3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。

『ニューヨーク・オールド・アパートメント』

 ティト(マルチェロ・デュラン)とポール(アドリアーノ・デュラン)兄弟はレストランのデリバリーで働きながら語学学校へ通っている。母ラファエラ(マガリ・ソリエル)はダイナーのウェイトレスをしている。彼らは祖国ペルーからアメリカへ渡り、ニューヨークで不法移民として暮らしているのだ。ティトとポールは語学のクラスに入ってきたクリスティン(タラ・サラー)に一目ぼれするが。監督はマーク・ウィルキンス。
 エピソード同士の繋がりが奇妙だと思ったら、過去のエピソードと現在のエピソードが入り混じっているのだと段々わかってくる。そういう構造の映画だという気配がしないまま時間軸がスライドするので少々戸惑った。
 ティトとポールは、自分たちは透明人間だと言う。それがどういうことなのか、冒頭の事故のエピソードを筆頭に随所で実演されるのだが、これが結構しんどかった。つまりいてもいなくてもいい、尊重しなくてもいい存在として扱われ続けるということなのだ。移民である、女性である、シングルマザーである等々、ある属性によって粗雑に扱っていい存在にされてしまう。ラファエラのボーイフレンドが段々増長し上から目線になるのも、クリスティンと恋人との顛末もそういうことだ。特にラファエラのボーイフレンドの態度はなかなかの気持ち悪さだった。相手を大雑把な属性でくくって、その属性故に尊重しているような振る舞いをするが、実のところ自分にとって扱いやすい相手と見下している。
 このボーイフレンド以外にも、人をざっくりと括る人がちょいちょい登場する。語学学校の教師など、様々な言語・文化的背景の人と日々接しているはずなのに、相手の多様さに全く興味を示していないし無神経。授業の中での質問の投げかけ等雑すぎて怖い。相手に対する解析度があまりに低いのだ。あえて低くして面倒な思考を排しているようにも見えた。すごく失礼なのだが、これは意外と人が陥りがちな思考の省略化な気もする。
 ティトとポールが言う透明人間状態は、移民としてだけではなく、家庭内でも生じる。ラファエラがボーイフレンドを連れてきている時は彼らはいないものとしてスルーされがちだ。ラファエラは息子たちを愛しているが、物理的にスペースがない状態ではお互いを透明人間化せざるを得ない時もある。お互いに尊重し合うには物理的なスペースや豊かさがないと難しいのかもしれない。

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2023-10-27


『苦い涙』

 恋人と別れたショックで荒れている映画監督ピーター・フォン・カント(ドゥニ・メノーシュ)。彼の元妻であり親友である女優シドニー(イザベル・アジャーニ)が青年アミール(ハリル・ガルビア)を連れて訪ねてくる。アミールに一目ぼれしたピーターは、彼を自宅で同居させ、映画俳優として売り出そうと世話を焼く。ライナー・ベルナー・ファスビンダー監督が1972年に手がけた「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」のリメイク作品。監督はフランソワ・オゾン。
 元作品「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」は未見なのだが、元は女性同士の話だったところ、男性主人公に変更されている。主人公カントの職業は映画監督だし、ルックスもかなりファスビンダーに寄せているという印象。ピーターは初対面のアミールに強烈に引き付けられ口説くが、壮年で知名度のある映画監督という立場で無名のアミールにアプローチする姿は、ちょっと(いや大分)ハラスメントぽく見えてしまった。アミールもまんざらでもなさそうではあるが、ここではちょっと断りにくい、みたいな躊躇は漂うので、この2人の関係を本当に恋愛と言ってしまっていいものかという不安さが序盤から漂う。映画監督としてのピーターは圧倒的に「見るもの」であり、アミールは常に「見られるもの」なのだ。
 しかしピーターがアミールにのめり込むにつれ、アミールがピーターを振り回すようになっていく。ピーターの愛は一途で献身的、というか少々暴走気味で、どうもこの人は恋愛をすると毎回こんな感じなんだなということもわかってくる。相手に対するピーターの愛と執着が深まるほど、彼は相手に対する支配力を失っていく。献身的なのか身勝手なのか最早わからないピーターの振る舞いには時に笑ってしまうのだが、同時に物悲しくもある。
 ピーターの滑稽さと物悲しさは、彼が愛しているのは本当にアミールその人なのか微妙な気がしてくるからでもある。熱烈に愛している割には相手の話を聞かず、振る舞いが一方的なのだ。彼が欲しいのは彼がアミールの中に見出している(見出したい)何かで、アミール個人とはまた違うのではないかと。ピーターはかなりナルシスティックな所があり、あらまほしき自分としての恋人を欲するではないかという気もした。身近な女性3人とはどこか距離感があるのも、彼女らとは同一化がしにくいからではないか。
 愛も涙もこてこてで美術はゴージャス。久しぶりにキッチュに振り切っているオゾン作品だった。最近の作品は比較的折り目正しい、シリアスな方向だったが、本作は初期作品への揺り戻しのようで楽しかった。

