3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『デッドプール2』

 最愛のパートナー・ヴァネッサ(モリーナ・バッカリン)を取り戻し順風満帆だったデッドプールことウェイド・ウィルソン(ライアン・レイノルズ)。彼の前に、1人の少年を殺す為に未来から来たサイボーグ、ケーブル(ジョシュ・ブローリン)が現れる。ヴァネッサと「良い人間になる」と約束していたデッドプールは特殊能力を持った仲間を集めて「Xフォース」を結成、少年を守ろうとするが。監督はデビッド・リーチ。
 Xメンやアベンジャーズのアメコミ映画のみならず、往年の名作から最近の珍作に至るまで、映画全般に関するネタが増量されている。OP部分はビジュアルも音楽の傾向も007オマージュなんだろうなぁ。本作を見ている人ならこのネタがわかる率が高いだろう!という観客に対する信頼(つまりサメがあれこれする映画とかお前ら好きなんだろ?って思われているということですが・・・)に基づき作られているように思う。もっとも、普段映画見ていない人でも十分楽しめるであろう作りで、そのあたりは堂々たる娯楽映画。
 過激なギャグが多いと言われる本シリーズだが、私はむしろ見ていて安心感があった。デッドプールは人殺しだしやっていることは非道ではあるのだが、どの分野の人に対しても基本的にフェアで属性による差別をしない。ここを押さえているので、下品なことをやっていても作品としてはあまり下品には感じられず、むしろすごく真面目に思える。特に女性の扱いがフラット(ヴァネッサとあれだけファックしている前作ですらも)なので、不愉快な要素が少ない。ここまでPCに配慮するヒーローはなかなかいないのでは・・・。もはやPCをギャグとして使う域だからなぁ。
 今回、タイムマシンが登場するので、これは歴史改変になってしまわない?そのあたりすごくざっくりそうだったけど大丈夫?と気になっていたのだが、やはり結構ざっくりとしている。とは言えデッドプールのキャラクターで何となく乗り切っている。デップーのキャラをここまで作り上げたレイノルズは本当にえらいよ・・・。とは言えどんなにタイムマシン使ってもあの黒歴史のことは忘れないよ!なかったことにしないで!

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『デトロイト』

 1967年の夏、ミシガン州デトロイトでは社会に対する黒人たちの不満が噴出し、暴動が起きていた。暴動が起きてから3日目の夜、アルジェ・モーテルの一室で銃声が響いた。デトロイト市警、ミシガン州警察、ミシガン陸軍州兵らがモーテルに押し入り、ピストルの捜索・押収の為に黒人宿泊客らを拘束する。デトロイト市警の白人警官たちによる強制訊問は一線を越えていく。監督はキャスリン・ビグロー。
 アメリカ史上最大の暴動と言われるデトロイト暴動の最中のある一夜を、当事者への取材を元に描いた作品で、当時の報道映像なども挿入されている。ビグロー監督作の中では一番編集がタイトで緩みがない印象。物語の核心となる一夜の出来事があまりに緊張感張りつめていて目が離せないというのもあるが、その前のシンガー志望のラリー(アルジー・スミス)らの初ステージがおじゃんなる流れ、警備員ディスミュークス(ジョン・ボイエガ)の仕事の仕方、白人警官クラウス(ウィル・ポールター)が商店から出てきた黒人を銃撃する流れ等、群像劇としての手さばきがいい。ラリーの無念さが滲む空席の劇場のシーンや、クラウスの無自覚な差別が不穏さを煽る。「一夜」への前振りをきちんとしているので、モーテルで彼らが顔を合わせた後の展開が更にきつく感じられるのだ。
 クラウスたちはたまたまモーテルにいた黒人たちが銃を所持していると決めつけ、彼らに不当な取り調べ(というより拷問)を行う。同じく宿泊していた白人女性2人に対しても、「黒人と寝た娼婦」と決めつける。彼らは自分たちが差別をしているという意識や、不当な捜査をしているという意識は希薄だ。人間、こいつには何をやってもいいんだという前提が自分の中にあると、本当に何でもやりかねないという恐ろしさを突き付けてくる。1人の警官の思考停止振りには唖然とするが、クラウスなどはむしろ治安の為の正当な行動だと思っているんだろうし、自分内の前提条件に疑問を持たない。クラウスたちが特殊なのではなく、こういう構図に置かれると誰でもそうなりかねない(今まさに自分がそうなっているかもしれない)ということの怖さだ。州兵や州警察は市警がやりすぎだと思っても我関せずで何もしない(それぞれの縄張り争い的なものもあるのだろうが)。はっきりと「人種問題には関わりたくない」と言う人もいる。そこで何か介入しておけば事態は変わったのに!とはがゆくなるが、「我関せず」という態度は自分もやってしまいがちなので非常に耳が痛い。あまり見たくないもの、直面するとしんどい(が考え続けなければならないこと)を延々と見せられるような作品だ。
 昼間は工場の作業員として、夜は警備員として働くディスミュークスは、黒人側と白人側を行き来しつつバランスを保つ。州兵に対して親切に振舞うのも、黒人少年をたしなめるのも、彼の人柄であると同時に処世術としてずっとこういう振舞いをしてきた人なんだろうなと窺えるものだ。モーテルでの彼は警察に協力する素振りを見せつつ、モーテルの客たちへの被害を食い止めようとする。しかし、彼に出来ることはわずかだ。この、「出来ることはわずか」という点が最後まで徹底している。あれだけ耐え忍んだのにこの仕打か!という顛末には、そりゃあ嘔吐もするよな!といたたまれなくなる。エンドロール前の「その後」のテロップで、現在進行形の問題であることが強く意識され更に辛くなる。ビグロー監督は『ハート・ロッカー』でも『ゼロ・ダーク・サーティ』でも辛さを避けなかったが、本作は特にそうだと思う。

