3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『パーソナル・ショッパー』

 モウリーン(クリステン・スチュワート)は、服やアクセサリー等の買い物を代行するパーソナル・ショッパーをしている。今のクライアントはパリに住むセレブのキーラ(ノラ・フォン・バルトシュテッテン)だ。一方、モウリーンは双子の兄アランを亡くし、彼の亡霊が自分にメッセージを送るのではという思いを捨てきれずにいた。アランとモウリーンは霊媒の資質があり、特にアランは霊感が強かったのだ。監督・脚本はオリヴィエ・アサイヤス。第69回カンヌ国際映画祭コンペティション部門監督賞受賞作。
 アサイヤスがこういう作品撮るの?!という意外性にあふれる作品だった。幽霊の表現のあまりのベタさには、ちょっと笑ってしまいそうになった。アートというよりも、ホラー映画の文法にオーソドックスに従っている感じ。ちゃんとエクトプラズマ吐く(欧米の幽霊はなぜ頻繁に嘔吐するんだろうか・・・)しなぁ・・・。アサイヤス監督作でこういうものを見るとは思わなかったよ!ある意味律義な見せ方なので、妙に感心した。
 パーソナルショッパーという要素と、オカルト的な要素という、まったく関係がなさそうなものを混ぜているのには、なぜ?別々の作品でよくない?と最初は思ったのだが、見ているうちに、何となく腑に落ちるような気もしてきた。パーソナルショッパーとしてのモウリーンは、どこか所在なさげに見える。「そんな仕事」と揶揄される立場であることや、物理的な本拠地を持たない(自宅はあるが本当に寝に帰るだけみたいな感じだし、常に移動し続けている)ことが、彼女のフラフラしている感じを強めている。その所在なさげな立ち位置は、「あちら側」からの干渉を受けやすいのではないかと思った。ひいては、付け入られやすさに繋がってくるのだが。
 また、パーソナルショッパーという仕事は、クライアントの代理で買い物をするわけだが、指定された品物だけではなく、クライアントが好むであろう品物を選んで買うこともある。クライアントの意向を読む、気分をくみ取るわけだ。そのくみ取ろうという姿勢は、モウリーンが霊的なものとの対峙した時のやり方と似ているのだ。霊は具体的なメッセージを送ってくるわけではない。メッセージがあることはわかるが、その内容は受け手が推し量るしかないのだ。そういう意味では、ショートメールは明らかに異質なのだ。メッセージの正解がわかるとも限らないので、モウリーンの「くみ取り」は自家中毒的にもなっていったのではないか。ラスト、心がざわつくのはそのためだったと思う。どこで「終わり」とすればいいのかわからないのだ。

