3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ』

 1920年代、ニューヨーク。フィッツジェラルドやヘミングウェイを世に送り出した編集者、マックス・パーキンズ(コリン・ファース)の元に、無名作家のトマス・ウルフ(ジュード・ロウ)が原稿を持ち込んでくる。彼の才能を見抜いたパーキンズはウルフに協力して原稿の手直しに励み、処女作『天使よ故郷を見よ』はベストセラーに。次の作品の為、2人は昼夜を問わず大量の原稿の校正を続ける。パーキンズは家庭を犠牲にしていると妻に諌められ、ウルフの恋人アリーン(ニコール・キッドマン)は2人の関係に激しく嫉妬する。やがてウルフはパーキンズがいないと作品を完成できないと揶揄されたことに腹を立て、2人の関係にも亀裂が走る。原作はA・スコット・バーグ『名編集者パーキンズ』、監督はマイケル・グランデージ。
 トマス・ウルフの作品を特に読んだことがなくても、パーキンズのことを知らなくても大丈夫な作品だが、フィッツジェラルドやヘミングウェイのことは(本作での登場時間は短いのだが)知っておいた方が楽しめると思う。特にフィッツジェラルドは『グレート・ギャツビー』の後、長いスランプ時期に入っており、妻が精神的に不安定なこともあり生活が厳しい。苦境のフィッツジェラルドをパーキンズが以前と変わらず支え続けていることがわかる描写もあり、パーキンズの人柄がわかる。
 ウルフはどちらかというと奇人変人扱いされるであろう人柄で、声は大きくテンションの上がり下がりが激しい。執筆量はやたらと多く、1作品の原稿が木箱数箱に入れられ編集室に届くというシーンもある。これを書きたい、という意欲が旺盛だというよりも、頭の中で言葉が渦巻いており、書き出さずにいられないように見える。キッチンで立ったまま原稿を書くウルフの姿は、何かに追い立てられているようだった。一語を絞り出すのに必死だというフィッツジェラルドも大変そうだが、ウルフの言葉の過剰さは、これはこれで大変そう。
 ウルフは対人関係でもテンションの上がり下がりが激しく、好意を持った相手にはぐいぐい押してくる。ウルフにとってパーキンズは初めて自分の作品を認めてくれた相手ということもあり、パーキンズを深く信頼するようになる。執筆している間は作家は孤独で苦しいだろうと思うが、その苦しさを理解してくれる相手がいるという喜びが、2人で作業を進める様には充ちている。
パーキンズも才能ある作家に信頼されてもちろん悪い気はしないので(演じるジュード・ロウが久しぶりにキラキラ感全開で押してくるので、そりゃあ悪い気はしないな!と妙に納得する)、彼との仕事にはどんどんのめり込んでいく。作家の才能がどんどん開花していく様を目の当たりにし、その手助けをするというのは、やはり他の仕事では味わえない喜びがあるのだろう。その喜びの代えがたさみたいなものが、そこに立ち入ることができないアリーンやパーキンズの家族にとってはやりきれなかったのだろうが。
 ウルフの信愛は直球だが、不信が芽生えるとそれに蝕まれるスピードも速く、こういう人と付き合うのは仕事相手としても友人としても、実に大変そう。フィッツジェラルドに暴言をはいたウルフをパーキンズが叱責するシーンがあるが、ウルフは多分、何で怒られてるのかぴんとこなかったんじゃないか。書けない状態を想像できないことに加え、パーキンズが自分以外を尊重するということが念頭にない感じ。こういう形で過剰に信頼を寄せられるというのも、なかなかきついものがある。パーキンズは実に人間が出来ていた(家族から見たら別の意見があるだろうけど、作中では妻はパーキンズの仕事を尊重している)んだろうな・・・。才能ある者から離れられない性分という側面もあったのかもしれないが、すごく抑制のきいた振る舞い方。コリン・ファースにははまり役だったと思う。ファースが演じることで人徳感が上がっている気がしなくもない。

