3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『ナイスガイズ!』

 1976年のデトロイト。シングルファーザーの探偵マーチ(ライアン・ゴズリング)と腕っぷしの強い示談屋ヒーリー(ラッセル・クロウ)は、なりゆきでコンビを組み、失踪した少女アマンダを探すことになる。アマンダはポルノ映画の撮影に関わっていたらしいが、その映画の関係者である女優も監督も殺されていた。監督・脚本はシェーン・ブラック。
 予想以上に70年代感漂う作品で、ストーリー展開のユルさものたのた進行も70年代の探偵映画の雰囲気を狙ったのかな?ってくらい。どこか懐かしいのだ。そしてライアン・ゴスリングは70年代ファッションが異様に似合う。現代のファッションよりも似合っているんじゃないだろうか。本作、ゴズリングが痛さのあまりにキーキー言ったりえぐえぐ泣いたりあたふたしたりする、基本的にあまりかっこいいところがないゴズリング映画なのだが、今まで見た彼の演技の中では一番好きかもしれない。情けないが憎めない味わいがある。そしてラッセル・クロウはいつものラッセル・クロウ(殴る・唸る・暴れる)な感じだった。一見穏やかで常識人に見えるマーチが諸々だらしなくぼんくらで、一見暴力で全部解決する系のヒーリーは意外と常識人で頭も回るという凸凹感も楽しい。
 加えて、マーチの娘ホリーが聡明かつ心が優しい良い子で、清涼剤のようだった。本当は色々思う所あるけれど言わないという健気さにも泣ける。マーチは終始、彼女に支えられているのだ。ちょっと娘に寄りかかりすぎじゃないのと思わなくもないが、多分娘がいるから道を踏み外さなくて済んでる(それでも結構外してるけど・・・)タイプの人なんだろうな・・・。ホリーに対しては父親であるマーチはもちろん、強面のヒーリーも誠実にならざるを得ない。ホリーに「殺したの?」と問われるヒーリーの表情には何とも言えないものがあった。まあそう答えるしかないよ・・・。
 妙に脇道が多く、同じ場所をぐるぐる回っていくようなストーリー展開で、これ回転数もうちょっと減らせるんじゃないかな?とも思ったが、そこもまた味か。ユルいコメディとユルいサスペンスを足して2で割った感じで、肩の力を抜いて楽しく見られる。子供の頃、テレビで午後放送されていた映画の中の「大当たり」作品といった味わい。とは言え、能天気な話かと思っていたら(実際最初はかなり能天気だし)、意外と生臭い展開になってくる。デトロイトの現状を見ると、無常感を感じざるを得ない。
 ところで、マーチは借家とは言え結構いい家に住んでいる。元の家も近所なので、実はそこそこ稼いでるってことなのかな?それとも妻が稼いでたの?彼の探偵仕事は腕がいいとは考えにくいんだけど・・・。

