3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『政と源』

三浦しをん著
つまみ細工の簪職人の源二郎と元銀行員の国政は幼馴染。2人の年齢を合わせて146歳になる長年の付き合いだ。弟子やその恋人がひっきりなしに出入りし賑やかに暮らす源二郎と、妻が娘夫婦の家に行き目下一人暮らしの国政は、身近な人たちのちょっとしたトラブルに関わり合っていく。
おじいちゃんブロマンスだが、さすが著者というべきかツボを押さえており危なげがない。源二郎と国政は性格も価値観も、暮らし方も対称的で一見反りが合わなさそうだ。しかしなぜか馬が合い、お互いの違いも尊重している。頻繁にお互い行き来しているわりには、内面には立ち入らない所があるのは、友情の折り目正しさというか、親友でも他人であるという距離感を弁えているからだろう。そして夫婦もまた他人である。国政と妻との人生終盤になってからの軋轢、というか軋轢があることに国政が全く気付かない所は、「あるある」感抜群なのだが、家族だからという安心感に甘えてきたつけが回ってきたと言うことなのだ。そもそもそれが甘えだと気付いていない所が厄介なんだけど・・・。全般的に源二郎の造形の方がファンタジー寄りで国政の方が実体感あるのだが、自分の身近にどちらのタイプが多いかで見え方が変わってきそう。
政と源 (集英社オレンジ文庫)
三浦 しをん
集英社
2017-06-22


ぐるぐる♡博物館
三浦 しをん
実業之日本社
2017-06-16




『マッド・メアリー』

 第26回レインボー・リール東京~東京国際レズビアン&ゲイ映画祭にて鑑賞。暴行事件を起こして半年間服役していたメアリーは、刑務所を出て地元に戻ってきた。親友のシャーリーンが結婚式を控えており、メアリーがブライズメイドを務めることになったのだ。式に同伴する相手がいないメアリーは、同伴者探しに奔走するが、うまくいかない。そんな中で、シャーリーンの結婚式の撮影を依頼されたカメラマンのジェスと親しくなる。監督はダレン・ソーントン。
 思わず、「友がみなわれよりえらく見ゆる日よ」と呟きそうになった。しかしメアリーには「花を買い来て」親しみあうような相手もいないのだ!周囲に置いていかれる、自分だけがちゃんとした大人になれていないのではないかというきつさが、我がことのように身に染みてしょうがない。メアリーはバカ騒ぎをしていた学生時代と変わらないままだが、シャーリーンは確実にステップアップし、条件のいい結婚相手を見つけ、社会的な「大人」になっている。身にまとうファッションからして、ああ違う世界の人になったのね、というもので、メアリーとの共通項が見えない。メアリーがバカにしていた同級生すら、結婚式に同伴するパートナーがおり、彼女らから見れば落ちこぼれなのはメアリーの方なのだ。メアリーは必ずしも彼女らのようになりたいというわけではないだろう。ただ、かつて親友だったシャーリーンが別の世界に行ってしまったことが辛いのだ。
 しかしそもそも、メアリーとシャーリーンは同じ世界を分かち合っていたのか、本当に親友だったのか。メアリーは度々シャーリーンに電話をするが、シャーリーンが出ることはないし会ったときの態度もつれない。メアリーが延々と片思いしているようにしか見えないのだ。徐々に、シャーリーンにはシャーリーンが選び取った生活があり、彼女の中ではメアリーとの関係は既に(概ねメアリーが起こした事件のせいで)過去のものになっているとわかってはくる。しかし、片思いを終わらせられないメアリーの右往左往は痛々しい。
 そんなメアリーに新しい世界を見せることになるのがジェスだが、ある出来事で心が離れてしまう。メアリーがやったある行為は、シャーリーンらに「見せつける」ためのもので、ジェスはそれに利用されたと感じるのだ。メアリーのジェスに対する気持ちに嘘はないのだろうが、それでもつい「見せつけ」てしまうくらい、シャーリーン(と地元)に対する鬱屈があるんだろうなぁ・・・。その気持ちはちょっとわかる。自分を変えない頑固さがある一方で、自分は自分、と開き直れる程には強くなれずずっと劣等感が付きまとう。それでも最後は、メアリーは譲歩したんだろうなと思う。結婚式でのレトロな髪形とドレスは彼女にとても似合っていて、こんな雰囲気にもなる人なんだ!とはっとした。本人としては、自分っぽくないと思っているのかもしれないけど。

