3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『昼顔』

 お互いパートナーがいながら不倫関係にあった木下紗和(上戸彩)と北野裕一郎(斎藤工)は、北野の妻・乃里子(伊藤歩)によって引き離され、二度と会わないし連絡も取らないという念書を交わしていた。離婚して海辺の町で一人暮らしをしていた紗和は、大学の非常勤講師として北野が講演に訪れていることに気付く。再会した2人は何度も逢瀬を重ねるようになるが。テレビドラマ『昼顔 平日午後3時の恋人たち』の劇場版。監督は西谷弘。
 私はテレビドラマは何となく話の流れを知っているという程度なのだが、映画版を見るのに特に支障は感じなかった。本作、予想外の展開がほぼないのだ。主役2人が不倫をするドラマだったらまあこういう展開があるだろうな、というテンプレのみでほぼ出来上がっている。テンプレを使うことに対する照れとか躊躇みたいなものが全くなく、やるからには堂々とど真ん中をやるぜ!といった面持で、一回廻ってむしろ挑戦的なんじゃないかという気までしてきた。
 とはいえ、テンプレの連打だから退屈かというとそんなことはない。テンプレ=型であり、型をちゃんとふまえたものは間口が広く、普遍性があるのだ。TVシリーズを見ていなくてもそれなりに楽しめるというのは、そういうことだろう。所々、何でこの曲を使うの?ここは笑うところなの?というような違和感を感じたが、TVシリーズを踏まえての演出だったのかな?とは思った。
 前半は紗和と北野が再会し、何度もデートを重ねていくが、2人のいちゃいちゃ感がいちゃいちゃのお手本的で、幸せ感だだ漏れな感じに若干退屈してくる。ドラマとして盛り上げてくるのは、しっぺ返しが待っている後半だろう。正にメロドラマという展開でまあそうくるよなーとは思うのだが、伊藤歩の熱演もあって結構面白い。気持ちを切り替えたつもりだったのに、実はそうでもなかったと自分で気づいてしまう乃里子の姿に説得力がある。紗和と対面した時の態度は、決して演技ではないのだろう。土壇場で自分でもコントロールできない気持ちがあふれてしまう。このコントロールできなさは、紗和と北野が陥った関係と同じなのだ。感情に翻弄されていく人たちの話と言える(恋愛ドラマは不倫だろうがそうでなかろうが大体そんなものか)。
 古典的なメロドラマなのだが、不倫した人は世間に対しても後ろめたく、申し訳なさそうにしていないとならない、不幸にならないと納得されないというのは、何だかつまらないなとも思う。お互いの関係者に対してならわかるけど、職場の同僚とかには関係ないよなぁ・・・。紗和の過去を知った同僚たちは彼女に冷たくあたるが、それが不思議だった。仕事を一緒にする上では、仕事が出来る人かどうか、最低限コミュニケーションを取れるかどうかの方が圧倒的に大事だと思うけど・・・。

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『光』

 視覚障害者向けの映画音声ガイド製作を仕事にしている美佐子(水崎綾女)は、音声ガイドの試作モニターの1人だった雅哉(永瀬正敏)と知り合う。雅哉の批判は言葉はきついものの、的を得たものだった。元カメラマンの雅哉は弱視の為に仕事は引退したが、更に視力が失われていくことに苛立ちと恐怖を募らせていた。監督は河瀬直美。
 冒頭、美佐子が作る音声ガイドの最初のバージョンを聴いていると、最後の部分の文章に違和感を感じる。すると、その違和感そのものを雅哉が指摘する。これは美佐子と雅哉という、全く別個の人間同士がコミュニケーションの壁を越えていく様を描いていると同時に、映画を見るという行為を描いている作品でもあるのだ。雅哉の批判は、視覚障害者の世界を理解していない美佐子への批判であると同時に、映画を見るという行為の幅を狭めてしまう美佐子のガイド=映画解釈への批判にもなっている。美佐子のガイド作成は、どこを説明してどこを割愛するのかという、文章量の調整に四苦八苦する。ともすると彼女の主観に寄りすぎ観客にとっては窮屈なものになる。反対に簡潔すぎると十分な情報が観客に伝わらない。一番最初に出てくる彼女のガイドは、ちょっと彼女自身の主観が入りすぎだ。
 とはいえ、映画を見ること、解釈するということは、常に見る側の主観が入る。自分が望むものを映画の中に見てしまうのだ。それは美佐子も雅哉も同じで、彼らが映画の中でひっかかる部分に、それぞれが抱える屈託や問題が垣間見えてくる。
 作中映画の監督(藤竜也)に美佐子が取材するシーンがある。美佐子は映画のラストにはっきりとした希望、明るいものを見出したい、これはそういう映画ではないのかと問う。監督ははっきりとした答えは言わず、あなたが(作中映画の)主人公にそれを見出してくれるなら嬉しいとだけ言う。多分、監督はある程度はっきりとした答え、解釈を持ってはいるのだろう。ただ、映画を見る観客にそれを明示はしない。それをしないのが映画の送り手としてのつつしみであり矜持であるのではないか。映画は作った人のものであると同時に、見た人のものでもある。
 河瀬監督の作品を見るのは久しぶりだったのだが、こんなにわかりやすい映画を撮るようになったのかと驚いた。本作は音声ガイドという素材の都合上(本作自体も音声ガイド対応している)、言語化される部分が多いのでよけいにそう感じられたのかもしれない。