『永い言い訳』

 津村啓というペンネームで執筆している人気作家の衣笠幸夫の元に、バス事故で妻・夏子(深津絵里)が亡くなったという知らせが入る。しかし知らせが入った時、幸夫は浮気中だった。夫婦の間に既に愛情はなく、幸夫は悲しみに暮れる夫を演じるだけだった。そんな幸夫の前に、同じバス事故で、夏子の友人であった妻を亡くした大宮(竹原ピストル)が現れる。2人の子供を抱える大宮は、妻を亡くした悲しみに耐えかねていた。幸夫は大宮家に通い、トラック運転手の大宮に代わって子供達と留守番をするようになる。監督・脚本・原作は西川美和。
 幸夫のいけ好かなさが、夏子にヘアカットをしてもらうシーン数分間で如何なく発揮されており、西川監督の演出の上手さと、人間のかっこ悪さに対する感覚の鋭さに唸る。こういう、自分の不備を引き受けられなくて言い訳ばかりする人っているよなー!というか自分がやっちゃうよなー!という大変居心地の悪い気分にさせられる。幸夫はルックスはいいし立ち居振る舞いにもあたりさわりがない、ぱっと見はちゃんとした社会人だが、実の所は利己的で自分がどう見られているのか気になってしょうがない(エゴサーチするシーンの検索ワードの組み合わせには笑ってしまった)。妻が死んで初めて、彼女が何を考えていたのか、というよりも彼女にも彼女の感情と人生があり、夫に向けた感情があったと気付く。しかし相手は既にいなくなっており、彼女の感情がどのようなものだったのかは、永遠にわからない。
 幸夫はなりゆきで大宮家の子供達の世話をするようになるが、マネージャーからは現実逃避だと指摘される。それももっともで、幸夫は妻の不在、妻に対するわからなさと向き合いたくないのだろう。しかし、現実逃避だった行動が、徐々に彼にとって本当に「現実」になっていく。他人に関心を向けなかった幸夫が、本気で子供達を案じ、可愛がるようになっていく。もちろん彼は子供達の家族ではないし、家族の代わりにもなれない。幸夫にとって人生を分かち合うはずだった家族は、既に失われている。その出遅れ感、取り返しのつかなさが、ずっとつきまとうのだ。
 もっとも、仲良く見える大宮父子の間にも、やはりわからなさはある。大宮は幸夫とは対称的に、不器用だが自分の思いをそのまま口に出すことに躊躇がない。洗練されてはいないし、時によっては「それはまずいんじゃ・・・」ということもあるが、時には幸夫の「言葉プロ」としての言葉よりも他人の心を打つ。しかし、大宮の長男にとって、それは気恥ずかしいことだ。息子は息子で母親の死を悲しんでいるのだが、その表出の仕方が大宮とは違うし、大宮にはそれがぴんとこない。家族にしろ何にしろ、誰かと共に生きることは素晴らしいことなのだろうが、同時に、関係性が続く限り相手をわかろうとし続けなければならない、相手へはたらき続けなければ維持できない厄介なものでもあるのだろう。幸夫と夏子は戸籍上の夫婦としては維持されていたが、もう相手をわかろうとすることはなくなっており、関係性としては終わっていたのかもしれない。
 本作のラスト、今までの西川監督作品と比べるとかなり優しい、人によっては温いと感じられるものだ。しかし、監督はそういう指摘を受けるであろうことは当然予測して、あえてこの締め方にしたのだろう。そういう選択を今回あえてした、という所がとても面白いなと思った。

『夏の黄昏』

カーソン・マッカラーズ著、加島祥造訳
最近、『結婚式のメンバー』として村上春樹による新訳が出た、マッカラーズの代表作。本著は1990年に福武文庫から出たバージョンになるが、ご厚意により読み比べることが出来た。作品の印象はそれほど変わらない。ただ、村上版の方がより乾いており、主人公であるフランキーと周囲の「ずれ」が際立っていたと思う。また、特にベレニスの言葉や彼女に関する表現は村上訳の方が生き生きとしている気がする。対して加島訳の本著は、夏のねばっこい暑さやけだるさ等、フランキーを取り巻く空気感がより感じられた。ただ、文章上には表れていないが、訳者解説で言及されている加島の本作に対する解釈は、ちょっと違うんじゃないかなと思った。加島は本作を、フランキーが大人になる一夏の物語としてとらえている。それは間違いではないのだが、本作は「一夏」ではなく、おそらくフランキーがこの先ずっと、大人になっても抱えていく如何ともし難さを描いているように思う。大人になっても住むところが変わっても、フランキーはフランキーでそれ以外になれない、というところに苦しさがあるのではないか。「(中略)あたしはどこまでいってもあたしでしかないし、あんたはどこまでいってもあんたでしかない。こういうこと今まで考えたことない?変だと思わなかった?」

