3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『緑の夜』

 母国の中国から韓国へ渡ってきた、ジン・シャ(ファン・ビンビン)は、韓国人の夫がいるものの抑圧され息苦しさを感じている。ある日、職場である空港の安検査場で緑色の髪の女(イ・ジュヨン)と知り合った彼女は、ふとしたことから非合法的な取引の世界に足を踏み入れることになる。監督はハン・シュアイ。
 女性2人が共に逃避行を始めるまでのアバンはスリリングで勢いがありなかなか良いのだが、その後の中盤以降がぱっとしない。2人の逃避行は、なぜか元いた所に戻ってしまうような展開を見せる。危機に陥ったジン・シャは夫を頼るが、夫は敬虔なクリスチャンとして振舞う一方で、妻に対しては非常に支配的だ。ジン・シャが夫から性的な暴力を受けるシーンは結構きつい。本編前に「性的な暴力描写があります」という通知がされていたが、これは確かにトラウマよみがえる人もいそうなので通知した方がいい(というかチケット買う前の段階でしてくれた方がいいのでは…)かもしれない。
 一方で緑の髪の女も、恋人の指示の元で薬物の密輸を続けており、なかなか彼との繋がりを切ることができない。2人は自由を手に入れる為に賭けに出るのだが、何だかんだで男たちとの繋がりを断つことができないのだ。これがどうにももどかしかった。ラストも、女性が自由になるのにこのやり方というのは、少々感覚が古いように思う。今だったらもっと別のやり方も見せられるように思う。一見すると女性同士の連帯、ガールズフッドの物語のようだが、実際はそうでもなかった。
 感覚の古さという点では、ジン・シャたちが財布とホテルのキーをくすねた男性が実はドラッグクイーンないしはトランス女性だったらしいという所も、後味が良くない。社会の隅っこに追いやられがちな者同士で食い合わなくてもなぁと。「女になりたいなんて考えられない」というのも、そういう問題じゃないと思うんだけど…。

テルマ&ルイーズ
ハーヴェイ・カイテル
2019-07-01


恋する惑星 (字幕版)
ヴァレリー・チョウ
2020-08-31


『ミッション:インポッシブル デッドレコニング PART ONE』

 ロシアの潜水艦が自身が発射した魚雷に撃ち落され沈没するという事件が起きた。IMFのエージェント、イーサン・ハント(トム・クルーズ)は新たな指令を受ける。全人類を脅かす新兵器を見つけ出し回収するというものだがその兵器の実態は不明。イーサンはルーサー(ビング・レイムス)、ベンジー(サイモン・ペグ)、イルサ(レベッカ・ファーガソン)と共にミッションに挑む。鍵を握る詐欺師のグレース(ヘンリー・アトウェル)に接触するが。監督はクリストファー・マッカリー。
 冒頭からアクションの見せ場がてんこ盛りでだんだん何の話かわからなくなってくる。冒頭で潜水艦事故のエピソードと「それ」の中身をある程度提示したのは、とりあえずこのくらいは提示しておかないと話の本筋を忘れられちゃうな!というストーリー構成上の配慮か。謎のままひっぱることもできたとは思うが、まだ第一部でこの先も話が続くことを考えるとなぁ…。
 今回、登場人物同士のやりとりが結構コントっぽい。「そうそうこれをああしてこうやって…ってできるか!」みたいな一旦ムリ目の話に突っ込みをいれるスタイルが定着したように思う。アクションがインフレ状態になってくるとギャグの領域に入るという状態。イーサンとグレースの2人連れカーアクション等相当楽しいことになっている。イーサンが多少間抜けな感じになってもOKな作品になったんだなと感慨深いものがあった。
 AI(らしきもの)とイーサンとの闘いは、現代の映画製作事情と相まって妙にタイムリーであり、今だに体をはって観客を魅了し「映画館で見るべき映画」を作り続けているトム・クルーズの奮闘とも重なる。ただ、イーサンの方がトムよりも危険行為に対してまともな感覚を持っているような気がしなくもないのだが。
 ストーリーが精緻な類の作品ではないと思うのだが、イーサンの決断の背中を押すのが、彼が関わった女性たちに降りかかるある運命であるというのはちょっとひっかかった。その為だけに彼女らの運命が用意されたようで少々古臭い。また、イーサンは常に自身が信じる大義の為、より良い世界の為に動く存在で、個人的な感情は二の次というイメージだったのだが。キャラの解釈違いか。



 

