3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカ』

 1970年、ドイツのハンブルグ。フリッツ・ホンカ(ヨナス・ダスラー)はバー“ゴールデングローブ”で毎日くだをまいている。女性に声をかけても相手にはされない。しかし彼は娼婦を殺しており、その死体を自宅アパートに隠していたのだ。監督はファティ・アキン。
 実際にあった連続殺人事件を素材にした作品。アキン監督はこういう作品も撮るのかという新鮮さがあった。そして面白い!ゆるいと見せつつシーンの組み立てが上手く、流れがだれない。また、F.M.アインハントによる音楽が冴えている。何もないようでいて何かが起ころうとしている、不穏な空気を掻き立てていく。それでいてどこかユーモラス。
 ホンカの犯行はあまりに行き当たりばったりで、死体の処理の仕方、隠し方にしてもばれるのは時間の問題だろうというもの。よくあるシリアルキラーものだと大体殺人犯は頭が良くて完全犯罪をもくろむが、本作は全く異なり、そこにリアリティがあるとも言える。実際はこんなもんかもしれないなと。ホンカは先のことを全く考えていない、というよりもこうしたこの先こうなるだろうという想像力が全く欠落しているように見える。作中で何度も言及されるが、絶対に臭いがえらいことになるはずなのに(階下のご家庭が気の毒すぎる…)。
 その想像力のなさは、女性に対する態度にも表れている。相手も個々人であり、それぞれ独自の考え方を持っているという発想がない様子なのだ。だから女性との関係性を自分の願望のみで解釈するし、相手が自分の期待と違う行動をしたり、自分の行為に対して反抗したりすると激昂するのだろう。女性に対する好意や執着は、所有物に対するものに近い。ホンカが年配女性にばかり声をかけるのは年上好みというわけではなくて、老いて美しくもない女性だったら自分でも相手にされるかもという女性の若さ・肉体にのみ「物」として価値を見出す価値観、また立場も肉体的にも弱い相手だったら反抗されない、より「物」として扱えるという意識的か無意識かわからない理由によるものからかもしれない。同僚にいきなり好きだ!セックスさせろ!と迫っていくのが怖すぎる。コミュニケーションを重ねてセックスにつなげるという発想がない。本作の、ホンカの恐ろしさの核はここにあると思う。
 エンドロールでは実際に犯行に使われたホンカのアパートや被害者の遺品が映し出される。陰惨な殺人事件だがその見せ方は妙にドライで脱力感も漂う。

女は二度決断する [DVD]
ダイアン・クルーガー
Happinet
2018-11-02


さよなら、シリアルキラー (創元推理文庫)
バリー・ライガ
東京創元社
2015-05-10



『山村浩二 右目と左目で見る夢』

アニメーション作家・山村浩二の最新短編をまとめたプログラム。全9作品から成る。

『怪物学抄』(2016)
架空の中世ヨーロッパの学者による、架空の生き物=怪物に関する公文書。「飼いならされた野生」「鎧という名の武器」等想像膨らませる言葉による紹介と、それを受けたイメージにわくわくする。どの怪物にも愛着が沸いてくるのだ。この怪物はこういう生態、という雰囲気が、短い時間の中でも伝わってくる。アニメーションというよりもイラストの良さと文章、そしてヘンデルの音楽とのマッチングの妙という印象だった。特に音楽の合わせ方は上手い!

『Fig(無花果)』(2006)
アニメーション映画生誕100年を記念して、「東京」をテーマに制作されたオムニバス・アニメーション『TOKYO LOOP』より、山村浩二制作パートを抜粋したもの。墨絵のようなモノクロっぽい画面で、東京タワーは登場するけど東京っぽいかと言われるとどうかなぁ・・・。自分の中の東京のイメージよりも、静かでひそひそざわめいている感じだった。音楽(山本精一)がやはり良い。