『ヘイル・シーザー!』

 1950年代のハリウッド。超大作映画『ヘイル・シーザー!』の撮影中、主演スターのウィットロック(ジョージ・クルーニー)が誘拐された。スタジオの何でも屋(ジョシュ・ブローリン)は事件解決に奔走する。監督・脚本はジョエル&イーサン・コーエン。
 予告編だと何でも屋が個性豊かなスターたちの力を借りて事件解決に乗り出す、みたいな話のようだが、実際は何でも屋が1人で奔走しており、スターたちはむしろちょっとしたトラブルを上乗せしていくような存在。ユルーい群像劇みたいな感じで、キャストが豪華な割にはそれぞれの見せ場はそれほどない。ヒロインぽく見える(というか通常ならヒロインであろうスカーレット・ヨハンソンの出演時間が意外と短くてびっくりした。逆に、華を添えるという意図なのかと思っていたチャニング・テイタムが、フレッド・アステアばりのニュージカルシーンを見せるわ、まさかの大活躍(?)だわで、なかなか意表を突かれた。また、全くノーマークだったアルデン・エーレンライクが大変チャーミング。アクションはピカイチだがそれ以外はとんでもなく大根というカウボーイ俳優役なのだが、一見とっぽいのに実は結構常識人で聡明という、おいしい役どころだった。他のキャストがいわゆるスターばかりなのだが、彼が一番印象に残っているというのは、やっぱりすごいのではないか。
 何でも屋が誘拐事件を解決するという本筋よりも、撮影所内で製作されている映画の製作現場の様子や、撮影されたワンシーンの方がインパクトがあり魅力的。この撮影中の映画、全編見てみたいなと思わせるのだ。大根役者の箸にも棒にもかからない演技が、フィルムを編集すると何となくそれなりに見えるようになる、という映画のマジックも垣間見られる。当時のハリウッド映画に詳しい人なら、この映画の元ネタはこれでは、この監督のモデルはあの人ではみたいな部分がわかるのかもしれない。全てのシーンが「こんな映画あった気がする」ものに見える。映画撮影のセットのセットを作って映画を撮っている映画を撮る、というメタ映画なので、映画好きならより楽しめるだろう。きつい仕事に不満たらたらで他業界からのスカウト話に揺れる何でも屋も、結局は映画が好きで、映画製作に誇りを持っているのだ。
 ただ、映画愛に満ちた映画ではあるが、映画やハリウッドを絶賛しているわけではない。ハリウッドの人たちは俳優も監督も記者たちもどこかうさんくさく、品行方正とは程遠い。ウィットロックが誘拐された理由も真面目は真面目だけどどこかマヌケだし、犯人たちの描写も、真面目なんだかふざけているんだか(コーエン兄弟が脚本家としても活躍していることを考えると、かなり自虐的というかふざけていると思う)。一見華やかな世界だが、その実滑稽だったりあくどかったりする。でも、そういう素地の上に何か美しいものが出来上がっていくという所が、映画を作る側にとっての醍醐味であり矜持なのか。
 なお、前述したチャニング・テイタムによるミュージカルシーンで、「海の上には女がいない」と歌う部分があるのだが、テイタムの歌と踊りを見ていると、女はいないけどテイタムがいるからいいじゃん!って気になってくる。これ、終盤の展開を考えるとかなり意図的にそうしているのではないかと思う。

