3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』

 ニューヨーク市クイーンズ区の北西にある、人口13.2万人の町ジャクソンハイツ。60年代後半から各国の移民が住むようになり、現在では167もの言語が話され、マイノリティが集まる、ニューヨークで最も多様性があると言われる町だ。しかし近年、ブルックリン、マンハッタンの地価上昇により、地下鉄で市の中心部へ30分で出られるという便利さから人気が高まり、再開発が進んでいる。ジャクソンハイツの今を映すドキュメンタリー。監督はフレデリック・ワイズマン。
 再開発によって地価が上昇し、税金、家賃が上がって古くからの住民が退去せざるを得なくなる、空き家が出来て家賃を取れなくなるから家主がやむを得ず物件を手放すところを不動産会社が買いたたくという構図には、大きな波に対する無力さを感じてしまい辛い。市民団体が反対運動をしているが、大資本の前で相当厳しいだろう。ニューヨーク市は再開発に積極的と思われるので、地元の市議会議員が動いても効果が薄いんだろうな・・・。議員は長年地元に尽くした住民(元町長?)の誕生日パーティーに出席したり、レインボーパレードに率先して参加したりと活動的なのだが。ただの「こじゃれた町」になってしまうのかな。本作に登場するのは元々住んでいた人たちなので、転入してくる人たちが何を考え何を求めているのかはわからないが。
 様々な人がいて様々な視点がある。それらが同じ町で暮らしていく為には様々な配慮、随時考えることが必要なんだと随所で知らされる。もちろん面倒くさいことも多いだろう。議員事務所では苦情、相談(と言う名の苦情)の電話が鳴りやまない。でも少しずつすり合わせていくしかないし、この町はそうやって発展してきたのだろう。違う民族の人たちが同じ場に集っているシーンが案外目立たない(~街、みたいに棲み分けがされているっぽい)のだが、それも一つの知恵か。
 トランスジェンダーの人たちのグループワークで、「私たちは道を歩いている時も(他の人たちより)とても注意しなければならない(突発的に暴力を振るわれる機会が多いから)」という言葉が出てきてはっとした(と同時に暗澹たる気分になる。そこまで注意してないとならないのか・・・)。トランスジェンダーの黒人女性が、女の恰好よりも男の恰好をしている時の方が周囲の視線を感じる、でかい黒人男性がいると警戒される、黒人女性はむしろ存在しない扱いに近い、というようなことを口にするのにも。
 ユダヤ教のシナゴーグが公民館のように使われており、ユダヤ教徒だけでなく他の宗教団体、またLGBTの団体も利用できるところが面白い。ユダヤ教徒だけだと経済的に維持が厳しいので、使用料を取って共存しているんだとか。こういう「都合」が関わる所からお互いを許容していくようになるのかもしれない。
 移民に対する様々な講習会、支援団体が出てくる。ある集会で、勤務先の店長が残業代を払わないという相談があるのだが、その店長がどこの国出身かという言葉が出ると、議長がストップをかける。金を払わない人は自分がどこの出身であれ、相手がどこの出身であれ、払いたくないのだ(出自は関係ない)と諭す。これが大事なんだろうな。



『2重螺旋の恋人』

 原因不明の腹痛に悩むクロエ(マリーヌ・バクト)は精神分析医ポール(ジェレミー・レニエ)のカウンセリングを受けることにした。症状が好転したクロエはポールと恋に落ち、一緒に暮らし始める。ある日クロエはポールとうり二つな男性を見かけた。その男性はポールの双子の兄レイ(ジェレミー・レニエ 二役)で、彼と同じく精神分析医だった。兄の存在を隠すポールを不審に思い、クロエはレイの診察を受け双子の秘密を探ろうとする。原作はジョイス・キャロル・オーツの短編小説。監督はフランソワ・オゾン。
 オゾン監督はあたりとはずれを交互にリリースしている印象があるのだが、本作は残念ながらはずれなのでは・・・。前作『婚約者の友人』が秀作だったからなー。なかなか連続して秀作とはいかないか。本作、エロティックな幻想をちりばめたサスペンスという趣なのだが、美形双子と色々やりたい!なんだったら双子同士でも色々やってほしい!というフェティッシュが前面に出てしまい、クロエの内面の要素と噛み合っていない。実は(多分原作とは異なると思うのだが)最後にタネあかしのようなオチがあるのだが、このオチから逆算すると性的な要素が介入してくるとは考えにくいのだ。それよりは最初に不仲であると提示されている母親の存在がクローズアップしてしかるべきだろう。にもかかわらず母親が登場するのは最終幕のみで、それまでは殆ど言及されない。なので、性的ファンタジーばかりが悪目立ちしている印象になる。下世話なことがやりたいなら妙な小理屈つけずに堂々とやればいいのに・・・
 また、ポールとレイを臨床心理士という設定にしたわりには、臨床心理的なものにオゾンはあんまり関心なさそうなところもひっかかった。そもそも(元)患者と恋人関係になるって臨床心理士としてはダメだろ・・・。支配/被支配関係を強調したかったのかもしれないけど、もうちょっとやりようがあったんじゃないかなと思う。