『パリが愛した写真家 ロベール・ドアノー〈永遠の3秒〉』

 フランスの国民的写真家、ロベール・ドアノーの人生と作品を追うドキュメンタリー。パリの街並みやそこで生きる庶民の姿を撮影し、ヴォーグやLIFEでファッションやポートレートの仕事もしたドアノー。彼の家族や親しかった人たちの言葉、また彼を撮影した映像等から構成される。監督はドアノーの孫娘であるクレモンティーヌ・ドルディル。
 ETVで放送されるドキュメンタリー的な、わりとあっさりとした口当たりの作品なので、既にドアノーの生涯や作品についてある程度知っている人には特に新鮮味はないかもしれない。しかし、家族の話やドアノーの映像(晩年はTV番組等にもそこそこ出演していたようで、動画が結構残っている)からは、彼の人柄が感じられ、なかなか面白かった。
 現在、彼の作品の管理は2人の娘が行っているそうだが、事務所には元々アトリエ兼住居(娘たちもここで育った)だった物件をそのまま使っている。父親とその仕事、ここでの暮らしに対して、いい思い出がいっぱいあるんだなと何となくわかる。若い頃のドアノーは、広告写真やカード用の写真のモデルに妻子や親戚を使っていたという話は何かで読んだことがあったのだが、モデルを務めた当人たちから当時の話を聞くことができる。とにかく写真、写真で家族総出で手伝っていたらしいのだが、それが嫌だったという話は出てこないし、家族も結構楽しんでいたようだ。かつてモデルを務めた親戚や知人友人一同が集まって当時の写真を見るという「モデル会」みたいな集まりの様子が映されるが、皆当時の思い出話に興じて、実に和やかだし楽しそう。
 ドアノーは反権威主義で、仕事の上ではすごく頑固なところもあったようだが(かつての仕事仲間が、仕事の内容によっては何かと理由をつけて出てこなくなるので困ったと話している)、基本的に、一緒にいて楽しい人だったのではないか。仕事仲間の話からしても、あまり相手を威圧するところがなく、感じのいい紳士という風。ドアノーは著名人ポートレートの仕事も(おそらくLIFE誌の依頼で)多数手掛けており、個展でいくつか見たことがあるが、どれもいい写真だった。写真撮影の中でも特に人間を撮影する際には、撮影する側の人柄によって作品の出来がかなり左右されるような印象がある。撮影技術の高低はもちろん影響するだろうが、人対人の仕事である、という側面が強いように思う。
 ドアノーと言えば、「パリ市庁舎前のキス」が本人の名前よりも有名なくらいだが、この作品が知られるようになったのは撮影当時よりも大分後、1980年代になってからだという話が面白かった。キャッチーさを先取りしすぎたわけだが、当時のパリでは路上でキスするような習慣はなかったそうで、ドアノーの作品によってパリの「恋人たちの街」としてのイメージが定着したという側面もあるようだ。それだけキャッチーだったってことだよなー。なお、ドアノーは文才もあって、自身による随筆はなかなかいいのでお勧め。本作中には、ドアノーと付き合いがあった文学者たちの名前も出てくる。私が大好きなブレーズ・サンドラールとの共同仕事の話も出てきてうれしかった。


『バーニング・オーシャン』

 メキシコ湾沖約80㎞に位置する石油掘削施設「ディープウォーター・ホライゾン」。2010年4月20日、技師のマイク・ウィリアムズ(マーク・ウォルバーグ)は勤務シフトに入り、同僚らとヘリコプターで施設に到着した。しかし海底油田から天然ガスが逆流、引火して大火災が起きる。マイクら作業員たちは被害を食い止めようと奔走しつつ、なんとか脱出しようとする。監督はピーター・バーグ。
 実際に起きた事件が元になっているが、ヒューマンドラマ方向にはもっていかず、ディザスタームービーに徹している。主役は人ではなく炎。何しろ海上のある種の孤島で大火災、しかも石油掘削所だから燃料がなかなか尽きないという、人間にはなすすべがない状況だ。視点が人間に近づきすぎないことで、炎の圧倒的な力がより際立っていた。こういう施設で火災が起きるとどうなるか、という災害の進み方みたいなものにひきこまれた。当然なんだけど、爆発が起きれば物が飛んでくるわけだよね・・・。
 この災害が天災ではなく、ほぼ人災であるというのがやりきれない。ストーリーの端々で、ここで別の選択をしていれば事故は起きなかった、あるいは起きたとしても規模をもっと小さくできたのではないかという運命の分かれ道が示唆されるのだ。運不運はどうしようもないが、コスト削減の為にテストを軽視したり、メンテナンスを怠ったりしたことの積み重ねで取り返しのつかないことになってくる様には、あー・・・とへたりこみたくなる。技師たちはそれなりに頑張っているのに、親会社の方針で全部ひっくり返されちゃなぁ・・・。でもこういうのって下請あるあるだよなぁとどんよりとした。マイクが言うように、コスト面の余裕のなさはいざと言う時のリカバリー能力を奪っていく。人員にも物資にもある程度余裕があることが、安全確保に繋がっていくというのは、どの現場でも同じだろう。
マイクは絶望的な状況の中でも、自分の知識と技術をフル活用し、同僚も自分も助かろうと全力を尽くす。彼の行為は、客観的には勇敢で英雄的なものに見えるだろうし、よくある「実話もの」だったら、彼をヒーローとした感動ものとして描くだろう。しかし、事態を乗り切った後の彼の振る舞いにはっとした。同僚の家族を見て動揺しまくりまともな対応はできず、一人になると泣き崩れる。ああ全然平気じゃなかったんだよなぁと、彼が受けたダメージ目の当たりにした気がした。

