3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『ノーマ・レイ』

 アメリカ南部の紡績工場に勤めるノーマ(サリー・フィールド)は、幼い2人の子供と、彼女と同じ紡績工場に長年勤める両親と同居している。ある日、彼女の家にルーベン(ロン・リーブマン)と言う男がやってくる。彼は全米繊維組合から派遣された労働組合作りの活動家で、彼女の働く工場に組合を結成するためにやってきたのだ。工員たちに相手にされないものの粘り強く活動を続けるルーベンの様子に興味を持ち、ノーマも労働組合運動に関わっていく。監督はマーティン・リット。1979年製作。
 国立映画アーカイブの特集上映「アカデミー・フィルム・アーカイブ映画コレクション」にて鑑賞。本作を見るのは初めてなのだがとても面白かった。冒頭からテンポよく、メリハリのきいたエピソード省略の仕方も好み。このくらい思い切ってジャンプしてもいいんだよな。緩急はあるが全体的にびっくりするくらいスピード感のある作品だと思う。
 一方で、ノーマが置かれている環境の息苦しさもじわじわと伝わってくる。紡績工場の中は機械の作動音でお互いの声もろくに聞こえない。これが出口なしっぽくって閉塞感を煽るし、労働者同士がコミュニケーションをとり繋がること自体が難しいことの比喩のようにも見える。また実際問題として白人、黒人らが一緒に働いているところ、会社側が黒人の組合、白人の組合というように分断しようとする。逆に言うと労働者が連帯すると経営側にとっては都合が悪いということなので、やはり労働組合というのはそれなりに意味があるのだなと妙に納得するエピソードだった。
 ノーマは最初は組合活動に興味があるわけではないし、会社に不満があって上司とぶつかっても、それは彼女個人のものとして処理している。しかし徐々に、自分の境遇の苦しさは他の人の苦しさと繋がっている、ひいては組織の、社会の仕組みと繋がっていると気付いていくのだ。ノーマが見る世界が広がっていく過程の物語だが、それは彼女が少し自由になるということでもあると思う。本作は1978年の作品なのだが、あまりに「今」の作品として響いた。むしろ今の日本は前進どころか後退しているんじゃないかと思えてしまう。
 ノーマが「男性が必要」な女性として描かれており、そこを特に悪びれない所は当時としては珍しかったのでは。子供たち2人も父親が違うのだが、2人にそのあたりの事情を自分の口で説明するのも、彼女の性格、過去の引き受け方が垣間見られるシーンだった。そんなノーマに怒りつつ最終的には「そういう人だから(愛した)」と受け入れる夫ソニーや、一貫して同志として絆を深めるルーベンとの関係も印象に残る。

ノーマ・レイ [DVD]
ロン・リーブマン
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
2016-01-20


スタンドアップ (字幕版)
ジェレミー・レナー
2013-06-01


『November』

 先祖を追憶する「死者の日」を迎えようとしている、エストニアの小さな村。戻って来た死者たちは家族を訪ね、一緒に食事をとりサウナに入る。村人たちはクラットと呼ばれる使い魔を使い、労働力にしていた。母親を亡くし父親と2人暮らしの少女リーナ(レア・レスト)は、村の青年ハンス(ヨルゲン・リイイク)に想いを寄せていた。一方、ハンスはドイツ人男爵の娘に一目ぼれし、森の十字路で悪魔と契約を結ぶ。監督はライナー・サルネ。
 エストニア映画というのは多分初めて見るのだが、エストニアの土着のエッセンスって本作のような感じなのだろうか。モノクロの映像は非常に美しいが、描かれる世界は民話や神話のように混沌としている。死者、精霊、悪魔が人間たちの営みの中にごくごく自然に、地続きの存在として現れる。「死者の日」というとメキシコのイメージだが、エストニアにも類似の祭りがあるのか。死者と食事をするのはともかく、サウナに入る(しかもサウナの中ではなぜかニワトリの姿になる)というのは何なんだ…腐りそうな気がする…。
 一応キリスト教圏(教会があるし神父もいる)なのだが、悪魔との契約がごく普通のこととしてまかり通っている。魔術による生活のスキルと毎週教会に通う習慣が、村人の間では矛盾なく存在しているのだ。がらくたでできたボディに悪魔と契約して(正確にはだまして)手に入れた魂を憑依させた使い魔、クラットの造形がどれも不気味かつユーモラスで、どこか可愛らしくもあった。クラットは労働の為に作られるので、どのクラットも結構労働意欲旺盛なのがなんだかおかしい。ちょっとシュヴァンクマイエルの作品を思い起こさせるような造形だった。
 土着の魔術がうごめく世界の中で、リーナとハンスの片思いはひたすら報われない。2人とも一途なのだが、彼らの望みは悪魔も魔術もかなえることができないのだ。リーナが恋敵を殺そうとして土壇場で逆に助けてしまう姿には、民話ではなく今の感情の生々しさを見た。