『ミセス・ハリス、パリへ行く』

 第二次大戦後、1950年代のロンドン。戦争で夫を亡くした家政婦のハリス(レスリー・マンヴィル)は、勤め先の屋敷でクリスチャン・ディオールのドレスを目にし、その美しさに魅せられる。何としてもディオールのドレスを手に入れるため、お金をためてパリへ旅立つ。パリへ到着した彼女はディオールの本店を訪れるが、マネージャーのコルベール(イザベル・ユペール)に追い出されそうになる。監督・脚本はアンソニー・ファビアン。
 ディオールのドレスとそれにうっとりするハリスを、一昔前の少女漫画のようなキラキラ感をもって映し出すシーンがある一方で、労働と賃金、社会階級等が背景に見え隠れするところが面白い。ハリスの仕事先には裕福な家もあるが、そういう雇い主に限って賃金支払いを渋ったりする。また、ハリスが訪れたパリは清掃員がストライキ中で町中ゴミだらけ。ディオールのお針子たちがハリスを歓迎するのは、自分たちも彼女も富裕層の為に働く労働者であり、そこに共感したからだろう。上流階級向けに作られる商品を、でも正しく対価=お金を払えば労働階級でも入手できるではないか!と階級の垣根を越えようとするのがハリスであり、縫製した服を自分たちでは着ることがないであろうお針子たちにはそれが小気味よかったのでは。同時に、適切な対価を払わない相手に対しては、相手が富裕層であろうが社会的地位があろうが、サービスは提供しなくていいとハリスは悟る。ある意味資本主義はフェアなのだ。本作中の最後にディオールが選ぶ道はある垣根を超える行為だろうが、その背後には良くも悪くも資本主義がある。
 一方で、ハリスとパリと貴族男性との交流は、一見階級の垣根を越えたもののように見えるが、実ははっきりと垣根がある。男性がハリスを見ているとある人を思い出すというエピソードは、自分が伝統的な富裕層という特権的な地位にあることに無頓着な人だから言えることだと思う。ハリスはそれに気づくから浮かない顔をするのだ。決して対等の人間としての交流があったわけではないと思う。
 ハリスがディオールの服を欲しいと思うのは、それを着てどこかに行きたいとか何をしたいとかという目的があるからではない。ただ美しく自分を魅了するものだから欲しいのだ。それを着ていく場所なんてないだろうとハリスは揶揄されるが、好きだと言うことは、欲望とはそういうものではないだろう。どんな人でも憧れ、夢、欲望は持てるしそれを肯定する物語だと思う。欲望を持つ人に対する視線が温かい。ディオールのようなメゾンは、その欲望に乗っかった商売であるという面もあるからだろうが。
 50年代のディオールのドレスはもちろん素敵なのだが、パリでハリスが着ている借り物の服のコーディネートもかわいい。ディオールの若い会計士の妹の服を借りているので、明らかに若い娘さんのファッションなのだが、ハリスに不思議と似合ってくる。年齢相応のファッションというものは、そんなに真に受けなくていいのかもと思わせてくれるかわいらしさだった。


オートクチュール [DVD]
ソマヤ・ボークム
アルバトロス
2022-09-02




 

『3つの鍵』

 ローマの高級住宅地。ある夜、建物に車が衝突し、跳ね飛ばされた女性が死亡した。運転していたのはアパートメントの3階に住む裁判官夫婦の息子・アンドレア(アレッサンドロ・スペルドウーティ)。2階の住民モニカ(アルバ・ロルバケル)は夫が出張中で、出産の為一人で病院に向かう所だった。1階のルーチョ(リッカルド・スカマルチョ)は娘を向いの老人に預けるが、老人が娘に何かしたのではと疑い始める。原作はエシュコル・ネヴォの小説。監督はナンニ・モレッティ。
 一つの事故が引き金となり、3つの家族それぞれの間に不和が広がっていく。予告編の内容から一夜の出来事からごく短いスパンの物語なのかと思っていたら、その5年後、更にその5年後と結構長い期間を描いていく。それぞれの家族の変化を描いていくにはこの長さが必要なのかもしれないが、映画としては少々冗長さを感じた。少々色々な要素を盛りすぎなのではという印象を受けた。
 3つの家族は、どの家族もそれなりに愛情はあるものの、問題がないわけではない。事件をきっかけに潜在的な問題がどんどん表面化していく。その問題は、家族お互いが自分たちが思っているほどには向き合っていなかったという所にあるように思った。アンドレアは事故の加害者だが言動が子供すぎて、見ていると大分イラつく。父親が彼に愛想をつかすのも、親としてはまずい態度だと思うがうなづけてしまうのだ。母親は愛情故に彼をかばうが、それがアンドレアにとってプラスに働くわけでもない。彼が自覚しているように、一旦離れた方がいい家族もいるのだ。
 一方、ルーチョもまた幼い娘を愛しており、それ故娘が性加害に遭ったのではと思い悩む。心配なのはわかるが、彼は当事者である娘とも、協力すべき妻ともちゃんと話し合っていないように見える。注力の方向が少々的外れで、「心配」や「ケア」ではなく「何があったか知りたい」方向にいってしまっている。ここでもまた、子供への愛が上手く機能していない。それを修正していくには、やはり10数年という長いスパンが必要だったのか。
 また、子供を愛しているが孤独と産後鬱に飲み込まれそうになっているモニカのような親もいる。彼女の孤独と辛さは作中でも際立っていた。母親の設定は少々蛇足(というか問題の本筋を読み違えさせそうで少々心配になった)なように思ったが、子供への愛だけでは個人の孤独は埋められないのだ。

