3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『人間の値打ち』

 不動産業者のディーノ(ファブリツィオ・ベンティボリオ)は、娘セレーナ(マティルデ・ジョリ)の恋人マッシミリアーノ(フリエルモ・ピネッリ)の父親で有名な投資家のジョバンニ・ベルナスキ(ファブリツイォ・ジフーニ)に近づき、彼のファンドへ投資させてほしいと頼み込む。ベルナスキ夫人のカルラ(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)は空疎な毎日を送っていたが、古くからある町の唯一の劇場が取り壊されそうだと知り、劇場再建の為の出資を夫に頼み、地元の劇作家や評論家らによる運営委員会を立ち上げる。セレーナは継母でカウンセラーのロベルタの職場で、ルカ(ジョヴァンニ・アンザルド)と知り合う。そしてクリスマスイヴ前夜、1人の男性がひき逃げにあう事件が起きた。監督・脚本はパオロ・ヴィルズィ。
 エンドロール前の字幕による解説が、題名の「値打ち」ってそのものずばりで、このことかーとげんなりさせる。やっぱり金か!ただ、お金で量られることそのものというよりも、その計量が、その人がどういう人なのかどういう人生なのかということとは関係なく、全くの第三者に表層的な部分でシステマティックに決められてしまうということが辛い。お金で量るというのは、そういうこと(あからさまにわかりやすくすること)なのだろうけど。
 ディーノの貪欲さ、「上流社会」への憧れみたいなものが実にいやらしいのだが、ちょっと不思議でもあった。自宅の様子や、セレーナを富裕層の子女が通っているらしい私立校に入れていることからすると、彼はそこそこいい暮らしをしていると言えるだろう。詐欺まがいの嘘までついて無理な借金をし投資するというのは、リスクが高すぎて現実的とは思えないが、そこまでしてお金がほしい、あるいはベルナスキが象徴するような富裕層の世界に入ってみたかったのか。自分ではベルナスキの仲間になったつもりでも、周囲はそうは見ないと思うが。いずれにせよ、いやちょっと現実見て!他にやることあるだろ!と突っ込みたくなる。
 ディーノと比べるとベルナスキがやたらとちゃんとした人に見えてしまうし、ちゃんとした人ではあるのだろう。しかし、妻や息子をアクセサリー扱いしていることが分かってくる。利己的という点ではディーノと同じなのかもしれない。また、夫にアクセサリー扱いされる日々に空疎さを抱えているカルラも、その空疎さを埋める為、手近にあった物・人を利用しただけに見えてくるのだ。人間の身勝手さ、貪欲さが前面に押し出されているので、ぱきっとして湿度は低い作風ながらも、ちょっとげんなりとする。
 唯一、誰かを守る為に動く(それも自分本位なやり方と言えなくはないものの)セレーナだけが、危なっかしくも頼もしかった。彼女に比べると、マッシミリアーノもルカも頭悪いわメンタル弱いわで、年齢相応とはわかっていても若干イライラした。セレーナの八方塞感を察知できる人がいないのだ。唯一、彼女の異変に気付き気遣えるのが、彼女とは血縁がなく、親子の内情も知らないはずのロベルタだというところが面白い。カウンセラーという職業柄もあるのかもしれないが、家庭内ではともすると大雑把に見えた彼女の側面が垣間見える。

