3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『無双の鉄拳』

 かつては荒くれ者だったが、今は妻と穏やかに暮らしているドンチョル(マ・ドンソク)。しかし車の接触事故がきっかけでヤクザのギテ(キム・ソンオ)に目をつけられ、妻ジス(ソン・ジヒョ)を誘拐されてしまう。ドンチョルは妻を助けるために奔走するが。監督はキム・ミンホ。
 マ・ドンソクの強面だけどかわいらしいキャラクターが全面に活かされている好作。アクションシーンは多いものの、それほど凝った組み立てではない。とにかくパワフル、力押しで、マ・ドンソクにはこういうのが似合うんだろうなと納得した。ドンソクが如何せんどう見ても強いので、あまりシリアスにならないのだ。予告編でも使われている壁をぶち破るシーンなど、パワフルすぎてちょっと笑ってしまう。お前らよりによってなぜそいつに手を出した!見た目からしてやばいのに!と悪役たちに突っ込みたくなる。
 本作、ドンチョルの強さ、人の良さは王道、定番的でそんなに新鮮味があるわけではない。一方、悪役のギテも非常に分かりやすく悪役なのだが、行動が損得勘定とちょっと乖離しており(よく考えるとわざわざ家に押し入って誘拐した上に金をちらつかせて・・・というのはコストもリスクも高すぎて割に合わない)、人の善意や正義感を踏みにじることに喜びを感じるという方向の「悪」。遊びの一環としての「悪」なのだ。このキャラクターに、キム・ソンオの演技がとてもはまっており、印象深い悪役になった。人間の感情の一部が抜け落ちている感じ、自分内の理屈が独特すぎてお近づきになりにくい感じがよく出ていた。序盤の、風呂場での一幕も、妙なおかしみが出ている所が逆に怖さを強めている。

ファイティン! [DVD]
マ・ドンソク
TCエンタテインメント
2019-05-29





犯罪都市 [Blu-ray]
マ・ドンソク
Happinet
2018-10-02

『武曲 MUKOKU』

 剣道の達人だった父親(小林薫)に幼い頃から鍛えられた矢田部研吾(綾野剛)は、剣道5段の腕前があるもののある事件以来、剣道を捨てて自堕落な生活を続けていた。ラップに夢中な高校生・羽田融(村上虹郎)は剣道部員といざこざを起こしたことがきっかけで、剣道部の師範を務める僧侶・光邑(柄本明)に剣道を教わることになる。融に才能を見出した光邑は、矢田部の元に彼を送り込む。原作は藤沢周の小説『武曲』、監督は熊切和嘉。
 熊切監督作品はなるべく見ておこうと思っているので、本作も剣道とラップってどういうつながりが・・・と思いつつ見に行ったのだが、ちょっとこれは、力作でありつつ珍作っぽい。主演2人の肉体の存在感と動きの良さで間が持っているが、脚本があまり上手く機能していないんじゃないかなという気がした。
 研吾と融、全く異なる背景を持った2人の「剣士」が対決していくという構造だが、研吾側に比較すると融側の掘り下げが浅く、融がいなくても成立しそうな話に見えてしまっている。融が死に魅せられているという設定も、それを示唆する設定や原因の説明が唐突なので、いきなり何言いだしてるんだイキってるなーもしや中2病か・・・みたいな印象になってしまう。村上自体はいい演技をしているので大分勿体ない。彼が母親と2人暮らしで親子関係は悪くないらしいという背景は少しだけ描かれているが、もうちょっと見えてもいいんじゃないかなと思った。研吾側は、父親との葛藤が物語の軸になっているだけあって、親子関係、家庭環境にかなり分量を割いて見せている。
 それにしても、父親がクズだとほんとどうしようもないな!ということに尽きる話に見えてしまった。2人の若い剣士(というか主に研吾)が強さとはどういうことか向き合っていくという部分が、自分の中で吹っ飛んで印象が薄い。研吾の父親は優れた剣士で後輩からも慕われているのだが、息子への指導はやたらと厳しく肉体的、精神的にも虐待めいているし、研吾の母親に対する態度も横暴(序盤、研吾の子供時代回想シーンで、母親が父親に声を掛ける時のびくつきかたが古典的すぎて笑ってしまった)。終盤、父親が残した手紙の内容が明らかになるが、そういうことがわかっているなら手紙なんて書いてないで他にやることあるよな!と突っ込まずにいられない。こういう弱さって本当に迷惑だよな・・・。研吾は「父殺し」をやろうとしたわけだが、それによって逆に父親の弱さ、クズさを引き継いでしまったように見えるのだ。そこから再起していく原動力みたいなものが、いまひとつ掘り下げられていなかったように思う。ちょっと俳優に頼りすぎ。