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『光をくれた人』

 第一次大戦から帰還したトム・シェアボーン(マイケル・ファスベンダー)は、オーストラリアの孤島ヤヌス・ロックに灯台守として赴任する。やがて溌剌としたイザベル(アリシア・ヴィキャンデル)と結婚するが、イザベルは立て続けに流産に見舞われる。失意の中にいた2人は、ある日、男性の遺体と赤ん坊を乗せたボートが流れ着いているのを発見。イザベルは本土に連絡しようとするトムを止め、赤ん坊を2人の子供として育てようと説得する。原作はM・L・ステッドマンの小説『海を照らす光』、監督・脚本はデレク・シアンフランス。
 トムもイザベルも善良な人たちだ。しかし善人であっても、本当に追い詰められた時、憔悴している時、人は他人のことには思いが及ばないものだ。トムとイザベルが赤ん坊を発見した時、2人は同乗していた男の生死を確かめる。孤児とな赤ん坊を施設に入れるのは忍びない、今なら自分たちの子供として育てても疑問に思われないというのがイザベルの言い分だ。2人は子供のことを思って行動する。しかし同時に、この子供、また死んだ男の家族は生きているかもしれないという言葉は、2人の口からは出てこない。どこかに家族がいて、赤ん坊や男の身を案じているかもしれないという発想は、冷静な状態なら当然出てくるだろうが、この時の2人は(半ば意図的に)失念してしまう。イザベルは赤ん坊を失って深く傷ついている。トムはそんなイザベルのことを心から案じている。その傷や思いやりから、倫理的には大分問題のある行為に及んでしまうのだ。そこで倫理的な正しさを全うできるほど、2人は強くない。
 2人は大きな嘘をつくことになるが、とあることからその嘘がほころび始める。一旦そのほころびに気付いてしまうと、なまじ善人なだけに嘘は揺らぎ始める。ことにトムは、善良故にある行為をするが、その行為がある人をより苦しめることになる。嘘なら嘘で最後まで突き通せばいいのに・・・と思ってしまったが、突き通すほどの強さはトムにはないのだ。弱くて善良だから嘘をつき、やはり弱くて善良だから嘘をつきとおすことも出来ない。しかしその一方で、深く苦しんでいたはずのある人が自分のことを捨てても他者を思いやる気高さを発揮し、トムもまた、自分の人生をなげうって償いをしようとする。人間の弱さと強さははっきりと分かれているものではなく、時に入り混じり、反転し続けるのだ。
 邦題はいまいちかなと思っていたのだが、見た後は内容にちゃんと即していたとわかる。赤ん坊がトムとイザベルの人生に光を与えたという意味合いはもちろんあるのだが、むしろ、2組の夫婦がお互いの人生を照らしあう物語なのだ。片方が消えても光が照らしたものは残るということを、もう1組の(トムとイザベルではない方の)夫婦のあり方から強く感じた。この人たちもやはり弱い、しかし強いのだ。