『はじまりへの旅』

 森の中で、独自の教育方針に基づいて6人の子供と生活しているベン・キャッシュ(ヴィゴ・モーテンセン)。毎日のトレーニングと勉強により、子供達はアスリート並の体力を持ち、6か国語を喋れるようになっていた。ある日、入院していたベンの妻レスリーが死んだという知らせが入る。レスリーは仏教徒で火葬を希望していたが、カソリックである彼女の両親は土葬しようとしていた。ベンは妻の遺体を取り戻す為に子供達と旅に出る。
 アメリカ北西部からニューメキシコまで、2400キロのバスでの旅は、楽しそうでもあり過酷そうでもある。森の中から殆ど出たことのない子供達にとってはカルチャーショック、かつベンも子供達も資本主義の世の中には強い反抗心を持っているので、珍道中ロードムービーとしても楽しい(資本主義・物質主義への反抗の仕方が子供っぽいが・・・)。一家が移動に使っているバスの内装が、キャンピングカーのようにベッドやソファーがしつらえてあって羨ましくなってきた。
 楽しい映画ではあるのだが、色々と問題もあると思う。ベンの教育方針は、古典的自由主義に基づき、超リベラルなはずなのだが、現代の中に置くと遅れてきたヒッピーのようでもある。アナーキーを突き詰めて逆にステレオタイプ的な、古典的な型にはまってしまっている(資本主義の否定、宗教の否定といったような)。ベンが若かった頃のリベラル像のまま現代に至っているようにも見え、一種のパロディのようだ。ベンは非常に頭がよく教養豊かで、子供達にどの分野であれそれなりに教えることが出来る。しかし、子供の自主性を尊重しているようでいて、教育方針はベンが良かれと思っているものでありそれ以外の選択肢がない。子供が反抗すると自分を論破しろと言うのだが、どの子も口が達者というわけではない。言葉で説明するのが難しい子もいるし、ベンは知識も豊富で口も達者だから無茶ぶりだろう。同等に扱っているようでアドバンテージが全然違うというずるさ。
 長男と次男は、この不自然さにうすうす気づいてはいるのだが、彼らにとってはモデルとなる「大人」の選択肢が父親しかないないのだ。これは結構きついと思う。色々な大人がおり、色々な考え方があるということを体感できないから。ベンがなまじ頭が良くてカリスマ性があるので、いくら「自由」で個人を尊重すると言っても、子供達は父親の支配下から逃れられないのではないかと思う。レスリーの死は全てがベンのせいというわけではないが、森での生活の影響であることは否めないだろう。元々弁護士として働いていた人なので、社会との繋がりが絶たれた生活を続けることは、やはり辛かったのではないか。本作、そのあたりの掘り下げが少々甘く、ベンに優しすぎな気がした。