蝶男:エストニア短編小説集
メヒス・ヘインサー
葉っぱの坑夫
2022-06-02





蛇の言葉を話した男
アンドルス・キヴィラフク
河出書房新社
2021-06-26


『007 ノー・タイム・トゥ・ダイ』

 引退しマドレーヌ・スワン(レア・セドゥー)と幸せな日々を送っていたジェームズ・ボンド(ダニエル・クレイグ)。しかし彼の前に再びスペクターが現れる。更に旧友のフィリックス・ライター(ジェフリー・ライト)が助けを求めてきた。彼の依頼により、ボンドは誘拐された科学者を奪還することになる。監督はキャリー・ジョージ・フクナガ。
 冒頭でマドレーヌがどういう環境で育ったのか垣間見えるが、これはそこそこのネグレクトなのでは…。ただ、彼女のバックボーンを示すエピソードは前作『スペクター』と同様、あまり活かされておらず残念。最後までどういう人なのかというキャラクターが立ち上がってこなかった。これは本作の悪役であるサフィン(ラミ・マレック)についても同様だ。出自はおおまかに説明されるのだが、そういう経験を経て結局何をどうしたいのかがよくわからない。また彼はマドレーヌに執着しているが、その行動も少々説得力が薄い。一応説明はされているのだが、後々までつきまとうには動機が弱い。こうやった方がストーリー上都合がいいからやっています、という一面が前に出すぎなように思った。ヒロイン、悪役、というアイコン的役割以上のものを感じないのだ。
 007シリーズというのはそもそもアイコン的なキャラクターが活躍する話、個々のキャラクターの背景はそれほど掘り下げられず、華やかな映像を展開する為の装置として機能するものだったのではないか。だから基本的に1作完結だし、ボンド俳優が代替わりするというシステムに対応できたのだろう。前回までお話はパラレルな「なかったこと」に出来、ある意味自由度が高い。ボンドの活躍、ボンドガールのセクシーさ、また数々のガジェットを楽しむにはこのフォーマットがあっていたのだと思う。
 ただ、クレイグ版のボンドは基本的にシリーズ通して1人の人間として、一貫した時間軸に生きている。過去があり、過去=極めて個人的なものに追いかけられ続ける人間なのだ。アイコンから1人の人間にボンドが変化したとも言える。本作はこのアイコンから1人の人間に引き戻される感じと、ガジェット満載の派手なアクションが繰り広げられる展開がどうもミスマッチだったように思った。クレイグ・ボンドが進もうとしている方向とストーリーの方向が一致しないのだ。そして007であるジェームズ・ボンドが過去を持つ人間になる、自分と誰かとの未来を考えるとはどういうことか、と示唆するのが本作の結末なのでは。ボンドはボンドにしかなれないのか。

007 スペクター 2枚組ブルーレイ&DVD(初回生産限定) [Blu-ray]
ナオミ・ハリス
20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
2016-04-06





