雪山の山荘で、視覚障がいをもつ11歳の少年ダニエル(ミロ・マシャド・グラネール)と愛犬が、家の外で血を流して倒れていた父親を発見。少年の悲鳴を聞いた母親サンドラ(ザンドラ・ヒューラー)が救助を要請するが、父親はすでに息絶えていた。当初は事故による転落死と思われたが、前日に夫婦ゲンカをしていたことなどから、サンドラに夫殺しの疑いがかけられていく。ベストセラー作家のサンドラとやはり作家志望だった夫の間には溝が出来ていたのだ。監督・脚本はジュスティーヌ・トリエ。
同業者がパートナーだと、お互いの性格によってはものすごくめんどくさく葛藤の絶えない関係になりかねない。サンドラのヒット作は夫が破棄した構想が元になっていたし、夫はサンドラとの口論を録音して自分の小説の素材にしようとしていた。相手の技量がなまじわかってしまうだけに、お互いに疑心暗鬼や嫉妬が絶えないのでは。わからないから平穏でいられることもあるのだ。
更に、夫婦関係が対等であることの難しさが露呈していく。本来双方が協力しあって生活を維持していくはずなのに、より稼いでいる方は自分が稼いでいるんだから多少奉仕してもらって当然だろう、パートナーの仕事より自分の仕事の方が重要だと錯覚してしまう。これは男女関係ないだろう。サンドラは家事や子供の世話で自分の作品に取り組む時間がないと訴える夫に、それはやる気がないからだ的なことを言う。彼女の仕事量は家庭内での夫の働きの上に成り立っているのだろうが、そこはスルーされる。
ただ、裁判の中ではこれらのエピソードは夫が気の毒だったという文脈で使われるのだが、もし男女逆(多数派であろう男性が稼ぎ手寄り、女性が家事寄り)だったらそんなに同情的に受け止められただろうかという疑問もわいてくる。もしサンドラが男性だったら検察官がセクハラまがいの発言をすることもなかったのでは。サンドラは決して品行方正というわけではないが、男性だったらここまで追求されるだろうかという場面がしばしばある。女性であること、そしてフランス語が母語ではない異国人(舞台は夫の母国であるフランスでサンドラはドイツ人、2人の会話は英語、裁判はフランス語)であることが、彼女の訴えのハードルを上げている。母国語以外の言語で裁判で証言するのってかなり負担なのでは。裁判のあり方がそもそも彼女にとってフェアではないとも言える。
本作で提示される事件当時、また事件に至るまでの出来事は、あくまで関係者の法廷での証言の内容ということになっている。実際に何があったのかは実はわからないままだ。裁判とは原告と被告がそれぞれのストーリーを提示し合いぶつけ合う、あるいは落としどころを探るもので、真実を究明する場ではないということが露呈していくのだ。ただ、それは当たり前と言えば当たり前で、実際に何があったのかなんて他人には知りようがない。本作、シナリオは確かによくできているのだがこの当たり前さを額面通りにやっている感があって、よくできているが今一つ面白みがないという印象だった。