『名もなき塀の中の王』

 少年院でトラブルばかり起こしたエリック(ジャック・オコンネル)は、19歳にしてとうとう刑務所に移送されてしまう。そこには彼の父・ネビル(ベン・メンデルスゾーン)も収容されていた。囚人の更生に尽力する心理療法士オリバー・バウマー(ルパート・フレンド)のグループ療法に参加するうち、エリックは徐々に変化していく。しかし彼の行動を問題視する人たちもいた。監督はデヴィッド・マッケンジー。
 マッケンジー監督作品は『猟人日記』『パーフェクト・センス』と見てきたが、毎回方向性は違うが、どこか似た不思議な雰囲気がある。どこか強く緊張させられる、何かに脅かされそうな気配があるのだ。本作の場合、刑務所という荒っぽい舞台と、何をしでかすかわからず爆発しそうなエリック達のぴりぴり感が緊張を強いる。実際、ちょっとしたことで誰もが暴力を爆発させるし、そうしないとこの場では臆病者扱いされてなめられるのだ。しかし彼らの暴力は、周囲を威嚇するものであると同時に、周囲に対する怯えの一つの形でもある。
 バウマーは怒りや恐怖をコントロールする方法をエリックに教えようとする。怒りや暴力に流されないこと、周囲に派生させないことが自分を守ることになるのだ。ただ、バウマーが教える自衛の方法は、出所した後、一般社会の中で最も有効であり、刑務所という特殊な世界の中では必ずしもエリックを守らない。一方ネビルは、刑務所の中の作法をエリックに教え込み、自身もその作法でエリックを守ろうとする。しかしそのやり方は刑務所の中でしか有効ではなく、エリックをその世界に縛り付けること、彼が自立していく力をそぐことになりかねない。
 ネビルとエリックの間には、一般的な父子のような情愛や絆はない。そもそも一緒に生活していたことがあまりないようだ。それでもネビルはエリックのことを彼なりに愛している。その愛は一方的かつ利己的でエリックを自分の所有物のように扱うものでもあるのだが。変わっていく息子の前で狼狽しいらつくネビルの姿は、滑稽でもあるがどこか物悲しくもある。そんな彼が最後に見せる底力が深く記憶に残る。

『夏をゆく人々』

 イタリア中部、トスカーナ地方の村。ジェルソミーナは4人姉妹の長女だ。両親は昔ながらの方法で養蜂を営んでいる。ジェルソミーナは養蜂の筋が良く、父親と一緒に作業に励んでいた。夏、一家は更正プログラムの一環として1人の少年を預かる。少年はドイツ語しか喋れず、ジェルソミーナとのやりとりもぎこちない。一方、村に地方の産業を取り上げるテレビ番組の取材が入り、ジェルソミーナは番組に出たいと願うが、父親は猛反対する。監督はアリーチェ・ロルヴァケル。
 ジェルソミーナはとにかくよく働く。彼女が特に「いい子」というわけではなく、この家ではこれが普通なのだろう。ジェルソミーナもおそらく不平不満があるし、二女である妹の扱いがかなり粗雑(これはそうしてしまう気持ちもわかる・・・半分八つ当たり、半分は妹がとにかくトロいからだろうな)なあたりはまだ子供っぽい。ジェルソミーナはまだ子供でもあるが、大人の世界に半分くらい踏み出している。大人になるというのは、両親の不完全さに気付くということでもある。ジェルソミーナは両親、特に父親に(養蜂を媒介とした)愛着があるので、父親の不完全さを目の当たりにしていく様は、一層切ない。
 ジェルソミーナの目は家族の輪の中から外の世界に向けられていく。しかし、父親にはそれがわからない。父親にとって、彼女はまだ幼い子供のままだ。父親が持ってきた「おみやげ」を見るジェルソミーナの表情が何とも言えない。ここまでくるともう笑っちゃう、情けなくて泣きそうだけど笑うしかないといった雰囲気だ(これを演じた女優は素晴らしい)。一家は喧嘩はするが特に仲が悪いわけではない。しかし、この家族は徐々に、自然に解体していくのではという別れの予感が漂うラストが印象に残った。これは家族の最後の「夏」の物語だったのかなと。
 本作、一見地味なのだが、ちゃんとした大人がほぼ出てこないというなかなかパンチのきいた側面もある。父親の不真面目ではないのに漂うろくでなし感、実生活への疎さがもうやりきれなくてやりきれなくて・・・。父親の妹の生活力のなさにもびっくりする。ずっと少女のような気分でいる人なんだろうけど、子供の前では大人の役割をやってくれないと子供が困るよ・・・。

