3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『娘よ』

 パキスタン、インド、中国の国境付近にそびえたつカラコルム山脈の麓に暮らすアッララキ(サミア・ムムターズ)と10歳の娘ザイナブ(サレア・アーレフ)。アッララキの夫は部族の族長だが、敵対する部族との手打ちの証として、ザイナブを先方の老族長に嫁がせることを決める。アララッキはザイナブを守る為、部族の掟を破り村からの脱出を図る。監督はアフィア・ナサニエル。
  日本では初めて公開されるパキスタン映画だそうだ。素朴な作品かと思っていたら、思いのほかエンターテイメント度が高い。映画タイトルの出し方や、ファーストショット等からも、「映画」をやるぞ!という意気込みみたいなものが感じられた。ローカルでありつつ、エンターテイメントとして王道を目指している感じ。いかにして逃げるかというサスペンスとして見る側を引きつけ、勢いがある。「逃げる」という設定って汎用性があるなぁと妙に感心した。日本やハリウッド映画ではあまり見慣れない風景(都市部以外はとにかくだだっ広くて、ロングショットが映える)なので、ロードムービーとしても面白い。
 アララッキとザイナブのやりとりが、親子の細やかな情愛の感じられるものだった。ザイナブが学校で習った英語を、アララッキに教える様が印象に残る。アララッキが、TVドラマの時間だからそっちを見よう!と言うあたりからも、親子の距離の近さ、親密さが窺える。ザイナブは「子供」として可愛がられているのだ。
 ザイナブの言動が本当に子供としてのもので、結婚がどういうものなのかも、自分が置かれた状況もよくわかっていないということが、随所で示唆される。冒頭、子供の作り方についての友人とのやりとりや、アッララキにここで待ちなさいと言われたのに子犬を追いかけて勝手に動き回ってしまう様は、正に子供。親から引き離されて結婚なんて無理だし可愛そうと思わせるのと同時に、現状のよくわかっていなさにイラっとさせるあたりも、実に子供らしい。母娘の逃走に協力してくれるトラック運転手のソハイル(モヒブ・ミルザー)とのやり取りも、親戚の叔父さんや隣のお兄さんという感じで、単純に「子供」であることが強調されている。子供を結婚させることの無体さが際立ち、また、アッララキが捨て身で逃亡を図る理由も納得がいく。加えて、ソハイルに好意を示されても、アッララキは子供のことで手一杯でそれどころじゃないよなぁと腑に落ちもするのだ。
  部族間の闘争により殺人が起き、殺した人数はそっちの方が多いから不公平だ!という目には目をの価値観だったり、娘を差し出すことで調停を図ったりという、非常に前近代的な世界の話なのだが、さらっとスマートフォンが登場して不意を突かれる。現代でも、こういう世界があるところにはあるのだとはっとした。

『ムーンライト』

 マイアミの貧困地域に暮らすシャロンは、小柄で内気なことから学校ではいじめられていた。母ポーラ(ナオミ・ハリス)は仕事で不在がちなことに加え麻薬の常習者で、子供に構う余力がない。シャロンを気に掛ける大人は麻薬ディーラーのフアン(マハーシャラ・アリ)だけだった。10代になったシャロン(アシュトン・サンダース)は親友のケヴィン(ジャハール・ジェローム)に強い思いを抱くようになるが、誰にも言えずにいた。監督はバリー・ジェンキンス。第89回アカデミー賞作品賞、脚色賞、助演男優賞を受賞。
 シャロンの3つの時代を3人の俳優が演じる。小学生くらいの「リトル」、ティーンエイジャーの「シャロン」、大人の「ブラック」(トレバンテ・ローズ)、どれも素晴らしかった。3人は顔かたちがすごく似ているというわけではないのだが、流れの中で見るとちゃんと同一人物に見える。シャロンからブラックへの飛躍がすごいのだが、自衛の為にこうならざるを得なかったということが分かるので切ない。出演している俳優は総じて好演でとてもよかった。
様々な愛を目にするラブストーリーで、誰かを思いやる態度、誠実さの表出の仕方が素晴らしい。シャロンの3つの時代は、彼が(おそらく数少ない)愛を他者から受けた部分を切り取ったものではないかと思う。フアンは大人の男性として、父親のような愛をシャロンに向ける。彼に食事をさせ、海に連れ出して泳ぎ方を教える。学校にも家庭にも居場所がないシャロンにとっての避難所のようになってくれるのだ。シャロンが「オカマって何?僕もそうなの?」と質問した時の答え方は、子供に対する誠実さのある真剣、かつ非常に配慮されたものだと思う。しかし、フアンの仕事は麻薬のディーラーであり、シャロンの母親もフアンが売る麻薬によって蝕まれていく。この点のみ、フアンはシャロンを裏切っていると言えるだろう。シャロンに対する思いやりは、罪悪感からくるようにも見えるのだ。シャロンが自分内で納得してしまったことがわかる別れのシーンが切なかった。
また、ケヴィンのシャロンに対する態度も愛(友愛であれ性愛であれ)があふれるものだ。ケヴィンは社交的で女の子にもモテる、シャロンとは別のグループの生徒。それでも不良グループに絡まれるシャロンをいつも気に掛けている。彼の肝心な所をはずさない距離感は、シャロンにとって得難いものだ。だからこそ、ある事件の顛末が痛ましい。シャロンにとってはケヴィンを守る為でもあるが、ケヴィンにとってはシャロンへの裏切りになる。シャロンは2度、愛した人に裏切られるわけだ。
シャロンはケヴィンと成人後に再会する。シャロンの風貌にも振舞にもかつての弱弱しさはないが、ケヴィンの前ではかつての繊細な少年の顔を見せてしまう。その変わらない部分を、ケヴィンがちゃんと見つけていることにたまらなくなった。2人の言葉の選び方、動作の選び方の慎重さに、時間の流れとお互いの中に残り続けるものとを感じる。

