3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『パッセンジャー』

 入植先の惑星を目指し、5000人の乗客を乗せて地球から飛び立った宇宙船アヴァロン号。目的地に到着するまでの120年間、乗客は冬眠装置で眠り続けるはずだった。しかし、エンジニアのジム(クリス・プラット)と作家のオーロラ(ジェニファー・ローレンス)だけが予定よりも90年近く早く目覚めてしまう。このままでは目的地を見ることなく寿命を終えてしまうのだ。2人は状況を打開しようとするうち、惹かれあっていく。監督はモルテン・ティルドゥム。
 本作、ネタバレせずに感想を書くのがすごく難しいんだけど、ちょっと頑張ってみる。このネタバレ部分のせいで、賛否が大きく分かれると思われる。また、ネタバレ部分のせいで、映画の前半と後半はジャンルが違うんじゃないのというくらいの捩れを起こしているのだが、個人的には面白いと思った。前半はスタンダードかつどちらかというと端正なSFなのだが、中盤以降、何でもありになってくる。いきなり盛りがよくなるというか闇鍋が始まるというか・・・。
 宇宙船内のデザインがちょっと昔の洗練されたSFという雰囲気で、懐かしいのにスタイリッシュで美しい。SF考証として正しいのかどうかわからないが、こういうシーンを作ってみたい!というやる気が感じられる部分が多く、ビジュアル面での楽しさは大きかった。バーテンロボットの下半身が「省略」されている所とか、この辺は(宇宙船メーカーが)あんまり注力しないんだなという部分もいい。ルンバの進化形みたいなお掃除ロボットの動きも可愛かった。
 さて本作の評価の是非、というか好き嫌いの別れる原因は、ジムのある行動によるものだろう。他人の人生を自分の欲望の為に使うことであり、倫理的には許されない。しかし、極限状態(何が極限状態化については人によって意見が違うと思うが)で人は倫理的に振舞うことができるかというと、かなり難しいのではないか。ジムの行動は許されないが、強く糾弾できるかというと、ちょっと心もとない。ジム役にプラットが起用されたというのは納得の人選。本作のような役でもぎりぎりでアウトにならない程度の愛嬌があるのだ。彼は『ガーディアン・オブ・ギャラクシー』でも、無能ではないが人としての弱さが目立つという役所だったし、その程度の頼りない「ヒーロー」がはまる。弱い人だからこそ、その弱さを押し殺して挽回しようとする様がインパクトを与えるのだ。基本的に、人は弱いという思想で作られた作品なように思う。また、オーロラ役のローレンスが、プラットの1人や2人や3人くらいは捻り殺せるような圧を持っているのも、なるほどこのキャスティングでないと駄目だったんだなと納得させる。
 しかし最も気になったのは、アヴァロン号を運営する企業には相当問題があるんじゃないかという所だ。船内で生じる不調の原因はこれだったのでは?というシーンが序盤にあるのだが、120年間宇宙を旅していたら、この規模のアクシデントは相当数起きるんじゃないかと思うし、それは容易に予測できると思う。なぜ事前に対策を練っておかなかった?!と企業を糾弾したくなる。乗客5000人全員を無事に搬送しようという設計には思えないんだよな・・・。また、乗客からの費用搾取システムや船内格差も結構エグい。エコノミークラスの朝食、もう泣きたくなってくるもん・・・。

