3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『ホワイト・バレット』

 救急病棟に、頭に銃弾を受けた強盗犯チョン(ロー・ホイパン)が搬送されてきた。警察との銃撃戦で負傷したのだ。チョンから仲間の情報を得たいチャン警部(ルイス・クー)らは殺気立つが、チョンは口を割らない。加えて、至急の手術を勧める医師トン(ビッキー・チャオ)に対しても説得に応じず、手術を拒んでいた。監督はジョニー・トー。
 次々と事件が起き、目まぐるしくスピード感がある。スリリングで引き込まれるが、着地点がずっと見えない不思議な作品だった。医療群像劇サスペンスとクライムサスペンスを無理矢理合体させたみたいだ。また、やたらとエピソード量がありもたれそう。トンが担当する神経外科の患者たち個々のエピソードも語られるのだが、それがやたらと濃い。トンの当初の所見が外れて下半身の自由が奪われたと絶望する青年や、難手術に挑む中年夫婦、認知症らしきにぎやかな老人。1組ずつでも1本の映画になりそうな悲喜こもごもなのだが、それをぎゅうぎゅう詰めにしてくる。チョンと警察のかけひきの伏線となる部分もあるのだが、おおよそはそれほど関係ない。また、トンは外科医なので手術シーンが頻繁に出てくるが、セットも内臓も結構ちゃんと作って撮影している。でも、ストーリー上これもあんまり必要ないんだよね・・・。少なくとも、内臓を出す必要はない。やれることは全部やろうみたいな変な意気込みを感じた。
 登場人物が全員ぴりぴりしており、ややヒステリック。手術を失敗しかけ、自分の技量への自信を失っているトンは情緒不安定だし、チョンに翻弄され汚職まがいの行為に手を出してしまうチャンも、強盗団への対応に右往左往する警官たちも、神経を削られていく。その中心にいるのはチョンだが、彼もまた頭に銃弾が埋まったままで、命のタイムリミットは迫っている。どんどん追い詰められていく緊張感でストーリーを引っ張るが、その緊張感の果ての、謎のクライマックス。いや起きていることは謎じゃないんだけど、見せ方がこうくるの?!というもので、見応えはあるんだけど笑ってしまった。音楽含め、過剰なエレガントさがいきなり投入されるのだ。いきなり奇跡みたいなことが起こってしまうのも、まあありかな!という気分になってくる。

『ポッピンQ』

 中学校卒業を控えた伊純(瀬戸麻沙美)は、陸上部での記録に心残りがあった。浜辺で不思議な石「時のカケラ」を拾った伊純は、「時の谷」と呼ばれる不思議な世界に迷い込む。伊純の他にも時のカケラを持った少女たちが時の谷を訪れていた。彼女らはその世界の住民・ポッピン族の長老から、世界の危機を知らされる。危機を回避するには、時のカケラを持った5人が心をひとつにして踊らないと成らないと言う。監督は宮原直樹。
 東映アニメーション創立60周年記念作品だそうだが、これでいいのか東映?という気が。東映の女児アニメと言えばプリキュア、監督の宮原はプリキュアEDのダンス作画で有名な人なので、作品の方向性と起用としては妥当なのかもしれないが、ドラマ作りがとにかく残念。キャラクターデザインはかわいらしいし動画もいいのに、脚本がどうにも不器用だなという気がした。
 5人の少女はそれぞれ、今の自分を嫌だと思っており、克服したいものがあるがそれと向き合う勇気がない。元の生活に戻りたい気持ちと戻りたくない気持ちの間で揺れている。自分の未来を怖がらなくていい、自分をもうちょっと好きになれるはずというあたりが作品のコンセプトなのだろうが、それぞれの事情が異なるところを「私たち同じだね」と括ってしまうのはちょっと乱暴な気がした。言うほど同じには見えなかったんだよな・・・。また、作品のコンセプトに各キャラクターの言動を添わせすぎようとしていて、セリフが上滑りになっているところが気になった。行動とセリフの流れが取ってつけたように見える。ドラマの運び方がこなれていないということなんだと思う。そのへんが、不器用だなと言う印象の原因か。
 作画的な見所はやはりダンスシーンなのだろうが、これも違和感を感じた。時の谷は人間の世界とは違い、異なる文化が発展している不思議な世界だ。その世界で流れる音楽がいかにもなJポップとアイドル的なダンスというのは、奇妙な感じがする。えっそこだけ人間界と同じなの?と。