『ナイトクローラー』

 ケチな盗みで生活していたルイス・ブルーム(ジェイク・ギレンホール)は、たまたま出くわした事故現場で、報道用映像専門のパパラッチの存在を知り、自分もやってみようと思いつく。徐々に腕を上げ、ルイスは過激な映像で高額を稼ぐようになるが、更に強烈なスクープを求め、ついに一線を越えてしまう。監督はダン・ギルロイ。
 コンパクトにまとまっていて大変面白かった。ルイスの言動は妙に真面目で、こと仕事に関しては勉強家・努力家だ。機材の使い方もちゃんとマスターしていくし、自己啓発本からコピーしたような言葉をしたり顔で言ったりもする。ただ、その努力と目的達成の方法に良心は伴わず、自分なりの価値観、職業倫理みたいなものは持ち合わせていないというところが特異に見える。いわゆるサイコパスとはまた違って、他人の心にも自分の心にも頓着しない。人を利用するのも捨て駒にするのも平気だ。
 そんな人なので、ルイスと他の人との会話はどこかちぐはぐだ。ルイスがインターネットや自己啓発本から拾ってきたような言葉しか使わないからというのもあるのだが、そもそも相手に固有の人格や尊厳があるというのを度外視している感じの振る舞いなのだ。ルイスはテレビ局の女性ディレクターに「交渉」すると言うが、実際の所、自分の要求を押し付けるだけで相手からの交渉は拒否する。相手が対等の立場で自分と関わろうとするのは嫌がるのだ。つまり、いわゆるコミュニケーションを求めているわけではないのだと思う。ある意味非常に合理的だが、合理的すぎる。
 ルイスの振る舞いには、いわゆる人間味、というよりも人としての個性みたいなものがない。金が欲しいという欲は人間的ではあるのだが、その欲望の満たし方があまりにも極端なので、人間的に見えないのだ。ルイスが最も人間的な部分、というか彼の個性みたいなものを見せるのは、事故現場の撮影においてではないだろうか。よりショッキングな映像を追い求めるルイスは、とうとう自ら現場に「手を入れる」。その時の彼は、ここをこう撮りたい、こういう絵が欲しい、こうすればより良い絵になる、ということをはっきりと意識してる。非倫理的ではあるが、そこに彼の人間味みたいなものがあったようにも思う。


『涙するまで、生きる』

 1954年、フランスからの独立運動が高まり、鎮圧の為フランスからの軍隊派遣も始まったアルジェリア。学校の教師で予備軍人のダリュ(ヴィゴ・モーテンセン)は、従兄殺しで逮捕されたアラブ人のモハメド(レダ・カテブ)を、山向こうの町タンギーに送り届けてほしいと憲兵に頼まれる。モハメドは被害者遺族にも復讐の為に追われていたのだ。ダリュはしぶしぶ引き受けタンギーへと向かうが、フランス軍とアルジェリア軍との戦いに巻き込まれる。原作はカミュの短編「客」、監督はダヴィド・オールホッツェン。
 開けた風景、抑制のきいたドラマという、私好みの作品だった。まだ若い監督みたいだけど、ずいぶん老成した作風だと思う。
 ダリュはその出自のせいで、フランス人ともアルジェリア人ともつかない存在として生きてきたことが徐々に明らかになっていく。彼の出自を考えると、モハメドに対する態度も、最後にモハメドにある道を勧める意味も、よりわかってくる。そういう立ち位置であっても生きていける、出自や背景に殉ずる必要は必ずしもないということだと思う。
 原作とはラストが大幅に違うそうだ。おそらく、それを含めてかなり原作のエピソードや構成変えているのではないかと思う。そうすることで、今の時代にこの原作、この舞台を使ってドラマを作ることの意味が強まったのではないだろうか。原作通りのラストだと、少々宗教的すぎるのではないか思う。今はむしろ、そこから離れることが要請されているんじゃないかなという気がした。原作の意図からはずれてしまうのかもしれないが、今映画化するならこういうやり方になるだろうな、と納得させられる。
 それにしてもモーテンセンの俳優としての有能ぶりはすごい(最近はプロデューサーとしても活躍しているらしいが)。演技力は言うまでもないが、複数の言語をこなせて、どこの国の人と言われてもなんとなく納得させてしまう風貌をしているというのは、すごい強みなんだろう。本作、彼とモハメド役のカテブの演技力に依るところがかなり大きい。2人ともあからさまでなく、さりげなく上手い演技で、役柄の振る舞いに説得力がある。


