3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『ミステリ原稿』

オースティン・ライト著、吉野美恵子訳
 夫、子供と暮らすスーザンの元に、20年前に別れた前夫から小説の原稿が送られてくる。小説家志望だった前夫エドワードはとうとう長編『夜の獣たち』を書きあげ、彼女に読んでほしいと言うのだ。スーザンは原稿を読み始めるが、その小説は1人の男トニーが暴力の最中へ投げ出される物語だった。『ノクターナル・アニマルズ』(トム・フォード監督)として映画化され、文庫版は映画と同題名とのこと。
 原稿の読者であるスーザン視点のパートと、作中小説である『夜の獣たち』のパートが交互に配置される。スーザンは『夜の獣たち』をよみながら小説の主人公トニーの視線に自分を重ね、かつ、トニーに前夫であるエドワードを重ねていく。更にスーザンの視線はトニーだけでなく、彼の妻子や彼らに絡んでくる男たちにも重ねられていく。彼らの中の暴力性はスーザンの中にもあり、そして小説を生んだエドワードの中にも潜んでおり、それが呼応していくかのようだ。読書という行為がどのようなものか、上手く描かれた作品だと思う。必ずしも小説の主人公に共感、主人公目線で読むわけではなく、小説内の様々な部分に感情や記憶を呼び起こされていくと同時に違和感を覚えもする感じ。スーザンはエドワードの原稿を読むことによって、彼が自分を揺さぶろうとしている、自分に影響を及ぼそうとしていると感じ、それに反発もするのだが、それが読書という行為(そしておそらく小説を書くという行為)だよなと。
 『夜の獣たち』には、理性的かつ非暴力的故に妻子を奪われたトニーが、徐々に暴力側に引き込まれていく様が描かれている。非暴力的であることが「男らしくない」と非難されるのって(おそらくアメリカでは顕著なのだろうが)辛いな・・・。暴力へのストッパーは社会的に絶対必要とされているのに、ストッパーがかかっていることを非難されもするとは。暴力が否定される一方で暴力を強要されるような二律背反がある。




血と暴力の国 (扶桑社ミステリー)
コーマック・マッカーシー
扶桑社
2007-08-28

『ミックス。』

 卓球選手だった母親のスパルタ教育により、天才卓球少女として将来を期待された富田多満子(新垣結衣)だったが、スパルタ教育の反動で、母の死後はごく普通の人生を歩んでいた。勤め先がスポンサーを務める人気卓球選手・江島晃彦(瀬戸康史)と付き合うようになり有頂天だったが、江島は卓球で男女混合ダブルスのパートナーである小笠原愛莉(永野芽郁)とも恋人同士だった。ショックのあまり会社をやめて田舎に逃げ帰った多満子は、実家の卓球クラブを継ぎ、自分もペアを組んで全日本卓球選手権の男女混合ダブルス部門への出場を目指す。なりゆきでペアを組むことになったのは、元ボクサーの萩原久(瑛太)だった。監督は石川淳一。脚本は古沢良太。
 王道ラブコメであると同時に、人生うまくいかず、負け犬と侮られていた人たちが、自分の人生を再び掴み直すべく奮闘する敗者復活劇でもある。どちらかというと、後者の方に面白みを感じた。私がそれほどラブコメを好まないというのもあるけど、ラブコメ部分が大分薄味(ムズムズもキュンキュンもしない・・・)かつ月並みなので、この程度だったらなくてもいいかな・・・という気分になった。とは言え新垣結衣は大変可愛らしい、というかラブコメ要素についてはガッキーの可愛さによりかかりすぎな部分もあるくらい。ガッキーの可愛さに加え、全方向にまんべんなく受け入れられるよう不快な要素を極力排そうと努力したと思われるので、正直インパクトはないがそれなりに楽しい。
 ただ、楽しくしようとして付加した要素や小ネタの中には、何周か遅れてるんじゃない?それ今でも面白いと思ってます?というものも。わかりやすく「豪華ゲスト」と「面白キャラ」を出そうとするのは、フジテレビ製作映画(本作はフジテレビ制作)の病なんだろうか。面白キャラは面白キャラでいいけど、多満子と萩が「道場破り」する対戦相手にしろ、中華料理店の夫婦にしろ、それ一昔前のギャグですよね、って感じが拭えない。ベタなギャグのつもりなのかもしれないが、ベタというよりも、今はもうそれはギャグとして成り立たないんですよ、という方向に見えちゃうのが辛い。
 主演の2人よりも脇を固める役者の方が印象に残った。ストーリー上も、脇のエピソードの方が、「ベタ」さが上手く機能しているように思う。特に広末涼子がこんなに面白い感じになっているとは!元ヤンのセレブ妻という設定なのだが、セレブ生活が決して幸せなわけでもなさそうな所も元ヤン感も板についている。また、プチトマト農家の夫婦のとある事情も、具体的な説明はそれほどせずに映像でだけ見せるあたり、(ベタ中のベタな設定とも言えるので)ともすると泣かせに走りそうなところを踏みとどまっていてよかった。
 なお、役者は全員よく動けているので、素人目にはちゃんと卓球の試合っぽく見える。特にプロ選手役の永野と瀬戸は相当頑張っているのではないだろうか。





『皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ』

 ふとしたことで超人的な腕力・体力を身につけたチンピラのエンツォ(クラウディオ・サンタマリア)は、世話になっていたセルジュ(ステファノ・アンブロジ)が殺されたことがきっかけで、セルジュの娘アレッシア(イレニア・パストレッリ)の面倒を見ることになる。日本のアニメ『鋼鉄ジーグ』に夢中なアレッシアは、エンツォを鋼鉄ジーグの主人公“ヒロ”と呼び、力は皆の為に使うべきだと諭す。しかし、ギャングのジンガロ(ルカ・マリネッリ)が2人に近づく。監督はガブリエーレ・マイネッティ。
 ネタのボリュームからすると、映画の尺はもうちょっとコンパクトでもいいんじゃないかな?という気がしたが、ミニマムな「ヒーロー」ものとして面白い。まさかイタリアで『鋼鉄ジーグ』がメジャーだとは知らなかった。しかしなぜジーグ・・・。エンドロールでジーグの主題歌のイタリア語カバーが流れるが、むしろカバーの方がかっこいいし、いい歌謡曲っぽく仕上がっている。
 エンツォは超人的な力を手に入れるが、その力でやることはATM強盗。その映像がYoutubeにアップされて一躍正体不明の時の人となるというあたりは現代的だ。しかし、むしろオーソドックスな「ヒーロー誕生」物語のように思った。エンツォは自分本位な力の使い方をしていたが、アレッシアの無邪気さに触れるうちに、彼女を守ろうと思い始める。アレッシアがエンツォを目覚めさせる「装置」としてだけ存在するきらいがあるのも、一昔前のヒーローものっぽいなと思った。また、ヒーロー誕生と同時に、ヴィラン(悪役)もまた誕生する、2者がセットになっているというあたりも、やはりヒーローものっぽい。
 ヴィランであるジンガロのキャラクターが頭一つ抜けて立っている。ギャングといっても団地内ギャングで大した権力はない。しかし自己愛が強くクレイジーなので始末に負えない。こんな上司は嫌だ!ランキング上位に間違いなくエントリーされるだろう。彼が悪の道をひた走る動機が、エンツォ(とは彼は当初知らないのだが)ばかりがYoutubeで有名になって悔しい、というショボいのか何なのかわからないものなのは、現代ならではなのかもしれない。自己愛が暴走している。また、舞台がローマ郊外で、エンツォのジンガロも基本的に団地で活動しているチンピラ、経済的には結構厳しいというあたりも、実に現代的。ローマと言っても華やかさやおしゃれさ、歴史ある町のイメージとも程遠い。郊外映画(と私が勝手に呼んでいる。郊外の団地等を舞台とした映画。概ね登場人物の所得が低く町の雰囲気が荒んでいる)の一種とも言える。