『鶴下絵和歌巻』(2011)
17世紀に製作された俵屋宗達の「鶴下絵和歌巻」をモチーフとした作品。その構造や宗達の意図を読みとき解釈を試みた作品。いわゆるアート系アニメーションという感じだが、正直な所あまり印象に残らなかった。山村の作家性よりも、宗達の作品をモチーフとして実験する、という意図が前面に出ているからか。日本ががそのまま動くようなイメージは美しいが。

『古事記 日向篇』(2013)
古事記のうち、日向を舞台にしたエピソード、「禊」「天照大御神」「此花之佐久夜毘売」「海佐知山佐知」をアニメーション化したもの。よく知られた創世神話なので物語に馴染みもあり、「お話」としての側面は今回上映作の中では一番強い。繊細だがどこか素朴な味わいのアニメーションの画風とも合っていた。それにしても、古事記の神様たちは結構やることがひどいな(笑)!改めて見ると、「海佐知山佐知」のオチとか結構エグくて軽くひくレベル。さらっと語られてるので余計に。

『干支1/3』(2016)
2016年トロント・リールアジアン国際映画祭20周年を記念し、「20」をテーマに製作された作品。干支は十干と十二支を組み合わせたとされるもので、60年で一周することから、20年を1/3周として表現した。1997年から2016年までの20の干支の要素が現れる。文字が生き物や表象に変化していく様は、漢字の醍醐味でもある。ほぼ朱と黒のみでの色彩表現で筆で描いたようなタッチはシンプルだが、メタモルフォーゼの連続はアニメーションならではの表現。

『five fire fish』(2013)
カナダ国立映画制作庁(国立でこういう省庁があるということがすごいな・・・)が開発した映画製作用iPadアプリ「McLAREN's WORKSHOP」のデモンストレーション映像として、その仲のEtching on film」というアプリを使って即興的に制作した作品だそうだ。アプリの名称通り、エッチングのようなひっかいた感じの線描によるモノクロアニメ。「fish」のスペルが魚になって泳ぎ回る、これも文字のメタモルフォーゼを表現した物。わずか1分強の作品だがのびのびとしている。

『鐘声色彩幻想』(2014)
本作もカナダ国立映画制作庁と、Quartier des Spectaclesのパートナーシップにより、カナダの実験映像・アニメーション作家ノーマン・マクラレンの『色彩幻想』の抜粋を用いて制作した作品。教会にプロジェクションする為、縦に長い画面構成になっている。今回上映されたものの中ではこれが一番好き。ドローイングにより音を視覚化するような作品。色と形の運動が楽しく、音楽との連動が実にかっこいい。こういうのがミュージックビデオってことじゃないかなと思った。なお、音楽はモーリス・ブラックバーン。鐘の音が印象的で、教会へのプロジェクション・マッピングには良く合っていたのではないか。プロジェクションされたものを見て見たかったな。

『水の夢(1原生代)』(2017)
ピアニストのキャサリン・ヴェルヘイストと舞台デザイナーのエルヴェ・トゥゲロンからの依頼による舞台用作品だそうで、当然音楽はヴェルヘイストによる演奏。これも音楽そのものと音楽との一体感が素晴らしい。山村監督、音楽への素養・理解度が高いんだろうなぁ。なおジョージ・クラムへのオマージュ作品でもある。海中での古生代の生物の発生と進化を描くが、アニメーションてこういう表現もあるのか!とちょっとはっとするところも。墨絵と写真の合成のような質感があって面白い。

『サティの「パラード」』(2016)
エリック・サティによるバレエ音楽「パラード」を、サティのエッセイの中の文章、ウィレム・ブロイカー楽団の演奏と合わせアニメーション表現にしたもの。バレエの登場人物の他、サティのエッセイ内に登場するジャン・コクトーやピカソだけでなく、同時代のマティスやマン・レイ、モンドリアンやジョアン・ミロらしきモチーフも登場する。そして当時アメリカと言えば映画!映画といえばチャップリン!なんだなぁと。賑やかでカラフルな楽しい作品。サティのエッセイの中に、「コクトーは明らかに私のことを敬愛しているが、机の下で足を蹴ってくる」というような一文があって、それはどんなツンデレ・・・!と吹き出しそうになった。

