3つ数えて目をつぶれ

映画と本の感想のみを綴ります。特に映画。ご連絡はhoto5now★yahoo.co.jp(お手数ですが★を@に変えてください)まで。

『追想』

 1962年、新婚旅行でドーセット州のチェジル・ビーチにあるホテルを訪れたフローレンス(シアーシャ・ローナン)とエドワード(ビリー・ハウル)。海辺を散策してからホテルの部屋に戻ったものの、初夜を迎える興奮や不安で会話は続かず、気まずい空気になってしまう。ついにフローレンスは部屋を飛び出してしまい、エドワードは追いかけるが。原作はイアン・マキューアンの小説『初夜』、監督はドミニク・クック。
 エドワードとフローレンスのどちらかに非があるというわけではない。2人の中のタイミングのちょっとしたずれが、修正されないまま物事が進んでしまったのだ。そしてどたんばで修正するには、2人はまだ若すぎたのだろう。更に、この時代、この土地柄でなければまた違った展開があったのではないかと思わせられる。人生の殆どは運とタイミングで決まるのではなかろうか。
 人生の一つの可能性が失われる様は哀感漂うのだが、あくまで可能性の一つでしかない。それで2人の人生がダメになるわけではないし、悪い方に進んだと言えるわけでもない。一つの分岐を迎えただけだというクールなタッチで描かれている。本作、脚本を原作者であるマキューアンが手がけているのだが、「その後」の描写には、マキューアンちょっと丸くなったかな?とも思わされた。ほろ苦いがそれほど辛辣ではない。作家本人が年齢を重ねたせいかもしれない。若い頃に感じたこの世の終わりだ!みたいな痛切さって、後から振り返るとそこまで深刻ではなかったりする。その時は大層辛くても、とりあえず人生は進行していってしまう。そこが救いでもあり物悲しさでもある。
 フローレンスとエドワードのくい違いはセックスそのものというよりも、生まれ育った環境や階級(フローレンスの両親があからさまに嫌な顔をする・・・)、関心を持っているものの相違が積もり積もって爆発したと言った方がいいのだろう。音楽の好みの違いがわかりやすく(分かりやすすぎるくらい)その差異を象徴している。しかし一方で、2人の気持ちがぴたりと重なっていた瞬間、深く理解しあった瞬間もたくさんあることがわかるので、切なさが増す。愛は確かにあったのだ。フローレンスがエドワードの家を訪問するエピソードは本当に美しい。エドワードの母親への対応を見て、彼が泣いてしまうのもよくわかる。上手くいく可能性も当然あったんだよな。それでもタイミングがずれるとすれ違ってしまう。

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『つかのまの愛人』

 大学で哲学を教えている教師ジル(エリック・カラヴァカ)は教え子のアリアーヌ(ルイーズ・シュヴィヨット)と同棲している。ある日、ジルの娘ジャンヌ(エステール・ガレル)が転がり込んできた。恋人に振られやぶれかぶれになっていたのだ。同い年のアリアーヌとジャンヌは、ジルの恋人と娘という微妙な関係ながら、徐々に親密になっていく。監督はフィリップ・ガレル。
 ガレル監督作品は一貫して愛、恋愛を描くが、いわゆる美しい恋愛、甘美な恋愛にはあまりお目にかからない。甘美な瞬間はあるかもしれないが一転して苦くなり、時にイタく滑稽だ。ジャンヌの悲壮感と独占欲は空回りする。あなたと付き合ってからすごく自由なの!と言うアリアーヌに対しジルは同意するが、いざ彼女が「自由」である現場を目撃してしまうと嫉妬に悶え全然「自由」ではない。そしてアリアーヌはジルの「自由」に対する言葉を(意外なのだが)額面通りに捉え、後々大後悔する。愛と恋に自由はないのか、愛とは不寛容なのかとため息が出そう。
 アリアーヌとジャンヌは恋愛のあり方も服の好みも対称的で、あまり共通点はないように見える。お互い、ジルを巡るちょっとした嫉妬や混乱もあり、突発的に八つ当たり的な態度を取ったりもする。しかし、そういう行動の後ですぐに謝ったり、フォローしようとする。ほどほどの優しさと思いやりがあり、意外と2人の関係性は心地よさそうなのだ。2人とも方向性は違うが結構真面目で、自分に正直だ。
 アリアーヌは「女ってそういうもの」というように大きい主語をしばしば使うが、ジャンヌにとっての主語は常に「私」であるように思った。女性は何だかんだ言ってもこういうことには耐えられるものなのよと言われても、私は今辛いし耐えられない!というわけだ。ジャンヌは取り乱しているようでいて、自分の感情・欲望をちゃんと理解している。対してアリアーヌは自分の欲望に自覚的でその行使にも躊躇がないが、それがどういうものか(他者との関係性の中でどのように働くか)については意外と無自覚なようにも思った。2人の女性の対称性が、愛の顛末の皮肉さを含めて面白い。女性2人の存在感が強く、ジルはどうも蚊帳の外という感じだった。そもそもいくら口説かれたとは言え、娘と同い年の教え子と密かに同棲って、しょうもない奴だよね・・・。

