と評価されるようになるというのは、ちょっと説明的すぎないかなと思ったが、リリーをモデルとして以降の方が、人気が出るのも納得できる面白みのある絵になっているあたりは、ちゃんと配慮されているなと思った。リリーとしての時間が長くなるにつれ、アイナーは作品制作から遠のいていくというのも面白い。アイナーの表現欲求は、内面を押し殺していたことから生まれていたのかもしれない。
 女性達のドレスや、独特なアレンジがされたアイナーの服、また冷ややかな色合いや奥行の取り方がヴィルヘルム・ハンマースホイ(デンマークの画家)の絵画を彷彿とさせる室内セットの作り方等、美術面は目に楽しい。俳優たちも上手くハマっており、いい映画ではある。しかし、なんとなく釈然としないものが残った。終盤、リリーの運命の描き方に悲壮感が出過ぎな気がする。確かに生まれた時代が違えばもっと多くの選択肢や可能性があったのかもしれないが、リリー本人が自分らしく生きる為に選択したことだから、そんなに悲しみに満ちた感じに(少なくとも当人的には)しなくてもなぁ。エンドロール前の字幕でフォローはされているけど、あんまり湿っぽくなるのは嫌だなと思った。
 とは言え、ゲルダにとってはアイナーという夫を失い、リリーという友人も失うという、二重の喪失になるわけだから、悲劇と言えば悲劇なのかもしれないが・・・。ゲルダはリリーの存在に戸惑うが、彼女を理解しようと努める。しかし、アイナーもリリーもゲルダとは別の人間で、ゲルダがどんなに悲しんでも、アイナー/リリーは自分の道を進まざるを得ない。ゲルダはアイナーと会った時、もう1人の自分みたいだったと言う。彼の内面が女性だからそう感じたのかなとも思ったが、それはやはり幻想だったのかもしれない。

『リトルプリンス 星の王子さまと私』

 母親の“人生設計”の通りに必死で勉強する少女(マッケンジー・フォイ)。ある日、隣家の老人(ジェフ・ブリッジス)と知り合う。若い頃飛行士だったという老人は、不時着した砂漠で出会った不思議な男の子の物語を語りだした。監督はマーク・オズボーン。
 サン=テグジュペリ作『星の王子さま』を下敷きにした作品。老人は、小説に登場した飛行士の晩年の姿らしい。『星の王子さま』って、センシティブかつ種のアイコン的な作品であるだけに、原作にしたりオマージュにしたりというのは難しいという印象を持っていた(どうしても説教臭くなりがちだと思う)のだが、本作は『星の王子さま』の要素を上手に使っている(後半、王子の扱いについて一部ひっかかるところはあるが、基本的に出来がいいのでまあよしとする)。原作云々はおいておいても、モチーフの使い方、後半での伏線の回収の仕方がきちんとしており、手堅い良作という印象だ。脚本にしても映像にしても、情報の整理と提示の仕方が的確で気持ちが良かった。
 少女は母親の方針で、有名校への入学を目指し、勉強に励むが、毎日のスケジュールは分刻みできっちりと決められている。母親にとっては、この“人生設計”は完璧なのだ。かなりカリカチュアされてはいるが、多かれ少なかれこういう親はいるんだろう。不測の事態が起きたらどうするの?と不思議になるが、そもそも彼女が思う”人生設計”に不測の事態はないことになっているんだろうな。少女は賢い、いわゆるいい子なので母親に協力し(両親は離婚しているらしい)期待に応えようとするし、実際、順調に課題をこなしていく。しかし彼女が全く平気というわけではないことが、冒頭の入学試験の様子でわかるのだ。ただ、彼女は自分が大丈夫ではないという自覚はあまりないように見える。今まで大丈夫じゃなかったと自分でわかってくるのは、老人と、彼の物語に触れてからだ。
 自覚があるにしろないにしろ、人が「大丈夫じゃない」時に物語が手助けしてくれるというのは、実感としてすごくよくわかる。物語は具体的に何かの役にたつわけではない。それでも、自分の苦しさを相対化したり、もやもやに風穴を開けるような効果がある。そして、今(あるいはこの先)の苦しさが自分にとってどういうものなのかという、道筋をつける手助けになるのだ。後半、少女の現実とファンタジーとが入り混じった展開になるが、これは彼女が自分をとりまくものを物語として消化しようとしてるということだろう。彼女には近い将来、哀しい別れが訪れるかもしれない。でも、物語を生きることは、それを飲み込んでいく手助けになるのではないか。

