3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『フランシスカ』

 特集上映「永遠のオリヴェイラ」にて鑑賞。マヌエル・ド・オリヴェイラ監督、1981年の作品。1850年代のポルト。小説家のカミーロと友人のジョゼは、フランシスカと呼ばれるイギリス人の娘ファニーに惹かれる。ファニーはジョゼと結婚するが、3人の関係は悲劇的な結末を迎える。原作はアグスティ・ベッサ=ルイスの小説『ファニー・オーウェン』。実際にあった話を元にしているそうだ。
 カミーロとジョゼが、あるいはフランシスカとジョゼ、また他の人たちが対話するシーンはいくつもあるが、双方の意思疎通の為の会話という気がなぜかしない。特にカミーロとジョゼはお互いばらばらの方向を見て、会話の内容も噛み合っているのか噛み合っていないのかという印象の方が強い。それぞれがそれぞれの思いを口にはするものの、それは届くべき人のところに届かない。お互いの間には高い壁のようなものがあり、思いが通じ合うことを阻んでいるかのようだ。劇中時間を止めるような、そこだけ空間が切り取られた独白シーンが印象に残るのも、その独白があまりに孤独で、誰にも届かなさそうだからかもしれない。
 カミーロは小説家という職業柄か、ジョゼのこともファニーのことも俯瞰して自分が彼らをコントロールしている気でいる。彼はジョゼにもファニーにも情熱がなく、結婚生活は上手くいかないだろうと踏んでダメ出しばかり。ジョゼはカミーロに反発しつつ、ファニーを自分のものにしたくなる。ファニーはジョゼを愛するが、徐々にジョゼの全てを支配したくなる。お互いの支配欲と「マウント取りたい」感がえぐく迫ってくる。特にカミーロの神の采配気取りには笑ってしまう。ファニーに選ばれなかったことのあてつけでもあるのだろうが、自分はあの2人よりも優れている、と本気で思っている風なところが何様だ感を強めるのだ。
 しかし不思議なことに、ファニーを巡る三角関係であるのに、ファニーの存在感が薄い。彼女の意思表示が弱いというよりも、カミーロとジョゼの2人の張り合いのトロフィーとしてファニーが位置づけられており、2人にとって、独立した人間としての彼女はさほど重要ではないのではと思えてくるからだ。いわゆる恋愛上の三角関係とは一線を画しているように思った。根深い愛憎があるのはカミーロとジョゼの間で、お互い嫌だ嫌だと言いつつ縁は切らない。とは言え、ファニーも当然人格を持った個人なので、その行動はカミーロやジョゼの思惑からは外れていく。そのことにカミーロもジョゼも思い当たらなかったことが、悲劇の発端だったように思う。

『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』

 未知の魔法生物を求めて世界中を旅している、魔法動物学者ニュート・スキャマンダー(エディ・レッドメイン)。ニューヨークにやってきたニュートは魔法のトランクに入れて持ち歩いている魔法生物に逃げられ、魔法生物の飼育を禁止しているアメリカ合衆国魔法議会に指名手配されてしまう。ニューヨークでは魔法によると見られる町の破壊が起きており、一般人=ノーマジから姿を隠している魔法界と、人間界との軋轢が心配されていたのだ。原作はJ・K・ローリングの小説で、脚本もローリングが担当。監督はデビッド・イェーツ。
 ハリー・ポッターシリーズからのスピンアウトというか、新シリーズ。私は原作は読んでいないのだが、時代を遡り舞台は1920年代。当時の街並みや衣装を楽しむ、コスチュームプレイものとしてもいい。レッドメインがとにかくこの時代の服装が似合う。他のキャストも、レトロな服装が様になっている人ばかりだ。
 私はハリー・ポッターシリーズには今一つ乗れず、原作も映画も全ては把握していない。当初の(多分子供への読み聞かせという側面が大きかったからかも)設定の行き当たりばったり感や、魔法世界と一般人世界の両方が存在する世界のはずなのに2つの関連性が乏しい所、他国という概念が希薄な所などがひっかかっていたのだ。本作はある程度世界設定がならされた状態でリリースされているので、違和感がないわけではないが、ハリポタシリーズよりはそのあたりが改善されている。何より、登場する魔法生物たちが時にかわいらしく時にグロテスクで魅力がある。ニュートは魔法生物の保護を訴える立場だが、いわゆる動物愛というよりも、研究者としてのメンタリティが強く、時に人間そっちのけ。よりよいサンプルが欲しい!データが欲しい!という科学者の性を垣間見られる。魔法生物を愛してはいるが、ちょっと距離感があるところがいいのだ。
 ニュートにしろ、魔法議会の調査官だがニュートと行動を共にすることになるティナ(キャサリン・ウォーターストン)にしろ、魔法を使えない一般人だが巻き込まれていくコワルスキーにしろ、皆どこか不器用で、「世間」で上手くやっていけない。そんな人たちが力を合わせて事態を何とかしようとする話なので、ある意味エリート揃いのハリーポッターよりもぐっとくるものがあった。特に、魔法界にしてみたらよそ者であるコワルスキーが、「友達だから」とニュートを助け続ける姿がいい。魔法界と人間界は相変わらず断絶しているが、こういう人がいるのならあるいは、という希望を持たせる。一方で、不器用で「世間」に受け入れられたいばかりに悲劇を起こす人もいて、これはなんとも痛ましかった。2つの世界両方での差別の犠牲になったようなものだよな・・・。