『虹蛇と眠る女』

 オーストラリアの小さな町に越してきたキャサリン(ニコール・キッドマン)とマシュー(ジョセフ・ファインズ)一家。ティーンエイジャーの娘と小学生の息子は狭い田舎町に馴染めず、うんざりしている。ある夜、子供たちが姿を消した。砂漠に囲まれた土地で暑さに耐えられるのは2~3日。警官のレイ(ヒューゴ・ウィーヴィング)を筆頭に大規模な捜索が行われるが、子供たちは見つからず、夫婦に疑いの目が向けられていく。監督はキム・ファラント。
 出演者はビッグネームだが作品自体はこぢんまりとして地味。しかし不思議な雰囲気がある。オーストラリアの風土によるところも大きい。本作の舞台となるのは、オーストラリアの中でも内陸の荒野と岩山が連なる地帯。乾燥しており作中ではすさまじい砂嵐も起きる。(特に日本のような水の豊かな土地の住んでいると)人間を突き放すような「遠い」感じがする風土だ。とにかく日差しが強くて暑そうなのも印象に残る。こんな土地で迷子になったら、レイが危惧する通り、生きて帰れないだろう。一方で、こういう土地だったら人1人くらい神隠しにあっても不思議ではないという気もしてくる。
 もっとも本作、謎に対して明らかな解があるわけではない。焦点があてられているのは失踪事件ではなく、子供の失踪によって夫婦の関係、そしてキャサリンとマシューそれぞれがどんどん崩れていく様だ。実は長女は過去にある問題を起こし、その為一家は引っ越したのだ。以来、夫婦の間でも、娘との間でも溝があからさまになっていく。本作において謎であるのは、失踪事件ではなく、人の心の中、特にごく身近な人の心の中だろう。キャサリンもマシューも娘の日記を見てショックを受けるが、それは娘の別の一面を目の当たりにしたからだろう。また、キャサリンがマシューに対してセックスを求めるのは、彼女が彼に対して「わかる」と思える方法が、目下それしかないからではないか。2人の言葉はずっと噛み合わず、子供たちを心配する度合いもどこかずれている。
 また、キャサリンは町という共同体からも「わからない」もの扱いされている。彼女らが暮らす小さな町は、荒れているというわけではないが、何しろ周囲は砂漠みたいなものなので殺風景だし、都会からは遠く隔たれている。町の中でもお互いが顔見知りみたいなものなので、時には息が詰まりそうになるだろう。そんな中で、子供の失踪事件が起きる。キャサリンたちは元々よそ者で異質な存在だが、この事件をきっかけに更に異質なものとして見られていく。その視線に連動するように、キャサリンの言動は不安定さを増し、自ら共同体からはみ出ていくのだ。マシューへの態度とは対称的で、相手を自ら突き放してしまうようでもある。
 一つの事件をきっかけとして、家族同士、また家族と周囲とのかろうじてあったコミュニケーションのあり方が、がたがたに崩れ、再生の兆しは見えない。キャサリンはこの後この町に住み続けることが出来るのだろうかとふと考えてしまう。

『ニューヨーク・ジャンクヤード』

 特集上映「ハント・ザ・ワールド ハーバード大学感覚民族誌学ラボ傑作選」にて鑑賞。監督はヴェレナ・パラヴェル&J.P.ツニァデツキ。NYメッツの新しい球場「シティ・フィールド」の周囲には、ジャンクヤードと呼ばれる地域が広がっている。主に移民が営業している自動車のパーツ屋、廃品店、修理工場が軒を連ねているのだ。再開発が進み、やがて取り壊されるであろう町の姿を記録した作品。
 たまたま時間があったから見てみたのだが、なかなか面白かった。おそらく製作の意図は、文化人類学的な記録としてのフィールドワークであってドラマとして編集しているわけではないんだろうけど、あまりに映画的としか言いようのない瞬間があるのだ。小銭をせびって歩き回る老女の動きのリズミカルさと妙にフォトジェニックな面持ちは、映画として撮られるために来ましたってな感じだし、ヤンキー風カップルに起こった事件も、会話の中で事情がわかるだけだけど、これだけで一本の映画になりそうだ。あれっ、この人たち本当に愛し合ってたんだ、と意外に思ったくらい。
 地元の人たちの話の中では、この地域は再開発でつぶされる、人が徐々に立ち去ってゴーストタウンみたいだ、等という話も出てくる。しかし人々の暮らしはそれなりに続いている様子がうかがえるし、あんまり悲壮感もない。それはそれとして日々の生活をこなし、それなりに楽しんでいるというたくましさみたいなものが垣間見えた。