武曲 (文春文庫)
藤沢 周
文藝春秋
2015-03-10

武曲II
藤沢 周
文藝春秋
2017-06-05


『娘よ』

 パキスタン、インド、中国の国境付近にそびえたつカラコルム山脈の麓に暮らすアッララキ(サミア・ムムターズ)と10歳の娘ザイナブ(サレア・アーレフ)。アッララキの夫は部族の族長だが、敵対する部族との手打ちの証として、ザイナブを先方の老族長に嫁がせることを決める。アララッキはザイナブを守る為、部族の掟を破り村からの脱出を図る。監督はアフィア・ナサニエル。
  日本では初めて公開されるパキスタン映画だそうだ。素朴な作品かと思っていたら、思いのほかエンターテイメント度が高い。映画タイトルの出し方や、ファーストショット等からも、「映画」をやるぞ!という意気込みみたいなものが感じられた。ローカルでありつつ、エンターテイメントとして王道を目指している感じ。いかにして逃げるかというサスペンスとして見る側を引きつけ、勢いがある。「逃げる」という設定って汎用性があるなぁと妙に感心した。日本やハリウッド映画ではあまり見慣れない風景(都市部以外はとにかくだだっ広くて、ロングショットが映える)なので、ロードムービーとしても面白い。
 アララッキとザイナブのやりとりが、親子の細やかな情愛の感じられるものだった。ザイナブが学校で習った英語を、アララッキに教える様が印象に残る。アララッキが、TVドラマの時間だからそっちを見よう!と言うあたりからも、親子の距離の近さ、親密さが窺える。ザイナブは「子供」として可愛がられているのだ。
 ザイナブの言動が本当に子供としてのもので、結婚がどういうものなのかも、自分が置かれた状況もよくわかっていないということが、随所で示唆される。冒頭、子供の作り方についての友人とのやりとりや、アッララキにここで待ちなさいと言われたのに子犬を追いかけて勝手に動き回ってしまう様は、正に子供。親から引き離されて結婚なんて無理だし可愛そうと思わせるのと同時に、現状のよくわかっていなさにイラっとさせるあたりも、実に子供らしい。母娘の逃走に協力してくれるトラック運転手のソハイル(モヒブ・ミルザー)とのやり取りも、親戚の叔父さんや隣のお兄さんという感じで、単純に「子供」であることが強調されている。子供を結婚させることの無体さが際立ち、また、アッララキが捨て身で逃亡を図る理由も納得がいく。加えて、ソハイルに好意を示されても、アッララキは子供のことで手一杯でそれどころじゃないよなぁと腑に落ちもするのだ。
  部族間の闘争により殺人が起き、殺した人数はそっちの方が多いから不公平だ!という目には目をの価値観だったり、娘を差し出すことで調停を図ったりという、非常に前近代的な世界の話なのだが、さらっとスマートフォンが登場して不意を突かれる。現代でも、こういう世界があるところにはあるのだとはっとした。