17歳 [DVD]
マリーヌ・ヴァクト
KADOKAWA / 角川書店
2014-09-05


とうもろこしの乙女、あるいは七つの悪夢 (河出文庫)
ジョイス・キャロル オーツ
河出書房新社
2018-01-05


『ニンジャバットマン』

 ゴッサムシティで街の平和を脅かすヴィランたちと戦うバットマン(山寺宏一)。ある日ゴリラグロッド(子安武人)の企みに巻き込まれ、ジョーカー(高木渉)らと共に時空転送されてしまう。バットマンがタイムスリップしたのは戦国時代の日本。各地の戦国大名に成り代わったジョーカーたちによる歴史改変を止める為、忍者たちと共に戦いを挑む。監督は水崎淳平。
 アニメーション制作は神風動画で、スタジオ代表の水崎が監督を務めている。アニメーションとしてのクオリティは素晴らしくかつユニークで、これが今の神風動画だ!という自負と自信を感じる。岡﨑能士のスタイリッシュかつややこってりめのキャラクターデザイン、またディティールのデザインや背景美術の和風テイスト、それぞれの要素のバットマンという作品への落とし込み方がとても上手い。特に背景美術は浮世絵っぽい構成だったり、背景全体に和紙の風合いや空摺っぽい文様を入れる等、大変凝っている。和「風」であり、伝統的な和というわけではなくどこかキッチュさをまとっているところも魅力。アメコミを戦国時代舞台でやる、という設定に対してのビジュアル面でのアイディアが満載で、とても楽しい。アニメーションの方向性も、セル画に寄せた部分、3DCGに寄せた部分等バラエティに富んでいて楽しい。一部手書きアニメーションのパートもあり、スタジオのイメージとは大分違うのでちょっと驚いた。
 中島かずき脚本だが、実にらしいというか、キャッチーさとケレンたっぷり。後半の城の使い方にしろ猿やコウモリの使い方にしろ、やりすぎ!と突っ込みたくなるが、バカバカしいことを全力フルスイングでやられると逆にバカっぽくならないものだなと思った。悪ふざけをしているという感じではなく、ストーリーにしろビジュアルにしろ、自分たちのバットマンはこれだ!という大真面目な姿勢に感じられる。これをやってもOKだというDCコミックは懐が深い・・・。バットマン、ジョーカーというアメコミキャラクターの汎用性の広さも実感した。
 声のキャスティングはベテラン揃いでどのキャラクターも良い。特にジョーカー役の高木は、この人以外のジョーカーはちょっともう考えられないかなというくらいハマっていた。逆に、絶対安全パイ的な山寺の方が、別に山寺さんじゃなくても・・・的な雰囲気。今回割と抑え気味の演技だし、バットマン自体そんなに個性の強いキャラクターではないからかな。

