3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『ポリーナ 私を踊る』

 ロシア人少女ポリーナ(アナスティア・シェフツォワ)は厳格な恩師ボジンスキー(アレクセイ・グシュコフ)の元でバレエを学び、ボリショイバレエ団への入団を果たす。しかしコンテンポラリーダンスと出会い、ボリショイでのキャリアを捨てフランスのダンスカンパニーへ入団するが、自分の踊りに行き詰まりを感じ始める。原作はバスティアン・ビベスのグラフィックノベル。監督はバレリー・ミュラー&アンジェラン・プレルジョカージュ。
 ポリーナは何かと行動が速い(悩む部分を省略した演出でもあるわけだが)。踊りの方向性を変えるのも、パリやアントワープへ拠点を移すのも、特に貯金があるわけでもなさそうだし、誰かに相談したわけでもなさそう。それでも自分にとってきっとこれが必要だからやる、という感じで、決して人嫌いではなさそうだが、自分の中で完結する思考方法の人に見える。特にダンスの場合、(素人考えだが)自分自身と向き合わざるを得ない内容だろうから、他人に相談してどうこうなるものでもないのかなと思った。パリへ向かう際、娘がボリショイでプリマになることを夢見ていた母は泣く。また、アントワープで彼女と会った父親は、バーでバイトをする為に来たのかと彼女をなじる。ポリーナは反論はするが、強くぶつかり合うことはない。自分がやろうと思ってやったことだから、今更ぶつかり合う必要もないのだろう。両親と仲が悪いわけではない(むしろ良さそうだ)が、両親とは言え自分の領域に立ち入るべきではないという態度がはっきりしていた。これはその時々の恋人に対しても同様で、休みだしもうちょっとベットにいようと引き留められてもレッスンしたいからとさっさと出かける姿が印象に残った。こういう時に揺れない人なんだなと。
 彼女は基本的に自分本位で行動するが、そうであっても自分のダンスがどのようなものなのか、何が向いているのかは掴みきれずにいる。古典を踊っても何かが足りず、かといって古典からはみ出すほど個性が強いという感じでもない。一方、コンテンポラリーの師であるリリア(ジュリエット・ビノシュ)から見ると「古典向き」。そもそも、ポリーナがダンサーとしてどの程度傑出しているのか、才能があるのか、いまひとつはっきりとしない描き方なのだ。いわゆる天才の話ではない。天才ではないから、もがくしかない。自分のスタイルが掴みきれないからこそ、次のスタイル、次のスタイルへと模索していくのだ。じっと考えるのではなく、移動しつつ動きつつ考えている感じが、ダンサーっぽいなと思った。まず身体ありきなのだ。
 ポリーナは最後にあるスタイルを掴むが、その元となるイメージが子供の頃見た幻影のようなものである所が面白い。そこから更に、最初の師であるボジンスキーと向き合う。彼女にとってのボジンスキーはそういう存在なんだなと腑に落ちた。原風景に立ち返ることが、自分の核を掴むことに繋がるのだ。

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バスティアン・ヴィヴェス
小学館集英社プロダクション
2014-02-05




『僕のワンダフル・ライフ』

 ゴールデン・レトリバーの子犬ベイリーは、自分を助けてくれた少年イーサンと固い絆で結ばれていた。やがてイーサンは成長し、ベイリーとはなかなか会えなくなる。ベイリーは寿命を終えるが、イーサンに会いたい一心で生まれ変わりを繰り返すようになる。原作はW・ブルース・キャメロンの小説。監督はラッセ・ハルストレム。
 犬の輪廻転生ってスピリチュアル系にしても大分うさんくさいなー大丈夫かなーと思っていたが、手堅くまとめており老若男女、子供連れでも大丈夫そう。さして犬好きでない私も面白く見た。犬視点のモノローグで話が進むのは一歩間違うとあざとすぎ、人間化しすぎで下品になりそうだが、ぎりぎりのラインで踏みとどまっている。また、冒頭でいきなり「犬生」が一回終了し、あっ野良犬に生まれるってそういうことなんだ・・・とシビアさをさらっと見せてくる。このあたりのさじ加減が上手い。ハルストレムは大概手堅い作品を撮るが、職人気質なのかな。1960年代~現代という時代の動きがそれとなく感じられるあたりも、目配りがきいており手堅い印象だった。
 シビアという面では、人間たちの人生も実はそこそこシビアである。ベイリーはイーサンが大好きなので、ベイリーの目を通して見たイーサンはいつも輝いているように見える。が、ベイリーには理解できなくても、人間である観客の目から見ると不穏な気配が見え隠れする。ベイリーの父親は仕事に不満があり、徐々に酒が手放せなくなってくるのだ。ベイリーや母親への接し方も、特にひやりとするものがある。その顛末は予想通りだが、さらにやりきれない出来事も起きる。結構容赦ないのだ。
 また、転生したベイリーの飼い主になる警官(これは警察犬としてのつきあいなのでペットとは違うが)や黒人女性のエピソードも、犬と人間の関係にぐっとくるもの。それぞれが1本の映画になりそうなのだ。私は動物を飼ったことはないが、犬を飼っている(いた)人ならよりぐっとくるし人間側に共感するんではないかなと思う。
ただ、イーサンとの存在がベイリーにとって特別すぎて、他の飼い主がちょっとかわいそうでもある。どうしても二番手ないしはそれ以下の存在に見えちゃう。まあ愛は平等ではないものなんでしょうが・・・。特に警官とのエピソードなどなかなか渋くて良かったので、勿体ない。

