3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『ブレードランナー2049』

 2022年、アメリカ西海岸で大規模な停電が起きたのをきっかけに、世界中で食物・エネルギー供給が混乱し、多くのデータが失われ危機的状況になった。2025年、実業家ウォレス(ジャレッド・レト)が遺伝子組み換え食品を開発し、食料供給は安定していく。更に2049年、タイレル社を買収したウォレスはより従順な最新型レプリカントを量産し、レプリカントの寿命の制限もなくなっていた。ロス市警の「ブレードランナー」K(ライアン・ゴスリング)は初期モデルのレプリカントを捕獲していたが、捜査の中でレプリカントの変化に気付く。監督はドゥニ・ヴィルヌーヴ。
 前作の30年後を舞台とした正式な続編で、リドリー・スコットが製作総指揮をしている。私は『ブレードランナー』自体にはさほど思い入れはないが、それでも本作は面白かった。2時間43分という長尺だが、あまり長さを感じない。特にビジュアル面は素晴らしいと思う。ビジュアルのコンセプトは引き継ぎつつも、人類確実に衰退しているな・・・という斜陽感がそこかしこに感じられる空疎さがいい。都市部も、一見華やかだが前作にあったような猥雑な活気は感じられないし、街の様相もそこに住む人たちものっぺりとした印象だ(前作の方が様々な人がいる感はあった)。都市を囲む巨大なゴミ捨てエリアなど、ゴミを処理して環境保全をしようという意欲、環境保全出来るという見込み自体が最早ないんだなと察せられるもの。そもそも富裕層は既に地球を離脱している世界なのた。
 そんな世界の中で、Kは、30年前に失踪したデッカード(ファリソン・フォード)を探す。それはKにとって、任務として以上の重要な意味合いを持ったものになっていくのだ。Kが探し求めるのは自分が何者なのかという答えだ。レプリカントである彼は「製品」として作られ、「何者」かとしては扱われない。しかし彼の中には、大量生産品ではない個でありたいという願望が芽生えていく。Kとホログラフィーのジョイ(アナ・デ・アルマス)との恋愛めいたやりとりがどこか痛ましいのは、それが恋愛のまねごとにすぎないからだろう。恋愛は、少なくとも当事者間では特別な存在になれる、手っ取り早い方法だ。とは言え、レプリカントであるKは愛は持たない存在として作られているし、ジョイはユーザーが喜ぶように振舞うことをプログラムされたAIだ。ジョイがKを特別だと言うのは、そう振舞うようにプログラムされているからにすぎない。しかし彼らのやりとりは模倣だとしても真に迫ったもので、それは最早本物と見分けがつかない、限りなく近いものではないか。
 Kは自分を唯一無二の存在(特別な能力があるとか傑出しているとかでなく、取り換えのきかない個人であるということ)とするもの、個としての存在を裏付けする物を求めてやまない。ある望みを絶たれてもKが前進し続けるのは、誰のものでもない自分だけの記憶を上書きしていく為だろう。誰かに保証されたものでなくても、彼はそこでようやく「特別」なものとなるのだ。

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2014-06-18


『ブルーム・オブ・イエスタデイ』

 ナチス戦犯の祖父を持ち、その事実と向き合う為にホロコースト研究に打ち込んできた研究者のトト(ラース・アイディンガー)の元に、インターンのザジ(アデル・エネル)がやってくる。ザジの祖母はホロコーストの犠牲になったユダヤ人で、その無念を晴らすために研究に打ち込んでいた。全く逆の方向からながらも同じ目的を持つ2人は、アウシュビッツ会議実現の為に奔走する。監督はクリス・クラウス。
 トトもザジも少々エキセントリックで、感情のふり幅が大きい。2人のテンションは見ていてちょっとしんどかった。感情の内圧が強いのではなく、全部外に出ていくタイプの人が自分は苦手なんだな・・・。映画としては面白いけど、体力のある時に見ればよかったかも。特にトトの(おそらく祖父がしたことへの罪悪感からくる)融通のきかない潔癖さや激高しやすさには、研究も大事だけどカウンセリング受けて!アンガーマネジメント大事よ!と言いたくなる。ザジもザジで、処方された薬はちゃんと飲んで!と言いたくなるんだけど。
 トトとザジはかつての加害者と被害者の子孫だが、2人のぶつかり合いはそこに根差すものではなく、例えばトトの頑固さや短気さであったり、ザジのとっぴょうしもない行動やトトからしたらポジティブすぎる発想からであったりする。歴史的な背景は、2人とも自分なりに飲み込んでいるように見えるのだ。しかし、彼らが研究にのめり込みすぎて実生活が時に破綻しそうに見えるのは、やはり歴史が彼らに課したものが重すぎるからでもあるだろう。
 また、祖父母の代の話だからそこそこ平静に振舞えるのであって、自分とより直結するような、距離感の近い話になっても平静に振舞えるだろうか。歴史と個人の背景の書き割りではなく直結しているんだということを突き付けられるようでもあった。いきなり他人事ではなくなる衝撃のようなものがある。
 トトとザジは強く惹かれあうようになるのだが、トトの舞い上がりっぷりはちょっとどうかなと思った。そもそも、祖父母の事情以前に、研究者が自分が担当しているインターンに手を出すというのはまずいのでは・・・。また、セックスの成功と相互理解をトトはいっしょくたにしているきらいがあり、そこも気になった。そういう所だけ楽天的なのかと。