『バッドガイズ!』

 「未体験ゾーンの映画たち2017」で鑑賞。ニューメキシコ州アルバカーキ。警官のテリー(アレクサンダー・スカルスガルド)とボブ(マイケル。ペーニャ)のコンビは、パトロール中に暴力沙汰を起こし、強盗を見つけては現金をピンハネ、ドラッグを横流しと悪事を繰り返して上司からも目を付けられていた。ある日、ギャングが100万ドルの強盗計画を立てていると知り、その金を横取りしようと企む。しかしその計画には、裏社会の大物も関わってきた。監督・脚本はジョン・マイケル・マクドナー。
 同時期に公開されている『ナイスガイズ!』にあやかった邦題なのだろうが、意外と内容と合っていた。そして『ナイスガイズ!』の3倍くらいストーリー展開がだらだらとしている。途中でそういえばこの金どこから出てきたんだっけ?と道筋を見失いかけた。どちらかというと警官コンビの掛け合いや小ネタの数々にニヤニヤする類の作品で、ストーリーを追おうとすると正直つらかった。本作、なぜか文学ネタがしばしば投入されており、映画の作りは雑だし頭悪そうなのに小ネタには教養が見え隠れするという不思議なバランス。まさかこんな映画で三島由紀夫が引き合いに出される(まあ文学的な功績によってではないんですが・・・)とは思わなかった。
 テリーとボブは絵にかいたような悪徳警官でやりたい放題。これに比べると『あぶない刑事』なんて発砲量が多いだけで全然ちゃんとした刑事だわ・・・。テリーもボブも自分達がやっていることは悪事だとわかっているが、悪いとは思っていないのであっけらかんとしている。その一方で、自分たちなりの正義感、この一線は越えないぞという矜持が感じられるところは、警官バディものならでは。テリーがある少年を保護しようとする姿勢(彼なりの超論理があるんでなんとも言えないんだけど・・・)にはそれが感じられるし、トラブルばかり起こすテリーを庇い続けるボブの姿勢もそうだろう。
 なお、警官としての立場を利用して悪事やりほうだいということで、女性にも手を出しまくっているというのがこの手の設定のパターンだが、本作には意外とその部分がない。テリーは惚れっぽいが本命一筋だし、ボブは妻との息が合っている(妻がテリーについてどうこう言わないところが良かった)。そういう点では意外とマッチョっぽくない作品。女性に対するセクハラネタが少ないところは良かった。

『パリ、恋人たちの影』

 ドキュメンタリー映画作家のピエール(スタニスラス・メラール)の才能を信じ、共に製作を支える妻マノン(クロティルド・クロー)。しかしピエールは若い研修生エリザベットと浮気していた。エリザベットはある日、マノンが浮気相手といるところを目撃し、ピエールに妻が浮気していると告げる。監督はフィリップ・ガレル。
 ガレルの作品では大概、カップルが浮気したのしないの(まあ大体する)で揉める、というかほぼそういう要素のみで出来ている気もする。あらすじだけ聞くと結構な下世話さだが、実際に見てみるとそうでもない。下世話な話をやっているのに違いはないが、見せ方が下世話ではない。また修羅場の当事者たちは至って真剣で、それを茶化すような意図もないからだろう。
 ピエールは自分が浮気していることを棚に上げてマノンを責め、エリザベットに対しても何も責任を持たないし自分からは何も決めないというクズ感漂う男性だが、彼の行動に対して「ひどいもの」と定義したナレーションがいちいち流れるので、あ・・・やっぱりクズ認識でいいんだ・・・という安心感が得られ、映画を見ている側のクズに対するイライラ感が緩和されたように思う。ピエールのクズさは、すごくひどい男とか卑怯な男、あるいはDVをはたらくといった明瞭なものではなく、カップル間、夫婦間でついやってしまいがちなことなのだと思うが、だからこそ性質が悪い。彼の八つ当たりやいじわるを、マノンもエリザベットも、自分が悪いんだろうと考えてしまう。浮気相手と別れた後のマノンが、ピエールの機嫌を窺うようなそぶりをする、それにピエールが更に機嫌を損ねるという流れがなかなかにげんなりするものだった。お互いにセックスだけのつもりだったエリザベットとの仲も、彼女が本気になってしまったことでバランスが崩れる。エリザベットをうっとおしく思いつつも別れず、マノンを憎みつつも彼女が浮気を続けていないかつい尾行してしまう(しかもバレる)ピエールの弱さが、徐々に際立ってくる。
 葬儀で再会したピエールとマノンは、最初は距離がありよそよそしい。しかし、新作映画のネタの話になると、急に距離が縮まってくる。この夫婦の間にはもちろん愛があったのだろうが、仕事=映画への情熱、それを共有する同士愛みたいなものの方がむしろ長続きしているのかもしれない。マノンは若い頃、「ピエールと一緒に仕事をすることが喜び」だと言って母親からは少々呆れられる(確かに若いなぁという感じはする)のだが、あながち嘘ではなかったのだ。