怪物学抄
山村浩二
河出書房新社
2017-07-14



『山のかなたに』

 第17回東京フィルメックスにて鑑賞。イスラエルに暮らす一家。ある日、長女イファットはアラブ人青年からの誘いを断り帰宅した。同じ日の夜、父親は新しいビジネスが上手くいかない苛立ちを、丘に向けて銃を発砲することで紛らわせる。翌日、丘でアラブ人青年の死体が発見される。監督はエラン・コリリン。
 ごく平穏に見えた一家が、ちょっとしたことから徐々にそれぞれ、危うい方向に進み始める。軍を退役した後、ねずみ講まがいの商売を始める父親、教え子との浮気に走る高校教師の母親、差別に反対しデモに打ち込むが、予想外の事態に巻き込まれる長女(他長男がいるが、概ね不在)。父親は「俺たちは悪人じゃない」と言う。一方で長女が出会ったアラブ人青年は「俺は悪いアラブ人じゃない」と言う。彼らは皆、決して悪人ではないし、悪事をはたらこうとしているわけではない。しかし、ちょっとしたはずみ、出来心で悪へ寄って行ってしまうこともあるし、そもそも無自覚に悪を選択してしまうこともある。自分は善人のはず、という思い込みこそが危ういこともある。
 アラブ人に対する偏見を持たないはずのイファットは、いざアラブ人青年に誘われると躊躇したり(とは言っても、初対面の男性に一緒に行かないかと言われたら若い女性は一般的に躊躇するだろうから、民族に対する偏見とはまた別問題にも思うが)、その罪悪感から後日わざわ亡くなった青年の自宅を訪ねて見舞金を渡そうとしたりする(イスラエルにおけるアラブ人の見られ方が垣間見えて興味深かった)。彼女は善意で行動したわけだが、それが遺族にとってどういう意味を持つかには思いが至らない。若さ故の独善と言えばそうなのだが、自分が善良であることを疑わないからこその落とし穴(その後の展開も含めて)であるような。
 前半、父親のビジネスがどうにも上手くいきそうもないあたりはユーモラスさもあるのだが、妻や娘の動向が不穏で、徐々に笑えなくなっていく。特に妻の無防備さというか、脇の甘さにはハラハラしっぱなしだった。それ絶対まずいって!という方向にどんどん行ってしまう。同年代の男性の誘いはきっぱりとかわせるのに、よりによってなぜそこに行く・・・。なんというか、年齢の割に無邪気で擦れてないんだけどそこが困っちゃう。
 

『闇金ウシジマくん ザ・ファイナル』

 違法な高金利で金を貸す闇金業者・カウカウファイナンス。社長の丑嶋馨(山田孝之)を、中学校時代の同級生・竹本優希(永山絢斗)が訪ねてくる。金を貸してほしいというが、ウシジマは断る。ホームレス状態の竹本は、住込みで働けるという「純愛の家」に入居するが、「純愛の家」は鰐戸三兄弟が仕切る貧困ビジネスだった。原作は眞鍋昌平の同名漫画。監督は山口雅俊。
 TVシリーズと交互に劇場版も3作公開されたシリーズの最終章。これまでウシジマは他のキャラクターよりも上位の位相に配置され、彼が前面に出張ってくることで物語が収束に向かうという、「ラスボス」的なキャラクターだった。ドラマは、金を借りに来る債務者たちの方にあり、ウシジマら金を貸す側の人間はむしろ狂言回し的な役割を果たしていた。
 しかし今回は、ウシジマは物語の当事者として、他のキャラクターと同じ位相に引き落とされている。彼は最早万能ではなく、むしろ物語に翻弄される立場だ。そして、シリーズ内でおそらく初めて、ウシジマに対しての「ラスボス」が配置されている。そのラスボスの設定には、なるほど!と唸った。ウシジマはいわゆるダークヒーローということになるのだろうが、作中世界ではほぼ無敵だ。そんな彼には、同じ種類の強さ、暴力やあくどい知略を駆使したやり方では見劣りしてしまう。ではどうするかというと、ウシジマにはないもので対抗してくるのだ。
 ウシジマは闇金業者として、己の欲望に目にくらんだ人たちから搾取していく。では欲望、利己愛を持たない人相手にはどう立ち回ればいいのか。徹底した利他主義で、他者への信頼を持ち続ける人には、ウシジマの理論は通用しないのだ。「ラスボス」の言うことが基本的に正論(実際問題として稼働するかどうかはともかく、倫理的に正しい)であることが、ウシジマがやっていることが違法であり、彼はダークヒーローであるかもしれないが、倫理的にはアウトな側面を持ち続けているということを浮彫にしていく。とは言え、「ラスボス」が持つものは、かつてはウシジマも持ち合わせていたものかもしれないのだ。「ラスボス」を生んだのはウシジマでもあることが明らかになる展開にはぐっときた。
 エンドロールに入る前のショットが素晴らしい。山田孝之の役者としての素晴らしさがわかる。私にとって、エンドロールへの入り方が素晴らしい映画というのがいくつかあるのだが、本作もその1つとなった。