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2015-03-03




『ブレンダンとケルズの秘密』

 9世紀のアイルランド。バイキングの襲来を恐れる修道院長は、修道院の周囲に高い壁を築いていた。そこに、優れた写本士として高名な僧エイダン(ミック・ライリー)が逃げ込んでくる。院長の甥である少年僧ブレンダン(エバン・マクガイア)は、エイダンが持つ「ケルズの書」に興味津々で、彼を手伝おうとする。インクの材料の木の実を取に、危険だからと禁じられていた森に入るが、そこで精霊アシュリン(クリステン・ムーニー)に出会う。監督はトム・ムーア。
 『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』のムーア監督の長編デビュー作。『ソング~』と比べるとストーリーの運び方が少々荒っぽく、話の焦点が絞り切れていない。キャラクターデザインも、『ソング~』の方がより洗練されているように思う。本作は、キャラクターの動きがちょっとカートゥーン寄りで、他の部分と少々ミスマッチを起こしているように思った。
 しかし、美術面はとてもユニークで美しい。「ケルズの書」の文様をそのまま動かせないかという試みをしているのだが、よくまあこれを動かそうと思ったな!と唸った。他の部分でもケルト文様が多用されており、あらゆるところがうごめいているような印象を受ける。ブレンダンには絵の才能があり、様々な文様を幻視するのだが、世界は図像で満ちており、それを見る目を持った人が「ケルズの書」のような作品を残したのではないかと思えてくる。ブレンダンが闇のものと闘う際に白墨で線を引き、図像を描く。良く見ること、それを記すことが闇を払うことになるのだ。
 ケルズの書は福音書で、ブレンダンたちは修道士だ。にもかかわらず、意外なほど神の名が出てこないし、宗教色も薄いように思った(宗教色については、クリスチャンが見るとまた違うのかもしれない)。ブレンダンを助けるのは、彼の信仰対象の神ではなく、おそらくキリスト教にとっては異教であろう土着の存在たちだ。この2つが両立しているように見えるところが、とても面白かった。ブレンダンにとっての祈りは描く行為そのものなのかもしれない。

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ケルズの書
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『ブラザーズ・クエイの世界 Fプログラム 21世紀のクエイ兄弟』

 特集上映『ブラザーズ・クエイの世界』のうち、Fプログラムを鑑賞。2000年代の作品をセレクトした以下のラインナップだった。現在、渋谷区の松濤美術館で開催中の企画展「クエイ兄弟 ファントム・ミュージアム」(私は神奈川県立近代美術館葉山別館で開催した際に見た)と連携した特集上映。

『ソングス・フォー・デッド・チルドレン』(2003)
 以前のブラザーズ・クエイ特集上映で鑑賞したことがある。当時の感想はこれ。ブラザーズ・クエイ作品の中でもかなり好きな作品になる。コーラスとマリンバを多用した音楽と相まって、異様な高まりを感じる。チョークと子供の手の鬼ごっこのような円環運動等、中毒性が高い。クエイ・ブラザーズの作品て、実部を見るとわかるのだが決して人形やセットが大きいわけではない。それをさも奥行があるように見せるのは、撮影技術が高いからなんだなとよくわかる。また(本作に限ったことではないが)同じ映像を何度も反復しても手抜き感とか使い回し感が出ないところは、編集センスの良さなんだろうなぁ。やや強迫神経症的な作風との相性の良さかもしれないが。