『Re:LIFE』

 アカデミー賞を受賞したものの、その後15年間泣かず飛ばずで食い詰めていた脚本家キース(ヒュー・グラント)。エージェントのコネで、田舎町の大学でシナリオコースの講師をすることになったが、着任早々女子学生に手を出すわ、休講にするわでやる気を見せない。しかし、受講生の1人でシングルマザーのホリー(マリサ・トメイ)ら学生たちの熱心さや、学科長ラーナー(J・K・シモンズ)の誠意に触れるにつれ、徐々にやる気を取り戻していく。監督・脚本はマーク・ローレンス。
 主人公のキースは、ヒュー・グラントだから許されるキャラクターだなとつくづく思う。来て早々に自分が担任する予定の女子学生と寝ちゃうあたり、授業やる前にクビかよ!と突っ込みたくなるし、懇親会での時代錯誤も甚だしいセクハラ発言の数々は、他の人がやったら単に腹が立つだけなんだけど、ヒュー・グラントだと、そういう人だよなーという説得力の方に力が働くみたい。キースはこういう感覚で生きてきた人だから、そりゃあ脚本売れなくなるよなって納得するのだ。彼は良くも悪くも、15年前から変わっていない。15年前のアカデミー賞授賞式でジョークを放つ自分の映像を見る姿はもの悲しくもある。彼は外の世界の変化に目を向けず、自身もアップデートされていなかったのだろう。
 そんな彼が、学生たちと接する中でだんだん変わっていく。相変わらず情けない人ではあるのだが、本気で「物語」を書くことを教えようとするのだ。ちょっとアホだけど、基本的に素直なのだ。将来有望な学生をエージェントに紹介するあたりでも、「面白いものは面白い」という素直さがあるんだなとわかる。自分がいっちょ噛みできそうなシチュエーションなのにそうはしないのは、キースが若者を導く立場、自分が「主役」ではなくてもいいという立場に移行することができたから、そして誰の作品であっても面白い映画が好きだからだと思う。
 再出発に年齢は関係ないという側面もあるが、年の功、というものについて考えた作品でもあった。キースはいわゆる年の功がない人だろう。一方、ホリーの言動からは、年の功というものをしみじみと感じた。彼女の彼女の受け答えは機知に富んだ、かつ良識のあるもので、周囲への配慮が細やかでとてもいい。元々の素質もあるんだろうけど、ある程度経験積んでいないととっさの気のまわし方とか、周囲への思いやりとかってうまく発揮できないものだと思う。