『闇金ウシジマくん Part3』

派遣の土方仕事で食いつなぐ沢村真司(本郷奏多)は、カリスマネット長者・天生翔(浜野謙太)のセミナーに半信半疑で参加し、ネットビジネスにはまっていく。サラリーマンの加茂守(藤森慎吾)はキャバクラ嬢を落とそうとやっきになっているが、妻に内緒でお金を都合するのには限界があった。高金利で金を貸す「闇金」カウカウファイナンスの社長丑嶋(山田孝之)と債務者たちを描くシリーズ3作目。監督は山口雅俊。原作は眞鍋昌平の同名漫画。同キャスト・スタッフによるTVドラマシリーズもあるが、そちらは私は未見。
Part1,2が予想外に面白かったので今回も楽しみだったが、絵的にちょっとスケールダウンしたかなという印象。1,2の方が映画の絵って感じで、本作はTVドラマのスペシャル版て感じだった(乱闘等、動きが多かったからかもしれない)。もっとも、本作の後にFinalが控えており、エンドロール前にちゃんと次回予告もあるくらいなので、Finalありきの本作、まだ本番じゃないよ!ってことかもしれない。なおドラマ、映画ともにシリーズ作品未見でもちゃんと楽しめるので、そういう点では親切だと思う。エンドロールで「闇金は違法です」と明記しトラブル相談先も提示していることも含め親切。
サギまがいのセミナー商法をしている天生はこれモデルあの人でしょ?と突っ込みたくなるキャラの立ち方だし、沢村がのし上がっていく道筋もかなりカリカチュアされていて、(実際問題としては深刻なんだけど)深刻な怖さをあまり感じない。ラストも曖昧ではあるがどん底までは落としてこない。真剣に怖いのは、チャラいサラリーマン・加茂のパートだ。
加茂は沢村のようにたいそうな野望を持っているわけではない。彼の欲望は、可愛い女の子と遊びたい、いい服を着たい、いい車に乗りたいとしった、比較的目先のこと、即物的なものだ。しかし、その「ちょっと」を我慢することが出来ない。あと5万だけ、10万だけと、少しずつ借金がかさんでいく。セコいしショボいのだが、我慢の出来なさがふてぶてしいレベルで、借金するのが趣味なのか依存症なのか、という域に入っていく(最後の方、カウカウファイナンスの面々が気持ちひいてるもんな・・・)。この「ちょっと」を我慢できない意思の弱さが、非常に身近なものに感じられて嫌な汗をかいた。目の前の大問題から目を背けて楽な方へ走ってしまうというダメさ。沢村が見た地獄よりも、加茂の地獄の方がより生々しく感じられる人は多いのではないかと思う。そして加茂は最初から最後まで変わらないのだ。のしあがって転落する沢村よりも、この人の方がよっぽどモンスター的なのではと思った。演じる藤森がまたセルフイメージを強化するようなハマり方で、どういう自虐だよ!と突っ込みたくなるところも含め面白かった。

