3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『窓ぎわのトットちゃん』

 小学1年生のトットちゃん(大野りりあな)は、おしゃべりで落ち着きがないことを理由に、学校を退学させられてしまう。困った両親は独特の教育をしているというトモエ学園にトットちゃんを転校させる。小林校長先生(役所広司)が指導する自由な校風のもとで、トットちゃんはのびのびと成長していく。原作は黒柳徹子の同名エッセイ。監督は八鍬新之介。
 子供の動きのかわいらしさと不器用さ、どうかするとすごく不細工になったりする描写の細やかさ、ユニークさというアニメーション表現と、トットちゃんの想像世界を描くアートアニメーションパートのどちらもクオリティが高く、アニメーション好きは必見だろう。かわいいことはかわいいが、キャラクターデザインを含めキャッチーなかわいさにしすぎていない所に好感を持った。正しい児童向けアニメという趣だが、今の児童にキャッチーに刺さるかというとちょっと微妙な所はある。むしろ大人とこれから大人になる人たち(それを児童というわけだが…)に向けて作られたと言った方がいいのか。子供の頃に背景がよくわからないまま見て、後々もう一度見てああそういうことだったのかと見方が更新される、みたいな鑑賞のされ方になるといいなあと思える作品。
 物語は概ねトットちゃんの視点で進むので、基本的には子供の世界が描かれる。トットちゃんは発想が自由でおしゃべり、自分の世界をしっかりと持っている子供だ。それが一般的な学校教育にははまらない。はまらなさを両親は心配するのだが、小林先生は肯定する。小林先生が初対面のトットちゃんの話をじっと聞くシーンは、彼が子供を一人の人間として尊重している様が現れているようで、トットちゃんが先生を信頼するようになるのも納得できる。また、トットちゃんがくみ取りトイレに落とした財布を探す際、小林先生は「ちゃんと元に戻すんだぞ」とだけ言って彼女の気が済むまでやらせておく。気が済んだトットちゃんは納得して財布を諦めるのだが、トモエ学園の教育方針がよく表れているエピソードだったと思う。大人としては早い時点で止めさせた方が多分楽(何しろ臭いし汚くなるので原状回復は一苦労だろう)なのだが、そうはしない。また「尻尾」のエピソードも小林先生の教育者としての指針がはっきり示されていた。トモエ学園での授業そのものの描写にはそれほど時間が割かれていないのだが、こういう部分で学園の核みたいなものはわかるように提示されている。そして、その核になる部分が当時の日本の社会が徐々に向かっている方向とは相容れないものなのだろうということも察せられるのだ。
 物語はトットちゃんが小学生の時分の出来事だが、彼女がトモエ学園に編入した時点で、第二次世界大戦は既に始まっている。この頃は東京に戦争の影はあまり見えない。国語の授業で使う文章にその影が見える程度だが。しかし昭和16年~19年くらいの間で急激に戦争下の世相になっていく。この変化の見せ方がとても上手い。トットちゃんには大人の世界のことはあまりわからないわけだが、子供たちが描く絵や子供たちの発言にも影響が出てくるのだ。軍国教育とは無縁なトモエ学園でもこうなるかと、子供の世界と大人の世界が当然地続きであることを改めて感じた。トットちゃんの両親が自分たちを「パパ、ママ」ではなく「お父様、お母様」と呼びなさいと言うくだりは結構ぞっとするのだが、こういう世相だったんだなと。両親の(ことに父親の)忸怩たる思いも刺さってくる。クライマックスでトットちゃんが疾走するシーンでは、子供の世界に大人の世界、「世の中」が一気に流入してきて圧巻だし、しみじみと辛い。彼女の全くの子供としての世界が終わっていく気配が濃厚になるのだ。
 