ペトラ・フォン・カントの苦い涙【DVD】
イルム・ヘルマン
紀伊國屋書店
2018-12-22


焼け石に水 [DVD]
リュディヴィーヌ・サニエ
パイオニアLDC
2003-01-24


『逃げた女』

 ガミ(キム・ミニ)は夫の出張中に、3人の女友達を訪ねる。ガミは5年間の結婚生活で一度も夫と離れたことがない、愛する人とは何があっても一緒いるべきという夫の言葉を繰り返す。監督・脚本はホン・サンス。
 ガミが友人と話すだけの映画なのだが、妙に面白い。相手は友人と言っても先輩だったり過去にひと悶着あって気軽に親友とは言えなかったりする。話をする気安さはまちまちなのだ。話の内容は他愛ない近状報告から始まるが、会話をしていくうちにそれぞれのこれまでの人生が見え隠れする。友人たちの人生は、ガミのあったかもしれない、またこの先あるかもしれない人生とも言える。もちろんそれぞれ別個の人生なのだが、女性の人生の中で生じる面倒くさい状況のシチュエーションが展開されるという側面があるのだ。
 最初に会いに行く先輩の、離婚後、郊外に一戸建ての家を買って知人とルームシェアをしているという生活は、ちょっとうらやましい(何しろ一軒家を買える経済力とローンを組める信用があるわけだから…)。一方で、知り合った男性に付きまとわれるという友人の話は結構怖い。しかもその怖い話が実際に女性の人生には頻発するわけだから、まあ嫌になる。作家の夫が売れっ子になっていくのが好ましくないという旧友の話も、こういうことあるんだろうなという納得感のあるもの。女性が生きていく上でちょっとひっかかる「あるある」がぽろぽろ出てきてやるせないのだ。「妻が猫を怖がる」とクレーム入れに来る近所の男性のエピソードも、こういういざこざはご近所づきあいでよくあるよなとまずは思う。しかし、じゃあ何で妻本人が言いに来ないんだとか、どちらか一方に非があると言うタイプの問題ではないのに何で男性側を逆なでしないよう配慮した話し方にしないとならないんだとか、どんどんもやもやが出てくるのだ。
 旧友が、夫がTVにである度に同じ話をするのが信じられない、出来上がったエピソードに真実はあるのだろうかと疑問を口にする。これはガミが夫との仲の良さを毎回説明するのと同じことではないだろうか。ガミと夫の間にはおそらく何か問題があるのだが、彼女の中のストーリーは、まだそれを許容してはいない。最後の「引き返し」で何か少し、彼女の中で変化が起きたのかなと思った。