『母の残像』

 著名な戦場写真家だったイザベル(イザベル・ユペール)が急死して3年後、回顧展が開かれることになった。夫ジーン(ガブリエル・バーン)と、実家に帰省した長男ジョナ(ジェシー・アイザンバーグ)は展示の準備を始めるが、ジョナはイザベルが別の男性と懇意にしていたことを示す写真を見つけてしまう。イザベルの死には事故なのか自殺なのか不可解な点があり、真相を知らない次男コンラッド(デヴィン・ドルイド)に母の死について話すべきなのか、ジーンとジョナは悩む。監督はヨアキム・トリアー。
 物語が始まった時にはイザベルは既にこの世になく、残された人々の話なわけだが、それでもイザベルがこの場にいるような雰囲気がずっと漂う。他界して3年経つとはいえ、(ジーンに恋人が出来ようが、ジョナが結婚して子供が出来ようが)ジーンたちにとってはイザベルは未だ「いまここ」にある存在なのだ。だからこそ、その死の曖昧さは辛い。
  ジーンとジョナは、自分が他の家族は知らないイザベルの姿を垣間見てしまったと思っているし、それはその通りではある。2人は母親が問題を抱えていたらしいということを、コンラッドには隠している。まだ子供だった彼を守りたい一心だったろうが、コンラッドもまた、母のある姿を目撃していたのだ。ごく短時間のシーンではあるのだが、個人的にはここが一番がつんときた。イザベルは本当に余裕がない状態だったのだろうと。コンラッドにとって母の死はショックだったし、深く傷ついたのだろうが、ジーンやジョナが思っているほど青天の霹靂というわけではなかったのではないか。母がぎりぎりのラインまで来ているということを、彼は察していたのではないかとも思った。
 夫や息子たちにとって、不在がちなイザベルは「遠い」存在になっていた。しかしイザベルから見れば、夫や息子が「遠い」ということになる。取材旅行から帰る度、息子たちが好きなものを覚えなおす(長期取材なので、不在中に子供たちはどんどん成長し物事の好みも変わっていく)という独白がやるせなかった。何だかんだで物理的な距離や時間の力は大きい。ジーンやジョナたちにはそんなつもりはなさそうだしコンラッドは内にこもって父親と話そうともしないのだが、この家では一緒にいる時間が長い父と息子たちの方が親密なのだ。イザベルには夫や子供に対する愛情は確かにあるが、それでもどうにもならない差が出てしまう。彼女は家庭では「よそ者」だと感じているが、夫も子供もそれには気付かない。
 ジーンは内にこもりがちなコンラッドを心配するが、その心配の仕方は時に的外れで滑稽でもある。コンラッドはコンラッドで父親を疎ましがるが、2人の間に愛情がないわけではない。コンラッドは父親に僕は話しにくい?と聞くが、それに対してジーンは、いや自分もそうだから、と返す。このやりとりにぐっときた。おそらくイザベルも「話しにくい」人だったのではないだろうか。彼女も、私話しにくい?と家族に聞きたかったのかも。