『フランコフォニア ルーヴルの記憶』

 第二次大戦中、ドイツ軍のパリ侵攻に伴い、ルーブル美術館から多くの美術品の疎開を実行した当時のジャック・ジョジャール館長と、美術品保護の責任者としてパリに派遣されたナチスの高官・メッテルニヒ伯爵。各地から美術品を略奪しルーブルに収容した、ルーブル美術館の生みの親とでも言うべきナポレオン一世と、ドラクロワの絵画「民衆を率いる自由の女神」に描かれたフランスの象徴である女性「マリアンヌ」。そして本作の監督であるソクーロフと、skypeで通信中の美術品運搬船の船長。過去と現在を行き来しながら、ルーブル美術館の姿とその歴史を辿る。監督はアレクンサンドル・ソクーロフ。
 ソクーロフが美術館を題材に撮った作品と言えば、全編1カット、全編エルミタージュを使ってのロケを敢行した『エルミタージュ幻想』が有名だが、これをイメージして本作を見るとちょっと拍子抜けするかもしれない。『エルミタージュ幻想』は映像美とスケールの大きさ、豪華さがあったが、本作はむしろコンパクト。サブタイトルの通り、ルーブルの記憶の断片、夢のかけらを垣間見るような雰囲気だ。また、実際にルーブルで撮影しているし収蔵品も登場するが、題名から期待するほどには映していない。
 本作がスポットを当てているのはルーブルと国家・権力との関係だ。その成り立ちからしても、単なるコレクションや教育の為だけではなく、フランスという国家の力、財力を誇示するためのものという側面が強く、その時々の権力とは切り離せない。
 ルーブルの美術品の中には、戦争の「成果」として各地から持ち帰られたものも多い。その戦争による死者はもちろん、(主に海路での運搬による)運搬の途中での事故死者も多かっただろう。収蔵までに失われた人命も美術品も多々あったのだと本作は示唆する。そういう事業を敢行できたのは、やはり国家の力の元強引に進めることが出来たからだと。
 ルーブル美術館という機関もコレクションも当然素晴らしいし、その恩恵は多々あるのだが、なかなか血なまぐさい側面もあるということを念押しするような作品だった。マリアンヌは度々、「自由、平等、博愛」というフランスの基盤となる理念をつぶやくが、ルーブルの収蔵品が集まった過程は、あまり自由・平等・博愛とは(少なくともある時代までは)あまり関係なさそう。

