3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『ビューティフル・デイ』

 元軍人のジョー(ホアキン・フェニックス)は行方不明の少女たちを探し出す仕事を請け負って生計を立てながら、老いた母親(ジュディス・ロバーツ)と暮らしている。彼の元に、議員の娘ニーナ(エカテリーナ・サムソノフ)の捜索依頼が入る。ある売春宿でニーナを保護したジョーだが、何者かに襲われ、ニーナをさらわれてしまう。原作はジョナサン・エイムズ(製作総指揮にも参加)の小説。監督・脚本はリン・ラムジー。
 原作は非常に私好みだったが、映画版も良かった。監督の前作『少年は残酷な弓を射る』よりも本作の方が好きだ。ジョニー・グリーンウッドの音楽が作品のトーンとよくあっており、音楽あってこその作品だと思う。ジョーはトラウマを抱えており、幾度となく過去がフラッシュバックし彼を苦しみの中に引き戻す。この引き戻しと音楽とが強く結びついている。とても美しい部分と神経をゴリゴリ削っていく部分とが入り混じっているのだ。
 ホアキン・フェニックスがカンヌでまさかの主演男優賞を受賞した本作だが、本作のホアキンは確かに良い。お腹がだるーっとしているのに筋肉質で何となく怖いし強そう。そして動きが不審者ぽく、目は胡乱。非常に訓練されたプロフェッショナルであると同時に、強いトラウマを持ち精神を削がれ続けているジョーという人のパーソナリティを的確に演じていたと思う。ジョーは自殺願望があり何度も未遂行為をしているのだが、ぎりぎりでこの世に踏みとどまっているような不安定さがよく表れていた。ジョーの過去がどのようなもので、トラウマの原因は具体的に何なのかという部分はさほど説明されない。彼の過去のフラッシュバックで断片的に提示されるのみだ。しかしその映像と、ジョーの表情、佇まいから何となく関連がわかってくる。このあたりは編集の手腕と合わせ、ホアキンの演技の的確さで成立している部分も大きいと思う。
 原作とは後半の展開等が大きく異なるのだが、印象に残ったのは母親とのやりとり。原作では非常に静かで殆ど会話はないのだが、映画では認知症が始まっているらしき母親をこまめにケアし、一緒に食事をしたり歌ったりという、細やかな情感が描かれる。ロバーツ演じる母親の、若い頃はさぞ美しかったろうという風貌も良い。情愛あふれる描写があるので、その後の展開との対比が強烈。ニーナの存在が少々取って付けたようなものに見えてしまうくらいだった。
 本作、原作小説と同様に原題は『You Were Never Really Here』。この原題の意味合いは、映画での方がよりしっくりと感じられた。ジョーの宙に浮いたような佇まいも一因だが、ジョーもニーナもかつて本当にはそこにいないように扱われた、また自分をそのように扱わざるを得なかった存在だということ、その体験が2人を結びつけるものだということがよりはっきりと見て取れるように思う。