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『ポルト』

 ポルトガル第2の都市ポルト。26歳のアメリカ人ジェイク(アントン・イェルチェン)とフランスから留学にきた32歳のマティ(ルシー・ルカース)は、考古学調査の現場でお互いを見かける。たまたま再開した2人は一夜の関係を結ぶ。監督はゲイブ・クリンガー。
 時系列はバラバラ、というよりもやや逆回転に近い構成で、2人の出会いへとさかのぼる。冒頭、マティにつきまとうジェイクの必死さと不穏さに、この2人の間に一体何が?とハラハラする。随所で挿入されるレストランのシーン、また後日そのレストランを個別に眺めるシーンからは、2人それぞれにとってそれなりにこの出会いは特別だったと察せられるのになぜ?と。
 見ているうちに、そもそも関係が破綻するほどの「何か」などなかったのではないかなと思えてきた。確かに2人の間に特別な出来事はあったが、それはあくまで劇的な瞬間があったにすぎず、後々まで継続するようなものではなかったのではないか。おそらくマティはそれに気付くが、ジェイクは気付かない。出会いのインパクトにずっと引きずられているのだ。そこを掘っても多分もう何も出ないよ、と言いたくなるが、特別な瞬間を味わってしまうとそうは思えないし思いたくないんだろうなぁ。
 人恋しさ、孤独さは人間の判断力を鈍らせるなと、見ていて辛くなる。ジェイクの寂しさはおそらく、マティのものよりもよりせっぱつまっているのだ。とは言え、あんな付きまとい方されたら、多少好意があっても怖くてもう会いたくなくなるよな・・・。ちょっと洒落にならない感じがした。
 全体としては良くできた学生の自主映画みたいな手作り感あふれる雰囲気で、初々しい。2人の関係をこのように描けた(臆面もなく一晩のアバンチュールって、最近なかなか見ないなと)のも、若さ故という気もする。

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『僕とカミンスキーの旅』

 売れない美術評論家ゼバスティアン(ダニエル・ブリュール)は一山当てようと、スイスの山村で隠遁生活を送る伝説的画家マヌエル・カミンスキー(イェスパー・クリステンセン)を訪問する。カミンスキーは視力を失いつつ製作を続けたことで、1960年代に「盲目の画家」としてスターダムになったのだ。スキャンダルを掴もうと画策するゼバスティアンだが、カミンスキーに振り回されていく。監督はボルフガング・ベッカー。
 冒頭、実際の当時のニュース映像や実在のアーティストの映像を取り入れた疑似ドキュメンタリーパートの出来が良くて、そのもっともさに笑ってしまった。カミンスキーのやっていること、立ち居振る舞いが見るからに「あの時代のアーティスト」然としている。彼は才気あふれるアーティストだが、同時にいかにもアーティストぽい振る舞いによる自己演出で、より自分の伝説化を図っていたきらいもある。ゼバスティアンは彼が当時失明しつつあったというのも演技ではないかと疑い、「大ネタ」を掴もうと企んでいるのだ。
 高齢になったカミンスキーは、物忘れは激しく少々痴呆も始まっているのか、最初は偏屈なおじいちゃんといった雰囲気だ。気にするのは食事と昼寝の時間と、娘の目を盗んでの喫煙。ゼバスティアンは彼をかつての恋人に会わせて自作のネタにしようとするが、マイペースなカミンスキーに妨害されてばかり。珍道中ロードムービー的な側面を見せてくる(からっけつのはずのゼバスティアンがどんどん身銭を切らなければならないので見ていてヒヤヒヤした・・・)。
 しかし、徐々にカミンスキーが芸術、絵画やその制作について言及するようになる。芸術に人生を賭けた人としての矜持や腹のくくり方が垣間見えるのだ。そういう時に限ってゼバスティアンは彼の話をよく聞いておらず、女性関係等スキャンダラスな話題ばかり引き出そうとしているのが皮肉だ。彼が批評の対象として取り上げてきた芸術家としてのカミンスキーが目の前にいるのに、批評の本来の趣旨ではないはずの「おまけ」的話題の方にばかり目がいってしまい、見るべきものを見逃してしまう残念さ。それは、批評家ではなくスクープ屋の仕事だよ・・・。
 なお、エンドロールの名画パロディ風アニメーションがとても楽しい。本編はちょっと長すぎでダレるのだが。

