3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『苦い銭』

 雲南省からバスと列車を乗り継ぎ、淅江省湖州へと向かう少年少女。湖州には多くの縫製工場があり、出稼ぎ労働者が80%を占めると言われる。この街にやってきて働く様々な人たちを見つめるドキュメンタリー。監督はワン・ビン。
 ヴェネチア国際映画祭でまさかの脚本賞を受賞した作品だが、なるほど出来すぎなくらい構成にドラマ感がある。ドキュメンタリーにも脚本(いわゆるドラマの脚本というよりも組み立て図みたいなものだろうが)はあるのだろうが、こういうエピソードを引き寄せる、またエピソードが出てくるまで粘れるのが監督の力なのかな。撮影期間は1~2年間だそうだが、出稼ぎに来た当時はいかにも田舎から出てきた風の不安げ15歳の少女だったシャオミンが、徐々に「こなれて」くる感じや、一緒に出てきた少年が過重労働に耐えられず故郷に帰っていく様は、それだけで一つのドラマのよう。
 また、DV気味の夫と妻の関係が、最初は一触即発みたいな感じだったのだが、後に再登場した時には何となく改善された雰囲気になっている所がとても面白かった。映し出されていない間に何があったんだ!自営の店を辞めて衣料品の搬出の仕事を夫婦でするようになったみたいなのだが、一緒に働くという状態が良かったのかなぁ。妻にケチだケチだと言われていた夫が、後々(不満を言いつつ)親戚に仕送りしているらしいのには笑ってしまった。
 画面に映し出されるどの人にも、それぞれの仕事があって生活があるんだという濃厚な空気が漂っている。とは言え、文字通り「起きて仕事して食事して寝る」生活なので、働くことがあまり好きでない私は見ていて辛くなってしまった。彼らは安い労働力として扱われており低賃金なので、仕事の量をこなさないと生活できない。自分は量をこなせないから・・・と自虐気味の男性の姿にはいたたまれなかった。安価な商品てこういう労働に支えられているんだよなと目の当たりにした気分になる。とは言え、ここでの仕事がだめだったら他へ移るまで、というひょうひょうとした雰囲気も漂っており、予想ほどの閉塞感はない。これもまた一つの人生、という諦念が感じられるからか。

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2014-03-22


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『ニュートン・ナイト 自由の旗をかかげた男』

 南軍の兵士として南北戦争に従事していたニュートン・ナイト(マシュー・マコノヒー)は、戦死した甥の遺体を故郷であるミシシッピ州ジョーンズ郡に届けようと脱走。やがて農民から食料をむりやり徴収する軍と衝突し、追われる身となる。湿地帯に身を隠して黒人の逃亡奴隷たちと共に闘うようになった彼は、白人と黒人が共存する反乱軍を結成し、軍と対立していく。監督・脚本はゲイリー・ロス。
 実話を元にした話だそうだが、ナイトの存在は近年まであまり知られていなかったそうだ。当時としてはかなり型破りな人だったんだろうけど。(本作中の)ナイトは白人だろうが黒人だろうが個人は個人だという考え方で、黒人に対しても(他の白人と比べると)自分と同じ人間として接する。一方で彼が軍に反旗を翻す理由は、奴隷制度に反対しているからではなく、軍が自分達の作物や家畜を根こそぎ奪うから、搾取するからだ。白人だろうが黒人だろうが自分が育て収穫したものはその人のもので、それを奪うのは不当だから闘う、というのが彼の方針だ。これはとてもアメリカ的な考え方ではないかと思う。自分達の生活と権利を守るのが一番大事という考え方はともすると、「それ以外」を阻害する排他的なものになりかねないが、ナイトは意外と来るもの拒まずだし自分の妻子そっちのけで地元の農家を救いに奔走したりするので、そのあたりも稀有な人ではある。
 とは言え、彼の理想は当時の世間にはまだ早すぎた。南北戦争が終わっても、名称や形が変わっただけで黒人が差別されることに変わりはなく、ナイトの勢いも衰えていく。史実ベースとは言え、もの悲しい。更にきついのは、ナイトの時代から約90年後のある裁判の顛末だ。これだけ時間がたってもこんなもんか!と唖然とした。どんなに傑出した人でも1人で歴史を変えられるわけではない(ナイトの場合は傑出したというか、タイミング的に活躍できた時期があったという方がいいのかも)のだ。
 なお、冒頭の戦場の描写はかなり生々しく迫力がある。当時の兵士って、半分くらいは死ぬことを前提として配置されていたんだろうなと実感させられる。とにかく大量の死人が出た戦争だったんだなとビジュアル的に納得するし、各地の農家で男手が足りなくなり食い詰めるというのも説得力が増す。
 歴史ものとしても面白い作品だったが、後年のある裁判の挿入の仕方が唐突で、流れが悪くなる。この裁判が作品にとって大きな意味を持つというのはわかるのだが、構成に難がある。

