3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『未来よ、こんにちは』

 高校の哲学教師をしつつ、自著の執筆や教科書の編集にも携わっているナタリー(イザベル・ユペール)は、同じく教師の夫と暮らしている。2人の子供は独立し、仕事も充実していたが、夫から離婚を切り出される。また年老いた母の依存が強まり、施設に入れざるを得なくなる。監督はミア・ハンセン=ラブ。
 夫に離婚を切り出されたナタリーはびっくりするが、泣いたり騒いだりはしない。ただ、「死ぬまで一緒にいると思っていたのに」とつぶやく。離婚は彼女にとってショックなことではあるが、それはそれとして仕事も生活も続けていくという姿勢が好ましい。ユペールの佇まいがすごくいいというのもあるのだが、凹むことがあっても、時間がたてばちゃんと大丈夫になるし、自分を失うほどには心を乱されない人というのは、見ていて安心する。
 ナタリーは夫との離婚は冷静に乗り切ったように見えるが、それ以上に母親の老いに心を乱される。これは見ていて身につまされた。どちらが大変かで言ったら、母親の方が夫(元夫)より厄介だ。感情の揺さぶられ方も無意識に縛り付けられている度合いも、夫の比ではない。疎ましくもあるがやはり愛しているし愛されたい、そして母親が今の自分を作ったという自覚もある。だからこそ面倒なのだ。ナタリーと母親の関係は、若い頃からこんな調子だったんだろうと思わせるものでげんなりもするが、母が娘を誇りに思っていたこともよくわかるので、そこがやるせない。
 冒頭、ナタリーが出勤すると、高校でデモが起きており校舎に入れない。デモに参加している若者たちにこんな時に授業をやるのかとなじられると、彼女は「私は教師だから授業をする権利がある」と言い、授業を続ける。生徒に政治的スタンスを尋ねられても、授業でそれは話さないと言う。ナタリーがどのような姿勢で仕事をしているのかわかるエピソードが随所にあった。元教え子に、先生は哲学者としての思想と行動が一致していないと指摘されると、おそらく痛い所を突かれたという気持ちもあるにはあるのだろうが、「生徒が自分で考えられるようにするのが私の仕事。あなたに関しては成功した」と返す。彼女は学者である以前に気持ちの上では教師で、自分の仕事を愛している。こういう姿勢でいられる人は羨ましい。出版コンサルタントとのやりとりから、彼女の仕事のあり方も、時代の中で変わりつつあることも垣間見られるのだが、彼女を慕う生徒はこれからも出てくるだろうし、彼女が生徒や元生徒を家に招くこともあるんだろうなと。
 所で、エリック・ロメール監督の『緑の光線』の中で、ヴァカンスを一人ぼっちで過ごすなんて良くないと友人たちが主人公に世話を焼いてくれるが、フランスでは女性がヴァカンスを一人で過ごすことに、あまりいいイメージがないのかな?本作でも、元教え子はおそらくナタリーのことを心配して山に誘っているんだろうし。『緑の光線』の主人公は若い女性で、ナタリーは壮年であるという違いはあるが。

『未来を花束にして』

 1912年、ロンドンの洗濯工場で働くモード(キャリー・マリガン)は夫サニー(ベン・ウィショー)と幼い息子と暮らしていた。女性参政権運動活動家の同僚の代理として、公聴会で証言したモードは、自分達が置かれている環境に疑問を持ち始める。WSPU(女性社会政治同盟)のリーダー、エメリン・バンクハースト(メリル・ストリープ)の演説を聞いたモードは、活動に加わるようになる。監督はサラ・ガブロン。
 モードは最初、過激な政治活動には同意できず、公聴会でも渡された文面を読むだけのつもりだった。しかし、名前を名乗り話し始めると、彼女自身の生い立ちや暮らし、彼女の見聞きしてきたものが口からあふれ出す。妻でも母でも使い捨てられる労働力でもなく、自分はモードという1人の人間として語れるということに気付くシーンでもあったと思う。
 舞台となった当時、多くの女性には暴力をふるわれたり勝手に体を触られたりしたら怒って抵抗していいのだ、自分の体を他人に勝手に使わせてはならないのだという発想・概念が希薄だったのだろう(モードの職場では工場長がセクハラ、パワハラをしておりモードも少女時代に被害にあっていたことが示唆されるが、それに対して何か反抗するわけではない)。男性側は言うまでもなく、そういう概念は持っていないだろう。バンクハーストたちが女性の権利を唱えても、今までそういう概念がなかったものを提示しているので、話が通じないしそもそも相手に聞く気がない。法律の範疇で活動できるにこしたことはないが、法律自体が女性の権利という概念がない状態で作られたものであり、法律が守る人間の中に彼女らは往々にして含まれない。
 WSPUの運動には窓ガラスを割ったりポストを爆破したりという暴力的なものもあるのだが、聞く気がない相手に話を聞かせるにはガラスを割って暴動を起こし、怒りを示すくらいしか出来ない。まずは自分達にもそれぞれ発したい言葉がある、考えがあるとわからせる所から始めないと駄目なのか!とげんなりするが、それをやり続けた人たちがいるから、今の私たちの自由と権利があるわけだが。
 サニーはモードのことも息子のことも愛しているが、モードがWSPUの活動を始め自分の考えを隠さなくなると、彼女を追い出し息子を取りあげる(当時、離婚した場合女性に親権はなかったようだ)。モードがサニーの考える妻・母ではない面を見せることが、彼には我慢できないのだ。おそらく当時の平均的な男性像なのだろうと思うが、見ていると憎しみがつのるね・・・。

