3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『帝一の國』

 エリート学生たちが集まる超名門校・海帝高校。歴代の総理大臣は海帝高校の生徒会長出身者が多く、政財界にも強力なコネがある。主席入学した赤場帝一(菅田将暉)の野望は総理大臣になって「自分の国」を作る事。その為にはまず生徒会に食い込まねばならない。2年後の生徒会長選挙で優位に立つべく、次期生徒会長を見定めその懐に入る為、生徒会長選に身を投じる。原作は古屋兎丸の同名漫画。監督は永井聡。
 原作未読の状態で見たのだが、アバンの時点から反則的に面白い。その面白さは、主にテンポの良さと、何より主演の菅田をはじめ、出演俳優たちの全力投球ぶりによるものが大きいと思う。もちろんプロの俳優である以上何に出演しても全力投球だろうが、この作品が何を要求しているのか的確に判断し、そこに向かって思いっきり突っ込んできてるなって感じ。菅田の顔芸の数々が素晴らしく、この人最近映画に出過ぎだけど、まあ出したくなるわな!と思った。
 帝一の天敵である東郷菊馬を演じる野村周平の、下品な方向に振り切っているけどぎりぎりで下品にはならない下衆感も抜群。ベテラン勢では、帝一の父親役の吉田鋼太郎は、最近すっかりおもしろおじさんになってしまった気がするが、間の取り方等やはり上手い。帝一と一緒に試験の答え合わせをするくだりは、2人の息の合い方と吹っ切れ方が素晴らしかった。
 また、「その他」の生徒役、エキストラ的な出演者に対しても演出がしっかりしており、動きを揃えなくてはならないところの動かし方や、集団内での馴染み方がとても良かった。指導するの本当に大変だったろうな・・・。 ストーリーも設定も実に馬鹿馬鹿しく、生徒会の「権力」感等最早アナクロでそれ故にギャグになっているのだが、そういう馬鹿馬鹿しいものをすごく真面目に、フルスイングで演じ、作っている所になんだかぐっときた。
 建て付けはギャグだし、相当カリカチュアされたものでもあるのだが、帝一たちがやろうとしていることは民主主義ということだろう。帝一はとある事件により権力志向まっしぐらになるのだが、彼が加担している行為は、いわば帝政システムから、権力の一点集中と自由な行使を抑制するシステムに移行するためのものだという所が面白い。

『天使にショパンの歌声を』

 ケベックにある、修道院が経営する寄宿学校では、校長のオーギュスティーヌ(セリーヌ・ボニアー)が音楽教育に力を入れていた。ピアノコンクールでの実績もある名門校だが、経営は苦しく、母体である修道院の総長は閉鎖を考えていた。オーギュスティーヌは生徒による音楽会を開き、マスコミを見方につけ世論を動かそうとする。監督はレア・プール。
 修道院が管理する寄宿学校といっても、当然のことながら色々な雰囲気の所があるんだなと妙に感心した。カソリックの中でも音楽なんてもっての他という派もあるが、本作の修道院では肯定的に見られている。総長はオーギュスティーヌの方針に否定的だが、宗教上の方針というよりも彼女個人が「音楽が分からない」人だし、単純に音楽教育にはお金がかかり経営を圧迫するからだ。
 オーギュスティーヌは自身もかつてはピアニストであり、音楽教育に情熱を傾けている。彼女にとっては音楽は心を乱すものではなく、人生を支えるものであり、祈りのようなものでもあるのだろう。物語の時代設定は明言されないが、ラジオで女性のピル使用の是非を問う内容が放送されているシーンがあり、価値観が大きく変わりつつあるものの、女性にとってはまだ縛りの多い時代だったことが垣間見られる。オーギュスティーヌは総長から良妻賢母を育てる教育への転換を促される(おそらくカソリック修道院としては総長の考えの方が一般的なのだろう)が、「高い理想を持てと生徒たちに言っています」とはねつける。音楽の才能がある生徒にとっては、それは彼女らの人生を精神的にも生活の手段としても支え得るものだと彼女は考えているのだ。音楽にしろ何にしろ、自分に与えられたものを使って生きる、そのために闘うという姿勢が清々しい。
 生徒たちの音楽との関係は、ピアノの才能を持ちコンクールを目指すアリス(ライサンダー・メナード)以外ではさほどクローズアップされないのだが、合唱シーンでの表情は皆とてもよかった。また、アリスと仲良くなるスザンヌ(エリザベス・トレンブレイ=ギャニオン)は吃音があるのだが、歌うときはそれが消える。音楽があることが、彼女にとっての壁を壊すのだ。おそらくアリスにとっても他の生徒たちにとっても、形は違えど同じようなものなのではないだろうか。