『ナイト・ミュージアム エジプト王の秘密』

 アメリカ自然史博物館で、夜ごと展示物に命を吹き込んでいたエジプト王の石板が、急に変色し始めた。ティディ・ルーズベルト(の人形)(ロビン・ウィリアムズ)はじめ、博物館の仲間たちにも異変が生じ始める。警備員のラリー(ベン・スティラー)は仲間を救う為、石板を作らせたエジプト王であり、ファラオ・アクメンラー(ラミ・マレック)の父親であるマレンカレ(ベン・キングスレー)がいる(正確にはマレンカレのミイラが収蔵されている)ロンドン・大英博物館に向かう。監督はショーン・レビ。
 このシリーズも3作目。そして本作が完結編となる。相変わらずストーリーの作りは大雑把だし、相変わらずくっだらないなーと思うギャグも多いしちょっと子供っぽい(子供も主要客層の作品だから当然なんだけど)ことは子供っぽい。正直、すごく面白いと思っているわけではない。しかし、このシリーズはなんとなく嫌いになれない、むしろ愛着すらある。博物館を走り回りたい!あの骨格標本もあのはく製も蝋人形も動けばいいのに!という博物館好きの願望を満たしてくれるからという大きな理由はあるのだが、基本的に悪人が出てこないし、登場人物が皆(それなりに)どこか優しいからということがある。そして何より、本シリーズは博物館は良いものだ、(直接お金は生まないかもしれないが)学習することはいいことだ、という確信の上に作られているからではないかと思う。シリーズ2作目でのラリーの選択は正にそういう考え方によるものだろう。そして本作でも、アメリカ自然史博物館の仲間たちのある選択、そしてラリーの進む道は、その延長線上にあると思う。
 どこか子供っぽい人物であったラリーが、「保護者」「守護者」として考えるようになるというところには、彼の成長を感じさせるし、その上でのラストには納得。もう「保護者」がいなくても大丈夫ってことでもあるし、次の人にその場を譲ろうってことかもしれない。その役回りをラリー自身が納得しているように見えるところに、なんだかぐっときた。
 なお、シリーズ追っている人にとっては、カウボーイ・ジュデダイア(オーウェン・ウィルソン)とローマ兵士オクタヴィウス(スティーブ・クーガン)のミニチュアコンビのわちゃわちゃ加減が相変わらず楽しいことと思う。オクラヴィウスはもしかしてゲイ?って演出がちょいちょいされているのだが、周囲がだんだんそれに慣れてきている感じが面白かった。また、これがロビン・ウィリアムズの遺作になるが、彼の役柄も重ねて見るとよりしんみるする。

