3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『隣の影』

静かな住宅地。老夫婦のインガ(エッダ・ビヨルグヴィンズドッテル)とバルドウィン(シグルズール・シーグルヨンソン)が隣家の中年夫婦エイビョルグ(セルマ・ビヨルンズドッテル)とコンラウズ(ソウルステイン・バックマン)にクレームをつけられた。庭木がポーチに影を落とすので切ってほしいというのだ。これを皮切りに2家の関係は悪化。身の回りで起こる災難は全て相手の嫌がらせに見えてくる。一方、インガ夫婦の息子アトリ(ステインソウル・フロアル・ステインソウルソン)は妻アグネス(ラウラ・ヨハナ・ヨンズドッテル)との関係が破綻しそうになり、実家に転がりこんできた。監督はハーフシュテイン・グンナル・シーグルズソン。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと言うかなんというか・・・。相手のやることなすこと気に食わない!というご近所付き合いの闇が広がっていく様をブラックユーモアで描いている。アイスランドの映画のユーモアってちょっと独特というか、人間の可能性にあまり期待していない感じがする。かなりシニカルだ。
2つの家庭がぶつかりあっていくが、双方の憎しみの度合いは同等のものではない。インガは少々被害妄想に走っているように見える。彼女の憎しみは大分理不尽だ。エイビョルグの妊娠を知った時の一言には、えっそっちに反応する?!そんなこと言う?!というもの。そしてコンラウズは妻の異変に気づいているが、肝心な所で逃げる。インガの変調は長男の死がきっかけらしいということが徐々にわかってくるものの、そもそも愛情のあり方にちょっと問題のある人なのでは。夫婦共にその問題、そして長男の死とちゃんと向き合ってこなかったのではと思えてくる。アトリの妻子に対する態度もかなり問題あるが、当人は自覚していない。この一家「そういう所だぞ」という部分が多すぎるのだ。隣家とのもめごとにしろ妻から愛想尽かされることにしろ、今に始まったことではなさそう。
エイビョルグとコンラウズは彼らに巻き込まれてしまったように見えてくる。2人の言動は確かに無神経だし傲慢なところもあるのだが、そこまで病的な印象ではない。何の因果で・・・。不条理劇ホラーのような作品だった。

