3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『ピータールー マンチェスターの悲劇』

 1819年、ナポレオン戦争の後、不景気が続き庶民は困窮していた。深刻化する貧困問題の改善、庶民代表の義会参加の権利を売った、マンチェスターのセント・ピーターズ・フィールド広場に6万人が集まった。しかし鎮圧の為に政府の騎馬隊が出動する。監督、脚本はマイク・リー。
 人権の為の戦いを始めた人々を描くが、カタルシスは全くない。セント・ピーダーズ・フィールドでの集会とそこでの衝突に至るまでの数年間、様々な人たちが何をしていて、どのように変化していくのかといううねりを描く群像劇。ナポレオン戦争の悲惨な戦場から始まり、かろうじて生き残った人にもまた辛い展開が待ち受けるラストへ進む。大惨事により何がどう変わったのかということもはっきりとは提示されない。
 民衆は生活も尊厳も奪われる一方であるように見える。織物工場で働くネリー(マキシン・ピーク)が、ストライキに参加したものの結局殴られ賃金も払われなかったと言うように。とは言え、誰かが声をあげ、その声がおおきくなって行かないと、そういう声がある、そういう人達がいると言うこと自体、他の階層では知られないままになってしまう。長い道のりのまだ初期の段階で、この後に続く人たちが必要なのだ。作中、集会を主催する地元の新聞社や、ロンドンや各地の記者たちマスコミが登場する。彼らはそんなに「立派」には見えないし、野次馬根性で来たような記者もいる。しかし民衆の声が広く伝わるかどうかは彼らにかかっているわけで、マスコミの必要性が見えてくる。また、弁論家のヘンリー・ハント(ロリー・キニア)は自己顕示欲が強く保身に走っているようにも見えるし、実際、口がうまい山師という印象は否めない。しかし彼の立ち回りは、とにかく自分の声を広く遠くまで届ける為のもの(なので逮捕されないように日和見も辞さない)ではあるのだ。
 国王をはじめ貴族、政治家、聖職者、軍人、商人など権力者層が登場するが、彼らの(富裕層以外の)「国民」理解は実に表層的で、血肉を持った、意思も知性もある存在としての「国民」はイメージされていない。具体的に庶民がどういう生活をしていて、どの程度の金銭や物資があれば困窮していないと言えるのかという実感がないのだ。まだ「人間らしい生活」という概念がない時代だったことが、工場経営者の言葉からありありとわかる。こういう人たちに対して基本的人権を訴えていかなければらなないわけだから、道のりは長い。また、声が届かないのは上の層だけではない。演説の言葉、報道の言葉には独自の文法があり、同じ階層であってもその文法の外にいる人には通じないこともある。婦人会に出席したネリーは議長が「何を言っているのかわからない」と何度も訴える。ハントの演説の時も彼の言葉は物理的に(遠すぎて)ネリーには届かないというのが象徴的だった。世の中を変えようという言葉はこういう人たちにも届けなくてはならないし、またその言葉を理解しない人であっても(主張の趣旨により)すくい上げるものでないとならないのだろう。
 作中、具体的な年月日や経年数にはあまり言及されないので、はたと気づくと数年経過していたりする。それでも、見ていてそんなに混乱することはなかった。控えめに見えるが、結構丁寧な演出がされている。権力者は醜悪に描かれているが、庶民が善良かと言うとそうでもない、どちらもほどほどに愚かでほどほどに知恵があるという描き方がいい。