『ファントム・ミュージアム』(2003)
 ロンドン科学博物館の医学コレクションを取り上げた作品。今回初見かと思っていたら、以前の特集上映でこれも見ていた。コレクション自体はいたって真面目なもので、過去の医療機器や人体模型等を収集したものなのだが、フェティッシュさを強く感じる。対象物自体がフェティッシュさをまとっているというよりも(そもそも大半は実用の「道具」だから)、自分の中にあるフェティシズムを喚起させられるような撮り方をされている、と言った方がいいかもしれない。ただし、女性型の人体内臓模型(人体内臓の模型で、横たわった女性の「蓋」を開けると内臓が見える)には作った人の執念というか、強いこだわりみたいなものを感じた。素朴とは言え胎児とへその緒まで再現してある。この女性型内臓模型、当時同じようなものが流行したという話をどこかで読んだことがあるのだが、何か一部の人の心に訴えるものがあるのだろうか・・・。クエイ・ブラザーズの手腕というより、対象物の強烈さが印象に残る。

『ワンダーウッド』(2013)
 題名の通り木材を使ったアニメーション。研磨された木材の質感、木目を活かしたビジュアルは、クエイ・ブラザーズ作品の中では異色かもしれない。他の作品に比べると世界観が明るくクリアというか、アクがないなと思っていたら、コム・デ・ギャルソンからの発注だったのね・・・(同名の香水の発売に合わせて制作されたらしい)。予想外のヘルシーさだったが、松ぼっくりや蓮の根のアップは少々禍々しく、朽ちて液体化するイメージも付きまとう。

『涙を流すレンズを通して』(2011)
 フィラデルフィア医師会内にある医学コレクションを取り上げた作品で、『ファントム・ミュージアム』の発展形とも言える。フェティシズムが更に加速しているが、これはコレクションの内容にもよるのかな。個々の死亡背景まで伝えられる大量の頭蓋骨や、骨外性骨形成の少年の骨格標本は、その標本の背後にある死者の物語込みで妙に人を引きつける美しさがある。それは死者の尊厳、死者との思い出を冒涜することなのかもしれないが・・・。収集した人の妄執みたいなものは、『ファントム・ミュージアム』よりも強く感じられた。同じタイプのものを大量に、というのが(それこそがコレクターということなのだろうが)何となく怖いのだ。

『正しい手:F.Hへの捧げもの』(2103)
 ある貴婦人を巡る短編。ラテン文学のマジックリアリスムのような味わい。ナレーションがついているのだが、何か原作となった小説等があるのかな?水辺を舞台に、蒸し暑さ、湿度、夜の風みたいなものに満ちている。熱気をはらんだ空気感は、クエイ・ブラザーズ作品としては珍しいかもしれない。夢の中で感じるような水の気配の再現度が高かった。自分を映し出すものとしての水=鏡と、自分を(船で)運んでいくものとしての水の存在感が大きい。




『プリズン・ガール』

LS・ホーカー著、村井智之訳
 21歳のペティは18年間、父親と2人暮らしだった。父親は彼女を学校には通わせず、夜は部屋に閉じ込め、銃器やナイフの扱いと対人戦術を叩き込むという、常軌を逸した教育をしていた。そんな父親が突然死亡。遺言内容は、遺言執行人と結婚しないと全ての財産を取り上げられるというとんでもないものだった。このままでは自由になるチャンスが奪われ、囚人のように一生を送ることになる。ペティは父の遺品を奪い、逃亡を図る。
 一気読みに最適な面白さ!父親に護身術を叩き込まれており滅法強いものの、家の外の世界を全く知らないペティの行動は危なっかしい。何しろテレビすらろくに見たことがなく、車の運転もできない(アメリカの田舎住まいで車の運転ができないというのは、いかに致命的かよくわかる小説でもある)し、父親以外の人間と接したことがないから一般的な人づきあい、適度なコミュニケーションの取り方もわからない。冒頭、警察が父親の遺体の確認にやってきたときの彼女の言動の「不自然」さの造形が上手い。ここでぐっと引きこまれた。父親はなぜ彼女をそのように育てたのか、父親はいったい何者だったのか、その痕跡を辿ることで彼女が自分の人生を切り開いていく。庇護を拒否し、初めて自分の生活を獲得しようとするペティを応援したくなる。初めて「世界」に触れる彼女の視線と通して、世界が新鮮に見えてくるシーンも。同時に、彼女に同行することになった青年の成長物語でもある。気はいいが意志が弱く流されがちだった彼が、本気でペティの力になろうとしていく。ペティの父親の遺言は、彼が忌避したものと同じものになってしまうのでは、何でこんな遺言になるんだという疑問点は残るのだが、勢いがあり息をつかせない。なおこういう設定の場合、日本だったら主人公を10代の少女にしがちなところ、ちゃんと成人なのでほっとしました(笑)