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『手を失くした少女』

 東京アニメアワードフェスティバル2017のコンペティション部門・長編アニメーショングランプリ受賞作品。監督はセバスチャン・ルドバース。グリム童話の「手なし娘」を下敷きに、デッサン、ペインティング風の線と色彩で構成されたアニメーション。
 アンスティチュ・フランセ東京での特別上映会で鑑賞したのだが、本編上映前に監督からの本作に対するコメント映像が15分ほどあった。それによると、作画は1人で行っており、製作スピードはかなり速かったそうだ。アニメーションというと、最初に絵コンテを切ってタイムシートを作ってそれに合わせて原画を描いていくものなのだろうが、本作の場合は、監督の頭の中におおまかなストーリーと映像の流れがあり、とにかくどんどん原画(監督によると“デッサン”)を描いていく。描いては修正し、また描き足して修正し、という繰り返しだったようで、ドローイングがそのままアニメーションの原画になっているようだ。絵のタッチも、完成した絵に拘らず、あえて線が途中で切れたり大まかなアウトラインのみの絵を繋げることで、今線を描いているような臨場感が生まれている。線のない部分も見る側は頭の中で補完して見ていることに気付き、この手法で通すことにしたのだとか。製作をスピードアップできる、かつ製作時の線の勢いをそのままアニメーションとして活かせる手法だと思う。躍動感があって、とても美しい。
 主人公の娘が能動的で、父親からも巡り合った王子からも離れて自力で生きようとする所は、今日的な造形でこれもよかった。彼女が王子からもらった金の義手を捨て、手が不自由なら不自由なりに生活を築いていく姿は、地に足の着いた感がある。果物にかぶりついたり、口も使って畑を耕し種を植える姿は、屋敷で王子を待つ生活よりもずっと生き生きとしている(このパートの作画が素晴らしいと思った)。また、王子が一人の人間として彼女についていくという結末も今の作品らしいなと思った。グリム童話的な血なまぐささや土着の臭いも濃いが、ラストは清々しい。なお本作の悪魔、やたらと諦めが悪くほぼストーカーである。聖なる力や奇跡によって撃退されるのではなく根負けして去るというのが、少女のタフさを際立たせる。