『ホワイト・バレット』

 救急病棟に、頭に銃弾を受けた強盗犯チョン(ロー・ホイパン)が搬送されてきた。警察との銃撃戦で負傷したのだ。チョンから仲間の情報を得たいチャン警部(ルイス・クー)らは殺気立つが、チョンは口を割らない。加えて、至急の手術を勧める医師トン(ビッキー・チャオ)に対しても説得に応じず、手術を拒んでいた。監督はジョニー・トー。
 次々と事件が起き、目まぐるしくスピード感がある。スリリングで引き込まれるが、着地点がずっと見えない不思議な作品だった。医療群像劇サスペンスとクライムサスペンスを無理矢理合体させたみたいだ。また、やたらとエピソード量がありもたれそう。トンが担当する神経外科の患者たち個々のエピソードも語られるのだが、それがやたらと濃い。トンの当初の所見が外れて下半身の自由が奪われたと絶望する青年や、難手術に挑む中年夫婦、認知症らしきにぎやかな老人。1組ずつでも1本の映画になりそうな悲喜こもごもなのだが、それをぎゅうぎゅう詰めにしてくる。チョンと警察のかけひきの伏線となる部分もあるのだが、おおよそはそれほど関係ない。また、トンは外科医なので手術シーンが頻繁に出てくるが、セットも内臓も結構ちゃんと作って撮影している。でも、ストーリー上これもあんまり必要ないんだよね・・・。少なくとも、内臓を出す必要はない。やれることは全部やろうみたいな変な意気込みを感じた。
 登場人物が全員ぴりぴりしており、ややヒステリック。手術を失敗しかけ、自分の技量への自信を失っているトンは情緒不安定だし、チョンに翻弄され汚職まがいの行為に手を出してしまうチャンも、強盗団への対応に右往左往する警官たちも、神経を削られていく。その中心にいるのはチョンだが、彼もまた頭に銃弾が埋まったままで、命のタイムリミットは迫っている。どんどん追い詰められていく緊張感でストーリーを引っ張るが、その緊張感の果ての、謎のクライマックス。いや起きていることは謎じゃないんだけど、見せ方がこうくるの?!というもので、見応えはあるんだけど笑ってしまった。音楽含め、過剰なエレガントさがいきなり投入されるのだ。いきなり奇跡みたいなことが起こってしまうのも、まあありかな!という気分になってくる。