『淵に立つ』

 小さな金属加工工場を営む鈴岡利雄(古舘寛治)と章江(筒井真理子)夫婦。2人の前に、利雄の知り合いで刑務所から出てきて間もないらしい、八坂草太郎(浅野忠信)が現れる。八坂は夫婦と同居するようになり、娘も八坂に懐く。しかしある事件が起き八坂は姿を消す。8年後、夫婦は八坂の消息を掴む。監督・脚本は深田晃司。第69回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門審査員賞受賞。
 私は深田監督の作品は、おそらく変化球であろう『さようなら』しか見たことがないのだが、本作を見ていてあっこの絵『さようなら』で見たやつだ!とはっとする場面が所々あった。構図をかなりかっちりと決めて撮る監督なのだろうか。冒頭のメトロノームの使い方や八坂の白いつなぎと赤いインナー等、ちょっと暗喩的な演出が多すぎるんじゃないかという気はしたが、ひとつの寓話のような雰囲気を強めるという意図なら効果的だったと思う。また、ともすると抽象的になりすぎそうなところを、役者の肉体の存在感が引き止めている。出演者全員とてもよかった。特に筒井の普通の中年女性っぽさとそこから見え隠れする凄みは素晴らしい。
 ある家族の崩壊を描いたようでもあるが、そもそも目の前のこの人を自分は本当に知っていると言えるのか?何を持って「知っている」とするのか?という問題とずっと向き合うような作品だった。人物を背後(後頭部のアップが多い)から映したショットが多いのもまた、表情が分からない=何を考えているのかわからないことを連想させる。
 この人は何者なのか、という疑問は主に八坂に対してのもののように見える。利雄は八坂と前々から知り合いで彼の過去も知っているが、それでも八坂が起こす「事件」については予測もつかなかった。章江はもちろん八坂とは初対面だが、彼に徐々に惹かれていく。彼女もまた、八坂があのような「事件」を起こすとは思いもよらなかっただろう。とは言え2人が見ていた八坂の姿が偽りというわけではなく、八坂の一面を見ていたにすぎない。
 とは言え、八坂は最初から得体のしれない人として登場する。深刻に「この人を本当に知っているのか」という問題が浮上するのは、むしろ利雄と章江の関係においてではないか。利雄の「ほっとした」発言、そして八坂との過去の告白後、章江にとっての利雄は見知らぬ人になってしまったのだろう。ただ、家族という仕組みには、こういう面は多かれ少なかれあると思う。そこを問い続けても問わな過ぎても、家族という仕組みは崩壊してしまうのかもしれないが。

『ブリーダー』

 特集上映「カリテ・ファンタスティック!シネマ・コレクション2016」にて鑑賞。ニコラス・ウィンディング・レフン監督、1999年の作品。レンタルビデオショップで働く映画オタクのレニー(マッツ・ミケルセン)と、恋人と同棲中のレオ(キム・ドボゥニア)は、仲間と集まり深夜にB級映画鑑賞会をするのが習慣だ。レオは恋人の妊娠がしたが、自分が父親になることを受け入れられず、いらだちを募らせていた。
 レフン監督の初期の作品て、ほんとに若気の至り感が強く、時に(というか往々にして)気恥ずかしい。冒頭、登場人物がそれぞれのテーマソングとも言うべき音楽と共に登場するのだが、うーんやってみたかったのはわかるけど結構恥ずかしいな!見ていて変なニマニマ顔になってしまう。とにかく何かと恰好をつけたがり、色々とやりすぎなのだ。ここから『ドライヴ』まで進化したのが奇跡に思える。もっとも、『ドライヴ』は恰好つけの極みみたいな作品だから、ぶれずに邁進したとも言えるが。
 とは言え、描かれる若者たち(見た目はおっさんだが若い設定なのだろう)の所在なさは切実で、現代でもあまりかわらず、時にいたたまれない。年齢は一応重ねていても、社会に「大人」としてフィットしきれない感じが生々しかったし、未だにこういう感じは他人事とは思えない。事態が勝手に進むことについていけず、いらだちを募らせ恋人に暴力をふるってしまうレオはひどいやつだとは思うが、いっぱいいっぱいで自分では処理しきれないという感じはよくわかる。また、女性とのデートをすっぽかしてしまうレニーが、「映画の話しかできない」から女性と付き合うことに踏み切れないというのも、なんだかしみじみとする。対人スキルもない、お金もない状況では、恋愛(だけではなく人づきあい全般)は荷が重いものだろう。ただ、レニーは一歩踏み出す(踏み出した瞬間の演出がロマンティックすぎて笑った)ので、ちょっとほっとする。
 なお、今や大人気のマッツ・ミケルセンだが、本作では実にさえない。この人、ストリート系のファッション、というかお金がなさそうな恰好が本当に似合わないんだな・・・。また、レニーが映画マニアということで、映画マニアがにやついてしまう小ネタが多かった。シネフィルあるあるとでもいうような「有名監督」のチョイスはなかなかにイタい。スピルバーグとか入れてやってよ・・・。