ヴェラ・ドレイク [DVD]
イメルダ・スタウントン
アミューズソフトエンタテインメント
2006-02-24





未来を花束にして [DVD]
キャリー・マリガン
KADOKAWA / 角川書店
2017-07-28

『ピクニック・アット・ハンギングロック』

ジョーン・リンジー著、井上里訳
 寄宿学校・アップルヤード学院の生徒たちは、ハンギングロックへピクニックへ出かけた。しかし巨礫を見に出かけた4人の少女と、彼女らとは別行動していた教師1人が行方不明になってしまう。必死の捜索が行われたものの手掛かりは得られず、事件は迷宮入りに。事件の噂は広まり、以来、学院では歯車が狂い始める。
 舞台は1900年のオーストラリア。いかにも良家の子女が通っている風の箱庭的なアップルヤード学院の世界と、だだっ広く人間を拒むような土地・風土の独特さが強いコントラストを生んでおり、不思議な雰囲気。これがたとえばヨーロッパを舞台にしていたら、全然違う雰囲気だったろう。人がいきなりいなくなっても不思議ではない、人間の入る隙がない感じなのだ。
 少女たちだけの世界は閉鎖的、箱庭的な親密さがあり、そこが魅力だと感じる人もいるだろう。箱庭は徐々に崩壊し、学院の人たちは外の世界にさらされていく。生徒からも教師からも今一つうとまれている学院長が、頻繁に亡き夫のことを思い出すのがなんだか切なかった。彼女にとっては夫といた時間こそ箱庭的な安心しているられる場所だったのではないかと。
 中心的な、美しく聡明な少女たちがいなくなったことで美しい小さな世界は終わりを迎える。崩壊のイメージもまた美しいかもしれないが、姿が美しい少女は心も美しく聡明で、見た目がぱっとしない少女は中身もぱっとせず人柄にも愛すべき部分が少ないという描写は、見た目偏重すぎて少々辟易した。なお百合の文脈で語られがちな作品だと思うが、貴族の青年マイケルと、彼の叔父の御者であるアルバートとの関係は微妙にBL感が・・・。この2人も少女たちの失踪に影響を受けるが、「崩壊」には至らず、むしろそれまでの身分や立場から自由になっていくという所が面白い。



『秘密(上、下)』

ケイト・モートン著、青木純子訳
 国民的女優のローレルは、50年前にある光景を目撃した。母が見知らぬ男性をナイフで刺殺したのだ。あれはいったい何だったのか?既に介護施設に入居し記憶もおぼつかなくなってきている母。彼女の過去には何があったのか?ローレルは過去への手がかりを探し始める。
 面白いという評判は聞いていたが、本当に面白い!続きが気になって上下巻を一気に読んでしまった。とは言え、ミステリというよりはロマンス小説的な面白さだ。2つの側面で2人の女性の対比が描かれているという構造。本作のミステリはいわゆるミステリ小説のトリック(これは結構すぐにわかっちゃう)にあるのではなく、自分の親がどのような人間なのかという謎だろう。そして、他人への憧れや思い入れ、別の人生への憧憬が生むものの計り知れなさという謎でもあるか。
 第二次大戦中をはさんだ母の過去パートと、母の謎を追うローレルの現在パートが交互に配置される。ローレルが既に壮年というところが面白い、というか親の若いころが気になってくるのは自分が年を取ってから、というところに妙な説得力があった。若いころは親は親であり、親にも青春時代、若い時代があったということがいまひとつぴんとこないんだよなと。自分もそういった通過しきってから、親が親になる前の時代を客観視できていくのかも。

