3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『バビロン』

 1920年代のハリウッド。毎晩のように派手なパーティーが開かれ乱痴気騒ぎが繰り広げられていた。人気俳優のジャック(ブラッド・ピット)はその中でもスターとして周囲の注目を集める存在だった。スターを夢見る新人女優ネリー(マーゴット・ロビー)は映画製作を目指す青年マニー(ディエゴ・カルバ)の助けを借りてパーティーに潜り込み、運よく仕事を手に入れる。マニーもジャックの助手として働くことになる。映画界はサイレントからトーキーへと移り変わり、3人の人生も大きく変化していく。監督・脚本はデイミアン・チャゼル。
 おそらく多数の映画史ネタが投入されているのだろうが、私は残念ながら映画史に詳しくないので一部しかわからなかった。ただ、ネタがすべてわかっていれば本作がより堪能できたのかというと、そういうわけでもないように思った。映画単体としては面白くないわけではないがすごく面白いというわけではないという、微妙な線なのだ。そもそも、映画史に詳しい人が見たら何をいまさらという話なのでは。ハリウッドのひとつの黄金期であり大転換期とも言える時代と、映画史全体とを接続しようという意図だったのだろうが、あまりうまくいっていない。チャゼル監督は映画がすごく好きだろうし映画史への造詣も深いのだろうと思うのだが、熱意に技術が追いついていないという印象を受けた。これ、あの監督が手掛けたらもっと面白かったのでは…とつい思ってしまった。
 微妙さを感じた最大の理由は、多分ゴージャスさの演出があまりうまくないところにあるのではないかと思う。特に冒頭のパーティーに象徴されるような世界の肝は、俗悪さと魅惑との混在にあると思うのだが、本作では俗悪は単に俗悪であり、何で皆がこんなに熱狂しているのか、魅了されているのかという映画の世界の魔を感じさせない。特に、マーゴット・ロビーにしてもブラッド・ピットにしても、この人のチャーム、セクシーさはこんなものではないだろうと歯がゆくなった。ブラッド・ピットは落ち目の俳優という役どころだからともかく(それにしても零落していく者の色気というものがあると思うが)、マーゴット・ロビーがあまり魅力的に撮れていないのは残念。とにかくセクシーさに対する感度が低い。監督の腕が悪いというのではなく、資質が本作のテーマに向いていないんじゃないだろうか。そこに自覚はないのだろうか。
 ある時代に乗り切れず、しかしハリウッドというバビロンから脱出することもできなかった人たちが描かれる。映画の世界から抜け出した人が結局一番、映画の魔法を浴びることができたのでは。自分は魔法を使えない(が生き残る)という構図は『ラ・ラ・ランド』と似ている。

ハリウッド・バビロン Ⅰ
ケネス・アンガー
パルコ
2011-03-01


雨に唄えば(字幕版)
デビー・レイノルズ
2019-02-15


 

『パラレル・マザーズ』

 写真家のジャニス(ペネロペ・クルス)と17歳のアナ(ミレナ・スミット)は出産を控えた妊婦同士として病院で知り合う。2人は同じ日に女の子を無事出産、シングルマザーとしてそれぞれの生活に戻る。しかしジャニスは娘の父親である元恋人から、自分には似ていない、自分の子供とは思えないと告げられる。迷った末ジャニスはDNA鑑定を行うが、娘セシリアはジャニスの実の子ではなかった。アナの娘と取り違えられたのだと疑うジャニスだが、アナには知らせず秘密を守る為に彼女との連絡も絶つ。しかし偶然にアナと再会し、アナの娘が死んだと知らされる。監督・脚本はペドロ・アルモドバル。
 赤ん坊の取り違えというネタは物語の中ではそう珍しくはないし、日本映画でも『そして、父になる』があったが、本作は日本ではこういう作りにはならないだろうなというもの。赤ん坊の取り違えというドラマと並行して、スペイン内戦の中で殺された人々の被害状況調査というエピソードが語られる。ジャニスの故郷の村では、内戦中に村人たちが連行・処刑され、家族の元には遺体が返らないままになっている。生き残った人たちが見聞きした情報を元に、遺体の発掘調査を行おうと、ジャニスは仕事の傍らプロジェクトを立ち上げて奔走しているのだ。一見、赤ん坊取り違えとは関係のない、別個の映画にできそうなエピソードだ。しかしアルモドバル監督は、2つは地続きの出来事として描く。アナが自国の歴史を知らず政治は嫌いだというと、ジャニスは自分の国の過去くらい学べと言う。アナはジャニスが過去にとらわれすぎだというが、個人と政治や歴史は切り離せずどこまでも追ってくる。個人の尊重とそれとは両立するものなのだ。赤ん坊の出自を知ることも、祖父母の代の悲劇を知ることも、自分の(そしてその先の)ルーツを知るという意味では同じ地平にあるものなのかもしれない。
 ジャニスとアナはシングルマザーという境遇から心を通わせ支え合うようになる。そこにシスターフッドめいたものがあるが、2人の世代やバックグラウンドの違いやそこからくる価値観の違いも強調されているように思った。ジャニスは田舎の決して豊かではない家庭出身。一方アナは両親は離婚したとはいえ資産家の娘。2人の自宅の内装やアナの母親の衣服に経済水準が現れているあたり、目配りが行き届いていた。何より世代が一回り以上違う。そういうものを越えて2人が通じ合い同じ場に立つからこそ、その先に希望が感じられるのだろう。とは言え、少々「母になる」ことに比重が置かれすぎな気がした。次の世代へ記憶をつなぐという意識なのだろうが、であれば自分の子でなくてもいいわけだから。

