3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『ラブレス』

 ボリス(アレクセイ・ロズィン)とジェーニャ(マルヤーナ・スピヴァク)は離婚協議中で、既にそれぞれ別のパートナーがいる。2人とも新しい生活を始める為、相手に12歳の息子アレクセイを押し付けようとしており、協議はもめていた。2人の口論を聞いたアレクセイは、ある日学校へ向かったまま行方不明になる。監督・脚本はアンドレイ・ズビャギンツェフ。
 日本で公開されたズビャギンツェフ監督の作品は毎度見ているのだが、どれもビジュアルは大変美しく情緒がないわけではないが人間に対する視線が冷徹で、血も涙もないな!とうめきそうになる。本作も題名からして血も涙もない。そして題名通りの内容だ。
 ボリスとジェーニャは形は異なるものの、エゴをむき出しにしていく。ジェーニャは苛立ちや怒りをボリスにぶつけ、とりつくろうとすらしない。ボリスは一見下手に出ているが、言葉の端々からは責任を回避しようとする姿勢が見て取れる(終盤、新しい家庭でのボリスの姿は、この人夫としても父親としてもやる気ないんだな・・・と予感させるもの。家庭は欲しいが家庭で果たすべき責任は面倒くさくてやりたくないという感じ)。2人とも、自分のことが最優先でアレクセイのことは二の次だ。
 2人の行動は親としてどうなんだ、と非難されるであろうものだ。とは言え、彼らのエゴイズムと同じものが映画を観ている側の中にもきっとある。また、全ての親が自分の子供を愛せるわけでもないだろう。ボリスとジェーニャは保護者としての責任をおろそかにしたという点では非難されるだろうけど、愛が薄い(ように見える)ことは正直な所あまり非難する気にならなかった。もし親になったら、私もこんな感じじゃないかなと思ってしまうのだ。本作の題名はラブレス、愛がないということだが、そもそも家族の間に愛があるという前提が不確かなものではないだろうかと。
 アレクセイに対する直接的な愛情も思い入れもない、ボランティアの捜索隊の人たちの行動が、作中最もまともで責任感あるもののように見えたのが皮肉だ。

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アレクセイ・セレブリャコフ
紀伊國屋書店
2016-08-27



『ラッキー』

 90歳のラッキー(ハリー・ディーン・スタントン)は一人で暮らしている。毎朝起きるとコーヒーを飲み、タバコをふかし、自己流のヨガをこなし、ダイナーに行ってコーヒーを飲みながらクロスワードパズルを解く。夜はバーに行ったりTVでクイズ番組を見たりする。ある日突然倒れたラッキーは、医者からは問題ないと言われたものの、自分に人生の終わりが近づいていると感じる。監督はジョン・キャロル・リンチ。
 ラッキーは同じような日課の毎日を繰り返しているのだが、妙に味わいがあって惹きつけられる。ラッキーは一人者だが、それが寂しい、悲しいというわけではないし、人生に失敗したと考えているわけでもないだろう。本作のキャッチコピーは「孤独と一人は、同じじゃない」だが、正確にはラッキーは一人だし孤独かもしれない、だがそれは自然なことでマイナスに考えることではない、といったところではないか。ラッキーは人間は生まれるときも死ぬときも一人だと明言する。彼には友人がおり、かつては恋人もいたようだが、それでも自分は自分であり、一人なのだ。それが彼にとっての自然だから、ペットの犬も小鳥も必要ない。
 とは言えラッキーは、他人が家族を持ったりペットを飼ったりすることを否定しない。ペットの亀が逃げ出して凹んでいる友人(デビッド・リンチが演じている)を周囲がからかっていると猛然と怒るし、雑貨店の女性が息子の誕生日なんだと言うと一緒に祝う。人が大切にしているものを茶化すべきではないという姿勢は一貫している。そこが、彼が偏屈だが周囲から好かれている一因でもあるのだろう。自分とは違うし理解できないかもしれないが、それはそれとして、という態度が見られるのだ。同性カップルに対する視線や弁護士とのやりとり等、若い頃はもっと偏屈で偏見に満ちていた(今でも偏見は持っているんだけど・・・)んだろうなという部分がちらほら見える。