秘密〈上〉 (創元推理文庫)
ケイト・モートン
東京創元社
2019-01-30






忘れられた花園〈上〉 (創元推理文庫)
ケイト・モートン
東京創元社
2017-05-21

『ビューティフル・ボーイ』

 ニック(ティモシー・シャラメ)は成績優秀でスポーツも得意、大学への進学も決まり、父デヴィッド(スティーヴ・カレル)はじめ、家族は彼の将来に期待していた。しかしニックはドラッグに手を出し、どんどんのめり込んでいく。更生施設に入っても繰り返し抜け出し、再発を繰り返す。スティーヴとニックの8年間の格闘を描く。監督はフェリックス・ヴァン・ヒュルーニンゲン。
 時系列をシャッフルすることで依存症の一進一退なこと、ドラッグを断って再発してというループを何度も何度も繰り返す、その中で本人も家族も摩耗していくが、それを乗り越えていかないとならないということがわかってくる。とはいえ、ちょっと長すぎるし、長さに対して起伏が乏しいように思った。エンドロールも、気持ちはわかるけど5分越えはちょっとなぁ・・・。全体的に間延びしている感は否めない。
 スティーヴはニックのことを心から愛しているし、ニックも父親を慕っている。仲のいい父息子ではあるのだ。しかし、スティーヴは長らく、ニックについて自分は理解していると過信しているのではないかという思いがぬぐえなかった。宣伝でうたわれるほど美しい親子愛の物語とは思えないのだ。スティーヴはニックが厭世的な文学ばかり読んでいる、それよりも外に出よう、そういう趣味は一時的なものだと言う。これにとても違和感があった。ニックはスポーツも好きだが、一方でグラムロックやグランジロック、ブコウスキー等アウトサイダー寄りの文学を愛好している。人の好みに対して一時的なものだとか、ダメ出しするとか、親子であってもずいぶん失礼なことだろう。ニックにとってそれらが一時的なものだというのはスティーヴが勝手に思っているだけであって、実際のニックのことをちゃんと見ていないのではないか。ずっとまっすぐな道を歩んできた人には、陰の中にいる人のことはわからないんだよな・・・。
 スティーヴは息子の心の「穴」について多分本当には理解できない。愛していることと理解することとは違うのだ。また、愛しているから救えるというわけでもないだろ。スティーヴはドラッグを断てないニックとのやりとりに疲労困憊し、自分には救えないと一度は投げ出してしまう。それに対して彼の妻(ニックにとっては義母)が「救えないわよ!」とばっさりと切る。家族にできるのは救うことではなくそっと支え続けることだけ。それが延々と続くから本当にしんどいんだろうけど・・・。
 ニックがどういう経緯でドラッグに手を出したのか、具体的な原因があったのかどうかは明言されない。ニックは自分の中の「穴」を埋めたくて、と言うがそれがどういうことなのか自分でもはっきりとはわからない。当然、家族にもわからない。いい家庭環境でも、家族に愛されていても、依存症になってしまうことはあるのだ。なぜやめられないのか、という部分が父親にとってずっと謎なままで、それを受け入れていくことでしか親子の関係は前進しないのだ。

ビューティフル・ボーイ (マグノリアブックス)
デヴィッド・シェフ
オークラ出版
2019-04-03


ダブル・ファンタジー(紙ジャケット仕様)
ジョン・レノン
ユニバーサル ミュージック
2014-12-03




『ビリーブ 未来への大逆転』

 ハーバード法科大学院に入学したルース・ギンズバーグ(フェリシティ・ジョーンズ)は女性への偏見や夫マーティ(アーミー・ハマー)の闘病を乗り越えて主席で卒業。しかし女性であるルースを雇う弁護士事務所はなかった。やむなく大学教授になったルースは、ある訴訟記録を目にし、それが歴史を変える裁判になると考える。監督はミミ・レダー。
 ルースがハーバードのお茶会で入学の動機を聞かれ、「(同じく弁護士を目指す)夫の仕事を理解する為」と言う。これは皮肉でありブラックジョークなわけだが、男性達には全く通じておらずウケるのは女性だけ。お茶会も質問もアホらしいのだが、ルースの前に自分に向いているからと回答した女性を「くだらない」とまともにとりあわない。すごく失礼なのだ。そしてその失礼さに自覚がない。これは現代でもあまり変わっていない気がする。ルースの採用を断った弁護士の言い訳も、「妻たちが嫉妬するから」というんでバカバカしい!それ自分の努力の問題じゃないの?!
 とはいえ、作中では時代は確実に変わっていく様子もわかる。ルースのハーバード時代は女性学生はごくわずかだったが、教授になったルースのゼミは女性の方が多く人種も様々。大学の校風の違いは確実にあるのだろうが、世の中も変わっている。ルースの娘がからかってくる男たちを怒鳴り付け、「怒らなきゃだめよ!」と彼女に言う。ここでルースは、時代は変わった、変革的であろうとした自分も過去の時代の慣習に縛りつけられていたのだと気付く。この瞬間が実に鮮やか。そして法もまた、時代の影響を受けないわけはない。ころころ変わったら困るだろうけど、世の中の価値観が変わったのに法はずっと過去の価値観に据え置きのままというのはやはりおかしい、というのがルースの意図だろう。過去の法律が差別の歴史になっているというスピーチは正にそのことなのだ。国が変わるチャンスを与えたい、というルースの言葉が重い。
 ルースの夫、マーティの存在がすごくいい。当時の男性としては異例なくらいのフェアさと家事分担意欲と能力。料理が上手いというのもポイント高い。彼はルースの理想ややろうとしていることを深く理解し、彼女の能力を高くかっている。しかし、良き理解者である彼でも、彼女が世の中でどういう立場に立たされているのか、彼女の怒りが何に由来しているものなのか、ぴんとこない部分がある。地位と収入のある白人男性という立場からは見えないものがあるのだ。とは言え、彼は理解できなくともルースの怒り自体を尊重している。それがすごく大事なのだ。