プリズン・ガール (ハーパーBOOKS)
LS ホーカー
ハーパーコリンズ・ ジャパン
2017-05-17

音もなく少女は (文春文庫)
ボストン テラン
文藝春秋
2010-08-04

『BLAME!』

 過去の「感染」により、人間が都市コントロール権を失い、無限に増殖し続ける階層都市。都市防衛システム「セーフガード」は、人間を不正な居住者と見なして排除するようになっていた。僅かに残った人間たちによる小さな集落が点在していたが、食料不足によって絶滅も間近と思われた。シボ(花澤香菜)は食料を探しに出た所をセーフガードに襲われるが、旅の男。霧亥(キリイ)(櫻井孝宏)に助けられる。霧亥はネット端末遺伝子を持つ人間を探し続けていた。原作は弐瓶勉の同名漫画、監督は瀬下寛之。製作はポリゴン・ピクチュアズ。
 ストーリーやキャラクター云々というよりも、ポリゴン・ピクチュアズのセルルック3DCG表現が今どういう地点にあるのか、という点で面白い作品だった。原作、監督、スタジオの組み合わせは『シドニアの騎士』と同じ。SFとしての世界設定やキャラクター造形は正直そんなに新鮮味のあるものではない。原作がかなり前に発表されたものだということもあるが、発表された当時でも、そんなに新しいっていう感じではなかったのではないかな・・・。ただ、王道と言えば王道、ベタと言えばベタなストーリーや設定が、本作の映像だと不思議と新鮮に見える。映像が「出来上がっている」というよりもまだ進化しそう、発展途上な伸びしろ感を感じさせるのも一因かもしれない(完成された商品としてそれはどうなんだという見方もあるが)。
 近年のポリゴン・ピクチュアズは、(技術面の素人から見ても)いわゆるアニメ的な「かわいい」「かっこいい」をセルルックの3DCGでやるにはどのあたりが落としどころなのか、ずっと試行錯誤し続けている気がする。『シドニアの騎士』と比較すると、本作の女性キャラクターは明らかに、セルルックの「アニメ」としてのかわいさをより獲得している。技術の進歩を目の当たりにしている感じ。また、ポリゴン・ピクチュアズ制作作品は、この原作・題材を映像化するにはどうするか、というよりも、自社が持っている技術は、どういった傾向・特質の題材・世界観で最も活かされるのか、という方向でのネタの選び方、作り方をしているように見える(実際は全然関係ないのかもしれないけど・・・)。一つのスタジオの作品を追っていく面白さを、今最も味あわせてくるスタジオではないだろうか。

『フリー・ファイヤー』

 とある倉庫に集まった男女。クリス(キリアン・マーフィー)とフランク(マイケル・スマイリー)が率いるグループは秘密裡に銃を入手しようとしており、ジャスティン(ブリー・ラーソン)とオード(アーミー・ハマー)が仲介に立ち、密売人のヴァーノン(シャールト・コプリー)と取引しようとしていたのだ。しかし話はこじれにこじれ、ついに銃撃戦にもつれこむ。監督はベン・ウィートリー。
 監督が『ハイ・ライズ』の人だと気付いてびっくりした。全然方向性違うよ!でもクールな美に徹した一応文芸作品的な『ハイ・ライズ』よりも、本作の方が性に合っているんじゃないかなという気がする。少なくとも、撮っている側も出ている側も楽しそうだ。一種の密室ものであり、閉鎖空間でばんばん銃を撃ちまくる、当然デスゲーム的になるというアクション映画でありサスペンス映画なのだが、登場人物全員が妙に間が抜けており、かつ脚本がわりと精緻ではない、というか大雑把な為に、ユルいアホっぽさが醸し出されている。とにもかくにもバカとは商売を(同じチームとしても相手チームとしても)するなよ!という教訓に満ちている。お前がいなければもっと話は早かったんだよ!と登場人物の一部も観客も思うに違いない。
 空間内の構造と位置説明(各人の位置関係の見せ方の演出)があまり上手くないので、お互いが今どういうふうに移動しているのか、銃弾の軌道がどうなったのか等、いまひとつわかりにくい。電話の登場の仕方やそれに対する登場人物たちの反応も、一定距離を移動させるイベントを発生させる為なんだろうけど、あんまり必要じゃなかったんじゃないかな・・・という気がしなくもない。そもそも、さっさと出口目指せよ!って話だろうしなぁ・・・。シチュエーション的に、いわゆるコンゲーム的な内容かな?と思う人もいると思うが、その部分には全く期待はできない。むしろ、とにかく銃を撃ちまくる、しかもかっこ悪く!という、バカバカしいシチュエーションの為の作品だろう。どの登場人物も、絶対にかっこよくしないぞ!という意気込みが窺えるので、この点は良かった。
 設定、脚本は大雑把でいわゆる「上手い」映画ではないのだが、映画「ぽさ」の出し方はツボを心得ているように思った。画面の雰囲気に何となく昔の「午後のロードショー」的な良さがあり、特に音楽の嵌め方のセンスがいいので、それだけで何となく見てしまう。90分という短さもちょうどよかった。