『ポッピンQ』

 中学校卒業を控えた伊純(瀬戸麻沙美)は、陸上部での記録に心残りがあった。浜辺で不思議な石「時のカケラ」を拾った伊純は、「時の谷」と呼ばれる不思議な世界に迷い込む。伊純の他にも時のカケラを持った少女たちが時の谷を訪れていた。彼女らはその世界の住民・ポッピン族の長老から、世界の危機を知らされる。危機を回避するには、時のカケラを持った5人が心をひとつにして踊らないと成らないと言う。監督は宮原直樹。
 東映アニメーション創立60周年記念作品だそうだが、これでいいのか東映?という気が。東映の女児アニメと言えばプリキュア、監督の宮原はプリキュアEDのダンス作画で有名な人なので、作品の方向性と起用としては妥当なのかもしれないが、ドラマ作りがとにかく残念。キャラクターデザインはかわいらしいし動画もいいのに、脚本がどうにも不器用だなという気がした。
 5人の少女はそれぞれ、今の自分を嫌だと思っており、克服したいものがあるがそれと向き合う勇気がない。元の生活に戻りたい気持ちと戻りたくない気持ちの間で揺れている。自分の未来を怖がらなくていい、自分をもうちょっと好きになれるはずというあたりが作品のコンセプトなのだろうが、それぞれの事情が異なるところを「私たち同じだね」と括ってしまうのはちょっと乱暴な気がした。言うほど同じには見えなかったんだよな・・・。また、作品のコンセプトに各キャラクターの言動を添わせすぎようとしていて、セリフが上滑りになっているところが気になった。行動とセリフの流れが取ってつけたように見える。ドラマの運び方がこなれていないということなんだと思う。そのへんが、不器用だなと言う印象の原因か。
 作画的な見所はやはりダンスシーンなのだろうが、これも違和感を感じた。時の谷は人間の世界とは違い、異なる文化が発展している不思議な世界だ。その世界で流れる音楽がいかにもなJポップとアイドル的なダンスというのは、奇妙な感じがする。えっそこだけ人間界と同じなの?と。

『ぼくのおじさん』

 小学生の「ぼく」こと春山雪男(大西利空)は、父・定男(宮藤官九郎)、母・節子(寺島しのぶ)、妹、そして「おじさん」(松田龍平)と暮らしている。おじさんは父の弟で、雪男の家に居候している。大学で哲学の非常勤講師をしているがほぼ無職同然のおじさんは、雪男をダシにして節子から小遣いをもらったりしている。ある日、ハワイの日系4世の女性・エリー(真木よう子)と出会ったおじさんは彼女に一目惚れ。ハワイでコーヒー農園を継ぐという彼女を追う為、何とか渡航費をひねり出そうとする。原作は北杜生の同名小説。監督は山下敦弘。
 『オーバー・フェンス』の次がこれというところに、山下監督の作風の広がりを感じる。深刻さと緊張感の反動がきたかのような、のんびり呑気な雰囲気の作品に仕上がっており、子供連れでも気楽に楽しめる。もちろん、北杜生の原作がそもそもそういう作品なわけだが。
 原作の文章の味わいを活かす方向なのか、山下監督作品の中では珍しく、「芝居」感が強い。本作は現代を舞台にしているので、原作が書かれた時代背景とのギャップもある。しかし、その芝居がかった部分、昔の小説っぽい台詞回しが、結構楽しかった。現代の日常ではあまり使わない言葉遣いをそのまま使うことで、地上から10㎝くらい浮いているような雰囲気が出ていると思う。
 そもそも、現代の日本で、おじさんのような存在が居候している家庭というのは、あまりないだろう。春山家は経済的に困窮しているわけではなさそうだけど、決して豊かというわけでもなさそう。春男が同級生に話す内容によると、定男は一般的な会社員で役職は課長なので、さほど高給取りではないだろう。専業主婦の妻と小学生の子供2人に加えてほぼ稼ぎのない成人1人を養うのは、現実的には結構厳しい。原作が書かれた時代と現代とのギャップを一番強く感じたのがここだった(ほぼ無職の人にお見合い話をもってくることが出来るというのも、現代ではありえないだろう)。しかし、本作で採用されている芝居の在り方、台詞の作り方だと、そのあたりの現実との兼ね合いが、さほど気にならない。
 何より、おじさんを演じる松田にひょうひょうとしたおかしみがあり、彼が演じることで本作が一種のファンタジーとして成立している。むしろ、今の時代だったらおじさんみたいな人の方が、アウトローな主人公として活躍できるんじゃないかなという気もしてくるのだ。
 短いエピソードを積み重ねていく前半の方が、おじさん本人のおかしみがじわじわと出ていて面白かった。後半のハワイパートは話の展開が少々雑だと思う。ただ、後半には後半の良さがある。雪男役の大西の芝居がぐっと良くなり、おじさんと雪男の関係も密になった感じがするのだ。雪男あっての作品だったんだなと改めて納得した。本作は雪男の語り、雪男の視点で話が進むわけだが、雪男がおじさんのことを好きだから、おじさんのキャラクターが愛すべきものとして成立するのだろう。