『ハンズ・オブ・ラヴ 手のひらの勇気』

 刑事のローレル(ジュリアン・ムーア)は年下の女性ステイシー(エレン・ペイジ)と恋に落ち、やがて家を買って同居するようになる。しかしローレルが癌に侵されており余命半年と宣告された。ローレルはステイシーが遺族年金を受け取ることが出来るように郡に申請するが、却下される。ローレルは平等な権利を求めて戦い始める。第80回アカデミー賞で短編ドキュメンタリー映画賞を受賞した実話を、ドラマ化した作品。監督はピーター・ソレット。
 ローレルとステイシーはニュージャージー州に住んでいるのだが、保守的な土地柄で、同性のパートナーシップに対する理解は乏しい。加えてローレルの職場は警察という、どの国でも保守的かつマッチョらしい組織。女性だというだけで出世は難しいとローレル自身が言うが、同性愛者だとわかれば更に難しいだろう。ローレルの相棒だった同僚のデーン(マイケル・シャノン)は彼女を支えようと奔走するが、他の同僚からの支持は得られない。自分もゲイだからローレルには同情するとこっそりと告げた若い刑事も、働けなくなることを恐れて同僚の前では声を上げられずにいる。
 病気と闘いながら平等な扱いを手に入れる為の闘いもやめないローレルも、彼女を愛し続けるステイシーも勇気ある人で、それは言うまでもないだろう。本作で勇気が問われているのはむしろ、ローレルの同僚たちや、郡政委員たちだったと思う。特に、デーンの仕事仲間としての信頼と献身は強く印象に残る。彼は、ゲイ支援団体のスティーブン(スティーブ・カレル)とのやりとりで自分で言及するように「白人、アングロサクソン、ストレート」であり、ゲイコミュニティに対して知識があるわけでもない。警官を続ける以上、同性パートナーシップを支援すればつまはじきにされるのは目に見えている。そこからはみ出るのは勇気がいることだ。ただ、ローレルと彼女が言う平等と正義への(おそらく共に仕事をする上で培われた)信頼が、彼の勇気を支えるのだろう。ローレルとデーンのパートナーシップはローレルとステイシーの間のものとは異なるが、そこにはやはり愛と信頼がある。
 ローレルの主張、同性婚を認めてほしいというものではないところが面白いし、彼女のものの考え方を示していると思う。スティーブンは政府に同性婚を認めさせたいので、彼女に「同性婚」という言葉をスピーチ内に入れてほしいと言うが、ローレルは応じない。彼女が欲するのは結婚というシステムではなく、平等さなのだ。もし、異性同士のカップルが同じような状況に陥ったら、ローレルはやはり「平等」に権利を認めてほしいと言うのではないかと思った。
 

『HiGH&LOW RED RAIN』

 雨宮雅貴(TAKAHIRO)と広斗(登坂広臣)兄弟は、1年前に姿を消した長兄・尊龍(斎藤工)を探し続けていた。ヤクザに追われる少女・成瀬愛華(吉本実憂)から、尊龍の行方と目的に関する情報を得るが。監督は山口雄大。『HiGH&LOW THE MOVIE』の続編。
 前作、映画としては出来がいいとは言い難いし色々珍妙だったのだが、一つのアトラクションとしてはありかなと思ったし、とにかく作っている側のやる気に満ちているので、ある意味面白かった。本作は、前作よりもドラマ重視になっている。登場人物を雨宮兄弟とその周辺に絞り込んだことでドラマ作りがやりやすくなったのだろうが、ちゃんとドラマをやろうとしていることで、却って前作にあった映画としては異形の面白さみたいなものは薄れてしまったと思う。前作はある種の祭り、今回はスタンダードな兄弟ドラマだからテンションのパワーダウンはやむなしという部分はあるだろう。
 ただ、こういう映画を作るのか、という面での異文化を見るような面白さはやはりある。このシリーズ、一番重視されているのは見た目がいかにかっこいいかと言うことで、話の整合性とか、リアリティみたいなものは度外視しているんだなということが良くわかるのだ。架空の町が舞台とは言え、全員一応日本語喋っており日本が舞台と思われる(総理大臣いるし)のだが、序盤の、白い十字架が立ち並ぶ墓地のシーンでさっそく突っ込みたくなった。たしかにその方が見映えはするかもしれないけれども!クリスチャンだという設定とか特になかったじゃん!お線香とか存在しない世界なんだろうな・・・。PVを繋ぎ合わせたような世界観は前作通りなのだが、ここまで「俺が考えたかっこいいやつ」を徹底していると、むしろ清々しい。
 今回、肉弾戦のアクションの見せ方の手数が随分増えたという印象を受けた。前作では集団対集団だったが、今回は人数絞られていて、アクション指導を丁寧にやる余裕があったのかも。ただ、そのアクションの撮り方はカット割りが細かすぎていまひとつ迫力に欠ける。一連のアクションを通しの全体像で見たいのにーと思ったが、演じる側の技量の問題なのかな。
 なお、斎藤工が壁ドン通り越して壁になっていたので笑った。当然斎藤のキャリアを踏まえて台詞を作っているだろうから、笑わせにきてるよな・・・。それにちゃんと応える斎藤もえらい。プロである。