『ひるね姫 知らないワタシの物語』

 東京オリンピック開催が迫る2020年。岡山県の港町に住む高校生のココネ(高畑充希)は、車の改造ばかりしている父モモタロー(江口洋介)と2人暮らし。ココネは居眠りばかりしており、夢の中では魔法使いのエンシェン王女が青年モモと冒険を繰り広げていた。ある日、モモタローが理由もわからないまま警察に逮捕されてしまう。ココネは父が残したタブレットを手がかりに、幼馴染のモリオ(満島真之介)の力を借りて父を助けようとする。監督・脚本は神山健治。
 本作、神山監督が原案・脚本も兼任しているのだが、原案はともかく、脚本には専任者を立てた方がよかったんじゃないかなと思った。神山監督がシリーズ構成やストーリーまで手がけた作品を見ているとしばしば思うのだが、具体的なストーリーやテーマのボリューム設定が、物語の外枠と一致していないケースが多いように思う。時間的な尺や世界設定に対して、中身の要素が飽和状態になるというか、変なねじれを生じさせやすい印象がある。面白くないわけではないんだが、微妙に楽しめない部分が残る。このあたりは自分との相性の問題かもしれないが。
 本作では、ココネの家庭が抱えてきた秘密・問題を、彼女の夢とリンクさせていく。現実の問題をファンタジーと重ねて紐解いていくという構造は、ファンタジー作品の一つのパターンとしてとてもいいと思う。ココネの夢の中の世界のスチームパンク感滲むディティールや、諸々の機械仕掛けのデザインもいい。スチームパンク的世界になぜタブレット?という疑問が沸くのだが、そもそもこの夢の世界が何から生まれたものか、という部分への伏線にもなっており、これも納得。
 しかし、この夢・ファンタジーの部分と、ココネの現実世界で起きているトラブルとの摺合せ、シームレス加工があまり上手くいっていないように見える。主人公の身近な(家庭や友人関係などの)問題がファンタジーの中に形を変えて登場する、という構図が定番だと思うのだが、本作の場合、現実世界の問題のスケールが妙に大きいのだ。しかも、そういう理由でそんな強引なことやります?というもの。この人はなぜわざわざ、こんなリスキーな方法をとる(しかも不慣れっぽいのに)の?話の趣旨としては、ココネの日常と夢の中の冒険だけで収められそうだし、その方がファンタジーとしては際立ちそう。夢は見る人にとってはごくごくプライベートなもの、世界にとってはささやかなことだ。しかしココネ(と家族)にとっては大冒険のように壮大なものになりうる。その対比がいいのではないだろうか。本作では現実世界の大企業の陰謀の方が壮大になってしまい、メリハリがないのだ。
 作中の大企業、組織の描写に説得力がないというのも、奇妙な印象になっている一因かと思う。フィクションとしてのデフォルメの度合いをどのへんに設定したのかよくわからなかった。ちょっとコミカルというか、取締役の頭悪すぎないか?会長にしても、その立場でそのタイミングでそこに拘るのっておかしくない?別のやり方があるんじゃない?と突っ込みたくなるのだ。フィクションであっても、こういう組織なんですよという説得力があればいいんだけど、そのあたりが曖昧で雑に見えた。

『百日告別』

 自動車の玉突き事故によって、結婚間近の婚約者を亡くしたシンミン(カリーナ・ラム)と、妊娠中の妻を亡くしたユーウェイ(シー・チンハン)。2人は愛する人の死を受け入れられずにいたが、初七日、四十九日、七十七日と時間は過ぎていく。監督はトム・リン。
 愛する人の死という題材であっても過剰なウェットさ、ドラマティックさはなく、むしろつつましやかな印象の作品。シンプルな物語だが、パートナーを突然亡くして頭も心も状況についていけない感じがありありと描かれる。親戚が葬儀の手筈を相談していることに苛立ったり、周囲がよかれと思ってやってくれることが的外れに感じられてしょうがなかったりと、周囲の状況から置いていかれている、自分だけ時間が動かない感じが切実だった。 一人で喪失と向き合う時間が必要なのだろうが、周囲の状況はどんどん進むし、一人でいすぎると死に近づきすぎてしまい危険でもある。前に進むことと引き戻されることとの間で、シンミンもユーウェイも揺れているのだ。
 最初のうちは自分と亡くしたパートナーとの間のことしか考えられず苦しんでいた2人だが、時間がたつにつれ、視界が広がっていく。自分以外にも死者を悼む存在がおり、自分にとっての死者とはまた違う側面を見ていたのだということ、また死者が残していったものがあったことに気付いていくのだ。ここまでくれば、あとはきっと大丈夫という気持ちになってくる。四十九日とか七十七日、死者との距離を測るシステムとしてよくできていたんだな・・・。
 台湾の映画だが、街中にしろ山の上のお寺の周囲にしろ、風景に味わいがあった。お寺まではバスで山道を登っていくのだが、木漏れ日の中をぐねぐね進んでいく様がとてもいいのだ。ちょっといつもと違う場所に行くような非日常感を感じる。また、シンミンは新婚旅行で行くはずだった沖縄を1人で旅するのだが、日本国内で自分も実際に行ったことがある場所の風景なのに、海外の映画の中に出てくると海外のように見えるというのが何だか不思議。映画の中の沖縄は、シンミンにとっての沖縄なんだなと。シンミンの婚約者は料理人だったので、(彼が食べたかった、また彼が残したレシピによる)色々な料理が出てくるが、どれもおいしそうだった。
 なお、台湾でも日本の漫画は相当読まれているのね。稲中とか、神の雫とか、将太の寿司とか・・・。