『ファインディング・ドリー』

 『ファインディング・ニモ』の13年ぶりの続編。吹替2Dで鑑賞マーリンとニモ親子が無事再会してから1年後。何でもすぐに忘れてしまう体質のナンヨウハギ・ドリーは、ずっと忘れていた両親の存在を思い出す。ドリーは両親を探しだすと決意し、唯一覚えていた「カリフォルニア州モロ・ベイの宝石」という言葉を手がかりに、カリフォルニアの海洋生物研究所に辿りつく。監督はアンドリュー・スタントン。
 ピクサー・アニメーション・スタジオの新作だが、さすがに危なげが全くなく、安心して見られる。ビジュアルのクオリティの高さはもちろんだが(ちょっとアトラクション性を盛りすぎかなとは思ったが)、しっかりしたストーリーテリングや全方位への配慮はさすが。ニモがちょっと成長して、若干毒舌になっているところがかわいい。いずれ反抗期に突入するのだろうか・・・。
 本作の主人公はもちろんドリーなのだが、ドリーが出会う魚や動物が皆印象に残った。彼女を手助けしてくれる海洋生物研究所のジンベイザメやシロイルカは、自分にいまひとつ自信がない。極端な近視であったり、体に故障があったりして、一人で海で生きていくなんて出来ないのではと思っている。そんな彼らが、ドリーの楽天性、行動力に誘発されてなんとかやってみようとする。また、一見チートキャラなのに海での生活を拒むタコのハンクが、ドリーの為に奮闘する姿には思わずぐっときた。まさか自分の人生でタコがイケメンに見える日が来るとは。
 とは言え、ドリーだって自信満々というわけではない。すぐに物事を忘れてしまう彼女にとって、世界は更におぼつかないものだろうし、自分一人では無理だという発言もしばしばある。冒頭、幼いドリーが迷子になるが、徐々に自分が迷子なことも両親を探していることも忘れていく様は少々ホラーっぽくもあった。
 それでもドリーがなんとかなると思えるのは、両親の尽力の賜物だろう。彼女の「すぐ忘れる」という特徴をふまえつつ、生きる為の彼女なりのやり方を何とか考えだし、工夫を重ねて教えていく。その上で、「一人でもやれる」という自信を持たせようとするのだ。本作、楽しい冒険映画ではあるのだが、子供を持つ人にはより切実に見られるのではないだろうか。親が子供に残せるものって、どのくらいあるんだろうとしみじみしてしまった。
 なお吹替え版で見たが、概ねいい出来だったと思う。八城亜紀の登場にはなぜ?と思ったが(英語版だとシガニー・ウィーバーなので、似たポジションの人を起用したというわけでもなさそう)、慣れてくるとあの声が癖になってくる。ちなみにエンドロール曲は前作を踏襲してスタンダードナンバーだが、今作の方がよりユーモアがきいており、かつ泣けると思う。

『ふきげんな過去』

 高校生の果子(二階堂ふみ)は両親、赤ん坊の妹、祖母と暮らしている。ある日18年前に死んだはずの伯母、未来子(小泉今日子)が訪ねてきた。未来子はある事件を起こして前科持ちになり、方々をふらふらしていたと言うのだ。未来子は果子の部屋に寝泊まりすることになり、彼女のふてぶてしい振る舞いに果子は苛立つ。監督・脚本は前田司郎。
 劇作家である監督の癖なのか、セリフが時に意味合いの強すぎるもので、作品の雰囲気から浮く。果子が未来子の言葉に「いいこと言ったみたいにしないで」と言う旨のツッコミを入れるシーンがあり、そういう意図ならいいのだが、ツッコミ不在でこのポエムどう処理すればいいの?と落ち着かなくなる所も。セリフがよくないというのではなく、この映画の緩めなトーンにこのセリフだと、ちょっと強すぎ・意味合いを持ちすぎるなという印象。
 果子は毎日変わり映えしなくてつまらない、未来のことなんて簡単に予測がつく(「私、未来が見えるの」というセリフが何回か出てくる)と言う。だから、ここではないどこかに行きたい、連れて行ってほしいと願っている。しかし、仮にここではないどこかに行ったとしても、彼女はすぐに退屈するのではないか。果子の日常は、客観的には(映画を見ている側にとっては)なかなか奇妙で、そこそこ色々なことが起きて面白い。当事者と傍観者では全然感じ方が違うとはいえ、面白さを探していない、気づいていないだけなんじゃないかなと思う。当人が愉快さ(不愉快さも)を見つける目を持っていないと、どこに行っても大して状況は変わらないんじゃないだろうか。見ようとしない人の前に「ワニ」は現れない。おそらく未来子はそれに気づいており、だから果子を連れて行かなかったのではないか。
 未来子と果子が、ちょっとしたナイトクルージングに出るエピソードがあるが、(硝石採掘という目的があるとはいえ)近所の川で小船に乗るというだけの行為が、幻想的で冒険みたいに見える。日常の隙間にも非日常的な楽しさはあるのだ。
 果子の家は蕎麦屋を改装した豆料理店(中近東の豆料理らしい)をやっているのだが、案外流行っているらしいあたりが妙におかしかった。全然洒落ていない古い店なのだが、ちょっと『ことりっぷ』とかに隠れ家レストランとして載っていそうな雰囲気。果子が未来子に持っていくカレーがおいしそうだった。