『ハドソン川の奇跡』

 2009年1月15日、乗客乗員155人を乗せた航空機がマンハッタンの上空850メートルでコントロールを失った。機長のチェズレイ・“サリー”・サレンバーガーはとっさの判断で機体をハドソン川に着水させることに成功し、乗客乗員全員が無事に保護される。サリーは一躍英雄扱いされるが、彼の判断はハイリスクすぎたとして、国家運輸安全委員会からは調査・追及される。監督はクリント・イーストウッド。2009年に実際に起きた事故をドラマ化した作品。
 本作の原題は『Sully』、そしてサレンバーガーの手記を元にした映画化ということで、事故全体を描くというよりも、サレンバーガーという人とその周囲を描くという側面が強いということがわかる。フラッシュバックのように過去と現在をいったりきたりするが、それもサレンバーガーがフラッシュバックを起こしてうなされたり、自分の青年時代からのパイロット体験を思い返したりという、彼主体のものだ。
 サレンバーガーは奇跡を起こした英雄としてもてはやされるが、自身では何度も「奇跡ではない」と繰り返す。確かに、大変難しいことを成功させたことにはなるのだろうが、それは彼が長年技術を磨き続け、経験を蓄積してきたから、とっさの事態に対応できたのであって、神の力によるものではない。副機長やキャビンアテンダントら乗務員にしても、しっかりとしたマニュアルと教育によって対応できたのであって、あくまで人の力によるものだ。更に、作中ではいけすかない人たちである国家運輸安全委員会の調査員たちも、このような不測の事態に関する情報を集めその都度対策を上書きしていくという、「人力」の一部だ。不時着した機体から乗客乗務員を救出した湾岸警備隊やレスキュー隊にしても同様だろう。
 彼らは皆、事故が起こることを想定して日々働き、研鑽しているのであって、出すべきところでその蓄積が発揮されたということだと言える。本作で「奇跡」は否定されており、描かれるのはあくまで個々の人の力だ(なので、原題ではキャッチーさに欠けるというのはわかるが邦題は本作の本意ではないだろう。アイロニーを込めて付けたのであれば別だが、そうではないだろうな)。
 サレンバーガーの妻子、乗務員や乗客、1人1人の露出時間は少ないのだが、くっきりとした存在感を残していく。彼らそれぞれに、それぞれの人生があるという雰囲気が出ていた。それがエンドロール前の「その後」の映像に繋がってきて、胸が熱くなる。他の作品だったらこのラストは蛇足に見えたもしれないが、本作の場合はあっていいなと思える。