『ヘイトフル・エイト』

 南北戦争から約10年後のワイオミング。雪の中、賞金稼ぎのジョン・ルース(カート・ラッセル)は逮捕したデイジー・ドメルグ(ジェニファー・ジェイソン・リー)を処刑する為、彼女を連れてレッドロックへと馬車を走らせていた。道中、立ち往生していた賞金稼ぎのマーキス・ウォーレン(サミュエル・L・ジャクソン)、新任の保安官だと自称しているが南部の略奪団として知られるクリス・マニックス(ウォルトン・ゴギンズ)が同乗し、レッドロックへの中継地点である「ミニーの紳士用品店」に到着。しかしミニーは不在で留守を預かるメキシコ人のボブ(デミアン・ビチル)、絞首刑執行人のオズワルド・モブレー(ティム・ロス)、カウボーイのジョー・ゲージ(マイケル・マドセン)、そして南部の元将軍サンディ・スミザーズ(ブルース・ダーン)が先客としていた。ルースはこの中にドメルグの仲間がいるのではと疑う。監督・脚本はクエンティン・タランティーノ。
 吹雪による密室!山荘に閉じ込められたいわくありげな8人!ときたらもう殺人が起こるしかないよねと考える本格ミステリ脳な私ですが、本作は本格ミステリではない。確かに殺人は起きるしウォーレンが探偵的な役割を果たすのだが、もう犯人云々の世界じゃないんだよなこれ・・・。通常のミステリだったらこれは伏線に違いない!というパーツは随所にあるのだが、それは全てスルーされるし本格ミステリとしての禁じ手をあっさり使うので、いわゆる論理的な謎解きに頓着した作品ではない。むしろ、ミステリとしてのプロットは大味(でも「それっぽい」ことはちゃんとやっており嬉しくなった)で、B級のシナリオを超A級の演出・撮影・美術で撮りましたという印象だった。こんな大味な話でここまで映画として迫力・見応えのある作品に仕上げられるって、タランティーノの才能って本当にすごいんだなと実感した。
 本作の魅力であり、「ああ映画を見ている!」という感慨を与えてくれるのは、やはり映像だ。映画だから映像を見て感慨にふけるのは当然なのだが、本作の映像はこれが映画だ!と大声で訴えてくるような感じがする。冒頭の、雪原を駅馬車で走るシーン、丘の向こうから馬車がやってきて丘を越えるといったパノラマが素晴らしいのだが、それは風景が素晴らしいからとも言えるだろう。本作のすごさは、その素晴らしさ、パノラマ感が密室劇になってからも持続されるところにある。ほぼ密室劇なのに閉塞感や狭さは感じさせず、カメラは縦横無尽に動き回り、ショットがワンパターンにならない。限られた空間でよくこれだけバリエーションが出るなーと感心する飽きのこなさ。室内のセットがカメラの動線も考慮してすごくよくできているということなのかな・・・。この種田陽平による室内セットは細部まで見事。私は種田の映画美術はちょっとファンシーすぎる気がして好きではないのだが、本作はすごくよかった。
 本作の舞台背景は南北戦争の約10年後ということで、南北の溝はまだ深く、戦争の記憶もはっきりとしている時期だ。これが結構大きな要素になっている。密室内が北V.S.南のようになってくるのだ。アメリカという国家にとって重要な戦争は第二次世界大戦ではなくて南北戦争なんだなぁと実感する作品でもある。タランティーノは『イングロリアス・バスターズ』では第二次世界大戦を舞台とし、『ジャンゴ』では奴隷制度との戦いが背景にあり、本作では南北戦争後のしこりを取り上げている。彼なりにアメリカの精神史みたいなものを追おうとしているのかなとも思った。

『ベテラン』

 特殊強力事件担当の広域捜査隊のベテラン刑事ドチョル(ファン・ジョンミン)は、悪人逮捕の為には手段を選ばず、人を殴る為に刑事になったとまで言われている。あるパーティーで財閥の跡取り息子であるテオ(ユ・アイン)と出会うが、後日、財閥の関連企業の社員が自殺を図る。自殺の裏にテオが絡んでいるのではと直感したドチョルは独自に調べ始めるが、財閥の息がかかった警察上層部によって捜査の打ち切りが命じられる。それにも負けずドチョルは事件を調べ続けるが、テオは次々と妨害工作を仕込んでくる。監督はリュ・スンワン。
 韓国の娯楽大作って、盛って盛ってまた盛って!くらいのハイカロリーなイメージがあったのだが、本作はサービス精神旺盛ながらも見せ方はスマート。一見泥臭いのだが、切り上げどころがいいというか、洗練されていて見やすい。個人的にはもっとローカロリーでもいいくらいだが。
 ドチョルは豪快かつ暴力的、頭は切れるもののそれ以上に腕に物を言わせる、いわゆるマッチョなタイプと言えるだろう。こういうタイプの主人公だと往々にしてセクハラ的発言が出やすいものだが、ドチョルは意外なほどにそういう振る舞いをしない。紳士という雰囲気ではないが、仲間である以上は男女関係なくフラットな接し方だ。同僚に女性刑事はいるが、いわゆるマスコット的な存在ではなくしっかりと戦力だし、女性としての立ち位置をどうこう言われることもさほどない。このあたり、時代に即して韓国の娯楽映画が成熟してきているということじゃないかなと、何だか新鮮だった。
 時代に即してと言えば、作中で「大企業は聖域」(捜査できない)と警官たちが揶揄するシーンがあるのだが、これは現代の韓国社会内での感覚を反映しているのだろうか。とすると、大企業の恩恵にあずかれない一般人にとっては、大分絶望感深いんじゃないかと思うが・・・。そんな中だからこそ、ドチョルの「金よりも(刑事としての)プライド」という譲らない態度によりぐっとくるのでは。敵であるテオが清々しくクズな悪役なので、思う存分広域捜査隊の面々を応援できるという側面もある。ちょっとキャラクターとして出来すぎな感じもするのだが、いい悪役がいる物語はやはり盛りあがる。
 ドチョルとテオの戦いが、最後はなぜかガチンコ勝負に持ち込まれるというのは、非常に少年漫画的で笑ってしまうところもあるのだが、こういうやり方でないと身柄を確保するだけの罪状を作れない、というシチュエーションでもある。ああいう場に引っ張り出して多数の証人を作り、言い逃れできなくするしかないということだろう。それもまた複雑な気持ちになる。一歩間違うと、冷静な捜査からは外れてしまいそう。ポピュリズム至上主義や密告社会になりかねないのではと。