続 窓ぎわのトットちゃん
黒柳徹子
講談社
2023-10-03


『マーベルズ』

 幅広く宇宙で活動していたキャプテン・マーベルことキャロル(ブリー・ラーソン)。彼女の過去の行為を恨み、復讐を企てるダー・ベン(ゾウイ・アシュトン)は宇宙の様々な箇所にワームホールを開けていた。一方、このワームホールの影響でキャプテン・マーベルと、ミズ・マーベルこと高校生のカマラ・カーン(イマン・ベラーニ)、強大なパワーを覚醒させたばかりのモニカ・ランボー(テヨナ・パリス)の3人が、それぞれの能力を発動すると物理的に入れ替わってしまうという謎の現象が起こる。3人が困惑するなかダー・ベンの脅威が迫り、キャプテン・マーベルはミズ・マーベル、モニカ・ランボーとチームを組んで立ち向かう。監督はニア・ダコスタ。
 軽めの雰囲気は製作のケビン・ファイギのテイストでもあるのか。軽快で、マーベル作品としてはかなりコンパクト(105分!)な尺も気楽に楽しむにはぴったり、といいたい所だが、本作に至る話の流れを知る為には『キャプテン・マーベル』だけでなくドラマシリーズも複数視聴していなくてはならない(マストではないがなんとなくの話程度は把握しておいた方がよさそう)という結構なハードルの高さ。フランチャイズ化で作品世界を広げに広げたマーベル映画の弊害が、大分響いてきているなという印象を受けた。売り方で楽しさの足を引っ張るのはそろそろやめてほしいな…。
 巨大シリーズの中の1作という事情を置いておいても、色々詰め込みすぎというか、とっちらかった話ではある。3人が入れ替わるシステムはまあわかるし視覚的な面白さもあり、入れ替わり故に3人が強制的にチームワークを作っていくという流れも悪くない。ただ、今更ながら入れ替わりの原因がそもそも大分ざっくりしていて、この世界のエネルギー理論はどうなっているんだという気分に流石になってくる。このあたりもマーベル作品として後続組が割を食っている(見る側がさすがにそろそろツッコミたくなってくる)所ではないかと思う。個人的にはディズニーランドっぽい惑星のエピソード(と惑星のコミュニケーション方法の設定)がそれいります?という感じでなぜ出てきたのかよくわからなかった。
 本作、「推しと一緒にお仕事することになってしまってどうしよう!」という夢女子的シチュエーションが発生している。そもそもキャプテン・マーベルの大ファンであるカマラだけでなく、個人的な関係性である「キャロルおばさん」への憧れを抱き続けてきた(そしてちょっと拗らせた)モニカも同様だ。カマラの浮かれ方はわかりやすいが、モニカは流石に大人だし屈託もある、一方キャロルにとってはずっとモニカは小さな女の子のまま、というギャップがちょっと面白い。ただ、段々「推し」ではなく同じチームの仲間、守るべき相手ではなく頼るべき仲間とそれぞれの意識が変わっていく様が微笑ましい。このあたりもうちょっと丁寧に見せてほしかった。

キャプテン・マーベル MovieNEX [ブルーレイ+DVD+デジタルコピー+MovieNEXワールド] [Blu-ray]
アネット・ベニング
ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社
2019-07-03


ミズ・マーベル:チーム・アップ
イグ・グアラ
小学館集英社プロダクション
2023-11-13


『マルセル 靴をはいた小さな貝』

 アマチュア映像作家のディーン(ディーン・フライシャー・キャンプ)は、諸事情から郊外の借家に仮住まいするため引っ越してきた。そこで出会ったのは、体長およそ2.5センチのおしゃべりな貝のマルセル(ジェニー・スレイト)とその祖母コニー(イザベラ・ロッセリーニ)。ディーンは彼らに興味を持ち、マルセルを追ったドキュメンタリーを作ってYouTubeに投稿したが。監督はディーン・フライシャー・キング。
 「人間」の登場人物であるディーンを監督自らが演じており、ディーンがドキュメンタリーを撮影しているメイキングフィルムみたいな、モキュメンタリー仕立てになっている作品。ストップモーションアニメとモキュメンタリーという組み合わせが新鮮。本作、キング監督がYoutubeで順次公開したショートフィルムを長編映画化したものだというから、現実の公開方法をフィクションである本作がなぞっているというところも面白い。
 更に、作中でマルセルはディーンに、撮影されることについての疑問をいくつも投げかける。君(ディーン)は僕(マルセル)に質問するのに僕が君に質問するのはなぜだめなのか、なぜ(被写体であるマルセルは)自然にしていないとならないのか、(会話をしていたら自分の声が映像に入ってしまうというディーンに)なぜ(撮影する人の)声が入ってはいけないのか。種族の違いからくるカルチャーギャップというよりも、ドキュメンタリーを作成する上で生じがちな問題に切り込んでいるように思った。そういう問題提示がアニメーションの中でされているという所にユニークさがある。ドキュメンタリーでは被写体だけでなく、撮影する側の問題も常に並走しているのだ。本作はマルセルの人生の物語であるが、その背後には撮影者であるディーンの人生の問題も横たわっている。そしてマルセルとディーンがどのような関係を作っていくのかという変化の物語でもある。マルセルとの関係が変化していくなかで、はっきりとは言及されないがディーン自身の問題への向き合い方もまた変化していくのだ。ラストのさわやかさはそれ故だろう。
 撮る者と取られる者の関係がフェアであることが、(例外もあろうが)ドキュメンタリーにおいては必要であること、カメラを向けることは時に暴力的であることを、フィクションを見ていて気付くというちょっと面白い作品だった。


