3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『ノクターナル・アニマルズ』

 美術商として成功しているスーザン(エイミー・アダムス)の下に、前夫エドワード(ジェイク・ギレンホール)から小説の原稿が送られてきた。スーザンは原稿を読み進めるうち、小説の世界に引き込まれていく。原作はオースティン・ライトの小説。監督・脚本はトム・フォード。
 トム・フォード監督、前作『シングルマン』では非常に美しいが構成がやや弱いなという印象だったのだが、本作は構成力がめちゃめちゃ上がっている!更に、原作の枠組みをかなり忠実に再現している。原作に沿いつつ、スーザンとエドワードの属する階層差、またスーザンと母の各室という設定を新たに取り入れていることで、原作とは違った視座を得ている。原作の読み込みと再構成がかなりいい形で成功していると思う。ライトの原作小説は、これを読んで映像化しようという気にはあまりならない(小説がつまらないのではなく、文章でないと難しい表現の仕方なので)と思うのだが、よくやったなぁ。
 小説を読むときに、頭の中で映像化してみるという人は少なくないだろう。映像化はしないまでも、何らかのイメージを持って読むことは多いと思う。しかし、そのイメージは作者が想定したものとイコールではなく、あくまで読者の頭の中にある世界だ。本作でエドワードが書いた小説『ノクターナル・アニマルズ』は映像として(本作は映画だから当然だが)描かれる。ビジュアル上、主人公トニーはエドワードであり、エドワードの妻はスーザンだ。これはエドワードがそのように想定して書いたというわけではなく、スーザンはそうイメージして読んだということだ。エドワードが同じように想定していたとは限らない。
 本作、実の所エドワード本人は不在のようなもので、延々とスーザンの独り相撲が続く。エドワードの姿は現れるものの、スーザン思い浮かべる、彼女の記憶の中のエドワードにすぎない。映像で再現される小説の中身は、スーザンはこのように読んだということに他ならない。エドワードにとっては、トニー=スーザンだったかもしれないし、スーザンは全然関係なかったのかもしれない。本作は、スーザンの内面が延々と続くような話だと言ってもいいのではないか。小説を読むことは自分ではない別の誰かの視座を得るということにもなりうるが、その視座すら、主体である自分を一度通したものである。
 自分から離れられないという苦しみは、スーザンがずっと抱き続けているものなのではないか。彼女と母親とのやりとりにも顕著だ。これは原作にはなかった要素だが、スーザンは富裕層の生まれでエドワードはそうではない。スーザンは違う自分になれるかもと期待してエドワードと結婚した側面もあったのではないか。母親は、自分が育った階層から離れるのは難しいと彼女を諭す。結局その通りだったのだが、エドワードは彼女に勇気がない、自分を閉じ込めているんだとなじる。
 とは言え、自分を通してしか物事を見ることはできない、変われないという点では、エドワードも同じだ。結婚していた頃のエドワードは、スーザンが芸術の道を諦めたと知り、君には才能があるはずなのに何で諦めるんだとなじる。それは、エドワードがスーザンを芸術家として見たかったにすぎないとも言えるだろう。スーザンがエドワードの世界にいられなかったように、エドワードもスーザンの世界にいることはできなかったのだ。





『野火』

 第二次大戦末期のフィリピン戦線。日本軍の敗北は濃厚となり、兵士たちは負傷、病、栄養失調で次々と倒れていた。結核を患っている田村一等兵(塚本普也)は野戦病院へ送られるが、既に患者で飽和状態、物資も極端に不足している病院側は入院を拒否。田村は部隊に戻ることもできず、レイテ島をさまよう。原作は1959年にも市川崑監督により映画化された大岡昇平の同名小説。監督は塚本普也。
 塚本監督作品の中では久々に突き抜けた、かつ独りよがりではない作品だという印象を受けた。これは原作、そして戦争という題材の強さによるものなのか。予算が潤沢とは思えないし、手作り感の強い作品なのだが、チープではない。むしろ、視点が内面へ内面へと深く潜っていくような感じがする。
 歴史の中で第二次世界大戦の日本がどういう位置づけになるのか、といった俯瞰の視線は本作には希薄だ。あくまで田村個人の体験として描かれる。そもそも、戦争とは言っても田村たちにとって深刻なのは、敵の攻撃以上に病気と物資不足、特に飢えなのだ。更に仲間同士での疑心暗鬼にかられ、敵以前に味方に殺されかねない。南国らしいヴィヴィッドな空や山の色合いと相まって、段々悪夢的な世界に突入していく。現代では、戦争は結局他人の悪夢としてしかイメージできないのかなとも思ったが、悪夢的だからこそ見る側個々の心に訴えてくるとも言える。そもそも、戦地での体験は、当人にとっても言語化できないようなものなのかもしれない。こういった、不条理で出口が見えない状況を戦争は往々にして作ってしまうということでもあると思う。