息子の部屋 [Blu-ray]
シルヴィオ・オルランド
IVC
2021-09-24


三階-あの日テルアビブのアパートで起きたこと
エシュコル・ネヴォ
五月書房新社
2022-08-27


『ミークス・カットオフ』

 配信で鑑賞。1845年、アメリカのオレゴン州。西部開拓民の3組の家族が、荒野を移動していた。彼らはこの一帯の地理を良く知っているというスティーブン・ミークにガイドを依頼する。ミークによると2週間で目的地に到着するはずだったが、5週間が経過してもたどり着かず、水も乏しい道程は過酷さを増す。3家族の面々はミークを疑い始める。休憩していた一行の前にひとりの原住民が姿を現し、一行は彼を捕らえ水場へと案内させようとする。2010年製作、監督はケリー・ライカート。
 アメリカの西部開拓神話のようでありつつ、そこからどんどん脱却していく。開拓の旅にしろ原住民との闘いにしろ「でもそれってこういうことでもあるよね」とめっきをはがしてくのだ。だだっ広い荒野を延々と歩いて進む(なんと馬車には乗らない。馬車は荷物運搬用)という頼りなさだ。ワイルドさ、勇壮さがあるとしたら風景側であって、人間側ではないのだ。とにかく風景のインパクトがありすぎて、人間無力だな…という思いが湧き上がってくる。そして水がないということの恐ろしさがひしひしと迫ってきた。
 ミークはかつてであればいわゆる西部劇の中の「男らしい男」と言えるだろう。彼の振る舞いはタフさや世慣れている様子、荒っぽさを誇示するものだが、今の目線で見たらむしろ「有害な男らしさ」だ。男性たちへのマウント、女性たちへのセクハラと言っていい。女性の1人は彼の言動に不信感を持ち、彼のマンスプレイニング的な態度を指摘する。ミークのように「男は~、女は~」という紋切り型イメージの物言いをする人は現代にも大勢いる。だから彼女の行動が鮮やかに見えるのだ。彼女のミークに対する反抗は、彼女がいままでいた世界へのカウンターにもなっている。

ミークス・カットオフ
ポール・ダノ
2021-07-16


パワー・オブ・ザ・ドッグ (角川文庫)
トーマス・サヴェージ
KADOKAWA
2021-08-24


 