『皆さん、ごきげんよう』

 パリのアパート管理人(リュフュ)は古書を対価に武器の販売もしている。悪友の人類学者(アミラン・アミラナシビリ)は頭蓋骨収集が趣味。アパートにはローラースケートを履いてスリをしている姉妹や、県かばかりしている楽器職人夫婦がいた。近所にはのぞき見が趣味の警察署長(マチアス・ルング)やホームレスたちもいる。ホームレスを追いだす取り締まりにデモで対抗したり、不思議な庭に迷い込んだりと日常は時ににぎやかに、時にしんみりと続く。監督はオタール・イオセリアーニ。
 冒頭、貴族がギロチンにかけられる様を街の女性達が見物している。どうもフランス革命時らしい。そして現代の戦争に場面は移り、兵隊たちが村の家々から略奪していく。一切合財、片っ端から持ち去っていき、機械的ですらある。撃ち合いや爆撃はあり、爆炎などはそれなりに生々しいが、兵士の倒れ方はわざとらしく血も出ず、ちょっと舞台的風ですらある。これどういう話なの?と思っているうちに、現代のパリの住民たちのエピソードへと切り替わる。パリでのエピソードは概ねユーモラスで長閑な群像劇なのだが、時々不条理な力が襲いかかって彼らを脅かしたりもする。ホームレスの一斉摘発もそうだし、警察署長が何かと威信を振りかざすのもそうだ。アパート管理人たちはこういった「権威」による理不尽に強く反発する。彼らにとっては、権力により秩序が保たれることよりも、混沌としていても自由と平等があることの方が大切なのだ。時に良識を無視したりもするが、それぞれが好き勝手に生きていて、かつゆるい共同体みたいな雰囲気が出来ているところがいい。
 おじいちゃん2人のいちゃいちゃ感、ぶーぶーいいつつも連れだって出かけるケンカップル感が微笑ましいが、この人たちはもうこの場から去りゆく存在なのかなという寂しい後味があった。彼らの昔馴染みらしい裕福な女性も、遺言状を用意し自分の人生を店じまいしようとしている。その遺言状を届けられたアパート管理人は、破り捨ててしまうのだが。きれいな退場なんてして、させてたまるかという感じ。彼が生きるのは今ここ以外にない。だから、極楽浄土的な美しい庭園に心惹かれつつも、立ち去るのだ。