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『RAW 少女のめざめ』

 厳格なベジタリアン家庭で育ったジュスティーヌ(ガランス・マリリエール)は、両親の母校でもある獣医学校に進学。先輩として既に寮生活をしている姉アレックス(エラ・ルンプフ)を頼るが、彼女は様変わりしていた。新入生の通貨儀式として生肉を食べることを強要されたジュスティーヌは、自身の体の変化に気付く。監督はジュリア・デュクルノー。
 上映中に失神者が出るほどの衝撃作との触れ込みで、一部でかなりの高評価だったらしいが、どのへんが衝撃だったのかな・・・?至って普通に少女の成長物語だった。確かに食肉シーンが衝撃なのかもしれないが、作劇的に特に目新しいことをしているわけではないので拍子抜けした。更に言うなら、わざわざ食肉設定を出してくる必要もあんまりない気がするんだけど・・・。
 ジュスティーヌは学校に附属した寮に入るのだが、新入早々「歓迎」の儀式に引っ張り出されたり、セクシーな服を着ることを強要されたり、出来がいいからと教員に因縁つけられたりで、混乱することだらけだ。先輩が絶対的なヒエラルキーのある世界で、優等生だった彼女は異物なのだ。彼女は学校の雰囲気に自分を合わせようとするが、肉食に目覚めたことがきっかけで、更に合わせることが困難になっていく。
 少女が自分を発見し解放されていくというよりも、自分を取り囲む世界との違和感、そして自分の身体との違和感と相対してもがいていく様に思える。学校内の雰囲気がとっても嫌な感じ(先輩に対して「聖なる存在!」みたいにコールさせるのとか、お祭り騒ぎに参加しないと許されない感じとか)ジュスティーヌが本来の自分であろうとすると、必然的に周囲の人々、最も近しい人々を傷つけることになってしまう。これは彼女の身体的なリアクションであると同時に、内面のリアクションでもある。彼女がセクシーな恰好をするのが自分1人だけの時というのも象徴的だった。
 しかしそれをこういう形で表現する必要ってあるのかなという気がしてならなかった。わかりきったことをもっともらしくやられてもなぁ・・・普通ですよとしか言いようがないよ・・・。特に、言うまでもない様なオチの付け方など、もはやコメディ。

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『ライオンは今夜死ぬ』

 南フランスのラ・シオタで映画の撮影に臨む老齢の俳優ジャン(ジャン=ピエール・レオ)。しかし共演者の不調で撮影が延期されてしまう。ジャンはかつて愛した女性ジュリエット(ポーリーヌ・エチエンヌ)を訪ねて古い屋敷にやってくる。既に空き家となった屋敷では、近所の子どもたちが映画撮影をしていた。ジャンも俳優として撮影に加わることになる。監督は諏訪敦彦。
 事前に思っていたのとは別の方向に話が転がるのであれっ?と思ったけど、予想とは違う良さがあった。渋い老人映画かと思っていたら、思いのほか子供映画であり、夏休み映画であり、何より映画の映画である。夏のキラキラした光と色彩がまぶしく(トム・アラリの撮影がいい)、できれば夏休みシーズンに見て気分を盛り上げたかったなぁ。
 冒頭、死にいく人を演じるジャンに対して監督が「死は穏やかのもの」と言うが、それは監督がまだ若いからで、死がそこそこ他人事に感じられるからだろう。もう人生の終盤にいるジャンにとっては、「穏やか」言えるのかどうか微妙だ。彼は死は出会いだと繰り返すが、おそらく出会ってみるまで何だかわからない、「出会い」としか言いようがないイメージなのだ。
 ジャンは実際、ジュリエットという死者と出会う。それは自分の死のリハーサルのようにも見える。実際、ジュリエットは彼を待っていると言うのだから。ジュリエットとの出会いと別れは、子どもたちが撮影する映画の中で更に反復される。死者との出会いと別れを経て最後にジャンが披露する演技は、冒頭のものよりもきっとよくなっている。
 一方、子どもたちにとっての死者は幽霊であり、ゴーストバスターズが退治するものだ。ジャンのセンチメンタリズム等入る隙がない。ジャンの思い出に対して子どもたちは無頓着だし、全然別の世界で生きているようでもある。しかしそこがいい。彼らの傍若無人さに対して、ジャンも自由きままな演技で返していく。子どもによるしっちゃかめっちゃかな指示を無視して演じるジャンに、子どもたちが「演技指導」する、その指導の内容が徐々に具体的になっていく所など愉快だった。子供はわかってくれない!しかし瞬間的に老人とすごく近い位置にいるように見える。