『二ツ星の料理人』

 才能はあるものの、トラブルを起こし仕事を失ったシェフ、アダム・ジョーンズ(ブラッドリー・クーパー)は、ロンドンで3年ぶりに再起を図る。自分のトラブルのせいで閉店に追い込んだパリの店のオーナーの息子トニー(ダニエル・ブリュール)から、半ば強引に協力をとりつけ、最高のスタッフを集めて新規店舗をオープンするが。監督はジョン・ウェルズ。
 レストランの厨房の描写はかなり正確らしく、登場する料理もおいしそうだし、最近のいわゆる一流レストランの料理の方向性ってこういう感じなのかな、という雰囲気が味わえて楽しい(ただし、厨房でたばこを吸うというのは今時ありえないんじゃないかという気がするが・・・。あそこで一気に料理がまずそうになった)。そして、「いい(有能な)シェフ」というのは、なにをもって「いい(有能な)」とされるのかな、とアダムのてんやわんやを見て考えた。本作で描かれる厨房の様子を見ているとわかるのだが、ある程度の規模のレストランの場合、当然シェフ一人でその都度全ての料理を作ることはできないので、分業になる。ボスとなるシェフは、レシピを考え料理をするというのはもちろんだが、スタッフを上手く使わないとならない。人的・物理的なマネージメントも「いい(有能な)」シェフの条件になるのだろうか。だとすると、いわゆる料理バカ的な、一点突破型の才能の持ち主には難しいということにならないだろうか。つまり、「天才だから」という言い訳が通用しないのだ。
 アダムは才能も技術も突出しているが、人間としてはかなり問題が多い。パリを離れた経緯は最初はっきりしないのだが、どうやら、泥酔の上自分で招いたトラブルから逃げ出して、後はトニーに丸投げ状態だったということがわかってくる。トニーから協力をとりつけるやりかたも、女性シェフ・エレーヌ(シエナ・ミラー)のスカウトの仕方も強引で、とにかく俺が正しいという態度。スタッフへの叱責の仕方も、これダメな上司タイプの叱り方だな・・・。才能とルックス以外に彼のいい所が見えてこない。こういう状態で組織を引っ張っていく、人心掌握していくのは至難の業だなと思っていたら、案の定しっぺ返しがくる。
 とは言え、彼の自己愛と強気は、不安さの裏返しでもある。彼も自分が問題を抱えているということはわかっている。ただ、それを認めるのは、自分の弱さを認めるということだ。完璧主義の彼がそれを受け入れることができるのか。自分の弱さを認めたくない故にカウンセリングや互助会(断酒会とか)への参加を拒む人物像(往々にして「男らしさ」に拘る男性キャラクターが多い)は、アメリカの小説や映画でよく目にするが、アダムも彼らと同じだ。彼の場合は才能があり、なまじ成功体験がある故に、上手くいかないと余計に辛いのだろう。彼の辛さを受け止めるのが、犬猿の仲のライバルシェフだというところにぐっときた。同じ道を歩んでいないと見えないものもあるのだろう。