ワールズ・エンド/酔っぱらいが世界を救う! [DVD]
サイモン・ペッグ
NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン
2015-04-08


ヤング≒アダルト [DVD]
シャーリーズ・セロン
パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン
2013-02-08





『マンチェスター・バイ・ザ・シー』

 ボストンでマンションの便利屋をしているリー(ケイシー・アフレック)は兄ジョー(カイル・チャンドラー)の死を知らされる。故郷のマンチェスター・バイ・ザ・シーに戻ったリーは、ジョーの遺言により16歳の甥パトリック(ルーカス・ヘッジズ)の後見人を任されるが、この町に留まることはリーにとっては苦痛だった。監督・脚本はケネス・ロナーガン。本作で第89回アカデミー賞作品賞、脚本章、主演男優賞受賞作品。
 故郷で過去の傷を癒し立ち直っていくという物語は多々あるだろう。しかし、癒えることがない傷もある。リーにとっては、少なくともまだ、故郷の街は立ち直って旅立つ場ではないのだ。回復していく部分と立ち直れなさの両方を丁寧に描いている。過去と現在、時系列が頻繁に行ったり来たりするうちに、リーと元妻ランディ(ミシェル・ウィリアムズ)の家庭に何が起きたのか、少しずつわかってくる。事態がはっきりすると、確かにこれは、この町に留まり続けろというのは酷だよなぁと納得できる。小さな町で住民同士ほぼ顔なじみみたいなものなので、彼らの身に起きたことを住民皆が知っており、忘れさせてくれないというのが非常にきつい。もちろん親身になって支えてくれる人もいるのだが、内情を知っているだけに良く思わない人もいる。田舎町の暖かさと残酷さの両方が垣間見える。
 こういう時は、とにかく時間をかけてやり過ごせるようになるのを待つか、物理的な距離を置くか、リーのように自分の人生そのものを放棄するような生活を送るしかないのかもしれない。便利屋をするリーの暮らしはこの先の目途のつかない、刹那的なものだ。理由もなく他人に喧嘩を吹っ掛ける姿は、緩慢な自殺をしているようにも見える。ジョーの遺言はそんな彼をもう一度前に進める為だったのかもしれないが、同時に残酷でもあると思う。ずっと故郷に縛り付けることにもなるのだから。しかし当時幼かったパトリックには、リーの苦しみは本当にはわからず、自分がまた捨てられるのではないかと不安に駆られる。そういうことではないのだが、すれ違いがもどかしい。
 リーとジョー、そして(幼かった頃の)パトリックの、男性同士の絆が強すぎ、妻たちはそこから疎外されいてるように見えた。リーは妻子を愛してはいるが、兄や甥、漁師仲間と一緒にいる方がはしゃいでいる。「男の子」の世界から離れられないみたいだった。リーとランディはある事件が起きなくてもいずれ夫婦関係が壊れていったのではないかと、序盤の2人のシーンを見て何となく思った。リーの配慮の足りなさがそこかしこに見られるのだ。