『ぼくのおじさん』

 小学生の「ぼく」こと春山雪男(大西利空)は、父・定男(宮藤官九郎)、母・節子(寺島しのぶ)、妹、そして「おじさん」(松田龍平)と暮らしている。おじさんは父の弟で、雪男の家に居候している。大学で哲学の非常勤講師をしているがほぼ無職同然のおじさんは、雪男をダシにして節子から小遣いをもらったりしている。ある日、ハワイの日系4世の女性・エリー(真木よう子)と出会ったおじさんは彼女に一目惚れ。ハワイでコーヒー農園を継ぐという彼女を追う為、何とか渡航費をひねり出そうとする。原作は北杜生の同名小説。監督は山下敦弘。
 『オーバー・フェンス』の次がこれというところに、山下監督の作風の広がりを感じる。深刻さと緊張感の反動がきたかのような、のんびり呑気な雰囲気の作品に仕上がっており、子供連れでも気楽に楽しめる。もちろん、北杜生の原作がそもそもそういう作品なわけだが。
 原作の文章の味わいを活かす方向なのか、山下監督作品の中では珍しく、「芝居」感が強い。本作は現代を舞台にしているので、原作が書かれた時代背景とのギャップもある。しかし、その芝居がかった部分、昔の小説っぽい台詞回しが、結構楽しかった。現代の日常ではあまり使わない言葉遣いをそのまま使うことで、地上から10㎝くらい浮いているような雰囲気が出ていると思う。
 そもそも、現代の日本で、おじさんのような存在が居候している家庭というのは、あまりないだろう。春山家は経済的に困窮しているわけではなさそうだけど、決して豊かというわけでもなさそう。春男が同級生に話す内容によると、定男は一般的な会社員で役職は課長なので、さほど高給取りではないだろう。専業主婦の妻と小学生の子供2人に加えてほぼ稼ぎのない成人1人を養うのは、現実的には結構厳しい。原作が書かれた時代と現代とのギャップを一番強く感じたのがここだった(ほぼ無職の人にお見合い話をもってくることが出来るというのも、現代ではありえないだろう)。しかし、本作で採用されている芝居の在り方、台詞の作り方だと、そのあたりの現実との兼ね合いが、さほど気にならない。
 何より、おじさんを演じる松田にひょうひょうとしたおかしみがあり、彼が演じることで本作が一種のファンタジーとして成立している。むしろ、今の時代だったらおじさんみたいな人の方が、アウトローな主人公として活躍できるんじゃないかなという気もしてくるのだ。
 短いエピソードを積み重ねていく前半の方が、おじさん本人のおかしみがじわじわと出ていて面白かった。後半のハワイパートは話の展開が少々雑だと思う。ただ、後半には後半の良さがある。雪男役の大西の芝居がぐっと良くなり、おじさんと雪男の関係も密になった感じがするのだ。雪男あっての作品だったんだなと改めて納得した。本作は雪男の語り、雪男の視点で話が進むわけだが、雪男がおじさんのことを好きだから、おじさんのキャラクターが愛すべきものとして成立するのだろう。