『ニーゼと光のアトリエ』

 1944年のブラジル。精神科医のニーゼ(グロリア・ピレス)は精神病院に赴任するが、電気ショックやロボトミー手術等暴力的な治療に反感を示し、ナースが運営する作業療法部門に配属される。ニーゼは絵具や粘土を癇じゃに与えて彼らの表現を引き出そうとする。実在の医師のエピソードをドラマ化した作品。監督・脚本はホベルト・ベリネール。
 ニーゼが赴任した精神病院の様子からは、当時、精神病患者は独立した個人として扱われていなかったことが見て取れる。患者というよりも収容者といった扱いで、治療の概念も現代のものとはだいぶ違う。何しろロボトミー手術が普及し始め持てはやされていた時代だ。病院側の言う治療とは、患者が言うことを聞くようになる、扱いやすくなるということで、そこに患者本人が幸福かどうか、その人らしくいられるかどうかという発想はない。 ニーゼが目指す治療とは正にその部分で、患者(ニーゼはクライアントと呼ぶ)にとってどういう形でいることが幸せなのか、内面の調和を得られるのかを配慮している。しかしそういった考え方も、作業療法や現代で言うところのアニマルセラピーも、当時は型破りもいい所だったはずだ。当然、他の医師たちは強く反発し彼女への協力を拒む。また患者の家族も、精神疾患についての理解は乏しい。ある家族が病状の好転に対して、(患者は)もう良くなった・完治したんだろうと言うが、ニーゼの表情は微妙だ。こういった症状に完治というものはなく、いい状態をキープしていくというのが実際の所だと思うのだが、そういった理解は家族にはない。そして家族の言う「治った」とは本人がどうこうというより、家族にとって負担が少なく、理解しやすい状態になったということなのだ。
 本作の最後に、実在のニーゼ医師へのインタビュー映像が挿入される。その言動からも、彼女が様々なものと闘ってきた人だということがわかってくる。作中でもニーゼは戦い続けるが、実を結ぶとは限らない。特に時代との戦いはきつかったのではないかと思う。彼女の治療方法も女性医師であることも現代では珍しくないが、当時は時代を先取りしすぎたものだったのだろう。
 ニーゼは患者らに親身になって接し、創作意欲を引出していくが、彼女の立ち位置はあくまで治療者であり医であり、その線引きは明確にされている。全て「医療」としてやっていることなのだ。患者に深入りしすぎる若いスタッフを叱責するのも、患者の作品の展示方法について「日付順でないと意味がない」と指摘するのもそれ故だろう。医師は医師でしかなく、患者の家族にもパートナーにもなれないのだ。彼女の支援者が医療ではなく芸術分野から出てきたのは皮肉でもある。彼女にとっては、アートが主目的ではなかったのだろうから。

