母エブリンと、高校生のジギー(フィン・ウルフハードネット)は、弾き語りライブ配信で2万人のフォロワーを集めている。その母親エブリン(ジュリアン・ムーア)はDV被害に遭った人々のためのシェルターを運営している。配信で頭がいっぱいなジギーは両親を煩がっており、社会奉仕を身上とするエブリンは自分のことにしか興味がない息子を理解できない。ことあるごとに2人はすれ違う。監督はジェシー・アイゼンバーグ。
ジェシー・アイゼンバーグは言うまでもなく俳優としての評価は高いが、監督としての手腕もかなりのものだった。本作、特に奇をてらった所がなく、スタンダードに「ちょっといい小品」的なたたずまいを見せている。すごく映画っぽいな!という当然といえば当然な印象を受けたのだが、間合いの取り方や場面の切り替え方、そして終わり方が映画的なんだと思う。映画をよく見ている人が作った映画という感じがした。
そして人の「イタい」部分の捉え方が非常に上手い。ジギーは自身の配信がそこそこ人気があるというのが自慢で、片想い相手の同級生の前でいちいち口に出してアピールする。しかし彼女が興味を持っているのは政治や環境問題なので、彼のアピールは全然響かない。ジギーはじゃあ自分も社会問題を歌に織り込んでみようと張り切るものの、浅知恵でできることはたかが知れている。一方、エブリンはジギーとは対称的に社会の為、他人の為に何かしようという奉仕意欲が旺盛でおそらく有能だ。ただ、彼女が行う人の為にという行為は、相手にこうであってほしい、こうあるべきという自身の思い込み時に強く反映されてしまう。彼女が思う「よかれ」と相手にとってのベストとは違うのだ。シェルター入居者の息子にあらまほしき息子の姿を見出してしまいあれこれ世話を焼くエブリンの行動はかなりイタいし、正直な所思い込みが強くて怖い。シェルター運営者であるエブリンは入居者にとってはある種権力者であり、その力関係は対等ではない。相手にとって彼女の申し出は断りにくいのだ。そういった意識が彼女には欠けている。この傾向は職業上致命的と思われるので、彼女はこの先大丈夫だろうかと心配になってしまう。
ジギーとエブリンは相容れないようであって、実はとても良く似ている。ジギーの父親(エブリンの夫)が指摘するように、利己的なのだ。形は違えど自分先行な考え方で、相手がどのように考えているのか頓着しない。邦題には「交わるまで」とあるが、本作は交わる所まで行っていないように思える。原題は「When You Finish Saving the World」なのだが、つまりそんな瞬間来ないということか。