『二重生活』

 夫と共同で会社を経営し、幼い娘もいるルージエ。娘の同級生の母親・サンチーと喫茶店にいたところ、夫が若い女性とホテルに入るところを目撃する。監督はロウ・イエ。
 最初に中国会社のロゴが出るのも何か新鮮だった(ロウ・イエ監督作品は中国では上映許可が下りず、出資も海外からのことが多いので)。本作は無事中国でも公開されたそうで、こういう方向性、このくらいのラインなら許可が下りるんだなという物差し的な意味合いでも面白かった。
 冒頭、いきなり交通事故が起きる。被害者女性に何が起きたのかという謎と、「二重生活」の謎とがリンクしていき、ミステリ・サスペンス仕立てになっている。ロウ・イエ監督作品の中ではかなり娯楽性の高い作品ではないかと思う。冒頭からいったん過去に飛ぶ構成だが、因果関係がどんどんわかってくるので気持ちが先へと引っ張られる。「二重生活」の背景に一人っ子政策の顛末をはじめとした現代中国の問題が見え隠れするあたりは、監督らしい。
 ルーシエが夫の秘密に気付き、どんどん追求していく様には、鬼気迫るものがあった。元々頭が良くて行動力のある人らしく(だから会社の共同経営もやってたんだろう)、裏取りの為にやることがいちいち機転がきいている、かつ的確で唸った。やるならこのくらいやってくれないとな!と爽快でもある。ただ、そんな聡明な人でも、嫉妬や怒りに駆り立てられずにはいられず、冷静さを失っていく。そういうものだろうなとは思うけど、痛々しいしひやひやする(危なっかしいのではなく、攻撃力が高くなりすぎそうで)。
 一方、夫の別宅に行ったルージエは、そこが学生時代の自分たち(ルージエと夫)が同棲していた部屋にそっくりだと漏らす。一緒に成長してきたと思ったのに結局そこか!という脱力感もあるのだろう。また、夫は愛人に対して時に苛立ち暴力を振るうが、ルージエに暴力を振るうシーンはないし、彼女と争うシーンもない。妻を大切にしているというよりも、ルージエは夫と張合える程度の経済力や知識を持っているからだろう。彼は、自分が強く出られる、強く影響できる相手でないとリラックスできないのかもしれないと思わせるシーンだった。なんかこういうシチュエーション見るとがっかりするわ・・・

『ニューヨークの巴里夫』


40歳になったグザヴィエ(ロマン・デュリス)は妻・ウェンディ(ケリー・ライリー)と別居。ウェンディは2人の子供を連れて新しいパートナーのいるニューヨークへ引っ越してしまった。子供に会いたい一心で渡米したグザヴィエは、友人のイザベル(セシル・ドゥ・フランス)宅に居候し新居を探す。グザヴィエの人生を描く『スパニッシュ・アパートメント』(2001)、『ロシアン・ドールズ』(2005)に続くシリーズ3作目にして完結作。監督はセドリック・クラピッシュ。『ロアシアン~』は未見なのだが問題なく楽しめた。
『スパニッシュ~』ではまだ青年だったグザヴィエも、いまやおっさんである。とは言え、「四十にして惑わず」の域には程遠く、フラフラしっぱなし。私はグザヴィエとほぼ同年代なので耳が痛いというか目が痛いというか・・・。10代20代のころには、30や40は大層大人なんだろうと思っていたがとんでもない。全てがおぼつかないままだ。
ただ、私は文字通り若者が主人公な『スパニッシュ~』よりも本作の方が好きだ。グザヴィエは確かにフラフラしており一見ダメ男のようだが、実際は子供の為になりふり構わず渡米するし、現地で部屋も仕事も実際に調達してくる。
部屋も仕事も知人・友人のつてを辿ってのものだが、辿れるつてがあるというところにいわゆる人間力みたいなもの感じる(基本的に友人の頼みは断らないし、気がいいんだよな)し、『スパニッシュ~』の頃より柔軟性が高く、打たれ強くなっているような印象を受けた。意外と生活環境や仕事に対する不平不満を言わないのだ。彼を見ていると、年齢重ねて精神的に自由になるタイプの人も結構いるんじゃないかなと思える。変化をあんまり恐れていないのだ(見習いたい・・・)。40歳になってから何か初めてもいいじゃないか、と若干気が楽になってくる。
グザヴィエの部屋が、だんだん人の住んでいる部屋っぽくなっていく過程が、具体的に言及されるわけではない(子供と一緒に壁を塗りなおしているシーンくらい)が、楽しい。人が住んでいる、しかも子供のいる人が住んでいるということがちゃんとわかる見た目になってくるのだ。時間の経過の見せ方というと、セックスシーンの省略の仕方の思い切りの良さには笑ってしまった。これは清々しい。