『人間の値打ち』

 不動産業者のディーノ(ファブリツィオ・ベンティボリオ)は、娘セレーナ(マティルデ・ジョリ)の恋人マッシミリアーノ(フリエルモ・ピネッリ)の父親で有名な投資家のジョバンニ・ベルナスキ(ファブリツイォ・ジフーニ)に近づき、彼のファンドへ投資させてほしいと頼み込む。ベルナスキ夫人のカルラ(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)は空疎な毎日を送っていたが、古くからある町の唯一の劇場が取り壊されそうだと知り、劇場再建の為の出資を夫に頼み、地元の劇作家や評論家らによる運営委員会を立ち上げる。セレーナは継母でカウンセラーのロベルタの職場で、ルカ(ジョヴァンニ・アンザルド)と知り合う。そしてクリスマスイヴ前夜、1人の男性がひき逃げにあう事件が起きた。監督・脚本はパオロ・ヴィルズィ。
 エンドロール前の字幕による解説が、題名の「値打ち」ってそのものずばりで、このことかーとげんなりさせる。やっぱり金か!ただ、お金で量られることそのものというよりも、その計量が、その人がどういう人なのかどういう人生なのかということとは関係なく、全くの第三者に表層的な部分でシステマティックに決められてしまうということが辛い。お金で量るというのは、そういうこと(あからさまにわかりやすくすること)なのだろうけど。
 ディーノの貪欲さ、「上流社会」への憧れみたいなものが実にいやらしいのだが、ちょっと不思議でもあった。自宅の様子や、セレーナを富裕層の子女が通っているらしい私立校に入れていることからすると、彼はそこそこいい暮らしをしていると言えるだろう。詐欺まがいの嘘までついて無理な借金をし投資するというのは、リスクが高すぎて現実的とは思えないが、そこまでしてお金がほしい、あるいはベルナスキが象徴するような富裕層の世界に入ってみたかったのか。自分ではベルナスキの仲間になったつもりでも、周囲はそうは見ないと思うが。いずれにせよ、いやちょっと現実見て!他にやることあるだろ!と突っ込みたくなる。
 ディーノと比べるとベルナスキがやたらとちゃんとした人に見えてしまうし、ちゃんとした人ではあるのだろう。しかし、妻や息子をアクセサリー扱いしていることが分かってくる。利己的という点ではディーノと同じなのかもしれない。また、夫にアクセサリー扱いされる日々に空疎さを抱えているカルラも、その空疎さを埋める為、手近にあった物・人を利用しただけに見えてくるのだ。人間の身勝手さ、貪欲さが前面に押し出されているので、ぱきっとして湿度は低い作風ながらも、ちょっとげんなりとする。
 唯一、誰かを守る為に動く(それも自分本位なやり方と言えなくはないものの)セレーナだけが、危なっかしくも頼もしかった。彼女に比べると、マッシミリアーノもルカも頭悪いわメンタル弱いわで、年齢相応とはわかっていても若干イライラした。セレーナの八方塞感を察知できる人がいないのだ。唯一、彼女の異変に気付き気遣えるのが、彼女とは血縁がなく、親子の内情も知らないはずのロベルタだというところが面白い。カウンセラーという職業柄もあるのかもしれないが、家庭内ではともすると大雑把に見えた彼女の側面が垣間見える。

