3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『名探偵ポワロ ベネチアの亡霊』

 名探偵エルキュール・ポアロ(ケネス・ブラナー)は一線を退き、ベネチアで隠遁生活を送っていた。ある日既知の作家アドリア二・オリヴァ(ティナ・レイ)が訪ねてくる。死者の声を話すことができるという霊媒師が有名歌手の屋敷に招かれたから、トリックがあるのか見極めようというのだ。子供の幽霊が出るという噂のある屋敷での降霊会に参加したポワロ。しかし参加者の一人が遺体で発見される。原作はアガサ・クリスティー『ハロウィーン・パーティー』。監督はケネス・ブラナー。
 ブラナーの監督主演によるポワロシリーズ3作目。原作の『ハロウィーン・パーティー』はポワロものの中でも個人的に好きな作品なのだが、原作要素のアレンジの方向がかなり大胆でちょっと笑ってしまった。そもそも舞台がなぜベネチア?!美術面や撮影はゴージャスだがホラーサスペンスに寄せようとして撮り方が逆に野暮ったくなっている箇所があるのは気になったし、原作とは大分違うのだが、これはこれでムードがあって面白いと思う。冗長だった『ナイル殺人事件』よりはむしろ思い切りが良くて飽きなかった。
 ブラナー版ポワロシリーズは、割と時代背景を意識した造りになっている。ポワロが第一次大戦によるトラウマを負っていることは1作目『オリエント急行殺人事件』でも提示されたが、本作では2つの対戦の後の時代という要素を打ち出している。本作では第二次大戦の戦地で深いトラウマ(第二次大戦だったら当然こういう方向のトラウマもあるのだとはっとした)を負った人、故郷から去らざるを得なかった人が登場する。彼らの傷はポワロがかつて負った傷とも重なっていく。彼らは大過から生き残ってしまった人たちであり、そういう人たちがどう生きていくのかという部分へのまなざしがある。原作にはそういった要素は全くないので邪道だという人もいるかもしれないが、ブラナーはこのあたりは結構真面目になっているのではないかと思う。ある時代を背景にするならこういう要素を含まずにはいられないだろうという判断があるのでは。


ナイル殺人事件 (字幕版)
Kemi Awoderu
2022-04-13


『メタモルフォーゼの縁側』

 BL漫画好きの17歳のうらら(芦田愛菜)と、夫に先立たれ孤独に暮らす75歳の雪(宮本信子)は、本屋のバイト店員と客として出会う。美しい絵柄にひかれてBL漫画を手に取った雪は、男の子同士の恋愛物語と知って驚くものの、彼らが繰り広げる恋物語に夢中になる。漫画の続きを買いに行った本屋で在庫確認をしたのがうららだった。BL漫画の話題で意気投合した2人は、雪の家で一緒の時間を過ごすようになる。原作は鶴谷香央理の同名漫画。監督は狩山俊輔。
 原作が好きなので、あの雰囲気を壊されないかと正直心配だったのだが、丁寧にきちんと作ったという印象でほっとした。かなり抑制をきかせて盛り上げ「すぎない」よう配慮されている。岡田惠和の脚本のまとまりも良かったのだろう。車の故障からのエピソードはちょっとやりすぎかなぁと思ったが、その「お話」的展開を受け入れやすい雰囲気に作られている。多分原作で同じエピソードがあったら相当ご都合主義的な印象になったと思うのだが、生身の人間が演じる実写の方がお話の作為性をより受け止めているという所に、原作・映画両方の作風の違いが現れており面白い。
 主演の2人はまさに二大巨頭とでも言いたくなる貫録で危なげがない。特に芦田の自意識過剰故のオタク仕草演技のこなれ方には笑ってしまった。あー私もそういう振る舞いになっていたに違いない!という説得力。うららが全力疾走するシーンが何度かあるのだが、毎回(ともするとかっこ悪いシチュエーションなのに)走る姿が見事で引き込まれた。なぜ走るのか、というストーリー上の演出がバシッと決まっていたのも大きいのだろう。本作はどちらかというとうらら視点にウェイトを置いている。彼女のちょっとした劣等感や好きな物を好きと堂々とは言えない感じ、色々「持っている」同級生をずるいと思ってしまう、そう思った自分に自己嫌悪を感じるくだりなど、等身大の10代らしさが丁寧に見せられていた。
 2人がBL漫画の話で盛り上がるシーンは、誰かと好きな物を共有し、その話をするときの心の浮きたち、楽しさが伝わってきて、心に響く。個人個人のこれが好き!という気持ちが本人あずかり知らぬ所で繋がっていくという美しさがある。友達になる、特に何かを媒介にして友達になるのって、年齢は必ずしも関係ないのだ。また、年齢差があるからこそお互いに今まで気づかなかった世界に気付けたりもする。とは言え、これからの時間が長い人と、これまでの時間がながい(これからの時間は短い)人とが交流するときの、ふとした時に感じるおぼつかなさもすくい上げており、そこが切なかった。