『香港、華麗なるオフィスライフ』

 (若干ネタバレです)高層ビルにオフィスを構える総合商社ジョーンズ&サンは、ホー会長(チョウ・ユンファ)と敏腕女社長チャン(シルヴィア・チャン)の元邁進し続け、とうとう株式公開を目前に控えることに。ホーとチャンは実は愛人同士だが社内では公然の秘密。新入社員のシアンとケイケイは上司や先輩にしごかれ仕事を学んでいく。副社長でチャンとは愛人関係のあるデイヴィッドは、野心に燃え会社の金に手を出していた。それを隠す為に経理担当のソフィに近づくが。監督はジョニー・トー。
 まさかジョニー・トーの新作がミュージカル仕立てだとは。正直歌唱に関してはおぼつかないところもあるし、楽曲が冴えわたっているわけでもない。華麗なダンスがあるわけでもないのだが、本格的なミュージカルではないところが却って魅力になっていると思う。セットも舞台美術を意識したもので、全ての舞台が一つのフロアにあるような見せ方。パイプっぽい素材を多用して抽象化寄りにしたセットや画面の高低構造等、なんとなく幾原邦彦監督のアニメーション作品を連想した。ジョニー・トーが『輪るピングドラム』や『ユリ熊嵐』を見たということはまずないと思うけど。
 邦題には「華麗なる」とあるが、むしろ生臭い。確かに一見華やかだが、一皮むくと社長にしろ社員にしろ、自分の野心と欲望でギラギラしている。とにかく働き上手いことやってのし上がるぞ!という鼻息が荒いのだ。私はこういうギラギラした上昇志向がちょっと苦手なので、正直辟易とした。見ている分には楽しいと言えば楽しいけど、だんだんギラつきにあてられて心が疲弊していくんだよね・・・。映画の良しあしとは関係なく、あーこれは私にフィットする世界ではないわ・・・という気分になる。時代背景はサブプライムショック前後なのだが、ジョニー・トーの2011年の監督作品『奪命金』もまさにサブプライムショックを背景にしていた。投資の麻薬性、ちょっと欲を出したところ自分ではどうしようもないものによってカオス化していく、というシチュエーションが監督の琴線に触れるのだろうか。短時間で転落するからドラマ化しやすいということかもしれないけど。
 チャンは清廉潔白な善人というわけではなく、色々画策し、長年協力してきたパートナーを裏切りそうな動きも見せる。とは言え、彼女は本作の登場人物の中で、唯一かっこよく見えた。彼女には彼女なりのモラルがあり、最後まで筋は通すのだ。最後、エレベーターから出ていく姿はむしろ清々しい。自覚せずに他人を(自業自得とは言え)破滅に追い込んでしますシアンや、結局実家の傀儡に見えてしまうケイケイは、自分の筋みたいなものがまだ出来上がっていないのだろう。とは言え、最後に「君の勝ちだ」と言われる人は・・・。結局金の出元が一番強いということか。

『ホース・マネー』

 リスボンのスラム、フォンタイーニャス地区に暮らす男・ベントゥーラ。彼はアフリカからの移民だ。病院に収容されたヴェントゥーラは、故郷で飼っていたいた馬(ホース・マネー)と故郷に残してきた妻を思い出す。そして1974年に起きたカーネーション革命、その中で革命軍(MFA)によってここに連れてこられたと語りだす。これは彼の記憶なのか、それとも他の誰かの記憶なのか。監督はペドロ・コスタ。
 ペドロ・コスタ監督はリスボンのスラムを舞台として映画を撮り続けている(本作には過去作の映像の一部も組み込まれている)が、ポルトガルの光と闇のようなものを感じさせる。といっても光の部分は殆どないのだが・・・。これは影の部分が強烈な濃さを持つビジュアルからも感じるのだが、ポルトガルの歴史、そして現在の陰の部分を垣間見ている気もするからだ。無血革命と言われるカーネーション革命だが、ベントゥーラの前に現れる亡霊(らしきもの)は恐怖を訴える。ベントゥーラの故郷であるアフリカ、カーポ・ヴェルデは元々ポルトガルの植民地で、植民地時代の人々の過酷な記憶がよみがえる。また、フォンタイーニャス地区の人々の暮らしは、観光地でもあるリスボンの明るいイメージからはかけ離れたものだ。本作で映し出されるのは廃墟となった工場や企業の社屋、入り組んだスラムの家々(というよりも部屋)だ。ポルトガルに限ったことではなく、人が住む場所、住んできた場所であればどこでも、こういった陰の記憶、歴史を帯びてくるものだと思う。
 冒頭、ベントゥーラが地下道を抜けてふと気づくと病院に入っているシークエンスは、最早SFのようだ。歴史上の出来事と、ベントゥーラの周囲の個人的な出来事とが混在していく。幽霊と生きた人間との境は曖昧、いやむしろ生きている人間も幽霊のように見えてくる。ベントゥーラはじめ、本作に登場する人たちは社会の端の方に位置する、社会に見捨てられた(と本人が思っている)人たちだ。いないとされているという意味では、幽霊と似通っているのかもしれない。
 闇の黒の深さ、ひとつひとつのショットのわけのわからない不吉さは、黒沢清監督作品にどこか似ている気もする。本作の方がショットのひとつひとつがより強靭で、有無を言わせない。おそらくセットは組まず、そこにあるもの、実際にそこで暮らす人々を撮っているのだと思うが、よくこんな画が撮れるな!とやや茫然とした。