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『帝一の國』

 エリート学生たちが集まる超名門校・海帝高校。歴代の総理大臣は海帝高校の生徒会長出身者が多く、政財界にも強力なコネがある。主席入学した赤場帝一(菅田将暉)の野望は総理大臣になって「自分の国」を作る事。その為にはまず生徒会に食い込まねばならない。2年後の生徒会長選挙で優位に立つべく、次期生徒会長を見定めその懐に入る為、生徒会長選に身を投じる。原作は古屋兎丸の同名漫画。監督は永井聡。
 原作未読の状態で見たのだが、アバンの時点から反則的に面白い。その面白さは、主にテンポの良さと、何より主演の菅田をはじめ、出演俳優たちの全力投球ぶりによるものが大きいと思う。もちろんプロの俳優である以上何に出演しても全力投球だろうが、この作品が何を要求しているのか的確に判断し、そこに向かって思いっきり突っ込んできてるなって感じ。菅田の顔芸の数々が素晴らしく、この人最近映画に出過ぎだけど、まあ出したくなるわな!と思った。
 帝一の天敵である東郷菊馬を演じる野村周平の、下品な方向に振り切っているけどぎりぎりで下品にはならない下衆感も抜群。ベテラン勢では、帝一の父親役の吉田鋼太郎は、最近すっかりおもしろおじさんになってしまった気がするが、間の取り方等やはり上手い。帝一と一緒に試験の答え合わせをするくだりは、2人の息の合い方と吹っ切れ方が素晴らしかった。
 また、「その他」の生徒役、エキストラ的な出演者に対しても演出がしっかりしており、動きを揃えなくてはならないところの動かし方や、集団内での馴染み方がとても良かった。指導するの本当に大変だったろうな・・・。 ストーリーも設定も実に馬鹿馬鹿しく、生徒会の「権力」感等最早アナクロでそれ故にギャグになっているのだが、そういう馬鹿馬鹿しいものをすごく真面目に、フルスイングで演じ、作っている所になんだかぐっときた。
 建て付けはギャグだし、相当カリカチュアされたものでもあるのだが、帝一たちがやろうとしていることは民主主義ということだろう。帝一はとある事件により権力志向まっしぐらになるのだが、彼が加担している行為は、いわば帝政システムから、権力の一点集中と自由な行使を抑制するシステムに移行するためのものだという所が面白い。

『天使にショパンの歌声を』

 ケベックにある、修道院が経営する寄宿学校では、校長のオーギュスティーヌ(セリーヌ・ボニアー)が音楽教育に力を入れていた。ピアノコンクールでの実績もある名門校だが、経営は苦しく、母体である修道院の総長は閉鎖を考えていた。オーギュスティーヌは生徒による音楽会を開き、マスコミを見方につけ世論を動かそうとする。監督はレア・プール。
 修道院が管理する寄宿学校といっても、当然のことながら色々な雰囲気の所があるんだなと妙に感心した。カソリックの中でも音楽なんてもっての他という派もあるが、本作の修道院では肯定的に見られている。総長はオーギュスティーヌの方針に否定的だが、宗教上の方針というよりも彼女個人が「音楽が分からない」人だし、単純に音楽教育にはお金がかかり経営を圧迫するからだ。
 オーギュスティーヌは自身もかつてはピアニストであり、音楽教育に情熱を傾けている。彼女にとっては音楽は心を乱すものではなく、人生を支えるものであり、祈りのようなものでもあるのだろう。物語の時代設定は明言されないが、ラジオで女性のピル使用の是非を問う内容が放送されているシーンがあり、価値観が大きく変わりつつあるものの、女性にとってはまだ縛りの多い時代だったことが垣間見られる。オーギュスティーヌは総長から良妻賢母を育てる教育への転換を促される(おそらくカソリック修道院としては総長の考えの方が一般的なのだろう)が、「高い理想を持てと生徒たちに言っています」とはねつける。音楽の才能がある生徒にとっては、それは彼女らの人生を精神的にも生活の手段としても支え得るものだと彼女は考えているのだ。音楽にしろ何にしろ、自分に与えられたものを使って生きる、そのために闘うという姿勢が清々しい。
 生徒たちの音楽との関係は、ピアノの才能を持ちコンクールを目指すアリス(ライサンダー・メナード)以外ではさほどクローズアップされないのだが、合唱シーンでの表情は皆とてもよかった。また、アリスと仲良くなるスザンヌ(エリザベス・トレンブレイ=ギャニオン)は吃音があるのだが、歌うときはそれが消える。音楽があることが、彼女にとっての壁を壊すのだ。おそらくアリスにとっても他の生徒たちにとっても、形は違えど同じようなものなのではないだろうか。