『マイ・ビューティフル・ガーデン』

 毎日自分のルールに則った規則正しい生活をしているベラ・ブラウン(ジェシカ・ブラウン・フィンドレイ)は、生き物が苦手。庭付きのアパートに住んでいるが植物の手入れは出来ず庭は荒れ放題だった。庭を愛する隣人のアルフィー・スティーヴンソン(トム・ウィルキンソン)は荒れたベラの庭が気に入らない。ある日、不動産会社から庭をきれいにしなければ退去させると言い渡されたベラは、アルフィーに助けを求める。監督はサイモン・アバウド。
 とても可愛らしく愛らしい作品。いわゆる名作秀作というわけではないが、ほっとする。アルフィーの庭が美しく(室内の観葉植物もいい)、ベラと同じく庭仕事興味がない私も楽しく見た。また、イギリス映画なのにと言っては語弊があるが、食事がちゃんとヘルシーそうかつおいしそう!アルフィーに雇われていたものの喧嘩別れをしてベラに雇われるシェフ・ヴァーノン(アンドリュー・スコット)が作る料理がカラフルで食べやすそう。ベラのいつもの食事は缶詰なのだが、徐々にヴァーノンの料理を食べるようになる様も可愛らしい。
 ベラはちょっと発達障害ぽい人で、『ザ・コンサルタント』のベン・アフレックを思い出した。決まった時間に決まった行動をしないと落ち着かず、料理の盛り付けも左右対称、同じ形の洋服を複数用意し着まわす等、行動パターンには類似が多い。もっとも、ベラは他人とのコミュニケーションは意外とちゃんと取れているし、冗談も言えるし、自分で小説を書くような創造性もある。ちょっと風変わりで、その風変りな部分が自分自身を窮屈にしていると言った方がいいかもしれない。
 庭造りの中で土や植物「無秩序」と接するうち、彼女が思う秩序とはまた違った形の秩序や美があることにベラは気付き、少しずつ心も行動もリラックスしていく。前述した食事の変化もその一つだが、家を出るときの一連の動作の変化も印象的だった。彼女は玄関がちゃんと施錠されたか心配するあまり、チェックしすぎて毎日仕事に遅刻してしまうのだが、ある時ぱっと飛び出ていく。理由も行動も他愛ないものなのだが、彼女の中では大きな変化なのではっとする。
 おとぎ話的な作品ではあるが、出演者が皆チャーミングで(基本悪人がいないし)気分よく見られた。ベラ役のフィンドレイは、ロセッティの女性像のような風貌で、レトロな服装が良く似合う。ちなみに舞台は現代なのだが、ベラの服装が妙にレトロなのだ。

『マリアンヌ』

 1942年、秘密諜報員のマックス(ブラッド・ピット)はカサブランカに潜入。現地でフランスのレジスタンスであるマリアンヌ(マリオン・コティヤール)と夫婦を装ってあるミッションを遂行する。2人は恋に落ち結婚、ロンドンで暮らすようになり、娘も生まれた。しかしマリアンヌにある疑惑がかけられる。監督はロバート・ゼメキス。
 まさかここまで古めかしいメロドラマのルックスをしているとは。それがいい・悪いというのではなく、意外だった。本作、最初の舞台が「カサブランカ」なあたりにしろ主演2人の選出にしろ、往年のハリウッドのスター映画のオマージュという側面を持っていると思うのだが、そのスター感、クラシカルな佇まいと脚本と監督の作風とが、いまひとつマッチしていないように思う。私はゼメキス監督作にはあまり明るくないのであくまでそういう印象だということだが・・・(ゼメキスに対してはずっと苦手意識があったが『フライト』で和解いたしました)。
 妻は自分が見てきた妻のままなのかという疑いを夫が猜疑心に苛まれつつ晴らそうとする話なのだが、その疑いが出てくるタイミングが大分遅い。疑惑が生じてからも、マックスの右往左往が続きいまひとつ起伏に欠ける。マリアンヌが、自分が思ってきたような彼女である、愛して結婚したような彼女であると果たして断言できるのか、というサスペンスがあるはずなのだが、その揺らぎみたいなものもぼんやりとしている。ブラッド・ピットがぼんやりと胡乱な顔をしているというのも(そういう演出なのだと思うが)一因だが、ストーリーテリングの焦点が合っていないんじゃないかなという気がした。本来、マリアンヌが何者かという部分より、マックスが何を信じ何に賭けるかという、彼の内面の問題の方が主になる物語なのではないか。
 物語はほぼ一貫してマックスの視点で進む。マリアンヌは美しく快活で機転がきく、魅力的な人だ。マックスはあまり社交的ではなく、仕事上「夫婦」としてパーティーに出るのも気が重そう。人の輪の中で魅力を発揮するマリアンヌとは対称的だが、彼女の人当たりの良さと如才なさは彼にはないもので、いいコンビなのだ。彼女は任務中でも「感情には嘘がない」と言う。また出産時には「あなたが見ている私が私自身」とマックスに話す。終始、マックスの前で彼女がどういう人だったのか、彼女のこの言葉、彼女に対して自分が感じたことをマックスが信じ続けることができるのかという話なのだ。
 ちょっと冗長に感じたが、ああ映画だな!とはっとするシーンがいくつかあった(これは監督であるゼメキスの趣味か)。冒頭、マックスの足が映りこむところと、結婚式から出産への場面転換はドラマティック。この2か所で、すごく映画見たなという気分になった。