ビューティフル・デイ (ハヤカワ文庫NV)
ジョナサン エイムズ
早川書房
2018-05-19


少年は残酷な弓を射る [DVD]
ティルダ・スウィントン
東宝
2012-12-21


『ピーター・ラビット』

 ウサギのピーター(ジェームズ・コーデン)と仲間たちはマクレガー老人の庭の野菜を盗むことを日課にしている。ある日マクレガーさんが倒れ、家は空き家状態に。はしゃいで空き家を荒らしまくったピーターたちだが、マクレガー老人の甥トーマス・マクレガー(ドーナル・グリーソン)が引っ越してきて、ピーターたちを再び締め出す。しかもマクレガーはピーターの親友である隣人の画家ビア(ローズ・バーン)と恋仲になってしまう。ピーターは何とかマクレガーを追いだそうとする。監督はウィル・グラック。
 ビアトリクス・ポーターによる有名原作絵本とは全く方向性が違うので、ピーター・ラビットの名前に惹かれて見ると大分戸惑うと思う。ただ、あまりに突き抜けていて原作からの乖離が逆に気にならなくなってきた。むしろ、わざわざピーター・ラビットという超有名キャラクターを使ってこういう映画を作ろうとした度胸がすごい!何と闘っているんだ!と感心した。ウサギはチンピラ風だし、人間を本気で仕留めにくるし、爆撃戦(なぜか妙に本格的)まである。カトンテールのキャラクターなんて大分クレイジーだよ・・・。
本作、かなりなメタ構造になっており、登場人物たちもそのメタさに気付いているかのような発言をする所が面白い。ピーターが「そういうキャラ(付け)だから」と度々言うのもそうだし、動物たちが上着を着ているのに下半身は裸という所へのツッコミも。
 一方「おとぎ話ならこうなるところだけど、この話はそうじゃないから・・・」と言う(ピーターの両親の肖像画のくだりで)と同時に、最後に「これは“おとぎばなし”ですよ」という振りがあったりと、リアリティラインをどの地層に置いているのか、ナレーションは何目線なのか、語りの構造は曖昧だ。ピーターは制作が上手くいかなず不安定になっているビアのイマジナリーフレンドで、それがなぜかマクレガーにも見えてしまった、みたいな話にも思えてくる。ビアの方がマクレガーよりヤバい人なんでは・・・。

ピーターラビットの絵本 第1集
ビアトリクス・ポター
福音館書店
2002-10-01


ピーターラビットと仲間たち [DVD]
英国ロイヤル・バレエ団
クリエイティヴ・コア
2009-10-21


『BPM ビート・パー・ミニット』

 1990年代初頭のパリ。エイズ活動家団体ACT UP Parisのメンバーは、エイズ患者やHIV感染者への無知・差別に対して様々な抗議活動を行っていた。メンバーのショーン(ナウエル・ペレーズ・ビスカ)は新メンバーのナタン(アーノード・バロワ)と恋に落ちる。しかしHIV陽性のショーンの症状は次第に進行していく。監督はロバン・カンピヨ。2017年第70回カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作。
 まだHIVに対して多くの人たちが無知で偏見が強かった時代が背景にある。当時エイズに対する有効な治療方法はなく、発症すれば遅かれ早かれ死に至る。しかしHIVウイルスがどのようなもので、どのような経緯で感染して、対処法としてはどういったものがあるのかはろくに周知されていない。同性愛者の病気だから自分たち異性愛者には関係ないだろう、くらいの認識だ。フランスでの感染者の増加が激しいと作中で触れられるのだが、これは病気についての広報を怠った政府の責任でもあったんじゃないかなと(感染症を防ぐ為の情報通知って民間レベルでは限界があって、自治体や国レベルじゃないと広く通知させるのは難しいと思う)思わせるし、実際作中でもそういう言及がある。
 ACT UPの活動は特に過激だが、これは今生きている感染者の残り時間が刻一刻と迫ってくるからという切迫感に加え、問題自体が世の中に認識されていない、ないものにされているからという面もあるだろう。元々世間の視野に入っていない存在で、共通言語がなく、何かを訴えても他人事として耳を傾けられないのなら、暴れるくらいしか自分たちがここにいる、こういう問題があると知らせる方法がないということでもある。暴れるのにはそれなりの理由があるのだ。彼らの活動はエイズ患者に対する支援や患者に対する差別撤廃を訴えるものだが、同時にエイズによって、またセクシャリティその他の属性によって自分たちを分断するなという訴えでもある。
 とは言え、ACTUP内でも分断は生じる。病気の進行度合いやどういう経路で感染したのか(薬害エイズ患者と薬物依存症で注射針によって感染した患者とではやはり見られ方が違う)によって、日常の生活の逼迫感や残り時間への焦り、世間からどう見られるかという部分は少しずつ異なり、そこに意識の差が生じてくる。ショーンが徐々にACTUPへの苛立ちを強めるのは、彼の持ち時間の終わりが見えてきてしまったからだ。
 困難な側面を描く作品だが、人と人の関わり方、「今、この時」を全力で生きようとする人たちのきらめきは眩しく、ちょっと涙が出てきそうになる。相手のことを好きでも嫌いでも、恋人でも友人でも親子でも、相手と関わっていきそれを途絶えさせないという意思がある。本作、セックスシーンがそこそこあるが、双方の意思の疎通が感じられるとても丁寧な描き方で、最近見た映画内セックスシーンの中ではベストかもしれない。