『ムーン・ウォーカーズ』

 1969年、アポロ計画の失敗を危ぶむアメリカ政府は、スタンリー・キューブリック監督に月面着陸成功映像のねつ造を依頼しようとする。CIAの諜報員キッドマン(ロン・パールマン)はこの極秘任務の担当になりロンドンを訪れた。一方、泣かず飛ばずのバンドのマネージャー・ジョニー(ルパート・グリント)は金策に困り、大手エージェントオフィスを経営する従弟を訪ねる。そこでたまたま鉢合わせしたのがキッドマンだった。ジョニーをエージェントと勘違いしたキッドマンから大金を騙し取ったが当然のごとくバレ、逆にキッドマンの任務に巻き込まれていく。監督・原案はアントワーヌ・バルドー=ジャケ。
 月面着陸の映像がねつ造されたものだという昔ながらの都市伝説を映画化してしまった本作。キューブリックが見たらなんて言うかななどとニヤニヤしてしまった。(一応)映画を作る話の一種と言えるのだが、映画作り映画に付き物の、映画に対する暑っ苦しいくらいの愛はあまり感じられない。作中で月面着陸映像を作っているスタッフたちはそれなりに楽しそうなのだが、ギャラを積まれたらあっさりポリシー捨てて方向転換する等、映画と心中しそうな気配は全くない。そのあたりが気軽でよかった。映画に対する情熱見せられるとちょっと「いい話」的な感触になっちゃいそうだけど、本作全然「いい話」に着地しようとしないのだ。
 どんどん話が転がっていくタイプのコメディーで強引かつ大雑把なのだが、コメディとしてこれはやっておこう、みたいな所をちゃんと押さえていくので案外安定感がある。バカバカしいことをいちいちちゃんとやるなぁと妙に感心した。クライマックスの大惨事など、確かにそうでもしないと話の収集つかないけど、ちゃんとやるんだな!と。主演のパールマンの有無を言わせない顔力と、グリントのひょろひょろした風体がまた対称的。特にグリントは好演。口から出まかせばかりでいい加減な約束を重ねていくジョニーを、それでも憎めないキャラクターに見せている。
 画面内に登場する人たちのうち、大体1人は常にラリっているというジャンキー映画でもあるのだが、60年代のロンドンってそんなにジャンキーばっかりってイメージだったんだろうか。あと、ジョニーと同居人とが「バカップル」と呼ばれているのだが、この2人の関係が親友なのかカップルなのか、最後までよくわからない(わかる人にはわかるのかも知れないが)ところがちょっと面白かった。

