3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『劇場版ハイキュー!! ゴミ捨て場の決戦』

 宮城県の烏野高校は春高バレー宮城県予選を勝ち上がり、兵庫県代表・稲荷崎高校を破って3回戦に進出。対戦相手の音駒高校はかつて烏野とライバル関係にあり、一時は交流が減ったものの再び合宿や練習試合で交流する好敵手になっていた。現メンバーでの公式戦初対決は白熱の試合となる。原作は古舘春一の大ヒット漫画。監督・脚本はテレビアニメ第1~3期の監督を務めた満仲勧。
 TVシリーズと同様Production I.Gの製作作品だが、すっかりスポーツアニメは十八番になった印象(Production I.G製作のスポーツアニメとしては『風が強く吹いている』が原作からのアダプテーションという側面からも大傑作だから皆見てくれ…)だが、本作も例外ではなくTVシリーズから引き続き面白い。基本的に原作漫画に忠実で、競技内の動きをどう見せるかという方向でアニメーションならではの醍醐味を発揮している。カメラの動きはかなり挑戦的で(すごく作画が面倒くさそうで)唸った。また、いわゆる漫画的比喩、鳥かごとか鴉とネコの対比とかはアニメーションでやるとちょとダサいなと個人的には思うのだが、「漫画である」という部分を尊重した作品作りなのだと思う。堂々と漫画だよ!と言っていく方向というか。ただあくまでTVシリーズの続きという立ち位置の作品なので、本作単品で映画として見るには厳しい(映像面というよりもストーリーの流れ上)だろう。まあ本作見に来る人はまずTVシリーズないし原作漫画に触れてから来るだろうからそれでいいのだが。
 原作を読んだ時にはそれほど心に響かなかったのだが、このエピソードは音駒高校の孤爪研磨(梶裕貴)と黒尾鉄朗(中村悠一)のエピソードという側面が強かったんだなと改めて感じた。本作を構成する上で改めてスポットが当たるように調整しているのだと思うが、こういう子たちだったんだなとようやく腑に落ちた感がある。研磨が自分にとってバレーボールとは何なのかようやくつかむ話だったのかなと。ひいては、研磨をバレーボールに誘った黒尾への呼応でもあったかと。それにしても黒尾、人間力あるな!ウザがらみしてくる先輩というだけではなかったのか。研磨に対しても月島に対してもコミュニケーションを諦めない粘り強さに頭が下がる。人を育てられる人としての造形がはっきりわかり、彼が報われる話でもあった。よかったね。










『バッド・ルーテナント 刑事とドラッグとキリスト』

 ニューヨークの刑事LT(ハーベイ・カイテル)は、ギャンブル三昧で麻薬にも溺れ売春宿に入り浸るという絵にかいたような悪徳警官。ある日、教会の尼僧が強姦されるという事件が起こり、犯人に懸賞金5万ドルがかけられる。LTは野球賭博でできた借金を穴埋めしようと犯人逮捕に乗り出す、肝心の被害者である尼僧は犯人の告発を拒むのだった。監督はアベル・フェラーラ。
 私は本作をヴェルナー・ヘルツォーク監督がリメイクした『バッド・ルーテナント』がすごく好きなのだが、元作品である本作は見たことがなかった。上映される機会があったので初めて見たのだが、ヘルツォーク版とはかなり味わいが異なる。もちろん監督の作風が違うわけだが、それ以上に宗教に対するスタンスが大分違うことがわかる。元作品である本作は邦題のサブタイトルにもあるように、キリスト教色がかなり強い。LTは自分の目的、欲望の為なら悪事も辞さない強欲な人物だが、尼僧が自分を犯した犯罪者を許そうとする、人間の善性を信じ神にゆだねようとする姿に心を揺さぶられる。LT自身も罪深い人間であり、そんな自分が神の前でどのようにふるまえばいいのか、果たして自分も許される存在になりうるのかという信仰上の葛藤を持つのだ。
 ただ、この信仰を巡るエピソードは現代ではなかなか通じにくいのではないか。法的な問題と信仰の問題はまた別物だろう。許しはあるとしても本作のような形では表現されないのではと思う。現代だったらむしろ、LTがどっぷりはまっているマチズモの問題の方がクローズアップされそうだ。冒頭の子供たちとのやりとりや野球解説からして、「男は強くなければ」という価値観が反映されており、LTのギャンブルやドラッグへの依存はその強くあれというプレッシャー、負けられない・弱くいられないという男性のあり方に依る所が大きいのではないかと思う。