『フランシスカ』

 特集上映「永遠のオリヴェイラ」にて鑑賞。マヌエル・ド・オリヴェイラ監督、1981年の作品。1850年代のポルト。小説家のカミーロと友人のジョゼは、フランシスカと呼ばれるイギリス人の娘ファニーに惹かれる。ファニーはジョゼと結婚するが、3人の関係は悲劇的な結末を迎える。原作はアグスティ・ベッサ=ルイスの小説『ファニー・オーウェン』。実際にあった話を元にしているそうだ。
 カミーロとジョゼが、あるいはフランシスカとジョゼ、また他の人たちが対話するシーンはいくつもあるが、双方の意思疎通の為の会話という気がなぜかしない。特にカミーロとジョゼはお互いばらばらの方向を見て、会話の内容も噛み合っているのか噛み合っていないのかという印象の方が強い。それぞれがそれぞれの思いを口にはするものの、それは届くべき人のところに届かない。お互いの間には高い壁のようなものがあり、思いが通じ合うことを阻んでいるかのようだ。劇中時間を止めるような、そこだけ空間が切り取られた独白シーンが印象に残るのも、その独白があまりに孤独で、誰にも届かなさそうだからかもしれない。
 カミーロは小説家という職業柄か、ジョゼのこともファニーのことも俯瞰して自分が彼らをコントロールしている気でいる。彼はジョゼにもファニーにも情熱がなく、結婚生活は上手くいかないだろうと踏んでダメ出しばかり。ジョゼはカミーロに反発しつつ、ファニーを自分のものにしたくなる。ファニーはジョゼを愛するが、徐々にジョゼの全てを支配したくなる。お互いの支配欲と「マウント取りたい」感がえぐく迫ってくる。特にカミーロの神の采配気取りには笑ってしまう。ファニーに選ばれなかったことのあてつけでもあるのだろうが、自分はあの2人よりも優れている、と本気で思っている風なところが何様だ感を強めるのだ。
 しかし不思議なことに、ファニーを巡る三角関係であるのに、ファニーの存在感が薄い。彼女の意思表示が弱いというよりも、カミーロとジョゼの2人の張り合いのトロフィーとしてファニーが位置づけられており、2人にとって、独立した人間としての彼女はさほど重要ではないのではと思えてくるからだ。いわゆる恋愛上の三角関係とは一線を画しているように思った。根深い愛憎があるのはカミーロとジョゼの間で、お互い嫌だ嫌だと言いつつ縁は切らない。とは言え、ファニーも当然人格を持った個人なので、その行動はカミーロやジョゼの思惑からは外れていく。そのことにカミーロもジョゼも思い当たらなかったことが、悲劇の発端だったように思う。