パリ20区、僕たちのクラス [DVD]
フランソワ・ベゴドー
紀伊國屋書店
2011-04-28


体の贈り物 (新潮文庫)
レベッカ ブラウン
新潮社
2004-09-29

『ビッグ・シック ぼくたちの大いなる目覚め』

 シカゴに暮らすコメディアンのクメイル(クメイル・ナンジニア)はパキスタン出身。パキスタンを紹介する持ちネタは今一つぱっとしない。両親からはパキスタン文化に則り見合い結婚しろと迫られている。ある日自分が出演するライブを見に来ていた大学院生のエミリー(ゾーイ・カザン)と恋に落ちるが、同郷者との結婚が当然と考えている家族に彼女のことを打ち明けられずにいた。これがエミリーに知られ2人は破局。しかしエミリーが原因不明の病気で昏睡状態になってしまう。監督はマイケル・シュウォルター。
 コメディアンのナンジニアの実体験を本人が演じる、しかも脚本は妻のエミリー・V・ゴードン(つまり作中のエミリー!)。今シーズンは実話を本人が演じるムーブメントでも来ているんですかね・・・。自身の体験に基づく話というと非常にパーソナルなものになりそうだし、実際にパーソナルな話ではあるのだが、どの人、どの家庭でも生じそうな普遍的な話としての側面もある。
 パキスタン人として生きてきた両親の元でアメリカ人に「なった」クメイルと、元々アメリカ人の両親の元でアメリカ人として育ったエミリーとでは、背景となる文化にギャップがある。クメイルにとってアメリカ人であることは選び取るもの、エミリーにとっては無条件で付与されたもの(だからいちいち意識しない)なんだなと考えさせられるシーンがいくつかあった。エミリーの両親は、最初はクメイルを「アメリカ人」とは見なしていなかったんじゃないかな・・・(娘を傷つけた男に対する怒りもあるし)。
 クメイルとエミリー、またクメイルとエミリーの両親の間には育った文化の違いによるギャップがある。が、同じ文化圏にいたはずのクメイルと家族の間、あるいはエミリーの父親と母親との間にもギャップはある。人と人とがコミュニケートするというのは、多かれ少なかれ異文化同士がぶつかり合うことだろう。お互い何とかやっていくにはすり合わせていくしかない。それ故か、彼らは実によく喋る。本作におけるコミュニケーションの殆どは言葉によるものなのだ。これやっていい?これはどう思う?とクメイルとエミリーは相手の意思を確認し応酬を続ける。だからクメイルが家族について説明しなかったエミリーは怒るのだろう。とは言え言葉、会話が多すぎて少々疲れる作品でもあった。コミュニケーションて、労働だよな・・・。