『ミューズ・アカデミー』

 ピント教授は現代のミューズ像を探るという「ミューズ・アカデミー」を開設する。享受の妻は「恋愛は詩がねつ造したもの」と言って夫のミューズ像を否定。生徒たちと議論するうち、愛や欲望も巻き込み彼らの関係も議論も変化していく。監督はホセ・ルイス・ゲリン。
 疑似ドキュメンタリー風の序盤なのだが、見ているうちにやはり明らかにフィクションであり、劇映画的な演出がされていることがわかってくる。特に音の編集の仕方(車内での会話が車の外でもよく聞こえるとか)で「フィクションですよ」という念押しをしている。しかし何よりフィクションだなーと思ったのは、ピントの講義の内容のうすっぺらさ、つまらなさだ。ミューズ云々はともかく、彼の言う「現代のミューズ」像がヘテロ男性にとっての女性像に留まっているところからして前時代的で(じゃあヘテロ女性の表現者やゲイ男性の表現者はどうなるんだということになる)、よくこの人大学で教えてるなと思うくらい。自分個人の性愛指向と、(一般的な)詩作におけるインスピレーションとをいっしょくたにして話すので、講義を真に受けるのがばからしくなってくる。もちろんゲリン監督はそのあたりはわかった上でピントにこういった言動をさせているのだろう。議論の進め方やかなり無理筋な時もある反論の仕方からしても、すごく頭がいいというわけではないという設定なのだろう。ピントは詩人としてそれなりの評価を得ているようだが、生身の女性に誘発されないと創作が進まない程度の才能ということか。
 聴講生の多くは女性なので、ミューズ像を女性に押し付けるかのようなピントの発言には反感を示す学生もいる。ピントのちょっとずれた講義によって、むしろ学生同士の話し合いは深まっていく。またピントの意図に反して全く別の方向に詩作のインスピレーションを感じ始める学生もいる。ピントの愛人は羊飼いの歌を研究しており、羊飼いの1人に異性としても強く惹かれる。羊飼いたちの歌は口頭伝承のようなので、彼はピントがあやつるようなレトリックや記述される為の言葉とは真逆の存在と言える。ピントが彼らの詩を否定するのも無理はないということか。
 恋愛はフィクションだと言っていたピントの妻が、あれこれいいつつもピントへの執着を自認してしまい、若い愛人をけん制するあたりは滑稽でもあるし、もの悲しくも、ちょっと怖くもある。いきなり話が形而下に戻ってきたな!

『三つ数えろ』

 「山田宏一セレクション ハワード・ホークス監督特集」にて鑑賞。1946年の作品。原作はレイモンド・チャンドラーの小説『大いなる眠り』。脚本はウィリアム・フォークナーら。フォークナーが脚本を手掛けてたというのは初めて知ったのだが、『大いなる眠り』ってこんなにとっ散らかった話だったっけ?ちょっと変な話だった記憶はあるのだが・・・。
 私立探偵のフィリップ・マーロウ(ハンフリー・ボガード)はスターンウッド将軍の屋敷を訪問する。将軍の二女カーメンがバクチで作った借金の督促を名目とした脅迫状が送られてきたのだ。脅迫の解決を依頼されたマーロウだが、長女ヴィヴィアン(ローレン・バコール)は、将軍の用心棒でマーロウとも旧知の仲だったリーガンの失踪絡みの依頼ではないかと探りを入れてくる。
 とにかく回りくどく、同じ場所を何度も行ったり来たりするような話で、ミステリとしてはあまり面白みはないだろう。ただ、マーロウが真顔で放つジョークや減らず口は、ぐだぐだ行ったり来たりする本作の構造には似合っている。マーロウを演じるのはボガードだが、38歳という年齢にはちょっと老けすぎている気もする。当時の38歳はこんなものだったのだろうか。また、ボガードは決して美形というわけでもスタイルがいいわけでもないのに、色男扱いされているし実際映画の中では色男に見えるあたりが面白いなと、彼の主演作を見ていると毎回思う。バコールはどう見てもクールな美女で、こちらは文句ないのだが。
 ボガードの完璧ではないルックスが、絶えず減らず口をたたき、自分の背の低さもジョークのネタにできる(しかし顔は真顔のままなので本気なのか冗談なのかわかりにくい!)余地を生んでいるのだろう。マーロウを美形俳優が演じたらキザすぎて見ていられないと思う。ボガードってユーモラスさをちゃんと出せる俳優だし、多分そういう扱いに抵抗はなかったんだなということも改めて認識した。
 話の筋はごちゃごちゃしており、3歩進んで2歩下がるような塩梅なので、ストーリーテリングが上手いとはお世辞にも言えない作品なのだが、セリフがユーモラスで洒落ているので間が持つ。また、マーロウが唯一「立派だ」と称する男の行動は、やはり立派で濃い陰影を残している。また、マーロウの価値観がわかる言葉でもあった。マーロウは自分を含め、本作に登場する男たちは立派とは言い難いと思っているのだろう。