『街をぶっ飛ばせ』

 シャンタル・アケルマン映画祭2023にて鑑賞。アパートの階段を駆け上る若い女性。パスタを作って食べ、部屋を散らかし洗剤をぶちまけ掃除する。鼻歌にのって一人で踊る彼女の行動は思いもよらない結末を迎える。1968年製作。監督・主演はシャンタル・アケルマン。
 当時18歳だったアケルマンがブリュッセル映画学校の卒業制作として監督、主演を務めたデビュー作である12分の短編。初監督(俳優としても)ということで荒っぽくはあるのだが、インパクトは強烈。傑作『ジャンヌ・ディエルマン、ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地』の原型的な側面もある。
 主人公が口ずさむ鼻歌がずっと流れているのだが、メロディは不安定、テンポもぐらつき、彼女の気分の浮き沈みがそのまま見る側にフィードバックされてくるようだった。彼女は時にとても楽し気、時に苛立っている様子ではあるのだが、冒頭からとにかく不穏。ドアの細工をするあたりからあーこれは大分まずいやつだぞと予感させる。その後のやたらとテンションが高く勢いのある動きや、やけっぱちのような掃除やダンス等は、エネルギーの迸りと自暴自棄さがないまぜになっており、見ていていたたまれなくなってくる。何が彼女を追い詰めていったのか、背景は全く示唆されないし、彼女が自分の言葉で語ることもない。状況だけが提示され唐突にシャットアウトされる。人の内面に踏み込ませない頑固さみたいなものを感じた。



『マジック・マイク ラストダンス』

元ストリップダンサーのマイク(チャニング・テイタム)はダンサーを引退して家具工房を始めたものの、コロナ禍のあおりを受けて破産。今はバーテンダーとして働いていた。ある日仕事先で、パーティー主催者の女性マックス(サルマ・ハエック・ピノー)と知り合う。マイクの才能を見込んだマックスはショーの演出を依頼される。彼女はロンドンの老舗劇場のオーナーで、古い伝統を打破しようとしていた。マックスと共にロンドンに向かったマイクは、様々な場所から集まったダンサーたちと共にショーに挑む。監督はスティーブン・ソダーバーグ。
 「こういうのでいいんだよ」的に大分ざっくりとした作りで、展開にはかなり強引な所はあるし省略していい所はばんばん省略しているし、コメディ要素は笑わせようとしているのか単にスベッているのか微妙な所もある。とは言えダンスシーンは相変わらずパワフルで楽しい。むしろマイクとマックスの恋愛要素が不要に思えてしまうくらい。正直な所、私は本シリーズに登場する男性たちやダンスそのものにセクシーさはあまり感じない(ダンスの楽しさは「体が音楽にのってめちゃめちゃ動く」所にありセクシーさはそれほど感じない)。一方で、マイクとマックスの、マイクに「俺たちは最強じゃないか」と言わせるような関係にはむしろロマンスを感じる。表現者同士、何かを共に作り上げる者同士のガチンコのやりとりの方が見ていて燃える要素があった。マイクとマックスの演出の方向性のぶつかり合いや、それをどうやってすり合わせて作品に落とし込むのかという過程をもうちょっと見て見たかった。
 本作を見ていると、今の「モテる男性像」には、単なるセクシーさ、パワフルさだけではなく、相手の話をちゃんと聞く姿勢、話し合い一緒に歩もうとする姿勢や優しさ、ケアする姿勢が求められることがよくわかる。マイクはもちろんルックスはセクシーなのだが、相手がマックスであってもダンサーたちであっても話をちゃんと聞くし、頭ごなしに何か言ったりしない。常識とセンシティブさを備えたとてもまともな人で、むしろマックスの方がエキセントリック。