『虹蛇と眠る女』

 オーストラリアの小さな町に越してきたキャサリン(ニコール・キッドマン)とマシュー(ジョセフ・ファインズ)一家。ティーンエイジャーの娘と小学生の息子は狭い田舎町に馴染めず、うんざりしている。ある夜、子供たちが姿を消した。砂漠に囲まれた土地で暑さに耐えられるのは2~3日。警官のレイ(ヒューゴ・ウィーヴィング)を筆頭に大規模な捜索が行われるが、子供たちは見つからず、夫婦に疑いの目が向けられていく。監督はキム・ファラント。
 出演者はビッグネームだが作品自体はこぢんまりとして地味。しかし不思議な雰囲気がある。オーストラリアの風土によるところも大きい。本作の舞台となるのは、オーストラリアの中でも内陸の荒野と岩山が連なる地帯。乾燥しており作中ではすさまじい砂嵐も起きる。(特に日本のような水の豊かな土地の住んでいると)人間を突き放すような「遠い」感じがする風土だ。とにかく日差しが強くて暑そうなのも印象に残る。こんな土地で迷子になったら、レイが危惧する通り、生きて帰れないだろう。一方で、こういう土地だったら人1人くらい神隠しにあっても不思議ではないという気もしてくる。
 もっとも本作、謎に対して明らかな解があるわけではない。焦点があてられているのは失踪事件ではなく、子供の失踪によって夫婦の関係、そしてキャサリンとマシューそれぞれがどんどん崩れていく様だ。実は長女は過去にある問題を起こし、その為一家は引っ越したのだ。以来、夫婦の間でも、娘との間でも溝があからさまになっていく。本作において謎であるのは、失踪事件ではなく、人の心の中、特にごく身近な人の心の中だろう。キャサリンもマシューも娘の日記を見てショックを受けるが、それは娘の別の一面を目の当たりにしたからだろう。また、キャサリンがマシューに対してセックスを求めるのは、彼女が彼に対して「わかる」と思える方法が、目下それしかないからではないか。2人の言葉はずっと噛み合わず、子供たちを心配する度合いもどこかずれている。
 また、キャサリンは町という共同体からも「わからない」もの扱いされている。彼女らが暮らす小さな町は、荒れているというわけではないが、何しろ周囲は砂漠みたいなものなので殺風景だし、都会からは遠く隔たれている。町の中でもお互いが顔見知りみたいなものなので、時には息が詰まりそうになるだろう。そんな中で、子供の失踪事件が起きる。キャサリンたちは元々よそ者で異質な存在だが、この事件をきっかけに更に異質なものとして見られていく。その視線に連動するように、キャサリンの言動は不安定さを増し、自ら共同体からはみ出ていくのだ。マシューへの態度とは対称的で、相手を自ら突き放してしまうようでもある。
 一つの事件をきっかけとして、家族同士、また家族と周囲とのかろうじてあったコミュニケーションのあり方が、がたがたに崩れ、再生の兆しは見えない。キャサリンはこの後この町に住み続けることが出来るのだろうかとふと考えてしまう。

『ニューヨーク・ジャンクヤード』

 特集上映「ハント・ザ・ワールド ハーバード大学感覚民族誌学ラボ傑作選」にて鑑賞。監督はヴェレナ・パラヴェル&J.P.ツニァデツキ。NYメッツの新しい球場「シティ・フィールド」の周囲には、ジャンクヤードと呼ばれる地域が広がっている。主に移民が営業している自動車のパーツ屋、廃品店、修理工場が軒を連ねているのだ。再開発が進み、やがて取り壊されるであろう町の姿を記録した作品。
 たまたま時間があったから見てみたのだが、なかなか面白かった。おそらく製作の意図は、文化人類学的な記録としてのフィールドワークであってドラマとして編集しているわけではないんだろうけど、あまりに映画的としか言いようのない瞬間があるのだ。小銭をせびって歩き回る老女の動きのリズミカルさと妙にフォトジェニックな面持ちは、映画として撮られるために来ましたってな感じだし、ヤンキー風カップルに起こった事件も、会話の中で事情がわかるだけだけど、これだけで一本の映画になりそうだ。あれっ、この人たち本当に愛し合ってたんだ、と意外に思ったくらい。
 地元の人たちの話の中では、この地域は再開発でつぶされる、人が徐々に立ち去ってゴーストタウンみたいだ、等という話も出てくる。しかし人々の暮らしはそれなりに続いている様子がうかがえるし、あんまり悲壮感もない。それはそれとして日々の生活をこなし、それなりに楽しんでいるというたくましさみたいなものが垣間見えた。