バッド・ルーテナント 刑事とドラッグとキリスト 【デジタルリマスター版】 [DVD]
ヴィクター・アーゴ
オデッサ・エンタテインメント
2011-04-28


バッド・ルーテナント (字幕版)
アルヴィン・“イグジビット”・ジョイナー
2013-05-15


『PERFECT DAYS』

 トイレの清掃員として働く平山(役所広司)。早朝に起きて仕事に行き、シフトをこなすと銭湯に入って少し酒を飲んで帰宅する。同じような毎日だが、彼にとっては満ち足りた毎日だ。そして変わらない日々の中に、年下の同僚や彼のガールフレンド、居酒屋のおかみ、そして彼の過去に繋がる人々とのやりとりによりさざ波が立つ。監督はビム・ベンダース。
 本作、舞台が日本、更に言うなら日本の東京以外だったら大分自分が受け取るものが変わったのではないかと思う。舞台が東京の渋谷近辺というなまじ自分の生活圏と重なっている土地なので、平山が清掃するトイレにまつわる背景や、平山の賃金てどれくらいなんだろうとか、その収入であの生活はできるのかなとか、いろいろと生々しい所が気になってしまい、フラットに見るのは難しい。平山のつつましくもその人なりに充足した生活っていいよね、という趣旨なのだろうが、現実の生活を度外視して「こういう日本ステキでしょ」という製作側(日本側のスタッフがかなり入っているので)のアピール、エキゾチズムとしての日本描写に見えてしまう。なまじ日本の貧困を知っていると、平山の生活はもはや優雅(多分自動車は所有物だし毎日首都高使ってちょっと外飲みして銭湯にも通えるし、そもそも実家は資産家らしい。それを捨ててきたということだろうが)に見える。少なくとも今の日本では、生き方の選択肢の一つとして見るほどの余裕が持てない観客が多いのではないか。
 ただ、そういう観客側の事情を置いておいても、本作は映画としてちょっと弱いなと思った。ジム・ジャームッシュ監督『パターソン』は本作とほぼ同じパターンの「地味な仕事と代り映えのない日々の反復に見えるが、実際は毎日少しずつ違い美しい」ストーリー構造なのだが、『パターソン』の方が圧倒的に映画としての強度があるというか、足腰の強さを感じる。本作は確かに映像は美しく詩情はあるが、いまひとつ緊張感に欠ける。ベンダース監督ってこんなにふわふわした映画撮る人だったかなー。

パリ、テキサス(字幕版)
オーロール・クレマン
2015-01-22


パターソン(字幕版)
チャステン・ハーモン
2021-12-22


 
 

『白鍵と黒鍵の間に』

 1988年の東京、銀座。キャバレーでピアノ弾きのバイトをしていた博(池松壮亮)は、謎の男(森田剛)からのリクエストで「ゴッドファーザー 愛のテーマ」を演奏する。しかしこの曲は銀座を牛耳るヤクザの親分・熊野会長(松尾貴史)のお気に入りで、リクエストしていいのは熊野会長だけ、演奏を許されているのも会長お気に入りのピアニスト・南(池松壮亮)という暗黙の了解があったのだ。ジャズピアニスト志望の博と、ジャズピアニストとしての道に迷う南の人生は大勢を巻き込み交錯していく。原作はミュージシャン・南博の回想録『白鍵と黒鍵の間に ジャズピアニスト・エレジー銀座編』、監督は冨永昌敬。
 原作は「回想録」なのでノンフィクションなわけだが、私は未読ではあるがこの映画が原作に忠実とは到底思えないので、原作からエッセンスをもらって大胆にアレンジした原案に近い扱いのではないかと思う。かなりファンタジー感の強い、リアリティをデフォルメした見せ方なのだ。一方で80年代東京の(リアルかどうかはわからないが)エネルギーやある種の下品さのテイスト、少なくとも「2020年代ではない」感はわりと出ているのではないかと思う。美術面というよりも、セリフ回しやジョークのえげつなさに現れていた。特にバンマスの三木を演じる高橋和也の80年代感がすごく良い。名演だったと思う。
 池松が1人2役を演じていることで話題の作品だが、2人の男と見せかけ、1人の男の過去・現在・未来を幻視するような構成で、不思議な味わいがある。初心な学生と擦れたピアニストを演じ分ける(ちゃんと「違うバージョン」に見える)池松はやはり上手い。しゃべり方や声の出し方を変えているのはもちろんだが、表情の方向性みたいなものが使い分けられているように思う。だから、終盤のセッションで南が博のような表情を見せることにはっとするのだ。
 ジャズピアニストが主人公ということで音楽映画としての側面もあるが、正直もっと演奏シーン、音楽を鳴らすシーンが見たかった。一番いいところを予告編で使っちゃってるからなぁ…。歌手を演じるクリスタル・ケイのパフォーマンスもとてもよかった。