バットマン:ハッシュ 完全版
ジェフ・ローブ
小学館集英社プロダクション
2013-09-28


ポプテピピック vol.1(Blu-ray)
三ツ矢雄二
キングレコード
2018-01-31


『ニューヨーク1954』

デイヴィッド・C・テイラー著、鈴木恵訳
 赤狩りの嵐が吹き荒れる1954年のアメリカ。ニューヨーク市警の刑事キャシディは、ブロードウェイの無名ダンサー、イングラムが自宅で拷問された上殺されている事件に遭遇する。自宅の安アパートにあった高級家具や上質な衣服は、彼が本職とは別の金づるを握っていた可能性を示唆していた。捜査担当になったキャシディだが、FBIから横やりが入る。反発したキャシディは強引に捜査を続けるが。
 キャシディの父親が演劇プロデューサーという設定なので、当時の演劇界の雰囲気も垣間見える。マッカーシズムの真っ只中で、思想の自由は奪われ、政府に協力しないとどうなるかわからないという不安感がじわじわと広がっている。しかしその一方で、メキシコ共産党に加入していた経緯があるディエゴ・リベラが、セレブの間でもてはやされていたりするのが面白い。リベラ以外にもマッカーシーの右腕ロイ・コーン(先日ナショナルシアターライブで見た『エンジェルス・イン・アメリカ』には晩年のコーンが登場するが死ぬまでくそったれ野郎)やこの時代の本丸とでも言うべき人物も登場し、時代感が楽しめる作品。逆にこの時代の有名人を多少知っていると、イングラムの金づるがどういうものか見当つきやすいだろう。
 中盤以降、話の盛りがやたらといいというか、登場人物やエピソード等、要素を増やしすぎたきらいがある。キャシディの父親は演劇人であると同時にロシア移民でもあるので、彼にしろキャシディにしろ立場はかなり危ういのだが、ちょっと軽率に行動しすぎな気がする。またキャシディの相棒がストーリー上あまり機能していないのももったいない。てっきりバディものかと思ったのにー。

ニューヨーク1954 (ハヤカワ文庫NV)
デイヴィッド・C・テイラー
早川書房
2017-12-19


J・エドガー [DVD]
レオナルド・ディカプリオ
ワーナー・ホーム・ビデオ
2013-02-06

『苦い銭』

 雲南省からバスと列車を乗り継ぎ、淅江省湖州へと向かう少年少女。湖州には多くの縫製工場があり、出稼ぎ労働者が80%を占めると言われる。この街にやってきて働く様々な人たちを見つめるドキュメンタリー。監督はワン・ビン。
 ヴェネチア国際映画祭でまさかの脚本賞を受賞した作品だが、なるほど出来すぎなくらい構成にドラマ感がある。ドキュメンタリーにも脚本(いわゆるドラマの脚本というよりも組み立て図みたいなものだろうが)はあるのだろうが、こういうエピソードを引き寄せる、またエピソードが出てくるまで粘れるのが監督の力なのかな。撮影期間は1~2年間だそうだが、出稼ぎに来た当時はいかにも田舎から出てきた風の不安げ15歳の少女だったシャオミンが、徐々に「こなれて」くる感じや、一緒に出てきた少年が過重労働に耐えられず故郷に帰っていく様は、それだけで一つのドラマのよう。
 また、DV気味の夫と妻の関係が、最初は一触即発みたいな感じだったのだが、後に再登場した時には何となく改善された雰囲気になっている所がとても面白かった。映し出されていない間に何があったんだ!自営の店を辞めて衣料品の搬出の仕事を夫婦でするようになったみたいなのだが、一緒に働くという状態が良かったのかなぁ。妻にケチだケチだと言われていた夫が、後々(不満を言いつつ)親戚に仕送りしているらしいのには笑ってしまった。
 画面に映し出されるどの人にも、それぞれの仕事があって生活があるんだという濃厚な空気が漂っている。とは言え、文字通り「起きて仕事して食事して寝る」生活なので、働くことがあまり好きでない私は見ていて辛くなってしまった。彼らは安い労働力として扱われており低賃金なので、仕事の量をこなさないと生活できない。自分は量をこなせないから・・・と自虐気味の男性の姿にはいたたまれなかった。安価な商品てこういう労働に支えられているんだよなと目の当たりにした気分になる。とは言え、ここでの仕事がだめだったら他へ移るまで、というひょうひょうとした雰囲気も漂っており、予想ほどの閉塞感はない。これもまた一つの人生、という諦念が感じられるからか。