『みんなのヴァカンス』

 夏の夜、セーヌ川のほとりで開かれていたイベントでフェリックス(エリック・ナンチュアング)はアルマ(アスマ・メサウデンヌ)に出会い夢中になるが、彼女は翌朝ヴァカンスに出てしまう。フェリックスは親友のシェリフ(サリフ・シセ)と相乗りマッチングアプリで知り合ったエドウァール(エドゥアール・シュルピス)と共に彼女を追って南仏の田舎町ディーへ。別荘に滞在しているアルマをサプライズ訪問しようともくろむが。監督はギョーム・ブラック。
 夏の終わりに見ているがいい夏休み映画だった。ぱっとしなくても少々ショボくても、ヴァカンスはヴァカンス。心浮き立つ(故に失敗もするが)ものだ。車で走っているうちに川や山が見えてくるとつい気分が上がってしまうところとか、つい「空気が違うよな~」とか言ってしまうあたり、非常に夏休みっぽい。ディーの風景も、華やかな観光地というわけではないが川遊びができる渓流があったり、昔のままの街並みが並んでいたり、自転車で登れる山道があったりで、眺めているだけでも楽しかった。
 フェリックスのアルマへの思いはかなり一方的でストーカーまがいではとハラハラするのだが、彼の行動が危ういものだということは自覚的に描かれている。シェリフは最初からサプライズってどうなの…という反応だし、その後の展開でもフェリックスのアプローチはすべて勇み足に終わってしまう。フェリックスの行動は見ているとイライラするしちょっと怖くて、正直ぎりぎりなラインだなと思った。ただ、この男性描写としてありがちなイキりアプローチというか、誤った「女性はこうすると落とせる!」みたいな勘違いについては、これはだめなやつだぞというサジェスチョンがされているとは思う。
 最初(経緯が経緯なので)険悪だったフェリックス、シェリフ、エドゥアールが時間が経つにつれ何となく友達っぽくなっていくあたりが面白い。フェリックスはアルマのことで頭がいっぱいなのだが、シェリフとエドゥアールが急速に仲良くなっているあたりがユーモラスだった。シェリフは男友達や女性に対しても自然にケアする態度をとり(なのでちょっと都合よく扱われたりするのだが…)、エドゥアールとの距離の詰め方も自然。一見社交的そうなフェリックスの方が人との距離感が上手くない。この人にこんな一面が!というシチュエーションがしばしば見られるあたりも面白かった。

ギヨーム・ブラック監督『女っ気なし』DVD
ロール・カラミー
エタンチェ
2019-06-08


緑の光線 (エリック・ロメール コレクション) [DVD]
ベアトリス・ロマン
紀伊國屋書店
2007-05-26


『見えるもの、その先に ヒルマ・アフ・クリントの世界』

 1862年にスウェーデンで生まれたヒルマ・アフ・クリントは、スウェーデン王立美術院で学び、職業画家として伝統的なスタイルの絵画作品の製作をし、成功を収めた。その後、神秘主義に傾倒し、同じ思想を持った女性芸術家4人と芸術家集団「5人(De Fem)」として活動。抽象絵画表現を推し進めた。しかし死後、遺言により作品は公開されず、美術史からは忘れ去られていた。彼女の人生と表現を追うドキュメンタリー。監督はハリナ・ディルシュカ。
 ヒルマ・アフ・クリントという画家のことは全く知らなかったのだが、本作の中で紹介される作品はかなりインパクトがある。ポップで軽やか、リズミカルだ。そして思っていたより相当大きい作品が多い。また連作も多く、実際にまとめてみることが出来たら、かなり見ごたえがありそう。2019年にグッゲンハイム美術館(ほかの国も巡回したそうだ)で回顧展があったそうだが、日本にも来てほしかった。
 一般的に最初に抽象画を確立したのはカンディンスキーということになっていると思うのだが、それよりも彼女の方が早い。なぜアフ・クリントが忘れられていたのかというと、本人の遺言で死後20年の作品の公開が控えられていたということも一因だが、何より彼女が女性だからだろう。美術の世界も他の世界と同じく男性が牛耳っており、女性は見えないものにされていた。生前に多少活躍していたとしても、記録に残りにくい・記録に残らないので研究対象になりにくい・そのうち忘れられてしまう、という悪循環だったのだろう。近年の美術史研究ではそういった中で見落とされていた女性作家が掘り起こされ、再発見されるという流れが生まれているそうだ。そこそこ知名度のある男性作家のものと思われていた作品が実は女性作家のものだった、という事例を実際に見ることがあるが、そういう事情があったのか。美術の世界が案外権威主義だし、マーケット含めまだまだ男社会だということも、女性研究者や画商の言葉から垣間見えた。
 ただ、アフ・クリントが忘れられていたのは、彼女が神秘主義に傾倒していたからという要素もあるかもしれない。文脈が独特でとっつきにくいとか紹介しにくいといった事情が当時からあったのでは。現代の視点で見るとポップでカラフルなのだが、彼女自身はそういう「かわいい」意図で描いていたわけでもないのだろう。神秘主義との関係や、それが作品にどのように反映されているかという部分へは作中あまり言及がない。この辺りはもっと知りたかった。ルドルフ・シュタイナーに自分を売り込んだりしているので、かなりガチな人だったのではないかと思うが。
 アフ・クリントの作品の紹介といった感じで、その生涯や作品の特徴、表現の変遷についてはもう少し掘り下げてほしかった。ただ、まだ研究が進んでいないということかもしれない。10年後、20年後に同じ題材でドキュメンタリーを作ったら、また違った内容になってくるのでは。なお本作、スウェーデンの自然の風景が随所で映し出されるが、ありきたりなようでいてこれがよかった。アフ・クリントの作品の色彩やフォルムは、自然の中にある色彩やフォルムと地続きであることがイメージとして腑に落ちる。