ペイン・アンド・グローリー [Blu-ray]
ペネロペ・クルス(特別出演)
キングレコード
2021-02-17


ミツバチのささやき HDマスター [DVD]
アナ・トレント、イザベル・テリェリア、フェルナンド・フェルナン・ゴメス
IVC,Ltd.(VC)(D)
2015-06-19


『映画バクテン!!』

 私立蒼秀館高等学校(アオ高)の男子新体操部に入部した1年生の双葉翔太郎(土屋神葉)と美里良夜(石川界人)は、先輩部員たちとインターハイを目指す。3年生はインターハイが終われば引退し、唯一の2年生・亘理光太郎(神谷浩史)がキャプテンを引き継ぐことになる。TVシリーズ『バクテン!!』の続編となる劇場作品。監督は黒柳トシマサ。
 TVシリーズの続編、そして完結編としてはほぼ完璧なのではないか。競技シーンはTVシリーズと同様、3DCGがメインなのだが、見た限り手書き作画も結構含まれている。あのぐるぐる動くカメラの動きに作画がついていくのかとうなった。3Dモデルが時々微妙(TVシリーズで使われたと思われるものは、時々人体の厚みが微妙な所が…)なのだが、競技している様をかっこよく見せるには
 本作は3年生の引退から卒業まで期間にスポットが当たっているのだが、ドラマ上クロースアップされるのは、2年生と1年生だ。特に、唯一の2年生であり新キャプテンとなる亘理の描写は、TVシリーズよりも格段にこまやかになっている。亘理は一見強気だが、実は気にしいで失敗を引きずりがちだ。前キャプテンの七ヶ浜(小野大輔)のような天性のリーダーシップも持ち合わせていない。何より2年生は1人だけで、自分の不安を誰かに相談することもできない。そんな彼が至ったキャプテン像がどういうものなのか、キャプテンとして何をやるのかという所が、ドラマの一つの軸になっている。本シリーズ、主人公格の双葉は実は最初からかなり「(競技スキル以外は)出来上がった」キャラクターなので、心情的な成長・変化の部分は他のキャラクターの方がドラマ上、映えてくるのだ。亘理の他にも、クールで周囲となじまない美里がこういうことを言うようになったのか…というような、シリーズ通して見てきたファンにとっては感慨深い変化がある。正しく成長物語だったと思う。
 成長物語、人間が変化する物語であるというのは、部員たちにとってだけではない。教師である監督にもまた大きな変化が訪れる。この人の成長(というかリカバリー)物語でもあったんだなと再認識するエピソードでもあった。高校生の部活という形態の特徴なのだろうが、部員の部活としての競技人生は3年間。マイナー競技だとその後続けられる可能性は低くなるだろう。しかしその先も人生、もしかすると競技人生は続くし、そのサポートをしていく、また競技全体の未来を考えていくのが指導者の役割でもある。マイナー競技部活を題材にした作品として、ここまで言及していく所に制作側の誠意を感じた。