『ミス・シェパードをお手本に』

 1970年代、劇作家のベネット(アレックス・ジェニングス)は北ロンドン、カムデンのとある通りに引っ越してくる。黄色い古ぼけたバンで生活しているミス・シェパード(マギー・スミス)もその通りにやってきて、やがてベネットの家の前に居ついてしまう。ミス・シェパードはプライドが高く時に理不尽、なぜかフランス語に堪能で音楽にも造詣が深く、しかし同時に音楽を嫌がってもいた。彼女とベネットの15年間にわたる交流を描く。原作はアラン・ベネットの実体験に基づく舞台劇で、本作ではベネットが脚本を担当。監督はニコラス・ハイトナー。
 「お手本に」って題名はちょっと趣旨と違う気がするが、彼女のわが道を行くところを見習ってみたいと言うことかな。ただ、ミス・シェパード本人も好んで「わが道」を行っているのかというとそうではなく、もうちょっと屈託があるように思った。自分で選んだ道ではあるし、自分のやり方でやり切るわけだが、そこに葛藤がないわけではないし、人に言えない辛さも抱えている。
 ミス・シェパードはある種の分裂した状態にいる人なのだと思う。若い頃に音楽と信仰との間で引き裂かれ、未だに上手いこと着地できていないように見える。彼女の長いお祈りは、過去に起こしたある事件のせいでもあるのだが、音楽を愛することへの後ろめたさからも生じているのだろう。若い彼女に司祭が言った言葉はちょっと許せない。人の魂を試すようなことを言うのはやめてよねと。
 ベネットもまた、分裂した状態にある。彼の場合は、生活者としての自分と、書く主体としての自分との間でだ。映像上も、ご丁寧にベネットは書き手と生活者と2人同時に現れるのだ。生活者としてミス・シェパードとやりあうベネットを、書き手としてのベネットは観察しながらいいぞもっとやれ、と思っているというような状態だ。そしてベネットは、ミス・シェパードを観察し、ネタにすることに罪悪感を感じている。彼は元々、自分の母親をネタにしたコメディを執筆しており、母親ではネタ切れだからミス・シェパードに目を付けたと言う面も否めないのだ。自分の生業、というか愛するものに対する罪悪感は、ミス・シェパードが抱え続けているものと似通っているかもしれない。
 ベネットは何かとミス・シェパードを気に掛けるが、周囲からは「親切ね」と評される。客観的に見ればベネットは十分親切な人なのだが、本人は惰性(そして前述のように多少の打算)だからだと言う。照れもあるだろうが、実際のところ、惰性に近いような関係の方が、毎度心を込めて行う親切よりも長続きするのではないだろうか。ベネットもミス・シェパードもまさか15年の付き合いになるとは思っていなかっただろう。ベネットはミス・シェパードの介護者ではないと自認しているし、実際、ヘルパー達のように躊躇ない触れ方、助け方は彼には出来ない。ベネットがミス・シェパードの人生について知ったことは、彼女の口からではなく後々になってから知ったことだと言う。あくまで隣人なのだ。
 作中時間の経過をあまり感じさせない作品なのだが、ベネットの家に出入りする人の出入りの仕方が明らかに変わったラスト、ああそういう時代になったし、ベネット本人もそういう気持ちになったんだなと、ちょっと感慨深くなった。

『ミュータント・ニンジャ・タートルズ影(シャドウ)』

 犯罪組織フット団のボス・シュレッダー(ブライアン・ティー)を倒し無事刑務所送りにした、レオナルド、ラファエル、ミケランジェロ、ドナテロの4兄弟。しかしシュレッダーは科学者のバクスター・ストックマン(タイラー・ペリー)の協力でまんまと脱獄。ストックマンの発明を利用して、強大な力を手に入れようともくろむ。エイプリル(ミーガン・フォックス)とタートルズはシュレッダーの計画を阻止しようとするが、世界征服をたくらむ異次元の帝王・クランゲもまた動き始めていた。監督はデイヴ・グリーン、製作はマイケル・ベイ。
 亀が突然変異したヒーロー4兄弟がニューヨークで活躍する、『ミュータント・タートルズ』の続編。マイケル・ベイは製作に徹した方がいい作品を作るのではないか。少なくとも、自分で監督した作品よりは全然コンパクトでまとまりがいい。1作目のアクションのキレがよかったので続編も見てみたのだが、冒頭のスタジアムの天井から秘密基地までの移動の流れが気持ちいい。ここは3Dで見たらより楽しかったかも。基本的につるべ落とし的にイベントが発生してどんどん話が進む、かつ込み入った話が全然ないので、見ていてとっても気楽。
 ただ、序盤以降のアクションは割と予想の範疇内というか、1作目ほどのキレのよさは感じなかった。こちらの目が慣れてしまったからというのもあるだろう。また、ストーリー面でもクランゲの存在が唐突に投入されてきたり(シュレッダーが動じなさすぎで笑った)、ドナテロのコンピューターが万能すぎだったりという、突っ込み所がより増えている。元々ユルい、突っ込み上等な作品だとは思うが(何しろ亀が忍者だし)、1作目では彼らの出自やエイプリルとの絆など、ドラマ面でもそれなりに見せ場があった。今回はそこが弱いかなと思う。お約束である兄弟げんかにしても、1作目の焼き直し(というか1作目であれだけやってまだ学習していないのかラファ!)感が否めない。とは言え、4兄弟は相変わらずかわいいいし、レオナルドの「長男は辛いよ」感がさらに増していて、キャラクターものとしては外さないし楽しい。弟が全員自由奔放で空気読まないと、お兄ちゃん辛いよね・・・。
 なお、タートルズが人間になりたがっている、というのも唐突な気がした。人間の若者の文化に憧れている描写は1作目でもあったが、それと人間になりたいのとでは大分違うと思うけど。