『香港、華麗なるオフィスライフ』

 (若干ネタバレです)高層ビルにオフィスを構える総合商社ジョーンズ&サンは、ホー会長(チョウ・ユンファ)と敏腕女社長チャン(シルヴィア・チャン)の元邁進し続け、とうとう株式公開を目前に控えることに。ホーとチャンは実は愛人同士だが社内では公然の秘密。新入社員のシアンとケイケイは上司や先輩にしごかれ仕事を学んでいく。副社長でチャンとは愛人関係のあるデイヴィッドは、野心に燃え会社の金に手を出していた。それを隠す為に経理担当のソフィに近づくが。監督はジョニー・トー。
 まさかジョニー・トーの新作がミュージカル仕立てだとは。正直歌唱に関してはおぼつかないところもあるし、楽曲が冴えわたっているわけでもない。華麗なダンスがあるわけでもないのだが、本格的なミュージカルではないところが却って魅力になっていると思う。セットも舞台美術を意識したもので、全ての舞台が一つのフロアにあるような見せ方。パイプっぽい素材を多用して抽象化寄りにしたセットや画面の高低構造等、なんとなく幾原邦彦監督のアニメーション作品を連想した。ジョニー・トーが『輪るピングドラム』や『ユリ熊嵐』を見たということはまずないと思うけど。
 邦題には「華麗なる」とあるが、むしろ生臭い。確かに一見華やかだが、一皮むくと社長にしろ社員にしろ、自分の野心と欲望でギラギラしている。とにかく働き上手いことやってのし上がるぞ!という鼻息が荒いのだ。私はこういうギラギラした上昇志向がちょっと苦手なので、正直辟易とした。見ている分には楽しいと言えば楽しいけど、だんだんギラつきにあてられて心が疲弊していくんだよね・・・。映画の良しあしとは関係なく、あーこれは私にフィットする世界ではないわ・・・という気分になる。時代背景はサブプライムショック前後なのだが、ジョニー・トーの2011年の監督作品『奪命金』もまさにサブプライムショックを背景にしていた。投資の麻薬性、ちょっと欲を出したところ自分ではどうしようもないものによってカオス化していく、というシチュエーションが監督の琴線に触れるのだろうか。短時間で転落するからドラマ化しやすいということかもしれないけど。
 チャンは清廉潔白な善人というわけではなく、色々画策し、長年協力してきたパートナーを裏切りそうな動きも見せる。とは言え、彼女は本作の登場人物の中で、唯一かっこよく見えた。彼女には彼女なりのモラルがあり、最後まで筋は通すのだ。最後、エレベーターから出ていく姿はむしろ清々しい。自覚せずに他人を(自業自得とは言え)破滅に追い込んでしますシアンや、結局実家の傀儡に見えてしまうケイケイは、自分の筋みたいなものがまだ出来上がっていないのだろう。とは言え、最後に「君の勝ちだ」と言われる人は・・・。結局金の出元が一番強いということか。

『ホース・マネー』

 リスボンのスラム、フォンタイーニャス地区に暮らす男・ベントゥーラ。彼はアフリカからの移民だ。病院に収容されたヴェントゥーラは、故郷で飼っていたいた馬(ホース・マネー)と故郷に残してきた妻を思い出す。そして1974年に起きたカーネーション革命、その中で革命軍(MFA)によってここに連れてこられたと語りだす。これは彼の記憶なのか、それとも他の誰かの記憶なのか。監督はペドロ・コスタ。
 ペドロ・コスタ監督はリスボンのスラムを舞台として映画を撮り続けている(本作には過去作の映像の一部も組み込まれている)が、ポルトガルの光と闇のようなものを感じさせる。といっても光の部分は殆どないのだが・・・。これは影の部分が強烈な濃さを持つビジュアルからも感じるのだが、ポルトガルの歴史、そして現在の陰の部分を垣間見ている気もするからだ。無血革命と言われるカーネーション革命だが、ベントゥーラの前に現れる亡霊(らしきもの)は恐怖を訴える。ベントゥーラの故郷であるアフリカ、カーポ・ヴェルデは元々ポルトガルの植民地で、植民地時代の人々の過酷な記憶がよみがえる。また、フォンタイーニャス地区の人々の暮らしは、観光地でもあるリスボンの明るいイメージからはかけ離れたものだ。本作で映し出されるのは廃墟となった工場や企業の社屋、入り組んだスラムの家々(というよりも部屋)だ。ポルトガルに限ったことではなく、人が住む場所、住んできた場所であればどこでも、こういった陰の記憶、歴史を帯びてくるものだと思う。
 冒頭、ベントゥーラが地下道を抜けてふと気づくと病院に入っているシークエンスは、最早SFのようだ。歴史上の出来事と、ベントゥーラの周囲の個人的な出来事とが混在していく。幽霊と生きた人間との境は曖昧、いやむしろ生きている人間も幽霊のように見えてくる。ベントゥーラはじめ、本作に登場する人たちは社会の端の方に位置する、社会に見捨てられた(と本人が思っている)人たちだ。いないとされているという意味では、幽霊と似通っているのかもしれない。
 闇の黒の深さ、ひとつひとつのショットのわけのわからない不吉さは、黒沢清監督作品にどこか似ている気もする。本作の方がショットのひとつひとつがより強靭で、有無を言わせない。おそらくセットは組まず、そこにあるもの、実際にそこで暮らす人々を撮っているのだと思うが、よくこんな画が撮れるな!とやや茫然とした。