バクテン!! 1(完全生産限定版) [DVD]
下野紘
アニプレックス
2021-06-30



『少年ハリウッド-HOLLY STAGE FOR 49-』vol.1(DVD)
小野賢章
キングレコード
2014-10-08


『パリ13区』

 コールセンターで働くエミリー(ルーシー・チャン)はルームシェア相手を募集中。応募してきたのは高校教師のカミーユ(マキタ・サンバ)。エミリーはカミーユをセックスフレンドとしても受け入れる。32歳で大学に復学したノラ(ノエミ・メルラン)は金髪のウィッグを着けてパーティーに出るが、その姿がポルノ女優のアンバー・スウィートに似ていた為に本人だと思い込まれてしまう。監督はジャック・オディアール。オディアールと、セリーヌ・シアマとレア・ミシウスとの共同脚本なことでも話題の1作。
 先日見た『カモン カモン』に引き続きモノクロ映画(しかも都市の遠景から始まるという共通点も)なのだが、同じモノクロでも『カモン カモン』とは質感が全く異なり、こういう所が映像の面白さだなと思った。本作のモノクロはいたってクール。全体的に温度・湿度を下げる効果になっている。ノスタルジックな『カモン カモン』のモノクロに対し、見ている側を少々突き放した印象だ。
 題名にもなっているパリ13区に登場人物たちは暮らしているが、この地域は再開発地区で、高層住宅(高級マンションというより団地的な雰囲気)が立ち並んでいる。移民も多いそうで、エミリーは台湾移民一族であることが作中で言及されている。彼女のご近所さんにはアジア系移民が多い様子も垣間見えた。また、ノラは移民ではないが元々パリに暮らしていたわけではなく、復学の為にボルドーから出てきたいわば「上京」組。外部からやってきた人たちが作り上げた生活圏としてのパリが描かれている。アイコン的な「パリ」よりかえって等身大で親しみを感じる所もあった。高学歴だが職がないエミリーの苦労が身につまされる人も多そうだ。
 エミリーとカミーユは自分の欲望に率直だ。しかし率直な人同士であっても、あなたの欲望と私の欲望は違う、ということが全編通して描かれているように思った。だから孤独を感じるし、欲望の対象に対して過剰なものを望んでしまう。片思い状態のエミリーはともかく、カミーユの望む恋人像はそれ無理じゃない?自分に都合よすぎない?というもの。彼はその理想をノラに(一方的に)見出して夢中になるわけだが、ノラが彼女自身の欲望と向き合うとその理想は崩れ、2人の関係も変わってしまう。
 ノラが被害を受ける性的な揶揄・中傷はひどいものなのだが、これもまた自分の欲望を勝手に対象に投げつけるという行為だろう。それが気軽にできてしまうネット、SNSの弊害はやはり大きい。ノラが受けた被害は(彼女が「一発かました」とはいえ)結局そのまま放置されているので、もやもやしてしまう。

キリング・アンド・ダイング
トミネ,エイドリアン
国書刊行会
2017-05-25


サマーブロンド
エイドリアン トミネ
国書刊行会
2015-09-10



 

『ハッチング 孵化』

 フィンランドの静かな町で両親と弟と暮らす12歳の少女ティンヤ(シーリ・ソラリンナ)は、体操大会での優勝を目指している。母親(ソフィア・ヘイッキラ)は家族の幸せそうな生活を撮影し、動画配信している。ティンヤの大会優勝は母親の夢なのだ。ある夜、ティンヤは森で奇妙な卵を見つける。家族には内緒で卵を温め続けると、やがて卵からあるものが生まれる。監督はハンナ・ベルイホルム。
 北欧の映画を日本で見られる機会も増えてきたが、フィンランド発のホラー・ダークファンタジーというのは初めて見た。家の裏手はすぐ森になっているというロケーションがまたいい。何かがそこに潜んでいる雰囲気がじわじわくる。ただし物語の立て付けはいたってオーソドックス。王道の母娘の葛藤ドラマだ。ティンヤの母親はかつてアイススケートの道を断念した自分の夢を娘に託しており、ステージママぶりに余念がない。更に動画で「素敵な家族」をアピールしているので、ともすると娘はまず動画の素材であって、彼女個人の意思や個性は後回しになっているきらいがある。母娘が同一化されているのだ。ティンヤはそれでも母親を愛しており、彼女を喜ばせたい一心で努力を続けるが、だんだん母親の要求に追いつけなくなってくる様が痛々しい。母の娘としての自分と、母とは別人である自分とが、どんどん乖離していくのだ。
 その乖離した部分が卵から生まれた「それ」であるように思えた。「それ」はもう一人のティンヤであり、彼女が表に出せない欲望を実現していく。ただ、ティンヤを抑圧しているのは母親であるとはっきり描かれているのだが、「それ」は意外と母親を除外しようとはしない。どういう形であれ母親に愛されたい、受け入れられたいという思いがあってそこもまた痛々しかった。母親の方は、「それ」に対してはっきり除外するべきものという態度で臨む。自分にとって都合の悪い存在は不要だとはっきり示すのだ。