正しい日 間違えた日(字幕版)
チェ・ファジョン
2019-04-17


夜の浜辺でひとり(字幕版)
ソ・ヨンファ
2019-04-17


『ニューヨーク 親切なロシア料理店』

 マンハッタンで創業100年を超える老舗ロシア料理店「ウィンター・パレス」。今では料理もサービスもひどい古いだけの店になっていた。店の立て直しの為マネージャーとして雇われたマーク(タハール・ラヒム)には訳ありの過去があった。常連客のアリス(アンドレア・ライズボロー)は救急病棟の看護師として働く傍ら自助グループの支援活動もしていたが、過酷な仕事に疲れ切っている。ある日、2人の息子を連れたシングルマザーのクララ(ゾーイ・カザン)が店に逃げ込んでくる。監督・脚本はロネ・シェルフィグ。
 優し気な題名だが、クララと子供たちの逃避行が洒落にならない深刻さでなかなか辛い。「親切なロシア料理店」にたどり着くまでに結構時間がかかるのだ。クララの夫は子供に暴力を振るい、彼女のことも恐怖で支配している。典型的なDV夫で、しかも警官なので逃げた妻子の後を追うのも簡単という性質の悪さだ。クララは専業主婦でお金も夫に管理されているので、手持ちの現金はわずかだしクレジットカードもない。子供たちには「旅行」と称してマンハッタンをぐるぐる回り、パーティーに潜り込んで食糧調達し図書館で暖を取る様は危なっかしく、この親子はいつまで持ちこたえられるんだろうとハラハラが止まらない。彼女のような境遇だといわゆる「自助」で出来ることはすぐ尽きてしまい、支援団体や行政等「公助」であるセイフティネットがないとどうにもならない。そして「公」たる警官である夫に知られることを恐れるクララは、公助になかなかたどり着けないのだ。
 個人ができることはわずかという面は、彼女が助けを求める人たちついても同様だ。ホテルのフロントがお金が足りないが空き室を使わせてくれと頼み込むクララに、それをやったら私が仕事も住み家も保険も失うと言うが、それも責められない。お互いに余力がないのだ。しかし一方で、自分を削って彼女を助ける人たちもいる。その人たちは決して自分に余裕があるわけではないし、彼女に手を貸すことで自分が困った立場に立たされることにもなる。でもやるのだ。この、ぱっとやれる人とそうでない人との違いは何なんだろうとずっと考えてしまった。他人の辛さに対する瞬発力みたいなものが違うんだよなと。ジェフ(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)のように自分が失敗続きで結構な困った状態であっても、とっさの思いやりと行動を示せる人の姿にはっとする。
 自分が辛いからこそ人の辛さを顧みることができるということ、一人で出来ることは限られていて誰かの助けがないと乗り越えることは難しいということが、自分のこととして実感できているからかもしれない。そして本作に登場する人たちは助けた側もまた、その行為によって自分を立て直しているように見えた。アリスはクララを助ける為に一線を踏み越え自分の仕事と向き合い直すし、マークにはもう一度他人と関わろうとするきっかけになる。アリスが運営しているのは「自助グループ」だが、自助って自分一人で自分を、というだけではなくお互いに助け合う中で自分も支えられるということだろう。支え合いの中で、クララも自力で夫から逃げ出す力を蓄えていく。いきなり一人でやるのは無理なのだ。人間の善意、支え合いへの信頼が作品の底辺にあり、今見てよかった一作だった。

人生はシネマティック!(字幕版)
リチャード・E・グラント
2018-04-01





『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』

 世界最大の知の殿堂と呼ばれ、ニューヨーク有数の観光スポットでもあるニューヨーク公共図書館。文学、芸術などの分野で多くの人材を育て、世界有数のコレクションを誇る一方で、ニューヨーク市民の生活に密着した様々な役割と果たしている。図書館の存在の仕方と未来に思いをはせるドキュメンタリー。監督はフレデリック・ワイズマン。
 図書館の役割と言うと資料の収集・保管と貸出ばかりに着目されがちだが、本作に登場するニューヨーク公共図書館は、資料の扱いを越えた、幅広い活動を行っている。子供向け勉強会や作家の公演、音楽界に留まらず、就職活動支援の職業説明会や、障害者支援の説明会、インターネット接続用機器の貸し出し等、ここまでやるの?!とびっくりするようなももある。しかしどれも、「知識を得る手助けをする」という意味では共通している。知識に触れる機会は、どんな人にも平等であるべき、そこに奉仕すべきというのが図書館が考える公共の在り方なのだろう。市民からのニーズにこたえていくというのはもちろんなのだが、サービスを提供するだけではなく、どういう社会にしていきたいのか、そのために図書館が出来ること、やるべきことは何なのかを図書館に携わる人たちがずっと考え続けているのだと思う。
 作中、何度も図書館員たちのディスカッションが挿入される。予算をめぐる本館での論議(ベストセラーを多く入れれば貸出率=利用率は上がる、しかし研究書や貴重な資料を購入・保管するのも図書館の使命だという定番の論議がここでも出てくる)からは、市の予算と民間の寄付の両方から成る台所事情が垣間見える。やはり公的予算は削減されなかなか苦しい所もあるようだが、民間から一定の寄付があるというところが、なんだかんだ言って民度が高い。また分館では、子供たちの学習支援だけでなく教員に対する学習支援や適切な資料の提供をどうするかディスカッションしていたり、地域の経済問題や差別問題などにも言及がある。分館の方が生活に密着している度合いが高そうだが、規模はどうあれ「公共」とはどうあるべきかということを一貫して体現しているように思う。この筋の通し方は正直うらやましい。日本はこういう所が本当に弱いんだよな・・・。
 公共であること、平等であること、ひいては民主主義とは何かということが作中提示され続けている。今、分断が進み偏狭になりつつあるアメリカの社会を見据えての、この編集・構成なのだろう。黒人文化センターへの言及が多いのもあえてか。アメリカでも歴史改変主義者が幅をきかせつつあるらしく、意図的に改変した歴史の教科書が流通してしまったという話はちょっとショックだった。そういったものへのカウンターとしても図書館は存在するのだ。
 また、図書館の素晴らしい建物や、建物のポテンシャルを活かしたイベントの様子は眺めていて楽しい。図書館の表も裏も見ることができて、とても面白かった。いきなり著名人が登場したり、ちらっと見える資料の中にあんな名前やこんな名前、肖像画があったりと、予期せぬ楽しさもあった。3時間25分という長さだが、案外気にならない。体力的には少々きつかったですが・・・。