『蟲師 特別編「鈴の雫」』

 動物とも植物とも異なる異業の存在で、時に人間に奇妙な影響を及ぼす「蟲」。その蟲を調べ、人と蟲との仲立ちをする「蟲師」のギンコ(中野裕斗)。ある山を訪れたギンコは、人の形をした山の主に出会う。その主は、元々はカヤ(齋藤智美)という村の少女だった。カヤの兄は今でも彼女を探し続けていた。ギンコは主として弱りつつあるカヤを人間の世界に帰そうと試みる。原作は漆原友紀の同名漫画。TVアニメーションが2005年~2006年、20014年に放送された。監督はTVシリーズと同じく長濱博史。同時上映で同じく特別編「棘のみち」。
 映画というよりも、いつもの『蟲師』の最終回を劇場で上映する、という感じの通常運転さ。ちゃんと30分×2本の尺でOPもEDもある。ただ、大きな画面に耐えられるよう作画は通常以上に細やかと思われるし、音の使い方も、より奥行きがある感じだった。『蟲師』はTVアニメーション作品としてはなかなかない音の使い方をしていたので、これは劇場で見られてうれしかった。背景美術面の色彩の微妙さもスクリーン映えしていい。
 「鈴の雫」にしろ「棘のみち」にしろ、人間と蟲(あるいは蟲に代表されるような異界のもの)との関わり方を通して、どこまでが人間なのか、人間のあり方とは何かということをそっと問うてくる。
 「棘のみち」には、蟲師として最適化するために、魂のカスタマイズまでしてしまう。人工的に作った蟲のようなものを魂の代わりに入れるのだと説明されるが、カスタマイズされた人間は、それまでのその人とは(見た目は同じだし記憶も連続しているが)別の何者のような印象を与えるという。じゃあその人は人ではなくなったのか。それともどのような変わり方をしても人は人なのか。一方「鈴の雫」では人と異形との間にいるカヤが登場する。彼女の意識は既に主としてのものだ。しかし、人間のように振舞えばまた人間としての感情がよみがえってくる。異形となっても、人間として生きた名残の何かしらは残るかのようだ。蟲師の業のような「棘のみち」から、しかし異形に近づいたものでも人間は(度合いはそれぞれだが)人間であり続けるのかもしれないという、主人公であるギンコ(彼は蟲師の中でもかなり蟲の世界に近い)にも言及するかのような流れだった。
 本作は一貫して、人間の世界と蟲の世界は重なり合っている、しかし蟲は人間とは全く異なる存在であるという視線で描かれている。相互理解はないが、そばにあるものとしての距離を置いた視線があるので、見ていて楽な作品だった。使用されている色彩が柔らかく、ビビッドカラーがほぼないところはTVアニメーションとしては珍しいと思う。

『ムーン・ライティング』

 1981年12月5日、ポーランド人の建設業者ノヴァク(ジェレミー・アイアンズ)は、1か月の観光ビザを持って3人の仲間とロンドンにやってきた。入国審査官には中古車購入の為と言ったが、彼らは「ボス」に雇われ、不法労働でロンドンの別邸を改修する為に入国したのだ。金銭面も時間面も厳しい中、ノヴァクはポーランド全土に戒厳令が敷かれたことを知る。仕事を期限通りに終わらせる為、彼は仲間に戒厳令のことをひた隠しにする。監督はイエージ・スコリモフスキ。1982年の作品。
 レヴ・ヴァヴェンサ(ワレサ)率いる独立自由労組「連帯」(入国審査の時、ノヴァクが「連帯の人?」と聞かれるシーンがある)の活動の盛り上がりを受け、1981年12月12日から13日にかけて、ポーランドで戒厳令が施行された事件を背景としている。公開された当時は非常にタイムリーな作品だったということになる。ノヴァクがやたらとぴりぴりしており、強迫観念に駆られているかのようにも見えるのだが、当時海外にいたポーランド人からしたら、説得力のある姿なのかもしれない。
 仲間の中で英語が話せるのはノヴァクのみなので、家の管理人や業者とのやりとりは彼が行うのだが、なんとなく軽く見られており、信用されない。一方、仲間はなまじ英語がわからないからあまり危機感がなく、ノヴァクを更にいらいらさせる。よそ者としての心細さ、不似合なリーダーとしての心細さが相まって、見ているこちらの胃が痛くなりそうだ(笑)。特にお金の減り具合はおかしくもかなしい、いやかなしい成分の方が大きいか・・・。物資不足を補う為にノヴァクがスリの常習犯になっていく様など、笑っていいのか泣いていいのかという感じ。見ている側には英語のセリフしかわからない(字幕にならない)ので、ノヴァクと仲間のディスコミニュケーションがより際立って見える。
 しかしノヴァクは「リーダー」としては線が細くて迫力不足だし、彼の責任感や危機意識は時にヒステリックにも見える。仕事にしても何にしても、彼の行動は強迫観念的で、彼の「妻」ももしかしたら実在しなくて彼の幻想なのではという気もしてくる。

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