40歳からの家族ケーカク [DVD]
ポール・ラッド
ジェネオン・ユニバーサル
2014-03-05






『The Beguiled ビガイルド 欲望のめざめ』

 南北戦争中のアメリカ南部。女子寄宿学校で暮らす7人の女性たちの元に、怪我をした北軍の兵士・マクバニー伍長(コリン・ファレル)が転がりこむ。女性たちは彼を敵軍の兵士だと警戒すると同時に、徐々に興味を覚えていく。原作はトーマス・カリナンの小説『The Beguiled』。監督はソフィア・コッポラ。なお原作小説は1971年に『白い肌の異常な夜』(ドン・シーゲル監督)として映画化されている。
 ソフィア・コッポラ監督の映画は、女性を(男性も)美しく撮るが、そこにセクシャルな臭いをあまり感じない。本作も、シチュエーション的にこれはエロいだろう!というシーンは結構あるのだが、どれもエロティックな形があるだけで、中身を伴わない。かなりあからさまにセックスしているよというシーンですら、さほど色っぽくはない。セクシーとされるものの形をなぞっているだけという印象だ。そこが見ていて気楽な所でもある。脅かされている感じがしないのだ。
 音楽といい映像といい、冒頭から不穏な雰囲気をかきたててくるのに不安にならないのも、そのせいだろう。物語上はマクバニーが屋敷に入り込み、エドウィナ(キルステン・ダンスト)を、ミス・マクバニー(ニコール・キッドマン)を、またアリシア(エル・ファニング)を性的な対象として見るわけだが、絵としてはあんまりそういう風に見えない。私がコリン・ファレルにあまりセクシーさを感じないというのもあるのかもしれないけど。
 本作で描かれる女性たちの共同体は、男性という異分子に揺さぶられるが、意外とほどけない。彼女が、あるいは彼女が同性たちを裏切るかのように見えるが、また引き戻される。彼女たちだけで完結した世界なのだ。時代背景は設定されているのに物語上は反映されない所も、箱庭的な雰囲気を強める。この時代のアメリカ南部だったら黒人の使用人がいる方が自然だと思うが、そういったものは現れない。他の兵士もちらりと姿を見せるだけで、遠くで大砲の音が響くにとどまる。世界から取り残されていくようにも見えた。この外側のなさがソフィア・コッポラの作家性なのかなと思う。

ビガイルド 欲望のめざめ
トーマス・カリナン
作品社
2017-12-26


白い肌の異常な夜 [DVD]
クリント・イーストウッド
キングレコード
2017-08-02



『否定と肯定』

 1994年、アメリカに住む歴史学者デボラ・E・リップシュタット(レイチェル・ワイズ)は、自著の中でイギリスの歴史家デビッド・アービング(ティモシー・スポール)が唱えるホロコースト否定論を、真向から否定する。アービングはリップシュタットの講演会に現れ彼女を非難、更に名誉棄損で彼女を提訴する。イギリスの司法制度では訴えられた側に立証責任がある。リップシュタットはイギリスの弁護団と共に裁判に臨む。監督はミック・ジャクソン。
 訴えられた側に立証責任があるというイギリスの裁判制度には奇妙に思えるし、当然リップシュタットも戸惑う。そもそも、歴史上の事実として確固としているものを、偽造された歴史と並べてどちらが正しいか証明しろというのも変な話なのだ。とは言え、リップシュタットに「放っておけば世間は忘れるから示談しろ」という人もいるが、リップシュタットは拒否する。放置しておけば、放置していてもいいものとして認識されかねない。ねつ造は許されないとその都度正していくことが、歴史学者の勤めだということだろう。
 アービングは話がうまく、かつ言葉で相手を煽り動揺させる。リップシュタットの弁護団は、アウシュビッツの実在を証明するのではなく、アービングの著作の間違いや矛盾点を積み重ね、彼が意図的にホロコーストはなかったと偽装しようとしたと証明しようとする。リップシュタットによる直接的な反論や、ホロコーストの生存者達の証言は扱わないことにするのだ。このやり方は歴史研究者であるリップシュタットの意に沿うものではなく、生存者らを傷つけるものでもある。アービングの自説は死者と生存者らの存在を否定するものだが、弁護団のやり方もまた、彼らにとっては「否定」と受け止められかねない。弁護団のやり方がまずいというのではなく、歴史研究者の振る舞いと法律家の振る舞いとには差異があるのだ。リップシュタットや生存者らをアービングと同じ土俵に上がらせないことこそが、弁護団の倫理であり誠意である。リップシュタットと担当弁護士ランプトン(トム・ウィルキンソン)、ジュリアス(アンドリュー・スコット)は激しく言い合うが、彼らの道義の有り様に気付いたリップシュタットは、徐々に彼らを信頼していく。リップシュタットの振る舞いは一見口うるさく面倒くさい人のようなのだが、彼女が自分の良心と責任に忠実であり、他人任せにすることを忌避するからだ。そんな彼女の「良心を預ける」という言葉は非常に重い。
 一見「面白いおじさん」であるアービングの中の差別意識がどんどん明るみに出てくるのだが、差別主義者って自分が差別主義者であるという自覚はあんまりないんだろうし、それを改める気もないんだなと茫然とする。アービングは女性差別的な発言も頻繁にするのだが、それが女性差別だとは全くわかっていないようだ。これはアウトだろ!という言葉を報道陣の前でぽろっと言っちゃうしなぁ。