『観なかった映画』

長嶋有著
映画は好きだが映画ファンというほどではない、という著者による映画評集。映画ファン、シネフィルはともすると、その映画の監督や出演俳優のフィルモグラフィーを引き合いに出して見た映画を語る。しかし、それではほかの作品を見ていない人は話に乗ることができない。監督や俳優の個人名を出さず、その映画の中で生じていることだけで映画を語ってもいいじゃないか、というスタンスで書かれた連載だそうだ(最初のうちはまだスタンスが固まっていないのか、監督名や俳優名が出てくるのだが)。私は映画好きでおそらく著者よりは見ているのではないかと思うが、監督や俳優にはあまり関心がなくて覚えていられない。「映画の中」のことだけで映画を語ってくれる方が、正直ありがないなという気持ちがあるので、本著は楽しく読んだ。著者が映画を見ていてひっかかりを感じる部分が、著者が小説の中で拘っている(であろう)こととリンクしているようで、著者の小説の作り方が垣間見えるようでもあった。あと、映画原作者として心乱される(笑)『サイドカーに犬』と『ジャージの二人』の章は、小説や漫画の映画化って原作者サイドからはこういう感じなのかという現場感があって、また別の面白さを感じた。『ジャージの二人』の方が著者的にはいい現場だったみたいだけど(笑)。

『未来よ、こんにちは』

 高校の哲学教師をしつつ、自著の執筆や教科書の編集にも携わっているナタリー(イザベル・ユペール)は、同じく教師の夫と暮らしている。2人の子供は独立し、仕事も充実していたが、夫から離婚を切り出される。また年老いた母の依存が強まり、施設に入れざるを得なくなる。監督はミア・ハンセン=ラブ。
 夫に離婚を切り出されたナタリーはびっくりするが、泣いたり騒いだりはしない。ただ、「死ぬまで一緒にいると思っていたのに」とつぶやく。離婚は彼女にとってショックなことではあるが、それはそれとして仕事も生活も続けていくという姿勢が好ましい。ユペールの佇まいがすごくいいというのもあるのだが、凹むことがあっても、時間がたてばちゃんと大丈夫になるし、自分を失うほどには心を乱されない人というのは、見ていて安心する。
 ナタリーは夫との離婚は冷静に乗り切ったように見えるが、それ以上に母親の老いに心を乱される。これは見ていて身につまされた。どちらが大変かで言ったら、母親の方が夫(元夫)より厄介だ。感情の揺さぶられ方も無意識に縛り付けられている度合いも、夫の比ではない。疎ましくもあるがやはり愛しているし愛されたい、そして母親が今の自分を作ったという自覚もある。だからこそ面倒なのだ。ナタリーと母親の関係は、若い頃からこんな調子だったんだろうと思わせるものでげんなりもするが、母が娘を誇りに思っていたこともよくわかるので、そこがやるせない。
 冒頭、ナタリーが出勤すると、高校でデモが起きており校舎に入れない。デモに参加している若者たちにこんな時に授業をやるのかとなじられると、彼女は「私は教師だから授業をする権利がある」と言い、授業を続ける。生徒に政治的スタンスを尋ねられても、授業でそれは話さないと言う。ナタリーがどのような姿勢で仕事をしているのかわかるエピソードが随所にあった。元教え子に、先生は哲学者としての思想と行動が一致していないと指摘されると、おそらく痛い所を突かれたという気持ちもあるにはあるのだろうが、「生徒が自分で考えられるようにするのが私の仕事。あなたに関しては成功した」と返す。彼女は学者である以前に気持ちの上では教師で、自分の仕事を愛している。こういう姿勢でいられる人は羨ましい。出版コンサルタントとのやりとりから、彼女の仕事のあり方も、時代の中で変わりつつあることも垣間見られるのだが、彼女を慕う生徒はこれからも出てくるだろうし、彼女が生徒や元生徒を家に招くこともあるんだろうなと。
 所で、エリック・ロメール監督の『緑の光線』の中で、ヴァカンスを一人ぼっちで過ごすなんて良くないと友人たちが主人公に世話を焼いてくれるが、フランスでは女性がヴァカンスを一人で過ごすことに、あまりいいイメージがないのかな?本作でも、元教え子はおそらくナタリーのことを心配して山に誘っているんだろうし。『緑の光線』の主人公は若い女性で、ナタリーは壮年であるという違いはあるが。