馬々と人間たち [DVD]
イングヴァル・E・シグルズソン
オデッサ・エンタテインメント
2015-06-02






ひつじ村の兄弟 [DVD]
シグルヅル・シグルヨンソン
ギャガ
2016-07-02

『トム・オブ・フィンランド』

 第二次大戦後のフィンランド。帰還兵のトウコ・ラークソネン(ペッカ・ストラング)は広告会社でイラストレーターの仕事をしつつ、自分の為だけにたくましくセクシーな男性の絵をスケッチブックに描き続けていた。当時のフィンランドでは同性愛は法律で禁止されており、ゲイであるトウコは自分のセクシャリティを明かすことも、公の場でパートナーのヴェリ(ラウリ・ティルカネン)との関係を明かすこともできなかったのだ。トウコは作品をアメリカに送るようになり、雑誌の表紙に起用されたことがきっかけで、世界中でその作品は評判になっていく。監督はドメ・カルコスキ。
 本名で作品を発表できないトウコのペンネームが「トム・オブ・フィンランド」。実在したゲイアートの先駆者、トム・オブ・フィンランドの伝記映画だ。フィンランドでは法的に同性愛が禁止されているため、アメリカに作品を送って売っていたわけだが、トウコがあずかり知らぬところで彼の絵がどんどん知られるようになり、ゲイの人々の間で愛されるように、また彼らをエンパワメントするようになる。その流れを作家当人は全然知らないままだったという所に時代背景を感じた。ファンの招きにより渡米して初めて、トウコは自分の作品がどのように受けいられているのかということ、そして作品に勇気づけられた人たちがいることを知る。このエピソードはアートの持つ力、役割を感じさせ感動的ではあるのだが、同時にヘルシンキとカリフォルニアとの状況が違いすぎて辛くもある。同じ時代であっても生まれた場所が違うだけでこんなに自由の度合いが違うのかと。カリフォルニアで警官の振る舞いを見たトウコの表情が何とも言えない。トウコにとって警官は自分を迫害し痛めつけるもので、礼儀も尊重もなかったのだから。
 トウコの戦時中の体験と、戦後の生活、そして晩年とを行き来する構成で、彼の人生を追っていく。また同時に、彼の作品がどのように受容されていったのか、ゲイ社会がどのように変化していったのかという社会背景も映画いている。トウコが初めて渡米した頃は解放感に満ちていたのに、エイズの発症が確認されるようになると同性愛者差別が加速し、また時代が逆行したようになっていく。同性愛が法に触れなくなった後も、トウコはヴェリと外で手をつなごうとしないし、「ゲイっぽい」振る舞いをすることに抵抗があるように見えた。妹にも自分とヴェリの関係をちゃんと説明していたのかどうか、はっきりしない。職場でヘテロっぽさを強調するあまりちょっと女性へのセクハラっぽくなるあたりはいただけなかった。トウコ自身はかなり保守的というか、ゲイに対する差別と闘うといった意欲は長らくなかったように見える。長い間そういったことが禁じられていたから、隠すことが習い性になってしまっていたというのもあるだろう。彼の意識がちょっとずつ変わっていく過程を描いた物語でもある。終盤、カーテンにまつわるエピソードにはちょっとほろっとしてしまった。あの時無理だと言っていたことが、ちゃんとできるようになっているじゃないかと。時代は確実に変わるのだ。
 彼の作品はゲイの人々をエンパワメントするものだったが、作者当人はなかなか自由にはなれなかった。作品の方が作家よりも早く遠くに行けた、作家当人にはその自覚がずっと希薄だったところが面白いし、皮肉でもある。それがアートの面白さなのかもしれない。

『ドント・ウォーリー』

酒びたりの日々を送るジョン・キャラハン(ホアキン・フェニックス)は交通事故で胸から下が麻痺し、車いす生活になってしまう。更に酒に溺れるキャラハンだが、アルコール依存症の互助会に参加するうち、徐々に立ち直っていく。そして風刺漫画家として歩みだす。監督はガス・ヴァン・サント。
キャラハンの車いす生活や風刺漫画家としての開花と成功は、大きな要素ではあるもののあくまでサブストーリーであるように思った。軸になっているのはアルコール依存症からの立ち直りだ。彼がアルコールに溺れる原因はどこにあるのか、自分と向き合っていく様が、過去と現在を行き来しながら描かれる。そんなに劇的な構成ではなく、むしろ平坦にも見えるのだが、少しずつしか歩めないものである、(作中で言及されるように)回復に劇的な瞬間などないという所がポイントなのだ。一歩進んで二歩下がる、を延々と続けていく。
断酒会の様子がなかなか良い。ずけずけ物を言う人もどこか憎めないし、それぞれ事情がある中、時に失敗しつつも踏ん張っているのだろうと思える。会の“スポンサー”であるドニー(ジョナ・ヒル)は多額の遺産を相続し何一つ不自由ない優雅な生活を送っているように見えるし、ちょっと新興宗教の教祖的なうさんくさい雰囲気もある。しかし、彼がこの境地に辿りつくまでにはやはり苦しかったし、今もまた苦しいのだと徐々に見えてくる。終盤のキャラハンと彼とのやりとりは、彼がキャラハンに渡したかったものがちゃんと渡された、かつやはり「互助」なのだということを感じさせしみじみと良かった。
キャラハンの漫画は過激だという触れ込みで、あえて差別的な表現もしている。彼のガールフレンドはそれについてあっさりと「あなたは古い」と言い放つ。多分、今だったらもっと古く感じるだろう。彼の「過激さ」というのはそういうもので、表現も価値観も時代と共に常に変化していくのだと示唆される。このあたりは、キャラハンの表現を必ずしも全面的には肯定しないという、監督の倫理観なのかなと思った。
登場する人たちは基本的に皆いい人だ。困った奴、どうしようもない奴はいても悪人ではない。とはいえルーニー・マーラ演じるガールフレンドはあまりに理想的で天使すぎないかと思った。キャラハンの脳内彼女なのではという疑いを最後までぬぐえなかった。