未来を花束にして [DVD]
キャリー・マリガン
KADOKAWA / 角川書店
2017-07-28






スタンドアップ [DVD]
シャーリーズ・セロン
ワーナー・ホーム・ビデオ
2011-12-21

『ビール・ストリートの恋人たち』

 1970年代、ニューヨーク。幼馴染のティッシュ(キキ・レイン)とファニー(ステファン・ジェームス)は深く愛しあうようになり、結婚の約束をする。しかしファニーは身に覚えのない婦女暴行罪で逮捕、投獄されてしまう。ティッシュと家族たちはファニーの冤罪を晴らそうと奔走するが。原作はジェームズ・ボールドウィンの小説、監督はバリー・ジェンキンス。
 ラブストーリーとして、2人の関係、距離の描き方がすごく丁寧。何となく流れとしてキスをしてセックスをして、というのではなく、ここまで近づいても大丈夫か、触れても大丈夫かという躊躇を孕みつつ関係を勧めている。他の部分(ファニーが逮捕された経緯とか、裁判の経緯とか)は結構省略されているのだが、ティッシュとファニーの関係は省略されない。本作の主軸はあくまで2人の関係にある。ティッシュとファニーが初めてセックスする時、服を脱いだティッシュにファニーが一旦毛布を掛けてあげる所や、その後の「俺を怖がらないでくれ」という言葉が印象に残った。つまり怖がられているかもしれないという想像力、相手への配慮があるということだから。ジェンキンス監督は前作『ムーンライト』でも、2者間の関係の描き方がすごく丁寧だったし、他人に対する配慮、思いやりの表現の仕方にぐっとくるものがあった。距離感が繊細なのだ。
 2人の関係だけでなく、2人の家族との関係、家族の人となりの描き方もいい。ティッシュの家族が親密であること、お互いに理解と信頼があることがやり取りの中で自然にわかる。特に母親の立ち居振る舞いが気持ち良い。彼らはファニーのことも信頼し親身になっている。2人の関係を否定するファニーの母親姉妹への毅然とした(大分毒舌な)態度は小気味よかった。ファニーの母親は非常に信心深く、ファニーの為に出来ることは神に祈る事だけと信じている。未婚でファニーの子供を妊娠したティッシュのことは当然許さないのだが、その許せなさを彼女の弱さとして見せている。彼女の信仰は実際問題として役に立っていないのだが、そこを否定するべきではないんだろうな。
 不運な若い2人のラブストーリーだが、その不運の背景には黒人が根強く差別されている社会がある。ファニーはとある出来事で白人警官に因縁を付けられ投獄に至るが、もし彼が白人だったらこのようなことになっただろうか。また、ファニーとティッシュがアパートを探すやり取りの中でも、黒人が部屋を借りることの難しさがわかる。終盤、「自分たちが地道に働けば子供たちは自由になれる」というモノローグ(特定の登場人物の言葉ではなく、そういうことが一般的に言われてきたという文脈で)が流れる。しかし実際はそうではない。地道に働いて色々積み重ねてきたとしても、社会がそれをないものにする。そもそもフェアではないのだ。ティッシュもファニーもその家族も真面目に生きている人たちだが、彼らが困難を抱えているのは彼らのせいというわけではない。2人の父親たちはファニーを助ける金を稼ぐ為に不法な商売に手をつける。黒人が、移民が不法なことばかりする、風紀を乱すという時には、その背景に何があるのか、何が彼らをそうさせるのかということを見落としてはならないのだ。