『手紙は忘れない』

 90歳のゼヴ(クリストファー・プラマー)は妻を亡くしたが、それを時に忘れてしまうほど、物忘れがひどくなった。妻を亡くしたゼヴに、同じ老人ホームに入居している友人のマックス(マーティン・ランドー)が手紙を託す。その手紙に書いてあることを実行し、約束を果たしてほしいと頼む。2人はアウシュヴィッツの生き残りで、家族を殺したナチスの兵士は今も名前を変え生きているというのだ。その兵士の名前はルディ・コマンダー。ゼヴは復讐の為、ホームを抜け出す。監督はアトム・エゴヤン。
 ゼヴは様々なことをすぐに忘れてしまう。それが一つの仕掛けとなっているということは冒頭から察しが付く。もっとも、それで本作の面白さが削がれることはない。ゼヴの旅は(なにしろすぐに色々忘れてしまうので)危なっかしく、体力的にもヨロヨロしてきているので、大丈夫?!倒れない?!という部分でも手に汗握ってしまった。
 ゼヴが妻の死を毎回指摘されて思い出すように、記憶が消えたわけではなく、言われれば蘇る。しかし、その蘇ってきた記憶とは、どこまでが元々彼が持っていた記憶なのか。周囲が植えつけたものではないとは言い切れないのではないか。ゼヴが忘れるたび、思い出したとしても段々足元がおぼつかなくなっていくような、不安感が増していく。
 その反面、ありありと記憶している体験は、それが実際にあったことであろうとなかろうと、本人にとっては体験にほかならず、真実になってしまうのではないか。最後のある人物の行為は、その人にとって両方が本物であり、両方をわかってしまったからこその悲劇だったのではないかと思う。
 忘れる人がいる一方で、絶対に忘れない人がいる。本作の原題は『REMEMBER』。覚えている、思い出す、と同時に思い出せ、でもある。作中のある人物の復讐を思うと、何とも恐ろしく悲しい。

『ディアスポリス DIRTY YELLOW BOYS』

 東京に暮らす密入国者たちが自衛の為、独自に作った組織「異邦都庁(通称・裏都庁)」。警察として存在する「ディアスポリス」の署長・久保塚(松田翔太)と相棒の鈴木(濱野謙太)は、日々トラブル解決に奔走していた。ある日、裏都民の女性が誘拐される事件が起きる。久保塚は監禁先を突き止めるものの、彼女は既に殺されていた。黒金組の若頭・伊佐久(眞木蔵人)から、殺害現場から逃げたのは周(須賀健太)と林(NOZOMU)という中国人留学生で、彼らは「ダーティイエローボーイズ」なるアジア人犯罪組織のメンバーだと知らされる。監督は熊切和嘉。
 すぎむらしんいち/リチャード・ウーによる漫画が『ディアスポリス/異邦警察』としてTVドラマ化され、更に映画化された(企画としては最初からTV+映画のセットだったみたい)そうだが、TVドラマは未見。後で確認してみたら今日本映画を背負って立つであろう人たちが監督していて、見ればよかったなと後悔した。熊切監督はドラマ版でも数話担当しているが、おそらく映画は、ドラマよりも重いトーンになっていると思う。
 私は熊切監督の作品は(出来不出来に関わらず)結構好きなのだが、作中頻繁に、どこにも居場所がない、どこにも行けない人たちが出てくるという印象がある。その人たちが自分達の居場所として新たに共同体を作ろうとするが頓挫する、という展開も定番になっている気が。その居場所のなさが、往々にして貧しさ(経済的なものだけでなく、文化的な貧しさも)と一体化しているというところに、今日性を感じると同時に、熊切監督の作家性というか、何を見ているかという部分が色濃く表れていると思う。同世代の監督の中でも、貧しさに対するセンサーが鋭い気がする。『海炭市叙景』あたりで顕著だが、貧しさがどういう形で表出するものか肌感覚でわかっており、それを映像に落とし込むことが出来ているのではないか(『海炭~』に関しては監督が本作の舞台である北海道出身だからということもあるのかもしれないが)。
 周と林は「ダーティイエローボーイズ」を乗っ取り犯罪を重ねる。周はクレバー、林は周に忠実で腕っぷしが強い。彼らは貧しさと母国での差別から抜け出す為、犯罪者となった。しかし、この先何をしたいのか、どこへ行きたいのかは具体的なイメージは見えてこない。2人の仲間になる若者たちも同様だ。彼らは今一緒にいること、今が楽しいことが一番重要なのだろう。それは刹那的というよりも、普通の若者らしい、あるいは子供らしく友達同士で遊ぶ体験を取り戻そうとしているように見えた。周と林がサービスエリアでソフトクリームを食べるシーンは、どうということもないシーンなのだが印象に残る。こういう、気の抜けた日常は彼らには今までなかったものなんだろうと。
 出演者が皆いい。役者の選び方がうまいなと思った。特に周役の須賀は、こういうサイコパスっぽい役柄も出来るようになったのか!と唸らせる。たまにまだ子供っぽい体格なことが分かるシーンがあり、あっそうか周はまだそんな年齢なのかとはっとした。