『ボーダーライン』

 FBI捜査官のケイト(エミリー・ブラント)は、巨大化するメキシコの麻薬組織ソノラ・カルテルとその最高幹部であるマヌエル・ディアスを殲滅する為、アメリカ国防総省の特別部隊にスカウトされた。捜査に加わることにした彼女は、特別部隊を率いるブレイバー(ジョシュ・ブローリン)とコンサルタントを務めるコロンビア人元検察官・アレハンドロ(ベニチオ・デル・トロ)と共に、メキシコのフアレスへ向かう。しかし、フアレスでディアスの兄ギエルモの身柄を引き取り移送する途中、カルテルから襲撃を受ける。監督はドゥニ・ビルヌーブ。
 冒頭、派手な立ち入り捜査にびっくりするのだが、これ自体は麻薬取締目的ではない。ケイトたちが立ち入った建物はたまたまカルテルが所有していたもので、その中で「発見」されたものは予想以上に悲惨な状況、そして捜査中の事故でケイトの同僚は死亡する。こういった経緯があってケイトはスカウトを受けるのだが、特殊部隊の捜査方針や作戦内容は、彼女のFBI捜査官としてのモラルを越えた所にあった。
 ケイトはまっとうな人で、FBIである以上法律を守るのが当然だと考え行動する。しかし彼女の持つ倫理観は、特殊部隊の作戦の中で覆されていく。それに反感を覚えつつもそうせざるを得ないというジレンマに彼女は苛まれていく。化け物を殺すには自分も化け物にならざるを得ないということなのだろうか。確かにカルテルの規模(もうケタが違う・・・)や巧妙なやり方に対抗するには正攻法では太刀打ちできないのだろうが、それを国家や正義の名のもとにやっていいものか。ケイトにとって、法と正義を守ることがFBIとしてのアイデンティティだとすると、特殊部隊の任務はカルテルと戦う為とは言え、彼女のアイデンティティを揺るがすものになってしまうのだ。邦題の「ボーダーライン」(原題は『Sicario』。スペイン語で殺し屋のことらしい)は、麻薬が密輸される国境を指すと共に、倫理のボーダーラインも意味しており、上手く機能していると思う。
 ビルヌーブ監督は『プリズナーズ』に引き続きじりじりと消耗させていく演出が実に上手く、冒頭から不吉な予感しかしない。この調子で全編押し通すというのがすごいのだが、緊張感が持続され、見ていて消耗するが気分がだれない。使い方は控えめだが、音楽がまた不穏さをあおる。最近見た映画の中では、特に音楽が効果的な作品だった。
 また本作の凄みは、カルテルとの戦いを描くという側面はもちろんあるのだが、徐々に、もっと個人的な物語が並走していることが見えてくる所にあると思う。終盤は、完全にこのもう一つの物語の方に収束していくのだ。ここまで覚悟を決めて何でもやろうという人には、正論で何を言っても通じない。最早彼岸の彼方にいるようなものだろう。ケイトとこの人物とは、そもそも見えている世界が違うのだ。無常感を強烈に感じるが、一方で、その方向の善悪はともかく、人間の意思の力に大変重きを置いた作品とも言える。それは信念であったり怨念であったりするのだろうが。監督の過去作品『灼熱の魂』も『プリズナーズ』も、人の意思の凄みを描いた作品だった。