『NO』

 1988年、ピノチェト独裁政権下のチリ。国際的な批判も高まる中、ピノチェトの任期延長の是非を問う国民投票の実施が決まる。広告プロデューサーのレネ(ガエル・ガルシア・ベルナル)は任期延長反対派「NO」陣営のキャンペーンを依頼される。監督はパブロ・ラライン。
 時代感を出す為にざらっとした画質にしてあるので、作中に挿入される実際に当時放送されたというCMや、ニュース映像との違和感がない。あれっここ当時の映像だっけ?と混乱したところも。それくらい、当時の雰囲気を再現しているということだろう。
 レネはどちらかというとピノチェト任期延長には反対だけど、体制に楯突くほど主義主張がしっかりしているわけではない。政治的活動を続け、警察に捕まることもしばしばな妻とは対照的だ。そんな彼が、一貫して「広告屋」として勝負していく。「アメリカのCMかよ!」と非難されたりするけど、まずは見る側の関心を引けなければ負け、というところが徹底している。彼の上司はピノチェト派のYES陣営にいるので、投票キャンペーンでは敵同士、しかし社に戻って一般企業のCMを作る際には一緒に現場に行く、というなんとなく奇妙な関係も、正に「仕事」という感じで面白い。YES派がNO派の宣伝をパロディ化して乗っかっていくところなど、まさに広告合戦という感じ。世界を変えようとする戦いを描いていると同時に、オーソドックスなお仕事映画でもあるのだ。
 NO派は、楽しくてユーモアのあるものを、ということで音楽やカラフルな映像を多用して攻めていく。やっぱり音楽や映像のインパクトってバカにできないんだろうけど、悪用もできるってことだよなぁと少々複雑な気持ちにはなる。楽しさにごまかされることも結構あるだろうし、実際、ピノチェト側もレネと同じような手法の広告で反撃してくる。人間て、必ずしも正しさで動かされるわけではないんだよなという皮肉も感じた。
 それにしても、尾行・スパイが日常茶飯事で、ちょっと問題視されるとすぐに体制側がプレッシャーかけてくる(当然家族の所在も筒抜け)世界というのは恐ろしいな・・・。

『ノア 約束の舟』

 世間から離れ、家族と共に細々と暮らしていたノア(ラッセル・クロウ)は、ある日神のお告げを受ける。世界を飲み込む大洪水が起きると確信した彼は、生命が途絶えぬよう、あらゆる種類の生物を乗せる箱舟を作り始める。しかし箱舟を奪おうとする勢力が現れる。監督はアーレン・アロノフスキー。聖書の非常に有名なエピソードを、独自に解釈し映像化した大作映画。
 物語は聖書の大分始めの方、世界がまだ新しかった頃の話だと思うのだが、本作で描かれる世界は荒れ果て、「北斗の拳」かよ!と突っ込みたくなるような荒み方だ。土地が荒れて食用の動植物がないとか、伐採しすぎて山が丸裸とか、神話の世界というよりも近未来SFみたいな世界。爬虫類とも哺乳類ともつかない変な動物とか出てくるしね・・・(洪水で滅んじゃった動物もいたんだよ!ってことなんでしょうが)。ノアたちの衣服もなんとなく人間社会崩壊系未来SFっぽかった。この状況で箱舟を作れるとしたらどんなふうなのか、何が必要か、という部分を意外と地道に推察しているところに妙な律義さを感じた。
 前半、ノアが啓示を受け箱舟をつくっていくまでの流れは、正直ちょっとかったるい。パノラマ絵巻のようなシーンは多々あるのだが、アロノフスキーはあまり広い空間を使った絵作りが得意ではないのか、全体的にのっぺりとしていて、スケールの大きな情景を描いているはずなのにあまりスケール感がない。ちょっと飽きたなーと思ってしまったが、舞台が箱舟内に絞られる残り3分の1くらいになると、俄然緊張感が増して面白くなってくる。アロノフスキーの本領はやはり追い詰められた人間、何かに取りつかれた人間の心理を描くことなのだろう。
 ノアは神の啓示を聞いた、と信じているが、その内容については、実はノア以外の人にはわからず、彼独自の解釈(おそらく言語としての啓示ではないので)になる。彼の解釈、そして解釈に基づき啓示に従う行動は、家族には受け入れがたいものだ。ノア自身も何度も自問自答し、精神的に追い詰められていく。強固な信仰は時に狂気と同じように見えるのだ。キリスト教文化圏の方、キリスト教徒の方が見たらどんな感想を持つのか気になった。
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