ミルク [DVD]
ショーン・ペン
ポニーキャニオン
2009-10-21





八百万の死にざま (ハヤカワ・ミステリ文庫)
ローレンス ブロック
早川書房
1988-10-01

『ともしび』

 ベルギーのある町で、夫と慎ましく暮らしているアンナ(シャーロット・ランプリング)。しかしある日夫(アンドレ・ウィルム)は刑務所に入り、彼女の生活は少しずつ狂っていく。監督・脚本はアンドレア・パラオロ。
 邦題は「ともしび」だが、むしろともしびが消えるような話だった。原題は「Hannah」で、これには納得。あくまでアンナという1人の女性の有り様を見せる話だ。アンナの夫が何をやったのか、夫婦がどういう状況にあるのか、具体的な情報は殆ど提示されない。特に序盤は、やたらとひっそり暮らしているなという印象を受ける程度なのだが、何かよからぬことが起こっているという気配はひしひしと感じる。徐々に周囲の反応や夫の言葉から、何があったのか察することは出来るのだが、決定的な答えは観客には提示されないままだ。
 しかしそれ以上にわからないのは、アンナと夫がどのような夫婦だったのか、アンナは夫のことをどのように思っていた(思っている)のかという部分だ。2人の関係性がびっくりするくらい見えてこない。要するにそういう夫婦だったということなのかもしれないが、だからこそ、アンナが直面する諸々の問題が降ってわいたようなもの、彼女があずかり知らぬうちに降ってわいたようなものに見える。彼女にとって自分の周囲で起こることは理不尽であり不条理なものなのだ。
 ただ、アンナが夫がやったあることを全く知らなかったのか、それとも何となく気付いて見て見ぬふりをしていたのか、何とも言えないようにも思う。アンナが何かに耐えている、自分の中に押さえこんでいるものがあるということはわかるが、彼女の葛藤の正体は明かされないままだ。終盤の階段を下りるショットが妙に不吉で、目が離せなかった。どう転んでもおかしくない危うさがある。
 サントラとしての音楽は使われず、町や室内で流れている音楽のみというストイックな演出。これも本作の不穏な雰囲気を強めていた。

まぼろし<初回限定パッケージ仕様> [DVD]
シャーロット・ランプリング
東芝デジタルフロンティア
2003-03-28


さざなみ [DVD]
シャーロット・ランプリング
TCエンタテインメント
2016-10-05


『特捜部Q カルテ番号64』

 壁に塗りこまれた隠し部屋から、ミイラ化した3体の死体が発見された。過去の未解決事件専門の、コペンハーゲン警察の部署「特捜部Q」に所属するカール警部(ニコライ・リー・コス)とアサド(ファレス・ファレス)は捜査を開始する。過去に存在したある女性収容施設が関係していると睨むが。原作はユッシ・エーズラ・オールセンの同名小説。監督はクリストファー・ボー。
 過去と現在が交互に入り混じる構成だが、見ていて混乱することはない。エピソードと時間軸の交通整理がきちんとされており、結構なボリュームの原作をコンパクトにまとめている。あの原作を2時間以内に収める手腕は見事。映画単体としてはいいアレンジだったと思う。出来栄えが突出してよかった映画1作目と同等の緊張感を感じた。
 本作で表出するある人たちの思想は、ちょっと表現を変えるとあっさり受け入れられそうな所が怖い。自分たちが優れている、勝ち抜いた側だという思想って中毒性のある気持ち良さなんだろうな・・・。アサドが捜査陣の一員である意味がこれまでの作品の中で最も強い。
 過去と現在を行き来する構成によって、ある人の怒り、そしてたどり着いた境地がより深く余韻を残す。犯行の「どうやって」という部分にはあまり言及されないが(殺人としてはちょっと出来すぎだ)、「なぜ」の部分はひしひしと伝わってくる。自分の人間としての尊厳が侵されることへの怒りがそこにあるのだ。それを受けてのカールの行動もちょっと頷ける。
 最後、カールとアサドの関係が更に一歩前身しており、おおようやく!と微笑ましくなる。カールは相変わらず偏屈なのだが、アサドもローサもそんな彼のことを一貫して(時に腹を立てつつ)心配しており、こちらも微笑ましい。カールは偏屈だけど、アサドやローサの仕事能力に対してはフェアなのだ。