『二重生活』

 夫と共同で会社を経営し、幼い娘もいるルージエ。娘の同級生の母親・サンチーと喫茶店にいたところ、夫が若い女性とホテルに入るところを目撃する。監督はロウ・イエ。
 最初に中国会社のロゴが出るのも何か新鮮だった(ロウ・イエ監督作品は中国では上映許可が下りず、出資も海外からのことが多いので)。本作は無事中国でも公開されたそうで、こういう方向性、このくらいのラインなら許可が下りるんだなという物差し的な意味合いでも面白かった。
 冒頭、いきなり交通事故が起きる。被害者女性に何が起きたのかという謎と、「二重生活」の謎とがリンクしていき、ミステリ・サスペンス仕立てになっている。ロウ・イエ監督作品の中ではかなり娯楽性の高い作品ではないかと思う。冒頭からいったん過去に飛ぶ構成だが、因果関係がどんどんわかってくるので気持ちが先へと引っ張られる。「二重生活」の背景に一人っ子政策の顛末をはじめとした現代中国の問題が見え隠れするあたりは、監督らしい。
 ルーシエが夫の秘密に気付き、どんどん追求していく様には、鬼気迫るものがあった。元々頭が良くて行動力のある人らしく(だから会社の共同経営もやってたんだろう)、裏取りの為にやることがいちいち機転がきいている、かつ的確で唸った。やるならこのくらいやってくれないとな!と爽快でもある。ただ、そんな聡明な人でも、嫉妬や怒りに駆り立てられずにはいられず、冷静さを失っていく。そういうものだろうなとは思うけど、痛々しいしひやひやする(危なっかしいのではなく、攻撃力が高くなりすぎそうで)。
 一方、夫の別宅に行ったルージエは、そこが学生時代の自分たち(ルージエと夫)が同棲していた部屋にそっくりだと漏らす。一緒に成長してきたと思ったのに結局そこか!という脱力感もあるのだろう。また、夫は愛人に対して時に苛立ち暴力を振るうが、ルージエに暴力を振るうシーンはないし、彼女と争うシーンもない。妻を大切にしているというよりも、ルージエは夫と張合える程度の経済力や知識を持っているからだろう。彼は、自分が強く出られる、強く影響できる相手でないとリラックスできないのかもしれないと思わせるシーンだった。なんかこういうシチュエーション見るとがっかりするわ・・・

『ニューヨークの巴里夫』


40歳になったグザヴィエ(ロマン・デュリス)は妻・ウェンディ(ケリー・ライリー)と別居。ウェンディは2人の子供を連れて新しいパートナーのいるニューヨークへ引っ越してしまった。子供に会いたい一心で渡米したグザヴィエは、友人のイザベル(セシル・ドゥ・フランス)宅に居候し新居を探す。グザヴィエの人生を描く『スパニッシュ・アパートメント』(2001)、『ロシアン・ドールズ』(2005)に続くシリーズ3作目にして完結作。監督はセドリック・クラピッシュ。『ロアシアン~』は未見なのだが問題なく楽しめた。
『スパニッシュ~』ではまだ青年だったグザヴィエも、いまやおっさんである。とは言え、「四十にして惑わず」の域には程遠く、フラフラしっぱなし。私はグザヴィエとほぼ同年代なので耳が痛いというか目が痛いというか・・・。10代20代のころには、30や40は大層大人なんだろうと思っていたがとんでもない。全てがおぼつかないままだ。
ただ、私は文字通り若者が主人公な『スパニッシュ~』よりも本作の方が好きだ。グザヴィエは確かにフラフラしており一見ダメ男のようだが、実際は子供の為になりふり構わず渡米するし、現地で部屋も仕事も実際に調達してくる。
部屋も仕事も知人・友人のつてを辿ってのものだが、辿れるつてがあるというところにいわゆる人間力みたいなもの感じる(基本的に友人の頼みは断らないし、気がいいんだよな)し、『スパニッシュ~』の頃より柔軟性が高く、打たれ強くなっているような印象を受けた。意外と生活環境や仕事に対する不平不満を言わないのだ。彼を見ていると、年齢重ねて精神的に自由になるタイプの人も結構いるんじゃないかなと思える。変化をあんまり恐れていないのだ(見習いたい・・・)。40歳になってから何か初めてもいいじゃないか、と若干気が楽になってくる。
グザヴィエの部屋が、だんだん人の住んでいる部屋っぽくなっていく過程が、具体的に言及されるわけではない(子供と一緒に壁を塗りなおしているシーンくらい)が、楽しい。人が住んでいる、しかも子供のいる人が住んでいるということがちゃんとわかる見た目になってくるのだ。時間の経過の見せ方というと、セックスシーンの省略の仕方の思い切りの良さには笑ってしまった。これは清々しい。