不完全なふたり [DVD]
ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ
ジェネオン エンタテインメント
2008-02-08






『ラブラバ』

エルモア・レナード著、田口俊樹訳
 元シークレット・サービスの捜査官で、今では写真家のジョー・ラブラバは、12歳の頃の初恋の相手である、元女優のジーン・ショーと知り合う。ジーンとの出会いに心浮き立つラブラバだが、彼女は厄介な男たちに目を付けられていた。アメリカ探偵作家クラブ最優秀長篇賞を受賞した作品の、新訳版。
 ラブラバは一見呑気でピントがずれているが、実は頭がきれ腕っぷしも強いという、なかなかのチートキャラ。都合が良すぎるチートぶり(経歴が結構すごいもんね・・・)もレナードの軽口をたたくような軽妙で洒脱、しかしクールすぎない文体だと違和感を感じない。世界観の統一がされているということだな。ラブラバの、頭はきれるが基本的に人が良く、特に女性に対しては脇が甘い所も、やりすぎ感を抑えている。ラブラバの中の客観的で冷静な部分と、自分が信じたいものを信じたいという情の部分のせめぎ合いが、本作を単なる「クール」ではなくしていると思う。
 本作、’40年代フィルムノワールへのオマージュに満ちていて、固有名詞をわかる映画好きにはより楽しいのでは。ジーンがどのような女優なのかということも、よりわかる(そこが辛い)はず。引退したとはいえ彼女はやはり女優で、「映画」をやりたいのだ。事件の謎は中盤で明かされてしまうが、謎解きは本作の重点ではない。女優として生きるジーンと、それに対するラブラバの配慮が泣かせるのだ。ラブラバは信じたいものを信じようとしても真実に引き戻されるが、ジーンは自分が見せたいものに殉ずるようでもあった。夢に生きてこそのハリウッドの住民ということか。
 悪役として登場するノーブルズとクンドー・レイの珍道中もいい。ノーブルズの言動は頭が悪いのに結構怖い。中途半端な悪人、かつ思い込みの激しさ故の怖さがあるのだ。



グリッツ (文春文庫)
エルモア レナード
文藝春秋
1994-01

『LION/ライオン 25年目のただいま』

 インドのスラム街で暮らす5歳のサルー(サニー・パワール)は、兄の仕事先についていった時、停車していた電車内に入り込んで眠ってしまい、そのまま遠くの地へと運ばれ、迷子になった。家族と生き別れ孤児院に保護された彼は、オーストラリアへ養子に出される。そして25年後、養父母の元で成人し順調な人生を歩んで生きたサルー(デヴ・パテル)は、ふとしたきっかけで生母と兄のことを思い出す。わずかな手がかりからGoogle Earthを使って故郷を特定しようと試み始める。監督はガース・デイヴィス。
 予告編等事前情報からは、なぜこの題名なのかはわからない。本編を見て題名の意味がわかると、ああそうか!と深く納得する。サルーが自分の人生を発見し直すまでの、長い旅の物語だったのかと。もちろん、養父母の元で過ごした日々も本物の彼の人生だ。しかし、人生の一部であって、養子になる前の幼い頃の人生については、裏付けが取れず曖昧なままだ。忘れたままなら、それはそれで穏やかな日々だったのかもしれないが、インドの菓子を目にしたことで、断片的な記憶がよみがえり、実母と兄を放っておいたという罪悪感に苦しむことに苦しむようになる。同時に、実母を求めることは養父母を裏切ることになるのではと、二重の罪悪感に駆られるのだ。故郷を探そうとするサルーの熱意は唐突に生じるようにも、少々行き過ぎているようにも見える。実際、日常生活に支障をきたし、恋人との関係も破綻してしまう。しかしサルーにとってはそのくらい、人生の一部が失われていることは苦しいことなのだろう。
 サルーは大きな不運によって「迷子」になったが、運の良さと機転とで生き延びる。本作、サルーの幼少時代に結構時間を割いているのが意外だったのだが、まだ幼い彼がどのような道筋を辿ってきたか垣間見ることで、本当に運が良かったのだと痛感する。あからさまには描かれないが、「ルート分岐点」でもし違う道を選んだらこうなっていたかも、という姿が、他の子供達の姿を借りて現れる。あっさり描いているようでいて、闇の深さが垣間見られるのだ。
 そういう「もしも」を一番強く感じたのは、養子先での義兄・マントッシュ(ディヴィアン・ラドワ)の存在だ。マントッシュはサルーより年長だが、養子に来たのは彼の後。順調に養父母とオーストラリアの生活に馴染んだサルーとは異なり、マントッシュは養父母との関係はぎこちなく、成長してからも土地に馴染めず、自分の生活を立て直すことができずにいる(子供の頃から精神的な問題があるという描写はされている)。サルーよりもむしろ、マントッシュの人生はどんなものだったのかという方が気になった。彼にとって、養子に出されたことは果たして幸運だったのだろうか。彼は、サルーが進んだかもしれないもう一つの人生なのだ。