ビール・ストリートの恋人たち
ジェイムズ・ボールドウィン
早川書房
2019-01-22


ムーンライト スタンダード・エディション [Blu-ray]
トレヴァンテ・ローズ
TCエンタテインメント
2017-09-15


『ヴィクトリア女王、最期の秘密』

 1887年、ヴィクトリア女王(ジュディ・デンチ)の在位50周年記念式典が執り行われた。英領インドからの記念硬貨贈呈役に選ばれ、はるばる渡英したアブドゥル(アリ・ファザル)は、女王に対しても臆することなく好奇心を発揮する。彼に関心を持ったヴィクトリア女王は側近に取り立て、彼との対話を楽しむ。しかしその交流を、周囲の人々は快く思わなかった。監督はスティーブン・フリアーズ。
 ヴィクトリア女王がアブドゥルに注目するきっかけが「ハンサム」だからという即物さに笑ってしまったが、周囲からは年老いた女が若い男にトチ狂って・・みたいな目で見られるし、アブドゥルにしても見た目の良さで老女に取り入りのし上がろうとしていると思われる。とは言え周囲の中傷だけではなく、ヴィクトリア女王にしろアブドゥルにしろ、2人の交流にはそういった要素が含まれている。ヴィクトリア女王がアヴドゥルが結婚していると知って強くショックを受けるのはそういうことだろう。そしてやはり、ヴィクトリア女王は首領国の長であり、アブドゥルは植民地のムスリム系インド人である。2人の友情には身分や人種を越えたものがある。とは言え、自らの立ち位置を離れたものの見方は難しいのだ。
 ヴィクトリア女王はインドの歴史を理解してはいないし、アブドゥルが語るインドの歴史も文化も、ムスリムの立場からのものだ。ヴィクトリア女王(というか当時の英国人)のインドについての知識は、そこに気付かないレベルのものだということだろう。冒頭から、王宮の人たちがアブドゥルのことをヒンドゥー、ヒンドゥーというのでずっと違和感があった(冒頭でムスリムということがわかっているので)のだが、インドといえばヒンドゥーだろうというわけだ。また、ヴィクトリア女王はインド文化を愛好するようになるが、それはエキゾチズムでしかなく、インドの歴史や文化を理解しているとは思えない。
 2人の交流を、王宮の人たちとは違った、退いた目線で見ているのが、アブドゥルと共にインドからやってきたモハメド(アディール・アクタル)。彼は自分の祖国を支配する英国に対して批判的だし、自分たちが差別されていると認識している。女王に重用されたといっても英国人が自分たちを受け入れたわけではないとアブドゥルに忠告もする。彼が本作を「いい話」にしない視線を持ち込んでいるのだ。このへんのバランス感覚が、フリアーズ監督作品の良さだと思う。