『放浪の画家ピロスマニ』

 19世紀後半、グルジアのチフリス(トビリシ)に暮らすニコロズ・ピロスマナシュヴィリ(アヴタンディル・ヴァラジ)、通称ニコ・ピロスマニは、幼くして両親を亡くし、知人の家で育った。長年世話になった家を離れたピロスマニは、町に出て友人と乳製品店を始めるが、仲たがいをして破綻。やがて居酒屋に飾る絵や看板を描いて生活するようになる。彼の絵は町を訪れた芸術家の目に留まり、中央の画壇に紹介されるようになるが。監督はギオルギ・シェンゲラヤ。
 ピロスマニの作品は本作を見て初めて知ったのだが、映画のショットのひとつひとつがピロスマニの絵に似た雰囲気だ。平面的で輪郭がくっきりとしており、どこかイコンのようでもある。ピロスマニの作品はどこかルソーを思わせる素朴かつ独特な作風。魅力があるが、いわゆる古典的な技法からは程遠いので、当時の画壇では確かに異端扱いされそうだ。映画の序盤、なぜか南国風な観葉植物やカラフルな色合い、真正面を向いた人物たちはそれこそルソーの絵のようだった。
 ピロスマニが、注文主の言うとおりに絵に物を描き加えるのにはあっさりと応じるのに、牛の色が注文と違うと言われると、この色じゃないとダメなんだと自分のやり方を曲げないあたりに、独自の基準が見える。独自のこだわりはあるが、彼は社会に適応できないというわけではない(実際、商売をやっていた当時はそれなりに繁盛している)。自分の中のある一線に触れられることを許さないという感じなのだ。途中、「人生の喉に自分がひっかかっている」と言うのだが、これは上手い言い方だなと思った。周囲の流れとちょっと異質になってしまってスムーズに動けない感じなのだろう。異質になる要素の大部分はおそらく彼の芸術に反映されたろうから、人生の喉が彼を飲み込んだら作品は残らなかったかもしれない。
 ピロスマニは、無名の頃の方が「町の画家」として周囲に素直に受け入れられていたように思うし、彼の作品もそれなりに大事にされている。中央の画壇が評価しなかった、それが新聞記事になったことで周囲が一斉に彼に背を向けるというのが何とも悲しい。それまで彼の絵に対して持っていた感情は何だったんだろうと。


『ホワイト・ゴッド 少女と犬の狂想曲』

 ブタペストに住む13歳の少女リリ(ジョーフィア・プショッタ)は、母親の出張中、離婚した父親ダニエル(シャーンドル・ジョーテール)に預けられる。愛犬のハーゲンも一緒だったが、雑種犬に重税が課せられることを知り、ダニエルはハーゲンを捨ててしまう。ハーゲンはリリの元へ帰ろうと町をさまようが、とうとう保護施設に捕獲される。一方リリも、ハーゲンを探し回っていた。監督はコーネル・ムンドルッツォ。第67回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門グランプリとパルムドッグ賞受賞作品。
 これが「ある視点」部門かと思うと、なにかカンヌに対する見方が新鮮になるな(笑)。自分にとっては珍作の類なのだが、面白いことは面白い。なにしろ犬が皆名演なので、パルムドッグ賞には納得。というか、本作以上にパルムドッグ賞にふさわしい映画はなかなかないだろう。特に主演のハーゲン役の犬(2頭で演じているそうだ)はすごく表情豊かで真に迫った動きを見せる。ハーゲンをちょっと擬人化して描きすぎな気がしたのだが、これだけ「演技」してくれたらつい感情移入するように演出したくなっちゃうだろう。
 動物が襲ってくる系パニック映画ではあるが、犬たちは無差別に人間を襲ってくるわけではない(犬の集団が町を駆け抜けるが、持ち物を奪ったりぶつかったりという行為はあっても、噛みつく行為は殆ど描かれない)。彼らは自分たちを虐待した個々の人間に対して復讐していくのだ。ハーゲンはリリのことを恨んでいるのか、それとも慕い続けているのか、というクライマックスに向けて、犬たちが走り続ける終盤は圧巻(よくこれだけの数の犬をトレーニングしそれぞれに演技させたな!という驚きも含み)だ。
 リリとハーゲンの関係に比べると、父親や音楽教師らとの関係は、同じ言語を使っているのにどこかよそよそしい。ハーゲンはリリに最も近い、自分の魂の一部のような存在でもある。ただ、ハーゲンと親密だからこそ父親との関係が冷ややかであるようにも見えるのだ。ハーゲンが姿を消すと、リリは激怒するものの、ある事件を契機に徐々に父親とお互いに理解しようとするようになる。自分の内面とのつながりと、自分をとりまく社会的なものとのつながり、リリがその間でゆらぐ様を表しているようでもあった。