『22年目の記憶』

 1972年、南北共同声明が発表された。韓国は南北首脳会議に備え、北朝鮮の最高指導者・金日成の代役オーディションを密かに行う。オーディションに合格したのは、売れない役者ソングン(ソル・ギョング)だった。金日成という役になりきる為の厳しい訓練に耐えるソングンだが、彼の出番は結局なかった。そして22年後、心を病み自分を金日成だと信じ込むソングンは、父である彼に人生を狂わされた息子テシク(パク・ヘイル)と同居することになる。借金まみれのテシクは、実家の土地を売る為に実印を探していたのだ。監督はイ・ヘジュン。
 予告編だと父息子の感動ストーリーっぽいが、それはあくまで本作の一部だ(ということは、全貌を見せずにキャッチーな部分を抽出した良くできた予告編なんだと思う)。リハーサルを行う構想は実際にあったそうだが、金日成の代役を作るという荒唐無稽な設定のコメディである一方、ソングンが受けるオーディションや訓練は、不条理ホラーのように見えてきてかなり怖い。着地点がどこなのかがわからないのだ。そしてソングンの演技への執着、彼に取りついて離れない金日成という「役」の不気味さがじわじわくる。ソングンに演技を教える教授は、役者は役を飲み込み、その上で吐き出さないとならないと言う。演技には魔力があるのだろう。ソングンは演技の魔に取りつかれて冒頭で失敗し、その失敗を引きずるが故に更に演技の魔に取りつかれた人生を送る羽目になってしまう。テシクが、父が正気に戻る時間が増えると逆に不安になるというのがうすら寒さを感じさせた。正気でない状態が普通ってことだから。
 本作、笑いや涙があってもどうにも不気味だった。ソングンとテシクが辿る珍妙な人生の裏には、人1人の人生を道具扱いにする国家という存在がある。金日成の代役を立ててリハーサルをするという計画自体、冷静に考えるとそれ何か意味あるの?という気がするのだが、そういうことを平気で出来る存在だと言うことが、不気味かつ不穏なのだ。