『マグニフィセント・セブン』

 利益の為なら手段を選ばない悪漢バーソロミュー・ボーグ(ピーター・サースガード)に支配されたローズ・クリークの町。夫をボーグに殺されたエマ・カレン(ヘイリー・ベネット)は賞金稼ぎのサム(デンゼル・ワシントン)に用心棒を依頼する。サムが集めた仲間は、ギャンブラーのジョシュ(クリス・プラット)、スナイパーのグッドナイト(イーサン・ホーク)、グッドナイトの相棒で暗殺者のビリー(イ・ビョンホン)、ハンターのジャック(ヴィンセント・ドノフリオ)、流れ者のメキシコ人ヴァスケス(マヌエル・ガルシア=ルルフォ)、アメリカ先住民族の戦士レッドハーベスト(マーティン・センズメアー)。7人のガンマンたちは町を守る為、多勢に無勢の闘いに挑む。監督はアントワーン・フークア。
 『七人の侍』『荒野の七人』のリメイクだが、黒人、更に東洋人やメキシコ人、フランス系カナダ人、ネイティブアメリカン等民族が入り混じっている所は現代的だし、今リメイクするならこうだろうな、という(歴史的考証は別として)納得感はある。サムがリーダーであったり、レッドハーベストを意外と皆フラットに受け入れている所など、あまりシビアな時代考証はしないからね、そういう作品だからね、という目配せのようでもある。また、グッドナイトはビリーに対して「白人のルールを教えてやった」と言うが、彼とのパートナーシップはフェアであるように見えるし親密そうでもある。サムが馬に乗って町に入った時に町民が一瞬固まったり、酒場の人達があからさまに嫌な顔をしたりというシーンもあるのだが(南北戦争の話も出てくるし)、ひどく迫害される描写はない。
 脚本はそんなに精緻ではない、というかとにかくキャラクターを揃えて後は銃撃、爆破、銃撃で転がしていく感じの大雑把さ。しかし主演の7人が出そろった様を見ると、もうこれでいいんだなという気分になってくる。特にデンゼル・ワシントンのデンゼル・ワシントン力がさく裂しているというか、「悪い奴絶対殺すマン」としての説得力がありすぎる。全然死にそうな感じがしないので最早卑怯なレベルだし、(弱者の側に立つ)正義のアイコン的である。彼にボーグを倒す個人的な理由がある所は『七人の侍』や『荒野の七人』と異なるが、デンゼル・ワシントンが演じたからこの理由が付随してきたようにも思う。「やった方は忘れてもやられた側は絶対忘れない、許されると思うな」というスタンスに説得力があるのだ。
 他の出演者でも、イ・ビョンホン演じるビリーのナイフを使ったアクションがやたらとかっこよかったり、相棒であるグッドナイトの弱弱しさと哀愁がイーサン・ホークのお家芸的だったり、ドノフリオ演じるジャックのちょっとクレイジーな強さだが女性に対しては紳士的(おそらくこの7人の中で最も紳士的)な所がチャーミングだったりと、キャラクターと俳優のはめ込み方がよかった。そしてとにかく全員セクシーである。いやーフークアいい趣味してるな!撮影楽しかっただろうな!ストーリーや全体の構成は正直大分ゆるいと思うが、出演者が魅力的なのと、抗争シーンにガンマンの対決というよりも戦争映画的な迫力があって、許せてしまう。
 何より、町を代表して戦いに挑むエマの佇まいがいい。『七人の侍』でも『荒野の七人』でも特定の女性が存在感を示すことはなかったので、これも今のリメイクならではの演出か。最後も、これは彼女の、彼女の町の闘いなのだと明確に示すものだったと思う。