『ノマドランド』

 大手企業に勤める夫と共に、ネバダ州の企業城下町に住んでいたファーン(フランシス・マクドーマンド)。しかし企業倒産と共に町は廃れる。亡き夫の思い出があるために町を離れられなかったファーンも、とうとう家を手放し町を去る。彼女は車上生活者として季節労働で日銭を稼ぎつつ、各地を転々とする。監督・脚本はクロエ・ジャオ。
 ファーンが旅していくアメリカの風景は雄大で美しい。時に荒々しいが、この風景の中をずっとたびしていたくなるのもわかる。旅を続けるファーンの生活は、広大な自然の美しさと相まって、土地や人間関係のしがらみから解き放たれた自由で素敵なものに見える。ただ、その自由さ・美しさは非常に足元が危ういものだ。流浪の生活が一見楽しそうに見える度、そのリスクも提示される。駐車場確保の意外な難しさや安定した仕事に就けないこと、社会保障を受けられないこと、突然病気になった時の不安等、単純な不便さ以外の問題は色々と垣間見える。
 そもそも、車上生活者の全てが積極的にそれを選択したというわけではない。定住がどうしても性に合わず旅の生活を愛している人もいるが、経済的に家を維持できなくなって止む無く車上生活を選んだという人も少なくない。高齢の車上生活者が目立ったのもそういう理由が大きいだろう。フォーンも元々愛着のある土地を離れたくなかったが経済的な限界で旅立ったわけだし、姉の「ノマドは開拓民精神」という言葉にかちんとくるのも当然だろう。フォーンは旅が性に合ってはいるが、そのリスクを全て是としているわけではないのだ。経済的に追い詰められた時、何か公的な援助を頼ることができれば、彼女は別の判断をしたかもしれないのだ。フォーンと他の車上生活者やバックパッカーらは、お互い結構こまめに声を掛け合う。人づきあいが煩わしいという人たちが多いではと思っていたので意外だったが、お互いの小さい助け合いや物資・知識のシェアが彼らのセイフティネットになっているのだろう(ノマドたちの集会で、具体的な車両改造や排泄物処理のレクチャーをやっているのが印象に残った)。資本主義の波や公的な援助からこぼれおちたら、人と人との小さい助け合いに頼っていくしかないのか。
 しかし、そんなフォーンたちにとって、資本主義の権化のようなAmazonでの労働が命綱になっているのは皮肉だ。駐車場まで借り上げているということは、相当数の車上生活者が集まっているということだろう。資本主義サイクルの救いのなさを垣間見た気がする。

ノマド 漂流する高齢労働者たち
ジェシカ ブルーダー
春秋社
2020-11-10


NHKスペシャル ルポ 車上生活 駐車場の片隅で
NHKスペシャル取材班
宝島社
2020-08-26


『ノッティングヒルの洋菓子店』

 パティシエのサラと親友のイザベラ(シェリー・コン)は長年の夢だったベーカリーの開店を控えていた。しかしサラが急死。サラの娘クラリッサ(シャノン・ターベット)は母の夢をかなえる為にイザベラを説得し、疎遠だったサラの母ミミ(セリア・イムリー)に資金援助を頼み込む。そしてパティシエ不在に悩む3人の前に、ミシュラン2つ星のレストランで活躍していたマシュー(ルパート・ペンリー=ジョーンズ)が現れる。彼は専門学校時代にサラと付き合っており、ある目的があって戻ってきたのだ。監督はエリザ・シュローダー。
 月並みと言えば月並みな「いい話」なのだが、中心になるはずだった人が早々に退場してしまう。不在がストーリーの中心にあり、不在が4人を結び付けていくという所に若干寂寥感が漂う。喪の仕事的な話でもあるのだ。サラとミミの和解はサラが生きている間にはなされなかったが、孫のクラリッサやサラの親友であったイザベラと新たな絆が生まれた。イザベラも本当に好きなことに向き合う。ただ、クラリッサがバレエダンサーとして再起しようとする流れは、少々蛇足に思えた。彼女の夢はサラともベーカリーともそんなに関係ないのでは…。他の人は新たな道を見つけたからクラリッサにも用意しなくちゃ、という製作上の都合でくっつけてみた、みたいな取ってつけた感だった。
 ベーカリーのお菓子類はさすがに美味しそうで、目にも楽しい。ノッティングヒルの洋菓子店なのでいわゆる英国の焼き菓子が並ぶのかな?と思っていたら、途中から別の方向に舵を切る。ロンドンは多民族都市であり、ロンドン市民(監督はノッティングヒルに住んでいたそうだ)もそういう自負がある故の展開だろう。様々な人がいるということが街のアイデンティティなのだ。
 ただ、日本人が食べたがる祖国のお菓子として、抹茶ミルクレープが登場するのにはなぜ?!と突っこみたくなった。まあ日本ならではのお菓子ではあるけど、あくまで派生的な存在であって王道とは言えないし、祖国の味として思い出すものでもない気がするんだけど…。ロンドンで餡子類は作りにくいのか、それともスタッフの中に抹茶ミルクレープに感銘を受けた人がいたのか、気になってしまった。