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『追憶の森』

 青木ヶ原の樹海を訪れたアーサー・ブレナン(マシュー・マコノヒー)は自殺しようとしていた。森の奥で睡眠薬を取り出したところ、1人の日本人男性(渡辺謙)がさまよっているのを発見する。その男ナカムラ・タクミに「ここから出られない、助けてくれ」と訴えられたブレナンは彼をほおっておくことが出来ず、共に森をさまよう羽目に。森の出口を探す中で、ブレナンは妻ジョーン(ナオミ・ワッツ)のことを思い出していた。2人の結婚生活は破綻しそうになっていたのだ。監督はガス・ヴァン・サント。
 ヴァン・サント監督は、ゆるふわメルヘンな作品とウェルメイドな作品を交互にリリースする傾向にあるのか。本作はかなりゆるふわ。監督の作品の中では『永遠の僕たち』に連なるような雰囲気がある。もっとも、かわいい男子女子が主演だった前作に対して、本作はおっさん2人なわけだが。日本人キャストが登場すると言う点でも共通なのだが、ヴァン・サントの中での日本のイメージがなんとなく窺える。監督流の幽霊譚のような作品だと思う。とは言え、オリエンタリズムが強烈というわけでもなく、(おそらく樹海のシーンは日本で撮影していないのではと思うが)「なんちゃって日本」感も比較的薄い。こういう役に渡辺を起用するのか、というところでちょっと笑っちゃうといえば笑っちゃうんだけど・・・。日本人である必然性があまりないからなぁ。ただ、ゆるい映画ではあるのだが、嫌いにはなれない。
 冒頭から、くどいくらいにわかりやすい演出がされている。ブレナンがもう自宅に戻る気はない、そもそもアメリカに戻る気がないが、長い旅行に出たと言うわけでもない、というシチュエーションをいちいち見せていく。今どうなっているのか、という部分の見せ方は新設設計なのだが、なぜこういうことになったのかという過去の回想はちょっととっちらかっている。フラッシュバック的に見せたいという意図なのかもしれないし、実際記憶のよみがえりというのは一見文脈がないものだが、ナオミ・ワッツが好演しているだけに、ジョーンがどういう背景を持つ女性だったのかという部分はもうちょっと見たかった(ブレナンがそういうことに無頓着なままだったってことかな)。2人が水面下で争っている感じとか、ちょっとしたことですごく気まずい雰囲気になる瞬間とか、細かい部分は生々しいのだが。かなり「カップルあるある」な感じがした。生々しいだけに、その記憶がブレナンを苛むというのはよくわかる。