『ブルックリン』

 アイルランドの小さな町で、母、姉ローズ(フィオナ・グラスコット)と暮らすエイリシュ(シアーシャ・ローナン)は、ローズの計らいでアメリカへ渡ることになった。単身、ニューヨークのブルックリンで暮らし始め、地元の神父の紹介で百貨店の売り子として働くことになる。監督はジョン・クローリー。原作はコルフ・トビーンの同名小説。脚本は『17歳の肖像』や『わたしに会うまでの1600キロ』のニック・ホーンビィだが、この人は女性が主人公の脚本を書くのが上手いのかもなぁ。
 色合いのとても美しい作品だった。アイルランドと言えば緑色だが、この緑色の効かせ方が気が利いている。アイリシュにとって、緑は故郷の色だ。最初は緑色のコートを着ているが、途中で赤に変わるのが印象に残った。そして最後、緑色の使い方には、彼女にとっての「故郷」がどういうものになったのかが端的に現れていたように思う。使われている緑色の種類、グラデーションも美しかった。
 エイリシュは右も左もわからず、1人きりで見知らぬ環境で生きていかねばならない。が、折々で少しずつ彼女を助けてくれる人たち、特に女性たちがいる。彼女らの姿が、個々の人間としてくっきりと描かれているところがいい。姉ローズを筆頭に、船で同室になった女性や、百貨店の上司、寮母や同寮の女性たち。彼女ら1人1人は決して突出した人たちではないし、ローズ以外はエイリシュと非常に親しいというわけでもない。それでも、彼女らには「後輩」をちょっと手助けしてやろうという気概、あるいは義務感みたいなものがある。上京者や移民者の多い町故、自分達が通った道だからという人もいるだろう。だからエイリシュもまた、「後輩」に同じようなアドバイスが出来るようになったのだし、エイリシュにアドバイスされた人も「後輩」に同じことをするのだろう。
 エイリシュはニューヨークに渡ることを選んだ。姉ローズは、母を思いやってではあるが故郷に残ることを選んだ。生きていくことは選択を続けることだとつくづく思った。正しい選択かどうかより(そもそもどの時点をもって正しい選択と判断できるのか)、自分がなぜそちらを選択したのか、その選択が自分の意思によるものなのか、自分が納得したのかどうかという所が大事なのかもしれない。エイリシュは終盤、ある大きな選択を迫られるが、その時に蘇る「なぜ」の部分が強烈だった。
 また、エイリシュは自分より美人で優秀な姉(ローズは有能な経理担当として働いている)がニューヨークへ渡るべきだったのでは、姉は自分と母の犠牲になったのではと気に病む。が、故郷に残ったローズの人生が不幸だということにはならないだろう。ローズは妹と母を守ることを選んだ。そのことに彼女は納得していたし、満足していたのではないかと思う。


『FAKE』

 2014年、聴覚障害を持ちながら「交響曲第1番"HIROSHIMA"」等の作品を作曲したことにより、現代のベートーベンと呼ばれていた作曲家の佐村河内守が、実は耳は聞こえており、作曲はゴーストライターがしていたことが明らかになり、世間を騒がせた。『A』『A2』等を撮った森達也監督が、佐村河内に密着し彼の素顔に迫るドキュメンタリー。監督にとっては15年ぶりの単独作品になる。
 森監督の山師っぽさが如何なく発揮されていると思う。対象に近づく、一定の信頼関係を築く、つまり相手をある程度受け入れることが本作のような作品を撮る為の前提にあるのだろうが、それは、相手の言動全てを真に受けて信じるということではない。そしてそれは、被写体側にとっても同じなのだ。森監督と佐村河内の間には信頼関係がある(でないと自宅でここまで密着させないだろう)のだろうし、佐村河内は実際に言葉に出して信頼を示しているが、実の所、両者共に真意は見せていないように見えた。信頼というよりも、あるルールに基づいて一つのゲームをやっているように見えてくるのだ。ルール上、「信頼しています」というポーズをとっているかのような。ただ、佐村河内はそのポーズを続けているうちに、ポーズではないと思い込んでいるような印象があって、そこがまた不思議でもあり見ていて居心地が悪くなる所でもある。彼が起こしたこれまでの騒動も、多分にやっているうちに本人がそう思い込んでいった、周囲がそれに呑まれたという面があったのではないかと思えてくる。
 森監督の著書に『ドキュメンタリーは嘘をつく」という作品があるが、その「嘘」というのは、本作のような状況を指すんだろうなと思った。カメラを向ける者も向けられる者も、そこにカメラがあると意識することで何らかの身振りをしてしまう。その時点で、作為は生じてしまうのだ。
 本作は、佐村河内が自称する聴覚障害の真偽を追求したり、マスコミの過熱報道を批判したりするものではない(どちらも倫理的な面に関してはほぼ言及されていない)。意外なほど、佐村河内に対してもマスコミ(TV局の担当者が取材申し込みに来るエピソードがある)に対してもフラットだ。フラットに、面白く笑える。どちらも森監督にとっては「おいしい」素材ということに変わりはないわけだ。本作は妙に笑えるのだが、その面白さは、映画を見る側がここが本筋であろうと思っている部分以外ににじみ出ているように思った。佐村河内家では来客には毎回ケーキを出すとか、佐村河内が豆乳好きだとか、猫の存在感とか。そして、佐村河内夫婦の関係性。ここに奇妙で面白いものがいる、だから撮影し編集し公開するという、ある意味酷薄なドキュメンタリーであるようにも思った。
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