『ボーダーライン』

 FBI捜査官のケイト(エミリー・ブラント)は、巨大化するメキシコの麻薬組織ソノラ・カルテルとその最高幹部であるマヌエル・ディアスを殲滅する為、アメリカ国防総省の特別部隊にスカウトされた。捜査に加わることにした彼女は、特別部隊を率いるブレイバー(ジョシュ・ブローリン)とコンサルタントを務めるコロンビア人元検察官・アレハンドロ(ベニチオ・デル・トロ)と共に、メキシコのフアレスへ向かう。しかし、フアレスでディアスの兄ギエルモの身柄を引き取り移送する途中、カルテルから襲撃を受ける。監督はドゥニ・ビルヌーブ。
 冒頭、派手な立ち入り捜査にびっくりするのだが、これ自体は麻薬取締目的ではない。ケイトたちが立ち入った建物はたまたまカルテルが所有していたもので、その中で「発見」されたものは予想以上に悲惨な状況、そして捜査中の事故でケイトの同僚は死亡する。こういった経緯があってケイトはスカウトを受けるのだが、特殊部隊の捜査方針や作戦内容は、彼女のFBI捜査官としてのモラルを越えた所にあった。
 ケイトはまっとうな人で、FBIである以上法律を守るのが当然だと考え行動する。しかし彼女の持つ倫理観は、特殊部隊の作戦の中で覆されていく。それに反感を覚えつつもそうせざるを得ないというジレンマに彼女は苛まれていく。化け物を殺すには自分も化け物にならざるを得ないということなのだろうか。確かにカルテルの規模(もうケタが違う・・・)や巧妙なやり方に対抗するには正攻法では太刀打ちできないのだろうが、それを国家や正義の名のもとにやっていいものか。ケイトにとって、法と正義を守ることがFBIとしてのアイデンティティだとすると、特殊部隊の任務はカルテルと戦う為とは言え、彼女のアイデンティティを揺るがすものになってしまうのだ。邦題の「ボーダーライン」(原題は『Sicario』。スペイン語で殺し屋のことらしい)は、麻薬が密輸される国境を指すと共に、倫理のボーダーラインも意味しており、上手く機能していると思う。
 ビルヌーブ監督は『プリズナーズ』に引き続きじりじりと消耗させていく演出が実に上手く、冒頭から不吉な予感しかしない。この調子で全編押し通すというのがすごいのだが、緊張感が持続され、見ていて消耗するが気分がだれない。使い方は控えめだが、音楽がまた不穏さをあおる。最近見た映画の中では、特に音楽が効果的な作品だった。
 また本作の凄みは、カルテルとの戦いを描くという側面はもちろんあるのだが、徐々に、もっと個人的な物語が並走していることが見えてくる所にあると思う。終盤は、完全にこのもう一つの物語の方に収束していくのだ。ここまで覚悟を決めて何でもやろうという人には、正論で何を言っても通じない。最早彼岸の彼方にいるようなものだろう。ケイトとこの人物とは、そもそも見えている世界が違うのだ。無常感を強烈に感じるが、一方で、その方向の善悪はともかく、人間の意思の力に大変重きを置いた作品とも言える。それは信念であったり怨念であったりするのだろうが。監督の過去作品『灼熱の魂』も『プリズナーズ』も、人の意思の凄みを描いた作品だった。

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