『追憶と、踊りながら』

 高齢者向けの施設で暮らすカンボジア系中国移民のジュン(チェン・ペイペイ)の元を、青年リチャード(ベン・ウィショー)が訪ねてくる。リチャードはジュンの息子カイ(アンドリュー・レオン)のパートナーだったが、カイはそれをジュンに告げることが出来ないまま死んだ。リチャードはジュンのことを気にかけ、英語を話せない彼女の為に通訳を野党。監督はホン・カウ。
 低予算映画だそうだが、低予算には見えない美術の上品さときめ細やかさ。色合いの取り合わせやふわっと柔らかく見える光の加減など魅力があった。ジュンの暮らす施設は、入居者が若い頃の気持ちに戻れるように調度を50~60年代ごろのデザインでそろえてあるという設定なのだが、ノスタルジックな雰囲気がある。
 しかし、ジュンとリチャードにとっての愛するものの死はいまだ生々しい。ジュンはカイと一緒にいることを望み、なんで施設に入れるのかとカイをなじっていた(彼女のカイへの愛が執着めいて見えてしまって少々きつかった。家族主義文化にいる彼女にとって、他人であるリチャードを優先させることは許せないのだ)。カイと同居している「友人」リチャードは、彼女にとっては邪魔者なのだ。一方リチャードは、自分がゲイであることを母親に言えなかったカイの苦しみをよくわかっていると同時に、カイと自分の間にあった愛がジュンの前ではなかったことになってしまうことに苦しむ。
 ジュンとリチャードの対面はピリピリしているのだが、どちらが悪いというわけではなく、双方が愛するものの喪失に苦しんでいる(加えてリチャードはそれをあらわに出来ない)。お互いに共通言語がないので、そのへんを具体的に話し合うことも2人だけでは出来ない。このあたりがもどかしく、なかなかに辛かった。しばしば、それぞれのカイと過ごした時間がよみがえるが、双方それぞれカイを大切にしていることがわかるので余計にやるせない。リチャードのやっていることがちょっととんちんかんにも見えるのだが、違う文化圏の相手にどう接すればいいか、彼なりに模索しているんだろうなと思った。
 文化圏が違うという問題は、何よりもジュンとカイの間で発生する。ジュンは中国人として生きており、英語も離せない。しかしカイは中国語こそ話せるものの、イギリスでの生活に馴染んでおり母の母国に対する思い入れはさほどないようだ。更に、母親はゲイである自分を拒否するのではと恐れている。明かすことをためらううちに死んでしまうのだ。親子双方にとって取り返せないものになってしまうのが痛ましい。
 おなじ家族の中でも所属する文化圏が違う、というのは翻訳小説等読んでいると時々見かけるが、結構大きな問題なんだろうということが透けて見える。これ他人だったらそこまでギャップは気にならないんだろうな。なまじ近い関係だから差異をスルーすることが難しくなっていくのだろう。実際問題、カイとジュンが一緒に暮らすのはなかなか大変だったと思うのだが、別居したら別居したで、カイは母親を見捨てたという思いに苛まれる。このジレンマは、親が老いてきた人には突き刺さるのではないかと思う。

『罪の手ざわり』

 村の共同所有だった炭鉱の利益が企業や村長に独占されたことに怒る山西省の男。家族には出稼ぎと称して裏の仕事に手を染める重慶の男。妻子ある男性と先の見込みのない関係を続ける湖北省の女。ナイトクラブのダンサーに恋する広東省の男。実際にあった4つの事件を元に、4人の「罪」を描く。監督はジャ・ジャンクー。
 4つの事件の背後には、お金、経済的な格差が潜んでいる。あいつは持っているのにどうして自分はもっていないのか、金の為なら何でもやっていいのか、金があれば許されるのか、といった感情が渦巻く。単純に経済的に豊かになりたい、という人もいるが、その他の人は金そのものがほしいというよりも、金がもたらすものに絶望したり、あるいは金の力に反抗する為であったりといったことで、罪を犯してしまう。
 はたから見ていればそんなことで、という面もあるかもしれないが、金に関わる問題は往々にして彼らの生き方、魂に関わる問題にもなってくる。特に、湖北省の女が遭うセクハラとその後の出来事には、彼女の置かれた境遇を考えるあんまりだろう、そりゃあ何かのスイッチも入るわ!とやるせなくなった。彼女は「お金があれば」という問題とはまたちょっと違う所にいるのだ。
 4人の人たちの「スイッチ」が入る瞬間以降は、どこか戯画的な見せ方になっている。随所で京劇の舞台が挿入されるが、その京劇のようなある種の型に沿った動きのようでもある。「スイッチ」が入ってから彼らが罪を犯す一連の流れは、日常から乖離した、白昼夢のような時間帯にも見えるのだ。
 4つのエピソードが絡み合うというよりも、順番に消化していく、どちらかというとオムニバス映画のような構成なので、1本の長編としては少々緩慢でのっぺりとした印象を受けた。でもジャ・ジャンクー監督の長編って大体構成こんな感じだったな(笑)。
 それにしても中国国内の経済状況の変化の速さ、国内経済格差の凄まじさを実感する。あれだけ国土広くて人口多いと、都市から地方へ移動すると前時代に戻ったみたいな印象にもなるだろう。そりゃあ拝金主義・金銭万能主義にもなってくるよなーと何かげんなりした。そういうこと言っている方が時代から取り残されているってことなのかもしれないけど。