『バーナデット ママは行方不明』

 シアトルの古い屋敷で暮らしているバーナデット(ケイト・ブランシェット)は、若くして成功した天才建築家だった。今は仕事からは引退し、自宅の改装や娘のビー(エマ・ネルソン)・夫のエルジー(ビリー・クラダップ)と過ごす時間の捻出に奮闘していた。しかし彼女は人間嫌いで、隣人やママ友たちとの付き合いは極端に苦手。特に隣人のオードリー(クリステン・ウィグ)との関係は悪化していた。家族で南極へ旅行する予定だったバーナデットだが、ある事件でストレスは限界に達し姿を消してしまう。原作はマリア・センプル『バーナデットをさがせ!』。監督はリチャード・リンクレイター。
 邦題の「ママ」は不要なのではないかと思った。バーナデットは家族のことを深く愛しており、特に娘ビーとの間には親友同士のような信頼関係がある。ただ、妻として母としての役割をどうしてもうまくできない時がある。それらは彼女にとって後付けの属性で、本質は芸術家・建築家なのだ。その部分が満たされていないと何をやっても満たされない。バーナデットは出産とある事件をきっかけに建築家としての道を断念し、妻として母としての役割に専念するようになるが、専念しようとすればするほど上手くいかなくなっていく。本来の自分から目を背けるとその人の生は損なわれていってしまうのだ。車中でバーナデットがビーに今はどうしても無理と漏らすシーンは痛切だ(そして2人が熱唱する「Time After Time」の泣けること)」。バーナデットは「ママ」であることから一旦逃避し、ただの「バーナデット」になりたいのではないか。ビーが「わからなくても理解しようとしないと」と言うのだが、家族の間であっても努力は必要なのだ。エルジーはバーナデットに配慮してはいるが、甘えすぎだったのでは。序盤で「君はどう思う?」とバーナデットに判断をゆだねるのは、彼女を尊重しているようでいて実際の所面倒なあれこれを押し付ける態度だったと思う。
 観ていて気になったのは、バーナデットの医療との付き合い方だ。彼女はどうも精神科の処方薬をため込んでいるようで、どうしようもなくなると市販薬でなんとかしようとする(が失敗する)。エルジーが勝手に連れてきた精神科医を拒否するのは無理もないのだが、医師の言っていることはそこまで的外れではなく、客観的に見るとバーナデットは何らかの医学的な対処を受けた方がいいのでは?(エルジーの医療導入の仕方は最悪ではあるが)という気がした。バーナデットの気持ちもわかるが薬やカウンセリングに全く意味がないような話の作り方はちょっとどうかなと思った。
 なお、作中で出てくるバーナデットの建築作品や彼女を取り上げたドキュメンタリーが本当にそれっぽい!ちゃんとセンスが良く見える。こういう部分の作りこみが丁寧でないと一気に説得力がなくなるのでほっとした。



 
30年後の同窓会 LAST FLAG FLYING (字幕版)
ローレンス・フィッシュバーン
2018-10-02


 