『デッドプール』

 好き勝手に自分認定の「悪人」を退治していた元傭兵のウェイド・ウィルソン(ライアン・レイノルズ)は、ガンで余命宣告を受ける。恋人ヴァネッサ(モリーナ・バッカリン)を苦しめることに耐えられず、自分達に加わればガンの治療が可能だという謎のスカウトマンの申し出を受ける。しかしウェイドを待っていたのは残酷な人体実験だった。実験の末、驚異的な回復能力を得たものの醜い外見になったウェイドは、覆面をつけた「デッドプール」として、実験の首謀者・エイジャックスことフランシス(エド・スクレイン)への復讐に乗り出す。監督はティム・ミラー。
 デッドプールは『Xメン』からのスピンオフだそうで、作中にはウルヴァリンらの名前が出てくるし(ちなみにデッドプールは『ウルヴァリン:X-MEN ZERO』に登場していたらしいが全く記憶にない・・・)、現役Xメンのネガソニック・ティーンエイジ・ウォーヘッド(ブリアナ・ヒルデグランド)とコロッサスがデッドプールの助っ人として登場する。が、デッドプールのノリはXメンシリーズとは全く違うコミカルなものなので、本編に合流というのは難しそうだなぁ。むしろ、Xメンシリーズを知らなくてもそれなりに楽しめるというところが、本作のいいところだと思う。最近の アメコミ映画は色々合流しすぎで、一見さんお断り感が高すぎる。
冒頭から映画関係(だけではないが)の小ネタ満載、かつデッドプールがいわゆる「第4の壁」を越えて観客に話しかけ、映画の「お約束」をことごとく膝カックンさせていくという、メタ度の高い作品。しかし本作のえらいところは、そういう面がありつつも、娯楽映画としての真ん中を打ち抜いており、ほどよくおかしく楽しいところだと思う。マニアックなネタは多いし血肉も飛ぶのだが、意外と観客を選ばないと思う。妙な言い方になるが、精度が高すぎない、ほどほどに隙間があるところがいい。最近のアメコミ映画の中では尺が短め(108分)なところも素晴らしい。
 デッドプールはほぼ不死身で言動も人を食ったものだが、心も不死身というわけではない。ガンによる余命宣告を受けた時も、ヴァネッサの方は、彼と最後まで向き合うつもりでいるのに、彼はヴァネッサを苦しめるのではということばかり心配し、彼女の覚悟に思いが至らない。彼自身が自分の身に降りかかったことと向き合えずにいるのだ。また、醜くなった姿をヴァネッサに見られたくないという気持ちは十分に理解できるが、彼女に危険が迫っている時でも、彼女の反応が怖すぎて話しかけられない所など、ティーンエイジャーのようなナイーブさだ。しかし、だからこそ見ていてはっとする。本作、愚直なくらいにまっすぐなラブストーリーなのだ。