『ニンフォマニアック Vol.1、Vol.2』

 ある冬の日、セリグマン(ステラン・スカルスガルド)は怪我をしひどく汚れた衣服で路上に倒れていた女性を助ける。その女性ジョー(シャルロット・ゲンズブール)は「自分は色情狂(ニンフォマニアック)だと告白し、自らの半生を語り始める。子供の頃から自分の性器の存在を意識してきたジョーは15歳の時にジェローム(シャイア・ラブーフ)相手に処女を捨て以来、奔放な性生活を送ってきた。ジェロームと再会した彼女はやがて彼と結婚するが、ある日性感を無くしてしまう。性感を取り戻す為、彼女は更に過激な世界へ足を踏み入れていく。監督はラース・フォン・トリアー。
 ジョーが性感を失うまでがVol.1、危険な世界に足を踏み入れていくVol.2の、2部に分けて公開された。2部合わせると4時間近い大作になる。私はフォン・トリアー作品のファンというわけではなく、映画としてはすごいかもしれないが気に食わん、という気持ちを『奇跡の海』以来一貫して抱いてきた。しかし『アンチ・クライスト』では、あれそんなに腹立たないかも・・・?と思い始め、『メランコリア』では長すぎてかったるいが面白くないわけではない、という気持ちに。そして本作だが、結構面白かったしトリアー作品の中では一番、見ていて嫌な気持ちにならなかった。主人公であるジョーの生き方が、いわゆる世間のスタンダードからは逸脱しているかもしれないが、一貫して彼女自身が「こうしよう」と思って行動しているものだからかもしれない。セックスに「溺れる」とか「堕ちた女」とかいう感じではないのだ。
 彼女は上司に(性生活が周囲で噂になり)カウンセリングを受けろと言われる。依存症克服の会(アメリカの小説や映画でよく出てくる、断酒会みたいなやつ。同じ問題を持つ人が集まって、それぞれ自分のことを皆の前で話す)に参加し、それなりにセックス絶ちを試みるが、彼女はある時、「私は色情狂、私は私が好き」と言い放つ。彼女のセックスは欠落を埋める為のものとは思えないので依存症はちょっと違うのだが、世間的にはセックス依存と同じように見られる。そこに対するNoであり、理解は求めない、好きなようにやるという意思表明だろう。彼女のセックスは、あくまで彼女主体なのだ。
 本作のセックス表現は公開前に煽られていたほどには過激ではない(むしろ笑ってしまうようなシチュエーションが多い)。また同時に、見ていて興奮するような類のものでもない。とは言っても本作に対して「セクシーではない」という批判は的外れだろう。そこを楽しませる為の映画ではないのだ。セクシャルな感覚はジョーのものであって、観客に向けられたものではないという姿勢が一貫しているように思った。
 本作、語り手である女性=ジョーと、聞き手である男性=セリグマンの対話劇という一面もある。ジョーの、聞き手によっては荒唐無稽である話に、博識なセリグマンが合いの手・ツッコミを入れる(しかしそのツッコミが同時にボケでもあるというおかしさ)ようにも見えるのだ。しかし、対話のように見えていただけに、最後の展開にはあっけにとられる。何を聞いていたんだ!今までの4時間オール伏線か!