 

『メイド・イン・バングラデシュ』

 バングラデシュの首都ダッカには世界中の大手アパレルブランドの縫製工場が集まっている。その縫製工場の一つで働くシム(リキタ・ナンディニ・シム)は工場の火事で友人を亡くし、同僚たちも不安を抱えながら働いている。給料は安く残業代も出ず、労働環境は厳しい。シムは状況を変えようと労働組合を結成すべく立ち上がるが、上司からは脅され、同僚や夫からも反対される。監督はルバイヤット・ホセイン。
 バングラデシュに縫製工場が多いのは人件費が非常に安いからだが、どのくらい安く、縫製している人たちがどういう労働環境でどういう生活をしているのかが本作では描かれる。ファストファッションを支えているのはシムのような人たちなのだが、製造現場を見ると手軽に安価な服を買うことに罪悪感を感じてしまう。私にとっての安価・利便性は彼女らを搾取することで成立しているわけだから。かといってそれなりの労働賃金で製造されたものだけ買えるほどの経済力は自分にはなく、貧しさってスパイラルになっているよなとがっくりくる。ほどほどに貧しい人向けのものを作る為に更に貧しい人たちを買いたたくわけだから。
 それはさておき、シムたちの立場が苦しいものなのは、「女性の」労働者であるという側面がとても大きい。彼女が「女性は結婚前も結婚後も自由はない」と口にするのも、同僚が独り身の苦しさを訴えるのも、上司と不倫をした同僚が上司そっちのけで悪女扱いされるのも、労働者としての扱いが粗雑なのも、女性がこの社会の中で置かれている立場を反映しているものだ。女性が一人前の人間であるという意識が希薄な世の中では、そりゃあ生き辛いに決まっている。シムの夫が、自分が稼いでいるんだから妻であるシムは仕事はやめればいいと言い出すのには、そういう問題じゃないんだよ!と怒鳴りたくなるし、実際シムは怒るわけだが。またそうであっても夫の機嫌を伺いながら生活しないとならないというのが、実に息苦しい。
 シムは労働組合について学ぶうち、自分たちの苦しさ・不平等さは声に出して訴えていいものであり、状況を変えるために行動できると気付いていく。彼女の奮闘はなかなか実らないが、どんどん行動的になっていく姿には勇気づけられる。一方で、持っていない者にとっては連帯することが力になる、逆に言うとそれしか武器がないという側面もある。ただ、連帯している仲間が待っているからこそ、彼女は最後に渾身の踏ん張りを見せることができたのだろう。