三姉妹 ~雲南の子 [DVD]
紀伊國屋書店
2014-03-22


収容病棟 [DVD]
紀伊國屋書店
2015-02-28


『ニュートン・ナイト 自由の旗をかかげた男』

 南軍の兵士として南北戦争に従事していたニュートン・ナイト(マシュー・マコノヒー)は、戦死した甥の遺体を故郷であるミシシッピ州ジョーンズ郡に届けようと脱走。やがて農民から食料をむりやり徴収する軍と衝突し、追われる身となる。湿地帯に身を隠して黒人の逃亡奴隷たちと共に闘うようになった彼は、白人と黒人が共存する反乱軍を結成し、軍と対立していく。監督・脚本はゲイリー・ロス。
 実話を元にした話だそうだが、ナイトの存在は近年まであまり知られていなかったそうだ。当時としてはかなり型破りな人だったんだろうけど。(本作中の)ナイトは白人だろうが黒人だろうが個人は個人だという考え方で、黒人に対しても(他の白人と比べると)自分と同じ人間として接する。一方で彼が軍に反旗を翻す理由は、奴隷制度に反対しているからではなく、軍が自分達の作物や家畜を根こそぎ奪うから、搾取するからだ。白人だろうが黒人だろうが自分が育て収穫したものはその人のもので、それを奪うのは不当だから闘う、というのが彼の方針だ。これはとてもアメリカ的な考え方ではないかと思う。自分達の生活と権利を守るのが一番大事という考え方はともすると、「それ以外」を阻害する排他的なものになりかねないが、ナイトは意外と来るもの拒まずだし自分の妻子そっちのけで地元の農家を救いに奔走したりするので、そのあたりも稀有な人ではある。
 とは言え、彼の理想は当時の世間にはまだ早すぎた。南北戦争が終わっても、名称や形が変わっただけで黒人が差別されることに変わりはなく、ナイトの勢いも衰えていく。史実ベースとは言え、もの悲しい。更にきついのは、ナイトの時代から約90年後のある裁判の顛末だ。これだけ時間がたってもこんなもんか!と唖然とした。どんなに傑出した人でも1人で歴史を変えられるわけではない(ナイトの場合は傑出したというか、タイミング的に活躍できた時期があったという方がいいのかも)のだ。
 なお、冒頭の戦場の描写はかなり生々しく迫力がある。当時の兵士って、半分くらいは死ぬことを前提として配置されていたんだろうなと実感させられる。とにかく大量の死人が出た戦争だったんだなとビジュアル的に納得するし、各地の農家で男手が足りなくなり食い詰めるというのも説得力が増す。
 歴史ものとしても面白い作品だったが、後年のある裁判の挿入の仕方が唐突で、流れが悪くなる。この裁判が作品にとって大きな意味を持つというのはわかるのだが、構成に難がある。

『人魚姫』

 実業家のリウ(ダン・チャオ)は香港郊外の自然保護区域を買収し、イルカや魚を追い払って海を埋め立て、リゾート開発を狙っていた。この計画を阻止しようと、人魚族はリウの暗殺を計画する。若い女性人魚シャンシャン(リン・ユン)を人間に変装させリウの元に送り込むが、リウとシャンシャンは恋に落ちてしまう。監督・脚本はチャウ・シンチー。
 アクション映画以外のチャウ・シンチー監督作って、どうもキワモノ感が拭えないのだが、これは私の先入観かなー。満席立ち見も出るほどの客入りだったけど、そこまで面白い作品とは思えなかった。どうも監督のギャグセンスと相性が悪い。冒頭の観光客の面子がいかにもマヌケ、不細工といった面々でマヌケ、不細工だったらこういう振る舞いだろうというテンプレな振る舞いをするあたりからして苦手意識を感じてしまった。不細工ギャグとか、嘔吐ギャグを必ず入れるところとかもきつい。あとCGの出来が悪いというのではなく、色と質感がギラギラ寄りなのは多分好みなんだろうけど、これもきつい。ギャグが上滑りしている感じなんだけど・・・。
 ただ、なかなかぐっとくる所もある。貧しい出身から這い上がり、無理して「セレブ」をやっていたリウが、屋台の焼き鳥の味に涙ぐんでしまうエピソードは、王道人情ものっぽく、またリウが結構無理してきたんだなという背景が窺えるものだった。焼き鳥がきっかけでシャンシャンとの距離がぐっと縮まる、更に不思議なミュージカルシーンにも発展するというのも楽しい。
 ところで、シャンシャンの兄貴分はタコの人魚なのだが、タコの移動能力がチートというのは、『ファインディング・ドリー』と同じだった。やっぱり使い勝手がいいんだろうな。『ファインディング~』に出てくるタコの方が大分かっこよかったですが・・・。