否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い (ハーパーBOOKS)
デボラ・E リップシュタット
ハーパーコリンズ・ ジャパン
2017-11-17




『昼顔』

 お互いパートナーがいながら不倫関係にあった木下紗和(上戸彩)と北野裕一郎(斎藤工)は、北野の妻・乃里子(伊藤歩)によって引き離され、二度と会わないし連絡も取らないという念書を交わしていた。離婚して海辺の町で一人暮らしをしていた紗和は、大学の非常勤講師として北野が講演に訪れていることに気付く。再会した2人は何度も逢瀬を重ねるようになるが。テレビドラマ『昼顔 平日午後3時の恋人たち』の劇場版。監督は西谷弘。
 私はテレビドラマは何となく話の流れを知っているという程度なのだが、映画版を見るのに特に支障は感じなかった。本作、予想外の展開がほぼないのだ。主役2人が不倫をするドラマだったらまあこういう展開があるだろうな、というテンプレのみでほぼ出来上がっている。テンプレを使うことに対する照れとか躊躇みたいなものが全くなく、やるからには堂々とど真ん中をやるぜ!といった面持で、一回廻ってむしろ挑戦的なんじゃないかという気までしてきた。
 とはいえ、テンプレの連打だから退屈かというとそんなことはない。テンプレ=型であり、型をちゃんとふまえたものは間口が広く、普遍性があるのだ。TVシリーズを見ていなくてもそれなりに楽しめるというのは、そういうことだろう。所々、何でこの曲を使うの?ここは笑うところなの?というような違和感を感じたが、TVシリーズを踏まえての演出だったのかな?とは思った。
 前半は紗和と北野が再会し、何度もデートを重ねていくが、2人のいちゃいちゃ感がいちゃいちゃのお手本的で、幸せ感だだ漏れな感じに若干退屈してくる。ドラマとして盛り上げてくるのは、しっぺ返しが待っている後半だろう。正にメロドラマという展開でまあそうくるよなーとは思うのだが、伊藤歩の熱演もあって結構面白い。気持ちを切り替えたつもりだったのに、実はそうでもなかったと自分で気づいてしまう乃里子の姿に説得力がある。紗和と対面した時の態度は、決して演技ではないのだろう。土壇場で自分でもコントロールできない気持ちがあふれてしまう。このコントロールできなさは、紗和と北野が陥った関係と同じなのだ。感情に翻弄されていく人たちの話と言える(恋愛ドラマは不倫だろうがそうでなかろうが大体そんなものか)。
 古典的なメロドラマなのだが、不倫した人は世間に対しても後ろめたく、申し訳なさそうにしていないとならない、不幸にならないと納得されないというのは、何だかつまらないなとも思う。お互いの関係者に対してならわかるけど、職場の同僚とかには関係ないよなぁ・・・。紗和の過去を知った同僚たちは彼女に冷たくあたるが、それが不思議だった。仕事を一緒にする上では、仕事が出来る人かどうか、最低限コミュニケーションを取れるかどうかの方が圧倒的に大事だと思うけど・・・。