『ファンタスティック・ビーストと魔法使いの旅』

 未知の魔法生物を求めて世界中を旅している、魔法動物学者ニュート・スキャマンダー(エディ・レッドメイン)。ニューヨークにやってきたニュートは魔法のトランクに入れて持ち歩いている魔法生物に逃げられ、魔法生物の飼育を禁止しているアメリカ合衆国魔法議会に指名手配されてしまう。ニューヨークでは魔法によると見られる町の破壊が起きており、一般人=ノーマジから姿を隠している魔法界と、人間界との軋轢が心配されていたのだ。原作はJ・K・ローリングの小説で、脚本もローリングが担当。監督はデビッド・イェーツ。
 ハリー・ポッターシリーズからのスピンアウトというか、新シリーズ。私は原作は読んでいないのだが、時代を遡り舞台は1920年代。当時の街並みや衣装を楽しむ、コスチュームプレイものとしてもいい。レッドメインがとにかくこの時代の服装が似合う。他のキャストも、レトロな服装が様になっている人ばかりだ。
 私はハリー・ポッターシリーズには今一つ乗れず、原作も映画も全ては把握していない。当初の(多分子供への読み聞かせという側面が大きかったからかも)設定の行き当たりばったり感や、魔法世界と一般人世界の両方が存在する世界のはずなのに2つの関連性が乏しい所、他国という概念が希薄な所などがひっかかっていたのだ。本作はある程度世界設定がならされた状態でリリースされているので、違和感がないわけではないが、ハリポタシリーズよりはそのあたりが改善されている。何より、登場する魔法生物たちが時にかわいらしく時にグロテスクで魅力がある。ニュートは魔法生物の保護を訴える立場だが、いわゆる動物愛というよりも、研究者としてのメンタリティが強く、時に人間そっちのけ。よりよいサンプルが欲しい!データが欲しい!という科学者の性を垣間見られる。魔法生物を愛してはいるが、ちょっと距離感があるところがいいのだ。
 ニュートにしろ、魔法議会の調査官だがニュートと行動を共にすることになるティナ(キャサリン・ウォーターストン)にしろ、魔法を使えない一般人だが巻き込まれていくコワルスキーにしろ、皆どこか不器用で、「世間」で上手くやっていけない。そんな人たちが力を合わせて事態を何とかしようとする話なので、ある意味エリート揃いのハリーポッターよりもぐっとくるものがあった。特に、魔法界にしてみたらよそ者であるコワルスキーが、「友達だから」とニュートを助け続ける姿がいい。魔法界と人間界は相変わらず断絶しているが、こういう人がいるのならあるいは、という希望を持たせる。一方で、不器用で「世間」に受け入れられたいばかりに悲劇を起こす人もいて、これはなんとも痛ましかった。2つの世界両方での差別の犠牲になったようなものだよな・・・。

『フランコフォニア ルーヴルの記憶』

 第二次大戦中、ドイツ軍のパリ侵攻に伴い、ルーブル美術館から多くの美術品の疎開を実行した当時のジャック・ジョジャール館長と、美術品保護の責任者としてパリに派遣されたナチスの高官・メッテルニヒ伯爵。各地から美術品を略奪しルーブルに収容した、ルーブル美術館の生みの親とでも言うべきナポレオン一世と、ドラクロワの絵画「民衆を率いる自由の女神」に描かれたフランスの象徴である女性「マリアンヌ」。そして本作の監督であるソクーロフと、skypeで通信中の美術品運搬船の船長。過去と現在を行き来しながら、ルーブル美術館の姿とその歴史を辿る。監督はアレクンサンドル・ソクーロフ。
 ソクーロフが美術館を題材に撮った作品と言えば、全編1カット、全編エルミタージュを使ってのロケを敢行した『エルミタージュ幻想』が有名だが、これをイメージして本作を見るとちょっと拍子抜けするかもしれない。『エルミタージュ幻想』は映像美とスケールの大きさ、豪華さがあったが、本作はむしろコンパクト。サブタイトルの通り、ルーブルの記憶の断片、夢のかけらを垣間見るような雰囲気だ。また、実際にルーブルで撮影しているし収蔵品も登場するが、題名から期待するほどには映していない。
 本作がスポットを当てているのはルーブルと国家・権力との関係だ。その成り立ちからしても、単なるコレクションや教育の為だけではなく、フランスという国家の力、財力を誇示するためのものという側面が強く、その時々の権力とは切り離せない。
 ルーブルの美術品の中には、戦争の「成果」として各地から持ち帰られたものも多い。その戦争による死者はもちろん、(主に海路での運搬による)運搬の途中での事故死者も多かっただろう。収蔵までに失われた人命も美術品も多々あったのだと本作は示唆する。そういう事業を敢行できたのは、やはり国家の力の元強引に進めることが出来たからだと。
 ルーブル美術館という機関もコレクションも当然素晴らしいし、その恩恵は多々あるのだが、なかなか血なまぐさい側面もあるということを念押しするような作品だった。マリアンヌは度々、「自由、平等、博愛」というフランスの基盤となる理念をつぶやくが、ルーブルの収蔵品が集まった過程は、あまり自由・平等・博愛とは(少なくともある時代までは)あまり関係なさそう。

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