『未来を花束にして』

 1912年、ロンドンの洗濯工場で働くモード(キャリー・マリガン)は夫サニー(ベン・ウィショー)と幼い息子と暮らしていた。女性参政権運動活動家の同僚の代理として、公聴会で証言したモードは、自分達が置かれている環境に疑問を持ち始める。WSPU(女性社会政治同盟)のリーダー、エメリン・バンクハースト(メリル・ストリープ)の演説を聞いたモードは、活動に加わるようになる。監督はサラ・ガブロン。
 モードは最初、過激な政治活動には同意できず、公聴会でも渡された文面を読むだけのつもりだった。しかし、名前を名乗り話し始めると、彼女自身の生い立ちや暮らし、彼女の見聞きしてきたものが口からあふれ出す。妻でも母でも使い捨てられる労働力でもなく、自分はモードという1人の人間として語れるということに気付くシーンでもあったと思う。
 舞台となった当時、多くの女性には暴力をふるわれたり勝手に体を触られたりしたら怒って抵抗していいのだ、自分の体を他人に勝手に使わせてはならないのだという発想・概念が希薄だったのだろう(モードの職場では工場長がセクハラ、パワハラをしておりモードも少女時代に被害にあっていたことが示唆されるが、それに対して何か反抗するわけではない)。男性側は言うまでもなく、そういう概念は持っていないだろう。バンクハーストたちが女性の権利を唱えても、今までそういう概念がなかったものを提示しているので、話が通じないしそもそも相手に聞く気がない。法律の範疇で活動できるにこしたことはないが、法律自体が女性の権利という概念がない状態で作られたものであり、法律が守る人間の中に彼女らは往々にして含まれない。
 WSPUの運動には窓ガラスを割ったりポストを爆破したりという暴力的なものもあるのだが、聞く気がない相手に話を聞かせるにはガラスを割って暴動を起こし、怒りを示すくらいしか出来ない。まずは自分達にもそれぞれ発したい言葉がある、考えがあるとわからせる所から始めないと駄目なのか!とげんなりするが、それをやり続けた人たちがいるから、今の私たちの自由と権利があるわけだが。
 サニーはモードのことも息子のことも愛しているが、モードがWSPUの活動を始め自分の考えを隠さなくなると、彼女を追い出し息子を取りあげる(当時、離婚した場合女性に親権はなかったようだ)。モードがサニーの考える妻・母ではない面を見せることが、彼には我慢できないのだ。おそらく当時の平均的な男性像なのだろうと思うが、見ていると憎しみがつのるね・・・。

『皆さん、ごきげんよう』

 パリのアパート管理人(リュフュ)は古書を対価に武器の販売もしている。悪友の人類学者(アミラン・アミラナシビリ)は頭蓋骨収集が趣味。アパートにはローラースケートを履いてスリをしている姉妹や、県かばかりしている楽器職人夫婦がいた。近所にはのぞき見が趣味の警察署長(マチアス・ルング)やホームレスたちもいる。ホームレスを追いだす取り締まりにデモで対抗したり、不思議な庭に迷い込んだりと日常は時ににぎやかに、時にしんみりと続く。監督はオタール・イオセリアーニ。
 冒頭、貴族がギロチンにかけられる様を街の女性達が見物している。どうもフランス革命時らしい。そして現代の戦争に場面は移り、兵隊たちが村の家々から略奪していく。一切合財、片っ端から持ち去っていき、機械的ですらある。撃ち合いや爆撃はあり、爆炎などはそれなりに生々しいが、兵士の倒れ方はわざとらしく血も出ず、ちょっと舞台的風ですらある。これどういう話なの?と思っているうちに、現代のパリの住民たちのエピソードへと切り替わる。パリでのエピソードは概ねユーモラスで長閑な群像劇なのだが、時々不条理な力が襲いかかって彼らを脅かしたりもする。ホームレスの一斉摘発もそうだし、警察署長が何かと威信を振りかざすのもそうだ。アパート管理人たちはこういった「権威」による理不尽に強く反発する。彼らにとっては、権力により秩序が保たれることよりも、混沌としていても自由と平等があることの方が大切なのだ。時に良識を無視したりもするが、それぞれが好き勝手に生きていて、かつゆるい共同体みたいな雰囲気が出来ているところがいい。
 おじいちゃん2人のいちゃいちゃ感、ぶーぶーいいつつも連れだって出かけるケンカップル感が微笑ましいが、この人たちはもうこの場から去りゆく存在なのかなという寂しい後味があった。彼らの昔馴染みらしい裕福な女性も、遺言状を用意し自分の人生を店じまいしようとしている。その遺言状を届けられたアパート管理人は、破り捨ててしまうのだが。きれいな退場なんてして、させてたまるかという感じ。彼が生きるのは今ここ以外にない。だから、極楽浄土的な美しい庭園に心惹かれつつも、立ち去るのだ。