『ヒトラーの忘れもの』

 1945年、ナチス・ドイツによる占領から解放されたデンマークだが、ドイツ軍は海岸線に無数の地雷を埋めたままだった。その除去に動員されたのは捕虜となったドイツの少年兵たちだった。彼らを監督し除去作業を行うことになったデンマーク軍のラスムスン軍曹(ローラン・ムラ)はナチスを強く憎んでいるものの、少年たちと共に過ごすうちに心が揺らぐ。しかし少年たちは次々と命を落としいき、ラスムスンは葛藤する。監督・脚本はマーチン・サントフリート。
 とにもかくにも、ドイツ軍地雷埋めすぎ!基本的に人力除去するしかないので戦後どうするつもりだったんだと思ってしまうが、戦争中ってそんな先のこと考えないものなんだろうな。地雷の非人道的な側面はいやというほど見せてくれる作品。除去作業自体が難しいこと、全て除去できたかという確証がなかなか持てない(どこにいくつ設置したという記録が残っているとは限らない)ことが悲劇を生む。
 当初、ラスムスンはナチス・ドイツ、ひいてはドイツ人を許す気持ちは毛頭ない。彼が世話になる農家の女性も同様だ。デンマークは5年間ドイツに占領されていたわけで、デンマーク人の恨みや憎しみは溜まりに溜まっていたのだろう。ラスムスンにとって少年兵たちは、まとめて「憎いドイツ人」で、最初はろくに食事は与えないし厳しいノルマを課す。しかし毎日顔を突き合わせていれば1人1人の性格の違いや背景も見えてきて、それぞれの人生を生きる個人としての彼らの姿が立ち上がってくる。そうなると彼らを使い捨てにするようなやり方には疑問もわくし、疑似父子のような情も沸いてくる。
 とは言え、彼らがドイツ兵であるのも事実で、農家の女性や他のデンマーク軍人、アメリカ軍人は彼らを相変わらず憎み蔑むし、ラスムスン自身も怒りに襲われ激高したりもする。敵だった存在を許すことはそう簡単には出来ないのだろう。少年たちがデンマーク人をどう思っているのか、自分たちの国がやったことがどういうことだったのかわかっているのか、作中では明示されないが(多分よくわかっていないんだろうなぁ・・・)、そこも気になった。許す、と理解し合う、というのとはまたちょっと違う。ラスムスンはおそらく少年たちのことを理解はしなかったが、ぎりぎりの線で許したのだと思う。ラストは一つの寓話のようでもあった。

『秘密 THE TOP SECRET』

 死者の記憶を映像化し、それを手がかりとして犯罪捜査を行う科学警察研究所法医第九研究室、通称「第九」に新任した捜査官・青木一行(岡田将生)は、室長・薪剛(生田斗真)の指示により、妻子を惨殺し死刑になった露口(椎名桔平)の記憶を映像化した。そこには、事件以来行方不明で、既に殺されていると思われていた露口の長女・絹子(織田梨沙)が家族を刺殺する姿があった。原作は清水玲子の同名漫画。監督は大友啓史。
 作りこんだセットに、おそらく本作の為に仕立てられた衣装のスーツ等、ビジュアルには気合が入っている。が、この気合が全て空回りしているように思った。すごく悪くはない、しかし特に良くもないというものすごく微妙かつコメントしにくいところに落ち着いてしまったな・・・。第九のラボはサイバーパンクっぽい雰囲気を意図したのだと思うが、いかにも「SFでござい」的なセットが逆にSF感を削いでいるように思った。原作がそうなのかもしれないけど、大写しの複数モニターってもうやめませんか・・・。更に言うならアジアのスラム的なセットももうやめませんか・・・。いいかげんださいと思う。また、衣装のデザイン自体はいいが、人によっては体格にあっていないような印象を受けた。既成のスーツじゃだめだったの?一応警察ものだから、そのへんの個性はあまり出さない方がそれっぽいと思うのだが。使用車両がやたらお高そうなのもの興を削ぐ。
 おそらく原作の複数エピソードを組み合わせて構成しているのだろうが、上手く融合していないと思う。絹子事件と貝沼(吉川晃司)事件の関連付けが急すぎて、苦し紛れの力技に見えてしまった。絹子と貝沼、どちらもキャラが立っているので、双方うるさすぎてキャラの強さが相殺されていまった気もする。どちらか1エピソードでも映画としては成立しそうだったけど。
 また、映画のオリジナルキャラクターだそうだが、刑事の眞鍋(大森南朋)の行動が支離滅裂すぎる。いくら悪徳刑事とはいえ頭悪すぎるだろう・・・。大森の演技もいつになく雑で、出てくる度にげんなりした。一体なにをやりたかったんだ・・・。
 何より、視覚情報の映像化という設定が徹底されていないことが気になった。これ、ミステリとしてのキモとなる設定なのでゆらいでしまうとストーリーの基盤に支障が出ると思うのだが。