『手紙は忘れない』

 90歳のゼヴ(クリストファー・プラマー)は妻を亡くしたが、それを時に忘れてしまうほど、物忘れがひどくなった。妻を亡くしたゼヴに、同じ老人ホームに入居している友人のマックス(マーティン・ランドー)が手紙を託す。その手紙に書いてあることを実行し、約束を果たしてほしいと頼む。2人はアウシュヴィッツの生き残りで、家族を殺したナチスの兵士は今も名前を変え生きているというのだ。その兵士の名前はルディ・コマンダー。ゼヴは復讐の為、ホームを抜け出す。監督はアトム・エゴヤン。
 ゼヴは様々なことをすぐに忘れてしまう。それが一つの仕掛けとなっているということは冒頭から察しが付く。もっとも、それで本作の面白さが削がれることはない。ゼヴの旅は(なにしろすぐに色々忘れてしまうので)危なっかしく、体力的にもヨロヨロしてきているので、大丈夫?!倒れない?!という部分でも手に汗握ってしまった。
 ゼヴが妻の死を毎回指摘されて思い出すように、記憶が消えたわけではなく、言われれば蘇る。しかし、その蘇ってきた記憶とは、どこまでが元々彼が持っていた記憶なのか。周囲が植えつけたものではないとは言い切れないのではないか。ゼヴが忘れるたび、思い出したとしても段々足元がおぼつかなくなっていくような、不安感が増していく。
 その反面、ありありと記憶している体験は、それが実際にあったことであろうとなかろうと、本人にとっては体験にほかならず、真実になってしまうのではないか。最後のある人物の行為は、その人にとって両方が本物であり、両方をわかってしまったからこその悲劇だったのではないかと思う。
 忘れる人がいる一方で、絶対に忘れない人がいる。本作の原題は『REMEMBER』。覚えている、思い出す、と同時に思い出せ、でもある。作中のある人物の復讐を思うと、何とも恐ろしく悲しい。

『ディアスポリス DIRTY YELLOW BOYS』

 東京に暮らす密入国者たちが自衛の為、独自に作った組織「異邦都庁(通称・裏都庁)」。警察として存在する「ディアスポリス」の署長・久保塚(松田翔太)と相棒の鈴木(濱野謙太)は、日々トラブル解決に奔走していた。ある日、裏都民の女性が誘拐される事件が起きる。久保塚は監禁先を突き止めるものの、彼女は既に殺されていた。黒金組の若頭・伊佐久(眞木蔵人)から、殺害現場から逃げたのは周(須賀健太)と林(NOZOMU)という中国人留学生で、彼らは「ダーティイエローボーイズ」なるアジア人犯罪組織のメンバーだと知らされる。監督は熊切和嘉。
 すぎむらしんいち/リチャード・ウーによる漫画が『ディアスポリス/異邦警察』としてTVドラマ化され、更に映画化された(企画としては最初からTV+映画のセットだったみたい)そうだが、TVドラマは未見。後で確認してみたら今日本映画を背負って立つであろう人たちが監督していて、見ればよかったなと後悔した。熊切監督はドラマ版でも数話担当しているが、おそらく映画は、ドラマよりも重いトーンになっていると思う。
 私は熊切監督の作品は(出来不出来に関わらず)結構好きなのだが、作中頻繁に、どこにも居場所がない、どこにも行けない人たちが出てくるという印象がある。その人たちが自分達の居場所として新たに共同体を作ろうとするが頓挫する、という展開も定番になっている気が。その居場所のなさが、往々にして貧しさ(経済的なものだけでなく、文化的な貧しさも)と一体化しているというところに、今日性を感じると同時に、熊切監督の作家性というか、何を見ているかという部分が色濃く表れていると思う。同世代の監督の中でも、貧しさに対するセンサーが鋭い気がする。『海炭市叙景』あたりで顕著だが、貧しさがどういう形で表出するものか肌感覚でわかっており、それを映像に落とし込むことが出来ているのではないか(『海炭~』に関しては監督が本作の舞台である北海道出身だからということもあるのかもしれないが)。
 周と林は「ダーティイエローボーイズ」を乗っ取り犯罪を重ねる。周はクレバー、林は周に忠実で腕っぷしが強い。彼らは貧しさと母国での差別から抜け出す為、犯罪者となった。しかし、この先何をしたいのか、どこへ行きたいのかは具体的なイメージは見えてこない。2人の仲間になる若者たちも同様だ。彼らは今一緒にいること、今が楽しいことが一番重要なのだろう。それは刹那的というよりも、普通の若者らしい、あるいは子供らしく友達同士で遊ぶ体験を取り戻そうとしているように見えた。周と林がサービスエリアでソフトクリームを食べるシーンは、どうということもないシーンなのだが印象に残る。こういう、気の抜けた日常は彼らには今までなかったものなんだろうと。
 出演者が皆いい。役者の選び方がうまいなと思った。特に周役の須賀は、こういうサイコパスっぽい役柄も出来るようになったのか!と唸らせる。たまにまだ子供っぽい体格なことが分かるシーンがあり、あっそうか周はまだそんな年齢なのかとはっとした。