『パッセンジャー』

 入植先の惑星を目指し、5000人の乗客を乗せて地球から飛び立った宇宙船アヴァロン号。目的地に到着するまでの120年間、乗客は冬眠装置で眠り続けるはずだった。しかし、エンジニアのジム(クリス・プラット)と作家のオーロラ(ジェニファー・ローレンス)だけが予定よりも90年近く早く目覚めてしまう。このままでは目的地を見ることなく寿命を終えてしまうのだ。2人は状況を打開しようとするうち、惹かれあっていく。監督はモルテン・ティルドゥム。
 本作、ネタバレせずに感想を書くのがすごく難しいんだけど、ちょっと頑張ってみる。このネタバレ部分のせいで、賛否が大きく分かれると思われる。また、ネタバレ部分のせいで、映画の前半と後半はジャンルが違うんじゃないのというくらいの捩れを起こしているのだが、個人的には面白いと思った。前半はスタンダードかつどちらかというと端正なSFなのだが、中盤以降、何でもありになってくる。いきなり盛りがよくなるというか闇鍋が始まるというか・・・。
 宇宙船内のデザインがちょっと昔の洗練されたSFという雰囲気で、懐かしいのにスタイリッシュで美しい。SF考証として正しいのかどうかわからないが、こういうシーンを作ってみたい!というやる気が感じられる部分が多く、ビジュアル面での楽しさは大きかった。バーテンロボットの下半身が「省略」されている所とか、この辺は(宇宙船メーカーが)あんまり注力しないんだなという部分もいい。ルンバの進化形みたいなお掃除ロボットの動きも可愛かった。
 さて本作の評価の是非、というか好き嫌いの別れる原因は、ジムのある行動によるものだろう。他人の人生を自分の欲望の為に使うことであり、倫理的には許されない。しかし、極限状態(何が極限状態化については人によって意見が違うと思うが)で人は倫理的に振舞うことができるかというと、かなり難しいのではないか。ジムの行動は許されないが、強く糾弾できるかというと、ちょっと心もとない。ジム役にプラットが起用されたというのは納得の人選。本作のような役でもぎりぎりでアウトにならない程度の愛嬌があるのだ。彼は『ガーディアン・オブ・ギャラクシー』でも、無能ではないが人としての弱さが目立つという役所だったし、その程度の頼りない「ヒーロー」がはまる。弱い人だからこそ、その弱さを押し殺して挽回しようとする様がインパクトを与えるのだ。基本的に、人は弱いという思想で作られた作品なように思う。また、オーロラ役のローレンスが、プラットの1人や2人や3人くらいは捻り殺せるような圧を持っているのも、なるほどこのキャスティングでないと駄目だったんだなと納得させる。
 しかし最も気になったのは、アヴァロン号を運営する企業には相当問題があるんじゃないかという所だ。船内で生じる不調の原因はこれだったのでは?というシーンが序盤にあるのだが、120年間宇宙を旅していたら、この規模のアクシデントは相当数起きるんじゃないかと思うし、それは容易に予測できると思う。なぜ事前に対策を練っておかなかった?!と企業を糾弾したくなる。乗客5000人全員を無事に搬送しようという設計には思えないんだよな・・・。また、乗客からの費用搾取システムや船内格差も結構エグい。エコノミークラスの朝食、もう泣きたくなってくるもん・・・。

『バッドガイズ!』

 「未体験ゾーンの映画たち2017」で鑑賞。ニューメキシコ州アルバカーキ。警官のテリー(アレクサンダー・スカルスガルド)とボブ(マイケル。ペーニャ)のコンビは、パトロール中に暴力沙汰を起こし、強盗を見つけては現金をピンハネ、ドラッグを横流しと悪事を繰り返して上司からも目を付けられていた。ある日、ギャングが100万ドルの強盗計画を立てていると知り、その金を横取りしようと企む。しかしその計画には、裏社会の大物も関わってきた。監督・脚本はジョン・マイケル・マクドナー。
 同時期に公開されている『ナイスガイズ!』にあやかった邦題なのだろうが、意外と内容と合っていた。そして『ナイスガイズ!』の3倍くらいストーリー展開がだらだらとしている。途中でそういえばこの金どこから出てきたんだっけ?と道筋を見失いかけた。どちらかというと警官コンビの掛け合いや小ネタの数々にニヤニヤする類の作品で、ストーリーを追おうとすると正直つらかった。本作、なぜか文学ネタがしばしば投入されており、映画の作りは雑だし頭悪そうなのに小ネタには教養が見え隠れするという不思議なバランス。まさかこんな映画で三島由紀夫が引き合いに出される(まあ文学的な功績によってではないんですが・・・)とは思わなかった。
 テリーとボブは絵にかいたような悪徳警官でやりたい放題。これに比べると『あぶない刑事』なんて発砲量が多いだけで全然ちゃんとした刑事だわ・・・。テリーもボブも自分達がやっていることは悪事だとわかっているが、悪いとは思っていないのであっけらかんとしている。その一方で、自分たちなりの正義感、この一線は越えないぞという矜持が感じられるところは、警官バディものならでは。テリーがある少年を保護しようとする姿勢(彼なりの超論理があるんでなんとも言えないんだけど・・・)にはそれが感じられるし、トラブルばかり起こすテリーを庇い続けるボブの姿勢もそうだろう。
 なお、警官としての立場を利用して悪事やりほうだいということで、女性にも手を出しまくっているというのがこの手の設定のパターンだが、本作には意外とその部分がない。テリーは惚れっぽいが本命一筋だし、ボブは妻との息が合っている(妻がテリーについてどうこう言わないところが良かった)。そういう点では意外とマッチョっぽくない作品。女性に対するセクハラネタが少ないところは良かった。