『蟲師 特別編「鈴の雫」』

 動物とも植物とも異なる異業の存在で、時に人間に奇妙な影響を及ぼす「蟲」。その蟲を調べ、人と蟲との仲立ちをする「蟲師」のギンコ(中野裕斗)。ある山を訪れたギンコは、人の形をした山の主に出会う。その主は、元々はカヤ(齋藤智美)という村の少女だった。カヤの兄は今でも彼女を探し続けていた。ギンコは主として弱りつつあるカヤを人間の世界に帰そうと試みる。原作は漆原友紀の同名漫画。TVアニメーションが2005年~2006年、20014年に放送された。監督はTVシリーズと同じく長濱博史。同時上映で同じく特別編「棘のみち」。
 映画というよりも、いつもの『蟲師』の最終回を劇場で上映する、という感じの通常運転さ。ちゃんと30分×2本の尺でOPもEDもある。ただ、大きな画面に耐えられるよう作画は通常以上に細やかと思われるし、音の使い方も、より奥行きがある感じだった。『蟲師』はTVアニメーション作品としてはなかなかない音の使い方をしていたので、これは劇場で見られてうれしかった。背景美術面の色彩の微妙さもスクリーン映えしていい。
 「鈴の雫」にしろ「棘のみち」にしろ、人間と蟲(あるいは蟲に代表されるような異界のもの)との関わり方を通して、どこまでが人間なのか、人間のあり方とは何かということをそっと問うてくる。
 「棘のみち」には、蟲師として最適化するために、魂のカスタマイズまでしてしまう。人工的に作った蟲のようなものを魂の代わりに入れるのだと説明されるが、カスタマイズされた人間は、それまでのその人とは(見た目は同じだし記憶も連続しているが)別の何者のような印象を与えるという。じゃあその人は人ではなくなったのか。それともどのような変わり方をしても人は人なのか。一方「鈴の雫」では人と異形との間にいるカヤが登場する。彼女の意識は既に主としてのものだ。しかし、人間のように振舞えばまた人間としての感情がよみがえってくる。異形となっても、人間として生きた名残の何かしらは残るかのようだ。蟲師の業のような「棘のみち」から、しかし異形に近づいたものでも人間は(度合いはそれぞれだが)人間であり続けるのかもしれないという、主人公であるギンコ(彼は蟲師の中でもかなり蟲の世界に近い)にも言及するかのような流れだった。
 本作は一貫して、人間の世界と蟲の世界は重なり合っている、しかし蟲は人間とは全く異なる存在であるという視線で描かれている。相互理解はないが、そばにあるものとしての距離を置いた視線があるので、見ていて楽な作品だった。使用されている色彩が柔らかく、ビビッドカラーがほぼないところはTVアニメーションとしては珍しいと思う。

『ムーン・ライティング』

 1981年12月5日、ポーランド人の建設業者ノヴァク(ジェレミー・アイアンズ)は、1か月の観光ビザを持って3人の仲間とロンドンにやってきた。入国審査官には中古車購入の為と言ったが、彼らは「ボス」に雇われ、不法労働でロンドンの別邸を改修する為に入国したのだ。金銭面も時間面も厳しい中、ノヴァクはポーランド全土に戒厳令が敷かれたことを知る。仕事を期限通りに終わらせる為、彼は仲間に戒厳令のことをひた隠しにする。監督はイエージ・スコリモフスキ。1982年の作品。
 レヴ・ヴァヴェンサ(ワレサ)率いる独立自由労組「連帯」(入国審査の時、ノヴァクが「連帯の人?」と聞かれるシーンがある)の活動の盛り上がりを受け、1981年12月12日から13日にかけて、ポーランドで戒厳令が施行された事件を背景としている。公開された当時は非常にタイムリーな作品だったということになる。ノヴァクがやたらとぴりぴりしており、強迫観念に駆られているかのようにも見えるのだが、当時海外にいたポーランド人からしたら、説得力のある姿なのかもしれない。
 仲間の中で英語が話せるのはノヴァクのみなので、家の管理人や業者とのやりとりは彼が行うのだが、なんとなく軽く見られており、信用されない。一方、仲間はなまじ英語がわからないからあまり危機感がなく、ノヴァクを更にいらいらさせる。よそ者としての心細さ、不似合なリーダーとしての心細さが相まって、見ているこちらの胃が痛くなりそうだ(笑)。特にお金の減り具合はおかしくもかなしい、いやかなしい成分の方が大きいか・・・。物資不足を補う為にノヴァクがスリの常習犯になっていく様など、笑っていいのか泣いていいのかという感じ。見ている側には英語のセリフしかわからない(字幕にならない)ので、ノヴァクと仲間のディスコミニュケーションがより際立って見える。
 しかしノヴァクは「リーダー」としては線が細くて迫力不足だし、彼の責任感や危機意識は時にヒステリックにも見える。仕事にしても何にしても、彼の行動は強迫観念的で、彼の「妻」ももしかしたら実在しなくて彼の幻想なのではという気もしてくる。

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