『バービー』

 カラフルで夢のような世界「バービーランド」では、様々な「バービー」たちと彼女らのボーイフレンド「ケン」たちが毎日ハッピーに暮らしている。ある日、1人の一般的なバービー(マーゴット・ロビー)の体と心に異変が起きる。困った彼女は世界の秘密を知るという「変てこバービー」(ケイト・マッキノン)のアドバイスを受け、ケン(ライアン・ゴズリング)とともに人間の世界へ向かった。ロサンゼルスにたどり着いたバービーが見たのは、思い描いていたのとは全く違う世界だった。監督はグレタ・ガーウィグ。
 (ストーリーの内容に触れています)バービーたちは、自分たちは人間の女の子たちのロールモデルであり、自分たちをお手本にして人間の女性たちはやりたいことをやるようになり、なりたい自分になって自由に生きているはずだと信じている。しかしいざ人間の世界に行ってみると、自分を性的オブジェクトとして見る人ばかりでセクハラはされるし、工事作業員も企業の上層部も政治家も男性ばかりでガールズパワーがない!とショックを受ける。更に人間の女の子からは「バービーが女性のステレオタイプを作った」と非難されてしまう。バービーがもし人間界にやってきたら、というファンタジーを描くと同時に、バービーという商品(とそれを製造販売しているマテル社)の批評になっているのだ。確かに(商品の)バービーは様々な職業、様々な民族・体型が販売されており、「どんな女の子でも何にでもなれる」という希望を与えるという意図で作られていることはわかる。しかし、実際に女の子が成長して世の中に出てみると様々な性差別とガラスの天井にぶち当たる。大人は女の子をエンパワメントするおもちゃを売るのと並行して世の中を変えていくべきなのに、後者はおざなりになっていると言える。矛盾しているのだ。マテル社社員のグロリアが女性が抱える矛盾をまくしたてるシーンはコメディとして作られているが正にそれ!すぎて笑えない。本作、全般的に女性にとっては自明すぎることをコメディのネタにしているので、ある種教科書的な紋切り型にも見えた。
 また、様々なバービーがいるものの、それは職業バービーや企画ものバービーという「特別」なバービーで、多くのバービーは一般的な属性なしバービーだ。「様々」が世の中で輝くもの、活躍するものばかりだと、そういった属性のない「一般・汎用型」たちの存在意義って…とロビー演じるバービーはアイデンティティクラシシスに陥る。ここもおもちゃ・商品であるバービーならではだが、日本でいう所の「女性が輝ける社会」「女性活躍」とやらと似たニュアンスがある。特に秀でたものや特殊技能がなくても私は私として生きていて幸せになれる、という肯定感こそが必要なのだが(そしてラストはそこに繋がっていると思う)。
 一方、本作は明白にジェンダー問題を描いているが、その場合重要なのはバービーよりもむしろケンの描き方だろう。バービーには「医者バービー」や「弁護士バービー」等いろいろな属性があるが、ケンはルックスは様々なれど全て「ケン」。与えられているアイデンティティは「バービーのボーイフレンド」、バービーの付属品であることだけだ。これは現実社会の裏返しになっているわけだが、人間界に出たケンが男性ばかりが社会で活躍している様を見て男性が自立し権力を持てる世界だ!と感動してしまうのにはもはや笑えない。更にそのシステム=家父長制をバービーランドに持ち帰って「革命」を起こすのは、古来人間界の後追いみたいで滑稽ではあるがやはり笑えない。特に男の世界といいつつ、男同士でキャッキャするのではなく間に女性を挟んでキャッキャするホモソーシャルしぐさまで再現しているのがおかしいのだが。
 ただ、家父長制社会にあってもゴズリング演じるケンは満たされない。彼がやっているのはステレオタイプの「男らしさ」のパロディをなぞるようなもの。むしろ無理やり「型」に合わせて息苦しそうだし、このケンには向いていないのだろう。そもそも「バービーのボーイフレンド」以外の設定はこの時点でも発生していないのだ。大事なのは「型」ではなく彼自身がどうしたいのか、どういう価値判断をするのかだろう。ここでロビー演じるバービーが直面したアイデンティティクライシスとも繋がってくるわけだ。特定の属性や誰かの何かであることに頼らずに立ってみることが、バービーとケンを一歩前進させる。それはバービーランドから出て行くことでもあるかもしれないが。

ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語 ブルーレイ&DVDセット [Blu-ray]
ルイ・ガレル
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
2020-10-14


レゴ® ムービー2 ブルーレイ&DVDセット (2枚組) [Blu-ray]
ウィル・アーネット
ワーナー・ブラザース・ホームエンターテイメント
2019-08-07