『パリ、恋人たちの影』

 ドキュメンタリー映画作家のピエール(スタニスラス・メラール)の才能を信じ、共に製作を支える妻マノン(クロティルド・クロー)。しかしピエールは若い研修生エリザベットと浮気していた。エリザベットはある日、マノンが浮気相手といるところを目撃し、ピエールに妻が浮気していると告げる。監督はフィリップ・ガレル。
 ガレルの作品では大概、カップルが浮気したのしないの(まあ大体する)で揉める、というかほぼそういう要素のみで出来ている気もする。あらすじだけ聞くと結構な下世話さだが、実際に見てみるとそうでもない。下世話な話をやっているのに違いはないが、見せ方が下世話ではない。また修羅場の当事者たちは至って真剣で、それを茶化すような意図もないからだろう。
 ピエールは自分が浮気していることを棚に上げてマノンを責め、エリザベットに対しても何も責任を持たないし自分からは何も決めないというクズ感漂う男性だが、彼の行動に対して「ひどいもの」と定義したナレーションがいちいち流れるので、あ・・・やっぱりクズ認識でいいんだ・・・という安心感が得られ、映画を見ている側のクズに対するイライラ感が緩和されたように思う。ピエールのクズさは、すごくひどい男とか卑怯な男、あるいはDVをはたらくといった明瞭なものではなく、カップル間、夫婦間でついやってしまいがちなことなのだと思うが、だからこそ性質が悪い。彼の八つ当たりやいじわるを、マノンもエリザベットも、自分が悪いんだろうと考えてしまう。浮気相手と別れた後のマノンが、ピエールの機嫌を窺うようなそぶりをする、それにピエールが更に機嫌を損ねるという流れがなかなかにげんなりするものだった。お互いにセックスだけのつもりだったエリザベットとの仲も、彼女が本気になってしまったことでバランスが崩れる。エリザベットをうっとおしく思いつつも別れず、マノンを憎みつつも彼女が浮気を続けていないかつい尾行してしまう(しかもバレる)ピエールの弱さが、徐々に際立ってくる。
 葬儀で再会したピエールとマノンは、最初は距離がありよそよそしい。しかし、新作映画のネタの話になると、急に距離が縮まってくる。この夫婦の間にはもちろん愛があったのだろうが、仕事=映画への情熱、それを共有する同士愛みたいなものの方がむしろ長続きしているのかもしれない。マノンは若い頃、「ピエールと一緒に仕事をすることが喜び」だと言って母親からは少々呆れられる(確かに若いなぁという感じはする)のだが、あながち嘘ではなかったのだ。