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2015-01-30


『光』

 視覚障害者向けの映画音声ガイド製作を仕事にしている美佐子(水崎綾女)は、音声ガイドの試作モニターの1人だった雅哉(永瀬正敏)と知り合う。雅哉の批判は言葉はきついものの、的を得たものだった。元カメラマンの雅哉は弱視の為に仕事は引退したが、更に視力が失われていくことに苛立ちと恐怖を募らせていた。監督は河瀬直美。
 冒頭、美佐子が作る音声ガイドの最初のバージョンを聴いていると、最後の部分の文章に違和感を感じる。すると、その違和感そのものを雅哉が指摘する。これは美佐子と雅哉という、全く別個の人間同士がコミュニケーションの壁を越えていく様を描いていると同時に、映画を見るという行為を描いている作品でもあるのだ。雅哉の批判は、視覚障害者の世界を理解していない美佐子への批判であると同時に、映画を見るという行為の幅を狭めてしまう美佐子のガイド=映画解釈への批判にもなっている。美佐子のガイド作成は、どこを説明してどこを割愛するのかという、文章量の調整に四苦八苦する。ともすると彼女の主観に寄りすぎ観客にとっては窮屈なものになる。反対に簡潔すぎると十分な情報が観客に伝わらない。一番最初に出てくる彼女のガイドは、ちょっと彼女自身の主観が入りすぎだ。
 とはいえ、映画を見ること、解釈するということは、常に見る側の主観が入る。自分が望むものを映画の中に見てしまうのだ。それは美佐子も雅哉も同じで、彼らが映画の中でひっかかる部分に、それぞれが抱える屈託や問題が垣間見えてくる。
 作中映画の監督(藤竜也)に美佐子が取材するシーンがある。美佐子は映画のラストにはっきりとした希望、明るいものを見出したい、これはそういう映画ではないのかと問う。監督ははっきりとした答えは言わず、あなたが(作中映画の)主人公にそれを見出してくれるなら嬉しいとだけ言う。多分、監督はある程度はっきりとした答え、解釈を持ってはいるのだろう。ただ、映画を見る観客にそれを明示はしない。それをしないのが映画の送り手としてのつつしみであり矜持であるのではないか。映画は作った人のものであると同時に、見た人のものでもある。
 河瀬監督の作品を見るのは久しぶりだったのだが、こんなにわかりやすい映画を撮るようになったのかと驚いた。本作は音声ガイドという素材の都合上(本作自体も音声ガイド対応している)、言語化される部分が多いのでよけいにそう感じられたのかもしれない。

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『光をくれた人』

 第一次大戦から帰還したトム・シェアボーン(マイケル・ファスベンダー)は、オーストラリアの孤島ヤヌス・ロックに灯台守として赴任する。やがて溌剌としたイザベル(アリシア・ヴィキャンデル)と結婚するが、イザベルは立て続けに流産に見舞われる。失意の中にいた2人は、ある日、男性の遺体と赤ん坊を乗せたボートが流れ着いているのを発見。イザベルは本土に連絡しようとするトムを止め、赤ん坊を2人の子供として育てようと説得する。原作はM・L・ステッドマンの小説『海を照らす光』、監督・脚本はデレク・シアンフランス。
 トムもイザベルも善良な人たちだ。しかし善人であっても、本当に追い詰められた時、憔悴している時、人は他人のことには思いが及ばないものだ。トムとイザベルが赤ん坊を発見した時、2人は同乗していた男の生死を確かめる。孤児とな赤ん坊を施設に入れるのは忍びない、今なら自分たちの子供として育てても疑問に思われないというのがイザベルの言い分だ。2人は子供のことを思って行動する。しかし同時に、この子供、また死んだ男の家族は生きているかもしれないという言葉は、2人の口からは出てこない。どこかに家族がいて、赤ん坊や男の身を案じているかもしれないという発想は、冷静な状態なら当然出てくるだろうが、この時の2人は(半ば意図的に)失念してしまう。イザベルは赤ん坊を失って深く傷ついている。トムはそんなイザベルのことを心から案じている。その傷や思いやりから、倫理的には大分問題のある行為に及んでしまうのだ。そこで倫理的な正しさを全うできるほど、2人は強くない。
 2人は大きな嘘をつくことになるが、とあることからその嘘がほころび始める。一旦そのほころびに気付いてしまうと、なまじ善人なだけに嘘は揺らぎ始める。ことにトムは、善良故にある行為をするが、その行為がある人をより苦しめることになる。嘘なら嘘で最後まで突き通せばいいのに・・・と思ってしまったが、突き通すほどの強さはトムにはないのだ。弱くて善良だから嘘をつき、やはり弱くて善良だから嘘をつきとおすことも出来ない。しかしその一方で、深く苦しんでいたはずのある人が自分のことを捨てても他者を思いやる気高さを発揮し、トムもまた、自分の人生をなげうって償いをしようとする。人間の弱さと強さははっきりと分かれているものではなく、時に入り混じり、反転し続けるのだ。
 邦題はいまいちかなと思っていたのだが、見た後は内容にちゃんと即していたとわかる。赤ん坊がトムとイザベルの人生に光を与えたという意味合いはもちろんあるのだが、むしろ、2組の夫婦がお互いの人生を照らしあう物語なのだ。片方が消えても光が照らしたものは残るということを、もう1組の(トムとイザベルではない方の)夫婦のあり方から強く感じた。この人たちもやはり弱い、しかし強いのだ。