特捜部Q―カルテ番号64―(上) (ハヤカワ・ミステリ文庫)
ユッシ エーズラ・オールスン
早川書房
2014-12-05


特捜部Q ~キジ殺し~ [DVD]
ニコライ・リー・コス
アメイジングD.C.
2016-08-03





『ドリーム』

 アメリカとソ連が宇宙開発でしのぎを削っていた1961年。バージニア州ハンプトンのNASAラングレー研究所には、ロケット打ち上げに必要な大量の計算を行う黒人女性のチームがあった。数学の天才キャサリン(タラジ・P・ヘンソン)、管理職志望のドロシー(オクタビア・スペンサー)、エンジニア志望のメアリー(ジャネール・モネイ)はそれぞれ優れた才能を持ちながら、黒人かつ女性であることで理不尽な境遇に立たされ、出世の道も閉ざされていた。監督はセオドア・メルフィ。
 冒頭、警察官とのやり取りの中で、キャサリン、ドロシー、メアリーが3人3様の対応のトラブルへの対応方法を見せる。この人はこういうスタンスなんだ、ということが簡潔によくわかる、上手い演出だ。誰のやり方が正解というわけではなくて、それぞれのやり方がある。そして、3人はお互いにそれぞれのやり方を尊重している。この「それぞれである」ということが、本作全体を貫く一つの柱にもなっているのだ。
 キャサリンたちは、頻繁に大雑把なくくりで括られ、偏見で判断される。黒人だから専門性の高い仕事は出来ない、女性だから働くことには向いていない、といったように。しかしそれらは、世の中が勝手に決めてそういうものだと見なしているというだけで、実際には黒人であろうが白人であろうが、女性であろうが男性であろうが、数学が得意な人も不得意な人もいる。千差万別なはずなのだ。それがなぜ、黒人だから、女性だからとひとくくりにされるのか。世間がそうしているから、これまでそうだったから、という以外の具体的な理由は見当たらない。「これまでそうだったから」ということの無頓着な暴力性は作中でしばしば目にされる。これまでのやり方に準じている側は、それが差別的なことであるとは気付かないのだ。だって「これまでそうだったから」。ドロシーの上司の「偏見があるわけじゃないのよ」という言葉(とそれに対するドロシーの返し)が象徴的だった。
 キャサリンたちが掴み取ったものは、彼女らの突出した才能による「特例」であったという一面は否めない。平等にはまだほど遠いのだ。メアリーの夫が彼女が出世しようとするやり方にイラつくのもわからなくはない(白人たちの土俵で彼らに認めて「もらう」ってことだから)。しかし、彼女らは自分たちの一歩が次の誰かの一歩に繋がる、その一歩が裾野を広げていつか本当に平等が得られるはずだと信じて進むのだろう。キャサリンの両親や教師たちもまた、次の誰かの為にと尽力したのだ。
 音楽と衣装がとても良い作品でもあった。いかにも60年代ぽい楽曲の数々はファレル・ウィリアムズによるものだが、ファレルの職人技を見た感がある。また、女性達のファッションが色とりどりで目にも楽しいし、着ている人のパーソナリティが垣間見える着こなしになっている。ドロシーがスタッフを引き連れて行進するシーンは圧巻だった。