『母の残像』

 著名な戦場写真家だったイザベル(イザベル・ユペール)が急死して3年後、回顧展が開かれることになった。夫ジーン(ガブリエル・バーン)と、実家に帰省した長男ジョナ(ジェシー・アイザンバーグ)は展示の準備を始めるが、ジョナはイザベルが別の男性と懇意にしていたことを示す写真を見つけてしまう。イザベルの死には事故なのか自殺なのか不可解な点があり、真相を知らない次男コンラッド(デヴィン・ドルイド)に母の死について話すべきなのか、ジーンとジョナは悩む。監督はヨアキム・トリアー。
 物語が始まった時にはイザベルは既にこの世になく、残された人々の話なわけだが、それでもイザベルがこの場にいるような雰囲気がずっと漂う。他界して3年経つとはいえ、(ジーンに恋人が出来ようが、ジョナが結婚して子供が出来ようが)ジーンたちにとってはイザベルは未だ「いまここ」にある存在なのだ。だからこそ、その死の曖昧さは辛い。
  ジーンとジョナは、自分が他の家族は知らないイザベルの姿を垣間見てしまったと思っているし、それはその通りではある。2人は母親が問題を抱えていたらしいということを、コンラッドには隠している。まだ子供だった彼を守りたい一心だったろうが、コンラッドもまた、母のある姿を目撃していたのだ。ごく短時間のシーンではあるのだが、個人的にはここが一番がつんときた。イザベルは本当に余裕がない状態だったのだろうと。コンラッドにとって母の死はショックだったし、深く傷ついたのだろうが、ジーンやジョナが思っているほど青天の霹靂というわけではなかったのではないか。母がぎりぎりのラインまで来ているということを、彼は察していたのではないかとも思った。
 夫や息子たちにとって、不在がちなイザベルは「遠い」存在になっていた。しかしイザベルから見れば、夫や息子が「遠い」ということになる。取材旅行から帰る度、息子たちが好きなものを覚えなおす(長期取材なので、不在中に子供たちはどんどん成長し物事の好みも変わっていく)という独白がやるせなかった。何だかんだで物理的な距離や時間の力は大きい。ジーンやジョナたちにはそんなつもりはなさそうだしコンラッドは内にこもって父親と話そうともしないのだが、この家では一緒にいる時間が長い父と息子たちの方が親密なのだ。イザベルには夫や子供に対する愛情は確かにあるが、それでもどうにもならない差が出てしまう。彼女は家庭では「よそ者」だと感じているが、夫も子供もそれには気付かない。
 ジーンは内にこもりがちなコンラッドを心配するが、その心配の仕方は時に的外れで滑稽でもある。コンラッドはコンラッドで父親を疎ましがるが、2人の間に愛情がないわけではない。コンラッドは父親に僕は話しにくい?と聞くが、それに対してジーンは、いや自分もそうだから、と返す。このやりとりにぐっときた。おそらくイザベルも「話しにくい」人だったのではないだろうか。彼女も、私話しにくい?と家族に聞きたかったのかも。