『ヤング・アダルト・ニューヨーク』

 8年間新作を完成させられずにいるドキュメンタリー映画作家のジョシュ(ベン・スティラー)と映画プロデューサーの妻コーネリア(ナオミ・ワッツ)は40代の夫婦。2人には子供はおらず、赤ん坊が生まれて子煩悩へと変貌した友人夫婦の姿に辟易としていた。2人はある日ジェイミー(アダム・ドライバー)とダービー(アマンダ・セイフライド)という20代のカップルと知り合う。映画監督志望のジェイミーと自家製アイスクリーム販売をしているダービーの自由な生活とクリエイティビティに、ジョシュもコーネリアも強く惹かれる。監督はノア・バームバック。
 バームバック監督って、『イカとクジラ』にしろ『フランシス・ハ』にしろ、実年齢と中身との(世間一般で「年相応」と言われるような)折り合いのつかない人たちを描いてきたが、本作も同様。ただ、実年齢云々というよりも、自分の才能を過大評価するな、いいところで見切りを付けろという側面の方が前々から強かったんじゃないかなと思えてきた。
 20代の若者と同じようなファッションやはしゃぎ方をしてもかまわないし、子供がいようがいまいがかまわない。ただ、映画を8年間完成させられない、しかも編集したら6時間になったというのは、自分の才能を高く見積もりすぎだろう。ジョシュの撮影現場や撮影したフィルムの一部が作中に出てくるが、あんまりおもしろくなさそうなのがまた辛い。そもそも、被写体である学者も8年間撮られ続けているので、いいかげんうんざりしているのだ。著名なドキュメンタリー作家であるコーネリアの実父は、ジョシュにもっとカットしろとアドバイスするが、まあ妥当なアドバイスだよ・・・。ただ、自作に思い入れがありすぎるジョシュには受け入れがたい。
 思っていたほど自分達はイケていない、時代の最先端にいるわけではないし、老眼にもなるし関節も痛くなるということを認められない人は、やっぱり多いんだろうなと思う。ただ、認められなくても、実際そうなんだから仕方ないよ・・・という身も蓋もない話で、バームバック監督はやっぱりちょっと意地が悪い。コーネリアの実父はジョシュに分相応にやれと言うが、それは(ジョシュが言うとおり)才能あって成功しているから言えることだよなぁ。
 本作に登場する人たちはジョシュを筆頭に自分大好きなので、自分に見切りをつけるというのはかなりしんどいんだろうなというのはわかる。ジェイミーの自分大好きさは相当わかりやすく、レトロでオーガニックな生活を送る自分は一味違うぜ、という自意識がはみ出しすぎていてなかなかにこそばゆい。アナログレコードはともかく、タイプライターってやりすぎだろう。ジョシュとコーネリアが彼に惹かれるのが不思議なのだが・・・(うまいこと転がされたってことか)。ただ、自分大好き故に躊躇なく他人を利用できるしそこに罪悪感も持たないのかなぁとも思った。
 本作の本筋とはちょっとずれるが、ドキュメンタリー製作における「真実」って何だろうなとふと考えた。ジョシュは一切のやらせや恣意的な編集を拒む、どちらかというと潔癖な作家性だが、それゆえに映画が完結しないしプレゼンしても補助金が得られないという側面はある。ジェイミーは「仕込み」を積極的に使って作品をドラマティックにしようとするが、それが不誠実ということには、必ずしもならない。そもそもカメラを向け、フィルムを編集した時点で作為は入る。もしジェイミーのやり方に問題があるとすれば、彼はカメラを向けることの暴力性に無頓着で、自分でその責任を背負う気もなさそうという所か(どうすれば面白くなりそうかということはわかっても、その手段によって後々どんな影響が出てくるかということは考えていなさそう)。 それが「若いってこと」なのかもしれないけど。