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2017-08-17


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『トランスフォーマー 最後の騎士王』

 宇宙へと去ったオプティマス・プライムは故郷のサイバトロン星で、創造主と呼ばれる存在と遭遇。創造主は地球を侵略しサイバトロン星を再生しようとしていた。地球ではオートボット達は人類の敵とみなされ、彼らをかばったことでお尋ね者となったイェーガー(マーク・ウォールバーグ)は、オートボットのバンブルビーらと身を隠していた。彼らの前にオプティマスが姿を現すが、彼は人類と敵対し、地球に隠されたタリスマンを奪おうとしていた。監督はマイケル・ベイ。
 IMAX3Dで鑑賞。本作のIMAX3Dはベイ監督が自信を持っているだけのことはあって、確かにクオリティが高い。特に後半、奥行き、高低が強調されるシーンが増えるとそれがよくわかる。むしろ、そこのみが見所と言ってもいいくらいなんだけど・・・。正直、お話は(毎度のことだが)そんなに面白いわけではない。
このシリーズ、作品数を重ねるにつれ、唐突に新しい設定をぶち込んでくるのだが、今回はそれが特に顕著。導入部分はいきなり中世イギリスのアーサー王伝説から始まり、これ本当にトランスフォーマー?という感じ。マーリンの杖がオートボットの遺産だった!オートボットと協力する秘密結社があった!という設定なのだが、何だか段々、当初の設定からずれてきているような・・・。そんな秘密結社があったならシリーズ前作までの話、大分違うものになってきそうなんだけど・・・。
 ドラマとしては人間パートが大分退屈だった。このシリーズにドラマの面白さはそんなに期待していないのだが、毎度のことながらエピソードが団子状にだらだら続く感じで緩急に乏しい。映像としては見所はたくさんあるのだが、その映像に寄り添う物語には無頓着。また、とってつけたようなセリフやシチュエーション、特に男女のやりとりのずさんさが気になった。まあ、ベイ監督作品にそういう部分のクオリティは期待していないですが・・・。
 ドラマは平坦だが、映像に関しては毎回ちゃんとアップデートされており、ベイ監督の勤勉さがうかがえる。オートボットの見せ方、見得の切らせ方が毎回上手くなっているんだよなー。今回も、オートボットのファンならここを見たいであろう、変身時の可動部分をしっかり見せてくれるし、スローモーションの使い方もやたらめったら使うのではなくここぞという所で使っている(まあムダに使っている部分もあるが)。今回はバンブルビーに新機能が加わり、「組み立てていく」感を更に味わえる。

トランスフォーマー/ロストエイジ [Blu-ray]