籠の中の乙女 (字幕版)
アナ・カレジドゥ
2013-05-15


RAW 少女のめざめ [Blu-ray]
ローラン・リュカ
NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン
2019-02-06


『パーフェクト・ノーマル・ファミリー』

 11歳のエマ(カヤ・トフト・ローホルト)は父トマス(ミケル・ボー・フォルスゴー)と母ヘレ(ニール・ランホルト)、姉カロリーネ(リーモア・ランテ)とデンマークの郊外の街で暮らしている。ある日、トマスが自分はこれからは女性として生きると宣言し、ヘレは離婚を決断。トマスはアウネーテという女性として娘たちとの生活を始めるが、エマは受け入れられない。監督・脚本マルー・ライマン。
 子供は頭が柔らかいとか発想が自由とか言うが、むしろ子供の方が「こうあるものだ」「こうあるべきだ」という概念が強く、イレギュラーだったり複雑だったりする事態に対応しにくいのではないだろうか。柔軟さって、自分のキャパが知識・想像力と共に広がっていてこそ発揮される気がする。エマはカウンセリングの場でトマス=アウネーテを全力で拒否する。その後折り合いをつけて一緒に暮らし始めるものの、戸惑いや受け入れられなさが払しょくされたわけではない。サッカークラブの仲間にアウネーテを見られたくない・からかわれたくないし、アウネーテとカロリーネの女子会的なノリには同調できない。エマは一緒にサッカーをして自分を応援してくれるトマスと一緒にいたいのだ。父親の趣味・関心がトマスとしてのものではなく、アウネーテという女性としてのものになっていくのを受け入れられない。
 トマスの妻であったヘレもまた、彼のカミングアウトを一度は拒否する。しかしエマがパパが女性になるのは身勝手だと非難すると、それは違うと諫める。トマスがアウネーテとして生きたいというのは我儘ではなく、彼が本来の自分のあり方になったということなのだ。そして性別・性自認と親としてちゃんとしているかどうかは別問題だ。そのあたりの意識がしっかりとしている所が安心できる。親戚の集まりでも、一応アウネーテはアウネーテとして(影で色々言われているかもしれないが)受容されている。また、カロリーネはアウネーテをあっさり受け入れられており、ヘレの混乱・拒否とは対照的だ。これは個人の違いであると同時に、世代の違いということもあるんだろうなと思った。カロリーネはハイティーンだが、LBGTQ教育が浸透している世代なのでは。
 なお、親子ドラマであると同時に、姉妹のドラマでもあった。カロリーネとエマは結構年齢が離れている(多分5,6歳違い)。カロリーネはエマに常にやさしいわけではないしティーンエイジャーらしい不機嫌さ、つっけんどんさもしばしば見せる。しかしアウネーテとエマの緩衝材的にふるまい、混乱している妹を気にかけている。アウネーテ宅のエマの部屋のコーディネートはカロリーネが選んだものだというセリフが出てくるが、アウネーテに任せるとどピンク的な部屋にしそう(お土産のセンスから察するに…)だから色々気を使ったんだろうなと想像できる。堅信式でエマがカロリーネへの歌を歌うが、なかなかぐっとくるシーンだった。
 なお、トマス=カロリーネをトランスの俳優が演じなかったのは何でかなとは思った。トマスのシーンが結構あるからだろうか。フォルスゴーの演技には特に違和感なかったが気になった。