『リトルウィッチアカデミア 魔法仕掛けのパレード』

 幼い頃見た魔女のショーに憧れ、魔女の家系ではないが魔女育成名門校に入学したアッコ(潘めぐみ)。しかし劣等生かつトラブルばかり起こす問題児だった。学内でトラブルを起こしたアッコは、友人のロッテ(折笠富美子)、スーシィ(村瀬迪与)と共に、町のお祭りで毎年定番になっている、魔女の歴史を再現したパレードの企画をすることに。成功しないと落第だが、魔法は幸せなものだと伝えるものにしたいとアッコは張り切る。監督は吉成曜。
 『キルラキル』等インパクトのあるアニメーションを手掛ける気鋭のアニメーションスタジオ、TRIGGERによるオリジナル作品。前作『リトルウィッチアカデミア』(企画「アニメミライ」内で上映)と同時上映だったので、前作未見の人も安心だし、そもそも予備知識なくても楽しめる作品に仕上がっている。TRIGGERといえば『キルラキル』なので、『リトル~』シリーズも過激な方向にとんがってくるのかなと思っていたが、むしろオーソドックスな「まんが映画」的な楽しい作品。作画はもちろん安定しているし、勢いと遊び心があってこれまた楽しい。行き届いているが、見る側に配慮しすぎていないところが逆に気楽でいい。
 また、女性キャラクターが大勢出てくるがセクシャルな要素は極力抑えている(スカートでホウキに乗ってもパンチラ一切なし)ので、安心して見ることが出来た(『キルラキル』はすごく面白いけど、女性キャラクターのコスチュームの露出度の高さはちょっと辛かった・・・)。そんなに込み入った話ではないし、キャラクターの造形もシンプルなので、小さいお子さんと一緒でも楽しいと思う。
 アッコは空気が読めない、押しが強い、人の話を聞かないかつちょっとアホという今時の主人公としてはわりと珍しいタイプ(現代の主人公キャラクターってわりと常識人だしかしこいよね)。一昔前の主人公ぽい単純さだ。今の10代、20代にははなかなか感情移入や共感はしにくいだろう。その分、アッコの友人で皮肉屋のスーシィや、お守り役で気遣い屋のロッテを配置してバランスを取っている。ひょうひょうとしてクールなスーシーィは人気が出そうだし、見ている側の共感を呼びそうなのはロッテだろう。前作にしろ、今作にしろ、ロッテがアッコに振り回されてかわいそうって思う人は結構いるんじゃないかなと思う。なんといっても、今回の裏主人公はロッテとも言えるのだし。

 

『淪落の女の日記』

 特集上映「映画史上の名作13」にて鑑賞。G・W・パブスト監督、1929年の作品。白黒・サイレント。薬局の娘(ルイーズ・ブルックス)が父親の助手に誘惑され、妊娠。赤ん坊は産婆に預けられ、娘は感化院に入れられるが、そこでは残酷な院長が入院者たちを取り仕切っていた。
 大変申し訳ないのだが前半ほぼ寝てしまったので、正直作品の良しあしがわからない・・・。ただ、それにしても長い割に退屈だった。主人公にしろ彼女の父親にしろ、彼女の夫にしろ、あんまりものを考えずにあまりに流されやすいように見える。確固とした意思らしきものが感じられないのだ。主人公が最後に何とか自己主張らしきものをするのだが、これは時代の違いなのだろうか。
 ビジュアル、演出が妙にフリーキーなのが気になった。感化院の院長はフランケンシュタイン(博士じゃなくて人造人間の方)みたいだし、院長と女性職員に入院している女性たちが反旗を翻すところは、ゾンビ映画みたいだ。なぜこのシチュエーション?!みたいな唐突感がある。主人公と父親がクラブで再会するシーンも、本人たちの意思では全く動けず周囲に襲われていくみたいな感じだ。これはその当時の流行だったんだろうけど、主人公のメイクが死人みたいでもある。義理の母親は現代でも通用するようなメイクなんだけど、これは逆に義母の方が地味・不美人てことなのかな?