『25』

 半グレ集団やヤクザから金を巻き上げて着服している、悪徳刑事の桜井(哀川翔)と日影(寺島進)。とうとう消えた押収金が警察署内で問題になり、250万円を明日までに提出しろと署長(大杉漣)から命令される。頭を抱える2人だが、巨額年金横領事件の容疑者・九十九(温水洋一)に遭遇。九十九は横領した金の残額25億円をまだ隠し持っていた。しかし九十九の金を巡って、半グレ集団もヤクザも動き始めていた。監督は鹿島勤。東映Vシネ25周年記念作品。
 うーん、このお話だったらもうちょっとタイトにまとめてほしいというのが正直なところ・・・。銃撃戦とかアクションとかにそんなにバリエーションがあるわけでもないので(「お立ち台」で哀川が登場するのには笑っちゃったけど)、全体的にかったるい。色々盛り過ぎてとっちらかっている。そんなに複雑な話じゃないんだけど(笑)。まあ、その雑さというか大雑把さがVシネらしいということなのかな。
 哀川主演作品だが、その哀川が映画から浮いて見える。哀川はVシネのスターだが、最近はバラエティ番組への出演も多くて、むしろ数々の面白エピソードの方が私の記憶に残ってしまっているせいかもしれない。ドラマ作品であれば、アクセントとして出るのはいいのだが、主演として見続けるのはちょっと辛い・・・。せりふ回しとかももたっとしていて気になっちゃう。相棒役の寺島が、力の7割くらいなんじゃないの?というあんまりキレのない演技だったのも痛かった。
 対してヤクザ役の俳優たちはスクリーン映えする。映画の世界観にしっくりなじんでいた。俳優の素のキャラが見えない方が、作中キャラクターとして見やすいというのはあるよなぁ。物語上のエピソードとしても、ヤクザ側の方が何か見られる(というか刑事側がユルすぎる)ってところもあるのだが。

『人間狩り』

ラピュタ阿佐ヶ谷の特集上映「ミステリ劇場へようこそ」にて鑑賞。1962年、松尾昭央監督作品。原作・脚本は星川清司。刑事の小田切(長門裕之)は敏腕で総監賞を何度ももらっているが、正義感が強すぎ非情な為、署内では浮いていた。ある日、町の顔役で食わせ者の田口が、15年前の強盗致死事件の口を割るが、殺人の実行犯は自分ではなく房井(大坂志郎)なる男で、居所は知らない、もう時効だとうそぶく。時効まで37時間あると気づいた小田切は、執念の捜査を開始する。
 いやー面白かった!特集上映のフライヤーでは傑作刑事ドラマの名作とうたっていたが、誇大広告というわけではなかった(笑)。捜査もののひとつの面白さである、出てきた証言・証拠を追って更にあっちに行ったりこっちに行ったりという「移動」がたくさんある、そしてその「移動」が列車によるものであるところが、個人的には魅力だった。小田切は証言を取るためにわざわざ熱海まで行く(時効まで1日半くらいしか時間がないのに!)んだが、当時ののんびりとした列車の旅では、ずいぶんやきもきしたんじゃないだろうか。列車と駅が結構出てくる作品だ。
 また、刑事ドラマの定番とも言えるが、正義とは何か、赦しとは何かというテーマで真っ向勝負している。直球すぎて、この手のドラマの種々のバリエーションが出てきた現代では、若干単純化しすぎなきらいはあるのだが、だからこそ今見ても古びないのかなと思う。小田切は正義感故に時に暴力的にもなり、他人の過ちを許さない。彼の行為は警官として「正しい」のだが、その正しさは独りよがりなものではないのか、警官としての(法律上の)正しさと人を思いやる上での正しさは必ずしも一致しないのでは、というジレンマは刑事ドラマの定番だろう。
 小田切の恋人で元はある事件の犯人の愛人だった志満(渡辺美佐子)は、小田切が口には出さないが自分をどこかで許していないと感じ別れを切り出す。 また、小田切の捜査がある一家を崩壊させそうだと知った同僚の桂木(梅野泰靖)は、小田切を諭す。小田切が刑事の正義を取るか、人としての正しさを取るか、最後まで目が離せない。