苦い銭 [DVD]
紀伊國屋書店
2019-01-26


ファストファッション: クローゼットの中の憂鬱
エリザベス・L. クライン
春秋社
2014-05-17


『MEMORIA メモリア』

 ジェシカ(ティルダ・スウィントン)はある明け方、大きな音で目を覚ます。どうやらその音は彼女の頭の中でだけ鳴っているようなのだ。妹が入院している都市ボコタに滞在するジェシカは、病院で知り合った考古学者アグネスを訪ねる。人骨の発掘現場を訪れた際、小さな村でエルナンという男に出会い、記憶について語り合う。監督・脚本はアピチャッポン・ウィーラセタクン。
 頭の中で轟音が鳴るという症状は実際にあるそうで、アピチャッポン監督自身が患った「頭内爆発音症候群」というのだそうだ。ジェシカは最初、自分が聞いた轟音は工事の音だと思っているが、自分以外はその音を聞いていないことに気付く。同時に、妹や周囲の人と話すうちに、妹らの記憶とジェシカの記憶が食い違っていることもわかってくる。自分が交流したはずの人が周囲に認識されていなかったりするのだ。ジェシカの記憶と他の誰かの記憶が入り混じっているような様子も見られる。
 ともするとホラーめいた設定なのだが、そうはならないところが私にとっては魅力。不安さをはらみつつ、心地よいのだ。この心地よさは「わからなさ」、またわからなさをそのままにしておくことを特に恐れない、それはそれとして受け入れていくという姿勢にあるのではないかと思う。轟音を排除しようとするのではなく、ただずっと耳を傾けるのだ。耳を傾け続けることで、わからなさが腑に落ちていく。終盤のあっけにとられるような壮大な一シーンは、彼女にとってあの音が腑に落ちたという象徴のように思えた。
 ジェシカの記憶は妙なことになっていくが、彼女に異常があるというよりも、彼女がもともと立っている地平と、他の地平が重なっていくようだった。あるいは彼女の地平にぽこっと穴があいてその部分だけ他の地平が見えてしまう、というような感覚だ。アピチャッポン監督の他作品でも同じような構造が見られる。異なるものが重なり合う・ないしは並列しており双方否定はされないところにほっとする。


光りの墓 [DVD]
ジェンジラー・ポンパット・ワイドナー
紀伊國屋書店
2017-02-25




『メイキング・オブ・モータウン』

 2019年に創設90年を迎えた音楽レーベル・モータウン。スプリームス、スティービー・ワンダー、マービン・ゲイ、ジャクソン5らを輩出した名門レーベルの歴史を、創設者ベリー・ゴーディや彼と二人三脚で数々の楽曲を送り出したスモーキー・ロビンソンへのインタビューから構成し追ったドキュメンタリー。
 モータウンが生み出した数々の名曲を追う楽しさはもちろんあるのだが、思っていたほど音楽そのものが占めるウェイトは大きくない。むしろ、モータウンという組織の成り立ちと構造、商品の製造過程を追う、企業ドキュメンタリー的な面白さが強かった。楽曲を作る仕組みは、ゴーディがフォードの製造ラインで働いていた時の体験から生み出したというから驚きだ。自動車と音楽は全然違うものだけど、企業としてどのように活動を維持していくのか、という点では通じるものがある。工程を細分化してセクションごとの役割を明確にする、売れるポップスにはどういう要素が必要なのか突き詰めて構成したと言えるだろう。モータウンが目指した楽曲って良質の工業製品に近いものがあるのかなと思った。
 とは言え、レーベルが成熟しブランドのカラーが固まっていくと、逆にアーティストたちがレーベルの枠からはみ出た独自の表現に目覚めていくというのも面白い。社会が大きく動く時、アーティストの表現にも当然影響が出てくる。ゴーディーはレーベルの色に合わないと難色を示したが、アーティストに押し切られたそうだ(とは言え、スティービー・ワンダーの天才的な仕事を目の当たりにしたから首を縦に振ったという面も大きそうなので、そのくらいのクオリティでないと譲れなかったということかも)。音楽表現も社会の中で行われる以上、無縁というのは無理だよな。今だったらゴーディも違った判断をするのかも。時代が変われば考えも対応も変わってくる。モータウンはミュージシャンへの教育に注力し、音楽だけでなくパフォーマンスや日常の立ち居振る舞いまで専門の講師が教えたそうだ。スプリームスには特に優美さを叩きこんだそうだ。結果、こんなにクールで優雅な黒人は初めて見た!と人気沸騰するが、これって「白人と同じように」相手の土俵に立つってことだよなと(実際に反発するアーティストもいたそうだ)。現代だったらまた違った教育の仕方になるのかもしれないが、当時はまずここから始めなければならなかったのだろう。
 一方、モータウンでは早い段階からミュージシャン以外でも女性が活躍しており、女性幹部もいたということは初めて知った。当時「取引先にはそんな会社なかった」という話も出てくるので、かなり先進的だったのだろう。いいポップスの前には黒人も白人もない、だったら男性も女性もないはず、という姿勢だったのだろう。音楽が全ての垣根を越えることはないだろうが、ちょっと越えることはあるのだ。
 ゴーディー側へのインタビューが中心なので、語られる内容に偏りはあるのだろうし、他のスタッフやアーティストは別のモータウンの姿を語るかもしれない。とは言え、ゴーディとスモーキーがいまだに仲良さそうなのには和む。エンドロールも必見。