『マギーズ・プラン 幸せのあとしまつ』

 大学に勤めるマギー(グレタ・ガーウィグ)は既婚の文化人類学者ジョン(イーサン・ホーク)と恋に落ちる。ジョンは妻ジョーゼット(ジュリアン・ムーア)と離婚し、マギーと再婚。ジョンとジョーゼットの子供達は双方で面倒を見ることになった。ジョンとの間に子供が生まれ幸せを満喫していたマギーだが、大学を辞めて小説家を目指すジョンと暮らすうち、将来に不安を抱くようになる。子供の世話を通じてジョーゼットと親しくなったマギーは、彼女がまだジョンを愛していると知り、夫と前妻に返すという計画を思いつく。監督はレベッカ・ミラー。
 マギーにしろジョンにしろジョーゼットにしろ、我儘と言えば我儘に見えるかもしれないが、迷走はするものの最終的には自分のやりたいようにやる、自分本位の人生を生きることにするという所がとても良かった。自分本位というとちょっと語弊があるかもしれないけど、自分の人生の主役は自分である、というところがしっかりしているので見ていて安心できるのだ。あまり常識とされていることとか世間体とかを気にしないところがいい。大事なのは自分がどう考えているかだ。
 マギーはジョーゼットに言わせると「邪気がない」。悪意や損得はあまり感じられない人なのだ。しかし同時に、独自の合理性に基づき行動しているように見えるので、ともすると利己的と思われそうでもある。自分にとっての最適解が他の人にも適応するとは限らないことをたまに忘れてしまう人という感じなので、だから周囲が怒ったり呆れられたりするんだろうけど、心底嫌われることはなさそうだ。何か、人間として魅力的な所があるし、本人はとても真面目なのだ。それはジョーゼットに関しても同様だ。ジョーゼットの方がよりわかりやすく我儘かもしれないが。
 一方、ジョンの自分の都合のいいように解釈する傾向と、人のせいにしがちな傾向にはイラっとする。ジョーゼットと暮らしていた頃は彼女や子供の世話が重石になっていたが、何でもよくできるマギーと暮らし始めると、甘えが一気に出てくる。そりゃあ別れたくもなるな・・・。甘ったれではあるが、実は世話をする立場になっている方が物事がうまく回るタイプの人なんだろうな。イーサン・ホークは私にとってイラっとするタイプの男性を演じることが多い(というか殆どそう)のだが、本作も同様だった。