『ヒメアノ~ル』

 ビル清掃のバイトをしている岡田(濱田岳)は、職場の先輩・安藤(ムロツヨシ)から片思い相手のカフェ店員・ユカ(佐津河愛美)との仲をとりもってくれと頼まれる。そのカフェで岡田は、高校の同級生・森田(森田剛)を見かけた。ユカは頻繁に来店している森田が、自分のストーカーではないかと怯えていた。原作は古谷実の同名漫画。監督・脚本は吉田恵輔。
 タイトルとオープニングのクレジットの出方に、このタイミングでか!こうきたか!と唸らせられた。ここまで思い切った構成にした所に、監督の構成への自信が見える。実際、これによってこの話がどういう形のものかがより鮮明になる。オフビートなコメディから一転、ホラーめいた緊張感満ちた世界になるのだが、この2つは表裏一体であり、裏と表は簡単に入れ替わる。
 とはいえ、不穏な空気は前半も漂っている。森田は登場するなり、この人に近づきたくないぞという空気を醸し出す。細くて栄養の足りていなさそうな、どこか貧相さを感じさせる風貌(森田剛はよく役を作り込んでいると思う)も一因なのだろうが、動いたり話したりすると、その不穏さはよりはっきりとする。彼は人に話しかけられれば返事はするが、そのタイミングや内容はどこかずれている。また言っていることをすぐに翻したりもするが、自分ではそれを絶対認めない。噛みあったコミュニケーションが成立しないのだ。演じる森田剛がとてもいい。ごく自然な「ヤバい人」っぽさちゃんと出ている。会話のテンポのはずし方や、暴力が発動する前の“ため”のなさ、反応の速さには目を引きつけられた。やっぱり体がよく動く役者は強いなぁ。
後半のバイオレンスは強烈で、同時期に公開されている日本映画『ディストラクション・ベイビーズ』(真利子哲也 監督)を思いだした。ただ、理由背景などなくただ「暴力」がそこにある『ディストラクション~』とは異なり、本作の森田には、シリアルキラー化するまでの理由づけがされている。より現代的、というか時代の空気を感じるのは『ディストラクション~』だと思うが、どちらがよりいいということはないだろう。森田は理解しがたい存在ではある。しかし、岡田や安藤のような人たちと全く断絶しているわけではない。困難ではあるが、共感できなくても理解の可能性は残しておきたかったという姿勢を感じた。