永遠のモータウン コレクターズ・エディション [Blu-ray]
ブーツィ・コリンズ
ポニーキャニオン
2017-06-21


モータウン60
オムニバス
Universal Music =music=
2019-03-20


『迷彩の森』

河野典生著
 ある夜、小説家の藤田はジャズ仲間だった三村恭子と酒場で再会する。泥酔した恭子を自宅まで車で送った藤田だが、その直後、彼女のマンションで爆発事件が起きたことを知る。留守番電話には恭子からの不審なメッセージが残されていたが、彼女は自宅にも実家にも戻っておらず行方不明のままだった。藤田は友人のルポライター井口の力を借り、彼女の行方を追い始める。
 1982年の作品なので流石に古さは感じるが、ストイックで古典的な魅力のあるハードボイルド。文章と会話のきれは今読んでも良い(レトロさを楽しむという側面が強くなってしまうのはやむを得ないが・・・)し、人情や男女の関係がべたべたしていないあっさり目なところもいい。女性登場人物の振る舞いに意外と媚がなくて、彼女らそれぞれの流儀にのっとり振る舞っているという感じがした。情感のあっさり度に対し、ミステリ要素にインド独立運動家のチャンドラ・ボースの死の謎を絡めてくるなど、こちらは妙に壮大。いや、正確にはボースの死謎の「利用」なわけだから壮大ってわけでもないか・・・。正統派ハードボイルドにインドの近代史を絡めてくるというところがユニーク、かつ著者の趣味色が色濃い。インド関係の著作もある作家だったんですね。
 馴染みのある場所が次々と出てきて、作中地図を頭に浮かべて読むことが出来たのは楽しかった。30年近く前の話だが、それほど雰囲気は変わっていないと思う。その土地に対するイメージが私の中で固まったままというだけかもしれないが。