『ラビング 愛と言う名前の二人』

 1958年、バージニア州で暮らす大工のリチャード・ラビング(ジョエル・エドガートン)は、恋人のミルドレッド(ルース・ネッガ)の妊娠を機に結婚を決意する。しかしバージニア州では異人種間の結婚は法律で禁止されていた。密かにワシントンDCで結婚し地元に戻った2人だが、ある夜保安官に逮捕され、離婚するか故郷を捨て二度と戻らないかの選択を迫られる。一度は故郷を去ることに同意した2人だが、裁判の判決が不当であると申し立てる。監督・脚本はジェフ・ニコルズ。
 とても良かった。全体的に非常に抑制が効いており、見せすぎない、説明しすぎない、盛り上げすぎないという作劇に徹している。いつ、どこを舞台としているのかも、字幕等での説明はなく、登場人物のセリフと劇中で映し出される世相からなんとなくわかってくるといった塩梅。これは映画を見る側を信頼してくれているなぁ。情緒面も、ラビング夫婦がどちらかと大人しい人で感情をあからさまに出すシーンが少ないというのもあるのだが、これ見よがしな煽りがない。とても品のいい演出だと思う。
 結婚は違法とされたラビング夫婦に対する処遇は、今見ると明らかに不当だ。しかし、当時のバージニアでは異人種間の結婚は違法であり、その結婚は倫理的にも間違っている、異人種間の子供を増やすことも罪だと考えられていた。リチャードもミルドレッドも、自分達の結婚、自分達が愛し合っていることが間違っているとされることは、おかしいと声をあげる。リチャードは黒人の友人に、なぜ同棲では駄目なんだと問われる。また、DCでひっそりと暮らすという道もあるだろう。しかし、おかしいと思ったことにはおかしいと誰かが声を上げないと、世の中は変わらない。ラビング夫妻は元々、人権運動や政治活動をしていたわけではなく、裁判のやり方にも疎かった。それでも、自分達が愛し合っていることが間違っているとはどうしても思えない、その結果生まれた子供達が間違った存在のはずはないという一心で、10年間裁判で戦い続ける。作中ではあからさまには描かれないものの、2人に危害を加えようとする人たちも少なくない。そういう状態で10年間耐えるというのは、お互いによっぽど信頼感がないと乗りきれなかっただろう。
 2人ともそんなに口数は多くないが、ミルドレッドの方が時に思い切った行動を起こし、リチャードはそれについていく。リチャードは、当時の白人男性としては割と例外的な人だったのではないかと思うが、人種差別意識は希薄だし、女性に対する態度も強権的ではない。彼は妻のすること全てを理解しているわけではない(当時のアメリカで黒人であるというのがどういうことかは、黒人のコミュニティの中にいたとしても、やはり本当にはわからないのだと思う)が、彼女のことを尊重し、肯定し続ける。彼にとっての「絶対守る」という行為がどういうものだったのか、本作全編を使って描かれているようにも思った。