『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』

 ニューヨーク市クイーンズ区の北西にある、人口13.2万人の町ジャクソンハイツ。60年代後半から各国の移民が住むようになり、現在では167もの言語が話され、マイノリティが集まる、ニューヨークで最も多様性があると言われる町だ。しかし近年、ブルックリン、マンハッタンの地価上昇により、地下鉄で市の中心部へ30分で出られるという便利さから人気が高まり、再開発が進んでいる。ジャクソンハイツの今を映すドキュメンタリー。監督はフレデリック・ワイズマン。
 再開発によって地価が上昇し、税金、家賃が上がって古くからの住民が退去せざるを得なくなる、空き家が出来て家賃を取れなくなるから家主がやむを得ず物件を手放すところを不動産会社が買いたたくという構図には、大きな波に対する無力さを感じてしまい辛い。市民団体が反対運動をしているが、大資本の前で相当厳しいだろう。ニューヨーク市は再開発に積極的と思われるので、地元の市議会議員が動いても効果が薄いんだろうな・・・。議員は長年地元に尽くした住民(元町長?)の誕生日パーティーに出席したり、レインボーパレードに率先して参加したりと活動的なのだが。ただの「こじゃれた町」になってしまうのかな。本作に登場するのは元々住んでいた人たちなので、転入してくる人たちが何を考え何を求めているのかはわからないが。
 様々な人がいて様々な視点がある。それらが同じ町で暮らしていく為には様々な配慮、随時考えることが必要なんだと随所で知らされる。もちろん面倒くさいことも多いだろう。議員事務所では苦情、相談(と言う名の苦情)の電話が鳴りやまない。でも少しずつすり合わせていくしかないし、この町はそうやって発展してきたのだろう。違う民族の人たちが同じ場に集っているシーンが案外目立たない(~街、みたいに棲み分けがされているっぽい)のだが、それも一つの知恵か。
 トランスジェンダーの人たちのグループワークで、「私たちは道を歩いている時も(他の人たちより)とても注意しなければならない(突発的に暴力を振るわれる機会が多いから)」という言葉が出てきてはっとした(と同時に暗澹たる気分になる。そこまで注意してないとならないのか・・・)。トランスジェンダーの黒人女性が、女の恰好よりも男の恰好をしている時の方が周囲の視線を感じる、でかい黒人男性がいると警戒される、黒人女性はむしろ存在しない扱いに近い、というようなことを口にするのにも。
 ユダヤ教のシナゴーグが公民館のように使われており、ユダヤ教徒だけでなく他の宗教団体、またLGBTの団体も利用できるところが面白い。ユダヤ教徒だけだと経済的に維持が厳しいので、使用料を取って共存しているんだとか。こういう「都合」が関わる所からお互いを許容していくようになるのかもしれない。
 移民に対する様々な講習会、支援団体が出てくる。ある集会で、勤務先の店長が残業代を払わないという相談があるのだが、その店長がどこの国出身かという言葉が出ると、議長がストップをかける。金を払わない人は自分がどこの出身であれ、相手がどこの出身であれ、払いたくないのだ(出自は関係ない)と諭す。これが大事なんだろうな。



『2重螺旋の恋人』

 原因不明の腹痛に悩むクロエ(マリーヌ・バクト)は精神分析医ポール(ジェレミー・レニエ)のカウンセリングを受けることにした。症状が好転したクロエはポールと恋に落ち、一緒に暮らし始める。ある日クロエはポールとうり二つな男性を見かけた。その男性はポールの双子の兄レイ(ジェレミー・レニエ 二役)で、彼と同じく精神分析医だった。兄の存在を隠すポールを不審に思い、クロエはレイの診察を受け双子の秘密を探ろうとする。原作はジョイス・キャロル・オーツの短編小説。監督はフランソワ・オゾン。
 オゾン監督はあたりとはずれを交互にリリースしている印象があるのだが、本作は残念ながらはずれなのでは・・・。前作『婚約者の友人』が秀作だったからなー。なかなか連続して秀作とはいかないか。本作、エロティックな幻想をちりばめたサスペンスという趣なのだが、美形双子と色々やりたい!なんだったら双子同士でも色々やってほしい!というフェティッシュが前面に出てしまい、クロエの内面の要素と噛み合っていない。実は(多分原作とは異なると思うのだが)最後にタネあかしのようなオチがあるのだが、このオチから逆算すると性的な要素が介入してくるとは考えにくいのだ。それよりは最初に不仲であると提示されている母親の存在がクローズアップしてしかるべきだろう。にもかかわらず母親が登場するのは最終幕のみで、それまでは殆ど言及されない。なので、性的ファンタジーばかりが悪目立ちしている印象になる。下世話なことがやりたいなら妙な小理屈つけずに堂々とやればいいのに・・・
 また、ポールとレイを臨床心理士という設定にしたわりには、臨床心理的なものにオゾンはあんまり関心なさそうなところもひっかかった。そもそも(元)患者と恋人関係になるって臨床心理士としてはダメだろ・・・。支配/被支配関係を強調したかったのかもしれないけど、もうちょっとやりようがあったんじゃないかなと思う。

17歳 [DVD]
マリーヌ・ヴァクト
KADOKAWA / 角川書店
2014-09-05


とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢 (河出文庫)
ジョイス・キャロル オーツ
河出書房新社
2018-01-05