『名探偵ピカチュウ』

 子供の頃はポケモン大好きでポケモンマスターを目指していたティム(ジャスティス・スミス)は、探偵だった父親のハリーが事故で亡くなったと連絡を受ける。人間とポケモンが共存する都市、ライムシティにある父の事務所を訪れたティムは、自分とだけ会話ができるピカチュウと出会う。ピカチュウはハリーが生きていると確信しており、ティムと共に捜査を始める。監督はロブ・レターマン。
 名探偵ピカチュウを実写映画化ってどういうこと・・・?フェイクニュース・・・?と思っていたが、完成作を見てみたらすごかった。制作側が本気すぎる。ストーリーは正直大分大味でさほど出来がいいというわけではないのだが、「ポケモンがいる世界」の再現度、説得力が凄まじい。私はポケットモンスターの熱心なファンというわけではないしポケモンの種類・名前にも詳しくはないが、冒頭、鳥型のポケモンが空を飛び、草原をポケモンの群れが移動している様を見るとそれだけで何だか感動してしまった。あの2次元のキャラクターが3次元の世界に実在したらどんな感じなのか、人間とポケモンが一緒に生活しているのってどういう感じなのか、一心に考えて作り上げたという気迫がひしひしと伝わってくる。本作の魅力はここに尽きると思う。
 ポケモンの質感にしてもふさふさだったりつるっとしていたり、鱗っぽい凹凸があったりと、バラエティがありつつ「あの」ポケモンだとすぐ納得できて違和感がない。ポケモンの造形だけでなく、舞台となる街並みとか車などのデザイン、サイズなど、デザイン全体が本当によく出来ている。2.5次元てこういうこと・・・?
 父と息子の物語としてはとてもオーソドックス。ティムとハリーの間のわだかまりにしろ、もう1組の父息子のすれ違いにしろ、あっさり風味ではあるが、きちんと王道押さえたエピソードだ。「父の過ちだが後ろめたい、罪悪感を感じる」という言葉がちらっと出てくるのだが、父親を尊敬している、あるいは絆がある(求める)からこそのジレンマではないか。ちょっとした部分なのだが、親子問題の厄介さを象徴しているように思った。自分のせいではなくてもひっかかっちゃうんだよね。

『メリー・ポピンズ リターンズ』

 バンクス家の長男マイケル(ベン・ウィショー)は家族を持つ父親に、長女ジェーン(エミリー・モーティマー)は貧しい労働者を援助する市民活動家になっていた。しかしマイケルは妻を亡くし、融資の返済期限切れで抵当に入れていた家まで失いそうになる。そんな彼らの前に、完璧な子守だったメリー・ポピンズ(エミリー・ブラント)が戻ってくる。監督はロブ・マーシャル。
 1964年のディズニー映画の20年後を描く、(ディズニー的には)正式な続編。リメイクや「別物」扱いではなく続編としたことは、結構勇気がいったのではないかと思う。ジュリー・アンドリュース主演の前作(ロバート・スティーブンソン監督)はミュージカルとしても、実写とアニメーションを合成したファンタジー作品としても高い評価を得ており根強いファンがいる作品。これの「続編」とうたってしまうと、全作のイメージを壊さず、しかし現代の作品としてアップデートし、かつ旧来のファンの期待を裏切らないように作らなくてはならない(加えて、私のように原作ガチ勢で1964年版も映画単体としては楽しいけど『メアリー・ポピンズ』シリーズの映画化作品と思っちゃうとちょっと・・・という人もいる)。しかし本作、このへんの問題はそこそこクリアしていたように思う。
 衣装や美術セットのデザイン、色合いがとてもかわいらしいのだが、まるっきり「今」の映画として作られていたらこういう色味は選ばれないのでは、というニュアンスがある。昔の映画の、ちょっと人工的でカラフルな色味だ。お風呂から出発する海の冒険のシーンなど、それこそ昔のミュージカル映画のレビューシーンのバージョンアップ版ぽい。技術も演出も現代の映画なのにどこかレトロさもある。このレトロ感と現代感の兼ね合いが上手くっていたように思う。またセル(風)アニメーションとの組み合わせも前作を引き継いでの演出だろうが、こんな面倒くさいことをよくもまあ(今アニメーションと合成するならもっと楽な方法があるのではと思う)!という絶妙な懐かしさ演出。
 音楽に関しても、前作の言葉遊びノリを引き継いだものでとても楽しい。ブラントもウィショーもこんなに歌って踊れる人だったのか!と新鮮だった。ただダンスに関しては、ブラントはリズム感の強いものはちょっと苦手なのかな?という気もしたが。ミュージックホールでの彼女はちょっと動きが重い感じがした。ダンスシーンで一番楽しかったのは点灯夫たちが歌い踊るシーン。前作の煙突掃除夫たちのダンスを踏まえてのものだろうが、自転車を使った動きは現代的。ショットの切り替えが頻繁なのは少々勿体なかった。舞台を見る様に引きで全体を見ていたい振り付けだったと思うんだけど。ドラマ映画としての見せ方とミュージカルとしての見せ方がどっちつかずになっていた気がする。
 メリー・ポピンズは子守、家庭教師であり、彼女が直接的に世話をするのは子供たちだ。しかし彼女が来たのは父親であるマイケルの為と言っていいだろう。子供たちは死んだ母親を恋しがってはいるが、死を受け入れられないわけではない。このあたり、マイケルが父親としてちゃんとしているんだろうなと窺える。マイケルは少々頼りないし時に子供の前でも取り乱すのだが、すぐにフォローを入れる。彼が子供に安心感を与えることが出来ていればおそらくこの一家は大丈夫なので、マイケルを助ける為にメリー・ポピンズが来るのだ。とは言え、抵当を巡るクライマックスの展開には、それが出来るなら最初からやればいいのに!と突っ込みたくなる。メリー・ポピンズが何に魔法を使うことを良しとし何には使わないという主義なのか、線引きがご都合主義だと思う。