Hilma Af Klint: The Secret Paintings
Art Gallery of New South Whales
2021-10-31



『湖のランスロ』

 中世のヨーロッパ。聖杯探しに失敗し多くの戦死者を出してしまったアリテュス王の騎士たち。騎士の一人ランスロ(リュック・シモン)は王妃グニエーヴル(ローラ・ディーク・コンドミナス)との恋に悩んでいた。王を裏切ることになる関係をやめようと神に誓うランスロだが、グニエーヴルはランスロへの愛のみに忠実に生きると言い切る。一方騎士の一人モルドレッドはランスロを不倫疑惑があると貶め、騎士たちの間に亀裂が入り始める。監督はロベール・ブレッソン。1974年製作。
 ブレッソン監督による歴史劇、というかアーサー王伝説劇なわけだが、冒頭から結構な血生臭さだ。洗練されたアクションシーンとしての血生臭さではなく、泥臭い。剣で切りあうというよりも殴り合い、血は噴き出るし首はもげるし肉はこそげ落ちる。ご丁寧に死体が燃えるシーンもあるのだが、フェイク死体が見るからに偽物なのでちょっと笑えてしまう。また、騎士たちが動くたびに鎧がガッチャンガッチャン鳴ってうるさいし、見るからに重そう。そりゃあ金属着ているわけだから動けば金属音するし重いことは重いだろうけど、それをそのまんまやるのか!ブレッソンの異色作、というより珍作に見えてくる。伝説のロマンそっちのけで身もふたもないのだ。
 身もふたもなさは、騎士たちの行動も同様だ。彼らは王への忠義や王妃への愛、そして神への信仰によって真面目に行動していたはずなのだが、徐々に動機に欲が混じり、本来の目的は何だったのか曖昧になっていく。なぜそんなことに、という徒労感がどんどん増していくのだ。ランスロとグニエーヴルの関係も従来は悲恋、ロマンティックなものとして描かれてきたのだろうが、本作では主義主張のかみ合わない個対個という感じで、ロマンス感が皆無。登場人物への視線・描き方は一貫して冷徹で、見る側の共感を拒むものだ。伝説・神話から人情やロマンを配するとこうも無慈悲に見えるものなのか。

湖のランスロ ロベール・ブレッソン 4Kレストア版 Blu-ray
パトリック・ベルナール
IVC,Ltd.(VC)(D)
2019-10-25


アーサー王物語 1
オーブリー・ビアズリー
筑摩書房
2020-01-31




『ミラベルと魔法だらけの家』

 コロンビアの山の奥に暮らすマドリガル家は、代々魔法の力を授かっている一族。マドリガル家に生まれた子供はその力で村の人々の生活を支え、周囲からも頼りにされていた。しかし家族の1人、ミラベル(ステファニー・バエトリス)だけは何の力もない普通の人間だった。家族に愛されつつも、自分に力がないことを気にしていた。ある時、ミラベルは自分たちの家に異変が起きていると気付く。監督はバイロン・ハワード&ジャレッド・ブッシュ。
 コロンビアが舞台のディズニーアニメって初めてなのだろうか。様々な土地、民族の文化を取り入れていくのが近年のディズニーの方針というのは割とはっきりとしているが、本作は作品としてはそんなに新鮮さを感じない。楽しいミュージカルではあるのだが、今一つパンチがきいていないように思う。個人的な好みではあるが、リン=マニュエル・ミランダによる楽曲が自分にハマらなかったというのも一因だ。ミュージカル映画の場合、がつんとくる一曲がないというのはやはり苦しい。『アナと雪の女王』の楽曲がいかにパンチがきいていたか再確認してしまった。
 魔法が使えない「普通」の人であるミラベルは、自分も何か家族の役に立とうと一生懸命だ。彼女の頑張り、ひたむきさが少々痛々しい。しかしこの「いい子」であろう、役に立とうという必死さは、彼女に限ったことではない。特別な魔法を授かった子たちも、特別な子として期待に応えなくてはならない、役に立たなければならないと思いつめている。マドリガル家は家族をとても大事にしており、お互い愛情はあるのだが、子供たちにとって自分が受け入れられると保障されている(と当人が思える)場にはもはやなっていないのだ。特別な才能がなくても誰しも特別であるという物語の趣旨なのだろうが、才能がなくても誰しも役に立たなければならないという話に見えてしまった。ミラベルがミッションに失敗していたら、やはり家族には受け入れられなかったのでは。
 結局、ミラベルが一方的に家族に歩み寄り理解しようとしており、家族は彼女のことをあまり理解していない、そんなに関心度は変わらないままなのではと思ってしまった。自分たちの存在が家、家族という場があってこそという前提がある以上、子供たちの苦しさは変わらないような気がした。ディズニーアニメの家族主義は根深いな…。更に本作のラストだと、やはり魔法・才能ありきということにならないだろうか。
 ディズニーアニメとしては初の眼鏡ヒロインという点でも話題だったが、眼鏡が特に意味を持っていない(視力が低いからどうこうということはない)ところはいいと思う。ただストーリー設定上、眼鏡キャラ=凡庸というイメージで見られそうなところはちょっと微妙かもしれない。