『裸足になって』

 アルジェリアで暮らすフーリア(リナ・クードリ)はバレエダンサーを夢見ていたが、オーディション目前に男に階段から突き落とされて大怪我をし、プロダンサーへの道は断たれ、更に声を出すことができなくなる。失意の底にいた彼女は、リハビリ施設でそれぞれ心に傷を抱える女性たちに出会い、彼女らにダンスを教えてほしいと頼まれる。監督・脚本はムニア・メドゥール。
 映像は色彩が生き生きとしていて美しく明暗のコントラストが強い。そしてフーリア、そして彼女が関わる女性たちが抱える問題のハードさも影が濃い。フーリアが暮らすアルジェリアはイスラム教国家で、女性に対する抑圧は強い。また内戦の傷痕も深く、内戦中に心身に傷を負った人たちは大勢いるし、経済は不安定で、暴力の火種も燻っている。フーリアやバレエ仲間たちの闊達な姿を見ているとそういった背景はイメージされないのだが、リハビリ施設で出会う女性たちの過去、フーリアの父親が亡くなった経緯(これは結構ショックだった。そんなことで!という)、そしてフーリアが大怪我を負った経緯など、この国にどういう歴史があり今どうなっているのかという側面がさっと挿入される。観客側にとってははっとすることかもしれないがフーリアたちにとっては毎日がこういったままならなさ、理不尽さと共にある。また観客側にとってもそのままならなさは、ひいては自分たちの生活にも繋がっているものでもある。
 そのままならなさの中でフーリアが自分の自由としてつかむのがダンスなのだろう。ダンスは自分の体、その体が置かれた時間をコントロールするものだ。そして、フーリアが誰に向けて、何に向けて自分は踊るのか明確に意識したとき、彼女のダンスの性質が変わったように思えた。当初、古典的なバレエを踊るフーリアはとにかく自分、自分という感じ。しかしリハビリの中では、まず一緒に踊る人たちの為のダンスを考えなければならない。そこで彼女の目は自身ではなく周囲に向けられる。そしてダンスが自分の感情、意志を表現する為の行動になっていく。これと並行して、声には出せないけど強く意志を示したり理不尽さに立ち向かったりという力が戻ってくる。表現する中、会話をする中で回復するものがある。リハビリ施設で女性たちがグループになっているのはそういうことだろうし、ダンスを通してそれが更に強まっている。

パピチャ 未来へのランウェイ(字幕版)
ザーラ・ドゥモンディ
2021-04-02


裸足の季節(字幕版)
アイベルク・ペキジャン
2016-12-14



『ヴァチカンのエクソシスト』

1987年7月、ローマ教皇直属のエクソシスト・アモルト神父(ラッセル・クロウ)は、サン・セバスチャン修道院にいる1人の少年の悪魔祓いを依頼される。少年と対面し強力な悪魔の仕業だと確信したアモルトは、地元の教会のトマース神父(ダニエル・ゾバット)とともに修道院の調査を開始する。やがて彼らは、修道院に隠された恐ろしい秘密にたどり着く。原作はガブリエーレ・アモルト神父の回顧録『エクソシストは語る』。監督はジュリアス・エイバリー。
 私は普段エクソシストものを含めホラー映画はほとんど見ないのだが、本作はラッセウ・クロウがホラー映画で主演というミスマッチ感、かつラッセル・クロウのエクソシストだったらまあ死ななさそう、何なら素手で悪魔を殴れそうという妙な頼もしさがあるので本作は気になっていた。実際見てみたところ、多分エクソシスト映画としてはオーソドックスであまり派手ではない、ジャンル映画に馴染んだ人には物足りないのかもしれないが私にはちょうどいいボリュームだった。
 エクソシスト外様の私が楽しめたのは、本作は主人公のモデルとなった実在の神父の手記が原作であり、意外と地に足がついているからかもしれない。悪魔の存在の認識についても聖職者間で差異があり、「概念としての悪魔」派から悪魔実在ガチ勢までグラデーションがあるとか、悪魔憑き現象の8割は心因性など別の要因と判断できるので精神科医やソーシャルワーカーへ対応をつなぐことも多いとか、妙にリアルなエピソードも出てくる。一方で大きな組織では必ず勢力争いと腐敗が起きるというヴァチカンそのものの問題等、オカルト一辺倒ではない面白さもあった。また、ベテランのアモルト神父と若造のトマース神父がバディとしてかみ合っていく過程、ことにトマース神父の成長ぶりは胸が熱くなる王道展開。これは予想外の爽快感があった。
 悪魔が人を支配しようとするやり方が、人間が人間を支配するやり方、人の弱みや罪悪感に付け込むというもので、悪魔の作法も妙に地に足が着いていた。そういえばカソリックの告解システムって、教会が教徒の罪悪感や弱みを収集するシステムだから悪用しようと思えば簡単にできるよな等と思ってしまった。



バチカン・エクソシスト (文春文庫)
トレイシー ウイルキンソン
文藝春秋
2010-04-09


 