あなたを抱きしめる日まで [DVD]
ジュディ・デンチ
Happinet(SB)(D)
2014-10-02


ヴィクトリア女王 世紀の愛 [DVD]
エミリー・ブラント
Happinet(SB)(D)
2010-07-09


『ピアソラ 永遠のリベルタンゴ』

 タンゴ界に革命を起こし、20世紀を代表する作曲家の1人、またバンドネオン奏者として知られるアストル・ピアソラ。残された演奏映像、そして彼の伝記を書いた亡き娘ディアナによるインタビュー音声やホームビデオの映像から彼の人生を辿るドキュメンタリー。案内役は存命している息子のダニエル・ピアソラ。監督はダニエル・ローゼンフェルド。
 生前のピアソラの映像をこんなにまとめて見たのは初めてかもしれない。演奏姿はもちろん、プライベートの姿もなかなかかっこよかった。プライベートと思われるホームビデオ的なものがかなり残っており、元妻や子供たちの姿も記録されている。演奏している時やインタビューの時はちょっとアクが強くて気難しそう。また、結構乗せられやすく、流行りものに弱かったのかなという印象もあり、いい感じの俗っぽさがある。また、家族の前ではふざけてお茶目な姿を見せている。しかし息子のダニエルが21歳の時、ピアソラは突然家を出てしまう。ホームビデオの印象からは、家族を愛していることは愛していたんじゃないかと思うけど、家族は非常にショックを受け、元妻は鬱になってしまったそうだ。ダニエルは後に父親と共演する機会もあったが、ずっとわだかまりは残ったままだった様子。
 本作がどこか痛ましいのは、このダニエルの父親に対する割り切れなさが色濃く出てしまっているからではないか。冒頭、ピアソラの回顧展をダニエルが内覧するシーンから始まるのだが、表情が微妙。娘・ピアソラとディアナとの関係は、インタビューに応じるくらいには回復していたみたいだから、取り残された気分もしたのかもしれない。ピアソラはディアナについて「男だったらバンドネオンを教えたかった」(何で娘だとダメなんだよ、というツッコミは入れたくなった。アルゼンチン音楽業界ってそんなに保守的なの?)とコメントしており、結構評価していたのだろう。それを聞いちゃうと息子としては辛いんじゃないだろうか。ピアソラとしては息子も娘も彼なりに愛していたんだろうけど、子供側としては全然足りていなかったんじゃないかという気がした。
 ピアソラ自身は、献身的な父親に支えられ、強い信頼関係があったようだ。そういった関係を自分の息子とは築けなかったというのは(多分ピアソラ本人に原因があるんだろうけど・・・)皮肉だ。父息子の関係の影が二重に見えているから、余計に微妙な気分になる。

レジーナ劇場のアストル・ピアソラ 1970
アストル・ピアソラ五重奏団
BMGメディアジャパン
1998-10-14


ピアソラ:ブエノスアイレスの四季
新イタリア合奏団
マイスター・ミュージック
2017-08-25


『ビューティフル・デイ』

 元軍人のジョー(ホアキン・フェニックス)は行方不明の少女たちを探し出す仕事を請け負って生計を立てながら、老いた母親(ジュディス・ロバーツ)と暮らしている。彼の元に、議員の娘ニーナ(エカテリーナ・サムソノフ)の捜索依頼が入る。ある売春宿でニーナを保護したジョーだが、何者かに襲われ、ニーナをさらわれてしまう。原作はジョナサン・エイムズ(製作総指揮にも参加)の小説。監督・脚本はリン・ラムジー。
 原作は非常に私好みだったが、映画版も良かった。監督の前作『少年は残酷な弓を射る』よりも本作の方が好きだ。ジョニー・グリーンウッドの音楽が作品のトーンとよくあっており、音楽あってこその作品だと思う。ジョーはトラウマを抱えており、幾度となく過去がフラッシュバックし彼を苦しみの中に引き戻す。この引き戻しと音楽とが強く結びついている。とても美しい部分と神経をゴリゴリ削っていく部分とが入り混じっているのだ。
 ホアキン・フェニックスがカンヌでまさかの主演男優賞を受賞した本作だが、本作のホアキンは確かに良い。お腹がだるーっとしているのに筋肉質で何となく怖いし強そう。そして動きが不審者ぽく、目は胡乱。非常に訓練されたプロフェッショナルであると同時に、強いトラウマを持ち精神を削がれ続けているジョーという人のパーソナリティを的確に演じていたと思う。ジョーは自殺願望があり何度も未遂行為をしているのだが、ぎりぎりでこの世に踏みとどまっているような不安定さがよく表れていた。ジョーの過去がどのようなもので、トラウマの原因は具体的に何なのかという部分はさほど説明されない。彼の過去のフラッシュバックで断片的に提示されるのみだ。しかしその映像と、ジョーの表情、佇まいから何となく関連がわかってくる。このあたりは編集の手腕と合わせ、ホアキンの演技の的確さで成立している部分も大きいと思う。
 原作とは後半の展開等が大きく異なるのだが、印象に残ったのは母親とのやりとり。原作では非常に静かで殆ど会話はないのだが、映画では認知症が始まっているらしき母親をこまめにケアし、一緒に食事をしたり歌ったりという、細やかな情感が描かれる。ロバーツ演じる母親の、若い頃はさぞ美しかったろうという風貌も良い。情愛あふれる描写があるので、その後の展開との対比が強烈。ニーナの存在が少々取って付けたようなものに見えてしまうくらいだった。
 本作、原作小説と同様に原題は『You Were Never Really Here』。この原題の意味合いは、映画での方がよりしっくりと感じられた。ジョーの宙に浮いたような佇まいも一因だが、ジョーもニーナもかつて本当にはそこにいないように扱われた、また自分をそのように扱わざるを得なかった存在だということ、その体験が2人を結びつけるものだということがよりはっきりと見て取れるように思う。