『HiGH&LOW THE MOVIE』

 ある地域一帯を仕切るグループ「MUGEN」が「雨宮兄弟」と抗争を繰り広げた後、MUGENは解散、雨宮兄弟も姿を消し、「山王連合会」、「White Rascals」、「鬼邪高校」、「RUDE BOYS」、「達磨一家」という5つのグループが頭角を現す。グループの頭文字を取り、この一帯はSWORD地区と呼ばれるようになった。かつてMUGENのリーダーだった琥珀が戻り、雨宮兄弟も長兄を探しに姿を見せる。更に海外マフィアもうろつくようになり、SWORD地区に不穏な空気が漂い始める。監督は久保茂昭。脚本は渡辺啓・平沼紀久・Team HI・AX。とにかく登場人物が大量、かつおそらく製作側が深く考えずにぶっこんだであろうネタが満載なので脚本の皆様にはご愁傷様ですとしか・・・。むしろよく2時間にまとめたな。
 日本人って、限定されたエリア内での派閥争いみたいなネタがほんと好きなんだろうな。学園ヤンキーものにしろヤクザものにしろ、その世界の中だけ、という特色が強いと思う。本作もある地域をいくつかの勢力が分割統治するようになって小競り合いを続けている、という過去のマンガやアニメで何度も見てきた設定。そして、設定の上に物語があるのではなく、思いついた設定をとにかく詰め込んだ結果、物語があるかのように見える、という奇妙な構造になっている。確かにキャラクターそれぞれの特徴とか、この人とこの人はこういう関係で、というエピソードの提示はあるのだが、それは全て設定の一つで、物語が稼働しているというわけではない。設定量が多い奴が強い、みたいな感じなのだ。一般的なドラマ映画を見るつもりで見ると、すごく不思議な感じがするのではないだろうか。
 ただ、映画ファンの間では珍妙だと言われているみたいだが、そこまで奇妙な印象は受けなかった。2クールくらいのTVアニメの総集編を劇場版として公開するパターンって、ちょっとこういう雰囲気だよなぁと思ったので、むしろ実写映画よりもアニメ(TVアニメ)を見慣れている層の方が違和感なく見られるのかもしれないなぁ。ただ、総集編として見ても退屈は退屈なのだが・・・。そんなに演技が上手くない出演者も多いし、セリフも薄っぺらく盛り上がりにも欠ける(そもそもドラマとしての盛り上がりがない)。
 設定の連打みたいな作品でキャラクター数もとにかく多いのだが、逆にこの設定にどんな素材でも乗っけていけるんじゃないかという気もする。商品展開がとってもやりやすそう。グループ分けされているのとかキャラソン作れるのとか、グッズ展開や関連音源販売にも便利そうだなぁと感心した。何しろキャラクター=出演者が元々歌って踊れる人たちなんだから、これは強い。作り方、見せ方、売り方全てが物量戦。明らかに結構予算がかかっているのだが、予算かけて作る映画って、今はこれなんだなー。
 ちなみに、キャラクターの見せ場への特化ぶりと一般的な(ドラマ)映画としての文脈の無視加減、ある意味キンプリ(KING OF PRISM by PrettyRhythm)に似ていると言えなくもない(というかキンプリの方がまだしもドラマ性がある・・・)。ヤンキーとオタクの親和性を再確認してしまった。でも、だったら2次元でやってよと思わなくもない。

『ハイ・ライズ』

 ロンドン郊外の高層マンションに引っ越してきた医師のラング(トム・ヒドルストン)。マンションの入居者たちがひらく華やかなパーティに毎晩招かれ、徐々に知り合いも増えてきた。マンションの中にはスポーツジム、スパ、小学校やスーパーマーケット等様々な設備が整っており、完成された世界のようだった。しかしマンション内には階級があり、小競り合いが続いているのだと低層階入居者のワイルダーから教えられる。ある日全館で停電が起きたことをきっかけに、くすぶっていた入居者たちの不満が噴出し暴動が起きる。原作はJ・G・バラードの同名 小説。監督はベン・ウィートリー。
冒頭十数分で、犬好きは見ない方がいいかもなぁ・・・としみじみ思わせるシーンがあるので犬好きの方はご注意ください(猫は出てこない)。おそらく舞台は70~80年代なのだろうが(原作小説が日本で発行されたのが1980年)、今これを映画化する必然性みたいなものが、あまり感じられなかった。時代を特定するような要素はあまりない作品なので、時代を超えたもっと普遍的な作品になってもよさそうなのだが、妙にレトロに感じられた。最初からレトロにしようと思って作ったのか、結果的にレトロになっているのかわからないのだが。
 マンション内では低層階の住人と上層階の間で扱いに格差があり、不満が噴出し暴動が起きていく。下層が上層に下剋上をしようとするのだ。隅々まで管理されていた快適な生活環境は崩壊し、入居者のモラルも崩壊、混沌としていく。しかし、混沌としていくのに、誰もタワーから出ていかないという奇妙さがある。システムが崩壊しているようで、実はしていない、別のシステムに移行しただけではないかという気がしてくるのだ。下層階が上層階を乗っ取たのかというと、必ずしもそうは見えない。結局階層同士は入り混じっておらず、それぞれの階層の中でそれぞれカオスになっているだけのように見える。またカオスといっても、カオス状態の中から新しい秩序が生まれ、それなりに粛々と入居者の生活が続いている。形が変わっただけで大した変化はないんじゃないかなぁという、拍子抜け感がある。閉じられた空間の中であっちへ行ったりこっちへ行ったり(これはインターネット普及前ならではの設定だなぁと時代を感じた)、いっそ長閑にも見えてくるという奇妙さ。
 トム・ヒドルストンの人気ぶりがいままで今一つぴんとこなかったのだが、本作には似合っていたと思う。作中でヒドルストン演じるラングが「最高の(マンションの)備品」と称されるのだが、確かに「備品」な感じがする。肉体的なセクシーさはあるのに実在感が乏しいというか、「物」っぽいのだ。肉体のノイズが少ないとでも言えばいいのか。不思議な役者だと思う。