『MILES AHEAD マイルス・デイヴィス空白の5年間』

 1970年代後半の約5年間、ジャズミュージシャンのマイルス・デイヴィス(ドン・チードル)は音楽シーンから姿を消していた。慢性の腰痛に苦しみ、酒とドラッグに溺れていたのだ。そんな彼の元に雑誌記者デイヴ・ブレイデン(ユアン・マクレガー)が押しかけてくる。マイルズはブレイデンを巻き込み、盗まれた自分の新作テープを取り戻し行く。監督・主演はドン・チードル。
 ドン・チードルが執念で完成させたマイルス・デイヴィスの伝記的映画・・・ではあるが、これ決して事実を映画化したという意味での伝記映画ではないだろう。むしろ、チードルがマイルスを好きすぎて、俺が思うマイルスの5年間はこんな感じだ!むしろ俺がマイルスになりたい!くらいの気持ちでやらかしてしまったファンフィクション的な作品(と言ったら怒られそうだがチードル思い入れはそのくらいあると思うの・・・)といった味わい。部分部分に事実を元にしたエピソードは使われていると思うのだが、概ねフィクションと思った方がよさそうだ。何しろマイルズがいきなり ギャングと撃ちあいカーチェイスを始めるんだからびっくりしたよ・・・。
とは言え、マイルズがことあるごとにフラッシュバックのように過去を思い出し、回想の中で妻との愛とその破綻が見えてくるという構造は切なさを感じさせ悪くなかったし、過去と現在が混然一体となり、幻想が具体化したかのようなボクシング試合のシーンは印象に残った。彼の頭の中ではこんな具合にぜんぶごちゃごちゃになっているんだろうなと。
 どちらかというと珍品的な作品だと思うのだが、音楽はさすがにいい(ロバート・グラスパーがサントラ担当、ライブシーンにはハービー・ハンコックやウェイン・ショーターが参加)。チードルの気合入りまくったなりきり振りも、見ているうちに段々愉快な気持ちになってくる。そしてなぜか出演しているユアン・マクレガーだが、最近の彼は大体巻き込まれ役を演じている気がするしそれがはまっている。

『マダム・フローレンス!夢見るふたり』

 第二次世界大戦中、1944年のニューヨーク。音楽家たちのパトロンとして名の知られたマダム・フローレンスことフローレンス・フォスター・ジェンキンス(メリル・ストリープ)は歌手になることを夢見続けて内輪でのコンサート等をひらいていたが、実は大変な音痴。しかし自分ではそれに気づいていなかった。夫のシンクレア(ヒュー・グラント)は妻に夢を見せ続ける為にマスコミやショービズ界を買収し彼女を賞賛する記事のみ書かせていたのだ。しかしフローレンスはカーネギーホールでリサイタルを開くと言いだす。監督はスティーブン・フリアーズ。
 フローレンスは実在の人物で、1944年にカーネギーホールで行われたコンサートは今でも伝説として語り継がれているそうだ。フリアーズ監督はここ数年、実話を元にした映画をよく手掛けているが、本作も同様。手際のいい手堅いコメディになっているが、随所で不思議な奥行があり陰影が深い。同じネタを使った(フローレンスをモデルとしたフィクション)フランス映画で『偉大なるマルグリット』(グザヴィエ・ジャノリ監督)があったが、どちらもいい作品だと思う。方向性は違うが、どちらも一様でない見方が出来る作品として、余韻が深かった。
 フローレンスの物語のようでいて、実は夫であるシンクレアの物語としての側面の方が印象に残った。サブタイトルの「夢見るふたり」はちょっとロマンティックすぎないかなと思っていたが、本当に2人で夢を見た話だったんだなと腑に落ちた。金に糸目を付けずに、妻が音痴であることを本人からも隠し続け、歌手として舞台に立たせたシンクレアの行為は、フローレンスを馬鹿にしているようなものでもあり、音楽に対して不誠実とも言える。実際、作中で記者が彼のことを批判する。しかし彼の言動を見ていると、音楽に対してはともかく、妻に対しては決して馬鹿にしているわけではなく、彼女の望みを叶えたいとは本気で思っていたのだろうと思えるのだ。シンクレアには愛人がおり、愛人を住まわせているアパートの費用はフローレンス持ち、愛人ともまあまあ円満というちゃっかりさなのだが、フローレンスへの愛にも嘘はない(フローレンスが相続している財産目当てとも考えられるが、その財産切り崩して妻に夢を見せているわけだから本末転倒だろう)。フローレンスとシンクレアに限ったことでなく、当事者同士にしかわからない愛のあり方がある、というより愛のあり方は大体そういうものだろう。2人で夢を見ることが、この人たちの愛だったのではないか。
 ところでフローレンスは自分が音痴だということを本当に知らなかったのだろうか。子供の頃は天才少女ピアニストとしてホワイトハウスで演奏したこともあったとのことなので、本来は優れた音感があったのは確かだろう。本来あった音感が病気の後遺症でねじ曲がってしまったというわけだ。度合いはわからないが、ねじまがっているということは分かる、分かっていて修正しようとするから珍妙な歌声になる(歌を聞くと、それほど大幅にずれていない部分もあるので)のかなとも思った。ストリープのショックを受ける演技が巧みすぎるので、自覚がなかったんだという方向でに見えるのだが、音痴を承知でシンクレアの「嘘」に乗ったとも思える。
 ところで、記者が指摘した「音楽に対する冒涜」というのも、案外そうでもないかもなという気がした。フローレンスは音痴だが音楽を心底愛しており、音楽で人を楽しませようとする。その気持ち自体は音楽を冒涜するものではなくむしろ逆だろう。だからコール・ポーターもカーネギーに来たんじゃないかな。
 なお私はメリル・ストリープが苦手なのだが、間違いなく上手いことは良くわかる。ストリープはミュージカル映画に主演できるくらい歌が上手いのに、ちゃんと音痴の歌い方になっているし、表情の説得力がありすぎてねじ伏せられる感じ。また、ヒュー・グラントが素晴らしい。口八丁手八丁な男にはまりすぎている。打ち上げパーティーでぱっと踊りだす姿にはしびれた。