『ニーゼと光のアトリエ』

 1944年のブラジル。精神科医のニーゼ(グロリア・ピレス)は精神病院に赴任するが、電気ショックやロボトミー手術等暴力的な治療に反感を示し、ナースが運営する作業療法部門に配属される。ニーゼは絵具や粘土を癇じゃに与えて彼らの表現を引き出そうとする。実在の医師のエピソードをドラマ化した作品。監督・脚本はホベルト・ベリネール。
 ニーゼが赴任した精神病院の様子からは、当時、精神病患者は独立した個人として扱われていなかったことが見て取れる。患者というよりも収容者といった扱いで、治療の概念も現代のものとはだいぶ違う。何しろロボトミー手術が普及し始め持てはやされていた時代だ。病院側の言う治療とは、患者が言うことを聞くようになる、扱いやすくなるということで、そこに患者本人が幸福かどうか、その人らしくいられるかどうかという発想はない。 ニーゼが目指す治療とは正にその部分で、患者(ニーゼはクライアントと呼ぶ)にとってどういう形でいることが幸せなのか、内面の調和を得られるのかを配慮している。しかしそういった考え方も、作業療法や現代で言うところのアニマルセラピーも、当時は型破りもいい所だったはずだ。当然、他の医師たちは強く反発し彼女への協力を拒む。また患者の家族も、精神疾患についての理解は乏しい。ある家族が病状の好転に対して、(患者は)もう良くなった・完治したんだろうと言うが、ニーゼの表情は微妙だ。こういった症状に完治というものはなく、いい状態をキープしていくというのが実際の所だと思うのだが、そういった理解は家族にはない。そして家族の言う「治った」とは本人がどうこうというより、家族にとって負担が少なく、理解しやすい状態になったということなのだ。
 本作の最後に、実在のニーゼ医師へのインタビュー映像が挿入される。その言動からも、彼女が様々なものと闘ってきた人だということがわかってくる。作中でもニーゼは戦い続けるが、実を結ぶとは限らない。特に時代との戦いはきつかったのではないかと思う。彼女の治療方法も女性医師であることも現代では珍しくないが、当時は時代を先取りしすぎたものだったのだろう。
 ニーゼは患者らに親身になって接し、創作意欲を引出していくが、彼女の立ち位置はあくまで治療者であり医であり、その線引きは明確にされている。全て「医療」としてやっていることなのだ。患者に深入りしすぎる若いスタッフを叱責するのも、患者の作品の展示方法について「日付順でないと意味がない」と指摘するのもそれ故だろう。医師は医師でしかなく、患者の家族にもパートナーにもなれないのだ。彼女の支援者が医療ではなく芸術分野から出てきたのは皮肉でもある。彼女にとっては、アートが主目的ではなかったのだろうから。

『人間の値打ち』

 不動産業者のディーノ(ファブリツィオ・ベンティボリオ)は、娘セレーナ(マティルデ・ジョリ)の恋人マッシミリアーノ(フリエルモ・ピネッリ)の父親で有名な投資家のジョバンニ・ベルナスキ(ファブリツイォ・ジフーニ)に近づき、彼のファンドへ投資させてほしいと頼み込む。ベルナスキ夫人のカルラ(ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ)は空疎な毎日を送っていたが、古くからある町の唯一の劇場が取り壊されそうだと知り、劇場再建の為の出資を夫に頼み、地元の劇作家や評論家らによる運営委員会を立ち上げる。セレーナは継母でカウンセラーのロベルタの職場で、ルカ(ジョヴァンニ・アンザルド)と知り合う。そしてクリスマスイヴ前夜、1人の男性がひき逃げにあう事件が起きた。監督・脚本はパオロ・ヴィルズィ。
 エンドロール前の字幕による解説が、題名の「値打ち」ってそのものずばりで、このことかーとげんなりさせる。やっぱり金か!ただ、お金で量られることそのものというよりも、その計量が、その人がどういう人なのかどういう人生なのかということとは関係なく、全くの第三者に表層的な部分でシステマティックに決められてしまうということが辛い。お金で量るというのは、そういうこと(あからさまにわかりやすくすること)なのだろうけど。
 ディーノの貪欲さ、「上流社会」への憧れみたいなものが実にいやらしいのだが、ちょっと不思議でもあった。自宅の様子や、セレーナを富裕層の子女が通っているらしい私立校に入れていることからすると、彼はそこそこいい暮らしをしていると言えるだろう。詐欺まがいの嘘までついて無理な借金をし投資するというのは、リスクが高すぎて現実的とは思えないが、そこまでしてお金がほしい、あるいはベルナスキが象徴するような富裕層の世界に入ってみたかったのか。自分ではベルナスキの仲間になったつもりでも、周囲はそうは見ないと思うが。いずれにせよ、いやちょっと現実見て!他にやることあるだろ!と突っ込みたくなる。
 ディーノと比べるとベルナスキがやたらとちゃんとした人に見えてしまうし、ちゃんとした人ではあるのだろう。しかし、妻や息子をアクセサリー扱いしていることが分かってくる。利己的という点ではディーノと同じなのかもしれない。また、夫にアクセサリー扱いされる日々に空疎さを抱えているカルラも、その空疎さを埋める為、手近にあった物・人を利用しただけに見えてくるのだ。人間の身勝手さ、貪欲さが前面に押し出されているので、ぱきっとして湿度は低い作風ながらも、ちょっとげんなりとする。
 唯一、誰かを守る為に動く(それも自分本位なやり方と言えなくはないものの)セレーナだけが、危なっかしくも頼もしかった。彼女に比べると、マッシミリアーノもルカも頭悪いわメンタル弱いわで、年齢相応とはわかっていても若干イライラした。セレーナの八方塞感を察知できる人がいないのだ。唯一、彼女の異変に気付き気遣えるのが、彼女とは血縁がなく、親子の内情も知らないはずのロベルタだというところが面白い。カウンセラーという職業柄もあるのかもしれないが、家庭内ではともすると大雑把に見えた彼女の側面が垣間見える。