『約束の地』

 1882年。アルゼンチン政府軍による先住民の掃討作戦の為、パタゴニアに派遣されたデンマーク技師のディネンセン大尉(ヴィゴ・モーテンセン)。ある日、同伴していた一人娘のインゲボルグが、若い兵隊と共に姿を消してしまう。ディネンセンは娘を必死に探し、やがて馬も銃も失い荒野をさまよう。監督はリサンドロ・アロンソ。モーテンセンは主演の他、製作と音楽も手掛けている。ほんと多才だなー。そしてわざわざ製作に参加しているのが本作のような作品だというところに、彼の個性を感じる。なんというか、人間のアイデンティティが揺らぐような話、異界に足を踏み入れるような話に惹かれる人なんじゃないかと思う。
 澄んだ、どこか枯れた色合いに魅力がある。特にインゲボルグのドレスの青色に透明感があってとても美しい。撮影監督のティモ・サルミネンはアキ・カウリスマキ作品を多く手掛けている人だそうで、なるほどと納得。モノクロに着色したような色合いが、四隅を丸く切り取った変形スタンダード画面と相性がいい。ショットの一つ一つに、カードや絵葉書のような「切り取られた」印象がより強くなっている。ガラパゴスの、見慣れていない人にとっては地の果てのように見える風景の効果もあって、絵の引力が強い。何しろファーストショットの画面奥にトドやらアシカ(らしきもの)やらが普通に映ってるから、それだけで何かとんでもないところに来ちゃったな!という気分が強まる。いきなり異世界っぽいのだ。
 しかしディネンセンはここから更に、異界へと入っていく。娘を追って奥地へ進んで行けば行くほど、この世の果てのような異世界感が強くなる。時間、ついには空間までも越えてしまったように見えるのだ。
 ディネンセンとインゲボルグは別たれたままだ。ディネンセンは娘を愛し、インゲボルグもまた父を愛しているのだろうが、ディネンセンが娘をよく理解しているというわけではなく、冒頭の会話からして少しすれ違っている気配がする。インゲボルグはディネンセンとは別の世界の住人であり、どの世界においてもお互いに不在であるように思えた。

『やさしい女』

 若い女性(ドミニク・サンダ)が自殺する。夫は妻の遺体を前に、出会いから2年間の夫婦生活までを回想し家政婦に語る。質屋である夫は、学費や本代の為に質入れにきた女性を見初め、説得し結婚する。しかし徐々に夫婦の間に亀裂が入っていく。原作はドストエフスキーの短編小説。監督はロベール・ブレッソン。1969年の作品だが、今回日本でニュープリント上映された。
 ブレッソンの作品には映画力としか言いようのない強烈な力を感じる。映画における筋力がすごく発達しているみたいな印象で、無駄がなくストイック。ショットひとつひとつの強度がやたらと高い。手や足だけのショットがこうも雄弁(そこが嫌みでもあるが)だとは。設定や物語上の説明は最小限なのだが、ここまで削って大丈夫なんだと実感する。
 「あなたの望みは愛ではなく結婚だわ」という女性の言葉が本作、そして男女のすれ違いの原因を端的に表している。結婚という制度に納得していれば別に問題はないのだろうが、本作の女性は、そこにはまりきれないのだ。彼女は夫を愛していないわけではないだろうが、夫や世間から「妻」というカテゴリーのみで扱われることが辛い。ドライブ中に摘んだ花束を投げ捨てる姿が痛ましかった。自分と相手、というくくりではなく、夫婦、というくくりにされることに慣れない。
 彼女は読書や音楽鑑賞、博物館や美術館へ行くことを好むが、彼女が好きなもの、得意なことは(少なくともこの夫との)夫婦生活の中ではあまり評価されないのだろう。彼女の夫は一貫して金銭を重視する現世主義、現実主義だ。それはそれで間違ってはいないのだが、彼が求めるものと妻が求めるものはどこまでいっても平行線をたどり一致しない。夫は夫で妻を愛しているのだが、彼の愛は妻が求める形のものではない。お互いに思いはあるのに一貫して噛みあわないというところが、どうにもやりきれなかった。
 一見、年長の夫が若い妻を保護し「教育」しているように見えるが、実際のところ妻の方が教養があるし、夫にはうかがい知れない内的な世界を持っている。本作の悲劇は、夫と妻、双方がお互いの内的な世界を分かち合えないままだというところにある。夫は妻の何をもって「やさしい女」だと思ったのか。客観的には、そう「やさしい女」とは思えないのだが。