『まなざしと微笑』

 ケン・ローチ初期傑作選にて鑑賞。1981年作品。イギリス北部の鉄鋼の町シェフィールド。高校を卒業したミックとアランは就職先が見つからない。職業紹介所に通っても職がなく、失業手当をもらう為に列に並ぶ毎日。やがてミックは靴屋の店員をしている少女と親しくなり、アランは食べるために軍に入る。
 不景気な背景だが、ボーイ・ミーツ・ガールな青春ものとしての側面も強い。ケン・ローチ作品(特に初期の)にしては珍しくユーモラスで笑える所が多い。ボーイ・ミーツ・ガールだが少年の気が利かな過ぎる。サッカー観戦での振る舞いは、そりゃあ彼女は怒るよ!と呆れてしまうが、まだ意識が恋愛の方に行っていないんだろうなぁ。全般的に、少年と少女が一緒にいるシーンでは少女の方が大人びているというか、如才なさがある。映画館でチケットを買う時の振る舞い等、少年への配慮がある。この年齢では女性の方が大人びているというわけではなく、彼女は既に「世の中」に出て働いているからという側面が大きいのだろう。ミックは就職の面接等でも世慣れておらず、失言も多い。正直と言えば正直なのかもしれないが、まだまだ子供という感じだ。
 ただ少女もやはりまだ少女で、大人というわけではない。母親がデートをしているところを見てしまい「不潔」と言ったり、離婚した父親を恋しがっていたりする。母親、父親もそれぞれに別個の人生を送る人間で、関係性は変化せざるを得ないということを、なかなか受け入れられないのだ。両親ともに彼女を愛してはいるのだろうが、彼女が望むような形には出来ない。ミックの家庭は(父親が失職したみたいだが)関係性が比較的安定しており、両親や姉とのコミュニケーションもそこそこ円滑な様子なのとは対称的だった。
 軍に入ったアランは度々帰省するが、彼の言動がどんどん軍に感化されていくところがちょっと怖い。アイルランドとの関係が緊張している時期なのか、現地の鎮圧に参加しているようなのだが、相手が一般人でもアイルランド人だから、カソリックだからということで疑問を持たなくなっている様子がちらっと見える。なまじ若くて世の中を知らないから、簡単に感化されちゃうんだろうな。そうでもないと軍人なんてやってられないという側面はあるのかもしれないけど、自分の行いに疑問を持たなくなっていくのは怖い。

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