マジック・マイク(字幕版)
マット・ボマー
2019-10-01


マジック・マイクXXL(字幕版)
ガブリエル・イグレシアス
2016-02-17



『窓辺にて』

 フリーライターの中川茂巳(稲垣吾郎)は編集者である妻・紗衣(中村ゆり)が、担当している若手人気作家・荒川円と浮気していることに気付く。しかし浮気そのものには怒りが湧かず、そんな自分にショックを受けていた。ある日、文学賞受賞式で受賞作家の久保留亜(玉城ティナ)に質問した茂巳は彼女と親しくなる。彼女の小説の登場人物のモデルに会ってみたいという話になるが。監督・脚本は今泉力哉。
 今泉監督の作品は少々冗長というイメージがあったのだが、本作はかなりタイトな印象で無駄がない。むしろばっさばっさと思い切った省略とつなぎ方をしており切れがいい。このシーンはあそこのことだったのか!これがあの時言っていたあれか!というような、エピソードの時系列のずらし方ではっとさせる。その瞬間の感情のフレッシュさがふわっと再現される感じがした。
 茂巳も、彼の妻や友人、その不倫相手も、皆大人だ。おそらく、社会的な常識はあって、比較的ちゃんとした人たちだろう。ただ、世間が要求するきちんとした大人ではない、だらしなかったりなさけなかったりする面ばかりを本作中では見せる。茂巳の年下の友人であるスポーツ選手は若いタレントと浮気しているのだが、けじめをつけようとしつつ双方なあなあで、言い訳がましいことを口するという情けなさ。また紗衣が担当作家と浮気をしているのも、職業倫理としてちょっとどうかと普通なら思われるだろう。茂巳にしても、自分の気持ちと向き合っているんだか向き合っていないんだかずっと曖昧だ。皆結構勝手なことを言うしやっているのだが、見ているうちに人間てそんなもん、かっこ悪くても大丈夫という気になってくる。どの人も悪人にしない作劇になっている所が監督のうまさであり、人間に対するやさしさであるように思う。
 一方、久保はかわいくて聡明でクールな女子高生作家という、少々アイコン的すぎるキャラクターとして登場する。彼女と茂巳との関係に、性的な視線を入れないようにかなり配慮しているように思った。人間としては対等、しかし大人と子供であるというわきまえが自然に織り込まれており、割と安心して見られた。「性的な要素のない理想のガールフレンド」というある意味いいとこ取りシチュエーションではあるが、久保には久保で彼氏との関係の悩みがあり、そこは茂巳が立ち入ることでもない、という距離の取り方がされていた。本作、こういった配慮が相当されているように思う。『街の上で』はそのあたりのわきが甘くて大分イライラさせられたが、今回はそれがなかった。
 主演の稲垣は、おそらく当てがきなのだろうが非常にハマっている。序盤のすし屋での気持ちがいまいち入っていない感じの会話にしろ、パチンコ屋でのいきさつにしろ、終盤の妻との会話にしろ、演技がとてもよかった。茂巳が妻の不倫に怒らないのは酷薄だからではなく、彼の愛情の表出の仕方はそれとは異なるからのだろうが、そういう人のメンタリティが自然に体現されていたように思う。 

街の上で [Blu-ray]
若葉竜也
アミューズ
2021-12-08


愛のようだ (中公文庫)
長嶋 有
中央公論新社
2020-03-19




『マイ・ブロークン・マリコ』

 会社勤めをしているシイノトモヨ(永野芽郁)は、幼馴染で親友のイカガワマリコ(奈緒)が死んだことをテレビのニュースで知る。マリコは幼いころから実の父親にひどい暴力や性的虐待を受けていた。シイノはマリコの父親(尾美としのり)とその再婚相手(吉田羊)の家に押しかけてマリコの遺骨を奪い、彼女が生前に行きたがっていた岬を目指して旅に出る。原作は平庫ワカの同名漫画、監督はタナダユキ。
 原作も読んでいるのだが、自分にはいまひとつハマらない作品だった。映画化された本作は、すごくよくできているという感じではないのだが、時間の処理の仕方は原作よりこなれているように思う。過去と現在を行き来することで、シイノとマリコの関係が立ち上がってくるという構造がより明瞭になっている。映画として妙に拙く見えるのは、主人公のセリフが芝居がかかっている(そして俳優がそれを言いこなせていない)所が大きな要因なのではないかと思う。漫画や小説をそのまま映像にすると、映画としては違和感が生じる、忠実さよりもアレンジのテクニックが必要ということなんだろうな。また、中学生時代のシイノ役の俳優がすごくハマっていて演技もうまかったので、現在のシイノのトーンとの差が際立ってしまったという面もありそう。
 死んだ人に生きている人が出来ることはそうない、というか基本的にない。何かできるとすれば、死者を思い出すことだけだ。あの時ああいうことがあった、そして今自分がここでこうしている、という思い起こしを繰り返すことで、死者は生きている人の中で存在し続けていく。だからこそ、過去と現在の見せ方・組み立て方が本作の肝になっているのだ。シイノがマリコの遺骨を奪取しても、かつてのマリコを思わせる女子高校生を助けても、マリコが救われるわけではない。ただ、そういったシイノの行動の中で、マリコの存在はその都度浮かび上がるのだ。