『裸足の季節』

 両親を亡くし、祖母と叔父と暮らす5人姉妹。自由に遊びまわっていたが、ある日、古い慣習を理由に一切の外出を禁じられる。そして次々と結婚させられていく。13歳の末っ子ラーレは、何とか自由を手に入れようともがく。監督はデニズ・ガムゼ・エルギュヴェン。
 トルコ出身の若手監督による作品だそうだが、トルコでは本作はどのように受け止められるのだろうか。もちろん都市部だったり田舎だったり個人其々で多少違うのだろうが、日本にいる私が見るのとは、また違った感慨(あるいは違和感)をもって見るのだろうか。私が見たら5人姉妹が置かれる境遇は児童虐待だし人権侵害だと思うが、姉妹が住んでいるような田舎では、これが当然で特にひどいとは思われないのかもしれない。祖母や叔父にとってはこれが普通なのだ。しかし姉妹たちは学校やメディアやインターネットで、「ここ以外」を既に知っている。その上でこういう境遇に置かれるのは、やはり納得いかないだろう。これが普通だと思っている人たちを、それは違うと説得するのは至難の業だ。しかも姉妹たちは子供で、大人に対して出来ることは僅かだ。だから、本来なら大人がちゃんと保護者をやらないと、ということなんだろうけど。
 しかし、祖母も叔父も、旧弊であるということはさておき、子供にとってちゃんとした保護者とは言い難い所がある。祖母は孫に対する愛情はあるものの、彼女らを理解しようとはせず、おろおろするばかり。叔父は旧弊な価値観で姉妹を管理しようとするが、それと矛盾するようなこともやっている。厳しく保守的であっても保護者として機能しているならまだいいが、それすら怪しい。姉妹の周囲には、子供を子供として適切に守ろうとする大人がいない。家事を手伝っているおばさんがかろうじて、彼女らを思いやるくらいだ。子供として扱われていたのが、いきなり(結婚可能な)大人の女性として扱われる(ただし大人としての主体性は無視される)というのは、色々と禍根が残りそう。
 姉妹たちは集団でいると、「群れ」という感じでどれがどれだか(年齢差でしか)見分けがつかないのだが、結婚に対する態度でそれぞれの個性が見えてきて面白い。長女はさっさと恋人を見つけて円満に結婚するし、二女はこういうものかと諦めて結婚する。三女は一見従順だが、徐々に行動がおかしくなっていく。特に三女、四女の境遇は痛ましい。一番若いラーレは家を抜け出し、トラック運転手の若者に頼み込んで運転を覚え、なんとか脱出しようとする。見ていて辛いシチュエーションも多いのだが、ラーレのへこたれなさと快活さが救いになっている。邦題『裸足の季節』とは、子供時代を含むある時期も意図しているのだと思うが、ラーレはその季節を勝手に終わらせない為に走るのだろう。
 また、色鮮やかな映像がとても美しい。姉妹の部屋の色のバランスなど、かなりきっちりデザインされているように思った。とは言え、やっぱり屋外の方が眩しさも暗がりも美しいと思うが・・・。

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