メリーポピンズ スペシャル・エディション [DVD]
ジュリー・アンドリュース
ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント
2005-01-21






『メアリーの総て』

 19世紀のロンドン。思想家の両親の元に生まれ、父が経営する書店を手伝いながら自らも執筆を夢見ているメアリー(エル・ファニング)。スコットランドの知人宅に滞在した際、新進気鋭の詩人パーシー・シェリー(ダグラス・ブース)と出会う。しかりパーシーには妻子があった。情熱に駆りたてられた2人は駆け落ちし夫婦生活を始めるが、パーシーの経済的な問題、幼い娘の死と相次いで悲劇に見舞われる。詩人バイロン卿(トム・スターリッジ)の別荘に滞在したメアリーは、「皆で1つずつ怪談を書こう」と誘われ、あるアイディアに着手する。監督はハイファ・アル=マンスール。
 作家メアリー・シェリーが後世に読み継がれる怪奇小説『フランケンシュタイン』を執筆するまでをドラマ化した作品。エル・ファニングがまあはまり役で、今こういう役を演じたら敵うものなしという感じなのだが、こういう役ばかりでもなぁ・・・とちょっと複雑な気分にもなる。少女性を加味されすぎな気がするので。それはさておき、キャストが全員ハマっていてなかなか良かった。特にパーシー・シェリーのまず顔ありきな感じにはちょっと笑ってしまった。顔と才能が傑出していなければただのクズというところが潔い。
 メアリーは先進的な家庭に生まれたけど、時代の壁は厚い。自由恋愛とは言っても、パーシーにとっては自分に都合のいい「自由」で、メアリーを個人として尊重しているとは言えない。パーシー自身にはメアリーを尊重していないという自覚はないのだろうが、この「自覚すらない」というのが非常にやっかい。彼が自由恋愛を主張するロジック、現代でも使う人がいると思われるけど、元々2者が立っている地平が同等ではないということが念頭にないのだろう。
 パーシーはメアリーの文才は認めているものの、彼女にとって自分の作品がどのような意味を持つのかという所までは考えが及ばない。(作品のクオリティが高ければ)作者名はどうでもいいというのは、既に名がある、自分の著作物だと主張することが許されている(女性作家名の作品は出版できない等とは言われない)から言えることだろう。また、モンスターではなく天使のような創造物を描けばいいのにという意見も、なぜモンスターなのかということを全く考えていない(心当たりがない)から言えることだ。そこから言われてもね、という苛立ちは否めない。メアリーは出版社への持ち込みや出版の条件からして、パーシーら男性作家に付与されているものを持っていないのだ。著作権問題といえば、ドラキュラを執筆した(と主張する)医者も気の毒だ。バイロン本人が自分の著作ではないと言ってもダメなのか・・・。当時の女性の辛さがてんこ盛りでなかなかどんよりとしてくるのだが、現代でもこういうことってあるなと思えてしまう所がさらに辛い。
 メアリーが『フランケンシュタイン』を執筆し始め、書きすすめる過程は史実とは違うのだろうが、それまで彼女が読んだ本や体験、全部盛り込まれ集約されていくことが分かる見せ方になっていたと思う。前半で出てくるスコットランドの情景がとてもよかった。広くて静かで寂しく、寒々しい。メアリーは「夜が静かすぎて眠れない」と言うのだが、そうだろうなぁ。この風景もメアリーの著作の下地になっているということが実感できる。こういう環境でしばらく暮らしてみたくなった。

フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫)
メアリー シェリー
光文社
2010-10-13






ワアド・ムハンマド
アルバトロス
2014-07-02

『Merry Christmas!ロンドンに奇跡を起こした男』

 1843年のロンドン。小説家チャールズ・ディケンズ(ダン・スティーブンス)は『オリバー・トゥイスト』がヒットし人気作家として有名だったが、スランプに悩み家計も赤字が続いていた。クリスマスの小説を書くことを思いつき構想を練る彼の前に、スクルージ(クリストファー・プラマー)をはじめ作品の登場人物たちが次々現れる。しかし執筆を進めるうち、子供の頃のトラウマと父親ジョン(ジョナサン・プライス)との確執に苦しむようになる。監督はバハラット・ナルルーリ。
 クリスマスシーズンにぴったりでとても楽しかった。とは言え、自費出版なのに支払の当てはなく、締切は刻一刻と迫っていくという作家の苦しみを描いた作品でもある。基本コメディで筆が全く進まないディケンズの「無の顔」にも、アイディアを思いつくと周囲が見えなくなる様にも笑ってしまうのだが。彼の前に現れる『クリスマス・キャロル』の登場人物たちが好き勝手に話し動き回るのは、文字通り「登場人物が動きだす」ということで楽しい。ディケンズの身近な家族や町で見かけた人たちが登場人物造形のヒントになるということが映像の流れでわかってくる。スクルージをはじめ、確かにぴったり!という風貌なのでこれもまた楽しかった。
 執筆中のディケンズは突然訪問してきた父ジョンに悩まされる。ジョンは気のいい人物だが金に無頓着でしょっちゅう息子にたかる。更に、ディケンズは父親が破産し収監された(破産者専用の監獄があったんですね・・・)せいで幼い頃から靴墨工場で働かざるを得ず、非常に苦しい体験をした為父親を恨んでいる。執筆の過程で当時の記憶がフラッシュバックのようによみがえり、父親へのわだかまりや子供時代のトラウマに向き合わざるを得なくなっていくのだ。このあたりは完全にフィクションだろうと思うが、創作が自分の記憶に棘刺すものと向き合い続けることであるという部分は、すごく「作家映画」ぽいんじゃないかと思う。また、過去が垣間見えることで、現在のディケンズの言動の数々がどういう思考回路・体験から生まれてきたものかわかってくる。家計は赤字なのに物乞いへの献金を欠かさない、貧乏人は救貧院に入ればいい、(死んで)数が減ればなおいいという富裕層の発言に猛反発するのは、自分の体験からくるものだということが見えてくるのだ。(少なくとも本作中の)ディケンズは、貧困は自己責任だとは言わないだろう。
 クリスマスシーズンにぴったりで、ディケンズの作品をまた読んでみようかなと思わせてくれる映画だった。公開規模が小さめなのが勿体ない。

クリスマス・キャロル (岩波少年文庫)
チャールズ ディケンズ
岩波書店
2001-12-18


オリヴァー・ツイスト (新潮文庫)
チャールズ ディケンズ
新潮社
2017-04-28


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