『ディーパンの戦い』

 内戦下のスリランカからフランスへ亡命する為、兵士のディーパン(アントニーターサン・ジェスターサン)は若い女性ヤリニ(カレアスワリ・スリニバサン)と少女イラヤル(カラウタヤニ・ビナシタンビ)と偽装家族を作る。パリ郊外の団地で管理人として働き、つつましい生活を始めるが、団地内には地元のギャングたちがたむろしていた。監督はジャック・オディアール。2015年、第68回カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作品。
 オディアール監督の作品を見るたび、無駄がなくて機能的という印象を受ける。かといって無味乾燥というわけではない。映画の筋肉がばっきばきに発達しているといった感じなのだ。映画が始まるなり、すぐにディーパンは行動を始め、物事は進んで行く。作中時間は結構経っている(団地に移るまでに数か月は経っている)であろうことに気付くが、その経過した時間は描かない。端折り方があっさりとしている。
 所々、(おそらく実際にこういうシチュエーションなら聞こえるだろう音よりも)やたらと音が大きく聞こえてどきっとするが、これはディーオアン達にとってのショックさ、過去の災害を思い出させるものということなのだろう。ヤリニの“外”に対する怯え方、取り残されたと勘違いしたイラヤルのパニックには、彼女らの深い傷が垣間見える。ディーパンは冷静に振る舞い、団地での生活の基盤を一つ一つ積んでいるように見える。ヤリニやイラヤルにも言うように、努めてフランス社会や団地での生活に同化しようとしている。しかしだからといって、彼に傷がないというわけではない。何かの拍子で過去の記憶は噴出し、彼を団地での生活から彼をはみ出させる。地下室で一人大声で歌うシーンは見ていて辛かった。
 ディーパンが自分の道具入れや写真立てを作ったり、エレベーターまで直したりと、DIYのベテランぶりを見せる。手先が器用だし機械に詳しい人なんだなとわかるし、その能力は管理人という仕事で発揮される。しかし一方では、母国では自分で何とかするしかなかったから上手くなったこと、おそらくその能力は「作る・直す」だけに発揮されたわけではないことが垣間見えてはっとした。
 本作のフライヤーには、クライマックスが『タクシードライバー』(マーティン・スコセッシ監督)に似ているという感想がいくつか掲載されているが、私はぴんとこなかった。『タクシードライバー』の主人公トラヴィスとディーパンとは、やった行為は似ているかもしれないが、その背景が全く違うからだ。そもそもディーパンはこういう行為のプロとして生きてきた人で、そういう自分と決別するためにフランスに来た。しかし、やむなく元の自分、捨てたはずの自分に引き戻されてしまう。確かに爽快感を感じてしまうが、人間は過去から逃れられないというとても苦いクライマックスでもある。しかしエンドロール、それでもなお彼を救い慰めようとする手があるところに、ほのかな希望が感じられる。

『ディーン、君がいた瞬間』

 1955年、マグナム・フォトの若手カメラマン、デニス・ストック(ロバート・パティンソン)は名前を売るきっかけとなる作品を撮ろうとしていたが、回される仕事はスターのスチール写真ばかり。あるパーティーで新人俳優ジェームズ・ディーン(デイン・デハーン)に出会ったストックは、彼のスター性を確信し、密着取材を頼み込む。彼の故郷インディアナにまで同行するが、なかなか納得のいく撮影はできない。監督はアントン・コービン。オーウェン・パレットによる50年代のジャズをベースにした音楽がとてもよかった。
 デハーンはそれほどジェームズ・ディーンには似ていないし、本作のディーンをはじめ実在の人物の造形が、実際のその人たちに近いのかというと何とも分からない。本作はディーンという実在のスターの姿というよりも、むしろカメラマンと被写体との関係に焦点を当てたもののように思う。カメラマンであるコービン監督の体験も反映されているのだろうか。
 ストックはディーンに何かを感じて被写体に選ぶ。一方、ディーンもストックを拒むわけではない。しかし、ストックが写真を撮り続けてもディーンが心を開いたようには見えない。むしろ、一度ストックに失望した風でもある。ストックは最初のうち、「こういう写真を撮りたい」感が強すぎる。被写体よりも自分の作品の方が先にきているのだ。もっと相手を良く見る、相手の内面に歩み寄る必要があるのだろう。この姿勢は自分の息子に対しても同じだ。ストックには別れた妻との間に幼い息子がいるが、会うのも世話するのも億劫そうで、息子との約束も破ってばかり。相手の目線に合わせていくのが彼には荷が重いのだろう。相手との距離の測り方での粘りが足りないというか、辛抱が足りないというか。
 ストックとディーンの間には、それほど共通点はない。ディーンの行きつけのバーはストックは行かないようなところだし、ディーンの故郷の農場で、都会育ちのストックが浮いてしまう様子などはユーモラスでもある。農場にスーツ着ていかないもんなぁ。そんな2人が徐々に近づいていく。2人ともまだ自分の路を模索している段階というところは共通しているのだ。ただ、2人がお互いの中に何かを見出すタイミングはずれており、2人が並走する距離はわずかだとういところが、寂しくもある。