彼は秘密の女ともだち(字幕版)
ラファエル・ペルソナ
2016-02-10


トランスアメリカ(字幕版)
グレアム・グリーン
2017-03-01


『パワー・オブ・ザ・ドッグ』

 Netflixにて鑑賞。1920年代のアメリカ・モンタナ州。大牧場主のフィル・バーバンク(ベネディクト・カンバーバッチ)と弟のジョージ(ジェシー・プレモンス)は、地元の名家として牧場を切り盛りしていた。ジョージは食堂を営む未亡人のローズ(キルステン・ダンスト)と再婚し、息子ピーター(コディ・スミット=マクフィー)がバーバンク家に加わった。しかしフィルはローズに強い敵意を向け、彼女を阻害し苛んでいく。原作はトーマス・サベージの同名小説、監督はジェーン・カンピオン。
 原作のエピソードを整理・省略しつつも基本的には忠実な映像化。小説の映像化としては大成功の部類だと思う。映像美が素晴らしかったし、実際にモンタナのだだっ広い大地の上に、大きな屋敷がぽつんと建っている、さらにその屋敷に暮らしている人はほんの数名であるという奇妙さは、映像として目にすることで更に際立つ。原作の中で重要な要素だったエピソード、光景が、映像にされてもちゃんと重要さが伝わるという、正しい映像化だったように思う。ジョニー・グリーンウッドによる音楽の使い方も上手い。弦楽器とピアノ中心に構成された音楽なのだが、不協和音が不安感をあおる。フィルが弦楽器、ローズがピアノで象徴されているように思った。2人が共にいることでどんどん不穏になるドラマと、それぞれの楽器の音の組み合わせの不協和音が呼応し、緊張感が高まる。
 原作よりもフィルの同性愛傾向についてはっきりと言及されている。当時の社会環境では同性愛は決して周囲に知られてはならないことだったろう。それを隠そうとする故に、フィルの振る舞いは過剰に「男らしく」なっていったのではないか。ただ彼の男らしさはいわゆる「有害な男らしさ」を煮詰めたようなものだ。ジョージへの体形や気質をネタにしたからかい、女性であるローズやピーターの繊細をバカにし、身なりにかまけることも快適さに執着することも「男らしくない」と見なす。彼の清潔さや快適さへの忌避感は少々極端で、フィル本人が男らしさ、間違った男らしさの呪いにかかっており自身をネグレクトしているように見えてくる。
 一方で、フィルは過去のある人物との記憶を非常に大事にしており、相当ロマンティストなのではないかという一面も見える。彼が川辺であるイニシャルが入ったハンカチーフに触れるシーンは甘やかで非情にロマンティック、かつ性的なのだが、フィルのマッチョではない内面がにじみ出るシーンでもあった。あの時間・場所にいる彼は素に近く、だからピーターに目撃されると激怒するわけだ。そしてフィルのロマンティストな部分が、後々ピーターに対する過剰な共感を読み取ってしまったのではないかと思う。実際の所、ピーターはマチズモ傾向はあまりないが、実の所フィルよりも強靭なリアリストであり、問題への現実的な対応として「排除」を行う。フィルにとってまた他人と自分の世界を分かち合えるかも、一人ではなくなるかもいう希望は、捨てがたかったのか。そう思うと哀れでもある。
 なお、原作ではジョージが占めるウェイトがそれなりにあるのだが、映画では存在感が非常に薄く、登場時間も少ない。彼はローズと出会うことで一人ではない喜びを感じるが、結婚後はローズを放置しっぱなしなように見える。フィルとは別の形で有害とも言える。

ザ・パワー・オブ・ザ・ドッグ
トマス・サヴェージ
早川書房
2021-11-04


ブロークバック・マウンテン (字幕版)
ランディ・クエイド
2015-12-15




『パワー・オブ・ザ・ドッグ』

トーマス・サヴェジ著、波多野理彩子訳
 快活で聡明な兄フィルと、物静かで地味な弟ジョージ。2人は先代から受け継いだ農場を共同経営し、裕福な生活をしていた。しかしジョージが医者の未亡人・ローズと出会ったことで、兄弟の関係は変わっていく。一方ローズは自分に対するフィルの敵意を感じ、怯え始める。
 1920年代のアメリカ、モンタナ州が舞台。自動車が社会に浸透し始め、ジョージの唯一の道楽が自動車らしいのが印象に残る。カウボーイの生活を愛するフィルは自動車を小バカにしているのだが、この先主流になっていくのは自動車なのだ。目端のきくフィルがそれを受け入れないという所が興味深い。フィルは頭が良く知識も豊富で、やろうと思えば知的に礼儀正しくふるまえるし周囲がそれを求めているのもわかっているが、自分のそういう美点を全部バカにしている節がある。彼の行動規範は「男らしさ」、往々にして「有害な男らしさ」にある。手を洗わないのも身だしなみを整えないのも他人への思いやりを示さないのも、微細なことを気にかけるのは男らしくないというわけだ。
 とは言え彼は一帯でも有数の裕福な家の出で、生まれ育った環境はむしろ彼の振る舞いとは逆だ。フィルの奇妙さは、彼がわざわざ粗野な男を演じているように見える所にもある。無頓着に徹することはできず、こっそり川で水浴びをするというのには失笑してしまった。素直にお風呂入ればいいのに!しかしそれができないというのが、フィルのマチズモの屈折、ねじれた所だ。一方で、彼のマチズモには、若い頃に出会ったある男への思慕が根っこにあるのでは、その思慕への恐れを隠す為のものではないかということが垣間見えてくる。その思慕と似た感情が、ローズの息子・ピーターに対しても生じるようになり、それがフィルを崩していくのだ。