『肉体の悪魔』

 高校生のアンドレア(フェデリコ・ピッツァリス)は、婚約者が受刑中のジュリア(マルーシュカ・デートメルス)と出会い恋に落ちる。しかしジュリアの婚約者の母親は2人の関係に気づき、アンドレアの父親に抗議する。アンドレアの父親は精神科医で、ジュリアの担当医でもあった。アンドレアは父親にいさめられるが。原作はレイモン・ラディゲの小説。18世紀の話を現代に置き換え、マルコ・ベロッキオ監督が映画化した。マルコ・ベロッキオ特集上映にて鑑賞。
 初恋の相手がヤンデレ美女(パートナーは刑務所内)って、高校生にはちょっとハードルが高すぎる・・・。アンドレアの父親ではないが、相手は選べよ!と突っ込みたくなる。しかしそんなこといちいち考えられないのが恋愛だろう。どちらかが冷静ならともかく、男女双方が自制が効かないので、案の定、2人の関係は泥沼化していく。人間の、感情や欲望の歯止めがきかない面が強烈に現れた作品。
 アンドレアにしろジュリアにしろ、行動が極端なのでちょっとギャグみたいな部分も。さらに、ジュリアの姑が彼女の浮気に気付き、間男がいないかベッドの下をある方法でチェックするのには笑ってしまった。動きのキレがよすぎる!
 ジュリアを演じるマルーシュカ・デートメルスのプロポーションが、ちょうどいい感じで素晴らしく、これは確かに恋してしまうかも、と思わせる。製作された時代の影響かもしれないが、少女が無理に大人っぽくしているようなメイクがやや浮いているのだが、そこが逆に色っぽいかもしれない。

『ニード・フォー・スピード』

 凄腕の整備しでドライバーとしても天才的なトビー(アーロン・ポール)は、ライバルのディーノ(ドミニク・クーパー)とのレースに挑むが、レース中に弟分が巻き込まれて死亡。ディーノは証拠隠滅をはかり、トビーは罪を着せられ刑務所に入れられてしまった。ようやく出所したトビーは、ディーノに復讐するためにストリートレースに出場しようとカリフォルニアを目指す。監督はスコット・ワウ。
 ゲーム原作で大味なのかなと思っていたら、主人公の動機づけや伏線の敷き方など、予想外にきちんとしている。トビーがどういう行動原理・価値観の人なのか、という部分が首尾一貫している。ストーリー展開的にも、撒いた種はきちんと回収、という律義さを感じた。ただ、きちんとやろうとしすぎていてちょっと窮屈というか、機能的すぎるなという気はした。原案に参加しているジョージ・ゲイティンズは『フライト』や『リアル・スティール』など手堅い脚本を手掛けている人なので、その傾向が出ているのだろうか。なお脚本のジョン・ゲイティンズはジョージの弟。兄の指導がやはり入っているのだろうか(笑)。
 トビーは車とレースをこよなく愛しているが、それよりも大事なものがあるということをわかっており、そこは無視しようとしてもできない。あれだけむちゃくちゃやってもそこは見逃せないのか、という部分が面白くもあり、ほっとするところでもある。レース内容がやりたい放題なわりには教育的だなーという感じも。
 ところでアメリカでは、本作のようなレース映画は一定の需要があるのだろうか。本作は高級車(スポーツカー)でかっとばすのだが、そういう志向って一時期ほどなくなっている気がするんだけど・・・。

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