『DENKI GROOVE THE MOVIE?石野卓球とピエール瀧』

 2014年に結成25周年を迎えた電気グルーヴ。その結成から現在までを過去の映像と、元メンバーやスタッフ、ミュージシャンらなど彼らに近い人たちの証言と共に辿るドキュメンタリー。監督は大根仁。
 ナレーションがなぜか英語で日本語字幕が付くという「なんちゃって」感にいきなり脱力させられたが、内容は至って真面目な電気グルーヴの歴史。さほど突っ込んだ内容ではないので、彼らの長年のファンには言わずもがなな内容だろう。もっとも、電気グルーヴを最近知った人、漠然と知っているけどそれほどファンってわけではない人、ピエール瀧って俳優なの?本業何なの?ってくらいの人にはお勧めしたい。おそらく膨大な素材を上手く取捨選択して編集した、いいプロモーション映画になっている。大根監督は意外とそつのない編集をするんだなー。115分飽きなかったし中だるみも感じなかった。
 本人たちへのインタビューは行わず、ライブその他の映像と関係者の話のみで構成したのは正解だったと思う。インタビューしてもまともに答えてくれそうもないしな(笑)。また、周囲の人たちが電気というある種奇特な人たちをどう見ているのか、という方が個人的には興味があった。特に元メンバーである砂原良徳から、当時の電気内の雰囲気やどういうやりとりが聞けたのはファンとしてうれしい(私は砂原さんが在籍していた当時に聞き始めたから)。脱退の時はそういう感じだったのかーとか、色々なインタビューで既に出ている話なんだと思うけど本人から肉声で聞くとやはり説得力がある。また、海外ツアーの規模とか様子とかは日本ではあまり目にすることがなかったと思うので新鮮。
 2014年フジロックフェスティバルのステージが一つのキーになっているのだが、ここまで来たんだなー!と感慨深いものがあった。可能であれば、ぜひ音響のいい方で見てほしい。多分すごく気持ちがいいと思う。このおじさんたちは、かっこいいんですよ!そしてエンドロールでのやりとりのしょうもなさ!本当に中高生男子のふざけあいのようで、この調子で無事に年とって長生きしてほしいなと妙にしみじみしてしまう。

『天使が消えた街』

 2011年、イタリア・トスカーナ州シエナで、4年前に起きたイギリス人留学生殺人事件の控訴審が始まる。事件を映画化するために現地を訪れた映画監督トーマス(ダニエル・ブリュール)は、スキャンダルとしてもてはやすマスコミに違和感を感じる。監督はマイケル・ウィンターボトム。実際に起きた事件を元にしているそうだ。
 容疑者は被害者のルームメイト。共に美人だが被害者は真面目な清純派、加害者は華やかで奔放というキャラ付けがマスコミによりされていく。その方が世間にはウケるからだ。そして容疑者サイドに対する関心が募り、被害者や遺族のことは忘れられていく。トーマスはそれに反撥を覚え、彼女たちの真実をつきとめ映画に取り入れようとする。
 しかし本作、トーマスによる真相・真犯人の追求メインにしたミステリ仕立てなのかと思っていたら、どんどん意外な方向へ転がっていく。次々と怪しげな人物が現れ、トーマスがダンテ『神曲』を作品に取り入れようとしていることもあり、幻想的な雰囲気になっていく。更に、トーマスが執筆スランプ中かつ薬物依存症という事情も加わり、彼の見聞きしたことが段々信用できなくなっていく。事件についてトーマスが調べたこと全てが彼が見た夢だったのではという気もしてくるのだ。
 とは言え、事件の裁判の結果とはまた別として、真実は当事者にしかわからないことだろう。映画化しようとストーリー付けした時点で、それはフィクションになってしまう。当事者が死んでいる以上、真実はわからないままだ。トーマスは実在の「彼女」を誠実に映画化しようとするが、それは、彼が関わっていない以上、出来事の結末を描けないということなのだ。モデルに誠実であればあるほど、明確なストーリーは消え、結末はあいまいになっていく。
 ウィンターボトム監督は実在の人物や出来事を元にした映画をしばしば製作している。そのウィンターボトムが本作のような作品を撮るというのは意外でもあった。自戒か贖罪みたいなものなのだろうか。