『虹蛇と眠る女』

 オーストラリアの小さな町に越してきたキャサリン(ニコール・キッドマン)とマシュー(ジョセフ・ファインズ)一家。ティーンエイジャーの娘と小学生の息子は狭い田舎町に馴染めず、うんざりしている。ある夜、子供たちが姿を消した。砂漠に囲まれた土地で暑さに耐えられるのは2~3日。警官のレイ(ヒューゴ・ウィーヴィング)を筆頭に大規模な捜索が行われるが、子供たちは見つからず、夫婦に疑いの目が向けられていく。監督はキム・ファラント。
 出演者はビッグネームだが作品自体はこぢんまりとして地味。しかし不思議な雰囲気がある。オーストラリアの風土によるところも大きい。本作の舞台となるのは、オーストラリアの中でも内陸の荒野と岩山が連なる地帯。乾燥しており作中ではすさまじい砂嵐も起きる。(特に日本のような水の豊かな土地の住んでいると)人間を突き放すような「遠い」感じがする風土だ。とにかく日差しが強くて暑そうなのも印象に残る。こんな土地で迷子になったら、レイが危惧する通り、生きて帰れないだろう。一方で、こういう土地だったら人1人くらい神隠しにあっても不思議ではないという気もしてくる。
 もっとも本作、謎に対して明らかな解があるわけではない。焦点があてられているのは失踪事件ではなく、子供の失踪によって夫婦の関係、そしてキャサリンとマシューそれぞれがどんどん崩れていく様だ。実は長女は過去にある問題を起こし、その為一家は引っ越したのだ。以来、夫婦の間でも、娘との間でも溝があからさまになっていく。本作において謎であるのは、失踪事件ではなく、人の心の中、特にごく身近な人の心の中だろう。キャサリンもマシューも娘の日記を見てショックを受けるが、それは娘の別の一面を目の当たりにしたからだろう。また、キャサリンがマシューに対してセックスを求めるのは、彼女が彼に対して「わかる」と思える方法が、目下それしかないからではないか。2人の言葉はずっと噛み合わず、子供たちを心配する度合いもどこかずれている。
 また、キャサリンは町という共同体からも「わからない」もの扱いされている。彼女らが暮らす小さな町は、荒れているというわけではないが、何しろ周囲は砂漠みたいなものなので殺風景だし、都会からは遠く隔たれている。町の中でもお互いが顔見知りみたいなものなので、時には息が詰まりそうになるだろう。そんな中で、子供の失踪事件が起きる。キャサリンたちは元々よそ者で異質な存在だが、この事件をきっかけに更に異質なものとして見られていく。その視線に連動するように、キャサリンの言動は不安定さを増し、自ら共同体からはみ出ていくのだ。マシューへの態度とは対称的で、相手を自ら突き放してしまうようでもある。
 一つの事件をきっかけとして、家族同士、また家族と周囲とのかろうじてあったコミュニケーションのあり方が、がたがたに崩れ、再生の兆しは見えない。キャサリンはこの後この町に住み続けることが出来るのだろうかとふと考えてしまう。

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