『ミューズ・アカデミー』

 ピント教授は現代のミューズ像を探るという「ミューズ・アカデミー」を開設する。享受の妻は「恋愛は詩がねつ造したもの」と言って夫のミューズ像を否定。生徒たちと議論するうち、愛や欲望も巻き込み彼らの関係も議論も変化していく。監督はホセ・ルイス・ゲリン。
 疑似ドキュメンタリー風の序盤なのだが、見ているうちにやはり明らかにフィクションであり、劇映画的な演出がされていることがわかってくる。特に音の編集の仕方(車内での会話が車の外でもよく聞こえるとか)で「フィクションですよ」という念押しをしている。しかし何よりフィクションだなーと思ったのは、ピントの講義の内容のうすっぺらさ、つまらなさだ。ミューズ云々はともかく、彼の言う「現代のミューズ」像がヘテロ男性にとっての女性像に留まっているところからして前時代的で(じゃあヘテロ女性の表現者やゲイ男性の表現者はどうなるんだということになる)、よくこの人大学で教えてるなと思うくらい。自分個人の性愛指向と、(一般的な)詩作におけるインスピレーションとをいっしょくたにして話すので、講義を真に受けるのがばからしくなってくる。もちろんゲリン監督はそのあたりはわかった上でピントにこういった言動をさせているのだろう。議論の進め方やかなり無理筋な時もある反論の仕方からしても、すごく頭がいいというわけではないという設定なのだろう。ピントは詩人としてそれなりの評価を得ているようだが、生身の女性に誘発されないと創作が進まない程度の才能ということか。
 聴講生の多くは女性なので、ミューズ像を女性に押し付けるかのようなピントの発言には反感を示す学生もいる。ピントのちょっとずれた講義によって、むしろ学生同士の話し合いは深まっていく。またピントの意図に反して全く別の方向に詩作のインスピレーションを感じ始める学生もいる。ピントの愛人は羊飼いの歌を研究しており、羊飼いの1人に異性としても強く惹かれる。羊飼いたちの歌は口頭伝承のようなので、彼はピントがあやつるようなレトリックや記述される為の言葉とは真逆の存在と言える。ピントが彼らの詩を否定するのも無理はないということか。
 恋愛はフィクションだと言っていたピントの妻が、あれこれいいつつもピントへの執着を自認してしまい、若い愛人をけん制するあたりは滑稽でもあるし、もの悲しくも、ちょっと怖くもある。いきなり話が形而下に戻ってきたな!

『三つ数えろ』

 「山田宏一セレクション ハワード・ホークス監督特集」にて鑑賞。1946年の作品。原作はレイモンド・チャンドラーの小説『大いなる眠り』。脚本はウィリアム・フォークナーら。フォークナーが脚本を手掛けてたというのは初めて知ったのだが、『大いなる眠り』ってこんなにとっ散らかった話だったっけ?ちょっと変な話だった記憶はあるのだが・・・。
 私立探偵のフィリップ・マーロウ(ハンフリー・ボガード)はスターンウッド将軍の屋敷を訪問する。将軍の二女カーメンがバクチで作った借金の督促を名目とした脅迫状が送られてきたのだ。脅迫の解決を依頼されたマーロウだが、長女ヴィヴィアン(ローレン・バコール)は、将軍の用心棒でマーロウとも旧知の仲だったリーガンの失踪絡みの依頼ではないかと探りを入れてくる。
 とにかく回りくどく、同じ場所を何度も行ったり来たりするような話で、ミステリとしてはあまり面白みはないだろう。ただ、マーロウが真顔で放つジョークや減らず口は、ぐだぐだ行ったり来たりする本作の構造には似合っている。マーロウを演じるのはボガードだが、38歳という年齢にはちょっと老けすぎている気もする。当時の38歳はこんなものだったのだろうか。また、ボガードは決して美形というわけでもスタイルがいいわけでもないのに、色男扱いされているし実際映画の中では色男に見えるあたりが面白いなと、彼の主演作を見ていると毎回思う。バコールはどう見てもクールな美女で、こちらは文句ないのだが。
 ボガードの完璧ではないルックスが、絶えず減らず口をたたき、自分の背の低さもジョークのネタにできる(しかし顔は真顔のままなので本気なのか冗談なのかわかりにくい!)余地を生んでいるのだろう。マーロウを美形俳優が演じたらキザすぎて見ていられないと思う。ボガードってユーモラスさをちゃんと出せる俳優だし、多分そういう扱いに抵抗はなかったんだなということも改めて認識した。
 話の筋はごちゃごちゃしており、3歩進んで2歩下がるような塩梅なので、ストーリーテリングが上手いとはお世辞にも言えない作品なのだが、セリフがユーモラスで洒落ているので間が持つ。また、マーロウが唯一「立派だ」と称する男の行動は、やはり立派で濃い陰影を残している。また、マーロウの価値観がわかる言葉でもあった。マーロウは自分を含め、本作に登場する男たちは立派とは言い難いと思っているのだろう。