イギリスお菓子百科
Galettes and Biscuits 安田真理子
ソーテック社
2018-12-20


THE PASTRY COLLECTION 日本人が知らない世界の郷土菓子をめぐる旅
郷土菓子研究社・林周作
KADOKAWA/エンターブレイン
2014-05-31


 

『残された者 北の極地』

 飛行機事故で1人、北極地帯に取り残されたパイロットのオボァガード(マッツ・ミケルセン)は、壊れた飛行機をシェルターにし、生き延びていた。しかしようやくやってきたヘリコプターが墜落。女性乗務員(マリア・テルマ・サルマドッティ)が大けがをしてしまう。オボァガードは瀕死の彼女を、地図上に確認した北方の基地に連れていくことを決意する。監督はジョー・ペナ。
 冒頭、遭難中のオボァガードの日々の「任務」が淡々と描かれる。これが妙に面白かった。定位置で地形を観測し地図を作り、地面にSOSの文字を刻む。魚を取って冷凍(アイスボックスに入れると自動的に冷凍されちゃうわけだけど…)。し貯蔵する。これを腕時計に設定したタイマーにそって、几帳面に行っていく。この几帳面さが彼を生き延びさせてきたのだともわかってくる。自分がどこへ向かったのか、行動を書き残していくというのも、救助隊が来たときの為の対策だとわかる。記録って大事!
 彼の几帳面さ、きっちり守られるルーティン行動は、サバイブするための手段だ。しかし女性を助けたことで、そのルーティンから外れていかざるを得ない。自分が生存するための可能性を減らしても他人を助けるかどうか、倫理観を問われるシチュエーションが続いていく。寒さはもちろんなのだが、究極の二択で追い詰められていくのだ。まずはフィジカルを守らなくてはならないわけだが、かなり内省的でもある。マッツ・ミケルセンて色々と追い詰めたくなるタイプの顔をしているのだろうか。誰かを虐げているか自分が虐げられている役ばかり演じている気がする。監督のフェティッシュを掻き立てる何かがあるのだろうか。
 非常にシンプルなサバイバルムービーなのだが、自然環境の厳しさが強烈。寒さは人類の敵だと痛感できる。この寒さの中、この距離を歩いて(しかも自力では動けない成人女性を運搬しつつ)移動するのかと気が遠くなりそう。風景からして氷と岩しかない感じ(でも掘れば土が出てくるんだなというのはちょっと新鮮)で強烈だった。見ている分には引き込まれるけど、この環境で生活したくないよな…。

ウインド・リバー [Blu-ray]
ジェレミー・レナー
Happinet
2018-12-04




ザ・グレイ [Blu-ray]
リーアム・ニーソン
ジェネオン・ユニバーサル
2013-09-04



『NO SMOKING』

 ミュージシャン・細野晴臣の歴史を追う、デビュー50周年記念ドキュメンタリー。幼少期の音楽との出会い、はっぴいえんどやYMOの活動を経てソロへと至る痕跡を、本人へのインタビューや当時の映像、2018年から2019年に実施された海外公演の映像を織り交ぜ追っていく。監督は佐渡岳利。
 全体の構成も編集もどこかぎこちない。特に作中に流れる各楽曲のフェイドアウトのさせ方がちょっとぶつ切りっぽいのが気になった。ただ、このぎこちなさはあえてなのかなという気もする。流暢すぎない、完成品として収まりが良すぎない方が、被写体に合っているように思う。
 細野の子供の頃のエピソードからは、彼の音楽のルーツや、環境の持つ影響力の大きさが感じられる。戦後まもなく生まれてまだ隣家は焼け跡のままだった、戦争に行かなくてすむことが心底嬉しかったという話や、母親が音楽好きで自宅でよくレコードをかけていた(ベニー・グッドマン「sing,sing,sing」を太鼓の曲と呼んでお気に入りだったとのこと)、叔母宅の向いに住んでいる女性がパラマウント社勤務(当時でいったら相当なキャリアウーマンということだろう)で、会社から持ち帰った映画のサントラ盤をよく聞かせてもらったとか。やっぱり環境って大事なんだな…。父親が意外とユーモアがあってダンスやコメディが好きだった(フレッド・アステアにあこがれていた)というのも面白かった。細野のお笑い好きや意外と動きの切れがいいあたりはこのへんにルーツがあるのか。
 細野の音楽の変遷を追うという面では、YMO以降のアンビエント、ワールドミュージックへの傾倒にはあまり言及されておらず中途半端だし、ライブ映像は正直なところもっと見たかった。とは言え、ライブのゲストで高橋幸宏がドラムを叩き、そこに坂本龍一が飛び入りというシーンには多幸感が溢れる。いろいろあっただろうけど仲良くてよかった…。一緒に仕事をしていたミュージシャン同士は、ずっと会っていなくてもいざ会うと昨日会ったみたいに演奏できるという言葉も印象に残った。