『ラ・ラ・ランド』

 女優を夢見てハリウッドに来たもののオーディションには落ちてばかりのミア(エマ・ストーン)。ある日、ジャズピアニストのセバスチャン(ライアン・ゴズリング)と出会う。セバスチャンはジャズを聴かせる店を持つという夢を持っており、2人は恋に落ちる。監督はデイミアン・チャゼル。第89回アカデミー賞では監督賞、主演女優賞等6部門で受賞。
 冒頭の高速道路を使ったレビューと、クライマックスでの走馬灯的ミュージカルシーンがカラフルで美しく、特に高速道路編はよくここで撮ったな!(というか撮影許可を取れたな!)と感心した。あっあんな遠くまで人が踊っている!というだけで何だか感銘を受ける。ほぼ1ショットに見えるような長回し風撮影をしているので、相当大変だったと思う。カメラと人物が近すぎ、かつカメラの動きが速すぎる(全般的に、カメラをここまで動かせるぞ!ということが楽しくてつい動かしすぎてる感じ)きらいがあり、ダンスする肉体のダイナミックさが削がれているのが残念ではあるのだが、これをやりたかったんだろうなぁと納得はさせる。
 前半は恋する2人の気持ちの浮き立ち(それこそ宙を舞ってしまうくらいの)や、それぞれの夢に向かう情熱を反映したかのような色鮮やかでキラキラした映像。色の調整は徹底しており、衣装と背景となる室内や建物の壁の色のコントラストが美しい。しかし、2人がそれぞれの夢に行き詰まりを感じ、2人の関係も変化していくあたりから、色彩は褪せて、ある意味地に足の着いたものになっていく。作品世界の色合いが2人の心情とリンクしているのだ。後半は華やかなミュージカルシーンがなくてつまらないという感想も散見されたが、おそらくミアとセバスチャンにとっての世界が「つまらない」ものになってしまっているのだと思う。一旦「つまらなく」なったからこそ、世界はーつまらないかもしれない、しかし夢を見させてくれというミアの巻き返しが感動的なのだろう。その一方で全てがミア、あるいはセバスチャンが見ていた夢なんじゃないかという気もしてしまうが。
 楽しい作品ではあるのだが、手放しで褒められない所も。監督の前作『セッション』を見た時も思ったのだが、音楽がとても好きな人ではあるのだろうが、その割に、えっ本当に音楽好きなの?と思わせる所がある。本作では、セバスチャンをバンドに引き入れるミュージシャン・キースのステージには首をかしげた。クラシカルなジャズを愛するセバスチャンは、新しいものをどんどん取り入れ大衆受けを狙うキースのやり方が気に入らない。彼のライブは、いかにもウケそうな安っぽい歌詞のポップスとやたらと出てくるダンサーという演出なのだが、ちょっと悪意を感じた。元々ジャズミュージシャンであるキースはセバスチャンと同じくジャズの素養は豊かで、おそらくセバスチャンより才能もある。ただ、より多くのリスナーを獲得する為の試行錯誤を辞さない。主義がないのではなく、逆にセバスチャンよりよっぽど腹をくくっていると言えるだろう。それをこんな安っぽい見せ方をするのは、音楽を生業とする人たち全体だけでなく、それを聴いて喜ぶオーディエンスのこともバカにしていることにならないか(こういう演出にも関わらずちゃんと仕事したジョン・レジェンドはえらいよ・・・)。キースのライブのダサさは、セバスチャンの目にはこう映っているってことなのかもしれないが、それにしても独りよがりではないか。バイトで「Take on me」を演奏する姿がものすごく嫌そうなのも、彼の趣味じゃないとは言え、「Take on me」は楽しい曲なんだよ!と文句言いたくなった(なので、このシーンでのミアの振る舞いは適切だと思う)。
 また、これは作品のコンセプト上しょうがないのかもしれないし、狙った部分なのかもしれないが、ミュージカル映画というよりもミュージカル映画「ごっこ」感が拭えなかった。オマージュだらけなことの弊害か。