『デッドプール』

 好き勝手に自分認定の「悪人」を退治していた元傭兵のウェイド・ウィルソン(ライアン・レイノルズ)は、ガンで余命宣告を受ける。恋人ヴァネッサ(モリーナ・バッカリン)を苦しめることに耐えられず、自分達に加わればガンの治療が可能だという謎のスカウトマンの申し出を受ける。しかしウェイドを待っていたのは残酷な人体実験だった。実験の末、驚異的な回復能力を得たものの醜い外見になったウェイドは、覆面をつけた「デッドプール」として、実験の首謀者・エイジャックスことフランシス(エド・スクレイン)への復讐に乗り出す。監督はティム・ミラー。
 デッドプールは『Xメン』からのスピンオフだそうで、作中にはウルヴァリンらの名前が出てくるし(ちなみにデッドプールは『ウルヴァリン:X-MEN ZERO』に登場していたらしいが全く記憶にない・・・)、現役Xメンのネガソニック・ティーンエイジ・ウォーヘッド(ブリアナ・ヒルデグランド)とコロッサスがデッドプールの助っ人として登場する。が、デッドプールのノリはXメンシリーズとは全く違うコミカルなものなので、本編に合流というのは難しそうだなぁ。むしろ、Xメンシリーズを知らなくてもそれなりに楽しめるというところが、本作のいいところだと思う。最近の アメコミ映画は色々合流しすぎで、一見さんお断り感が高すぎる。
冒頭から映画関係(だけではないが)の小ネタ満載、かつデッドプールがいわゆる「第4の壁」を越えて観客に話しかけ、映画の「お約束」をことごとく膝カックンさせていくという、メタ度の高い作品。しかし本作のえらいところは、そういう面がありつつも、娯楽映画としての真ん中を打ち抜いており、ほどよくおかしく楽しいところだと思う。マニアックなネタは多いし血肉も飛ぶのだが、意外と観客を選ばないと思う。妙な言い方になるが、精度が高すぎない、ほどほどに隙間があるところがいい。最近のアメコミ映画の中では尺が短め(108分)なところも素晴らしい。
 デッドプールはほぼ不死身で言動も人を食ったものだが、心も不死身というわけではない。ガンによる余命宣告を受けた時も、ヴァネッサの方は、彼と最後まで向き合うつもりでいるのに、彼はヴァネッサを苦しめるのではということばかり心配し、彼女の覚悟に思いが至らない。彼自身が自分の身に降りかかったことと向き合えずにいるのだ。また、醜くなった姿をヴァネッサに見られたくないという気持ちは十分に理解できるが、彼女に危険が迫っている時でも、彼女の反応が怖すぎて話しかけられない所など、ティーンエイジャーのようなナイーブさだ。しかし、だからこそ見ていてはっとする。本作、愚直なくらいにまっすぐなラブストーリーなのだ。