『ひるね姫 知らないワタシの物語』

 東京オリンピック開催が迫る2020年。岡山県の港町に住む高校生のココネ(高畑充希)は、車の改造ばかりしている父モモタロー(江口洋介)と2人暮らし。ココネは居眠りばかりしており、夢の中では魔法使いのエンシェン王女が青年モモと冒険を繰り広げていた。ある日、モモタローが理由もわからないまま警察に逮捕されてしまう。ココネは父が残したタブレットを手がかりに、幼馴染のモリオ(満島真之介)の力を借りて父を助けようとする。監督・脚本は神山健治。
 本作、神山監督が原案・脚本も兼任しているのだが、原案はともかく、脚本には専任者を立てた方がよかったんじゃないかなと思った。神山監督がシリーズ構成やストーリーまで手がけた作品を見ているとしばしば思うのだが、具体的なストーリーやテーマのボリューム設定が、物語の外枠と一致していないケースが多いように思う。時間的な尺や世界設定に対して、中身の要素が飽和状態になるというか、変なねじれを生じさせやすい印象がある。面白くないわけではないんだが、微妙に楽しめない部分が残る。このあたりは自分との相性の問題かもしれないが。
 本作では、ココネの家庭が抱えてきた秘密・問題を、彼女の夢とリンクさせていく。現実の問題をファンタジーと重ねて紐解いていくという構造は、ファンタジー作品の一つのパターンとしてとてもいいと思う。ココネの夢の中の世界のスチームパンク感滲むディティールや、諸々の機械仕掛けのデザインもいい。スチームパンク的世界になぜタブレット?という疑問が沸くのだが、そもそもこの夢の世界が何から生まれたものか、という部分への伏線にもなっており、これも納得。
 しかし、この夢・ファンタジーの部分と、ココネの現実世界で起きているトラブルとの摺合せ、シームレス加工があまり上手くいっていないように見える。主人公の身近な(家庭や友人関係などの)問題がファンタジーの中に形を変えて登場する、という構図が定番だと思うのだが、本作の場合、現実世界の問題のスケールが妙に大きいのだ。しかも、そういう理由でそんな強引なことやります?というもの。この人はなぜわざわざ、こんなリスキーな方法をとる(しかも不慣れっぽいのに)の?話の趣旨としては、ココネの日常と夢の中の冒険だけで収められそうだし、その方がファンタジーとしては際立ちそう。夢は見る人にとってはごくごくプライベートなもの、世界にとってはささやかなことだ。しかしココネ(と家族)にとっては大冒険のように壮大なものになりうる。その対比がいいのではないだろうか。本作では現実世界の大企業の陰謀の方が壮大になってしまい、メリハリがないのだ。
 作中の大企業、組織の描写に説得力がないというのも、奇妙な印象になっている一因かと思う。フィクションとしてのデフォルメの度合いをどのへんに設定したのかよくわからなかった。ちょっとコミカルというか、取締役の頭悪すぎないか?会長にしても、その立場でそのタイミングでそこに拘るのっておかしくない?別のやり方があるんじゃない?と突っ込みたくなるのだ。フィクションであっても、こういう組織なんですよという説得力があればいいんだけど、そのあたりが曖昧で雑に見えた。

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