『龍三と七人の子分たち』

 同居している息子夫婦にはうっとおしがられ、ヒマをもてあましている元ヤクザの龍三(藤竜也)。ある日オレオレ詐欺にひっかかりそうになったところを、かつてのヤクザ仲間“若頭のマサ”(近藤正臣)が居合わせたおかげで事なきを得る。サギで稼いでいるという半グレ集団の存在を知った龍三は、かつての仲間を集めて対抗しようとする。監督は北野武。
 宣伝ではおじいちゃんたちがけしからん若者を成敗して世直し!的な雰囲気を出しているが、やっていることは『アウトレイジ』とそんなに変わらないぞ!昔の仲間を集めるのはいいけど、まずサギで資金集めようとしてるし、どっちもどっちだよ!って感じを常に出しているところがいい。正義の味方どころか、あまり良識的でもないのだ。元ヤクザである、ヤクザは別にかっこよくないという部分がブレない。年とったから人間が出来てくるかというと、そんなことはないぞということだろう。だったらいっそやりたいようにやっちゃえばいいじゃない、とある意味潔い。
 ドライかつハードな『アウトレイジ』シリーズが2作続いた北野監督だが、今回はうってかわってベタな笑いに徹している。王道のコメディで、いつになくサービス精神旺盛だ。特に半グレ集団とのやりとりで顕著だったのだが、ボケに対するツッコミのペースがかなり小刻みかつ内容が具体的で、かなりわかりやすく、最近の漫才ぽくしようと努力(というか観客に対する譲歩)をしていると思う。もしかしたら監督、というかビートたけしとしては不本意なのかもしれないけど・・・。ともあれ「討ち入り」シーンは不謹慎だと怒られそうなネタ満載で、終わりに近づけば近づくほど暴走していき楽しかった。北野監督作品で本作のような過不足のない感じの作品ていうのは、結構珍しいんじゃないかな。
 豪華かつリアルに老いを感じさせるいいキャスティングだった。藤竜也はあきらかにおじいちゃんなのに、色気が健在。やっぱりかっこいい。そして近藤正臣が渋い!

『リベンジ・オブ・ザ・グリーン・ドラゴン』

 中国系移民の子としてニューヨークにやってきたサミー(ジャスティン・チョン)とスティーブン(ケヴィン・ウー)は、兄弟のように育った。1980年代のアメリカでは不法移民が急増した為、移民改革統制法が成立したが、蛇頭と呼ばれる密入国ブローカーやギャングたちが暗躍するようになった。少年だったスティーブンはギャングの一員となり、サミーもそれに従う。2人は徐々に頭角を現していく。監督はアンドリュー・ラウ&アンドリュー・ロウ。製作総指揮はマーティン・スコセッシ。
 スコセッシがどの程度口を出したのかはわからないが、序盤のスピーディかつ畳み掛けるようなカットのつなぎ方には、あースコセッシぽいかもなーと思った。本作、全体的にスピード感があって、話の進め方が非常に手際がいいし、冗長さがない。この密度で100分足らずというのは驚きだ。娯楽作かくあれ、というお手本のようなサイズ感。
 ただ、娯楽作というにはかなり苦味が強い。ひとつには、サミーたち移民が見たアメリカの姿の苦さだ。本作は移民から見た現代アメリカ史であり、アメリカという国の一面を示している。サミーとスティーブンは運よく移民としてアメリカに迎えられるわけだが、そこでの生活は母国で夢見ていたものからは程遠い。移民街でひしめくように生活し、必死に働いても得られる賃金は僅かだ。また、移民街はギャングに仕切られており、弱者は搾り取られるばかり。スティーブはそんな生活に嫌気がさし、母親を捨ててギャングになる。彼は自由が欲しいと言い、確かにギャングになって以前よりも金と権力による自由さは増した。しかし、ギャングの一員であることは、ギャングのルールに縛られることだ。ある面ではより不自由になったとも見える。
 もう一つの苦さは、サミーとスティーブンの青春時代の夢の終りから来るものだ。子供のころからスティーブンが率先して動き、サミーは後からついていくような関係だったが、ボスがかっているのはサミーの方だ。スティーブンは「現場」担当として力を発揮するようになるが、徐々に暴走傾向を見せていく。スティーブンもサミーも徐々に助け合う関係ではなくなっていくし、お互いに見ている風景が変わってきてしまうのが辛い。
 そして、「悪い奴ほどよく眠る」とはよく言ったもので、本当に悪い奴はこうふるまうものだ、というラストには暗澹とした気持ちになった。アメリカンドリームがこういうことなら、何ともやりきれない。
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