『ニンジャバットマン』

 ゴッサムシティで街の平和を脅かすヴィランたちと戦うバットマン(山寺宏一)。ある日ゴリラグロッド(子安武人)の企みに巻き込まれ、ジョーカー(高木渉)らと共に時空転送されてしまう。バットマンがタイムスリップしたのは戦国時代の日本。各地の戦国大名に成り代わったジョーカーたちによる歴史改変を止める為、忍者たちと共に戦いを挑む。監督は水崎淳平。
 アニメーション制作は神風動画で、スタジオ代表の水崎が監督を務めている。アニメーションとしてのクオリティは素晴らしくかつユニークで、これが今の神風動画だ!という自負と自信を感じる。岡﨑能士のスタイリッシュかつややこってりめのキャラクターデザイン、またディティールのデザインや背景美術の和風テイスト、それぞれの要素のバットマンという作品への落とし込み方がとても上手い。特に背景美術は浮世絵っぽい構成だったり、背景全体に和紙の風合いや空摺っぽい文様を入れる等、大変凝っている。和「風」であり、伝統的な和というわけではなくどこかキッチュさをまとっているところも魅力。アメコミを戦国時代舞台でやる、という設定に対してのビジュアル面でのアイディアが満載で、とても楽しい。アニメーションの方向性も、セル画に寄せた部分、3DCGに寄せた部分等バラエティに富んでいて楽しい。一部手書きアニメーションのパートもあり、スタジオのイメージとは大分違うのでちょっと驚いた。
 中島かずき脚本だが、実にらしいというか、キャッチーさとケレンたっぷり。後半の城の使い方にしろ猿やコウモリの使い方にしろ、やりすぎ!と突っ込みたくなるが、バカバカしいことを全力フルスイングでやられると逆にバカっぽくならないものだなと思った。悪ふざけをしているという感じではなく、ストーリーにしろビジュアルにしろ、自分たちのバットマンはこれだ!という大真面目な姿勢に感じられる。これをやってもOKだというDCコミックは懐が深い・・・。バットマン、ジョーカーというアメコミキャラクターの汎用性の広さも実感した。
 声のキャスティングはベテラン揃いでどのキャラクターも良い。特にジョーカー役の高木は、この人以外のジョーカーはちょっともう考えられないかなというくらいハマっていた。逆に、絶対安全パイ的な山寺の方が、別に山寺さんじゃなくても・・・的な雰囲気。今回割と抑え気味の演技だし、バットマン自体そんなに個性の強いキャラクターではないからかな。

バットマン:ハッシュ 完全版
ジェフ・ローブ
小学館集英社プロダクション
2013-09-28


ポプテピピック vol.1(Blu-ray)
三ツ矢雄二
キングレコード
2018-01-31


『ニューヨーク1954』

デイヴィッド・C・テイラー著、鈴木恵訳
 赤狩りの嵐が吹き荒れる1954年のアメリカ。ニューヨーク市警の刑事キャシディは、ブロードウェイの無名ダンサー、イングラムが自宅で拷問された上殺されている事件に遭遇する。自宅の安アパートにあった高級家具や上質な衣服は、彼が本職とは別の金づるを握っていた可能性を示唆していた。捜査担当になったキャシディだが、FBIから横やりが入る。反発したキャシディは強引に捜査を続けるが。
 キャシディの父親が演劇プロデューサーという設定なので、当時の演劇界の雰囲気も垣間見える。マッカーシズムの真っ只中で、思想の自由は奪われ、政府に協力しないとどうなるかわからないという不安感がじわじわと広がっている。しかしその一方で、メキシコ共産党に加入していた経緯があるディエゴ・リベラが、セレブの間でもてはやされていたりするのが面白い。リベラ以外にもマッカーシーの右腕ロイ・コーン(先日ナショナルシアターライブで見た『エンジェルス・イン・アメリカ』には晩年のコーンが登場するが死ぬまでくそったれ野郎)やこの時代の本丸とでも言うべき人物も登場し、時代感が楽しめる作品。逆にこの時代の有名人を多少知っていると、イングラムの金づるがどういうものか見当つきやすいだろう。
 中盤以降、話の盛りがやたらといいというか、登場人物やエピソード等、要素を増やしすぎたきらいがある。キャシディの父親は演劇人であると同時にロシア移民でもあるので、彼にしろキャシディにしろ立場はかなり危ういのだが、ちょっと軽率に行動しすぎな気がする。またキャシディの相棒がストーリー上あまり機能していないのももったいない。てっきりバディものかと思ったのにー。

ニューヨーク1954 (ハヤカワ文庫NV)
デイヴィッド・C・テイラー
早川書房
2017-12-19


J・エドガー [DVD]
レオナルド・ディカプリオ
ワーナー・ホーム・ビデオ
2013-02-06

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