ビューティフル・デイ (ハヤカワ文庫NV)
ジョナサン エイムズ
早川書房
2018-05-19


少年は残酷な弓を射る [DVD]
ティルダ・スウィントン
東宝
2012-12-21


『ピーター・ラビット』

 ウサギのピーター(ジェームズ・コーデン)と仲間たちはマクレガー老人の庭の野菜を盗むことを日課にしている。ある日マクレガーさんが倒れ、家は空き家状態に。はしゃいで空き家を荒らしまくったピーターたちだが、マクレガー老人の甥トーマス・マクレガー(ドーナル・グリーソン)が引っ越してきて、ピーターたちを再び締め出す。しかもマクレガーはピーターの親友である隣人の画家ビア(ローズ・バーン)と恋仲になってしまう。ピーターは何とかマクレガーを追いだそうとする。監督はウィル・グラック。
 ビアトリクス・ポーターによる有名原作絵本とは全く方向性が違うので、ピーター・ラビットの名前に惹かれて見ると大分戸惑うと思う。ただ、あまりに突き抜けていて原作からの乖離が逆に気にならなくなってきた。むしろ、わざわざピーター・ラビットという超有名キャラクターを使ってこういう映画を作ろうとした度胸がすごい!何と闘っているんだ!と感心した。ウサギはチンピラ風だし、人間を本気で仕留めにくるし、爆撃戦(なぜか妙に本格的)まである。カトンテールのキャラクターなんて大分クレイジーだよ・・・。
本作、かなりなメタ構造になっており、登場人物たちもそのメタさに気付いているかのような発言をする所が面白い。ピーターが「そういうキャラ(付け)だから」と度々言うのもそうだし、動物たちが上着を着ているのに下半身は裸という所へのツッコミも。
 一方「おとぎ話ならこうなるところだけど、この話はそうじゃないから・・・」と言う(ピーターの両親の肖像画のくだりで)と同時に、最後に「これは“おとぎばなし”ですよ」という振りがあったりと、リアリティラインをどの地層に置いているのか、ナレーションは何目線なのか、語りの構造は曖昧だ。ピーターは制作が上手くいかなず不安定になっているビアのイマジナリーフレンドで、それがなぜかマクレガーにも見えてしまった、みたいな話にも思えてくる。ビアの方がマクレガーよりヤバい人なんでは・・・。

ピーターラビットの絵本 第1集
ビアトリクス・ポター
福音館書店
2002-10-01


ピーターラビットと仲間たち [DVD]
英国ロイヤル・バレエ団
クリエイティヴ・コア
2009-10-21


ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