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2015-06-10


『20センチュリー・ウーマン』

 1979年、サンタバーバラに住むドロシア(アネット・ベニング)は、一人で育ててきた15歳の息子ジェイミー(ルーカス・ジェイド・ズユン)の教育に悩んでいた。ジェイミーの幼馴染ジュリー(エル・ファニング)と間借り人のアビー(グレタ・ガーヴィグ)に彼を助けてやってほしいと頼む。監督はマイク・ミルズ。
 世代間の価値観の違い、生きてきた時代の違い、そして時代が急速に変わっていく様をそこかしこに感じる作品だった。ジェイミーらの語りが、現在から過去であるあの頃を振り返るものだからというのも一因だが、登場人物それぞれが背負う世界の差異が、世相の変化を如実に表している。長年一人で働き子育てをしてきたドロシアは、この世代の人としては「進んでいる」かもしれないが、より若い世代であるジュリーやアビーから見ると、保守的な部分も多々ある。カーター大統領の演説に対するそれぞれの反応で、あっここに大きな溝が・・・と強烈に感じた。こういった対比の見せ方、何かに対する個々人の反応の見せ方が上手い作品でもある。
 ドロシアは息子や彼女らが生きる「今」を知り、受け入れようとはしているが、受け入れがたさも感じている。夕食会での「生理」をめぐるやりとりや、ジェイミーの朗読に対するリアクションは、自分の価値観にそれはない、とはっきり拒否するものだ。同時に、彼女は相手に対しては結構ぐいぐいいくのだが、自分に対して内面に踏み込まれることは好まない人だとわかる部分でもあった。そこは話し合わなければならない、自分のことを開示しないとならない所なんじゃないかなというシーンで、彼女はどもったり一歩引いたりと、自分の内面を見せない。
 一方、ドロシアに対して保守性を感じているであろうジュリーとアビー、そして当時としては「進んでいる」だろうアビーがジェイミーに読ませるフェミニズム関連書籍も、今の視線で見ると決して「進んでいる」とは言い切れない。進もうという意思と、まだ前世代をひきずっている部分とか混在している感じ。ジュリーとアビーがジェイミーに対して「(モテる)男らしさ」をレクチャーするが、異性に対するイメージや役割の押しつけという意味ではフェミニズムに反するのではないか。
 とはいえ、時代を越えた普遍的なものも感じる(だからこそ現代の映画として成立するんだけど)。どんなに理解がある母親でも、その「理解ある」感があからさまだったり、自分(子供)の世界に立ち入られすぎたりすると、うざったいだろう。子供のアシストを無断で他人に頼むなよ!というジェイミーの立腹はもっともだと思う。ドロシアは基本的に公明正大にやりたい人だからそういう行為をしてしまいがちなんだろうけど、ちょっとデリカシーたりないよなと。加えて、ドロシア側は自分の中に立ち入られるのを拒むので、子供としては一方的だと感じてしまうのかも。
 親子関係という面では、ドロシアとジェイミーの関係は諸々あっても基本的に良好だし信頼感はある。問題があるのは、むしろジュリーの家庭だろうなぁ・・・。自分主催のグループセラピー(ジュリーの母親はセラピスト)に娘を参加させる母親って、かなりまずいと思う。
 なお、色々な書籍が登場する作品だったが、ダイアンが読んでいた「ウサギ」ってアップダイクのこと?気になってしまった。

『トンネル 闇に鎖(とざ)された男』

 車のディーラー、イ・ジョンス(ハ・ジョンウ)は車での帰宅中、トンネルの崩落事故に遭い、がれきの中に閉じ込められてしまう。車中にはバッテリー残量78%の携帯電話、娘へのバースデーケーキと水のペットボトル2本。事故は全国ニュースになり、国を挙げての救助活動も始まるが、現地の状況は救助隊の創造を越えるものだった。監督・脚本はキム・ソンフン。
 特に前半のテンポが良く、今後ポイントとなってくるアイテムの示唆や設定の見せ方、伏線の提示などひとつひとつちゃんとやっているよ!という印象。妙な言い方だが、パーツのひとつひとつが機能的な映画だ。所々突っ込みたくなる点はあったが(バッテリーの持ちがよすぎるとか、ドローンに対して電波障害が起きるのに携帯電話は通じるのかとか)、見ている間はそれほど気にならない。脱出できるのかどうか、救出できるのかどうかというサスペンスとして、最後まで見る側を引っ張っていく。
 本作のような「閉じ込められる」系のシチュエーションは私はどちらかというと苦手なのだが、ハラハラするものの、割と落ち着いて見ることが出来た。これは、事故にあったジョンスの行動によるところが大きいと思う。ジョンスはごく普通の営業マンで特殊技能や特別な知識はない(カーディーラーなので車には多少詳しいが)。しかし、普通の人としての善良さや思いやりを持っており、それを保ち続ける。極限状態でどこまで人間性を保てるか、私だったらこんなにちゃんとした「大人」をやれないよ・・・等とぐっとくる。ジョンスも何を優先するかで大いに迷うのだが、それでも「あるべき人としての姿」を全うしようとする。そして、発狂しそうにはなるが諦めない。それは、救助隊隊長のキム・デギュン(オ・ダルス)も同様だ。彼ら2人の、個人としての勇気と真っ当さが本作の救いになっているのだ。
 ただ、個人としての振る舞いが救いになっているということは、組織としての姿にはあまり期待できるものがないということでもある。そもそもこれって人災じゃないの?!とも言いたくなる。カリカチュアされているだろうとは言え、本作での政治家官僚やマスコミ、ひいては世論の振る舞いはなかなかゲスくて辛かった。どこの国でも多かれ少なかれ、こういうものなのかもしれないが。日本でも、1人の命と多数(救助隊員等)の命とどれを取るんだ!?経済面での損害を考えろ!みたいなことは言われるんだろうなぁ。作中の事故の報道の際、アナウンサーが「またしても国民の信頼を裏切る~」的なフレーズを使うのだが、韓国では国の公共工事に対する信頼度が落ちているということなのだろうか。何か具体的な時事背景があるのかな?