『ベルファスト71』

1971年、北アイルランドでの紛争激化に伴い、イギリス軍が派遣された。ベルファストに着任した新兵のゲイリー(ジャック・オコンネル)は、パトロール中に争いに巻き込まれ、一人取り残されてしまう。監督はヤン・ドマンジュ。ジャック・オコンネルって『ユナイテッド ミュンヘンの悲劇』で主演だった人か!主演作が渋い。アイルランド紛争について多少知識がないと苦しいかもしれないが、地味に面白い作品だった。
イングランドに対する敵意あふれる地域から、ゲイリーは果たして生還できるのかという脱出劇としてのサスペンスが軸になってはいる。ただ同時に、北アイルランド側も一枚岩というわけではない。IRAの中にも、穏健派と過激派がいるし、また地域住民の中にも、カトリックもいればカトリック排斥派もいる。IRAの中にも、イングランド軍に協力して工作やスパイ行為をしている者もいる。この彼が切り抜けられるのかどうかもサスペンスの一つだ。更に、この人は、あの人は無傷でいられるのかという、スリリングさに満ちている。そのくらい情勢が緊迫しており、解決の糸口も見えにくいということなのだが。こういう紛争の厄介なところは、落とし所を非常に作りにくいということなんだろうなぁ。
ゲイリー以外は全員何かを欺き、腹に一物持っているようなわけありの人たちなのだ。アイルランドの複雑な歴史背景と政治状況が絡んでおり、ゲイリーはそこに巻き込まれていく。新兵だったゲイリーが無垢さを失っていく物語でもあり、紛争の落とし所の見えなさとあいまって後味は苦い。ゲイリーの幼い弟に対する態度が、また苦さを深めるのだ。あの場で死んだあの人たちにも、こういう幼い弟妹や子供がいたのではないかと。
それにしても、子供の頃から「敵」に対する憎しみを植えつけられている様を見るのはきつかった。子供は大人の言動をまねるってことなんだろうけど、小さな子供も「敵」を罵倒し投石をする。なんで彼らが敵とされているのかもわかってないんじゃないかと思うが。彼らが育ってまた自分の子供に憎しみを植えつけていくのか。そりゃあ紛争なくならないよなぁとやりきれなくなる。

『ベイマックス』

 吹き替え版で鑑賞。サンフランソウキョウ(このネーミングはなんとかならなかったのか・・・)で大学生の兄タダシ(T・J・ミラー/小泉孝太郎)と叔母と暮らす14歳のヒロ(ライアン・ポッター/本城雄太郎)は、違法なロボット格闘賭博に夢中だった。ヒロを心配したタダシは大学のラボに彼を連れていく。ヒロは大学進学を望むようになるが、タダシは火事に巻き込まれ死んでしまう。ショックを受けひきこもっていたヒロの前に、タダシが遺したケアロボット、ベイマックス(スコット・アツィット/川島得愛)が現れる。監督はドン・ホール&クリス・ウィリアムズ。
 サンフランシスコと東京のイメージを合わせた町が舞台なのだが、地形のアップダウンが激しく、路面電車などもあって雰囲気が楽しい。まず舞台のつくりこみが魅力的にできているのだ。看板やモブの人たちにいたるまで、細部のつくりこみは流石。この部分で最初に引き込まれた。
 ヒロを始め、キャラクターそれぞれの造形が型にはまったり一面的になりすぎないように注意がはらわれていて、好感が持てる。特にタダシの研究室仲間たちは、いわゆる理系オタクだったり紅一点(女子は2人いるんだけど)の「こうであろう」という枠にはまらない、かつ「キャラ」としてある程度わかりやすいという配慮がされておりバランス感覚が感じられた。ワサビの極度な几帳面さや融通のきかなさは、世の中では「ちょっと困った人」とか「チームメイトとしてはやりにくい」とカテゴライズされそうが、本作の中ではそういう扱いではなく、「そういう人」というだけのことだ。
 また、いわゆる「敵」ポジションのキャラクターや、「いけすかない」キャラクターであっても、最初から「敵」だったわけではないし、いけすかない奴だから悪い奴だというわけではない、という作り方。あるキャラクターがかなり切羽詰まった状況なのに、空飛ぶベイマックスを見て「あの空飛ぶロボットやるなー!」みたいなことを言うのには笑ってしまった。根っこはそういう人なんだなと。
 ただ、これらのキャラクター造形・配置に関する配慮と、ベイマックス本体をめぐる物語とは、実のところあんまり絡みどころがなかったんじゃいかなとも思った。親しい人を亡くしたヒロがそれを受け入れていく物語に、ヒーローという存在にスポットを当てた物語を無理やり組み込ませたように見えたのだが、これもとも とはどちらが先にあった物語のアイディアだったんだろうか。
 とはいえ、ベイマックス自体は大変かわいらしいし、兄がベイマックスに託したものを、ヒロが理解していく過程にはぐっとくる。ベイマックスがヒロにまた託すことになるというところには、さらにぐっとくる。