『ハンズ・オブ・ラヴ 手のひらの勇気』

 刑事のローレル(ジュリアン・ムーア)は年下の女性ステイシー(エレン・ペイジ)と恋に落ち、やがて家を買って同居するようになる。しかしローレルが癌に侵されており余命半年と宣告された。ローレルはステイシーが遺族年金を受け取ることが出来るように郡に申請するが、却下される。ローレルは平等な権利を求めて戦い始める。第80回アカデミー賞で短編ドキュメンタリー映画賞を受賞した実話を、ドラマ化した作品。監督はピーター・ソレット。
 ローレルとステイシーはニュージャージー州に住んでいるのだが、保守的な土地柄で、同性のパートナーシップに対する理解は乏しい。加えてローレルの職場は警察という、どの国でも保守的かつマッチョらしい組織。女性だというだけで出世は難しいとローレル自身が言うが、同性愛者だとわかれば更に難しいだろう。ローレルの相棒だった同僚のデーン(マイケル・シャノン)は彼女を支えようと奔走するが、他の同僚からの支持は得られない。自分もゲイだからローレルには同情するとこっそりと告げた若い刑事も、働けなくなることを恐れて同僚の前では声を上げられずにいる。
 病気と闘いながら平等な扱いを手に入れる為の闘いもやめないローレルも、彼女を愛し続けるステイシーも勇気ある人で、それは言うまでもないだろう。本作で勇気が問われているのはむしろ、ローレルの同僚たちや、郡政委員たちだったと思う。特に、デーンの仕事仲間としての信頼と献身は強く印象に残る。彼は、ゲイ支援団体のスティーブン(スティーブ・カレル)とのやりとりで自分で言及するように「白人、アングロサクソン、ストレート」であり、ゲイコミュニティに対して知識があるわけでもない。警官を続ける以上、同性パートナーシップを支援すればつまはじきにされるのは目に見えている。そこからはみ出るのは勇気がいることだ。ただ、ローレルと彼女が言う平等と正義への(おそらく共に仕事をする上で培われた)信頼が、彼の勇気を支えるのだろう。ローレルとデーンのパートナーシップはローレルとステイシーの間のものとは異なるが、そこにはやはり愛と信頼がある。
 ローレルの主張、同性婚を認めてほしいというものではないところが面白いし、彼女のものの考え方を示していると思う。スティーブンは政府に同性婚を認めさせたいので、彼女に「同性婚」という言葉をスピーチ内に入れてほしいと言うが、ローレルは応じない。彼女が欲するのは結婚というシステムではなく、平等さなのだ。もし、異性同士のカップルが同じような状況に陥ったら、ローレルはやはり「平等」に権利を認めてほしいと言うのではないかと思った。
 

『HiGH&LOW RED RAIN』

 雨宮雅貴(TAKAHIRO)と広斗(登坂広臣)兄弟は、1年前に姿を消した長兄・尊龍(斎藤工)を探し続けていた。ヤクザに追われる少女・成瀬愛華(吉本実憂)から、尊龍の行方と目的に関する情報を得るが。監督は山口雄大。『HiGH&LOW THE MOVIE』の続編。
 前作、映画としては出来がいいとは言い難いし色々珍妙だったのだが、一つのアトラクションとしてはありかなと思ったし、とにかく作っている側のやる気に満ちているので、ある意味面白かった。本作は、前作よりもドラマ重視になっている。登場人物を雨宮兄弟とその周辺に絞り込んだことでドラマ作りがやりやすくなったのだろうが、ちゃんとドラマをやろうとしていることで、却って前作にあった映画としては異形の面白さみたいなものは薄れてしまったと思う。前作はある種の祭り、今回はスタンダードな兄弟ドラマだからテンションのパワーダウンはやむなしという部分はあるだろう。
 ただ、こういう映画を作るのか、という面での異文化を見るような面白さはやはりある。このシリーズ、一番重視されているのは見た目がいかにかっこいいかと言うことで、話の整合性とか、リアリティみたいなものは度外視しているんだなということが良くわかるのだ。架空の町が舞台とは言え、全員一応日本語喋っており日本が舞台と思われる(総理大臣いるし)のだが、序盤の、白い十字架が立ち並ぶ墓地のシーンでさっそく突っ込みたくなった。たしかにその方が見映えはするかもしれないけれども!クリスチャンだという設定とか特になかったじゃん!お線香とか存在しない世界なんだろうな・・・。PVを繋ぎ合わせたような世界観は前作通りなのだが、ここまで「俺が考えたかっこいいやつ」を徹底していると、むしろ清々しい。
 今回、肉弾戦のアクションの見せ方の手数が随分増えたという印象を受けた。前作では集団対集団だったが、今回は人数絞られていて、アクション指導を丁寧にやる余裕があったのかも。ただ、そのアクションの撮り方はカット割りが細かすぎていまひとつ迫力に欠ける。一連のアクションを通しの全体像で見たいのにーと思ったが、演じる側の技量の問題なのかな。
 なお、斎藤工が壁ドン通り越して壁になっていたので笑った。当然斎藤のキャリアを踏まえて台詞を作っているだろうから、笑わせにきてるよな・・・。それにちゃんと応える斎藤もえらい。プロである。

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