パワー・オブ・ザ・ドッグ (角川文庫)
トーマス・サヴェージ
KADOKAWA
2021-08-24


ビリー・ザ・キッド全仕事 (文学の冒険)
マイケル オンダーチェ
国書刊行会
1994-07T







『ベケット』

 ギリシャ旅行に来たアメリカ人男性ベケット(ジョン・デビッド・ワシントン)と恋人エイプリルは、自動車事故を起こして谷を転落してしまう。車は一軒家に突っ込み、エイプリルは死亡。ベケットは病院に搬送されたが、なぜか命を狙われる羽目に。一軒家で見かけた幼い少年と金髪の女性が関係しているらしいのだが。監督はフェルディナンド・シト・フィロマリーノ。
 典型的な巻き込まれ型サスペンスなのだが、なぜだかあまり盛り上がらない。舞台がギリシャ、しかもそれほど観光地っぽくないギリシャだというロケーションの面白さはあるのだが、ストーリーに特段為害性があるわけでもないし、矢継ぎ早にイベント発生するわりには一つ一つは小粒。地に足がついているといえばいいのかもしれないが、テンションがいまいち上がり切らない。主人公であるベネットも個性に乏しく、魅力的かというと微妙だ。ごくごく普通で特殊能力はない一般人、無個性な人として造形されている。
 ただこの盛り上がらなさ、主人公の無個性さは、意図的なものではないかと思った。話を大きくしない、ヒロイックにしないという意図が徹底されているのだ。ベケットが巻き込まれる事件の真相のある意味でのショボさも、それまでの彼の奮闘の意義を削いでいくものだったのでは。事件にとってベケットは徹底して部外者で、何かを変えるなどできない(しない)。ベケットの行動はあくまで彼自身の身を守る為で、そのほかの意味はない。爽快感をあえて排除していくという方向性のサスペンスであるように思えた。

知りすぎていた男 [Blu-ray]
ダニエル・ジェラン
ジェネオン・ユニバーサル
2013-09-04


ボーン・アイデンティティー (字幕版)
ジュリア・スタイルズ
2013-11-25


『バクラウ 地図から消された村』

 配信で鑑賞。村の長老・カルメリータの葬儀の為に故郷の村バクラウに帰ってきたテレサ。しかしインターネットの地図上から村の名前が消え、上空には謎の飛行物体が出現するという不可解な事態が起きる。更に村の給水タンクに銃弾が撃ち込まれ、道路は封鎖、ついには村の近くの住民が血まみれの死体で発見される。監督はクレベール・メンドンサ・フィリオ。
 序盤から不可解でオカルトめいた展開が続く。長老の葬儀自体、土着的でちょっと怪しげだ。しかし中盤以降、オカルトとは全然別の怖い要素が姿を現す。これを臭わせなかった予告編はよくできていたんだな…。公開から結構時間が経っているので難しいだろうが、なるべく事前情報を入れずに見たほうがいい作品ではないだろうか。
 最近「田舎が怖い」系とでもいうか、僻地の閉ざされたコミュニティの中でとんでもないことが起きるというタイプのホラー映画、小説等が目立つように思う(『ミッドサマー』のヒットで一気に着目されるようになったという方が正しいのか)。本作も一見その流れを汲んでいるように見えるが、実は逆ではないだろうか。「田舎が怖い」というカテゴリーは中央が周縁を差別化しいいように利用しようとする、ローカルなものを勝手にカテゴライズするという一面もあるのはないのか。本作はそれに対する反動が表れた作品なのでは。
 作中に村の歴史博物館が出てくる。観光名所として紹介された博物館に対し、観光客は無関心だ。しかしその無関心がどういう結果をもたらしたのか。周縁のリベンジとでもいうべき展開は血みどろかつ爽快ではあるが、その背景には周縁に対する差別への怒りがあると思う。


ディレクターズカット ワイルドバンチ 特別版 [DVD]
ウォーレン・オーツ
ワーナー・ホーム・ビデオ
2011-10-05


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