『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』

 ロンドン、トラファルガー広場にある、イギリス最高峰の公立美術館、ナショナル・ギャラリー。ダ・ヴィンチ、レンブラント、ティッツィアーノら、名匠の作品が揃う同館を、ドキュメンタリーの名匠フレデリック・ワイズマン監督が、3か月にわたって取材した。しかし邦題には余計なサブタイトルがついてるなー(笑)。ワイズマン監督作品はどれも、音声やテロップによる解説、ナレーションを一切入れないストイックなつくりだが、本作も同様。
 美術館の学芸員、運営スタッフ側等、主に舞台裏にフォーカスを当てており、来客側についてはあまり映されない。もともとそういう(舞台裏見せますみたいな)趣旨の企画だったんだろうか。ワイズマンが何かの組織のドキュメンタリーを撮ると、大抵「会議は踊る」的な喧々諤々なシーンがあるけど、本作でも結構もめていそうだった。序盤、利用者のニーズをもっとつかまなければ!と広報担当らしき女性が熱弁を振るうのだが、もうちょっとその話要約して!って思ってしまった。相対する男性(責任者的ポジションと思われる)は、大衆に媚を売るなんて!とやや権威主義的なのだが、彼の主張もまあ頷ける。どちらがいいというわけではなく、色々な利用者がいるだろうからバランスの問題なんだろうけど。
 本作ならではの見せ場は修復作業のシーンだろう。チーフらしき男性の、「元に戻す」のではなく、より的確に作品を解釈することが修復なのだという言葉が印象に残った。その作品がどのような来歴で、どのように鑑賞されてきたのかということが、修復に反映されていくのだ。また、絵画の修復部分は、次の修復の時には拭い取ってしまう、後々には残らないのだそうだ。だから、次に修復する人の為に何をどうやったのか、記録を残しておくことが非常に重要だとか。普段、美術館で作品を見ているだけではなかなか気にしない部分だったので、なるほどそうかと目からウロコ。作品本体だけではなく、額縁の修復も美術館内でやっている(というケースもある)というのも新鮮だった。額縁も作品を解釈するための資料の一部になっていることもあるのかと。
 何より、ナショナル・ギャラリーに所蔵されている作品は、奴隷の売買で成された財によって収集されたものだと、学芸員による美術館の紹介の中でちゃんと言及されているところに、教育の一部を担う機関としての自負とまっとうさがあると思う。

『泣く男』

 幼い頃にアメリカに渡ったものの母親に捨てられ、中国系マフィアの殺し屋として育ったゴン(チャン・ドンゴン)は、ある仕事のミスから少女を巻き添えにしてしまう。マフィアは少女の母・モギョン(キム・ミニ)を新たな標的として指令を下し、ゴンは祖国である韓国へと渡った。しかし深く悲しむモギョンを殺すことをためらってしまう。監督はイ・ジョンボム。
 マンション強襲以降の銃撃・肉弾戦の乱れ撃ちはさすがに見応えがある。特に肉弾戦の見せ方は、チャン・ドンゴンをかっこよく見せるぞ!という気合が感じられて楽しい。が、前半の流れがどうもかったるかった。本作、ストーリーはごくごくシンプルなのだが、色々と設定を盛りすぎてごちゃごちゃしている印象。そもそも、アメリカ在住の中国マフィアの一員にしておく必要がない気がする・・・。
 ガンが動くのは、悔恨や贖罪の為ではあるが、死んだ少女やその母親の無念を晴らすというよりも、自分自身の気が済むようにするため、という側面が強いように見える。彼が「疲れたんだ」と言うシーンがあるが、案外本音なんだろうなと思わせるものがあった。マフィアからは女の為に裏切るのかとなじられるが、そういうことではないんだろうな。
 そしてモギョン個人に対してどうこうというよりも、彼女が「母」であることがより大きな要因なのだろう。ゴンは母親に捨てられたという思いをずっと抱いている。自分の母親はどういう女だったのか、母親は子供を失うと悲しむものなのか、ということをずっと確認したがっているように見えるのだ。それに他人を巻き込むなよと突っ込みたくはなるが。

ギャラリー
最新コメント
アーカイブ
記事検索
  • ライブドアブログ