『光の墓』

 タイ東北部で兵士たちが次々と「眠り病」に感染し、かつて学校だった仮設病院に収容される。彼らの介護をしている女性ジェン(ジェンジラー・ポンパット・ワイドナー)は、眠る兵士の魂と交信できる若い女性ケン(ジャリンパッタラー・ルアンラム)と知り合う。ある日ジェンの前に、かつてこの地にあった王国の王女だったという美しい女性2人が現れた。彼女らによると病院の地下には王たちの墓があり、王たちは、眠る兵士たちの生気を吸い取り、今も戦い続けているのだと言う。監督はアピチャッポン・ウィーラタクセン。
 アピチャッポン監督の作品では、2つの世界が平行して存在している、あるいはこの世界と異界との境界はごく薄く、時にお互い浸食しているというような気配が濃厚に漂っている。その異界は、森であったりあの世であったり、パラレルワールドであったりする。本作では、眠り病に侵された兵士たちの向こうに、古代の王国で戦い続けた王族の兵士たちの姿が見え隠れする。アピチャッポン監督作品の中でも、はっきりと「もう一つの世界」=死者の世界の存在に言及している作品だと思う。実際、ジェンの前に現れる王女たちは「私たちも死んでいるのよ」とあっけらかんと口にするのだ。2つの世界は断絶しているのではなく、時に交わりあい、影響しあう。目覚めた兵士もまた眠りについてしまったりと、あっちとこっちを行ったり来たりしているみたいだ。土地を掘り起こすショベルカーは、もうひとつの世界を無理やり掘り起こすことで、お互いの世界の在り方を損ねてしまっているのかもしれない。最後、掘り起こされた土地を見つめるジェンの表情がただならないものなのは、そういうことなのかも。
 兵士だけが眠り病にかかる所や、死者たちが生者の力を吸い取りつつ戦争をし続けている所など、タイの歴史や現在の政治体制への批判も窺えるが、ローカルな部分を考えなくても、どこか不思議なファンタジーとしても見られる。
 眠る兵士たちを照らすチューブ型の照明や、上映後の映画館の館内(全員起立してスクリーンを見ているのだが、国王に敬意を示すためらしい)、吹き抜けの空間をエスカレーターが行き来するデパート、そしてもちろん病院を取り囲む森等、画面内の出来事や俳優の動きというよりも、その「場」や場を構成するディティールが印象に残った。また、『世紀の光』に引き続き、広場に集まった人たちが一緒にエアロビクスをやっているシーンがある。前後の脈略と関係なく挿入されるシーンなのだが、音楽もいきなりポップになるので妙にコミカル。公園とかでエアロビするのって、タイでは一般的なの?

『ビートルズ』

 トーキョーノーザンライツフェスティバル2016にて鑑賞。ペーテル・フリント監督、2014年の作品。原作はノルウェーの作家ラーシュ・ソービエ・クリステンセンの同名小説。1967年のノルウェー、オスロ。「サージェント・ペパーズ」に衝撃を受けた4人の少年たちは、ビートルズに憧れバンドを結成する。車のエンブレム泥棒、転校生の美少女への片思いや、それぞれの家庭の事情など、ビートルズのナンバーに乗せて綴られる青春譚。
 様々なことで“ビリ”だったら車のエンブレムを取って(ようするに折って盗むわけだが)くるというゲームを主人公がいつもやる羽目になるというエピソードで、彼のちょっと要領の悪い人となりがわかる。冒頭、順番に高飛び込みをやるシーンでも「やむを得ず」って飛び込み方だし、あまり思い切りのいい、無鉄砲なタイプではないのだ。とは言え、4人組の内の1人、要領がよくコミュニケーション能力抜群、しかもイケメンな雑貨屋の息子よりも、主人公の方が身近にいそうな感じはする。
 4人の少年、それぞれの人となりや背景となる家庭環境が、分量は少ないながらもちゃんと描かれていて、だからこういう言動になるのかという説得力があった。メガネの少年のどもりは厳格な父親の体罰に原因があるのではと思われる(なので、自分を肯定してくれる人が出来るとどもりはなくなる)し、音楽に詳しい少年は不仲の両親を見続けているからか、恋愛沙汰には一歩引いたスタンス。雑貨屋の少年は年の離れた兄がいるせいかませており、あるトラブルに見舞われる。主人公の家庭環境は悪くなく、特に母親がなかなかいい。「自分の中から出てくる声に耳を傾けて」と言う言葉は、息子の個性を理解しているからだろう。外から来るものも大事だが、それを受けて自分の中ではどんなものが響いているのか、その響きに彼の個性があるのだ。
 4人それぞれ、家庭や異性との関係にもやもやしたものを持っているが、それを吹き飛ばすのがビートルズの音楽だ。当時、ビートルズが若者にとってどんな存在だったのか、どのくらい熱量があったのかがよく伝わってくる。すごく新しくてかっこいいものが来た!これは「自分たちの」音楽だ!という感じだったのだろう。ビートルズだけでなく、当時の時代背景の色濃さも興味深い。ベトナム戦争がはじまり反米デモが行われていたり(その一方で共産主義嫌いも顕著)、大型スーパーマーケットチェーンが進出して地元の小売店がすたれていく。特にオスロでもベトナム戦争に反対するデモが起きていたのは知らなかったので、世界的なムーブメントだったんだなと改めて感じた。海の向こうの出来事が他人事ではなく、自分たちのこととして引き受けられつつある時代だったのかなという印象を受けた。

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