『T2 トレインスポッティング』

 20年前に仲間を裏切り退勤を持ち逃げしたレントン(ユアン・マクレガー)は、全てを失い故郷のスコットランドのエディンバラに返ってきた。シック・ボーイことサイモン(ジョニー・リー・ミラー)はさびれたパブを経営する傍ら、売春や恐喝で金を稼いでいる。スパッド(ユエン・ブレムナー)は薬物依存を断ち切ろうとするも家族に愛想を尽かされ自殺を図る。ベグビー(ロバート・カーライル)は刑務所に服役していたが脱獄し、レントンへの復讐に燃える。原作はアービン・ウェルシュの小説、監督は前作に引き続きダニー・ボイル。
 はー20年か!と思わずため息をついてしまう。前作『トレイン・スポッティング』は当然劇場に見に行ったし周囲ではTシャツやらポスターやらクリアファイルやらが大流行りしていたし、サウンドトラックは当然買った。まさか今になって続編見ることになるとは・・・。見ている自分たちは当然年を取っているわけだが、作中のレントンたちもきっちり20歳老いているし、ユアン・マクレガー以外はそもそもスクリーンで見るのが久しぶりすぎる!皆、年取ったな・・・。その姿を見るだけで感慨深くもありしんみりさもあり。
 加えて、20年後の彼らは相変わらずジャンキー(スパッドは脱ジャンキーを目指しているが)で特に成長しておらず、社会的に成功しているわけでもない。見ている自分もレントンを笑えないくらい成長していないし生活はきゅうきゅうなわけで、しょっぱさ倍増である。前作では「未来を選べ」というフレーズが多用されていた。今回もレントンがヴェロニカに当時こういうフレーズが流行ったんだ、みたいなことを教えるが、当時の「未来を選べ」と今の彼にとっての「未来を選べ」は全く意味あいが違うだろう。20年前は、まだ未来は選び取るものとして、希望を孕んだものとしてあった。40代になった今、未来の枠は狭まり、先はそこそこ見えている。自分が選べるであろう中に選びたい未来などないにもかかわらず、選ばざるを得ないという辛さがあるのだ。これから世界を牛耳っていくのは自分達ではなく、ヴェロニカら下の世代なんだということが、レントンやサイモンに突きつけられていく。何者にもなれずに取り残されていくのは辛いのだが、それでもまた明日をこなしていなかなくてはならない。ラストのレントンの行動には、何だか泣き笑いしそうになった。結局そこに戻っちゃったなぁ。
 唯一前進した、未来を少し掴んだと感じられるのはスパッドだろう。本作の良心のような存在になっているが、彼は「書く」ことで自分と過去を相対化できるようになった。そうすると、未来も見えやすくなってくるのかもしれない。

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