『ミス・シェパードをお手本に』

 1970年代、劇作家のベネット(アレックス・ジェニングス)は北ロンドン、カムデンのとある通りに引っ越してくる。黄色い古ぼけたバンで生活しているミス・シェパード(マギー・スミス)もその通りにやってきて、やがてベネットの家の前に居ついてしまう。ミス・シェパードはプライドが高く時に理不尽、なぜかフランス語に堪能で音楽にも造詣が深く、しかし同時に音楽を嫌がってもいた。彼女とベネットの15年間にわたる交流を描く。原作はアラン・ベネットの実体験に基づく舞台劇で、本作ではベネットが脚本を担当。監督はニコラス・ハイトナー。
 「お手本に」って題名はちょっと趣旨と違う気がするが、彼女のわが道を行くところを見習ってみたいと言うことかな。ただ、ミス・シェパード本人も好んで「わが道」を行っているのかというとそうではなく、もうちょっと屈託があるように思った。自分で選んだ道ではあるし、自分のやり方でやり切るわけだが、そこに葛藤がないわけではないし、人に言えない辛さも抱えている。
 ミス・シェパードはある種の分裂した状態にいる人なのだと思う。若い頃に音楽と信仰との間で引き裂かれ、未だに上手いこと着地できていないように見える。彼女の長いお祈りは、過去に起こしたある事件のせいでもあるのだが、音楽を愛することへの後ろめたさからも生じているのだろう。若い彼女に司祭が言った言葉はちょっと許せない。人の魂を試すようなことを言うのはやめてよねと。
 ベネットもまた、分裂した状態にある。彼の場合は、生活者としての自分と、書く主体としての自分との間でだ。映像上も、ご丁寧にベネットは書き手と生活者と2人同時に現れるのだ。生活者としてミス・シェパードとやりあうベネットを、書き手としてのベネットは観察しながらいいぞもっとやれ、と思っているというような状態だ。そしてベネットは、ミス・シェパードを観察し、ネタにすることに罪悪感を感じている。彼は元々、自分の母親をネタにしたコメディを執筆しており、母親ではネタ切れだからミス・シェパードに目を付けたと言う面も否めないのだ。自分の生業、というか愛するものに対する罪悪感は、ミス・シェパードが抱え続けているものと似通っているかもしれない。
 ベネットは何かとミス・シェパードを気に掛けるが、周囲からは「親切ね」と評される。客観的に見ればベネットは十分親切な人なのだが、本人は惰性(そして前述のように多少の打算)だからだと言う。照れもあるだろうが、実際のところ、惰性に近いような関係の方が、毎度心を込めて行う親切よりも長続きするのではないだろうか。ベネットもミス・シェパードもまさか15年の付き合いになるとは思っていなかっただろう。ベネットはミス・シェパードの介護者ではないと自認しているし、実際、ヘルパー達のように躊躇ない触れ方、助け方は彼には出来ない。ベネットがミス・シェパードの人生について知ったことは、彼女の口からではなく後々になってから知ったことだと言う。あくまで隣人なのだ。
 作中時間の経過をあまり感じさせない作品なのだが、ベネットの家に出入りする人の出入りの仕方が明らかに変わったラスト、ああそういう時代になったし、ベネット本人もそういう気持ちになったんだなと、ちょっと感慨深くなった。

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