『ディオールと私』

 2012年、老舗メゾンのクリスチャン・ディオールに、スティックディレクターとしてラフ・シモンズが就任した。自身のブランド「ジル・サンダー」で活躍していたシモンズだが、オートクチュールの経験はゼロ。彼の抜擢はファッション界を驚かせた。8週間後に迫った新作コレクション、そしてシモンズにとってのディオールでの初コレクションを成功させる為、シモンズと職人たちは奔走する。ディオールの全面協力のもと、メゾンの内側に迫ったドキュメンタリー。監督はフレデリック・チェン。
 わりとあっさり目のドキュメンタリーで、ファッションに造詣が深い人にとっては物足りないのかもしれないが、この方面に疎い私には面白かった。見ているうちに、ラフ・シモンズという人への好感が湧いてくるし、何より、ディオールの職人たちの仕事に対するプライド、愛着が眩しい。職人たちにとっては、ディオールを支えているのは自分たちだ!という自負がある。プレタポルテ出身のシモンズに対しては、よそ者(実際よそから来ているわけだけど)感が否めず、信頼していいのかどうかという雰囲気。シモンズがフランス語をそんなに堪能ではないという事情もあり、なかなか双方の意思がかみ合っていかずもどかしい。
 そこをカバーしようとするシモンズのアシスタントや、ブランド運営陣営も必死だ。特にアシスタントの人は、職人たちへの気遣いも細やかだし、率先して何でもやるし茶目っ気があって人好きするしで、本当に有能かつ気配りのできる人なんだなと感じさせられた。こういう人が支えてくれたら、心強いだろうなー。本作を見る限りだと、シモンズはあまり神経の太い方ではなく、むしろ内気で人前で諸々をやるのは苦手みたいなので、コミュニケーション能力高くて社交的なアシスタントが必要なんだろう。
 登場する職人たちの語り口がチャーミング。すごく心配性な職長や、ベテランのお針子ら、老若男女入り混じっているが、皆ディオールで働いているということが誇りなんだろうなと。また、メゾンがどうやって経営を成り立たせているかという一面も垣間見えて興味深かった。職長の一人が顧客のドレスの調整の為に海外出張してしまい、シモンズが激怒するというシーンがあるのだが、一度に高額購入する顧客をこうやってキープしているからこそ、オートクチュールは成立しているんだなと納得(シモンズも頭ではわかってるんだろうけど(笑))。オートクチュールに対してはバカ高いというくらいのイメージしかなかったのだが、これだけ手間暇かけて作っているならそのお値段も納得だ。
 ディオールの自伝である『ディオールと私』の朗読が随所で挿入されるが、シモンズが「(コレクションを控えた若き日のディオールが)」今の自分と重なる、ちょっとだけ読んで読むのをやめてしまった」と言うのが印象に残る。あまり先駆者の影響を受けたくないということか、過剰に意識しちゃいそうだからやめておこうということか。ディオールというブランドにて伝統は引き継ぐけれど、自分と(創始者の)ディオールは別人で同じようにはできないし、するつもりもないってことだろう。もちろんそれでいいのだと思う。
 シモンズのディオールでの初コレクションは立体的な線が美しく、すっきりとしたデザイン(特にペプラムのついたトップスがかわいかったし、現代絵画をプリントした生地もインパクトあった。絵画を使う場合って著作権とかどうなるんだろう・・・)で私は好きだけど、評判はどうだったのかな。コレクション後の映像を見た限りでは好評だったみたいだけど。・・・と思って調べてみたらディオールでの作品が評価されて2014年にCFDA(アメリカファッション協議会)国際賞を受賞してるんですね。よかったよかった(笑)

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