『ニンフォマニアック Vol.1、Vol.2』

 ある冬の日、セリグマン(ステラン・スカルスガルド)は怪我をしひどく汚れた衣服で路上に倒れていた女性を助ける。その女性ジョー(シャルロット・ゲンズブール)は「自分は色情狂(ニンフォマニアック)だと告白し、自らの半生を語り始める。子供の頃から自分の性器の存在を意識してきたジョーは15歳の時にジェローム(シャイア・ラブーフ)相手に処女を捨て以来、奔放な性生活を送ってきた。ジェロームと再会した彼女はやがて彼と結婚するが、ある日性感を無くしてしまう。性感を取り戻す為、彼女は更に過激な世界へ足を踏み入れていく。監督はラース・フォン・トリアー。
 ジョーが性感を失うまでがVol.1、危険な世界に足を踏み入れていくVol.2の、2部に分けて公開された。2部合わせると4時間近い大作になる。私はフォン・トリアー作品のファンというわけではなく、映画としてはすごいかもしれないが気に食わん、という気持ちを『奇跡の海』以来一貫して抱いてきた。しかし『アンチ・クライスト』では、あれそんなに腹立たないかも・・・?と思い始め、『メランコリア』では長すぎてかったるいが面白くないわけではない、という気持ちに。そして本作だが、結構面白かったしトリアー作品の中では一番、見ていて嫌な気持ちにならなかった。主人公であるジョーの生き方が、いわゆる世間のスタンダードからは逸脱しているかもしれないが、一貫して彼女自身が「こうしよう」と思って行動しているものだからかもしれない。セックスに「溺れる」とか「堕ちた女」とかいう感じではないのだ。
 彼女は上司に(性生活が周囲で噂になり)カウンセリングを受けろと言われる。依存症克服の会(アメリカの小説や映画でよく出てくる、断酒会みたいなやつ。同じ問題を持つ人が集まって、それぞれ自分のことを皆の前で話す)に参加し、それなりにセックス絶ちを試みるが、彼女はある時、「私は色情狂、私は私が好き」と言い放つ。彼女のセックスは欠落を埋める為のものとは思えないので依存症はちょっと違うのだが、世間的にはセックス依存と同じように見られる。そこに対するNoであり、理解は求めない、好きなようにやるという意思表明だろう。彼女のセックスは、あくまで彼女主体なのだ。
 本作のセックス表現は公開前に煽られていたほどには過激ではない(むしろ笑ってしまうようなシチュエーションが多い)。また同時に、見ていて興奮するような類のものでもない。とは言っても本作に対して「セクシーではない」という批判は的外れだろう。そこを楽しませる為の映画ではないのだ。セクシャルな感覚はジョーのものであって、観客に向けられたものではないという姿勢が一貫しているように思った。
 本作、語り手である女性=ジョーと、聞き手である男性=セリグマンの対話劇という一面もある。ジョーの、聞き手によっては荒唐無稽である話に、博識なセリグマンが合いの手・ツッコミを入れる(しかしそのツッコミが同時にボケでもあるというおかしさ)ようにも見えるのだ。しかし、対話のように見えていただけに、最後の展開にはあっけにとられる。何を聞いていたんだ!今までの4時間オール伏線か!
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