『ラブ&マーシー 終わらないメロディー』

 1960年代、人気絶頂だったビーチ・ボーイズ。作曲の大半を手掛けるリーダーのブライアン・ウィルソン(ポール・ダノ)は、斬新なサウンドを追い求めるが、メンバーからは理解されず、プレッシャーで精神のバランスを崩していく。そして20年後の1980年代。長らく低迷中のブライアン(ジョン・キューザック)は、車のディーラーをしているメリンダ(エリザベス・バンクス)と出会う。ブライアン・ウィルソン本人公認の、ブライアン・ウィルソンの物語。監督はビル・ポーラッド。
 ブライアンと父親の関係が、さほど突っ込んで描いているわけではないが印象に残る。父親が登場する場面は短いのだが、非常に強権的で、息子たちは大人になってからも父親を恐れている。また、ビーチ・ボーイズの音楽性にも口出ししたり、彼らのマネージメントをしていたり(途中で解雇されたようだが)で、とにかく過干渉だし、楽曲の著作権を勝手に売っちゃったりと、ちょっと無茶苦茶なのだ。抗議すればいいのにと思うが、子供の頃から父親に暴力を振るわれてきた息子たちにはそれが(能力的にも法的にも出来るはずなのに)できない。更にブライアンは、父親が去った後も、やはり自分と自分の音楽を支配しようとするカウンセラーと関わってしまう。カウンセラーのやり方は父親に輪をかけて無茶苦茶なのだが、やはりそこから逃れられない。支配されることも習慣になるのかとちょっとぞっとした。ここからブライアンを引っ張り出そうとしたメリンダは、相当ガッツのある人だったのではと思う。
 ビーチ・ボーイズのアルバム「ペット・サウンズ」はリリース当時、不人気だったそうだが、作中でもそのあたりの様子は描かれている。ブライアンの考えるサ ウンドは、一部のスタジオミュージシャンからは歓迎され、レコーディングスタジオは祝祭感に満ちている。しかし、ビーチ・ボーイズのメンバーはその祝祭の 中に入れない。音楽との個々との関係の深さの違いが、ここでぱっと見えてしまい、才能のあるなしというのは残酷なものだなとしみじみ感じた。メンバー側か らしてみたら、自分達にはさっぱりわからないもので盛り上がっているし自分達は不要みたいに見えかねないしで辛いだろうが、ブライアンにとっても、自分が やりたいことが一番身近な人たちに理解されないというのは辛いだろう。時代を先取りしすぎたというのもあるだろうが、そもそもバンドに向いていない人だっ たんじゃないかという気もしてくる。自分の持っている音楽のビジョンが明確すぎ、豊富すぎるというのも、それはそれで辛いのかなと思った。他人が入る余地がないんだもんなぁ。

『ラン・オールナイト』

 ジミー・コンロン(リーアム・ニーソン)は、ブルックリンを縄張りとするマフィア、ショーン・マグワイア(エド・ハリス)の元で働く殺し屋だった。現役引退し、罪悪感の為に酒びたりの日々を過ごすジミーだったが、犯罪に巻き込まれ殺されそうになった息子マイク(ジョエル・キナマン)を助ける為に、襲ってきた男を殺してしまう。その男はショーンの息子ダニー(ボイド・ホルブルック)だった。ショーンは復讐の為にジミーとマイクに追手をかける。監督はジャウム・コレット=セラ。
 いつものリーアム・ニーソン主演のアクション映画かなと思っていたし、実際そうではあるのだが、妙に陰影が深い。脚本のブラッド・インゲルスビーは『ファーナス 決別の朝』を手がけた人で、だとするとこの陰影の深さも頷ける。あるシーンがまんま『ファーナス~』のクライマックスと同じシチュエーションだったのだが、こういう絵が好きなのかな。インゲルスビーは、間違っているかもしれないがこうやるほかない、という人のドラマが好きなんだろうか。
 この人はこういう人、という見せ方がくどくなく端的で、手際がいい。ジミーがバーで酔っぱらっているあたりから、パーティーでサンタ役をする羽目になるあたりで、彼が自滅的になっており自尊心もなくしかけていることが伝わる。また、マイクがボクシングジムで少年を指導する様を見るだけで、この人は(ジミーとは対称的に)ちゃんとした人なんだなとわかる。
 本作の陰影をより深めているのは、ジミーとショーンの関係だ。2人は長年の親友であり、ジミーはショーンの為に殺しを続けてきた。酒びたりになったジミーを、ショーンだけは軽んじない。2人は「一線を越える時は一緒だ」と言うが、この言葉が2度目に言われる時にはその意味合いが変わってくる。その変化が痛切だった。どちらにしろ一緒ではあるのだが、一緒だと言うこと自体がやりきれない。
 2人の関係の変化が、どちら側からも息子との関係によるものだというところが面白い。ジミーは仕事の為に家族と距離を置き続け、マイクにとっては自分たちを捨てた父親だ。親子関係は少なくともマイク側からは崩壊しているのだが、ジミーは父親として、マイクの為に一線を越える。一方ショーンの息子ダニーはドラ息子であり、ショーンも息子の才覚は見限っているようだ。しかし出来の悪い息子であっても、息子は息子で、愛情を否定できない。ショーンもまた、息子の為に一線を越えるのだ。ただ、ジミーは息子との関係を取り戻すべく行動するが、ショーンは息子との関係をもはやどうすることもできない。そこがまた苦い。

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