『ヘウォンの恋愛日記』

 大学生のヘウォン(チョン・ウンチェ)は教授で妻子のあるソンギュン(イ・ソンギュン)と恋人同志だった。関係を終わらせるつもりだったヘウォンだが、母親がカナダに移住することになり、寂しくてソンギュンに連絡をとってしまう。監督、脚本はホン・サンス。オープニングとエンドロールの背景の色の美しさには、ギョーム・ブラック監督『女っ気なし』を思い出した。別に意識し合っているわけじゃないだろうけど、乾いた肌触りがちょっと似ている気がする。ヘウォンの現実と眠っている間の夢が入り混じり、全部がヘウォンの夢で、彼女はまだ目覚めていないのではと思わせるラストシーンが美しい。
 ホン・サンスは恋愛のしょうもなさとか、恋する人のかっこ悪さを好んで描く。辛辣というほどではないのだが、そこずいぶんストレートにくるな!オブラートにくるんで!って気分になるところも。恋の方針が定まらずふらふらしているヘウォンにもハラハラするのだが、ソンギョンはそんなものの比ではないしょうもなさ。彼がヘウォンと男子学生の交際を知って逆ギレするところでは爆笑しそうになった。「あんな子供となんて」って、その子供と同年代の女性と交際しているお前は何なんだ!って話である。自分のお気に入りの音楽をいちいち雰囲気づくりの為にかける(何かカセットウォークマンぽい機械だったんだけど、今時あんなの使う人いるのか?そもそもなぜイヤホンしないの?)のもナルシストっぽくて笑ってしまう。
 ヘウォンはキュートではあるのだが、なんとなく同級生に嫌われそうな雰囲気がして、そこが生々しかった。他の人とはちょっと違うものを見ているんじゃないかという感じがするのだ。彼女が嫌な奴、というわけではないのだが、その「ちょっと違う」ところがうっとおしがられるんじゃないかなと。正直かつ脇が甘い(笑)ところも、周囲との(一方的な)軋轢を生みそう。飲み会でも浮いてたもんなぁ。

『ヘンゼル&グレーテル』

 お菓子の家の魔女を竈で燃やしたヘンゼルとグレーテル兄妹。15年後、彼らは魔女ハンターとして成長していた。子供の失踪が頻発する村の村長から事件の解決を依頼された2人は、黒魔女ミュリエル(ファムケ・ヤンセン)と対決するが。ヘンゼルはジェレミー・レナー、グレーテルはジェマ・アータートンが演じる。監督はトミー・ウィルコラ。
 ヘンゼルとグレーテルのその後を創作したダークファンタジー。ネタとしては面白そうだが、日本では残念ながらDVDスルー。今回、「カリテファンタスティックシネマコレクション」で上映の機会があったので見てみた。が、これはDVDスルーもやむなしかな(笑)。ヘンゼルとグレーテルが魔女ハンターになっているというアイディアは面白いし、彼らが使う武器もレパートリー豊富だし結構凝ったつくりで楽しい。ヘンゼル役はジェレミー・レナーだから当然のように体を張ったアクションを披露するし、グレーテル役のジェマ・アータートンはりりしい。ただ、その他の部分がかなり大味なのだ。
 魔女の造形がモンスター的、それもわりと画一的なモンスターでちょっと飽きがくる。悪いものは醜い、という単純さはわかりやすいといえばわかりやすいけど、ダークファンタジーをうたうには薄っぺらい。特殊メイクやCGがチープなのも残念。ただ、本作そもそもB級に徹している向きがあるので、それでいいのかもしれない。セクシー要素は薄く血肉をばんばん飛ばし主題歌はヘビメタというあたり、こってこてでもある。大味だがなんとなく憎めないところがあった。

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