『ミモザの島に消えた母』

 30年前、休暇を過ごしていた島でまだ若かった母親を亡くしたアントン(ローラン・ラフィット)は、40歳になっても喪失感に苛まれていた。カウンセラーからは父親と話し合えと言われるが、父親も祖母も母の死については口を閉ざす。アントンは妹アガッタ(メラニー・ロラン)と共に島を訪れ、当時の母親のことを知ろうとする。原作は『サラの鍵』のタチアナ・ド・ロネの小説。監督はフランソワ・ファヴラ。
 子供の時に残ってしまった心の傷やもやもやは、その時に適切な処置をしておかないと後々の禍根になるものだとしみじみ感じた。母の死の真相に執着するアントンに対して継母が「時間が癒す」と言葉をかけるシーンがある。時間が解決することももちろん多々あるだろうが、その反対のケースも結構多いのではないかと思う。時間と共に浸食し、気力体力が衰えてくる年齢になってから一気に体を蝕んでくる傷もあるのだ。離婚した元妻や娘たち、また仕事のしがらみで悩むアントンの苦しさは中年の危機とも言えるし、それは子供時代と切り離されたものではないってことでもあるのでは。死ぬまで子供時代が追いかけてくるのかと思うと、なかなかきついものがあるが。
 アントンは父親と仲が決裂しているというわけではないが、良好とも言えずに他人行儀さが否めない。彼の振る舞いは時に子供っぽい。悪気はなくとも、相手の気持ちを配慮する余裕がなく、いつも自分のことでいっぱいいっぱいなように見える(クリスマスだか大晦日だかのパーティーでのある振る舞いには、それが許されるのは名探偵だけだよ!と突っ込みたくなった)。冒頭、車中でのアガッタの横顔は妙に少女めいて見えるのにもはっとした。彼らは大人としてどう振舞っていいのか今一つ掴みあぐねているようだ。身近な「大人」としては母親が居なくても父親や祖母がいるわけだが、母親が死亡した時の2人の振る舞いは、兄妹にとっては「大人」に対する不信感を招くものだったのかもしれない。アントンは母の死以来、父親との距離を埋められず、アガッタは何もなかったように振舞っている。もし、母親が死んだ時の大人たちの対応が(真相を伏せたとしても)もっと違うものだったら、アントンはここまで母親の死に方に拘らなかったかもしれない。
 アントンの実家は裕福で父親も祖母も教養豊かないわゆる「いい家」(なので庶民の母は馴染めなかった)なのだが、アントン自身が親和性を感じる文化はそれとは違うということが、ちらちらと見えるのが面白かった。彼にとってのいい「パーティー」は、ビール片手に音楽をかけて踊りまくるような、もっと気楽なものなんだろう。彼が自分でそういう雰囲気の家庭を作っていく可能性が見えるところにほっとした。それは母親にはできなかったことだから。