『浜の朝日の嘘つきどもと』Blu-ray特別版(特典なし)
吉行和子
ポニーキャニオン
2022-03-02


 

 

『マイスモールランド』

 幼いころにクルド人の家族とともに故郷を逃れ、日本で育った17歳のサーリャ(嵐莉菜)。高校生として日本人の同級生と変わらない生活をし、将来は教師になるという夢を持っている。大学進学資金を貯めるためコンビニでアルバイトを始めた彼女は、バイト仲間で東京の高校に通う聡太(奥平大兼)と親しくなる。しかし、難民申請が不認定となり、一家は在留資格を失ってしまう。監督・脚本は川和田恵真。
 日本の難民政策の理不尽さにサーリャと家族は翻弄される。今すぐに国外追放されるわけではないが、就労してはならない、県境を超えてはならないというのは、現実問題として生活できなくなる可能性が非常に高い。サーリャも大学推薦を取り消されたり、バイトが出来なくなり学費を稼ぐこともできない。将来設計がすべて崩れてしまうのだ。サーリャや妹弟はほぼ日本で育っており、今から母国に帰ってもなじめないだろう。そもそも妹や弟はクルド語を喋れないのだ。またサーリャの父親は、帰国すればおそらく身柄を拘束され、命の危険もある立場だ。人命・人権を度外視したシステムになってしまっている。
 サーリャが抱える辛さは、クルド人難民というだけではなく、そこから派生する諸々の事情によるものだ。サーシャは家族と共にクルド人コミュニティに属しているが、日本語が流暢ではない人も多い。彼女は通訳者・翻訳者・また学校や病院等への付き添いとして、コミュニティ内のケア要員となっている。本来なら未成年が背負うべきではないことまで背負うことになってしまう。また母親が他界していることで家事を担う所も大きく、実質ヤングケアラーと言ってもいいだろう。また、父親との間に愛情はあるが、家父長制文化の弊害もあり、自分の意志に沿わない結婚をほのめかされたりする。こういう、「難民」というひとつの状況が子供にとってどういう境遇を生んでいるのかという見せ方が丁寧だった。そして、日本人の同級生たちがごく普通に享受しているものをなぜ自分は享受できないのか、という苦しさが伝わってくる。「日本語上手ね」とか「お人形さんみたい」とか、悪意のない言葉が少しずつ心を削いでいく感じもやりきれない。自分もうっかり言ってしまいそうなので気を付けないと…。
 その一方で、10代の青春映画でもある。サーシャと聡太のぎこちない交流がまぶしい。聡太はクルドの問題を理解しているとは言い難いのだが、サーシャに対して「しょうがなくない」と言う。この一言が彼女にとってすごく大事だったのだと思う。事態が解決する話ではないのだが、サーシャは未来を諦めないだろうと思えるのだ。