『ボーダレス 僕の船の国境線』

 国境沿いの水辺に放置された廃船に寝泊まりしている少年(アリレザ・バレディ)。魚や貝細工を売って生活していたが、ある日反対側の国境から、少年兵の恰好をした闖入者が現れる。言葉は通じず、船内に勝手に「国境」を作る闖入者に少年は苛立つが、ある事件をきかけに関係が変化していく。監督はアミルホセイン・アスガリ。
 先日ドイツ映画『ぼくらの家路』を見た時にも思ったのだが、子供の動きってせわしない。よく動き、よく働く。親に頼れない子供(少年の家族については作中で言及がないが、ほぼ1人で生活しているみたい)は自分で働くしかないもんなぁ・・・。動きがせっかちすぎてちょっとイラつくところもあるのだが、エネルギッシュだ。廃船で暮らす少年繋がりで、やはりイランの映画監督であるアミール・ナデリの『駆ける少年』も連想した。
 ただ、本作は少年がよく動く割にはこぢんまりとしている。闖入者がターバンを解いているシーンで、あーそういうやつ・・・という一種の型にはまっちゃった感じ。ただ、これは舞台となった世界の外側の文化圏から見ているからそう思うのであって、文化を同じくする人たちが見たらまた違うのかもしれないけど。
 船の中の生活には、ある種の疑似家族、ユートピアの片りんのようなものも見えてくる。国が違う、言語が違うとか言っていられない、違ってもなんとかしないとならない事態が舞い込むことによって、結果的にそういうものがもたらされる。しかしそれはかりそめのものだ。そのはかなさ、あっけなさが印象に残った。

『ぼくらの家路』

 10歳のジャック(イボ・ピッツカー)は6才の弟マヌエルと、シングルマザーの母親と3人で暮らしている。ある事情で母弟と離れて施設で暮らすようになったジャックは、施設に馴染めず、家族と会える夏休みを心待ちにしていた。しかし夏休み前日、母親から迎えに行けないという電話が入る。ジャックは落胆し、加えてある事件を起こしてしまい、施設を飛び出して家を目指す。監督はエドワード・ベルガー。
 ジャックは10歳にしては実によく働く。弟を起こして着替えさせ、朝食を用意し、買い物に行き、弟の遊び相手をする。施設でも素直に料理の手伝い(野菜を切ったりする)をするのだが、普段からこういうことをやり慣れている子なんだなということがわかる。作中、ジャックは常に動き回っていて落ち着きがないのだが、常に何かに追われているようでもあった。自分がちゃんとしないと、という気持ちがいつも付きまとっているように見え、健気ではあるが、どこか痛々しくもある。
 ジャックはマヌエルを連れて、いなくなった母親を探し回る。仕事場や昔の恋人など、そこら中を訪ねて回るのだが、大人たちはそっけない。そんなものかという気もする(他人の子供だしなぁ)けど、もうちょっとフォローを、と思ってしまう。とはいえ、ジャックにとってそういった(施設のような)フォローは自分と家族とを邪魔するものという認識にもなるのだろう。母の元恋人の判断はまあまあ順当なのだが、ジャックは激怒する。彼にとっては、母親と弟と一緒に暮らすことが何より大事なのだ。
 それだけに、終盤のシーンはぐさりと突き刺さる。ジャックが子供であることを断念したことが、表情にありありと現れているのだ。10歳の子供がこういう判断をせざるをえないのは、やはり残酷なことだと思う。彼はここで子供であることをやめたんだな、ということがはっきりとわかるのだ。
 ただ、彼らの母親を強く責める気にもならなかった(見る人によってはすごく腹が立つかもしれないけど)。幼い子供を放置したのは大問題ではあるのだが、彼女はまるで駄目な母親というわけでもない。自宅の室内もそれなりにきちんとしているし、子供たちのことを可愛がっているのは間違いないのだが・・・。ぽこっと母親としての意識が抜けちゃう時があるって感じなのだが、常に母親で居続けるというのも難しいと思うんだよね・・・。

ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