HOSONO HARUOMI Compiled by HOSHINO GEN(2CD)
細野 晴臣
ビクターエンタテインメント
2019-08-28


HOSONO HARUOMI Compiled by OYAMADA KEIGO(2CD)
細野 晴臣
ビクターエンタテインメント
2019-09-25


 

『ノクターナル・アニマルズ』

 美術商として成功しているスーザン(エイミー・アダムス)の下に、前夫エドワード(ジェイク・ギレンホール)から小説の原稿が送られてきた。スーザンは原稿を読み進めるうち、小説の世界に引き込まれていく。原作はオースティン・ライトの小説。監督・脚本はトム・フォード。
 トム・フォード監督、前作『シングルマン』では非常に美しいが構成がやや弱いなという印象だったのだが、本作は構成力がめちゃめちゃ上がっている!更に、原作の枠組みをかなり忠実に再現している。原作に沿いつつ、スーザンとエドワードの属する階層差、またスーザンと母の各室という設定を新たに取り入れていることで、原作とは違った視座を得ている。原作の読み込みと再構成がかなりいい形で成功していると思う。ライトの原作小説は、これを読んで映像化しようという気にはあまりならない(小説がつまらないのではなく、文章でないと難しい表現の仕方なので)と思うのだが、よくやったなぁ。
 小説を読むときに、頭の中で映像化してみるという人は少なくないだろう。映像化はしないまでも、何らかのイメージを持って読むことは多いと思う。しかし、そのイメージは作者が想定したものとイコールではなく、あくまで読者の頭の中にある世界だ。本作でエドワードが書いた小説『ノクターナル・アニマルズ』は映像として(本作は映画だから当然だが)描かれる。ビジュアル上、主人公トニーはエドワードであり、エドワードの妻はスーザンだ。これはエドワードがそのように想定して書いたというわけではなく、スーザンはそうイメージして読んだということだ。エドワードが同じように想定していたとは限らない。
 本作、実の所エドワード本人は不在のようなもので、延々とスーザンの独り相撲が続く。エドワードの姿は現れるものの、スーザン思い浮かべる、彼女の記憶の中のエドワードにすぎない。映像で再現される小説の中身は、スーザンはこのように読んだということに他ならない。エドワードにとっては、トニー=スーザンだったかもしれないし、スーザンは全然関係なかったのかもしれない。本作は、スーザンの内面が延々と続くような話だと言ってもいいのではないか。小説を読むことは自分ではない別の誰かの視座を得るということにもなりうるが、その視座すら、主体である自分を一度通したものである。
 自分から離れられないという苦しみは、スーザンがずっと抱き続けているものなのではないか。彼女と母親とのやりとりにも顕著だ。これは原作にはなかった要素だが、スーザンは富裕層の生まれでエドワードはそうではない。スーザンは違う自分になれるかもと期待してエドワードと結婚した側面もあったのではないか。母親は、自分が育った階層から離れるのは難しいと彼女を諭す。結局その通りだったのだが、エドワードは彼女に勇気がない、自分を閉じ込めているんだとなじる。
 とは言え、自分を通してしか物事を見ることはできない、変われないという点では、エドワードも同じだ。結婚していた頃のエドワードは、スーザンが芸術の道を諦めたと知り、君には才能があるはずなのに何で諦めるんだとなじる。それは、エドワードがスーザンを芸術家として見たかったにすぎないとも言えるだろう。スーザンがエドワードの世界にいられなかったように、エドワードもスーザンの世界にいることはできなかったのだ。