『やさしい人』

 さほど売れていないミュージシャンのマクシム(ヴァンサン・マケーニュ)は、パリから父親(ベルナール・メネズ)の住む実家に戻っていた。雑誌の取材がきっかけで、地元の若い女性メロディ(ソレーヌ・リゴ)と付き合い始め、ロマンスに心躍らせるが。監督はギョーム・ブラック。
 こ、これは辛い・・・とは言っても映画としてではなくて、マクシムの言動のイタさが。見る側にそう思わせるということは(真に迫ってるってことだろうから)、映画としては成功しているということなんだろうけど。ナイーブで人生に迷っている人が、若くて(それなりに)かわいい子といい感じになって舞い上がってしまっている姿には、あああ周囲見てー!微妙に彼女のテンションと食い違っているかもしれないからー!と叫びたくなる。そんな、見方によっては下世話・意地悪になってしまうシチュエーションだが、そっちには寄らない。マクシムは滑稽かもしれないが、彼に対する視線は下世話ではないので耐えられるのだ。グラック監督は『女っけなし』にしろ本作にしろ、かなり引いた目線で、批判じみたニュアンスは入れずに撮るので、不穏さが漂っても、それを主人公の「ボケ」として突っ込みを入れる余地が出てくるように思った。「ボケ」を体現しているようなマケーニュの佇まいも素晴らしいのだが。
 題名の通り、マクシムは「やさしい人」で、メロディはそこに惹かれたのだと思うが、やさしさこじらせて後半えらいことに・・・。そこまでやるか?!と突っ込んでしまった。愛が重いよ!それだけ彼にとっては切実な関係だったのだろうが、彼と彼女の間のディスコミニュケーションが際立って見えた。彼女が特別ひどい女というわけではないだけにより一層。彼女も(彼も)また、複雑さをもっと1人の人間なのだ。
 本作、主人公と女性との関係を描いているが、同時に、親子関係の描かれ方に味わいがあった。マクシムの父親は女好きで、若い恋人もいたらしいのだが、確かにこの人の方がマクシムよりもモテるだろうなぁという空気が醸し出されているのだ(笑)。服装もマクシムよりもシュっとした感じだし、女性に対する態度もてらいがないというか、ほどよくこなれている。こういう人が親だと、恋愛に奥手な子供はちょっと困っちゃうよな・・・。これは父親役のメネズの雰囲気の良さも大きかった。なお、犬が名演!


『闇のあとの光』

 山間で牛の放牧をしている、裕福そうな若い夫婦と、2人の幼い子供。平穏な彼らの暮らしに、ある日「それ」が現れる。監督・脚本はカルロス・レイガダス。
 予告編の段階ですごく期待しちゃったんだけど、期待しすぎだったか・・・。映像美(はそもそもそんなに目指していない気もするけど)も不穏さも中途半端で、こじんまりとまとまっている。
 「それ」に象徴されるようなわけのわからないものがふっと出現するのかと思っていたら、「それ」の部分のみが異色で、あとはあくまで人の世の話だ。悪も不可思議さも、あくまで人間の中にあるものにとどまっているように思った。平和に見える日常の中に、突如暴力が発生するというシーンが度々挿入されるが、どちらにしろ人間の想定内のものだ。じゃあ森や海に囲まれた舞台設定にする必要ってなかったんじゃないかな~。
 取り囲む世界に対して出てくる問題が矮小すぎるとでもいうか、マジックリアリズムを期待していたらマジックなかったわ!みたいな感じだった。私はもっとわけのわからないものが見たい。こういう方向性だったら、もっとうまく、斬新にやる人がいるんじゃないかなと思ってしまった。

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