『ハムネット』

マギー・オファレール著、小竹由美子訳
 18歳のシェイクスピアは8歳年上の地主の娘アグネスと結婚し、長女、さらに男女の双子が生まれる。双子はハムネットとジュディスと名付けられるが、ハムネットは11歳の時に死んだ。僅かに残されたシェイクスピアの妻子にまつわる記録を元に、アグネスという1人の女性の姿を描き出す。
 シェイクスピアの妻というといわゆる悪妻のイメージがあるが、本当に悪妻だったのか?そもそも後世に一方的に悪妻扱いされるのってどうなの?ともやもやしそうなところをカバーしてくれるのが本著。小説なのでもちろんフィクションなのだが、ある女性、ある夫婦の物語としてとても面白い。(作中の)アグネスは薬草の知識が豊富で養蜂家でハヤブサを飼いならすという、当時の世間からは大分浮いた人だ。彼女を良く思わない人もいるが、アグネスの動植物に関する知識は確かなもので、生活力があり精神的にも自立している。一方でシェイクスピアは実家の商売には向かず、暴君としてふるまう父親を恐れて生きてきた。共通項がなさそうな2人が瞬時に惹かれ合うというのは不思議なのだが、2人にとって結婚は親から少し自由になる方法でもあった。しかしアグネスがシェイクスピアの中に見出したもの、劇作への情熱が長じて2人の距離を広げることになる。アグネスもシェイクスピアも、それぞれの根幹にある世界、各々の中の変えられない部分をお互いに理解することはできない。それが息子の死によって露呈していく。子供の死に対する悲しみを夫婦間で共有できない、お互いに悲しみの形が違うことで関係が崩れるというモチーフは様々な小説、映画で見受けられるが、本作もその一環とも言える。ただアグネスとシェイクスピアは、関係を元に戻せなくともお互いを尊重するという域にはたどり着いたのではないか。『ハムレット』上演と重なるクライマックスは圧巻。
 なお作中ではシェイクスピアという名前は使われていない。彼はアグネスの夫であり、アグネスにとっての彼は文豪シェイクスピアではないのだ。あくまでアグネスが主体の物語ということか。

ハムネット (新潮クレスト・ブックス)
マギー・オファーレル
新潮社
2021-11-30


新訳 ハムレット (角川文庫)
河合 祥一郎
KADOKAWA
2012-10-01




 

『パリタクシー』

 タクシー運転手シャルル(ダニー・ブーン)は、免停寸前なのにお金に困っており、大ピンチだった。そんな折、92歳の女性マドレーヌ(リーヌ・ルノー)を乗せてパリを横断することになる。人生の終盤で自宅を処分し施設に向かうというマドレーヌは、シャルルに次々と寄り道を依頼する。立ち寄る場所は彼女の人生がある局面を迎えた思い出の場所だった。マドレーヌの人生を共に巡るうち、2人の間には友情が芽生えていく。監督はクリスチャン・カリオン。
 マドレーヌの過去がなかなかに壮絶で、いわゆる「ほっこり」するだけの作品というわけではない。やることが結構無茶なのだが、その後の対策がノープランなので逆にびっくりした。やるならきっちり息の根止めておいた方がよかったんじゃ…。また意外と歴史的な背景が色濃い。もし当時のフランスの法律がもうちょっと違うものだったら、マドレーヌの人生はまた違った形を辿ったかもしれない。何より、こと女性にとっては、どの時代に生まれたかによって物事の選択肢の数が全く変わってしまうということがよくわかる。
 時代背景の影はシャルルに対しても同様にある。タクシー運転手といっても、彼はタクシー会社に正雇用されている「社員」ではなく、いわゆる受託業者らしいことが会話の端々から垣間見える。車のリース料までドライバー負担というのは大分ひどいような気がするが。シャルルの妻は看護師として働いているが、2人で働いても生活は相当厳しそう。非正規雇用とケア職で事実婚(フランスは事実婚の方が多いそうだが)という設定といい、現代を象徴するようなものがあった。
 マドレーヌの人生を辿る物語で、彼女の人生にシャルルが引き込まれ共感していく様は心温まるのだが、映画としては少々散漫な印象を受けた。マドレーヌの人生の中での非常に大きな事件は描かれるが、この後に諸々の問題があったのではとか、終盤に開示される設定はもっと早い段階で見せてほしかったとか、そもそもあの後どうやって生計を立てていたのか?とか、そこそこ重要と思われる要素がざっくり割愛されていて、そこもうちょっと知りたいなという物足りなさがあった。老人の記憶とはそういうものと言えばそうなのかもしれないが。またある場所にいって過去を思い出して、というシーンの組み立てが少々ぎこちない。頑張って手順を踏んでいるように見えてしまった。パリを移動し続ける話なので、観光映画としては面白いかも。


戦場のアリア スペシャル・エディション [DVD]
クリストファー・フルフォード
角川映画
2010-08-27


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