『ディーパンの戦い』

 内戦下のスリランカからフランスへ亡命する為、兵士のディーパン(アントニーターサン・ジェスターサン)は若い女性ヤリニ(カレアスワリ・スリニバサン)と少女イラヤル(カラウタヤニ・ビナシタンビ)と偽装家族を作る。パリ郊外の団地で管理人として働き、つつましい生活を始めるが、団地内には地元のギャングたちがたむろしていた。監督はジャック・オディアール。2015年、第68回カンヌ国際映画祭パルムドール受賞作品。
 オディアール監督の作品を見るたび、無駄がなくて機能的という印象を受ける。かといって無味乾燥というわけではない。映画の筋肉がばっきばきに発達しているといった感じなのだ。映画が始まるなり、すぐにディーパンは行動を始め、物事は進んで行く。作中時間は結構経っている(団地に移るまでに数か月は経っている)であろうことに気付くが、その経過した時間は描かない。端折り方があっさりとしている。
 所々、(おそらく実際にこういうシチュエーションなら聞こえるだろう音よりも)やたらと音が大きく聞こえてどきっとするが、これはディーオアン達にとってのショックさ、過去の災害を思い出させるものということなのだろう。ヤリニの“外”に対する怯え方、取り残されたと勘違いしたイラヤルのパニックには、彼女らの深い傷が垣間見える。ディーパンは冷静に振る舞い、団地での生活の基盤を一つ一つ積んでいるように見える。ヤリニやイラヤルにも言うように、努めてフランス社会や団地での生活に同化しようとしている。しかしだからといって、彼に傷がないというわけではない。何かの拍子で過去の記憶は噴出し、彼を団地での生活から彼をはみ出させる。地下室で一人大声で歌うシーンは見ていて辛かった。
 ディーパンが自分の道具入れや写真立てを作ったり、エレベーターまで直したりと、DIYのベテランぶりを見せる。手先が器用だし機械に詳しい人なんだなとわかるし、その能力は管理人という仕事で発揮される。しかし一方では、母国では自分で何とかするしかなかったから上手くなったこと、おそらくその能力は「作る・直す」だけに発揮されたわけではないことが垣間見えてはっとした。
 本作のフライヤーには、クライマックスが『タクシードライバー』(マーティン・スコセッシ監督)に似ているという感想がいくつか掲載されているが、私はぴんとこなかった。『タクシードライバー』の主人公トラヴィスとディーパンとは、やった行為は似ているかもしれないが、その背景が全く違うからだ。そもそもディーパンはこういう行為のプロとして生きてきた人で、そういう自分と決別するためにフランスに来た。しかし、やむなく元の自分、捨てたはずの自分に引き戻されてしまう。確かに爽快感を感じてしまうが、人間は過去から逃れられないというとても苦いクライマックスでもある。しかしエンドロール、それでもなお彼を救い慰めようとする手があるところに、ほのかな希望が感じられる。

『ディーン、君がいた瞬間』

 1955年、マグナム・フォトの若手カメラマン、デニス・ストック(ロバート・パティンソン)は名前を売るきっかけとなる作品を撮ろうとしていたが、回される仕事はスターのスチール写真ばかり。あるパーティーで新人俳優ジェームズ・ディーン(デイン・デハーン)に出会ったストックは、彼のスター性を確信し、密着取材を頼み込む。彼の故郷インディアナにまで同行するが、なかなか納得のいく撮影はできない。監督はアントン・コービン。オーウェン・パレットによる50年代のジャズをベースにした音楽がとてもよかった。
 デハーンはそれほどジェームズ・ディーンには似ていないし、本作のディーンをはじめ実在の人物の造形が、実際のその人たちに近いのかというと何とも分からない。本作はディーンという実在のスターの姿というよりも、むしろカメラマンと被写体との関係に焦点を当てたもののように思う。カメラマンであるコービン監督の体験も反映されているのだろうか。
 ストックはディーンに何かを感じて被写体に選ぶ。一方、ディーンもストックを拒むわけではない。しかし、ストックが写真を撮り続けてもディーンが心を開いたようには見えない。むしろ、一度ストックに失望した風でもある。ストックは最初のうち、「こういう写真を撮りたい」感が強すぎる。被写体よりも自分の作品の方が先にきているのだ。もっと相手を良く見る、相手の内面に歩み寄る必要があるのだろう。この姿勢は自分の息子に対しても同じだ。ストックには別れた妻との間に幼い息子がいるが、会うのも世話するのも億劫そうで、息子との約束も破ってばかり。相手の目線に合わせていくのが彼には荷が重いのだろう。相手との距離の測り方での粘りが足りないというか、辛抱が足りないというか。
 ストックとディーンの間には、それほど共通点はない。ディーンの行きつけのバーはストックは行かないようなところだし、ディーンの故郷の農場で、都会育ちのストックが浮いてしまう様子などはユーモラスでもある。農場にスーツ着ていかないもんなぁ。そんな2人が徐々に近づいていく。2人ともまだ自分の路を模索している段階というところは共通しているのだ。ただ、2人がお互いの中に何かを見出すタイミングはずれており、2人が並走する距離はわずかだとういところが、寂しくもある。

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