『アデル、ブルーは熱い色』

 読書好きの高校生アデル(アデル・エグザルコプロス)は青い髪の美大生エマ(レア・セドゥー)と出会い恋に落ちる。2人は一緒に暮らすようになるが、徐々に気持ちはすれ違っていく。監督はアブデラティフ・ケシシュ。原作はジュリー・マロのコミック。第66回カンヌ映画祭パルムドール賞受賞作。ケシシュ監督だけでなく主演のセドゥーとエグザルコプロスにもパルムドールが授与されたことでも話題になった。確かに、主演の2人によって成立している部分が非常に大きい作品だと思う。
 恋愛の喜び苦しみをストレートに描いた(ストレートすぎて、いやもういいです、みたいな気持ちにならなくもない)、女性同士の恋愛ということで奇異の目で見られがちだが、普遍的な物語だし、映画のスタイルとしても案外オーソドックス。瑞々しいが斬新かと言われるとちょっと、と思った(それが難点というわけではない)。
 2人がどうしようもなく惹かれるという部分よりも、すれ違っていく部分の方に説得力があるように思った。アデルは高校卒業後に教職を目指し、幼稚園の先生になる。エマは画家としての道を進むが、アデルが文才を活かさないことに納得がいかない。エマの両親はいわゆるインテリで、娘の画業にも理解があるし、「創造的な仕事」を称揚している。一報、アデルの両親は地道に稼ぐのが一番、絵では食べられないだろうという考え方。経済的にもそれほど豊かなわけではない。2人がお互いを実家に招くシーンでは、自宅の内装から食事のメニューまで対称的(エマの家では生牡蠣、アデルの家ではトマトソースまみれのパスタ)。
 特に、エマが主役のパーティでのアデルの所在無さや、やたらと料理に力を入れて振舞ってしまう様子は、見ていていたたまれなかった。芸術に詳しい周囲の人たちの話にはついていけないし、エマは友人らと親しげだ。俳優をしているという青年と、芸術以外の話をできてようやく、ほっとしたように見えた。エマにも悪気はないんだろうけど、なまじ親密な間柄なだけに、相手が居心地悪い思いをしているとは思い当たらないんだろうなというのもわかる。暮らしてきた世界が違う、と言ってしまうと実も蓋もないが、そういう部分の差異って埋めきれないものなんだろうなと思う。だから相手に歩み寄るないし、差異は差異として相手に説明するないし、努力しないとならないんだろうけど、この時のアデルにもエマにも、そこまではできなかった。多分破局の芽になるであろう要素が、2人が出会った時から見え隠れするところが、その先の展開を予感させ切ない。
 なお、セックスシーンは女優2人の体当たり演技といった感じで、話題になるのはわかるが、延々と続くのでセクシーさよりもくどさが先に立ってしまい、正直飽きた。これもっとカットしておけばもうちょっと短めで見やすくなるのに・・・。なにより、作品の為の要素というよりも、撮っている側の執拗な目線の方が前に出てしまっている。アデルの食べるシーンや寝るシーンをあえてきれいには撮らないところにも、身体に対する執着が滲んでいるように思った。女性と女性の物語だが、それを見る視線は異性愛者の男性的なのでは。



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