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2020-05-13


『MINAMATA ミナマタ』

 1977年、写真家のユージン・スミス(ジョニー・デップ)は酒におぼれる日々を送っていた。ある日、企業の通訳として訪ねてきたアイリーン(美波)に、熊本県水俣市へ撮影に来てほしいと頼まれる。チッソ工場が海に流す有害物質によって、地域住民が重い病に苦しんでいるというのだ。現地を訪ねたスミスは、水銀中毒に苦しむ患者たち、歩くことに話すこともできなくなった家族の介護をする人たち、激化する抗議運動と企業側の妨害を目の当たりにする。監督はアンドリュー・レビタス。
 水俣病という社会問題そのものというよりも、水俣という場を訪れ、撮影したユージン・スミスという写真家の一つの時代を切り追った作品と言った方がいい。作中のスミスはかつてはアメリカを代表する写真家としてその名をとどろかせたものの、今や過去の栄光。酒におぼれ写真家としての創造意欲も、人生そのものに対する意欲も失っている。これは大分アルコール依存なのではと思える飲酒ペースの速さだ。そんな彼が、水俣の人々と相対するうちに写真家として、1人の人間として再起する。スミス個人の再起と、水俣問題の戦いの推移とが平行しており、これが上手く機能していると思った。規模や意味合いは全然違うだろうが、自分の人生をもう一度取り戻す為までの格闘なのだ。
 スミスが自分の「仕事」の為に水俣を利用したと見る向きもあるだろう。確かに彼にとっては「仕事」だったしその仕事で高く評価された。この映画自体もそういう指摘を受けるかもしれない。これは、実在のモデルを題材にする時、またジャーナリズムの中で対象に取材する時、常に付きまとう問題だろう。被写体を自分本位で利用するのではなく、いかに誠実であるかが問われる。スミスの態度は最初はあくまでお客さん的で、あまり褒められたものではない(日常風景とは言え勝手にカメラ向けていいのか?というのはかなり気になった)。しかし水俣の状況を知っていくことで、彼の態度は変わっていく。それに伴い、ある一線を越えて踏み込むことを許されるのだ。スミスが見せる誠実さは、本作の題材に対する姿勢と重なってくる。もちろん実際に現地に住む人たちにとっては意に沿わない(もう蒸し返したくないという人もいるだろう)所もあるかもしれない。ただ、映画を作る側はそれも承知の上でこの題材に向き合い、事実を踏まえた上で間口の広い作品にするにはどうすればいいか、真摯に取り組んだのではないかと思う。そして誠実故に、日本映画でこれを出来なかったものかと若干辛くなるが。
 俳優の力を存分に見られる映画でもある。デップが「デップ」ではない状態で映画に出ているの久しぶりに見た。やはり高い技術がある俳優なんだなと再認識した。また、抗議運動のリーダー役の真田広之や、地元のカメラマン役の加瀬亮は佇まいに品があってとても良かった。モブの日本人キャストが、あの時代の日本人の顔をちゃんとしている所には唸った。こういう部分も製作側の題材に対する誠実さの表れではないかと思う。そしてチッソ社長役が國村隼であることで、奥行が出たと思う。単に悪役というわけではなく、あの時代・企業と国家の理論側に立つ人間がどういうものか、説得力がある。LIFE誌をいた後の間と顔のアップ、凡庸な俳優ではなかなか耐えられない所だと思うが、見事に間がもっている。


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