『野火』

 第二次大戦末期のフィリピン戦線。日本軍の敗北は濃厚となり、兵士たちは負傷、病、栄養失調で次々と倒れていた。結核を患っている田村一等兵(塚本普也)は野戦病院へ送られるが、既に患者で飽和状態、物資も極端に不足している病院側は入院を拒否。田村は部隊に戻ることもできず、レイテ島をさまよう。原作は1959年にも市川崑監督により映画化された大岡昇平の同名小説。監督は塚本普也。
 塚本監督作品の中では久々に突き抜けた、かつ独りよがりではない作品だという印象を受けた。これは原作、そして戦争という題材の強さによるものなのか。予算が潤沢とは思えないし、手作り感の強い作品なのだが、チープではない。むしろ、視点が内面へ内面へと深く潜っていくような感じがする。
 歴史の中で第二次世界大戦の日本がどういう位置づけになるのか、といった俯瞰の視線は本作には希薄だ。あくまで田村個人の体験として描かれる。そもそも、戦争とは言っても田村たちにとって深刻なのは、敵の攻撃以上に病気と物資不足、特に飢えなのだ。更に仲間同士での疑心暗鬼にかられ、敵以前に味方に殺されかねない。南国らしいヴィヴィッドな空や山の色合いと相まって、段々悪夢的な世界に突入していく。現代では、戦争は結局他人の悪夢としてしかイメージできないのかなとも思ったが、悪夢的だからこそ見る側個々の心に訴えてくるとも言える。そもそも、戦地での体験は、当人にとっても言語化できないようなものなのかもしれない。こういった、不条理で出口が見えない状況を戦争は往々にして作ってしまうということでもあると思う。

『NO』

 1988年、ピノチェト独裁政権下のチリ。国際的な批判も高まる中、ピノチェトの任期延長の是非を問う国民投票の実施が決まる。広告プロデューサーのレネ(ガエル・ガルシア・ベルナル)は任期延長反対派「NO」陣営のキャンペーンを依頼される。監督はパブロ・ラライン。
 時代感を出す為にざらっとした画質にしてあるので、作中に挿入される実際に当時放送されたというCMや、ニュース映像との違和感がない。あれっここ当時の映像だっけ?と混乱したところも。それくらい、当時の雰囲気を再現しているということだろう。
 レネはどちらかというとピノチェト任期延長には反対だけど、体制に楯突くほど主義主張がしっかりしているわけではない。政治的活動を続け、警察に捕まることもしばしばな妻とは対照的だ。そんな彼が、一貫して「広告屋」として勝負していく。「アメリカのCMかよ!」と非難されたりするけど、まずは見る側の関心を引けなければ負け、というところが徹底している。彼の上司はピノチェト派のYES陣営にいるので、投票キャンペーンでは敵同士、しかし社に戻って一般企業のCMを作る際には一緒に現場に行く、というなんとなく奇妙な関係も、正に「仕事」という感じで面白い。YES派がNO派の宣伝をパロディ化して乗っかっていくところなど、まさに広告合戦という感じ。世界を変えようとする戦いを描いていると同時に、オーソドックスなお仕事映画でもあるのだ。
 NO派は、楽しくてユーモアのあるものを、ということで音楽やカラフルな映像を多用して攻めていく。やっぱり音楽や映像のインパクトってバカにできないんだろうけど、悪用もできるってことだよなぁと少々複雑な気持ちにはなる。楽しさにごまかされることも結構あるだろうし、実際、ピノチェト側もレネと同じような手法の広告で反撃してくる。人間て、必ずしも正しさで動かされるわけではないんだよなという皮肉も感じた。
 それにしても、尾行・スパイが日常茶飯事で、ちょっと問題視されるとすぐに体制側がプレッシャーかけてくる(当然家族の所在も筒抜け)世界というのは恐ろしいな・・・。

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