バクちゃん 1 (ビームコミックス)
増村 十七
KADOKAWA
2020-05-11


マイスモールランド
川和田 恵真
講談社
2022-04-27


『マクベス』

 荒れ地で出会った魔女の予言によって、王の座をえるという野望に火が付いた将軍マクベス(デンゼル・ワシントン)。マクベス夫人(フランシス・マクドーマンド)と共に主君を暗殺して王の座につくが、罪の意識と疑心暗鬼に駆られ、暴政によって罪を重ね続ける。シェイクスピアによる四大悲劇のうちの1作を映画化。監督はジョエル・コーエン。
 シェイクスピアの戯曲にはかなり忠実で、セリフもさほどいじっていない印象だった(細部で省略・アレンジなどはしていると思うが)。原典通りにセリフを再現してもちゃんと現代の作品して理解できるし面白い所、そして様々な解釈・演出を受け入れる所がシェイクスピアの戯曲の凄い所なのだろう。
 マクベスは過去に様々な映像化作品があるが、本作はモノクロの映像でビジュアルの抽象度は高め。作中時代の歴史背景は踏まえつつ、忠実な歴史劇というわけではなく、かといって現代風にも寄せすぎていない。舞台劇の装置的な背景の処理の仕方にも見えた。あまり余計なものを加えない演出だと思う。
 シンプル故にセリフの面白さ・上手さが際立っていた。そして、俳優が演じることで原典のテキストへニュアンスが盛られていくのだとよくわかる。ワシントンとマクドーマンドという大ベテラン、年齢を重ねた人だからこそ出てくるニュアンスがある。本作、文字で読むよりもマクベスのうろたえ、揺らぎが協調されている。アッ短剣持ってきちゃだめ!とか、それ幻影だから話しかけてたら不審者だよ!とかいろいろとハラハラさせられる。王の座を乗っ取るにしては危なっかしいのだ。野心に燃える悪女というイメージで描かれがちなマクベス夫人も、豪胆ではあるが割と普通で、だからこそ終盤での狂乱に意外性はない。夫婦ともに名将とその妻の資質を持っているが、あくまで一般人としての資質だ。普通の人がちょっとした出来心で恐ろしいことをやってしまった、その付けを払わされるという側面を強く感じた。また本作のマクベス夫妻は決して若いわけではない。年齢的にここを逃すとチャンスはないかもという焦りに、より説得力があった。
 魔女の言葉はよく考えるとどうとでも取れそうな心もとないもなのだが、マクベスはなぜか鵜呑みにする。同行していたバンクォーは魔女の言葉を疑っていたのに。もともと自分の中にある欲望を肯定するようなものに飛びついてしまうという人間の弱さが、時代を超えて描かれている。

マクベス(スペシャル・プライス) [DVD]
マーティン・ショウ
復刻シネマライブラリー
2019-06-03


レディ・マクベス(字幕版)
ナオミ・アッキー
2020-12-11


『マトリックス リザレクションズ』

 ゲームデザイナーのトーマス・アンダーソン(キアヌ・リーブス)は自身が手掛けたゲーム「MATRIX」が大ヒットしたものの、その後は不調でカウンセリングに通い、青いピルを常用している。自殺衝動に駆られる彼の前に、彼をネオと呼ぶバッグス(ジェシカ・ヘンウィック)とモーフィアス(ヤーヤ・アブドゥル=マティーン2世)が現れる。監督はラナ・ウォシャウスキー。
 1999年に1作目『マトリックス』が公開され、2003年に『マトリックス リローデッド』『マトリックス レボリューションズ』が公開された3部作の、18年ぶりのシリーズ新作。しかし、なぜ今更新作なのか?と釈然としない。1作目公開当時は確かにとても新鮮、スタイリッシュで大流行したが、2作目、3作目と鮮度が薄れ、たいして面白くもなかった記憶がある。面白さ、かっこよさを1作目で使い切った印象のシリーズなのだ。
 新作とはいっても、本シリーズのガジェットの使い方やSF的な演出、アクション演出はもう古典になってしまっていて、やはり新鮮味はない。ああマトリックスってこういう感じだったよなと新作なのに懐かしさが漂う。世界の行き来が鏡を通したものになったのは、逆にファンタジーというか、古典の方向(『鏡の国のアリス』とか)に向かっている気がする。
 マトリックスの「目覚めた自分だけは真実を知っている」という構造は、近年では陰謀論との相性が良すぎて制作側にとっては不本意だったろう。本作ではそのあたりの微妙さをカバーしようとしているのかなとは思うが、基本的な構造は同じだからあまりカバーされていない。世界の構造が特定の存在にゆだねられているというのも、今見ると単純すぎるだろう。今更続きをやってもなあという気分が否めない。いろいろ広げられそうに思えて、実はあまり広げられない話だったのか。

マトリックス トリロジー (4K ULTRA HD & デジタル・リマスター ブルーレイ)(9枚組)[4K ULTRA HD + Blu-ray]
ヒューゴ・ウィーヴィング
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
2021-11-17


鏡の国のアリス (新潮文庫)
ルイス キャロル
新潮社
1994-09-28


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