『ミスター・ダイナマイト ファンクの帝王ジェームス・ブラウン』

 “ファンクの帝王”と呼ばれるジェームス・ブラウンの全盛期に至る活動、そしてビジネスマンとして、黒人の権利を求める活動家としての顔に迫ったドキュメンタリー。監督はアレックス・ギブニー、プロデュースはミック・ジャガー。ミックは自身も本作中に登場し、JBとのエピソードを語っている。
 JBの権利を管理する、ジェームス・ブラウン・エステート所蔵の資料を自由に見られる権利を得て製作された映画だそうで、貴重であろう映像が多々見られる。特に当時のTV音楽番組の映像はインパクトがある。ミック・ジャガーも現場にいた(同じ番組の収録の為、順番待ちをしていたらしい)そうだが、JBのパフォーマンスの切れ味が鋭すぎ、全く色あせていない。これは一度見たら忘れられないし、そりゃあ熱狂しちゃうよな!と納得せざるを得ないのだ。ローリング・ストーンズはJBの後で収録したそうだが、ミック本人が当時の自分達の映像を見て、「(JBのステージを見たら)そりゃあ、「ローリングストーンズ?悪くないけど・・・」ってなっちゃうよな」と苦笑するくらい熱量がすごい。何でも、JBは自分が番組のトリでないことにご立腹で、観客全員打ちのめすステージを見せてやる!という息込みだったそうだ。やはりこの人はパフォーマーとしてすごく優れていたんだなと納得する。ファンクの帝王の名は伊達ではなかった。
 また、JBを支えるバンドの技術の凄さ、JBの音楽には彼のバンドが果たした役割がすごく大きいという所にちゃんと言及しているところも面白かった。JBは音楽を専門的に学んだわけではないので、彼の意図するところをくみ取るのは大変だったそうだが、それができるくらいの技量を持ったバンドだったのだ。JBは天才肌だから他人が出来ない、わからないということがわからず、なぜここまで登ってこないんだ!くらいの気持ちだったようだから、それについていくのは至難の業だったろう。ただ、お金の面でもJBは一緒に仕事をするのがかなり大変な人で、給料の遅配もしばしばだったそうだ。良くも悪くも王様なのだ。バンドメンバーの一人が、自分はJBを好きだったが彼に伝えたことはない、好意が伝われば弱みを見せたことになり利用されるから、と話すのが印象に残った。両親に捨てられたという育ち方から、他人を信用しない人だったそうだ。
 なお本作を見ると、JBの伝記映画『ジェームス・ブラウン 最高の魂を持つ男』は本当に良くできていたんだなー!ということを実感できるので、合わせておすすめ。バンドメンバーとの確執や彼の孤独は、ドラマである『ジェームス~』の方がより伝わってくるかもしれない。

『緑の光線』

 エリック・ロメール監督特集上映「ロメールと女たち」にて鑑賞。1987年の作品。秘書として働くデルフィーヌ(マリー・リヴィエール)は、女友達にギリシア旅行をキャンセルされ、ヴァカンスを1人で過ごす羽目に。友人たちに誘われて彼らのヴァカンスに便乗したり、知り合いの部屋を借りたりするが、今一つ楽しめない。友人たちは彼女に「独りでいちゃだめ」「恋人を作れ」というが、恋愛に対する理想が高いデルフィーヌは、旅先で男性との出会いがあってもつい距離を置いてしまう。
 デルフィーヌは、周囲の人たちからしたら、おそらく少々面倒くさい人だ。様々なことを軽く受け流せず、特に自分の主義主張はついいちいち説明してしまう。親しい友人同士だったら(本作で女友達らと喧々諤々やりあうように)それもコミュニケーションの一環で気まずくはならないが、さほど親しくない間柄では、一方的に主義主張を説明されても、相手は困るだろう。食事シーンでデルフィーヌが肉を食べないと言い始めるエピソードでは、他の人はおいしく肉を食べているので、見ているこっちがハラハラするが、あーこういうことってあるなぁ私もやっちゃうなぁと苦くもあった。
 デルフィーヌは我儘なわけではなく、妙に真面目で誤解されないようにとつい説明しすぎてしまうのだろう。往々にして、相手はそこまで理由を知りたいわけではない、その話題は軽く流してくれればそれでいいと思っているものだが・・・。またヴァカンス先で親しくなった女性と共にナンパされると、連れの女性と男性は他愛のないやりとりで盛り上がっているが、デルフィーヌはそのノリについていけず、飛び出してしまう。「ここはこういう流れだから合わせてね」みたいなものに、自分を上手く合わせられないようで、自分も身に覚えがあるので、なかなかに身に染みた。
 とは言え、彼女に一人でいない方がいいとか恋人を早く作らないとと急かす周囲も、それはそれで大きなお世話だろう。デルフィーヌは1人でヴァカンスなんてとがっかりしているが、積極的に次の恋人を探すわけでもない。出会うなら運命的な出会いがしたい、等というと子供っぽいが、そういうことを考えられるということは、差し迫った問題ではないのだ。ナンパに心動かされないのも、こんな出会いではちょっとね、という気持ちもあるだろう。1人で観光地にいることにいたたまれなくなる気弱さと、自分の主義を曲げない頑固さを併せ持つデルフィーヌは、面倒臭いがかわいい。彼女を見ているうちに、応援したくなる。

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